②大原雑魚寝(江文神社)
井出町の集落を通り過ぎた金比羅山(572メートル)の東麓にある江文神社において、大蛇の難を避けるため毎年節分の夜に行われていた参籠行事であったという。一村の男女が一ヶ所に集まり、灯を消して臥し寝るのは風紀上いかがわしいとして、明治以前に禁止されたと伝える。江文神社は倉稲魂命を祭神とする大原郷の氏神。今は老朽化して立入禁止となっているが、雑魚寝の舞台となったという長屋のような一風変わった長方形の拝殿が現存しており、それらしき雰囲気がある。五月四日に江文祭、九月一日に八朔祭が執り行われる。八朔踊りは大原に残る伝統芸能で、絣の着物に菅笠を被った宮座の青年男女が輪になって、道念音頭(楽器を用いない独特の節回し)で豊作祈願をするものだ。京都市の重要無形民俗文化財。
■大原雑魚寝の由来(『山州名跡志』) 大原川の和田橋(現存)の下流に女郎淵、馬守淵、石籠淵の三淵がある。『大原物語』(原典不詳)はいう。昔、京の女が若狭の小浜に嫁いだが、夫に恨むことがあって、ここまで逃れてきて大原川の水底に沈んでしまった。そこを女郎淵という。その後、夫が馬に乗って通りかかると大蛇が出て、馬もろとも水底に引っ張りこもうとしたが、夫はなんとかこれを凌いだ。そこを馬守淵という。又、そこを通りかかると大蛇が出たので従者が石を打ちかけると大蛇は退散した。そこを石籠淵という。それより大蛇は蛇井出村の大淵という池に棲んで、時折里に出て人に危害を加えた。時には昼夜を分かたず大暴れするので、男女一所に集まって臥して隠れるようになった。これを大原雑魚寝という。しまいに山門の法力で大蛇は退治された。今も毎年正月、来迎院・勝林院の僧徒が法事をしている。里人が集まり、勝林院の堂の天井に蛇の形を書いて天井から白布二三反結び下げ、男女これに取り付く。太鼓や鐘を鳴らして踊るのである。踊り終わると白布を切って人々に分け配る。これは蛇を退治した真似という。
■文人、大原雑魚寝を好む それがいつのまにか、節分の夜に江文神社の拝殿に村の男女が集まってきて、灯を消して一晩通夜する行事になった。この雑魚寝、日本全国に有名だったらしく、文人が競って物語や歌に詠んでいる。井原西鶴も大原雑魚寝に大いに関心を示して、『好色一代男』の主人公世ノ介に節分の夜、江文神社の拝殿に忍び込ませて取材させている。世ノ介は、節分の夜が明けた翌日、杖を撞いて拝殿から出てきた老婆がしばらくしていきなりしゃんと歩き出したのを見て不思議に思い、後を付けたら、たいそうな美女だった。わけを聞くと、村の男が大勢言い寄ってくるのがいやで、老婆に変装していたという。世ノ介が京につれて帰ろうとしたら、村人が大勢追いかけてきた。何とかこれをかわして、女を連れて京に逃げ帰って同棲したものの、半年間ほどで金を使い果たしてしまい、女をほうりだして遁走したというのである。
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江文神社拝殿
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④おつうが森
草生町の野村から寂光院に入る道の北西角にある小さな森で、「乙が森」ともいう。おつうの伝説では、退治された大蛇の霊を鎮めるため、この森に頭部を埋葬したと伝えられている。花尻の森と同様の行事が今に残されている。森の中には、「竜王大明神」と記した割合大きな石碑がある。名前からして水神であることは確かだが、その由来は分からない。 |
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おつうが森 |
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汀の桜と千年姫小松
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⑤汀の桜(寂光院)
