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洛中
新京極


新京極のたらたら坂

アクセス
JR京都駅中央口→市バス205系統(13分)→河原町三条→たらたら坂(スタート)→裸の地蔵菩薩(ゴール)→四条河原町→市バス205系統(11分)→JR京都駅
歩行距離等
●歩行距離:1キロ
●所要時間:1時間


三条から四条まで寺町通の東を南北に走る道路を新京極通という。天正年間(157392)豊臣秀吉は、誓願寺など主として浄土・日蓮・時宗に属する多数の寺院を、旧東京(ひがしきょう)(ごく)大路(おおじ)の東側に強制移転させ、寺町を造った。明治五年、当時の槇村正直京都府参事(後に第二代京都府知事)は、東京遷都後に寂れた京都の復興を図るため、寺地の一部を収公して南北五百メートルの通りを開き、「新京極」と称する歓楽街を造った。その後、明治四十一年には南電気館をはじめとして続々と映画館が建ち、その賑わいは周辺地域に及んだ。戦後は観光客向けの土産品店が多く立地していたが、近年、ファッション性の高い衣類や装身具などを商う商店が集積し、装いを一新した。

不思議

①たらたら坂

三条通から新京極通に入るところが、高低差1メートル足らずの緩やかな坂になっていて、「たらたら坂」という。すぐ西の寺町通にも坂はないのに、ここだけある。天正十八年(1590)豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋を作らせた際、橋梁を高くしてこの橋に至る三条通を堤にした名残という。


長仙院

②未開紅(長仙院)

誓願寺の裏手にある長仙院(浄土宗の寺。誓願寺の塔頭)の春日大明神の前にある梅をいう。蕾の間は紅色なのに、蕾が開くと白い花が咲く「未開紅」という珍しい梅。『雍州府志』に「その花、開かんと欲する時、その色、甚だ紅なり。世に未開紅と称す。春初、洛人の奇観なり。未開の時より散乱の日に至りて男女群り集る」と記し、また『名所都鳥』に「いまだ開かざるに。くれないなる謂なり。開落ともに都鄙の男女むらがりて、詩歌を詠じてもてあそぶ名木なり」とあるなど、江戸期の地誌がこぞって賞賛した名木である。

③迷子道しるべ(誓願寺)

 誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山。本尊の阿弥陀如来は京洛六阿弥陀の一つ。「迷子道しるべ」は新京極通に面した山門の左手前にある。高さ2.6メートル幅40センチメートルの割合大きな石標で、正面に「迷子道し留偏」、右側に「おしゆる方」、左側に「たずぬる方」と彫ってある。新京極が京都最大の歓楽街になって迷子が続出したため、明治十五年に建立された。人の縁を取り持つ月下氷人になぞらえて「月下氷人石」ともいわれる。ちなみにこうした月下氷人石は、八坂神社と北野天満宮にもある。

中央の石柱が迷子道しるべ石

④扇塚(誓願寺)

 世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、熊野参詣で御札を全国に広めよという霊告を受けた一遍上人が、布教のため誓願寺にやってきて歌舞の菩薩となって現れた和泉式部に念仏の尊さを説く物語。歌舞には扇が欠かせないことから、境内に扇塚が作られたもの。また、江戸時代初期に誓願寺第五十五世安楽庵策伝上人が『醒睡笑』を著して落語の祖として仰がれていることも「扇子」との強い結びつきが窺われる。

         扇塚






和泉式部の墓

⑤和泉式部墓(誠心院(じょうしんいん))

 和泉式部(生没年不詳)は平安中期のすぐれた抒情歌人。「和泉式部集」や「和泉式部日記」を残す。誠心院は真言宗の寺で、藤原道長が法成寺東北院内の小御堂を和泉式部に与えたのに始まる。本尊の阿弥陀如来は、式部が仕えた上東門院藤原彰子(988~1074道長の長女。一条天皇中宮)の賜物と伝わる。寺名は式部の法名、「誠心院智貞法尼」にちなむ。本堂の左手に和泉式部の墓と伝える正和二年(1313年)の銘のある巨大な石造宝篋印塔(高さ3.4メートル)がある。


