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洛北
大原


大原の里

アクセス
JR京都駅中央口→京都バス大原行(60分)→花尻橋(スタート)→野村別れ(ゴール)→京都バス京都駅行(60分)→JR京都駅

歩行距離等
●歩行距離:10キロ
●所要時間:5時間

■大原郷の歴史 左京区東北部、高野川上流八瀬以北の山間部一帯の地名。地名は慈覚大師円仁がこの地を天台声明の根本道場とし、魚山大原寺(今の勝林院)を建立したのにちなむ。平安・鎌倉時代は勝林院・来迎院・三千院など天台宗の修行地であった。近世では、若狭街道に面する宿駅的性格も有したが、大原女の柴売りにみられるように、薪炭生産を生業とした。

■大原の名所 『都名所図会』は、寺院では勝林院・来迎院・梶井宮円融院梨本坊(三千院)・寂光院など、旧跡では惟喬親王遺跡・音無の滝・世和(せが)()の清水・(おぼろ)の清水など、神社では江文神社を紹介する。(左は熊谷腰掛石)



不思議

 大原の里にまつわる不思議は多いが、本書では、建礼門院にまつわるもの3件、蛇にまつわるもの4件、水にまつわるもの7件、仏教にまつわるもの6件、あわせて20件の不思議を取り上げた。


花尻の森

①花尻の森

大原の南の入口にあたる戸寺町の南端にある。国道367号に架かる花尻橋の北東隅にある小さな森で、落ち着いた佇まいを見せている。現在は江文神社の御旅所で、小祠がある。藪椿が多く、春には落椿の名所となる。おつうの伝説(詳しくは大原雑魚寝に記す)では、退治された大蛇の霊を鎮めるため、この森に尻尾を埋葬したと伝えられている。「波那(はな)志里(じり)(もり)」ともいい、『拾遺都名所図会』によると、江文神社の境外末社である源太夫社があったという。今でも一月十日、地区の住民が大蛇にみたてた灌頂を釣る(「灌頂釣り」という)という行事が残されている。源太夫社の名の由来は、源頼朝が寂光院に隠棲した建礼門院の動静を監視させたという松田源太夫の屋敷跡にちなむ。小堂に鎌倉期の阿弥陀石仏が安置されている。

②大原雑魚寝(江文神社)

井出町の集落を通り過ぎた金比羅山(572メートル)の東麓にある江文神社において、大蛇の難を避けるため毎年節分の夜に行われていた参籠行事であったという。一村の男女が一ヶ所に集まり、灯を消して臥し寝るのは風紀上いかがわしいとして、明治以前に禁止されたと伝える。江文神社は(うが)()(みたまの)(みこと)を祭神とする大原郷の氏神。今は老朽化して立入禁止となっているが、雑魚寝の舞台となったという長屋のような一風変わった長方形の拝殿が現存しており、それらしき雰囲気がある。五月四日に江文祭、九月一日に八朔祭が執り行われる。八朔踊りは大原に残る伝統芸能で、絣の着物に菅笠を被った宮座の青年男女が輪になって、道念音頭(楽器を用いない独特の節回し)で豊作祈願をするものだ。京都市の重要無形民俗文化財。

■大原雑魚寝の由来(『山州名跡志』) 大原川の和田橋(現存)の下流に女郎淵、馬守淵、石籠淵の三淵がある。『大原物語』(原典不詳)はいう。昔、京の女が若狭の小浜に嫁いだが、夫に恨むことがあって、ここまで逃れてきて大原川の水底に沈んでしまった。そこを女郎淵という。その後、夫が馬に乗って通りかかると大蛇が出て、馬もろとも水底に引っ張りこもうとしたが、夫はなんとかこれを(しの)いだ。そこを馬守淵という。又、そこを通りかかると大蛇が出たので従者が石を打ちかけると大蛇は退散した。そこを石籠淵という。それより大蛇は蛇井出村の大淵という池に棲んで、時折里に出て人に危害を加えた。時には昼夜を分かたず大暴れするので、男女一所に集まって臥して隠れるようになった。これを大原雑魚寝という。しまいに山門の法力で大蛇は退治された。今毎年正月来迎院・勝林院の僧徒が法事をしている。里人集まり、勝林院の堂の天井に蛇の形を書いて天井から白布二三反結び下げ男女これに取り付く。太鼓や鐘を鳴らして踊るのである。踊り終わると白布を切って人々に分け配る。これは蛇を退治した真似という。

