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2洛西
愛宕山

       愛宕山(広沢の池から)


アクセス
JR京都駅中央口→京都バス72系統清滝行(51分)→鳥居本→下の亀石(スタート)→空也滝(ゴール)→清滝→京都バス72系統京都駅行(54分)
歩行距離等
●歩行距離:10キロ
●所要時間:6時間




(つきの)輪寺(わでら)

愛宕山の東側山腹にある天台宗の寺。鎌倉山と号す。本尊阿弥陀如来。天応年間(78182)慶俊僧都の創建と伝える。寺名は、この時、地中から出たという鏡の刻銘「人天満月輪」によるというが、この地に隠棲した月輪関白九条兼(くじょうかね)(ざね)にちなむとの説もある(『都名所図会』)。その後、清水寺の千手観音の霊夢に導かれて空也が念仏道場としたこともある。平安末期には兼実が当地に隠棲し、兼実のもとを訪れた法然、親鸞がそれぞれ刻んだという三師像が残されている。『京師巡覧集』は花見の名所という。法然上人二十五霊場の第十八番札所。

愛宕山(あたごやま)

右京区西北部にある山。標高約924メートル。阿多古・阿当護・阿太子などともいった。山城国と丹波国との境界に位置した。『雍州府志』は「山上に五嶽、朝日の峯、大鷲の峯、高尾山、龍上山、賀魔蔵山有り。この山、始め、手白山と号す。愛宕権現をこの山に移してより、改めて愛宕山と号す」という。『京羽二重織留』では、愛宕山五岳として朝日岳・鎌倉山・龍岳・鳥岳・畳岳を挙げる。本朝五岳の一(『京羽二重』)

山上には火難除けの神・愛宕神社がある。明智光秀が本能寺攻めの前、勝軍地蔵に祈願したのは神社内にあった白雲寺と伝えられるが、同寺は明治維新時の神仏分離令で破却。東側山腹には奈良期末に僧慶俊が開いた月輪寺や空也滝がある。昭和四年開設のケーブルカーは第二次大戦中に軍事徴用のため撤去。

○愛宕神社

■修験道の聖地 本社に稚産(わくむす)(びの)(みこと)(生産水の神)埴山(はにやま)(ひめの)(みこと)(水の神)伊弉冉(いざなみの)(みこと)(あめの)熊人(くまひとの)(みこと)(稲司の神)豊受(とようけ)姫命(ひめのみこと)(五穀の神)、若宮に雷神・迦倶(かぐ)(つち)(火の神)破无(はむの)(かみ)(土の神)、奥宮に大国主命ほか十七神を祀る。全国愛宕神社八百余社の総本宮。社伝では、大宝年間(70104)(えんの)小角(おづぬ)が加賀白山を開いた僧(たい)(ちょう)を伴って愛宕山に登り、神廟を造立したのに始まるという。一説には、天応元年(781)慶俊僧都と和気清麻呂が白雲寺の鎮守社としたとか、「延喜式」神名帳に丹波国桑田郡・阿多古社の名がみえるので、この社を山上に移したともいう。古くから修験者の聖地となり、愛宕信仰が全国に広がり、愛宕山は修験道(しゅげんどう)七高山の一にも数えられた。

■火伏の神 火伏の神としても朝野の信仰を集めた。また、白雲寺の本尊が勝軍地蔵であったため、武家の信仰も篤かった。古歌に「お伊勢へ七度 熊野へ三度 愛宕さんへは月参り」と詠まれたほど人気を集めた。『菟芸泥赴』にも「あたごは軍神の守護、且つまた火災を鎮め給ふ。往々にその神験多し。それ故に上下の諸人あゆみを運ばぬは無し」とある。



不思議

下の亀石

①下の亀石

 京都バス「鳥居本(とりいもと)」を下車。道路左側の石段を下ると朱塗りの鳥居が見える。これは愛宕神社の一の鳥居で、この鳥居によりそうように藁葺きの鮎茶屋・平野屋がある。この茶屋の前に注連縄を張った亀の甲羅のような石がある。これが亀石で、愛宕神社本殿傍らの青銅の鳥居にある亀石を上の亀石というのに対し、下の亀石という。役小角が置いたと伝えられる名石。何のために置かれたのか、今となってはよく分からないが、地元の人は、愛宕神社への参拝は急坂が続いて苦しいので、亀のようにゆっくり着実に登りなさいという寓意だという。