軒端(のきば)の梅(誠心院(じょうしんいん))

 同じく誠心院本堂の左手前にある小振りの梅の古木をいう。『雍州府志』に「和泉式部の墓あり。其の前の梅の樹、軒端の梅と称す」とある。和泉式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。傍らに和泉式部の小さな歌碑があるので、紹介しておこう。

 霞立つ春来にけりと 此花見るにぞ 鳥の声も待たるる 軒端梅


軒端の梅

軒端の梅の歌碑

   寅薬師のある西光寺

⑦寅薬師(西光寺)

 西光寺は浄土宗西山深草派で、本尊は阿弥陀如来像。その傍らに安置されている薬師如来像が寅薬師と称されているので、寺の通称名ともなっている。寺伝によると、この薬師如来は弘法大師。寅の日、寅の刻に成就したので寅薬師との異名がある。もともと宮中にあったのを弘安五年(1282)、勅により下賜されものという(『京都坊目誌』)。江戸期は、名薬師の一つ(『京羽二重』)、薬師十二所参第三番札所(『都すずめ案内者』)などとして庶民の信仰を集めた。昔から無病息災、病気平癒のご利益があるとされ、また、寅年生まれの人の守護仏として崇敬されている。


蛸薬師堂

⑧蛸薬師堂(永福寺)

永福寺は浄土宗西山深草派で、本尊は石造薬師如来像。この本尊を世に蛸薬師という。名薬師の一つで、薬師十二所参りの一つで知られている(『京羽二重』巻二、『都すずめ案内者』)。蛸には毛がないので、髪の毛が薄かったり縮れ毛の女が蛸の絵馬を奉納すると、髪が豊かになったり、縮れ毛が治るという信仰がある。

蛸薬師の名のいわれについては諸説がある。興味深いので、そのいくつかを紹介しておこう。

『山州名跡志』 養和年間(1181~82)に二条に裕福な商人がいた。病を得て、比叡山の根本中堂の薬師仏に詣でることが不可能になったので、代わりに従者を毎日参詣させていた。ある時、本尊薬師仏から、北谷の山中に埋れている薬師仏の石像を掘って拝むとよいという夢告があった。それで埋れていた石像を掘り出して毎日拝むと、忽ち病が治ったという。

『京童』・『京師巡覧集』・『出来斎京土産』 蛸屋という家の隅にある(から)(うす)の壺から夜な夜な光がさすので、不思議に思い掘ってみると、その石に薬師の御かたちがあった。蛸屋の薬師さまということで、蛸薬師になった。

『京童』・『出来斎京土産』・『山州名跡志』 比叡山の僧が老母を寺で養っていたところ、老母が重病になった。老母は蛸が好きだったのでそれを求めたが、魚肉を寺門に入れることは禁じられている。僧は、重病の母に孝養を尽くすのがなぜ悪いと思って、蛸を寺門に持ち込もうとしたところ、薬師如来が現れて蛸を経の巻物に変えてくれた。そのおかげで、老母に蛸を食させたところ、病を癒せることができた。この薬師を安置しているので、蛸薬師という。

『都名所図会』 本尊薬師を池中の島に安置したので、世に水上薬師と呼ばれた。また(たく)薬師(やくし)と称したが、後に誤って蛸薬師というようになった。










鯉地蔵堂

⑨鯉地蔵(永福寺)

 永福寺の入口を入って右手の厨子に安置されているのが鯉地蔵。長80センチぐらいでやや小ぶりな地蔵である。形どおりに左手に宝珠、右手に錫杖を握る。『京師巡見記』(作者不詳)の明和四年(1767)の条に「昔、東山義政の時代、或時、家僕使に行しに、状箱を河水に流し詮方無。常に此地蔵尊を信じけるに、仍て一心に祈願せしに、忽ち鯉魚と化し、状箱を銜へて河水に浮み、右の難を遁る。仍て鯉の地蔵尊と云ふ起源これあり」とある。江戸記には、鯉地蔵として民衆の信仰を集めた。


