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洛北
金戒光明寺


金戒光明寺山門

アクセス
JR京都駅→地下鉄丸太町(8分)→市バス204系統(10分)→岡崎道→金戒光明寺(スタート、ゴール)
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:1~2時間

■歴史 左京区黒谷にある浄土宗の寺。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。「黒谷(くろだに)さん」として親しまれている。知恩院、清浄華院、百万遍知恩寺とともに浄土宗京都四ヵ本山の一つ。

比叡山を出た法然が承安五年(1175)、この地にあった白河禅房を師の叡空から譲られ、念仏道場としたのに始まる。法然の没後、後光厳天皇から「(こん)(かい)」の文字を賜り、金戒光明寺となった。正長元年(1428)後小松天皇から「浄土宗最初門」の勅額を賜る。応仁の乱やその後の戦乱で諸堂を度々焼失したが、その都度再興された。三重塔は、文殊塔ともいい、徳川秀忠の菩提を弔うために寛永十一年(1634)に建てられたもので重要文化財。

幕末維新時には松平容保率いる会津藩の本陣になった。山上墓地北東には会津藩殉難者墓地がある。→巻末絵図8(黒谷金戒光明寺)

■見どころ 寺宝として重要文化財の「山越阿弥陀図」「地獄極楽図」、木造千手観音立像などを所蔵する。塔頭西(さい)翁院(おういん)にある茶室反古(ほうぐ)(あん)(淀や山崎を遠望できることから(よど)見席(みのせき)とも呼ばれる。重要文化財)は、千宗旦(千利休の孫)の四天王の一人と呼ばれた藤村庸軒(161399)好みの茶室。道具の運びに工夫を加えた「宗貞囲い」と呼ばれる茶室。



不思議

①一枚起請文

法然上人が入滅する二日前の建暦二年(1212)正月二十三日に自ら筆をとって弟子の源智上人に与えた当山第一の什宝。最も大切な教義が極めて簡略に記されている。毎年四月二十三日の御忌法要で公開。『都名所図会』に「元祖大師、鴨太神宮の神勅によつて浄土安心の要文を書したまふ。これを一枚起請といふ。当山第一の什宝なり。毎年六月二十五日虫干しの日にこれを出だして詣人に拝せしむ」とある。

乙子(おとご)の阿弥陀(のみおさめの如来)

 本堂(阿弥陀堂)にある本尊の阿弥陀如来像(坐像六尺)をいう。寺伝では、恵心僧都源信(9421017。天台宗の僧。良源の弟子。『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築く)の最終作といい、世に「乙子如来」または「(おと)如来」と称された。ちなみに「乙子」または「乙子」には末とか最後という意味がある。また、彫刻の道具一切をこの像の腹中に納めたので「鑿納めの如来」ともいう。


蓮生坊鎧懸の松

③蓮生坊鎧懸(よろいかけ)の松

本堂(阿弥陀堂)の左手前、御影堂の右手にある黒松をいい、現在は二代目。『平家物語』では、源氏の勇将熊谷直実(11411208)は、一ノ谷の合戦で僅か十五歳の(たいらの)(あつ)(もり)を討って世の無常を感じ、法然の弟子となって当寺で出家。そのとき付けていた鎧を方丈の背後にあった鎧池で洗い、この松に掛けたと伝える。『都名所図会』に「鎧掛け松は熊谷次郎直実、上人の教えに帰入し、着せし鎧をこの池水にて洗ひ松に懸け置きしとなり」とある。

④熊谷直実・平敦盛の供養塔

 法然上人の御廟(勢至堂)前に向かい合わせに建てられている。同じ大きさの五輪塔で、高さは2メートルを優に超える。『京童』に「この所にくまがへの次郎なをざね又あつもり石塔ある也」とあるのを初め、江戸期の地誌の多くは両塔の所在に触れている。『山州名跡志』に「敦盛熊谷塔、勢至堂の前に在り。五輪()。敦盛法名空顔憐清。この号法然上人の作なり」と由緒を語っている。直実と敦盛の関係は謡曲「敦盛」に謡われている。


敦盛供養塔


紫雲石

⑤紫雲石

文殊塔の北にある塔頭西雲院の門をくぐった右手の小堂の中に鎮座している。開祖法然上人がこの石に腰をかけると紫雲がたなびいたという。『都名所図会』に「元祖大師開発(かいほつ)のとき、この石より紫雲たなびき異香薫じけるとなり。紫雲山の号はこの謂れによるなり」とある。『莵芸泥赴』に「高さ三尺、長さ六尺程、横三尺の石なり」という記事が見える。元和六年(1620)中坊長兵衛というものが紫雲石の上に小堂を建てたという。江戸期には名石としてもてはやされた。

⑥会津藩殉難者墓地

 文殊塔の北にある。幕末に会津藩主松平容保(183593。後に日光東照宮宮司)が京都守護職に任じられて家臣一千名を率いて入京、当寺を本陣として、京都の治安確保に努めた。禁門の変や鳥羽伏見の戦いなど異郷の地で戦死した会津藩士三百五十二名の霊を祀る。平成十八年に黒御影石の立派な顕彰碑が建立された。


会津藩殉難者墓地


天人影向の井

⑦天人(よう)(ごう)の井

 塔頭栄摂院の奥庭にある。黒谷明星水ともいう。『京都民俗志』は、この井について「山の麓に当たり清水がたたえられている。自然石で組み深さは推定1.8メートル。水中に魚が飼養してあって上にあずまやがある。この水は体によいといわれ、冷泉。〝せきわけの水〞ともいい、黒谷八景の一つ」という。寺伝では「名称 明星水春緑 由来 家康公の直臣木俣守勝、天正年中(15731592)公に従い京師に在勤す。当時黒谷山主当院の開基琴誉上人、守勝と同じく三河の人なり。其の故を以て天正十七年(1589)この地に当院を建立したるに山腹幽邃の地に四時清水湧出して絶えず、明星井水に降りて仏菩薩来現すと。以来高貴、公卿に茶の湯をすすめ来たれり」という。




コラムその5 名石の話

石は古来、神仏の依代(よりしろ)として神聖視される一方、石そのものも霊異あるものと考えられていた。こんなことから、石にまつわる不思議は多い。『京都民俗志』は、石を祭石と名石に分けて分類する。それによると、神仏が発現した(よう)(ごう)石、神の腰掛石、石そのものが神体として祭られているもの、礼拝されている石などを祭石といい、地誌で紹介されている石、伝説・伝承のある石などを名石という。同誌は祭石を104件、名石を57件紹介しているが、本書では35件の祭石・名石を紹介している。





































金戒光明寺不思議探訪順路(イメージ)


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