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洛西
御室(仁和寺)

仁和寺金堂


アクセス
JR京都駅→嵯峨野線(14分)→花園
歩行距離等
●歩行距離:1キロ
●所要時間:1時間

御室(おむろ) 

■宇多法皇ゆかりの地名 右京区東部の地域名。仁和寺を中心とし、北に住吉山(大内山)、東は竜安寺地区、西は御室川が南に流れ、南に三つの岡からなる双ヶ岡(ならびがおか)がある。地名は、宇多天皇が延喜四年(904)に仁和寺内に御室(御座所)を営んだことに由来。地区の範囲は、ほぼ仁和寺の元寺領に相当する。平安京の土御門大路の延長として仁和寺街道が通じる。住吉山の北端に宇多天皇陵。

仁和寺(にんなじ)

■歴史 真言宗御室派の総本山。山号は大内山。本尊は阿弥陀三尊。世界文化遺産。仁和四年(888)宇多天皇が前年に崩御した父の光孝天皇の遺志を継いで創建。宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、昌泰二年(899)東寺の長者(やく)(しん)を戒師として当寺で出家仁和寺第一世となった。寺名は創建時の年号にちなむ。代々皇族の親王が門跡となって諸宗の本山を統轄した。平安から鎌倉時代にかけて宗派は広沢流として隆盛したが、応仁の乱で衰退。その後、寛永年間(162444)徳川家光の援助を受けて再興。『菟芸泥赴』に「御室は、世に疾病おこる時はひそかに御所を出給ひ只一人御棚の菓子などを懐に入て大垣のほとりの病者に次第に是をあたへ給ひて真言をよみかけて過ぎ給ひければ、病者たちまちに悉く除を得たり」とあるように、江戸期には霊験のある寺として名が高かった。→巻末絵図29(御室仁和寺)

■見どころ 金堂は慶長十八年(1613)造営の内裏紫宸殿を寛永年間(162444)の復興時に移築したもので国宝。清涼殿の古材を用いた御影堂、台所門を移築した本坊表門、寛永二十一年(1644)建立の五重塔、同時期の仁王門、観音堂、中門、鐘楼、経蔵、御影堂中門、九所明神本殿などは重要文化財。御殿にある茶室(りょう)廓亭(かくてい)飛濤(ととう)(てい)も重要文化財。仏像彫刻では、金堂の本尊と伝える阿弥陀三尊像が国宝。

不思議

五智如来石仏群

①五智如来石仏群(蓮華寺)

仁和寺の東側に接する真言宗御室派別格本山、五智山蓮華寺の境内にある。江戸初期に木食(もくじき)上人が作った丈六の石造坐像五体(五智のおのおのを成就した金剛界の五仏、五智如来という)で、境内中央に南面して端座している。向って右から薬師、宝生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦の各如来で、背後に地蔵菩薩、観音菩薩などの石仏十一体が横一線に並んでいる。このように大きな石仏群は珍しく、深草の石峰寺と並んで京都市における最大規模の石仏群。なお、毎年土用の丑の日に催される「胡瓜(きゅうり)封じ」には、諸病平癒・除厄招徳に霊験があるとして参詣者で賑わう。

②御室桜(仁和寺)

 中門をくぐり左手にある観音堂の南側一帯に、里桜・車返し・有明など白色系の八重桜を中心に約200本ある。名勝。高さは3メートルぐらいと低く、根元から枝が伸びて花が咲く。花(鼻)が低いので、「御室のお多福桜」ともいう。花の盛りは市中より遅く、四月下旬が見頃。江戸期は清水寺とともに、花見の名所として天下の人気を二分した。各地誌がこの桜を絶賛しているので、そのいくつかを挙げてみよう。

・『京羽二重織留』 東山は陽気和暖にして花の開事はやく、当山は西方寒冷の地なり。この故に花の開ことおそし。洛人一春前後の遊観として幔幕隙地なく、詩歌の詠糸竹の曲絶る事なし。

・『堀河之水』 東山よりは、さかり遅し。清水のちり過る頃、御室の桜最中なり。世の人清水御室といひて左右をあらそふ。

・『都名所車』 八重ざくらおほく咲みだれ、其外さくらの諸木あつて花の都の第一とす。

・『都名所図会』 それ当山は佳境にして、昔より桜多し。山岳近ければ、常に嵐は

げしく、枝葉もまれて樹高からず、屈曲ためるがごとし。弥生の御影供はなほさら。花の盛りには都鄙の貴賎春の錦を争ひ、幕引きはへ、虞松が酒にふし、李白が恨むらくは、長縄をもつて西飛の白日を繋ぐことを得んとは。春色の風客花にめでて日を惜むと同じ論なる。

・『都花月名所』 山岳近ければ常にあらしはげしく、枝葉もまれて屈曲ためたるがごとし。数千株の花盛には都下の貴賎春の錦をあらそひ。花の陰に幕打はへ。春色の風人富貴の時を得て。清香を袖にたたへ。酒に(ふし)て月の(のぼ)る事をしらす。(すべ)て此地は八重桜多くありて一重は(すこしき)也。霧ヶ谷(きりがやつ)江戸、塩竃、桜間(ろうま)、芝山、曙など多し。護摩桜は御所の前に(かき)ゆ。枝垂桜は御殿の内にあり。総じて当山は花の香他境に勝れて高く盛には清香芬々たり。これ風土の奇といふべし。


