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洛北
比叡山(延暦寺)


比叡山(宝が池公園から)

アクセス
JR京都駅→比叡山ドライブバス(60分)→比叡山頂→ガーデンミュージアム(スタート)→横川(ゴール)→シャトルバス(20分)→比叡山頂)
(注)冬季はドライブバスやシャトルバスは運休。冬季の比叡山は八瀬からケーブル利用が便利。滋賀県側の坂本からもケーブルがある。
歩行距離等
●歩行距離:10キロ
●所要時間:4時間

○比叡山 

■異名の多かった比叡山 左京区と滋賀県大津市との境に位置する山。主峰は大比叡ヶ岳で、標高848.3メートル。四明ヶ岳(838.8メートル)はその西側に連なる支峰。『都名所図会』に「本朝五岳の一つにして王城鬼門に当れば(こん)(ほう)とも号す。はじめは日枝山(ひえのやま)と書きしを桓武天皇の御宇延暦年中に伝教(でんぎょう)大師(だいし)と叡慮を等しうし、帝都鎮護として根本中堂を建営し給ふより比叡山と改めらる。又別名ありて天台山、我立杣(わがたつそま)(こん)(たけ)(じゅ)(ほう)(たい)(れい)(えい)(がく)大日枝(おおひえ)などの号あり」とある。

○延暦寺

■歴史 大津市坂本本町、比叡山頂にある天台宗総本山。本尊薬師如来(東塔根本中堂本尊)。世界文化遺産。最澄(767822)は、延暦四年(785)比叡山に登って修行、薬師堂(のち一乗止観院)を建て薬師如来像を刻んで安置。同二十四年入唐求法から帰朝した最澄は、天台法華宗の確立・大乗戒壇設置を目指したが、弘仁十三年(822)入滅。その直後に大乗戒壇院設立の勅許があり、さらに翌年延暦寺の寺号を賜った。その後弟子の円仁・円珍の時代に密教化を進めて平安貴族の支持を獲得。特に康保三年(966)十八代天台座主(ざす)となった良源(りょうげん)((がん)三大師(さんだいし))は、右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の帰依を得て堂塔を整備、東塔(ひがしとう)西塔(にしとう)横川(よかわ)の十六谷に三千もの坊舎が林立した。良源の没後、天台宗は円仁と円珍門流の対立が激化し、円珍門流は園城寺に下って寺門となり、山上にとどまった円仁門流の山門との抗争が恒常化した。こうした中、武装した僧兵が神輿を担いで朝廷への強訴を繰り返しが、一方では、良源の弟子源信(げんしん)などにより浄土教が発展し、法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗・道元の曹洞宗・日蓮の日蓮宗などの鎌倉新仏教を生み出した。元亀二年(1571)越前朝倉氏に加担したとして織田信長の攻撃を受けて全山焼失。その後、豊臣秀吉や徳川家康・秀忠・家光の援助を受けて徐々に復興。江戸期には寺領五千石の大寺であった。

■見どころ 最澄の一乗止観院の法灯を今に伝える根本中堂は、寛永十九年(1642)の再建で国宝。

不思議

 延暦寺には、「比叡山の七不思議」と称する七つの伝説がある。これらに九つの不思議を加え、本項では十六の不思議を取り上げた。これらのほか比叡山には、菅原道真の登天石や大乗院の親鸞蕎麦喰い木像など面白い不思議がまだまだあるが、順路編成の便宜を考慮して割愛した。スタート地点の「ガーデンミュージアム比叡」から東塔、西塔を経てゴールの横川まで 約10キロメートルほど。途中、元三大師道という異名を持つ東海自然歩道の快適な山旅が続く。


将門岩

将門岩(まさかどいわ)

 ドライブバス終点すぐの「ガーデンミュージアム比叡」内の四明が嶽山上(メゾンド・フール前)にある大きな岩。平安中期の武将であった平将門(たいらのまさかど)(?~940)は、この岩の上で京の都を睥睨(へいげい)し、西国の海賊であった藤原(ふじわらの)純友(すみとも)(?~941)と天下支配の密議を凝らしたという。のち、平将門は常陸国の国衙(こくが)を攻略。下野・上野・相模などの諸国を支配して「新皇(しんのう)」と称したが、藤原(ふじわらの)秀郷(ひでさと)らに敗れて将門の関東支配は僅か三ヶ月で終わった。純友の反乱と合せて、「(しょう)(へい)天慶(てんぎょう)の乱」という。

