ヘッダーイメージ 本文へジャンプ

洛西
太秦


広隆寺山門

アクセス
JR京都駅→地下鉄烏丸線(5分)→烏丸御池・乗換→地下鉄東西線(8分)→太秦天神川・乗換→嵐電天神川(2分)→太秦広隆寺→大酒神社(スタート)→元糺の池(ゴール)→嵐電蚕の社(1分)→東西線太秦天神川
歩行距離等
●歩行距離:4キロ
●所要時間:2時間

■秦氏ゆかりの地名 南流する御室川の右岸と西高瀬川の流域一帯の地名で、右京区の中心をなす。平安京の造営に大きな役割を果たした秦氏の根拠地。『日本書紀』雄略天皇の十五年条に、(はたの)(ざけの)(きみ)()()()()の姓を賜ったので、地名はこの賜姓に由来するという。また、養蚕と機織の技術にすぐれていた秦氏が朝廷に糸を献上し、その糸がうずたかく積まれて巴渦のように見えたからとか、秦氏が秦の始皇帝の廟を立て、大の字を加えて太秦と号したともいう (『洛陽名所集』)。秦氏と関係の深い広隆寺や蚕の社も太秦にある。平安京との関係では、平安京二条大路の西の延長線上に広隆寺や蚕の社が位置した。広隆寺の北側に東映太秦映画村がある。
不思議

 スタート地点は広隆寺に近いので、時間があれば拝観しておこう。広隆寺は真言宗で、本尊は聖徳太子像。国宝第一号の弥勒菩薩像ほか多数の国宝を所蔵。


大酒神社の八角鳥居

①大酒神社の八角鳥居

 広隆寺の東隣(右京区太秦東蜂岡町)にあり、本殿に秦始皇帝・弓月君・秦酒公、別殿に呉織神・漢織神を祀る。延喜式の神名帳に名が見える古社。大辟(おおさけ)神社ともいった。広隆寺の伽藍神。寺伝では、仲哀天皇の頃、秦の始皇帝の子孫広満王が来朝し、この地に大酒明神を祀ったに始まるという。もと広隆寺境内、桂宮院のそばにあったが、現在地へ移転されたもの。石造明神鳥居の柱はなぜか八角形である。今は自然石のままであるが、以前は朱塗り八角柱の鳥居で珍しかったという(『京の七不思議』)。広隆寺の牛祭は、今宮神社のやすらい祭、鞍馬由岐神社の鞍馬の火祭と並び京の三大奇祭と称されるが、かつては大酒神社の祭であったという。

②いさら井

 広隆寺駐車場の西に接する小道を北へ約50メートル上った右手にある(右京区太秦西蜂岡町)。四角い井戸で覆屋があり、石組みに「いさら井」と彫ってある。以前は「井浚」と彫られていたようだ(『京都民俗志』)。竹の簀子で蓋をして井戸枠に括りつけているので、井戸の中は窺い知れない。洛西有数の古井で、伊佐羅井(『山州名跡志』、『都名所図会』、『都花月名所』)、伊佐良井(『扶桑京華志』)とも書いた。和泉式部の有名な歌が残る。「いさらいのふかくの事はしらねども清水ぞ宿の主なりける」


いさら井


蛇塚古墳

③蛇塚古墳

 広隆寺から西南へ約1キロ(路程距離)、太秦面影町の住宅地の中にある。史跡。古墳時代後期末の七世紀頃に築造された京都府下最大の横穴式石室。もとは全長約75メートルにも及ぶ前方後円墳であったが、早くから墳丘封土は失われて、後円部中央の石室だけが露出している。石室の全長は17.8メートルで、棺を安置する玄室の幅は奈良県明日香村の石舞台古墳よりも大きい。床面積では、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、石舞台に次ぐ全国第四位を誇る。古墳の規模や墳丘の形態などから秦氏一族の首長の墓であるようだ。蛇塚という名は、石室内に蛇が多数棲息していたことにちなむ。別に「おしげ」という女賊がここを根城とし、三条街道に出没して追剥をしたという伝説がある(『昭和京都名所図会』)。

(くるま)(そう)影堂(えいどう)

 広隆寺から東南へ約400メートル(路程距離)。太秦海生寺町の西側境界の民家前の「車僧影堂」と記した案内石標に従って小道を東へ約50メートル行った田圃の中にある。小堂の前に海生寺(かいしょうじ)遺跡開山堂と記した石の台がある。小堂には、海生寺の住持だった深山(しんざん)禅師の木像と位牌が安置されている。この深山禅師は、破天荒な怪僧として有名な人物だった。例えば『京羽二重織留』に「この僧、名もしれず又いづくの人といふ事をしらず。つねに破車にのりて心のいたる所にゆく。この故に民人、やぶれ車と云。又七百歳以前の事をみづからよく歴試す。之に依りて七百歳とも名付ぬ」とあり、また『都名所図会』にも「この僧、いずれの僧、いづれの姓の人ということを知らず。つねに破れ車に乗じて四衢(しく)を往来す。世の人呼んで車僧といふ。また七百歳の年歴のことを語るゆえに、名を七百歳とも称すとなん」という記事が見える。謡曲「車僧」の主人公でもある。


