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洛中
北野天満宮

本殿(国宝)




アクセス
JR京都駅中央口→市バス50系統(26分)→北野天満宮前
歩行距離等
●歩行距離:1キロ
●所要時間:1時間

■江戸期も梅の名所 (ゆき)()、藤、梅の名所であった。特に梅については、八重にして()(つよ)い匂紅梅、桃花に似て色(うす)(くれなひ)で大輪にして二月の末に開く(えびらの)梅、(がく)の緑なる白梅の上品な(がく)(りく)(ばい)などの名梅があったという(『都花月名所』)。現在も道真の祥月命日の二月二十五日に行われている梅花祭は、梅の甘い香りとそれを愛でる群衆で境内は一分の隙もない。さらに、東寺の弘法市(毎月21)と並んで毎月25日に行われる天神市には、古着や食べ物などを商う多数の露店が建ち、境内一帯は大いに賑わう(特に125日の天神市を「初天神」、1225日の天神市を「終い天神」という)

■文人墨客を集める 祭神の菅原道真は学問・文芸の神。古くから社前には文人墨客が集った。近世には毎月二十五日、連歌所で月次の連歌会が催されるなど連歌の中心地となった。有名な「北野大茶湯」は天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催し、千五百もの茶席が立てられた。慶長八年(1603)には、出雲阿国が社前で初めて歌舞伎を興行したので、歌舞伎発祥の地ともいう。

■歴史 上京区馬喰町にある神社。「北野の天神さん」として、昔も今も庶民に親しまれている。祭神は道真(845903)、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫人)。江戸期には、北野宮、北野の天神、天満宮、北野社、天満天神宮などとも称された。全国各地の天満宮・天神社の多くは当社より勧請されたもの。右大臣であった道真は昌泰四年(901)、時の左大臣藤原時平の讒言で大宰権師(だざいのごんのそち)に左遷され、延喜三年(903)に同地で没した。道真の没後、時平の不慮の死をはじめ、清涼殿への落雷など災異が続いたため、民衆は道真の怨霊の祟りとして恐れた。道真の怨霊を鎮めるべく、右大臣に復し正二位が追贈されたが、それでも効果はなかった。「北野天神縁起絵巻」によると天暦元年(947)多治比(たじひの)文子(あやこ)に道真から北野右近馬場に祀れとの託宣があり、そこに道真を祀ったという。また、近江比良宮の(みわの)良種(よしたね)の息子への託宣より、現在地に社殿を造営したともいう。永延元年(987)初めて北野祭を執行、「北野天神」の勅号を賜り、朝廷や藤原氏の崇敬を集めた。

■見どころ 現在の社殿は慶長十二年(1607)豊臣秀頼が片桐且元を奉行に再興したもので国宝。本殿と拝殿、石の間、楽の間を連ねた建築様式は、八ツ棟造(権現造ともいう)の代表例。鎌倉初期に描かれた「北野天神縁起絵巻」(国宝)は、道真の生涯と、死後のさまざまな災いが道真の怨霊の仕業と信じられて、天神信仰が生まれるまでの様子を描く。

江戸期の北野天満宮(都名所図会)

不思議
 当社では、神秘的で信仰の対象になっている影向松ほかの事象を七不思議としているので、先ずこれらを当社の説に従って紹介し、あと面白いものを付け加えておこう。


影向松
(よう)(ごう)(まつ)(七不思議)
 表参道の大鳥居(一の鳥居)をくぐってすぐ右手にある石の玉垣をめぐらせた一本の松をいう。毎年三冬(初冬より節分まで)の間に雪が降ると、天神が降臨し雪見の歌を詠むという。その時には、硯・筆・墨をお供えして初雪祭が行われる。道真は、天台座主尊意より仏舎利を得て、常に襟に掛けて護持していた。初雪の降った日に、この仏舎利が大宰府より飛来してきてこの枝にかかったといい、それ以降この松を影向松と呼ぶようになった。

『名所都鳥』に「北野経王堂の前に有。天神詫してのたまはく。初雪ふるときは、かならずこの松の上に来現すべしと。これゆへに松梅院をはじめ、八十余人の宮司素足にて、初雪の時この松を回りける。信あるものは必ず御神体を拝みけるとなん」とある。また、『都花月名所』には「初雪には、一夜松へ菅神影向ましますとて聖廟へ詣して詩歌を献る事は、古よりの流例として今もたへせず詣人多し。これ風雅の盛徳いちしるきなるべし」とある。)

北野細川の井(三斎の井戸)

参道を挟んで影向松の反対側にある茶席(しょう)(こう)(けん)の中にある。北野大茶湯のとき、細川三斎がこの井の水を使ったと伝える。『京羽二重織留』に「北野大茶湯の時、細川三斎影向の松の西に茶亭を構へ松向庵と号す。松にむかふの義なり。これより後、みづからの称号とせり」とある。このほか、楼門の右手前に「太閤井戸」と「北野大茶湯」の石碑もある。