②弁慶水

 「ガーデンミュージアム比叡」の西出口から東海自然歩道を東塔方面に行くと、左手に奥比叡ドライブウェイに架かる橋(渡ったところに千手堂とも呼ばれた山王院がある)があり、やりすごすとすぐ右手に無縁塔と並んで弁慶水がある。比叡山随一の泉で、千手(せんじゅの)()ともいう。泉の上に覆屋があり鍵がかけられていて中の様子はよくわからないが、それでも耳を澄ますとこんこんと水の湧き出す音が聞き取れて心地よい。名の由来は、『都名所図会』に「武蔵坊弁慶千手堂に千日参籠(さんろう)す。この水を毎日閼伽(あか)とせしよりこの名あり。平清盛熱病のとき、この水を石船に湛えて沐すといへり」とある。この泉について『伝説の比叡山』は「最澄と徳一和尚」、「円珍阿闍梨と水天童子」という二つの伝説を紹介しているが、ここでは「最澄と徳一和尚」の話を紹介しておこう。

■最澄と徳一和尚 ある日の暑い午後、西坂本から雲母坂(きららさか)にさしかかった二人の僧が日差しを避けて大きな梨の木蔭で休んでいた。一人は最澄、他の一人は最澄の叡山仏教に日頃真っ向から反対の論陣を張っていた徳一和尚である。最澄は、たまたま南都で徳一と出合い、徳一のたっての願いで叡山に案内するところであった。今二人が蔭を借りている梨の木はかなり大きな木であったが、実が一つもないのに気づいた徳一は「草も木も仏になるという山の麓にならぬ梨もこそあれ」と痛烈に皮肉った。最澄は何ら動ずることなく、梨の木蔭から立ち上がって雲母坂を急いだ。東塔に近づいた時、徳一はにわかに喉の渇きを覚えた。最澄は「草も木も仏になるといふ山に何所(いずこ)に水のあると知らずや」といって、手に印を結び念じた。すると間もなく、路傍の岩陰から玉のような泉が湧き出たのである。水は千年後の今も尚こんこんと湧き出ていて、水晶のようにうるわしく、氷のように冷たい。けれどもこの泉は初め徳一の揶揄(やゆ)に対する最澄の我慢から念じ出したものであるから、たとえ一滴でも飲んだら、不思議にも心が猛々しくなるという。


弁慶水


大講堂の鐘楼

③なすび婆あ(比叡山の七不思議)

延暦寺第三駐車場の北隅に天海の住房であった南光坊址と記した石碑が立つ。()(がん)大師(だいし)天海(15361644)は、徳川家康・秀忠・家光の宗教・政治顧問として大きな力をふるい、黒衣の宰相と呼ばれた人物。織田信長の焼討ちで焼亡した比叡山の復興に力を注ぎ、徳川将軍家の援助を得て根本中堂、大講堂などの主要堂塔を再建。「なすび婆あ」はこの天海にまつわる伝説。あるとき、夜更けに南光坊の門を叩く音がした。小僧が出てみると、なすび色の老女がにたにたしながら立っており、やがて、ふっと姿を消した。天海の話によれば、女はむかし宮中に仕えていたが、人を殺して身を地獄に落とされた。しかし、仏の慈悲で心は比叡山に住むことを許されたので、人目につかぬよう夜の山を歩いているのだという。なすび婆あは、織田信長が比叡山焼討ちを図ったとき、大講堂鐘楼の鐘をついて急を知らせてくれたという(『大津の伝説』による。以下「比叡山の七不思議」について同じ)。鐘楼は昭和31年に焼失したが再建されて現在、誰でも撞くことのできる「開運の鐘」として親しまれている。

