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洛北
鞍馬寺・貴船神社


鞍馬寺仁王門


アクセス
JR京都駅→地下鉄烏丸御池(7分)→地下鉄東西線乗換・三条京阪(3分)→京阪三条乗換・出町柳(6分)→叡電出町柳乗換(30分)→鞍馬寺(スタート)→叡電貴船口(ゴール)→叡電出町柳(27分)
歩行距離等
歩行距離:8キロ
所要時間:4時間

■鞍馬の町 左京区鞍馬は鞍馬寺の門前町。『京城勝覧』は「民家多し。茶店食店あり、宿を貸す。木の芽漬並びに山椒の皮を売る。山深き里也」という。名産の木の芽漬けは今にも残るが、炭を焼いて京の町に持ち込み、火打石を商った。特に火打石については、(ふご)(竹と藁で編んだかご)に代金を入れて火打石と交換する「簣下(ふごおろ)は鞍馬の風物詩として著名であった。

■歴史 鞍馬寺は鞍馬弘教の総本山。松尾山と号す。本尊は尊天(護法魔王尊・毘沙門天・千手観音)。寺伝では、宝亀元年(770)(がん)(ちょう)(鑑真の弟子)が毘沙門天を祀ったのに始まる。延暦十五年(796)藤原伊勢人が伽藍を建立して北方鎮護の道場としたという。平安時代以降、永く天台宗に属したが、昭和二十二年(1947)に鞍馬弘教を創始して、同二十四年総本山となった。古くから朝野の崇敬を集め、参詣の様子は『枕草子』の「近くて遠きもの・・・鞍馬のつづらをりといふ道」などで知られる。謡曲の「鞍馬天狗」は牛若丸の修行を題材にしたもの。

■見どころ 霊宝殿に安置されている毘沙門天三尊像(毘沙門天・善膩師童子は藤原前期、吉祥天は大治二年(1127)の製作)は国宝。外に定慶作の聖観音菩薩像や銅灯籠などは重要文化財。本堂背後にあった経塚の出土品は、経塚信仰が盛んであった平安後期のもので、我が国の代表的な経塚遺物(国宝)

○貴船神社

■貴船 貴船の景観について『都花月名所』は、「鞍馬の奥僧正谷の岩上より見下ろせば千林の紅楓風に翻って錦を洗うが如し」という。貴船川の川床で納涼する夏もよいが、とりわけ秋の紅葉が素晴らしい。また、鞍馬といえば牛若丸を連想するように、貴船といえば、歌人の和泉式部と謡曲「(かな)()」の橋姫(詳しくは烏帽子岩の項)を思い出す。■歴史 貴船神社の祭神は高龗(たかおかみの)(かみ)。神武天皇の母の玉依姫(たまよりひめ)が黄船に乗って貴船川をさかのぼり、当地に祠を建てたことに始まるという。樹木を育成する木生(きぶ)()(木生嶺)の神ともされる。平安遷都後、当地が賀茂川の水源にあたるため、水神として祀られるようになった。日照りや長雨の際には朝廷より奉幣使の派遣があり、日照りには黒馬が、長雨には白馬が奉納された。『京童』に「この御社は龍神なり。されば雨乞いにも、又雨をやむるにも。又夫婦の中をも守り給ふ御神なり」とある。平安末期から明治四年までは上賀茂神社の摂社。かつて社殿は現在の奥宮の地にあったが、貴船川の氾濫で流出し、天喜三年(1055)現在地へ移転。
不思議


本殿金堂前の雲珠桜

()()(ざくら)

雲珠は馬の鞍に付ける宝珠の形をした飾りをいう。鞍馬との(えにし)で、鞍馬山に咲く桜を総称して雲珠桜という。里桜の一種で、花弁は紅色で重弁。『都名所図会』に「うず桜世に名高し」とあり、『都花月名所』にも「山中に桜多し。雲珠桜と銘ず。花の形唐鞍の雲珠に似たれば鞍馬の縁にいふ也とぞ」と雲珠桜の由来を記している。古来、和歌の歌枕にもなっている。

鬼一法(きいちほう)眼社(げんしゃ)と魔王の滝

 九十九(つづら)(おり)を少し登ると右手に脇道があり、その奥の祠が鬼一法眼社。牛若伝説によると、鬼一法眼は武術に秀でた陰陽師だった。牛若丸に兵法の指南書「六韜(りくとう)三略」を授けたとも、牛若丸が策を弄してかすめとったともいう。武道の神として崇敬されており、今でも、武道上達を祈願する人が多い。本社の右横に魔王の滝がある。魔王尊像が祀られている崖の上の丹塗りの小祠から、樋を伝って清冽な清水が落下している。鬼一法眼が水垢離(みずごり)をした滝という。