細川の井
迷子のしるべ石










③迷子のしるべ石

 松向軒の庭、細川の井の右手奥にある。高さ約110センチ、一辺25センチの石柱で、向かって右面に「奇縁冰人石」、左面に「をしゆる方」とある。あとの二面は外から窺い知ることはできないが、一面に「たずぬる方」、もう一面に「()政壬午正月建立 米市 兵半」と記されている。文政五年は1822年にあたる。北野天満宮は、東の清水寺と並び江戸期には大いに賑わったので、こうしたしるべ石が建てられたようだ。しかし、いま何故、茶室の松向軒の中にあるのか不思議だ。

④東向観音寺五輪塔

松向軒の西側にある東向観音寺(本尊は菅原道真自作の十一面観音)本堂南側の植え込みの中にある。高さ約4.5メートルに及ぶ巨大なもので花崗岩製。火輪(笠石)に比べて空輪(宝珠)と風輪(請花)が大きいのが特徴である。傍らに「道真御母君 伴氏廟」と記した石柱が建っているが、作風から鎌倉時代のものとされる。『都名所図会』をみると、伴氏社のあるあたりに鳥居を前に鎮座しているが、「忌明塔」と表示されている。明治初頭の神仏分離令により、東向観音寺に移された。


東向観音寺五輪塔


石鳥居の蓮弁模様

(とも)氏社(うじしゃ)の石鳥居

三の鳥居の左手前にある伴氏社は道真の母を祭神とするが、その石鳥居は、礎石(亀腹または饅頭ともいう)に蓮弁が刻まれた珍しいもの。鎌倉時代のもので、重要文化財。『京都坊目誌』に「境内三の鳥居の傍ら東面にあり。旧北野石塔のありし所也。石塔を他に移し当社に之を祀ると。祭神伴氏乃ち菅神の母公にして。貞観十四年(872)正月十四日卒す。のちこの地に祀る」とある。蚕の社の三つ鳥居、京都御苑の厳島神社の唐破風鳥居と並んで京都三珍鳥居の一つ。

⑥一夜松社

楼門をくぐって左手奥にある。祭神は一夜千松の霊という一風変わった神様で、駒札に「北野天満宮創建に先立ち、自分を祀るべきは一夜にして松千本が生える所だという道真のお告げによって、この辺り一帯に生えた松に宿る神霊をいう」とある。『雍州府志』に「一夜松社は本殿の未申の方にあり。世人、なぎの宮と称す。天暦九年(955)三月十二日、神託して曰く、北野右近の馬場において、一夜に松千本すべからく生ずべしと。果たしてその言の如し。遂に社を建つ」とある。


一夜松社


連歌井戸

⑦連歌井戸

一夜松社の右手前方にある。江戸期には連歌井戸のあたりに連歌所があり、毎月二十五日月次(つきなみ)の連歌会が催されて、大いに賑わっていた。その連歌会の様子について『出来斎京土産』は、「誰とも知られず詣でくる人、顔を隠し声をかへて句をつづる。執筆は懐紙に筆とりそへ、声涸るばかりに終日吟じ暮す。行かかりてする句なれば指合のみおほく。をし返されて、うめきすめく人もあり。初心の輩、さし出て付合句がら心はせゆきたらずして。一座の笑ひくさとなるもあり。誠にこれ神慮を慰め奉る端ともならめや」と面白おかしく記している。連歌所は明治維新の際に廃止された。

⑧大黒天の石灯籠(七不思議)

三光門の右手前、傍らに賽銭箱のある石灯籠をいう。台座に大黒天像が刻まれており、その下に陰刻で「大黒組」と記されている。安政二年(1855)河原町正面にあった大黒屋を中心とする質商組合が奉納したもの。この大黒天の口(頬のようにも見える)に小石をのせて落ちなければ、その小石を財布に入れておこう。そうすれば、お金に困らないという。


大黒天の石灯籠(部分)

織部型灯籠











⑨織部型石灯籠

 大黒天の石灯籠のほぼ向かいにある。駒札に「茶人好みの石灯籠形式の一つにて古田織部正重然(元和元年六月十一日没)の墓にあるものの形に因んで名付けらる。マリヤ像の彫刻あるにより俗にマリヤ灯籠、キリシタン灯籠ともいう」とある。神社に織部型灯籠があるのが珍しい。


三光門

⑩星欠けの三光門(七不思議)

本殿前の中門は、日・月・星の彫刻があるため三光門と呼ばれる。しかしこの彫刻には、日と月はあるが星はないという。平安京造営当初の大極殿が当社の南方位に位置し、帝が当社を遥拝する際、三光門の真上に北極星が輝いていたので、あえて星を刻まなかったという。重要文化財