④三面大黒天

根本中堂のすぐ東に大黒堂がある。この堂内に、大黒天・毘沙門天・弁財天を刻んだ最澄自作の三面大黒天像が祀られている。伝説はいう。最澄が比叡山で堂を建てる霊地を探していたら、大黒天にめぐりあった。大黒天は、山の守護になって最澄を助けようという。しかし最澄は、大黒天は千人を助けることができるが、自分は三千人の面倒をみなければならいといって大黒天の申出を断ってしまった。すると大黒天は、たちまち三面六臂(さんめんろっぴ)の姿に変わった。そこで最澄は、一つの像に、食物や財宝を与えてくれる大黒天、危険から身を守ってくれる毘沙門天、男女の愛をとりもつ弁財天の三面を刻んで山上に祀ったという。


大黒堂


船坂

⑤船坂のもや船(比叡山の七不思議)

延暦寺会館の前の坂道を少し下ると、急な坂が現れる。これを船坂という。名の由来はこうである。むかし比叡山は、女人禁制であった。ある夜、一人の山法師が酒を飲んで坂本の町から表坂を登って帰る途中、なぜか一面にもやがかかり、その中から女たちの念仏の声が聞こえてきた。もやの中には一隻の船が浮かび、おおぜいの女の亡者が乗っていた。法師は亡者と目があったとたん気を失い、翌日死んでしまった。それから表坂を船坂と呼ぶようになったという。

⑥おとめの水ごり(比叡山の七不思議)

船坂にある法然堂から、更に約200メートルほど下った左手にあった五智院(廃寺。今は名もない荒れた小堂が残る)にまつわる伝説である。この寺の僧が、夜中に仏間で物音がするので目をさますと、やがて谷あいから水を浴びる音が聞こえてきた。谷におりてみると、女が水ごりをしていた。翌晩も同じことがあり、のぞき見していた僧は女に見つかってしまった。女は、「仏間の位牌は私のものです。魂を比叡山にあずけて修行すれば、極楽に行けると教えられていました」と僧に告げて消えたという。


五智院跡


総持坊の一つ目小僧

⑦一つ目小僧(比叡山の七不思議)

延暦寺会館から西廻りに蓮如堂を経て根本中堂に至る途中に、総持坊という修行道場がある。その玄関に、一つ目・一本足で右手に(かね)を持った奇怪な僧の絵が掛けられている。これは、元三大師良源の弟子であった()(にん)和尚の姿だという。慈忍は、良源のきびしい教えを自ら実践し、他の修行僧にも厳しく指導。死後も比叡山の戒律を守るため幽霊になった。そして夜になると、一つ目・一本足の恐ろしい姿で、鉦をたたいて比叡山をまわり、里へ酒を買いに行こうなどとする不心得な僧たちを懲らしめたという。

⑧山王院(千手堂)

 弁慶水を少し東に行き、奥比叡ドライブウェイに架かる橋を渡ったところにある。『都名所図会』に「智証大師の本房にして山王の神、常に(よう)(ごう)の地也。千手観音を安置す」とある。『伝説の比叡山』は語る。天平の昔、都から比叡山へ千手観音が飛来してきた。名工の手になる見事な霊像であったので、時の帝はすぐに勅使を派遣して都へ迎えようとした。しかし、磐石(ばんじゃく)の如く端座した霊像は、いかに手をつくしても微動だにしないので、勅使たちはなすすべもなくすごすごと都に帰ってしまった。延暦四年(785)比叡山に登った最澄がこの霊像を見つけ、草庵を結んで安置したという。のちに弁慶が弁慶水を閼伽として参籠したのは、この霊像という。


山王院


椿堂

⑨椿堂

 山王院から浄土院を経て、「にない堂」手前の右手下方の道を下りたところにある小さなお堂をいう。『都名所図会』に「如意輪観音を安置す。山門建立以前、聖徳太子この山に登て勝地を求てこの本尊を安置す。又、椿の御杖を伽藍の傍らに立て置かれけるが、後に枝葉茂りて大木となり、年経て荒廃に及び今小堂あり」とある。『伝説の比叡山』はもう少し詳しい。聖徳太子がある日、ふと丑寅にあたる山の端に光る宝塔を認めたので、険しい坂道をものともせず、比叡山に登った。谷間の雪を踏み分け、太子はここぞと思う霊地を(ぼく)して小堂を建て、守り本尊の如意輪観音を安置した。太子は杖としていた椿の枝をそこに突き刺して、山とともに幾千年の末まで栄えんことを祈念。やがて根を下ろした椿の枝は大木に育ったという。