⑩逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀如来(安養寺)

 安養寺は浄土宗西山禅林寺派の寺で、俗に(さか)蓮華寺(れんげじ)という。本尊の阿弥陀如来の蓮台が逆さになっていることにちなむ。寺伝では、本尊造立に際し台座が三度も壊れたため、蓮弁を逆さにしたところ完成したという。また、女人は業深く、心中にある蓮華が逆さになっているため往生できないといい、こうした女人を救うために蓮弁を逆さにつけたともいう。『拾遺都名所図会』巻一に「この本尊の()(だい)、八葉の蓮華を(さかしま)になす。初め造立のとき、台をつねのごとくするに忽然として破ること三度に及ぶ。相議して(さか)蓮華(れんげ)となすに破るることなし。これすなわち女人胸中蓮華(さかしま)にあり。これを表して女人胸中引接(いんじょう)の相をあらはしたまふなり」とある。江戸期には女人往生如来として「十六名弥陀」の一つでもあった(『都すずめ案内者』)。


安養寺

 善長寺山門

⑪くさがみさん(善長寺)

善長寺は浄土宗西山禅林寺派に属する寺院で永正年間に忍想上人が建立。本尊の立江地蔵菩薩像は、阿波国(徳島県)立江寺(四国八十八箇所第十九番札所)に安置されている地蔵菩薩像を模刻したものと伝える。別名をくさがみ(疱神)さんといい、疱瘡(天然痘)が跋扈した江戸時代には、疱瘡よけのご利益があるとして信仰を集めた。また、同寺は江戸時代、上下寺町新四十八願寺の第二十九番札所(『都すずめ案内者』)として賑わった。一説には、江戸時代初期の寛文年間(166173)僧宝山が定めた洛陽四十八願所地蔵尊の第三十五番に選ばれたという。


錦天満宮の鳥居

⑫民家に食い込んだ鳥居(錦天満宮)

 社伝によると錦天満宮(祭神菅原道真)は、長保年間(999-1004)歓喜寺の鎮守として創建。豊臣秀吉が現在地の錦小路東端に移したのが社名になる。当社の石の明神鳥居は、新京極通から錦小路に入ってすぐにあるが、笠木・島木と(ぬき)が両側の民家に突き刺さっているように見える。

⑬神になった源融(錦天満宮)

錦天満宮の境内摂社塩竃神社の祭神は、源氏物語の主人公光源氏のモデルともいわれる源融(嵯峨天皇皇子)。源融の邸宅六条河原院跡地に歓喜光寺が創建された際、その鎮守として天満大自在天神とともに祀られた。栄耀栄華を尽くして往生した人物が祭神なのが珍しい。


  境内摂社塩竃社

日之出稲荷社の奴彌鳥居

奴彌(ぬね)鳥居(錦天満宮)

錦天満宮の境内摂社日之出稲荷神社にある鳥居。額束の両側に合掌状の破風(はふ)扠首(さす)(つか)をはめた特異な形状で、同種の鳥居は伏見稲荷大社の二ノ峰と三ノ峰の間にある荷田社しかない珍しいもの。昭和の初めに錦天満宮の宮司の発案でできた。









⑮裸の地蔵菩薩(染殿地蔵)
 染殿地蔵は、時宗・染殿院の俗称。本尊の地蔵菩薩は秘仏であるが、等身を上回る裸形の立像で、空海の作と伝える。文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)がこの菩薩に帰依して清和天皇を出産したと伝え、安産守護の信仰が生まれた。『京羽二重織留』に「染殿の后帰依仏なりと。これに依って染殿の地蔵と号す。本尊裸形の地蔵なり。今染色の商家これを信ず。染殿といへる号によつてなり。謬伝笑ひにたゆるものか」とある。江戸期には「二十一名地蔵」の一つに数えられた(『京羽二重』)。

染殿地蔵

新京極不思議探訪順路(イメージ)



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