⑪渡辺綱寄進の石灯籠

 三光門を入った右手、回廊の前にある。高さ約1.8メートルで六角型をしている。風化がひどく黒ずんでいるが、形状が古雅であるとして茶人に好まれ、北野型または白太夫型と呼ばれる。駒札に「渡辺綱は平安時代中期の武将源頼光の四天王の一人。大江山の酒呑童子退治、一条戻り橋での鬼との戦いはつとに有名。本灯籠の由来はこの一条戻り橋の鬼退治の話に遡る。渡辺綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に深夜のこととて家まで送ってほしいと頼まれる。しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕えて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうと北野天満宮上空にさしかかる。その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる。綱はこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この石灯籠を寄進したという」とある。『源平盛衰記』、能の「羅生門」、御伽草子の「羅生門」などに同様の記述がある。しかし、石灯籠そのものは鎌倉時代の作品のようで、果たして渡辺綱が寄進したものかどうか疑問の余地がある。国の重要美術品。


渡辺綱寄進の石灯籠

⑫筋違いの本殿(七不思議)

楼門(南門)をくぐった正面には地主神社(祭神:天神地祇)があり、道真を祀る本殿はやや西よりに位置している。神社の本殿は楼門をくぐった正面にあるのが普通。地主神社は北野天満宮鎮座以前の承和三年(836)に祀られており、天暦元年(947)天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて建てられたためであるという。



⑬唯一の立牛(七不思議)

道真は、承和十二年(845)六月二十五日の誕生。この年は「丑年」に当たり、かつ道真の伝説には牛にまつわる話が数多いことから、天神の神使は牛になっている。延喜三年(903)大宰府で生涯を閉じた道真の遺骸を運ぶ途中、車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、近習たちがやむなくその付近にあった安楽寺に埋葬した。この故事により境内各所にある神牛の像は臥牛(横たわった牛)の姿となっているが、拝殿欄間の彫刻(左から二番目)には、一頭だけ立った姿の神牛が刻まれている。


欄間の立牛


御土居入口

御土居(おどい)

境内の西、紙屋川沿いに豊臣秀吉が築いた御土居の一部がある。天正十九年(1591)秀吉は、防衛拠点の構築・鴨川の洪水防止・洛中の明確化などを目的に、京の周囲を御土居と称する土塁で囲った。この土塁は、北は鷹が峰、東は鴨川、西は紙屋川、南は九条で画されて、総延長約23キロメートルに及ぶ壮大なものであった。今では、当社境内・鷹が峰などにその一部が残されているのみで、史跡になっている。しかし江戸期には、何の不思議もない当たり前の事物として捉えられていたのだろう。地誌でこの堤に触れたものは、見あたらない。

⑮裏の社(七不思議)

ふつう神社は前拝のみであるが、当社の本殿は背面にも御后(ごこうの)三柱(みはしら)という神座を持つ。道真の神座と背中合わせの形で北向きに祀られているのは、天穂日命(菅公の祖先神)・菅原清公卿(菅公の祖父)・菅原是善卿(菅公の父)の三柱の神。明治維新までは影向松に飛来した仏舎利を祀っていたので、この神座の前にある門を舎利門と呼んでいた。その昔、当社の参拝は、この御后三柱も含めて礼拝するのを常とした。


裏の社


⑯天狗山(七不思議)

境内西北の角(北門の南西辺り)にある小山をいう。室町時代の「社頭古絵図」(北野参拝曼荼羅)には、ユーモラスな烏天狗が描かれている。その昔、この辺りには天狗が出没したという。この場所には往古には牛祠が祀られ、一願成就の祠として信仰を集めたが、現在、この牛祠は南西の角に遷座している。



北門

⑰石で北門を叩

 江戸期には、火難を逃れるため北門を石で叩く風習があった。『雍州府志』に「凡そ男女、この社に詣する時、必ず石を以って北の門を叩く。改暦雑記に曰く。人皇八十一代後深草の院、建長四年(1252)八月十八日、北野社辺に火起る。社家奔走して之を鎮む。家に帰る時、各々北門に向ひて小石を以って之を叩き、告げて曰う。火鎮まり収まるとなり。これ流例となる。参詣の男女、其の事無しと雖も必ずこれを叩く」とある(同旨『京羽二重織留』など)




コラムその13 神宮寺の話

江戸期以前の北野天満宮は神宮寺であった。神宮寺とは、神祇に仏教的宗儀をささげるために建立された寺院。社僧が住み、仏事をもって神に奉仕した。日本固有の神祇信仰と外来の仏教信仰が融合した神仏習合思想に基づくもの。江戸期の北野天満宮の組織は、別当職(天台宗曼殊院門跡)、祠官三家(松梅院、徳勝院、妙蔵院)、目代、宮仕など。重要職は社僧が独占、神職は下位に置かれた。『都名所図会』巻六に天満宮の仏教的施設として「朝日寺、毘沙門堂、経蔵、多宝塔、鐘楼」などが見える。社領は六百石であった。明治維新時の神仏分離令で神社内の仏教的施設は全て破却。本書で挙げた賀茂社(賀茂神宮寺)、八坂神社(祇園感神院)、愛宕神社(白雲寺)、石清水八幡宮(護国寺)は、いずれも神宮寺。

北野天満宮不思議探訪順路(イメージ)



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