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洛南
東福寺

          東福寺山門


アクセス
JR京都駅→奈良線東福寺駅(2分)→東福寺(南西へ徒歩15分)
歩行距離等
●歩行距離等:2キロ
●所要時間:2時間

○東福寺 

■洛陽の奇観 近世の東福寺は、山林・門前の藤、()遠池(おんち)の蓮、通天橋の紅葉の名所として名高かった。とりわけ通天橋の紅葉は洛陽の奇観として、庶民はもとより文人墨客にもてはやされた。なかでも、開山聖一国師の忌日の十月十六日頃には紅葉が盛りになって、弁当を持った見物客でごったがえした。今も昔と変わらず、通天橋下には見事な紅葉が幾重にも重なっている。→巻末絵図36(東福寺)

■歴史 東山連峰月輪山麓に位置し、東山区本町十五丁目にある。臨済宗東福寺派の大本山で山号は()日山(にちざん)。本尊は釈迦如来。関白九条道家(11931252)が延応元年(1239)、九条家の菩提寺創建を発願して、藤原氏ゆかりの法性寺の跡地に仏殿を建立。寛元元年(1243)に円爾弁円(聖一国師)を開山に迎え、天台・真言・禅の三宗を兼修した。寺名は規模を東大寺に、教行を興福寺に倣って東福寺とした。仏殿の釈迦如来像は高さ15メートルにも及び、京の「新大仏寺」と称した。建武元年(1334)には京都五山の第三位、大伽藍を有する寺となり、俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」といわれた。

■見どころ 応仁の乱などで塔頭の大半を焼失したが、豊臣秀吉や徳川将軍家などの援助で復興。明治十四年(1881)方丈から出火し仏殿・法堂などを失ったが、三門をはじめ中世にさかのぼる建築がなお現存し、我が国の禅宗伽藍を代表する存在。三門は応永三十二年(1425)の建立で現存最古最大で国宝。東司(室町前期の建築)と浴室、鎌倉幕府の六波羅探題の遺構と伝えられる六波羅門、亀山天皇御所の遺構と伝える月下門、偃月橋・愛染堂・仁王門・十三重塔(石造)などは重要文化財。昭和十四年に完成した昭和を代表する作庭家重森三玲の設計で昭和十四年に完成した方丈の庭園は、釈迦成道の八相に因んで「八相の庭」と称する。

 絵画では、国宝の無準師範像、室町初期の画僧明兆(みんちょう)の聖一国師像など多数。明兆は東福寺に入って殿司(でんす)となり兆殿司と呼ばれ、大涅槃図なども描いた。

不思議

①猫のいる涅槃図(ねはんず)

猫は魔物ということで涅槃図には入れないものが多いが、明兆筆の縦八間、横五間の大きな涅槃図には猫が描かれている。明兆が涅槃図を描いていたころ、夢に愛猫が現れた。涅槃図には古来猫の描かれた例はないから、このたびはぜひ加えてほしいといって咥えてきた絵具を差し出したのを見て目覚めた。不思議なことに枕元に絵具があったので、この猫の願いを聞き入れたという。猫が絵具を咥えてきた地を絵具谷(五色渓、絵具渓ともいう)という。『名所都鳥』は、「絵具谷は東福寺の東の山の上にあり。この寺に絵の上手有。世にしれる兆殿司なり。あるときこの谷よりたぐひなき硃を掘得たり。これ山神の加護を得たる程の上手也といふ。按ずるにむかしこの谷に、高位の人を葬し、棺の中につめたる朱なるべし。たまたま掘得たるゆへに奇とせるものならし」という。『都名所図会』では、「兆殿司、一生画ける絵具は神感を得て稲荷山の北より出づる。いま絵具谷といふ」とあるように、絵具谷から絵具が産出されたとする。この涅槃図は、毎年三月十四日から十六日にかけて催される釈迦涅槃会で一般公開される。


東司

東司(とうす)(百人便所)

三門の西にある縦七間、横四間の細長い瓦葺単層の建物。禅堂で修行する僧が使用する共同便所である。入口は北にあり、中央の土間の通路を挟んでその両側に便壺が十五個づつ並んでいる。多数の人が共同で使用できることから、世に百人便所と呼ばれている。室町初期の建築で、禅宗寺院便所の古い形式を伝える珍しい遺構。重要文化財。駒札では、「俗に百間便所(百雪隠)と称し、禅宗叢林では日本最古最大で、現存する唯一の遺構である」という。駒札は続けて、「当時の排出物は貴重な堆肥肥料であり、京野菜に欠かせない存在となっていた。京都の公家、武家、庶民の台所を潤した。叢林としても現金収入の大きな糧となっていた」とあるのが面白い。少し尾篭(びろう)な話で申し訳ないが、江戸期には一回の小便と大根一本が交換されたという記録もある。『京都坊目誌』に「東司は選仏場の南に有り。単層瓦屋切妻造りとす。桁行十四間。梁行五間二尺あり。東司の額を掲ぐ。東司は便所なり。嘉禎二年(1236)の建築にして。特種の構造なり」とある。

③魔王石

三門の東にある五社大明神の石鳥居をくぐり、石段を中ほど登った左手にある十三重石塔の傍らの小祠に中に鎮座。この石に、鞍馬山の魔王が降臨したという。小祠の中を窺うと、仏像らしきものが浮き彫りにされているようにも見えるが、定かにはわからない。『山州名跡志』に「魔神陀仏は十三重塔の傍らの岩をいう。これ霊神を鎮在する所なり」とある。ちなみに五社大明神は正しくは五社成就宮といい、もと法性寺の鎮守で石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社を勧請したものという(『京都坊目誌』)。この辺りは東福寺十境の一つであった(『洛陽名所集』)