寂光院の庭園の「汀の池」のそばにある小振りな桜をいう。寂光院は建礼門院(1155~1213)ゆかりの寺。ここで門院の生涯を簡単にみておこう。門院は平清盛の女で名は徳子、後白河法皇の猶子として高倉天皇の中宮になり、安徳天皇を出産。木曽義仲の上洛により平家一門とともに西国に都落ち。文治元年(1185)三月壇ノ浦の合戦で入水したが、源氏に助けられて帰洛。吉田山のほとりで出家後、寂光院の傍らに草庵を結んで隠棲し、安徳天皇の冥福を祈りながら念仏三昧の余生を送る。陵墓は寂光院の南方の大原西陵。文治二年(1186)春、訪れた後白河法皇と往時を回顧して涙した話は、『平家物語』の「大原御幸」で有名。「大原御幸」のとき女院は花摘みに外出していたが、後白河法皇が「汀の池」の傍らにあった青葉交じりの遅桜を見て、「池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなれ」と詠んだことに由来するという。この歌は、千載和歌集に後白河法皇の御製として「皇子におわしましける時、鳥羽殿に渡らせ給へる頃、池上花といへる心をよませ給へる」として載っていることから、平家物語の作者がそのまま転用したもの。『平家物語』は寂光院の周囲の景観を、「ふりにける岩の絶え間より、落とくる水の音さへ、故び由ある所なり。緑蘿の墻、翠黛の山、書に書くとも筆も及び難し」と表現している。翠黛の山は、寂光院のすぐ西にある標高577メートルの山で、昔は小塩山と呼ばれていたが現在では、『平家物語』にちなみ翠黛山(大原十名山の一つ)と名付けられている。 |
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⑥千年姫小松(寂光院)
「汀の桜」のそばにある倒木防止処置を施された古松をいう。「汀の桜」と同様、『平家物語』ではこの名松を「池のうきくさ浪に漂ひ、錦を曝すかと謬たる。中嶋の松にかかれる藤浪の、うら紫に咲ける色」と表現した。この樹齢千年の名木も平成十二年五月に発生した本堂の火災により傷みが激しくなり、平成十六年夏に枯死してしまった。現在は御神木として祀られている。
⑦朧の清水
大原草生町の寂光院から三千院に至る近道の路傍左手にある。それほど大きくはないが、石垣の内に清らかな水を湛えている。数々の古歌に詠まれた名泉も、今では気息奄々たる状況で少し頼りないが、それでも水が枯れていないのが何よりもうれしい。『平家物語』の「大原御幸」に「おぼろの清水月ならで御影や今に残るらん」と出ている。建礼門院がこの清水に身を写したところ、老い果てて見る影もない自分の姿に驚き悲しんだという。大原の名所として『雍州府志』、『山城名勝志』、『山州名跡志』などで取り上げられている。
とりわけ『都名所図会』は「むかしより名高き清水にして和歌に詠ずること数多し。つねに湛々として月の影は清水にやどりて澄み、清水はまた月の皎らかなるをうつして清く、良暹法師(12世紀。歌人)もこの池に幽棲して〝月も浮かまん大原や〞と吟じ、寂然法師(12世紀。歌人)は〝月をぞ宿す大原の里〞とながめしむかしも、いまさらに水の面にうかみ出づるようになん侍りける」と記す。
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朧の清水
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⑨涙の桜(三千院)
本来は、三千院客殿の池泉鑑賞式庭園・聚碧園の一点景になるべき桜樹。老衰して樹勢が弱いので分かりにくい。宸殿を出て、往生極楽院前の十字路を右へ曲がった突き当たりにあることを確認する。根の大半が露出しており、気息奄々とした状態にある。寺によると、毎年一つか二つの開花があったら良い方という。室町時代の歌僧頓阿(1289~1372。新拾遺和歌集の撰者)が、その友陵阿上人の極楽院旧宅を訪ねたとき、上人手植えの桜をみて「見るたびに袖こそ濡れる桜花涙の種を植えや置きけん」(草庵集巻十)と詠んだのにちなんで「涙の桜」とよばれたという。一説に西行法師の手植えともいう(『昭和京都名所図会』)。
⑮袈裟かけ石(宝泉院)
勝林院の西隣にある宝泉院の境内にある石をいう。名の由来は、『山州名跡志』に「大原村の北若狭路傍に在り。伝へ云ふ。皇慶法師大原山に居住の時、常随の護法童子、師の袈裟の穢れしを刹那の頃に天竺無熱池に行きて洗帰り、この石にかけ乾也。又云ふ。この袈裟空に絞るにその水落る所に忽ち清泉涌出す。叡山西谷の井房と云ふはこの所となり」とある。また『都名所図会』にも「勝林院村の西にあり。皇慶法師大原に住みたまひしとき、天童降りて、袈裟の穢れしを天竺の無熱池に飛び行きて濯ぎかへり、この石にかけしとなり」とある。経緯は分からないが、何らかの理由で現在地に移されたものであろう。

羅漢橋 |
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⑯羅漢橋
来迎院の門前に架かる橋をいう。現在の橋は無銘。実用本位のコンクリート製なので面影はまったくない。『山州名跡志』に「来迎院の前石橋也。伝へ云ふ。昔この橋上に十六人の羅漢現ぜり。故に名と為す也」とあり、『拾遺都名所図会』にも「来迎院の前の石橋をいふ。むかしこの橋に十六羅漢現じたまふとなん」とある。 |