魔王の滝


由岐神社割拝殿

由岐(ゆき)神社(わり)拝殿(はいでん)

由岐神社の祭神は大己貴(おおむなちの)(みこと)少彦名(すくなひこなの)(みこと)。社伝では、天慶三年(940)王城の北方鎮護のため宮中から勧請したという。国家の非常時や天皇の病気の時、社前に(ゆき)(矢を入れる道具)を奉納したので、靫大明神ともいう。拝殿は、慶長十五年(1610)豊臣秀頼が再建したもので、桁行六間、梁間二間、単層、桧皮葺で入母屋造。中央一間を石階段の通路とした割拝殿で、唐破風を付した舞台造り。こうした割拝殿の形式は珍しく、また通路の上の(かえる)(また)に施されている椿などの彫刻も素晴らしい。重要文化財。『山州名跡志』に「拝殿東向床高め。下に石階有り」とある。毎年十月二十二日夜に行われる「鞍馬の火祭り」は本社の例祭で、広隆寺の牛祭、今宮神社のやすらい祭と並んで京都三大奇祭の一つ。

④由岐神社石造(いしづくり)狛犬(こまいぬ)

 本殿扉の左右にある。右の吽形(うんぎょう)の獅子は鞠を、左の阿形(あぎょう)の獅子は小獅子を抱いている珍しい形式の石造狛犬。社伝によると、古くより安産や厄除けの守護神として本殿内に奉祀されていたが、現在は京都国立博物館に寄託中とある。本物は重要文化財であるが、残念ながらこれはレプリカである。しかし、雰囲気がよくでているので、駒札がなければ本物と思ってしまう。


狛犬向って(左手)


涙の滝

⑤涙の滝

参道を挟んで由岐神社の反対側にある。参道沿いの渓流の落下差2メートルにも満たない小さな滝。見逃してしまいそうだが、駒札でそれと知れる。『源氏物語』に光源氏が祈祷を受けに「北山の某寺」を訪れ、そこで若紫に出会う。『山州名跡志』は「源氏若紫の巻に云く。(あかつき)がたに(なり)にければ、法華三昧おこなふ堂の懺法(ざんほう)の声、山おろしにつひて聞えくる。いと尊く、滝の音にひびき(あい)たり。

 吹まよふ深山おろしに夢さめて(なみだ)もよほす滝の音かな  源氏

右の歌はこの滝を(よめ)り。よつて涙滝と号す」と涙の滝の由来を説明する。

⑥義経供養塔
 涙の滝のすぐ上にある。石段の上に石造五輪の供養塔が立つ。ここは、牛若丸が母と別れ、遮那(しゃな)(おう)と名のって七歳の頃から十年間住んだ東光坊跡。父源義朝の縁で東光坊阿闍梨蓮忍に預けられた牛若丸は、東光坊で昼は経を読み、夜は武芸に励んだという。

義経供養塔


息次の水

⑦息次の水

霊宝殿から奥の院に至る参道に出てすぐの右手にある。牛若丸が毎夜、東光坊から奥の院へ兵法の修行に通う途中、この清水を汲んで喉をうるおしたという。八百年後の今も清水が湧き続けている。

⑧背比べ石(遮那王堂)

 奥の院参道と大杉権現社参道の分岐点にある。「源義経公背比石」と記した石標が立つ。背比べ石は高さ1.2メートル。回りを木柵で囲ってある。牛若丸が16歳で奥州平泉の藤原秀衡の許へ下ろうとしたとき、鞍馬山での修行の名残りを惜しんで、この石と背比べしたと伝える。牛若丸は小柄であったそうだが、それにしても背比べ石があまりにも低いのに驚く。『京羽二重』を初め、名石として江戸期の地誌が競って取り上げている。傍らに小さな遮那王堂がある。


背比べ石


僧正ヶ谷不動堂

⑨僧正ケ谷(不動堂)

牛若丸が天狗を相手に剣術修行に励んだ場所と伝える。『京童』に「この谷は、不動明王示現の地なり。源の牛若、遮那王丸といひし時、平治のみだれを遁れて鞍馬寺に入る。ある時この谷に至りて、山伏にあへり。山伏、牛若にいふ。われ剣術を得たり、つたへんといふ。十五歳のとき、奥州にゆき寿永元年(1182)平家と合戦してその功勝れたり。文治の初め二度(ふたたび)鞍馬山に来り。かの山伏を尋ねあはんと思ひ給ひこの谷に入りたまへども、その後(つひ)に山伏みえず。これ天狗にてありと也」とある。傍らに遮那王尊を祀った義経堂がある。謡曲「鞍馬天狗」の舞台として有名。

⑩奥の院魔王殿(牛若丸兵法石など)