魔王石のある小祠

日蓮柱のある仏殿

④日蓮柱

三門の北にある仏殿(法堂)の巽(南東)の柱をいう。日蓮上人が他宗から迫害を受けた際、開山聖一国師の庇護を受けたので、その報恩のため仏殿の柱を寄進。この柱は日蓮柱と呼ばれた。仏殿は明治十四年に焼失したが、昭和九年四月十四日新築落慶。この際、日蓮宗の宗徒は、古例を偲んで巽の柱を「九条道実日蓮柱」と記して寄進した。


竜頭(りゅうず)のない鐘

禅堂の北の殿鐘楼と称する小さな鐘楼に吊られていた鐘をいう(現在は収蔵庫に保管)。その由来について『京都坊目誌』は、「鐘は藤原実頼の鋳造せしものにして、西寺にありしなり。同寺荒廃の時、九条道家これを購ひ、本寺に寄附せしと旧記に見ゆ」という。この鐘の伝説はこうである。昔、東福寺の隣に摩訶阿弥陀仏という僧が建立した天竜寺という寺があった。ある時、この僧がこの鐘を無断で持ち帰ろうとすると、東福寺の韋駄天尊が飛んできてこの鐘を押さえた。二人は互いに金剛力を出して引っ張り合ったところ、鐘が二つに分かれて竜頭は摩訶阿弥陀仏の手に、鐘身は韋駄天尊の手に残った。竜頭がなくては鐘楼に釣れないので、その後は針金で釣られたという。この摩訶阿弥陀仏については『山城名勝志』に「摩訶阿弥の旧跡は芬陀院の東隣空地なり」とあり、今も空地で残っている。


伝衣(でんころも)(づか)

開山堂の西にある愛染堂の左手傍らにある。高さ約2メートルの無銘の五輪石塔。忌明塔だとか無準禅師の衣を埋めた塚だともいう。無準禅師は聖一国師が入唐した時の禅師で、帰朝に当たり同師から袈裟を与えられたという。『京町鑑』では、「この所の藪に石塔あり。平景清の墓と俗に申伝へたれども據を知らず」とある。


伝衣塚


同聚院の五大堂

⑦十万不動尊

塔頭同聚院の五大堂に安置されている丈六(2.65メートル)の不動明王坐像をいう。藤原道長が法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える。十と万の合成語でこんな漢字は読めないが、「土の力」という意味で土地を守護するものとか、不動明王は十万の眷属を従えているからともいう。毎年二月二日にこの字を記した護符が授与される。今日では二字にして十万不動尊という。『雍州府志』に「五大堂より毎年二月十万の字の(ふだ)を出す。東福寺門前八町、人家、門楣(ひさし)に之を貼するときは則ち、疾病を除き火災を免れるという。十万の字、その義を解せず。一説に十万の字、土に従い、力に従う。産土・仏神の威力を以って之を守護するの義なり。未だ知らずこれなりや否や」とある。『山州名跡志』はもう少し詳しく「毎歳正月二十八日。一山及び東福寺境内門前人家安全の祈祷。殊には火災消滅を祈り、火災除滅の印札を出す。門前の門戸に押すなり。この印板、門前の大工某氏代々之を預り、同く札を配るなり。札の文字、これすなはち不動尊(関白藤原)忠平公に夢中の伝附なり。これを書して門戸に押ば疫病火災をのがるるべしとなり」とある。重要文化財。

⑧細川遺愛石

塔頭霊雲院の「九山八海の庭」の中央にある名石。遺愛石は(しゅ)()(だい)と石船から成り、九山八海の凛とした静寂を背景にその存在を主張している。なかなか面白い禅庭である。肥後熊本の細川家から寄進されたことから細川遺愛石という。かつては林羅山、石川丈山らがこの名石を讃えて歌を詠んだ。『京都坊目誌』に「僧湘雪住持たる時、肥後の太守細川光尚、湘雪に帰依し、寺産五百石を与えんとす。湘雪謝して云く、碌の貴は参禅の妨なり。希くは之に換へ、庭中の奇石を賜へと。候諾して庭石一個を贈り、銘を遺愛石と号す。韓人竹堂、林道春、同春斎、石川丈山等和歌を詠じ、或は詩を賦し、或は文を寄す」とある。『都林泉名勝図会』に挿絵がある。


細川遺愛石


退耕庵の地蔵堂
(たま)(ずさ)地蔵
 塔頭退耕庵(小町寺ともいう)の地蔵堂(小町堂)に安置されている。高さ約2メートルの塑像で右手に錫杖、左手に宝珠を持った坐像。白いお顔に赤く塗られた唇がなまめかしい。もと東山渋谷にあった小町寺の像を明治初期に当庵に移したもの。胎内には小野小町へ贈られた恋文が多数収められているので、玉章地蔵という名がついた。『京都坊目誌』に「境内に地蔵堂あり地蔵塑像を安す。元渋谷街道小町寺に在り。世に玉章地蔵と称す。明治八年ここに遷す」とある。なお、地蔵堂の傍らに「小野小町百歳井」と称する井戸がある。



東福寺不思議探訪順路(イメージ)


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