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洛中
出水


出水にある華光寺の枯死した一代目時雨松

アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(23分)→千本出水→地福寺(スタート)→福勝寺(ゴール)→千本出水
歩行距離等
●歩行距離:1キロ
●所要時間:1時間

上京区の南部にある東西路。丸太町通の北、中立売通の南に位置。東は烏丸通の上京区桜鶴円町から、西は千本通の同区尼ヶ崎横町まで。江戸期から見える名で、かつて烏丸の西にあった湧泉が雨水でしばしばあふれ、道路に浸水したからという(『山州名跡志』、『京都坊目誌』)。平安京の近衛大路にあたる。

不思議

この地には、江戸初期ごろから寺が集まってきて、いつのまにか「出水の七不思議」が伝えられるようになった。

①地福寺の日限(ひぎり)薬師

上京区出水通六軒西入ル七番町にある真言宗醍醐寺派の寺。宝珠山と号す。本尊薬師如来。寺伝では、弘仁年間(810~24)僧真済が葛野郡安井村に創建し、享保十二年(1727)道空が現在地に移転したという。本尊の薬師如来は日限薬師と称し、小穴のあいた石に糸を通して奉納し四十九日間祈願すると、耳の聞こえないのが治るとされる。自然に穴のあいた石でないと霊験はないという。京都十二薬師の第五番札所。


両小袖門

②極楽寺の両小袖門

上京区七本松通出水下ル三番町にある浄土宗清浄華院末の寺。山号は金谷山。山門には小袖門が一つあるのが普通だが、この門にはなぜか左右に小袖門が付いているのが不思議だ。また同寺には、金谷水という名水がある。本堂左手奥の墓地に入ったところあり、豊臣秀吉が北野大茶湯で用いたという。山号はこの名水に由来する。また、この名水には勝井という異名もあり、この水を飲んで勝負事に挑むと必ず勝つという。お寺にお願いすれば頂ける。

③観音寺の泣く山門

上京区七本松通出水下ル三番町にある浄土宗の単立寺院。慈眼山と号す。本尊は阿弥陀如来。江戸期には洛陽三十三所観音の第二十七番札所(『京羽二重』)。慶長十二年(1607)梅林和尚が一条室町に創建。その山門は、伏見城の牢獄の門を移築したものといい、門前で罪人を百回たたいて釈放したので、「百叩きの門」と恐れられた。今でも、この門のくぐり戸が風で開く時、人の泣き声がするという。またこの門の扉は楠の一枚板でできており、大変珍しい。


泣く山門


西枕(右側)の寝釈迦

五劫院(ごこういん)の寝釈迦

上京区出水通六軒西入ル七番町にある浄土宗知恩寺派の尼寺。『京都坊目誌』に「宝暦年中(1751~1764)、僧喚誉開基す」とある。門のくぐり戸(小袖門)の上にある(かまち)の木目が、まるで釈迦が西枕で横たわっているように見える。

⑤光清寺の浮れ猫

上京区出水通六軒西入ル七番町にある臨済宗建仁寺派の寺。心和山慈眼院と号す。本尊聖観音。寛文九年(1669)伏見宮貞致親王が生母慈眼院殿心和清尼の菩提を弔うため、開山を杲山として創建。初め天台・華厳・真言・禅の四宗兼学道場で、声実庵と号した。宝永三年(1706)現寺名に改称。境内の弁天堂の南側に掲げられている「牡丹に三毛猫」の絵馬を俗に「浮れ猫」という。その由来はこうである。江戸後期、近辺の遊里から三味線の音が聞こえてくると、誘われるように猫が絵馬から浮れ出し、女性の姿になって踊り始めるのだった。それを見た人がいて、大騒ぎとなった。住職が不快に思い、法力で浮れ猫を絵馬に閉じ込めてしまった。その夜、衣冠束帯に威儀を正した武士が住職の夢枕に現れた。「私は猫の化身だが、あなたに封じ込められて苦しくてしかたがない。今後は、世間を騒がすことは決してしないので、許してもらえないか」と嘆願した。住職は哀れに思い、法力を解いたという(以上駒札による)。本堂前庭の「心和の庭」と玄関前庭「心月庭」は、昭和の著名な作庭家重森三玲(1896~1975)により設計されたもので見応えがある。


浮れ猫の絵馬


二代目時雨松

華光寺(けこうじ)の時雨松

上京区出水通六軒西入ル七番町にある日蓮宗の寺。蓮金山と号す。本尊十界曼荼羅。天正十一年(1583)妙顕寺十二世日堯が豊臣秀吉の援助を得て創建。秀吉が伏見城内に祀っていた毘沙門天像を本堂に安置するほか、正応元年(1288)銘の銅鐘を所蔵。『都すずめ案内者』上に「洛陽法花二十一ケ所参」の第四番札所とある。境内には、晴れていても露が落ちるという秀吉手植の時雨松があったが、惜しくも大正初年に枯死。枯死した松の根は鐘楼に展示してある。現在、二代目の松が本堂右手に枝を伸ばしている。また同寺には、三十年前まで「五色の椿」と称する名椿があった。

⑦福勝寺の牡丹桜
 上京区出水通千本西入七番町にある真言宗善通寺派の寺院。本尊薬師如来。竹林山と号す。空海が河内国古市郡に創建。正嘉年間(1257~59)醍醐寺の僧覚済が京都に移した。以後皇室の尊宗厚く、後陽成天皇の勅願寺となる。後西天皇が御所の左近の桜を当寺に分栽して見事な花を咲かせたことから「桜寺」といわれた。当時の桜は惜しくも枯死したが、現在、本堂右手に二代目の桜が植わっている。同寺は、豊臣秀吉が武運長久を祈願して千成瓢箪を奉納したことから、瓢箪寺とも呼ばれる。江戸期、当寺の不動明王は牛皮不動という名で、名不動の一つに数えられた(『京羽二重』)。

牡丹桜




コラムその15 消えた応挙の幽霊

六軒町東入南側にある妙心寺派の玉蔵院にあったとされる不思議で、今も「出水の七不思議」の一つに取り上げている書物もある。由来はこうである。円山応挙(173395江戸中期の画家。円山派の創始者)が長崎に旅した時、京堺町三条下ルに住んでいた女子が誘拐されて遊女になっているのを発見。肺病を患い、やせ衰えた女を見て不憫に思い、その女の姿を掛軸に描いたものという。この遊女が幽霊にみえるというので、その掛軸に「応挙の幽霊」という名がついた。残念ながら、この掛軸は戦後のどさくさに紛れて紛失。応挙の花押もなかったので、応挙筆かどうかは分からないという。



























出水不思議探訪順路(イメージ)


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