一文(いちもん)()(たぬき)(比叡山の七不思議)

 椿堂から北へすぐの「にない堂」にまつわる伝説である。左側に(じょう)行堂(ぎょうどう)、右側に法華堂があり、この二つの堂の間を渡り廊下でつながれていることから、「にない堂」という名がある。弁慶はこの渡り廊下に肩を入れて天秤棒がわりに担ぎあげたといい、俗に「弁慶のにない堂」という。二堂の間が山城国と近江国の国境という。

さて、一文字狸の伝説はこうである。西塔にない堂の修行僧が、素直になれない性格をなおしたくて、たぬきの彫刻をはじめた。ある夜、真っ白な眉毛を一文字にひいた大狸が現れ、「自分のためでなく、仏に仕える身として仏道修行のために千体を彫る願をたてるなら、助けてやろう」と告げた。心得ちがいに気づいた僧は、それから千日(かい)(ほう)(ぎょう)を始め、一日の行が終わるたびに一体を彫り、七年目の満願のとき、千体の狸もできあがったという。


にない堂


仏足石

仏足(ぶっそく)(せき)

 にない堂の渡り廊下をくぐって石段を降りると、西塔の中心の釈迦堂(転法輪堂ともいう)に至る。仏足石は、釈迦堂の西南隅の石柵をめぐらした中にある。「釈迦()()仏足石」と記した石標が立つ。仏足石は、釈迦が入滅の際に残した足形を石面に刻んだもの。釈迦の足跡に千輻(せんぷく)輪相(りんそう)(仏の足の裏にできる網形の紋)があり、歩行の時、地にその相が印されたことから、人々に信仰された。

玉体(ぎょくたい)(すぎ)

西塔と横川のほぼ中間点にある杉の大木をいう。東塔から横川までを元三大師道といい一丁ごとに石標が立つが、十九丁目を少し過ぎたところにある。京都方面の展望が開けている。幹の傍らに石の台が据えつけられており、千日(せんにち)(かい)(ほう)行者(ぎょうじゃ)はここから玉体加持(天皇の安泰)や国家鎮護を祈る。ちなみに千日回峰行は、七年間をかけて通算千日の行を行う。最初の三年間は年百日、一日30キロメートルを歩いて255か所の霊場を巡拝。続く2年間は年二百日同じ行を行う。それが済むと九日間の断食、断水、不眠、不臥の行に入り、さらに厳しい行が続く。最後の七年目には一日84キロメートル、300か所の巡拝を行うなど、想像を絶する荒行中の荒行である。


玉体石


龍が池と弁財天社

⑬蛇が池(比叡山の七不思議)

横川駐車場から横川(よかわ)中堂に至る道の左手にある。龍が池ともいう。『都名所図会』に「竜池。また赤池ともいふ。慈覚大師(円仁)、結界して竜神を潜居せしむる。いまも雨を乞ふときはここに祈るとぞ」とある。寺伝によると話はこうである。昔この池に大蛇が住みつき村人たちに危害を加えていた。元三大師がこれを聞いて大蛇に向かい、「おまえは法力を持っていると聞くが本当か」と尋ねた。大蛇は、「本当だ。俺にできないことは何もない」と答えた。大師が「ならば大きい姿になってみよ」というと、大蛇は数十倍の大きさに変身。大師が再び「小さくなって私の掌に乗れるか」というと、大蛇は小さくなって大師の掌に乗った。大師はすぐさま観音の念力により大蛇を閉じ込めてしまった。そして、弁天を迎えて小さくなった大蛇をおそばに侍らせた。こうして、さしもの大蛇も前非を悔い、横川の地を訪れる人の道中の安全と心願の成就に助力するようになったという。龍が池に祀られている弁天は、また雨乞いの弁天としても有名。

⑭六道おどり(比叡山の七不思議)

 横川中堂は横川の中心的堂塔。()(しょう)元年(848)良源の創建になる。聖観音を安置。かつて入唐時に海難に逢った良源が、聖観音を念じて事なきを得たので帰朝後、この堂を建立するとき、屋根を唐船に擬して作ったという。中堂は、信長の焼討ちで焼亡したが、慶長九年(1604)豊臣秀頼が再建。六道おどりの伝説はいう。堂前の広場で、ある年のお盆、里人たちが僧と盆供養をしていた。夜中、観音様が本堂から庭にあらわれ、印を結んだかと思うと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道の亡者たちが集ってきた。そして、香や花を供えて盆供養をし、やがて踊りはじめた。地獄の亡者は地獄の責め苦を踊りあらわし、修羅たちは剣の舞を舞うなど夜どおし続き、最後に天人が延命の舞をまって、夜明けとともに消えていったという。