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⑰獅子石(来迎院)
来迎院の境内にある。良忍上人(1072~1132)が文殊の法を行ったら、庭の大石が獅子となって駆け吼えたと伝わる。「獅子飛び石」ともいい、境内には「獅子飛石」と記した標石がある。鎮守堂の後にある苔むした小振りの岩で、一見獅子に見えないこともない。来迎院の略縁起では「獅子が良忍上人の唱える声明の調べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った」とある。『拾遺都名所図会』にも「獅子石は融通寺堂前の右にあり。良忍上人ここにて文殊の秘法を修せらるとき、この石、獅子と化して踊りめぐり、声を発せしとなり。元亨釈書に出づ」とある。
⑱音無の滝
来迎院門前から大尾山登山道を東へ約300メートル、小野山の中腹にある涼やかな滝をいう。落差はおよそ20メートル。水は岩肌を二筋に穿ち滝口で合流して一筋になっている。岩肌を這って流れているので水音は軽やかだ。『枕草子』にも「滝は、音無の滝」とあり、古来、歌枕の名所として著名であった。「大原里づくり協会」が立てた説明板には、「聖応大師良忍上人は、来迎院を建立して天台声明(しょうみょう。仏教の儀式音楽)や融通念仏宗を興した高僧。上人がこの滝に向って声明の修業をしていると滝の音と声明の音が和して、ついには滝の音が聞こえなくなったという故事からこの名がある」と記す。一説に良忍上人が滝の音に声明が乱されるのを嫌い、呪術で滝の音を封じ込めたという。
『雍州府志』に「勝林院の東の山に在り。瀑水、岩の腹に傍いて流る。故に、近く之を聴くとも水音無し」とある。『山城名勝志』は「太平記に云う音無の滝、不動堂白鳥のそばにあり。明月記に云う花鳥餘情のあるところ。『源氏物語』に「朝夕に鳴く音を断つる小野山は絶えぬ涙や音無しの滝」、『山州名跡志』では、「小野山来迎院より一町ばかり東あって西に落つる。和歌に詠ず」、『都名所図会』では、「来迎院の西四町にあり。飛泉二丈余にして翠岩に傍ふて南に落つる。蒼樹蓊鬱として陰涼こころに徹し、毛骨悚然として近づきがたし」と記す。
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音無の滝
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蛇捨藪(左側)
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⑲蛇捨藪
大長瀬町にある浄土宗の寺、摂取院の前にある竹薮をいう。摂取院(蛇道心寺。蛇寺ともいう)は正暦二年(991)の創建。開山の浄住が首に取り付いていた蛇を捨てたという竹藪で、今でも現存している。『山州名跡志』に次のような話が記されている。
開山の浄住は在家のころ妻の妹と密通し、苦しんだ妻が悶死してしまう。その怨霊が小蛇となって首にまといつき、離れようとしない。浄住は前非を悔いて出家し、この地に草庵を結んで亡妻の冥福を祈ったところ、晩年になってやっと蛇が首から離れたという。これにより村人は浄住を蛇道心、寺を蛇寺と呼んだという。女に祟られた男が参詣すると厄を免れる御利益があるという。
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⑳大原香水
大原上野町の旧家久保家の邸内にある井泉をいう。天長年間(824~34)弘法大師の霊感により、その高弟真済が悪疫を祓うために掘り出したものといい、爾来井泉の傍らに一宇を建て薬師瑠璃光如来を安置したという。この井泉は普段は水が湧かないが、毎年一回旧暦の六月十六日だけ午前二時から午後まで湧出するという。「せんき水」あるいは「お稲荷様の水」ともいい、この水を飲むと疝気・癪気に霊験があるという。当日は井戸から汲み上げた水を安置している薬師瑠璃光如来にお供えした後、一般参詣者にも授与される。
一説では、この井泉は、むかし久保家の先祖が白狐の危難を救った報恩にこの奇瑞をあらわしたものという。伝説はいう。同家の祖先に当たる老女が留守居をしているとき、狐狩りに追われて一匹の老白狐が逃げてきた。老女は不憫に思い竈の下に匿ったら、恩を感じた白狐が翌日夢枕に立ち、お礼に一日だけ神の水を与えるので家の東べりに井戸を掘れと告げた。井戸を掘ると、以後毎年一日だけ清泉が湧き出したという。
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