■文人、大原雑魚寝を好む それがいつのまにか、節分の夜に江文神社の拝殿に村の男女が集まってきて、灯を消して一晩通夜する行事になった。この雑魚寝、日本全国に有名だったらしく、文人が競って物語や歌に詠んでいる。井原西鶴も大原雑魚寝に大いに関心を示して、『好色一代男』の主人公世ノ介に節分の夜、江文神社の拝殿に忍び込ませて取材させている。世ノ介は、節分の夜が明けた翌日、杖を撞いて拝殿から出てきた老婆がしばらくしていきなりしゃんと歩き出したのを見て不思議に思い、後を付けたら、たいそうな美女だった。わけを聞くと、村の男が大勢言い寄ってくるのがいやで、老婆に変装していたという。世ノ介が京につれて帰ろうとしたら、村人が大勢追いかけてきた。何とかこれをかわして、女を連れて京に逃げ帰って同棲したものの、半年間ほどで金を使い果たしてしまい、女をほうりだして遁走したというのである。


江文神社拝殿


真守の井

③真守の井((さね)(もり)(かな)盤石(とこいし))

大原野村町から草生町に至る道の路傍の左手にある。小さな井泉であるが、今なお水をたたえている。そばには刀を鍛えたという平らな鉄盤石も残されている。『山州名跡志』に「草生村の東、野村の内北の山下にあり。伝え云う。この所、鍛冶真守が宅地なり。よって大原真守と号す」とある。『昭和京都名所図会』は「真守は伯耆国大原在住の刀工で、代々大原真守を号した。初代は平家重代の名刀「(ぬけ)(まる)(国宝)の作者と伝えられる平安後期の刀工であるが、大原に在住したという文献的資料はない。たまたま大原の地名と同じくすることから、このような伝説が生まれたものであろう」とする。一方『京都民俗志』は「三条小鍛冶宗近が刀を鍛えた〝小鍛冶の水〞といい、地元では正月には注連縄をかける。水際には、平清盛鉄盤石というのがある。大原の安達氏は宗近の子孫と伝え、明治以前は若狭の大名が通行する時、同家の前だけは下馬したと伝える」という。

④おつうが森
 草生町の野村から寂光院に入る道の北西角にある小さな森で、「乙が森」ともいう。おつうの伝説では、退治された大蛇の霊を鎮めるため、この森に頭部を埋葬したと伝えられている。花尻の森と同様の行事が今に残されている。森の中には、「竜王大明神」と記した割合大きな石碑がある。名前からして水神であることは確かだが、その由来は分からない。

おつうが森


汀の桜と千年姫小松
(みぎわ)の桜(寂光院)
  寂光院の庭園の「汀の池」のそばにある小振りな桜をいう。寂光院は建礼門院(11551213)ゆかりの寺。ここで門院の生涯を簡単にみておこう。門院は平清盛の(むすめ)で名は徳子、後白河法皇の猶子(ゆうし)として高倉天皇の中宮になり、安徳天皇を出産。木曽義仲の上洛により平家一門とともに西国に都落ち。文治元年(1185)三月壇ノ浦の合戦で入水したが、源氏に助けられて帰洛。吉田山のほとりで出家後、寂光院の傍らに草庵を結んで隠棲し、安徳天皇の冥福を祈りながら念仏三昧の余生を送る。陵墓は寂光院の南方の大原西陵。文治二年(1186)春、訪れた後白河法皇と往時を回顧して涙した話は、『平家物語』の「大原御幸」で有名。「大原御幸」のとき女院は花摘みに外出していたが、後白河法皇が「汀の池」の傍らにあった青葉交じりの遅桜を見て、「池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなれ」と詠んだことに由来するという。この歌は、千載和歌集に後白河法皇の御製として「皇子におわしましける時、鳥羽殿に渡らせ給へる頃、池上花といへる心をよませ給へる」として載っていることから、平家物語の作者がそのまま転用したもの。『平家物語』は寂光院の周囲の景観を、「ふりにける岩の絶え間より、落とくる水の音さへ、故び由ある所なり。緑蘿(りょくら)(かき)(すい)(たい)の山、書に書くとも筆も及び難し」と表現している。翠黛の山は、寂光院のすぐ西にある標高577メートルの山で、昔は小塩山と呼ばれていたが現在では、『平家物語』にちなみ翠黛山(大原十名山の一つ)と名付けられている。

