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洛南
東寺


灌頂院の閼伽井

アクセス
JR京都駅西口から南西へ徒歩15分
歩行距離等
●歩行距離:3キロ
●所要時間:2~3時間

○東寺 

■江戸期は信仰の場 『雍州府志』は「凡そ真言三部秘経の中、この寺は金剛頂経の道場として、専ら金剛界の理を説く。金剛頂経、或は教王経と号す。故に教王護国寺と号す」と記して、教王護国寺の由来を説明している。

江戸期の東寺は杜若(かきつばた)や蓮の名所でもあったが、洛陽三十三所観音の二十三番、弁財天二十九ヶ所の二十一番、名不動七ヶ所まいりの三番、弘法大師二十一ヶ所(まいり)の二十一番、愛染明王二十六ヶ所(めぐ)りの十一番などと、信仰の場であった。特に弘法大師の祥月命日の三月二十一日(現在は四月二十一日)御影(みえ)()は、大勢の人々を引き付けた。

■歴史 南区九条町にある真言宗総本山。山号は八幡山。正しくは教王護国寺。世界文化遺産。本尊は薬師如来。延暦十三年(794)平安遷都の時に羅城門の東に創建。西の西寺(現在は廃寺)とともに平安京の二大官寺の一つ。弘仁十四年(823)嵯峨天皇が弘法大師空海に下賜して、真言密教の道場となる。承和二年(835)空海が宮中で()七日(しちにち)御修法(みしほ)を修し、王城鎮護の寺として朝野の信仰を集めた。空海没後、一時荒廃したが、高尾の(もん)(がく)が後白河法皇・源頼朝の援助を受けて復興。信仰面では、御影供の挙行により弘法大師信仰にはずみをつけ、従来の官寺から民間寺院に脱却することとなった。都七福神まいりの一つ(毘沙門天)

■見どころ 国宝や重要文化財が非常に多く枚挙に暇がないので、以下国宝のみを列記しておこう。

金堂は慶長八年(1603)豊臣秀頼の再建。寛永二十年(1643)上棟の五重塔は徳川家光の再建で五代目。総高約55メートルは現存する木造の塔として最高。西院大師堂は康暦二年(1280)から明徳元年(1390)の建立。もとは弘法大師の住房とされ、弘法大師像と秘仏の不動明王像を安置する。蓮華門は鎌倉前期の建築。

 仏像では、講堂の五大明王像、五大菩薩像(中尊を除く)、梵天像、帝釈天像、四天王像、羅城門楼上に安置されていたと伝える兜跋毘沙門天像、神像彫刻の最古の作例の一つの八幡三神像がある。

 絵画では、西院曼荼羅の異名を持つ「両界曼荼羅図(伝真言曼荼羅)」などが国宝。

不思議

猫の曲り

①猫の曲り

東寺の築地の東南隅を「猫の曲り」という。かつてはここに四神の一つ、白虎像が置かれていた。この虎が猫に見えたので、俗に猫の曲り角、略して「猫の曲り」と呼ばれた。この像は、明治初期に取り払われてしまって今はない。当時、ここらあたりは雑木林で昼でも追剥がでるような魔所であった。縁起が悪いので、婚礼などは、ここを通らなかったという (『京の七不思議』、『京都民俗志』)

不開門(あけずのもん)(東大門)

大宮通に面した慶賀門の南にある瓦葺の八脚門。駒札に「建武三年(1336)新田義貞が決死の覚悟で東寺の足利尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて、危うく難を逃れることができた故事により〝不開門〞とも呼ばれている」とある。鏃痕が今に残ることから、矢の根門ともいう。『京都坊目誌』に「相伝ふ。延元元年(1336)足利尊氏本寺に陣す。官軍新田義貞来り攻む。その鏃痕今に存す。この時より閉して開かず。爾来この名ありと」とある。以来、この門は固く閉じられてきた。不開門は一度だけ開いたことがあるようで、同誌は続けて「満済日記云。応永三十年(1423)五月九日。降雨大嵐。東寺の東不明(あけず)門大嵐の為開く。希代の事か(かんぬき)砕て金物抜落云々」と記している。重要文化財。


不開門


宝蔵

③宝蔵

慶賀門を入った左手、堀を巡らせた域内にある校倉造の経蔵。『京都坊目誌』に「校倉にして梁行三間一尺五寸。桁行三間四尺七寸五分とす。庫を園らすに池水を以てす。俗に瓢箪堀という。燕子花(かきつばた)に名あり。建造年月詳ならず。長保二年(1060)及び大治二年(1127)焼亡す。重宝は取出したりと。建久九年(1198)後鳥羽天皇、源頼朝に勅し、僧文覚をして之を修営す。爾来既に七百歳災害を免れ、幾多の名什を蔵む。実に天下の至宝なり」とある。文覚上人によって再建された倉ということで、「文覚の校倉」と呼ばれていたが、近年の解体修理の結果、東寺創建に近い頃の建立と考えられている。


④瓢箪池

境内東南、五重塔の北にある瓢箪池は、安政年間(185460)の大地震で五重塔が傾いたので、この池を掘って五重塔を安定させたという。蓮の名所でもある。

⑤北面大師

大師堂(西院御影堂)に北向きに安置されている大師の座像をいう。駒札に「天福元年(1233)仏師康勝が斎戒沐浴して、一刀三禮毎に〝南無大師遍照金剛〞と唱えつつ彫刻」とある。坐像が北向きのため、この名がある。大師堂は大師の住房であったと伝えるが、現在のものは康暦元年(1379)の火災以降に再建されたもの。寝殿造風で大師住房の頃の雰囲気をよく残した建物。