(こころ)みの坂

鳥居本の一の鳥居から愛宕念仏寺を経て清滝トンネルの手前右側から小高い丘に登って下りたところが清滝。この間を試みの坂という。試みの峠は、試みの坂の頂上部を指す。名の由来は、「もうでのぼる人は()(ぎゅう)(水牛のこと)ならで(あえぐ)こと苦しげ也」(『出来斎京土産』)という愛宕神社までのきつい坂を本当に登れるのかどうか、この坂で試してみることにあった。江戸期から有名な峠で、『山州名跡志』、『山城名跡巡行志』、『都名所図会』などにも見える。


試みの坂(右手の坂道)


渡猿橋

()猿橋(えんきょう)

 清滝の京都バスプールから清滝川方面へ少し急な坂道を下ったところにある。清滝川に架かる橋。欄干の朱塗りが鮮やかな橋で、昭和十三年に架け替えられたもの。江戸期には「板を以て造る。欄干有り」(『山州名跡志』)という構造で、名橋の一といわれた(『京羽二重』、『名所都鳥』、『都名所図会』など)。名の由来は、『扶桑京華志』に「相伝う。古、猿有り。この橋を度す。故に名づく」とある。


④壺割坂

 十八丁目あたりの坂をいう。『堀河之水』は「愛宕山は清涼の地にして、坊舎軒をならべ。(中略)その院々の外に、別に蔵をつくれる。これを壺蔵と云ふ。その故は、四月の頃宇治に遣されて茶を詰たる御壺を直にこの山にのぼされて。かの壺蔵におさめさせて六月を過し。秋風ひややかになる頃、これをとり出し侍る」と記す。江戸期には宇治の新茶を清涼な山上に貯蔵し、秋になると江戸幕府へ献上していた。ある時、この坂でお茶壺を割ってしまったので、この名がついたという。


⑤黒門

 愛宕神社本殿の手前にある。銅板葺の高麗門で注連縄が張られている。神社に寺院門があるのが珍しい。駒札によると、この門はもと愛宕山にあった白雲寺の京都側の惣門で、ここからが白雲寺の境内だった。境内には、福寿院、威徳院、長床坊、教学院、宝蔵院といった宿坊があった。愛宕山は、江戸期は神宮寺の白雲寺が実権を握る神仏習合の山であったが、慶応四年(1868)の神仏分離令によって白雲寺は破却。黒門は白雲寺の唯一の遺構となった。


黒門


猪の浮き彫り

⑥青銅鳥居の猪の浮き彫り

 本殿前の青銅鳥居の左右の柱には神使の猪の浮き彫りが施されている。この猪を舐めると、たちどころに足の疲れが癒されるという。ちなみに、猪が神使の理由について『京都民俗志』は「和気清麻呂が桓武天皇の命により都を定めるときに、先ず愛宕に登ってここを軍事上の要地とした。和気清麻呂は山を開いた恩人であるため、今でも社内に護国神として祀っている。これにちなみ同社の神使も猪とした」とか、「愛宕は火の神。猪は火を好むので神使とした。亥の日に炉開するのも猪と火の縁による」という。他に、愛宕は萩の名所でもあり、萩には猪はつき物なので神使にしたともいう。

⑦上の亀石

青銅鳥居の傍らにある。石柵で囲って注連縄が張られている。本社前の礼拝石が上の亀石、鳥居本にあるのを下の亀石という。役行者が置いたと伝えられる名石。下の亀石と同様、何のために置かれたのかは分からない。社では、「神石」であることは間違いないが、名は特にないという。下の亀石と地中で繋がっているともいう。


上の亀石


千日詣(せんにちもうで)

古くは「専一詣」といい、旧暦六月二十四日に行われていた古代の鎮火祭が起源。七月三十一日夜九時に夕御饌(ゆうみけ)(さい)、八月一日午前二時に朝御饌(あさみけ)(さい)がそれぞれ執り行われる。この日に参拝すれば千日分の御利益が得られるという。『京羽二重』に、愛宕山千日詣は六月二十四日という記事が見える。また、『洛陽名所集』は、千日詣での様子を次のように伝える。「無月の下の四日を千日詣とて。夜とともに行き集ふ人々。松明灯し立て九折よじ登りしままに」。