⑥千年姫小松(寂光院)
「汀の桜」のそばにある倒木防止処置を施された古松をいう。「汀の桜」と同様、『平家物語』ではこの名松を「池のうきくさ浪に漂ひ、錦を(さら)すかと(あやま)たる。中嶋の松にかかれる藤浪の、うら紫に咲ける色」と表現した。この樹齢千年の名木も平成十二年五月に発生した本堂の火災により傷みが激しくなり、平成十六年夏に枯死してしまった。現在は御神木として祀られている。


(おぼろ)の清水

大原草生町の寂光院から三千院に至る近道の路傍左手にある。それほど大きくはないが、石垣の内に清らかな水を湛えている。数々の古歌に詠まれた名泉も、今では気息奄々たる状況で少し頼りないが、それでも水が枯れていないのが何よりもうれしい。『平家物語』の「大原御幸」に「おぼろの清水月ならで御影や今に残るらん」と出ている。建礼門院がこの清水に身を写したところ、老い果てて見る影もない自分の姿に驚き悲しんだという。大原の名所として『雍州府志』、『山城名勝志』、『山州名跡志』などで取り上げられている。

とりわけ『都名所図会』は「むかしより名高き清水にして和歌に詠ずること数多し。つねに湛々として月の影は清水にやどりて澄み、清水はまた月の(あき)らかなるをうつして清く、良暹(りょうせん)法師(12世紀。歌人)もこの池に幽棲して〝月も浮かまん大原や〞と吟じ、寂然法師(12世紀。歌人)は〝月をぞ宿す大原の里〞とながめしむかしも、いまさらに水の(おも)にうかみ出づるようになん侍りける」と記す。


朧の清水


和田のお地蔵さん

-2和田のお地蔵さん

 高野川に架かる和田橋の北約100メートルの旧若狭街道ぞいに、半厚肉彫の阿弥陀如来座像が鎮座している。人呼んで和田のお地蔵さんという。元々は三千院の翁地蔵の傍に鎮座していたが、あるとき翁地蔵と大喧嘩。翁地蔵の耳を食いちぎって、現在地に遷座したという。表面は風化しているが、古色を帯びてなかなか風情のある古石仏である。



瀬和井の清水
瀬和(せが)()の清水

三千院の東南隅に「三千院門跡」と記した大きな石柱があり、その傍らにある方60センチぐらいの泉をいう。昔は六帖敷ぐらいの大きさがあり、こんこんと清水が湧いていたというが、今は僅かにそれらしき旧跡をとどめているに過ぎない。案内表示もないが、小さな石仏が安置されており、少しは清水も湧いているようだ。もとは不滅不増の清水で、産婦が乳の出のわるいとき、祈願をしてこの水を拝服すると乳が多量にでるようになるという信仰があった。『都名所図会』は「世和井水」という。歌枕の名所として数多くの和歌が詠まれた。『京羽二重』や『名所都鳥』ではこの泉を「瀬井」と表しているが、江戸期には読み音が異ならなければどんな漢字で表記してもあまり目くじらをたてないといった習慣があった。


⑨涙の桜(三千院)

本来は、三千院客殿の池泉鑑賞式庭園・(しゅう)(へき)(えん)の一点景になるべき桜樹。老衰して樹勢が弱いので分かりにくい。宸殿を出て、往生極楽院前の十字路を右へ曲がった突き当たりにあることを確認する。根の大半が露出しており、気息奄々(きそくえんえん)とした状態にある。寺によると、毎年一つか二つの開花があったら良い方という。室町時代の歌僧頓阿(とんあ)(12891372。新拾遺和歌集の撰者)が、その友陵阿(りょうあ)上人の極楽院旧宅を訪ねたとき、上人手植えの桜をみて「見るたびに袖こそ濡れる桜花涙の種を植えや置きけん」(草庵集巻十)と詠んだのにちなんで「涙の桜」とよばれたという。一説に西行法師の手植えともいう(『昭和京都名所図会』)