天降石

天降(てんこう)(せき)

 大師堂の南庭、毘沙門堂の西にある。1.2メートル四方の石柵を巡らせた80センチ四方の石をいう。『京都民俗志』に「歴拝者の拝所の一つで、また撫石とも称し、二十一日の縁日には参詣者が多い。銭や白米を供え、なでては自己の患部をさすっている」とある。続けて同書は「しかし、病菌の媒介になり、ことに病気の巡礼が多いというので、昭和四年ごろ、堀川警察の問題となった。明治の中期にもなでてはならぬという制札が立ったことがある。寺に聞いても名はなく、ただ「天から降った石」という。『都名所図会』にある五宝石、一名不動石はこの石のことであろうか」という。

灌頂院(かんじょういん)閼伽(あか)()

灌頂院は灌頂や修法を行うところで、真言宗の重要な道場。創建は弘法大師の死後まもなくとされる。火災や地震で修復を重ねたが、天正十三年(1585)の地震で大破。現在のものは寛永十年(1633)徳川家光が再建したもの。その灌頂院内の北西に、屋形を設えた井戸があり、これを閼伽井という。閼伽井の水は、正月の御修法(18日~14)や四月二十一日の御影供に供される。閼伽井には善女竜王が祀られており、この井は神泉苑(中京区)に通じているという。雨乞いにも効験があるようで、『京都坊目誌』に「天正十七年(1590)六月大に旱す。僧応其この井に祈念して、忽ち感応ありしと」とある。

また、閼伽井の屋形には、御影供の前日に弘法大師が描いたという朱色の馬の絵馬が三枚掲げられる。中央が今年、左が昨年、右が一昨年のもので、その年の豊凶を占うものという。この絵馬は御影供の日に公開される。


潅頂院の閼伽井


金堂

⑧大仏殿写しの金堂

創建は延暦十五年(794)。文明十八年(1486)土一揆のため焼失、また天正十三年(1585)の地震で倒壊。豊臣秀頼が慶長十一年(1616)に再建(慶長の造営)。入母屋造本瓦葺の壮大な仏堂で、東山方広寺の大仏殿を写して造ったものという。この金堂の屋根は、今はない大仏殿と同様、正面の屋根が切れているのが珍しい。『都名所図会』に「本尊は薬師仏、脇士は日天・月天なり。焼失の後豊臣秀頼公の再建なり。洛東大仏殿の模形(もぎよう)なり」とある。

⑨穴門(畜生門)

 南大門から西へ40メートル足らずの所にある築地を切っただけの簡素な門。江戸期、不倫僧が出ると、この門から番傘一本で放逐されたという。『莵芸泥赴』に「南大門二十間ばかり東の穴門を畜生門といへり。衆徒若し非法のふるまいある者は袈裟衣をはぎてこの門より追出す。仏弟子として破門無慙のありさま畜生同等といふ心なるべし」とあり、『京都坊目誌』にも「穴門は蓮華門の北にあり。慶賀門と相対す。建久九年(1198)僧文覚之を修営せしが。天授五年(1379)西院御影堂焼失の時その災に罹る。爾来仮に穴門と為す」とあるので、この門がいうところの穴門であるのか疑問が残る。


穴門


蓮華門

⑩蓮華門

壬生通に面した西門のことで不開門(あかずのもん)ともいう。造営は建久年間(11901199)と伝え、現存する東寺諸門のうち最古の門。八脚門で本瓦葺切妻造であるが、当初は桧皮葺であったという。名の由来は、『山州名跡志』に「弘法大師入定のため高野山に参るとき、不動明王がこの門まで大師を見送りにきて、不動明王の足跡に蓮華が咲いたので、蓮華門という」とある。

⑪羅城門跡

 東寺南大門から九条通を西へ約400メートル行くと右手に矢取不動尊があり、その手前右奥の小公園内に「羅城門跡」と記した石碑が立つ。この地は、平安京の朱雀大路(今の千本通に当たる)と九条通が交わる地点で、平安京の表玄関として羅城門が聳えていた。門は高さ約32メートル、二層瓦葺で屋根には金色の()()があった。天元三年(980)暴風雨で倒壊し、以後再建されることはなかった。東寺にある()(ばつ)毘沙門天(びしゃもんてん)像は、もと羅城門上に安置されていたものと伝える。


羅城門跡碑


西寺跡碑
⑫西寺跡
 羅城門跡から九条通を更に西へ約400メートル行き七本松通を約200メートル上った左手の唐橋西寺公園内にある。西寺は、平安京遷都後すぐ延暦十五年(796)頃から、平安京の入口に当たる羅城門の西側に東寺と対称に造営された官寺。東寺と同様の規模で境内には大伽藍が建ち並び威容を誇った。空海が東寺を賜ったころと同時期に僧(しゅ)(びん)が西寺を賜ったが、天長元年(824)の大旱魃のとき、神泉苑で空海と祈雨の修法を争って負けたこと(『元享釈書』)などから、西寺の寺勢は衰えた。天福元年(1233)には塔も焼失し、以後は再興されることはなく地中に埋れてしまった。寺域は東西二町、南北四町あったが、伽藍中心部のみ史跡。

東寺不思議探訪順路(イメージ)

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