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洛中
西陣


賀茂斎院跡碑(七野神社)


アクセス
JR京都駅中央口→市バス9系統(24分)→天神公園前→七野神社(スタート)→瑞雲院(ゴール)→千本上立売→市バス206系統(28分)→JR京都駅
歩行距離等
●歩行距離:1.5キロ
●所要時間:1時間

■応仁の乱ゆかりの地名 上京区・北区を含む市街地北西部の広域地名。地名の由来は、『都名所図会』に「明徳の頃、山名細川の両執権、洛中において数度合戦ありしとき、一条より北に(たむろ)するを西陣といひ、堀川より東を東陣といふとぞ。(くわ)しきは応仁記にみえたり」とある(同旨『山州名跡志』)ように、応仁・文明の乱(146777)で、東軍の細川方が室町通今出川上ルにあった足利将軍家の「花の御所」に拠ったのに対し、西軍の山名方が堀川通上立売下ルにあった山名邸を本陣にしたことにちなむ。乱後、元大舎人座の機屋が集住し、織物業が発展した。

■洛陽異名の一つ 江戸期は、堀川通以西、七本松通以東、今宮神社御旅所以南、一条通または中立売通以北の範囲を西陣と呼んだ。その中心は、商いが盛んで千両箱が飛び交ったことにちなみ「千両ヶ辻」と称された今出川大宮であった。西陣という地名がユニークだということで、洛陽異名の一つに数えられた(『京羽二重』ほか)



不思議

七野神社
(なな)()神社の白砂
 上京区西裏廬山寺上ル(やしろ)(よこ)町にある神社。正しくは檪谷七(いちいだになな)()神社。祭神は春日明神など四神。社伝によると、貞観元年(859)文徳天皇の皇后明子(染殿皇后)が安産を祈願して奈良春日明神を勧請したのが始まり。社名の由来は『雍州府志』などによると、内野・北野・萩野・蓮台野・紫野・上野・平野の神を集めて総社としたとか、伊勢・賀茂・八幡・平野・松尾・稲荷・春日の七神を勧請したのにちなむという。また同誌は、宇多天皇の皇后が失った寵を取り戻そうとして当社に祈願し、霊夢によって白砂を三笠山の形に築いたところ、再び天皇の寵を得たという。これにちなんで、社前に白砂を三笠山の形に築いて祈願すると安産や夫婦円満になるという信仰が生まれた。この砂山を高砂山という。『都名所鳥』は、仲の悪い夫婦の一方が高砂山の砂を夫や妻の袖に入れると離縁できるとの俗説が広がり、夜陰に乗じて高砂山の砂を盗みに来る男女が跡を絶たないという。この信仰は近年まで続いていたが、現在では、塩・砂・玉砂利を社前に盛ると建物が傷むとして禁じられているのは残念。なお、七野神社は元賀茂斎院の跡地に建立されている。

②家紋の入った七野神社の石垣

七野神社の本殿は、高さ2メートルほどの石垣を巡らせた上に鎮座している。その石垣の南東部分(本殿石段の右手)に家紋が彫られた石が数個残されている。永正八年(1511)の船岡山合戦(細川澄元が室町幕府第十代将軍足利義稙らと戦う)で荒廃した神社を豊臣秀吉が再興した際、諸大名が家紋を彫った石を寄進したことによる。小笠原家の家紋である三階菱を彫った石は、今でも明確に読み取れる。この石垣の前方に神鹿の銅像があるのは、毎年奈良から当社に鹿が一頭必ずお詣りにくることにちなんだものという。


小笠原家の家紋入りの石


老松

③称念寺の浮れ猫

上京区寺之内浄福寺一丁目西入上ル西側にある寺。通称は猫寺。浄土宗知恩院派に属する。山号は本空山。本尊阿弥陀如来。江戸期には洛陽四十八願寺の第十番札所で、『東西歴覧記』は「四十八願寺の随一也」という。

猫寺の由来について駒札はいう。慶長十一年(1606)茨城県土浦城主松平伊豆守信吉が師僧(がく)()上人のために建立。嶽誉上人は浄土宗(しゃ)(せい)派の祖・称念上人を開山とし寺号を称念寺と定め、自らを中興開基とした。寺に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったので寺紋を徳川家定紋の三つ葉葵とした。寺伝によれば、三代目住職の頃、松平家と疎遠になり寺は荒廃していたが、ある夜、帰山した住職は、愛猫が美姫に化身して舞うのを見て怒り、これを追放した。数日後、猫が住職の夢枕に立ち松平家との復縁を告げて住職に報恩。寺は立派に再興した。以後、寺では猫の霊を厚く守護したので、猫寺と呼ばれるようになった。本堂前の臥龍の如く伸びた老松は、猫を偲んで植えたものと伝わる。この松が見事なことから松寺ともいう。この松は、昔は二本あって猫寺の二本松と呼ばれていたが、今は一本のみ残る。松の枝が本堂に届いた時、再び猫が現れて寺を救うという。

境内にはペット墓苑(拝観謝絶)が設けられており、毎年四、八、十の各月二十日には犬猫供養祭が盛大に行われる。

④浄光寺の時雨(しぐれ)(まつ)

千本寺之内東入ル東半町にある浄土宗の寺。『京都坊目誌』に「新猪熊町北側にあり。浄土宗鎮西派金戒光明寺に属す。慶長元年僧浄誉開基す。寛文の頃、伏見宮、貞致親王、この寺の東辺に住せらる。よつて地を御所の内と呼ぶ。今の井田町これ也。本尊阿弥陀仏の像を安置す。恵心の作也。享保十五年六月、西陣大火に類焼し、天明八年正月の大火に辛うじて災を免れ今日に至る」とある。時雨松は玄関前にあり、樹齢百年以上の見事な相生(あいおい)(まつ)である。夏の暑い日には大きな雫が落ちるという。境内には、江戸中期の文人画家・池大雅(172376)の墓がある。


時雨松

⑤瑞雲院の(ちご)如来

上京区千本通上立売上ル西側作庵町にある浄土宗の寺。仏迎山と号す。本尊阿弥陀如来。文禄三年(1594)教誉が創建。本尊は、あどけない容姿から(ちご)如来と呼ばれる。浄家寺鑑』(寛文八年刊)によると、円融天皇の時(969984)、江州高島に住む夫婦の三歳になる男児が行方不明になった。数年後、夫婦の家に立ち寄った旅僧が事の始終を聞いて童形の阿弥陀像を刻み、念仏を怠らなければ必ず子供に再会すると説いた。九年後、旅僧は美濃国で老夫婦に育てられていた男児に巡り逢い、無事両親のもとにつれ帰ることができたという。夫婦は報恩のために近くに庵室を構え、児如来を末永く信仰したという。また像が有髪のため発毛祈願の信仰を集める。『京羽二重』は、児如来を名弥陀の一つに数える。

西陣不思議探訪順路(イメージ)


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