       わらべ地蔵









-2わらべ地蔵(三千院)

 苔むした有清園の南端に鎮座している小さなお地蔵さん。合掌しているもの、何故か腹這いしているもの、首をかしげているもの二体、仲好く寄り添うもの二体、合わせて六体のお地蔵さんが参拝者を温かく見つめている。その姿や形が無垢な子どもを連想させることから、わらべ地蔵という。

-3翁地蔵(三千院)

 三千院境内の「あじさい苑」の奥の律川を渡ったところに鎮座。「大原の石仏」と呼ばれ、高さ2.25m。大きな自然石の表面に阿弥陀如来座像を厚肉彫で刻む。大きさといい、形といい京都では屈指の石仏である。今は亡き大女優の田中絹代のお気に入りで、大いに欲しがったという。

 また、この石仏は、翁地蔵とも呼ばれている。そのいわれはこうである。昔、三千院のそばの小野山の麓に一人の炭焼きの翁が住んでいた。その翁の焼く炭は天下一品で、都にもその名が及んでいたという。やがて翁が亡くなると、その技量を惜しんだ里人が窯の跡に地蔵像を造立して翁を偲んだという。このお地蔵さんに水を供えれば、子どもの夜尿症が治るという。


翁地蔵


⑩熊谷腰掛石・鉈捨藪

三千院の北、律川に架かる萱穂橋の左手前にある。後述する法然腰掛石よりやや小振りな岩であるが、腰掛けやすそうで、どことなく風情がある。熊谷蓮生坊(11411208鎌倉初期の武士。『平家物語』によると熊谷直実は、一ノ谷合戦で弱冠十五歳の平敦盛を討ち取って世の無常を悟り、法然を頼って出家する)は、師の法然が「大原問答」中、この石に腰をかけ法問の勝劣を聴聞したという。『山州名跡志』に「鉈捨藪は村より来迎院に至る路傍の左の藪也。伝へ云ふ。法然上人大原問答の時、熊谷蓮生坊法衣の下に鉈を指て師に供す。師若し論に負け玉はば、法敵の頭を討んの支度なり。師(はなはだ)制せる故に即棄し所なりと」とある。『都名所図会』も「鉈捨て藪は呂川の北にあり。大原問答のとき熊谷蓮生坊、鉈を袖に隠して法然上人に供す。蓮生のいわく、「師もし対論に負けたまはば法敵を討ち殺さんとの用意なり」と。師これを聞きておほいに制したまへば、鉈をこのところにすて置きしとなり。熊谷腰掛石は律川の橋南のつめにあり。蓮生坊このところに腰をかけて法問の勝劣を聴聞しなるけり」とある。なお、熊谷蓮生坊が法然上人に諭されて鉈を捨てた藪は、腰掛石の背後にあったといい、現在は茶店が建ち並んでいる。


熊谷腰掛石・鉈捨藪


萱穂橋

(かや)(ほの)(はし)(無明(むみょう)(ばし))

律川に架かかる擬宝珠を持つ朱塗りの木橋をいう。この橋は、三千院の方から渡れば無明橋、勝林院の方から渡れば萱穂橋と二つの名を有している。面白いのは、罪悪人はこの橋を渡ることができないといわれていることである。『山州名跡志』や『拾遺都名所図会』に「萱穂橋は板橋なり。御所の北に有り。名義不詳。この橋、紀州高野山の御廟の橋、奥州松嶋五大堂の(おさ)(はし)に等しく造悪不善の輩は渡ることを得ず也。毎歳一二人あり。土人皆みるなり」と記されている。一方『京羽二重』では、この橋を「無明橋」と記してはいるが、前二書と同様、罪悪の人はこの橋を渡ることができないと記す。