僧正ケ谷(不動堂)から木の根道をしばらく歩くと奥の院魔王殿に達する。牛若丸が魔王大僧正から剣法を習った地という。石柵で囲まれた魔王殿の中にある奇石群はサンゴ、ウミユリなどの化石を含む石灰岩で、兵法石、(つかみ)石、足駄石(木履石)(くぐり)石、水滴(したたり)石、隠れ石、(すずり)石などの名石があるという。これらうち、兵法石は牛若丸が木刀で傷をつけたものという。『雍州府志』は、牛若丸の木刀説を否定して、僧正ケ谷の石は方解石なので条目があり、これは剣撃の痕ではないという(同旨、『近畿歴覧記』脱文)。しかし真相は、雨水によって溶食されてできた溝で、専門的にはカレンというそうだ。


魔王殿の奇石


水占斎庭

⑪水占

 貴船神社の社務所で水占おみくじを買い、傍らにある神泉の「(みず)(うら)斎庭(ゆにわ)」に浮かべて吉凶を占う。本社が水の神であることにちなんだ珍しいおみくじ。

⑫船形石

奥宮拝殿の左手にある。縦約10メートル、横約3メートルの船形の石積みをいう。社伝によると、この石積みの中には玉依姫が用いた黄船があり、人目を忌んで小石で覆ったものという。航海するとき、この小石を頂いて携帯すれば、海上安全が保たれるという。


船形石


烏帽子岩

⑬烏帽子岩

 貴船神社の鳥居から貴船道を約500メートル下った貴船川の川中にある。駒札によると昔、大宮人が烏帽子を下ろしてこの石の上に置き、身を清めたところという。

貴船神社は心願成就の「丑ノ刻詣」で知られる。昔、宇治の橋姫が丑ノ刻(午前二時)詣をして不実な夫に呪いをかけたという伝説に取材した謡曲「(かな)()」で、橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が貴船口駅傍らの貴船川の川中にあるという。またこの付近に橋姫が足をすすいだという(あし)(すすぎ)(『拾遺都名所図会』、『山州名跡志』など)もあったという。このほかにも貴船川の川中には橋姫ゆかりの牛石や装束石などの名石があったというが、今ではそれらの所在は分からない。

⑭蛍岩

 烏帽子岩から、さらに貴船道を下り、叡電貴船口駅の手前左手にある大きな岩をいう。和泉式部ゆかりの岩で、『京童』に「和泉式部、夫(藤原保昌)の薄情を恨み、この神に詣で、みたらし川に飛ぶ蛍を見て詠めり。

 物おもへば澤の蛍も我が身よりあくがれ出ずる玉かとぞ見る

この時、御神男子の(こえ)をなしたまひて御歌

 おく山にたきりておつる滝津せの たまちるばかりな思ひそ」とある。この話の後日談が面白い。『洛陽名所集』に「式部そののち(かんなぎ)をかたらひまつりさせけるに、保昌ほのかにきき、社の木蔭に立かくれ見侍りしに。巫となふるに。ただあらぬはざし給へといへば。式部かほうち赤めて。〝千早振る神のみるめもはずかしや身を思ふとて身をやつすべき〞と詠み侍りければ。保昌ききもあへず。その心ちの優にいとやさしと覚えて。すなわち、式部を具してかへり。なを浅からぬ結びしけるとなり」とあり、ハッピーエンドを迎えている。なお、和泉式部歌碑は貴船神社と奥宮の間にある結社(ゆいのやしろ)の奥にもある。


蛍岩


鬼一法眼の古跡

⑮鬼一法眼の古跡

 叡電貴船口駅から鞍馬街道を北に少し歩くと、左側に石段があり、その上に「鬼一法眼之古跡」と記した石碑が立つ。傍らには京都市指定天然記念物の(むく)の古木がある。『拾遺都名所図会』に「鬼一法眼塚は梶取社の北半町ばかり東の方にあり。これすなわち源牛若丸鞍馬に住居のとき、兵術の師なりといふ」とある。


コラム3 鞍馬寺と与謝野晶子

鞍馬弘教を開宗した初代管長信楽香雲は、歌人与謝野晶子の直弟子。晶子は、夫の与謝野鉄幹とともに何度も鞍馬山を訪れて、多くの歌を残している。霊宝殿のそばには、晶子と鉄幹の歌碑がある。同じく霊宝殿の傍らには昭和51年、晶子の弟子の岩野喜久代から寄進された晶子の書斎・冬柏亭が移築されている。

 (歌碑)

何となく君にまたるるここちしていでし花野の夕月夜かな   与謝野晶子

 遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな 与謝野鉄幹

 

鞍馬寺・貴船神社不思議探訪順路(イメージ)


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