■江戸期も梅の名所 看雪、藤、梅の名所であった。特に梅については、八重にして香甚い匂紅梅、桃花に似て色淡紅で大輪にして二月の末に開く箙梅、蕚の緑なる白梅の上品な蕚緑梅などの名梅があったという(『都花月名所』)。現在も道真の祥月命日の二月二十五日に行われている梅花祭は、梅の甘い香りとそれを愛でる群衆で境内は一分の隙もない。さらに、東寺の弘法市(毎月21日)と並んで毎月25日に行われる天神市には、古着や食べ物などを商う多数の露店が建ち、境内一帯は大いに賑わう(特に1月25日の天神市を「初天神」、12月25日の天神市を「終い天神」という)。
■文人墨客を集める 祭神の菅原道真は学問・文芸の神。古くから社前には文人墨客が集った。近世には毎月二十五日、連歌所で月次の連歌会が催されるなど連歌の中心地となった。有名な「北野大茶湯」は天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催し、千五百もの茶席が立てられた。慶長八年(1603)には、出雲阿国が社前で初めて歌舞伎を興行したので、歌舞伎発祥の地ともいう。
■歴史 上京区馬喰町にある神社。「北野の天神さん」として、昔も今も庶民に親しまれている。祭神は道真(845~903)、中将殿(道真長男)、吉祥女(道真夫人)。江戸期には、北野宮、北野の天神、天満宮、北野社、天満天神宮などとも称された。全国各地の天満宮・天神社の多くは当社より勧請されたもの。右大臣であった道真は昌泰四年(901)、時の左大臣藤原時平の讒言で大宰権師に左遷され、延喜三年(903)に同地で没した。道真の没後、時平の不慮の死をはじめ、清涼殿への落雷など災異が続いたため、民衆は道真の怨霊の祟りとして恐れた。道真の怨霊を鎮めるべく、右大臣に復し正二位が追贈されたが、それでも効果はなかった。「北野天神縁起絵巻」によると天暦元年(947)、多治比文子に道真から北野右近馬場に祀れとの託宣があり、そこに道真を祀ったという。また、近江国比良宮の神良種の息子への託宣により、現在地に社殿を造営したともいう。永延元年(987)初めて北野祭を執行、「北野天神」の勅号を賜り、朝廷や藤原氏の崇敬を集めた。
■見どころ 現在の社殿は慶長十二年(1607)豊臣秀頼が片桐且元を奉行に再興したもので国宝。本殿と拝殿、石の間、楽の間を連ねた建築様式は、八ツ棟造(権現造ともいう)の代表例。鎌倉初期に描かれた「北野天神縁起絵巻」(国宝)は、道真の生涯と、死後のさまざまな災いが道真の怨霊の仕業と信じられて、天神信仰が生まれるまでの様子を描く。
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