⑫法然腰掛石

勝林院の門前の左手にある。「法然上人腰掛石」と記した石柱があり、丸みを帯びた石で回りを囲ってある。惜しむらくは説明板がないので、この石がどのような意味を有しているのかわからない。この石が勝林院の前にあるのは、文治二年(1186)勝林院で法然上人と天台宗の高僧顕真が浄土宗の専修念仏を巡って争論したという「大原問答」と関係があるというよりは、法然が勝林院本尊を崇敬していたことに関係があるようだ。『山州名跡志』に「来迎院の西にあり。伝に云ふ。上人、勝林院本尊に参詣のときは、かならずこの石上にやすらひたまふとなん」とあるし、『拾遺都名所図会』にも「羅漢橋の西に在り。伝へ云ふ。上人勝林院の本尊に参詣のとき休息の所なりと」とある。熊谷腰掛石よりも大きくて座り心地が良さそうなのが少し微笑ましい。


法然腰掛石


来迎橋(正面)

来迎(らいごう)(ばし)

勝林院の門前に架かる石橋をいう。『山州名跡志』に「来迎(らいこうの)(ばし)は切石の橋也。欄干銅の擬宝珠。萱穂の北二十間許り有り。この橋、郷中に新死の者有れば葬送の時先つこの橋上に棺を()()て。堂の如来前に灯明を照して、本尊の御手(みての)(いと)(ぜんのつな)(むすび)(あわ)せて(しゅ)(がん)回向(えこう)するなり」とある。『拾遺都名所図会』にも同様の記述がある。

⑭菩提樹(勝林院)

本堂前にある一対の菩提樹をいう。菩提樹は江戸期には珍しい木として珍重されたという。『京都民俗志』に「唐より将来と伝える。堂前に一対あったが近年東方のは枯れた」とあるが、現在は復旧されたとみえて、手入れの行き届いた形のよい菩提樹が本堂の両脇を一服の絵のようにきりっと固めている。寺の略縁起に記載されておらず、表示もないので知る人ぞ知るような現況である。


菩提樹



⑮袈裟かけ石(宝泉院)
  勝林院の西隣にある宝泉院の境内にある石をいう。名の由来は、『山州名跡志』に「大原村の北若狭路傍に在り。伝へ云ふ。皇慶法師大原山に居住の時、常随の護法童子、師の袈裟の穢れしを刹那の頃に天竺無熱池に行きて洗帰り、この石にかけ乾也。又云ふ。この袈裟空に絞るにその水落る所に忽ち清泉涌出す。叡山西谷の井房と云ふはこの所となり」とある。また『都名所図会』にも「勝林院村の西にあり。皇慶法師大原に住みたまひしとき、天童(くだ)りて、袈裟の穢れしを天竺の無熱池に飛び行きて(すす)ぎかへり、この石にかけしとなり」とある。経緯は分からないが、何らかの理由で現在地に移されたものであろう。


羅漢橋
⑯羅漢橋
 来迎院の門前に架かる橋をいう。現在の橋は無銘。実用本位のコンクリート製なので面影はまったくない。『山州名跡志』に「来迎院の前石橋也。伝へ云ふ。昔この橋上に十六人の羅漢現ぜり。故に名と為す也」とあり、『拾遺都名所図会』にも「来迎院の前の石橋をいふ。むかしこの橋に十六羅漢現じたまふとなん」とある。


獅子(しし)(せき)(来迎院)

来迎院の境内にある。良忍上人(10721132)が文殊の法を行ったら、庭の大石が獅子となって駆け()えたと伝わる。「獅子飛び石」ともいい、境内には「獅子飛石」と記した標石がある。鎮守堂の後にある苔むした小振りの岩で、一見獅子に見えないこともない。来迎院の略縁起では「獅子が良忍上人の唱える声明の調べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った」とある。拾遺都名所図会』にも「獅子石は融通寺堂前の右にあり。良忍上人ここにて文殊の秘法を修せらるとき、この石、獅子と化して踊りめぐり、声を発せしとなり。元亨釈書に出づ」とある。


(おと)(なし)の滝

来迎院門前から大尾山登山道を東へ約300メートル、小野山の中腹にある涼やかな滝をいう。落差はおよそ20メートル。水は岩肌を二筋に穿ち滝口で合流して一筋になっている。岩肌を這って流れているので水音は軽やかだ。『枕草子』にも「滝は、音無の滝」とあり、古来、歌枕の名所として著名であった。「大原里づくり協会」が立てた説明板には、「聖応大師良忍上人は、来迎院を建立して天台声明(しょうみょう。仏教の儀式音楽)や融通念仏宗を興した高僧。上人がこの滝に向って声明の修業をしていると滝の音と声明の音が和して、ついには滝の音が聞こえなくなったという故事からこの名がある」と記す。一説に良忍上人が滝の音に声明が乱されるのを嫌い、呪術で滝の音を封じ込めたという。