御室桜


九所明神社

九所(くしょ)明神社(みょうじんしゃ)前の楓(仁和寺)

九所明神社は五重塔の東北隅にある。仁和寺の鎮守社で、八幡・賀茂・山王・天神・稲荷・松尾・平野・小比叡・大原野の九座の神を祀る。三間社流造。桧皮葺の社殿三棟が並び立っており、寺院の鎮守としては大きい。社前に並ぶ大きな織部型石灯籠三基のうち二基は寛永二十一年(1644)の銘があり、織部型灯籠としては最古という。『都花月名所』に「社前に楓樹数株あり。秋の末は紅錦の色をあらはし又桜紅葉多くして深秋の興を催す」とある。社殿は重要文化財。

閼伽(あか)()(仁和寺)

 御影堂の東、水掛不動堂参道の右手にある。花崗岩の切石で囲った井戸で、上に簡素な覆屋がある。開口部を厚い板で蓋をして釘付けしてあるので、残念ながら中は窺い知れない。右手傍らに閼伽井と彫った石標の側面に「あらたまの年の初に御仏の御加持のふしに奉る水」と彫ってあるそうだが、判然としない。『京都民俗志』は、この井を「弘法加持水」と呼ぶ。


閼伽井


菅公腰掛石(不動明王の立つ石)

⑤菅公腰掛石(仁和寺)

御影堂の東奥の水掛不動堂の中、石造不動明王が安置されている岩をいう。堂の左手傍らに菅公腰掛石と記した石標が立つ。左大臣藤原時平の讒言により、大宰府左遷が明らかになった菅原道真は、急いで宇多法王のもとに駆けつけた。しかし、折悪しく法皇は長い勤行中で、道真ははやる心を抑えてこの石に腰掛け、法皇を待ったと伝わる。『嵯峨行程』は、この岩について「伝へ言う。宇多天皇一旦菅神遷謫(せんたく)を歎し玉ひ、醍醐帝にこの事を奏せられんと御幸なりれけども、執奏の人なし。本意なく思召し、(すなわち)還幸なり玉ひ、暫くこの岩に御腰を掛け、歎き玉ふと云へり」という。岩の上の不動明王について寺伝は、「京都市内で大洪水があったとき、一条堀川の戻橋に流れついたが、仁和寺へ帰りたいという夢告により、戻橋付近の人々がこの岩上に祀った」という。

⑥御室の黒石(御室八十八ヶ所)

仁和寺背後の成就山中に御室八十八ヶ所霊場がある。その第八十番札所(千手観音、国分寺)小堂の左手傍らに石柵で囲われた石がある。長径80センチ、短径60センチ、表面が黒色を帯びた平らな石。この石を撫でると、下半身いっさいの病気が治癒するという(『京都民俗志』)。また、これとは別に、第二十八番札所の傍らには宇多源氏の始祖、左大臣源雅信(920~93。宇多天皇の皇孫)の墓と伝える巨岩がある。御室八十八ヶ所霊場は、文政十年(1827)仁和寺第二十九世済仁法親王が弘法大師ゆかりの四国八十八ヶ所霊場をまねて成就山麓に八十八ヶ所の小宇を作ったもの。巡拝距離約3キロ、所要約二時間。家族づれでハイキングを楽しむ人が多い。


御室の黒石


清原夏野の墓

清原(きよはらの)(なつ)()の墓(双ヶ岡)

 双ヶ岡は御室仁和寺の南にある。北から一の岡・二の岡・三の岡と連続する三峰からなる(山頂・山腹に双ヶ岡古墳群がある)。名勝。一の岡が標高約116メートルと最も高く、頂上には巨石の横穴式石室がある。京都では蛇塚古墳に次ぐ規模。頂上からは北と西の展望が開けている。頂上から少し下った所に「右大臣贈二位清原真人夏野公墓」と記した石標が立つ。これは夏野(782~837。嵯峨天皇の皇子、仁明天皇の弟)の末裔にあたる元子爵舟橋遂賢が明治45年に建てたもの。双ヶ岡の成り立ちについて面白い説を紹介しておこう。『洛陽名所集』に「世につたふ。宇多法皇、延喜帝(醍醐天皇のこと)をうらみ都をみん事をきらひ給ひ。この岡山つくり給ふとぞ云ふなり。その故に、俗口には、つき山ともとなへき」とか、『出来斎京土産』に「世にいひつたふ。寛平法皇(宇多法皇のこと)は延喜帝の不孝におはしますとて。うらみ給ひ都の方見たまふまじとて。この岡をつかせられしとぞ」という記事が見える。





⑧兼好法師塔(長泉寺)

 兼好法師(生没年不詳)は、鎌倉末期・南北朝時代の歌人・随筆家。代表作は『徒然草』。二の岡の東麓に庵を構えて住んでいたという。『嵯峨行程』に「一の岡二の岡との間に長泉寺と云へる寺あり。その所に近世好事の者、兼好が塔を建つ」といい、『雍州府志』にも「吉田兼好法師の塔は二の岡麓の長泉寺に在り」という記事が見える。長泉寺は右京区御室岡ノ裾町にある浄土宗の寺で、元禄年間(1688~1704)の創建。塔と並んで兼好の歌碑「契りおく花とならびの岡の上に哀れ幾世の春をすぐさむ」が立つ。


御室不思議探訪順路(イメージ)


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