⑨幼児を背負って参拝

三歳までの幼児を背負って愛宕神社に参拝すると、その子は一生火難を免れるという信仰がある。『京師巡覧集』に「子ずれでのぼる人多し」と見えるように、江戸期には、幼児を背負って五十丁もの坂を登り愛宕詣でする人が多かった。この信仰は現在にも残っている。




⑩不浄のある人は参拝できない

火の神は不浄を嫌う。不浄(けがれ)のある人が強いて登ると腹痛を起こすという。


(しきみ)のお守り

神社で用いる神花は榊であるのが普通だが、愛宕神社では火伏の神花はなぜか樒である。本宮に参拝し、「愛宕大神守護所」と記した守札を受ける。この守札を、別に買い求めた樒に括りつけて持って帰る。これを(かまど)(今では台所)に挿し、火難除けにする。竈に挿した樒は、いつまでたっても枯葉が落ちないので不思議だという。ちなみに、愛宕山には樒が多数生育する樒が原という地がある。『菟芸泥赴』に「札をもとめて樒にそへ、下山して家内に挿す」とある。江戸期には赤前垂をした水尾の女が、山上に設けた売場で樒を売ることに決まっていた。今でも黒門の手前にハナ売場が設けられている。



本石楠花

⑫明智光秀手植えの(ほん)(しゃく)()()

 月輪寺境内にある。天正十年(1582)織田信長のいた本能寺を攻める前夜、光秀は愛宕山白雲寺の勝軍地蔵に勝利を祈願したが、殺生を悔やんで当寺に本石楠花を手植えしたという。この本石楠花は立派に成長し、四百数十年後の現在、毎年のように白い花を多数咲かせている。国の天然記念物。

龍女(りゅうにょ)(すい)

月輪寺境内、本石楠花の傍らにある。『都名所図会』は「空也上人この地に幽居したまふとき、当山(ひぐ)(らし)の滝より竜女、婦人と化して顕れ、上人に妙経を授かりたちまち成仏す。その報恩として後山の巌を穿ちしかば、清泉湧き出づる。これを竜如水といふ。いまに増減なし。所々へ筧にとりて当山の用水とす。傍らに竜女の社あり」という。この清泉は季節によっては涸れることもあるが、今でも寺の飲用水として利用されている。水は、ミネラルが多く、まろやかでおいしい。竜女の社は現存しないが、宝物館に伝龍王像が残されている。この伝説は、謡曲「愛宕空也」にも出ている。


龍女水


時雨桜

時雨(しぐれの)(さくら)

月輪寺境内にある。親鸞聖人が越後に流されるとき、この地に隠棲していた壇越の九条兼実を訪ね、お別れのしるしに手植えしたのがこの桜という。一月半ばから五月半ばまで、葉の先から涙を流すように雫を落とすことから、時雨桜と名付けられた。『都名所図会』に「親鸞聖人北国左遷のとき兼実公と名残を惜しみ給ひければ、自作の像を遺し別れたまふとき、この桜時雨す。いまも弥生の末には時雨たえずしけるとなん」とある。昔の京絵図には、法然上人の手植えの桜と一対で「(あい)()えの桜」と称されていたという。ちなみに今の桜は三代目という。「時雨桜法要」は毎年四月十六日から五月二十日に執り行われる。

⑮空也滝の土砂
 月輪寺から下山すると舗装された林道に出会う。この出会いにある石段道を登ると空也滝がある。高さ12メートル、幅1メートルあり、京都近郊では最大級。名の由来は、今から千年ほど前、空也上人の修行場であったことにちなむ。滝水は幾筋にも別れて岩肌を滔々と流れており、夏でも肌寒いほどである。愛宕の神は、物に対する執着が強いので、滝つぼの土砂すら持ち去られるのも忌むという。強いて土砂を取ると体の具合が悪くなることから、「空也滝の土砂は取るな」という信仰が出来た。今でも熱心な信者が多く、香華が絶えない。

空也滝


















愛宕山不思議探訪順路(イメージ)





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