車僧影堂


天塚古墳

(あま)(つか)古墳

 蚕の社から西南へ約900メートル(路程距離)。三菱自動車工場の北側の太秦松本町にある。史跡。六世紀前半に築造されたと推定される前方後円墳で、蛇塚古墳に次ぐ全長70メートルの規模。明治20年(1887)の発掘調査で、銅鏡・馬具・勾玉・鉄鏃など400点の副葬品が出土。秦氏一族の墳墓と推定されている。蛇塚古墳よりもさらに平安京に近く、こうした大古墳が今に残されているのは珍しい。石室内には、伯清稲荷大神が祀られ、地域住民の信仰の対象となっている。『山城名跡巡行志』に「尼塚は太秦の東三条通の道の南に在り。並べて三有り。南方に石棺在り。由来知らず」とあり、『山州名跡志』にも尼塚とあるので、江戸期には尼塚と書いたようだ。

⑥三つ鳥居(蚕の社)

 広隆寺の東約500メートル(路程距離)に蚕の社があり、本殿の西にある元糺の池の三本柱の鳥居をいう。蚕の社は、正しくは木島坐天(このしままにますあま)(てる)御魂(みたま)神社(略して木島(このしま)神社という)といい、祭神は天之(あめの)御中主(みなかぬしの)(かみ)外三柱。旧郷社で延喜式の神名帳にその名が見える太秦の古社。養蚕や機織にすぐれた技術を有していた秦氏の勢力圏内にあって、本殿の東側には織物の祖神を祀る()(かい)神社(東本殿)がある。「蚕の社」の社名は蚕養神社にちなむ。三つ鳥居は、京都御苑にある厳島神社の唐破風鳥居、北野天満宮境内摂社の伴氏社の蓮弁模様の石鳥居と並び京都三珍鳥居の一つ。築造は天保二年(1831)。『都名所図会』に、三つ鳥居は「老人の安座する姿を表せしとぞ」とする木嶋社(このしまのやしろ)宮司の説を紹介している。


三つ鳥居と元糺の池


元糺(もとただす)の池(蚕の社)

 三つ鳥居のある元糺の池は、今は涸れて池底を顕わにしているが、昔は三つ鳥居の下からこんこんと清水が湧き出して元糺の池を作っていた。この水が境内に流れ出て、土用の丑の日に手足を浸すと「しもやけ」や脚気にならないという民間信仰があった。池の名について『山州名跡志』は御手洗井といい、『都名所図会』は「木嶋社(このしまのやしろ)の西の傍らに清泉あり。世の人(もと)(ただす)といふ。名義は(つまび)らかならず」としている。元糺とは下鴨神社にある糺に対するもので、社伝では賀茂の明神はこの地から移られたといい、糺の名も下鴨に移したという。賀茂氏と秦氏の親縁関係を伝説化したものであろうとする(『昭和京都名所図会』)。



コラムその17 謡曲と不思議

「車僧」は能の謡曲でも取り上げられている。「車僧」以外にもの本書で取り上げた不思議のうち、謡曲に取り上げられているものを見ておこう。

・車僧(太秦):愛宕山太郎坊の天狗の化身の山伏は、破車に乗る車僧を魔道に誘い込もうとして力比べするが、負けて退散する。金春禅竹作。・大原御幸(大原):突然寂光院を訪れた後白河上皇に、建礼門院は地獄絵図さながらの壇ノ浦合戦の模様や安徳帝の最後を語って涙する。

・鞍馬天狗(鞍馬山寺と貴船神社):牛若丸は僧らと連れ立って花見に出向き、そこで鞍馬山の大天狗の化身の山伏と出会う。僧らはそそくさと逃げ帰ってしまい、牛若丸だけが一人残される。それを哀れんだ山伏は、牛若丸に平家討伐の兵法を授ける。宮増作。

・鉄輪(鞍馬寺と貴船神社):不実の夫を恨む女は貴船社に丑刻詣し嫉妬の鬼になったが、夫は安倍晴明の呪力にたより、何とか災厄を免れる。

・賀茂(上賀茂神社と下鴨神社):女人の姿で加茂三社の由縁を物語った後、豪快な加茂別雷大神が出現。

・敦盛(金戒光明寺):出家して蓮生坊となった熊谷直実の下に、討ち取られた敦盛の霊が現れる。無念な討ち死にを遂げたが、今は何の存念もないとして回向を所望して消えていく。

・田村(清水寺):東国の僧が清水寺に参詣。寺の由来を童子に訊ねると、童子は坂上田村麿が開創したことを語り、地主権現の桜を初めとする名所を僧に教える。

・熊野(清水寺):平宗盛に清水寺地主権現の花見の供を強要された熊野。舞を舞う途中で雨が降り、桜花が無残に散るのをみた熊野は即興で歌を作り、許されて故郷の遠江に帰る。世阿弥作。

・草子洗小町(堀川):内裏での歌合せで小町の相手になった大伴黒主は、草子に細工して小町の歌を万葉集からの盗作と誹謗するが、草子を洗うと小町の歌が万葉集からの盗作でないことが明らかになる。

・愛宕空也(愛宕山):愛宕山の竜神が空也から仏舎利を与えられ、お礼に水のない愛宕山に清水をもたらす。

・女郎花(石清水八幡宮):旅の僧が、小野頼風を恨んで自殺した女を埋めた塚から咲き出た女郎花を手折ろうとして、翁に止められる。その夜、僧が読経しているところに頼風夫妻が現れ、地獄で苦しんでいるので救ってほしいと乞う。亀阿弥作。

太秦不思議探訪順路(イメージ)


フッターイメージ