『雍州府志』に「勝林院の東の山に在り。(たき)水、岩の腹に()いて流る。故に、近く之を聴くとも水音無し」とある。『山城名勝志』は「太平記に云う音無の滝、不動堂白鳥のそばにあり。明月記に云う花鳥餘情のあるところ。『源氏物語』に「朝夕に鳴く音を断つる小野山は絶えぬ涙や音無しの滝」、『山州名跡志』では、「小野山来迎院より一町ばかり東あって西に落つる。和歌に詠ず」、『都名所図会』では、「来迎院の西四町にあり。()(せん)二丈余にして翠岩(すいがん)()ふて南に落つる。蒼樹(そうじゅ)(おう)(うつ)として(いん)(りょう)こころに徹し、毛骨悚(もうこつしょう)(ぜん)として近づきがたし」と記す。


音無の滝


蛇捨藪(左側)

⑲蛇捨藪

 大長瀬町にある浄土宗の寺、摂取院の前にある竹薮をいう。摂取院(蛇道心寺。蛇寺ともいう)正暦(しょうりゃく)二年(991)の創建。開山の浄住が首に取り付いていた蛇を捨てたという竹藪で、今でも現存している。『山州名跡志』に次のような話が記されている。

開山の浄住は在家のころ妻の妹と密通し、苦しんだ妻が悶死してしまう。その怨霊が小蛇となって首にまといつき、離れようとしない。浄住は前非を悔いて出家し、この地に草庵を結んで亡妻の冥福を祈ったところ、晩年になってやっと蛇が首から離れたという。これにより村人は浄住を蛇道心、寺を蛇寺と呼んだという。女に祟られた男が参詣すると厄を免れる御利益があるという。


⑳大原香水

大原上野町の旧家久保家の邸内にある井泉をいう。天長年間(82434)弘法大師の霊感により、その高弟真済が悪疫を祓うために掘り出したものといい、爾来井泉の傍らに一宇を建て薬師瑠璃光如来を安置したという。この井泉は普段は水が湧かないが、毎年一回旧暦の六月十六日だけ午前二時から午後まで湧出するという。「せんき水」あるいは「お稲荷様の水」ともいい、この水を飲むと疝気・癪気に霊験があるという。当日は井戸から汲み上げた水を安置している薬師瑠璃光如来にお供えした後、一般参詣者にも授与される。

一説では、この井泉は、むかし久保家の先祖が白狐の危難を救った報恩にこの奇瑞をあらわしたものという。伝説はいう。同家の祖先に当たる老女が留守居をしているとき、狐狩りに追われて一匹の老白狐が逃げてきた。老女は不憫に思い竈の下に匿ったら、恩を感じた白狐が翌日夢枕に立ち、お礼に一日だけ神の水を与えるので家の東べりに井戸を掘れと告げた。井戸を掘ると、以後毎年一日だけ清泉が湧き出したという。



コラムその2 熊谷蓮生坊の話
出家前の名は熊谷次郎直実。武蔵国熊谷郷の在地武士で、治承四年(1180)石橋山の戦いでは平家方であったが、のち源頼朝に従い佐竹追討の戦功で熊谷郷を安堵された。しかし、一族との領地争いに敗れて出家、法然の弟子になり蓮生坊と称した。『平家物語』に、一ノ谷合戦で弱冠十五歳の平敦盛を討ち取って世の無常を悟り、法然を頼って出家するとあるが、これは史実と異なる。また、蓮生坊は、法然が浄土宗の正当性を巡って天台宗の高僧顕真と勝林院で争論した「大原問答」(大原談義ともいう)に随行したというが、大原問答は文治二年(1186)、蓮生坊が法然の弟子になったのは建久三年(1192)であり、これも史実と異なる。しかし、もとが武士であった蓮生坊の激しく、また一途な気性は、周囲の僧たちを驚かせたことは想像に難くない。


大原不思議探訪順路(イメージ)



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