横川中堂


護法石

護法(ごほう)(せき)

横川中堂の向拝(こうはい)の下にある。『都名所図会』にも「護法石。中堂の東の下にあり」と見える。寺伝では、鹿島明神、赤山明神の(よう)(ごう)(影向とは神仏が来臨すること)とする。

⑯元三大師の御影(ごえい)

 横川中堂から少し東に元三大師堂がある。この堂内の元三大師の御影と御籤が有名で、門の傍らには「おみくじ発祥之地」と記した石標が立つ。『京童跡追』は「慈恵大師(元三大師)ともいへる也。古き絵像にて。近く拝めばあざやかならず、遠く見れば御かたちあらはに覚ゆるは、予、病眼ゆえ。我ばかりかくありて、眼疾なき人は遠近かはる事あらざるか。さて霊像の尊くまします事、凡慮の筆舌にあらはしがたし。霊前に奇妙(きろう)の御籤あり。信仰の人これを取。文句あたらずといふ事なし。むかし、それがし、この御くじを取侍る事あり。その後、御影飯室(いいむろ)にましますとき、両度の御くじ同事にて侍りし。日をへて二たび取ぬる御くじ同じものなる事、奇妙也。されば、おそるべし。尊とむべし」という。『伝説の比叡山』によると、古来魔除けの護符として(まめ)大師(だいし)(つの)大師(だいし)がある。その伝説はこうである。

 ■女官と元三大師(豆大師) 大師は、とりわけ眉目秀麗だったから、若い女官に大人気だった。ある 年の春、女官たちが幔幕をひきめぐらして花見に興じていたが、そこに大師が通りかかった。女官た ちは歓声をあげて囃し立てたところ、それを見た大師は苦りきった顔になっていった。そして不思議 にも、その美しい姿が見る見る豆粒のように小さくなり、とうとう恐ろしい鬼畜に変じていった。な まじ容姿の美しさから自分や他人を魔道に落しめんとすることを恐れていた大師は、自他ともに救う はからいとして鬼畜になってみせたのだった。
 ■元三大師と疫神(角大師) ある日大師が書見していると、疫神が来て、大師は厄年なので体を拝借 してほしいという。大師が左手の小指を差し出して疫神が飛び移るや否や、全身に悪寒を催して耐え 難い苦痛を感じたので、念力で疫神を追い出した。疫神のもたらす苦痛に驚いた大師は、身を以って 、その病難を払う誓願を立てた。それから後、横川の宗徒は病難に罹る者がなくなったという。宗徒 でない人も大師の絵像を安置して疫神を祓うようになった。


元三大師堂


コラムその1 比叡山の異名とその由来

異名の中から面白いものをいくつか紹介しておこう。
・我立杣:伝教大師初めてこの山に中堂を建立したとき、諸仏に「我立杣に冥加(みょうが)あらせたまへ」と詠じたことから。

・鷲の山():()(えん)(11551225。『愚管抄』を著す)が、この山を釈迦ゆかりのインドの霊鷲山に擬して、「鷲の山有明の月は巡りきて我立杣の鏡にぞすむ」と詠じたことから。

・山:拾玉集に慈円の歌に「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」とある。

・艮岳:平安京の(うしとら)にあたり、根本中堂を王城鎮護の霊場として鬼門を守ることから。慈円の歌に「我山は華の都の丑寅に鬼いる門をふさぐとぞきく」とある。・天台山:伝教大師が開創した天台宗にちなみ、中国の天台山に擬したもの。

・台嶺:台嶽とともに天台山の略称。

・北嶺:奈良の諸大寺を南都とするのに対して。

・都の不二(富士):後水尾上皇が比叡山を見て「みよやみよ都のふじの空はれて月もうへなき秋の光を」と詠んだことから。


比叡山不思議探訪順路(イメージ)




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