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洛中
堀川


紫式部墓(左奥の小さな五輪塔)

アクセス
JR京都駅中央口→市バス9系統(26分)→紫式部墓(スタート)→小町草紙洗いの水→バス停一条戻橋→市バス9系統(13分)→堀川五条→佐女牛井→芹根の水(ゴール)→徒歩→JR京都駅
歩行距離等
●歩行距離:4キロ
●所要時間:3時間

■江戸期の堀川 「水上は二流あり。その一は鴨川の枝にして、上京にては人家の下を流れ、あるいは顕れ、一条戻橋の下にて合す。これを小川(こがわ)といふ。また一流は鷹が峯より出でて今宮の東を流れ、名を若狭川といふ。ともに戻橋の下にて合し、南へ流れ、東寺を経て上鳥羽において鴨川に入る」という(『都名所図会』)

■現在の堀川 京都市のほぼ中央を北区から上京・中京・下京・南区へ貫流する。長さ約8.2キロ。平安京の朱雀大路を中心に紙屋川を西堀河と呼ぶのに対して東堀河ともいう。北区に発した堀川の流は暗渠となり、東から賀茂川の水を引き、疎水支線、西方から若狭川を合わせ、上京区の一条戻橋付近から地上に出て堀川通に沿って南流し、南区上鳥羽で鴨川に合流する。中世には堀川に沿って水運を利用する木材業者が集住したり、川の水を利用する染物業も発達した。往時は水量も豊かで、豪雨時にはしばしば氾濫したが、現在は水源がなく、排水溝のような有様である。

不思議

千本閻魔堂の紫式部供養塔(部分)
①紫式部墓
 堀川北大路から堀川通を南へ約100メートル下った道路の西側(北区紫野御所田町)にある。入口の右側に紫式部墓所と記した石碑、左側に小野篁卿墓と記した石標が立つ。短い参道奥の右手に紫式部墓と記した石標があり、その奥に高さ約80センチほどの小振りな五輪塔が立っている。手前の同じような五輪塔は小野篁墓という。式部墓は、もと雲林院の子院であった白毫院に小野篁墓と並んであったが(『雍州府志』、『扶桑京華志』ほか)、のち白毫院が廃されて式部墓は行方知れずになった。白毫院が近世に千本閻魔堂(引接寺)に移されたことから、式部墓は閻魔堂にあるという説もある(『京雀』、『京羽二重』、『出来斎京土産』ほか)。白毫院の故地には、織田信長の菩提を弔う総見院が建立されている。式部墓はいずこにあるのか、または無くなってしまったのか、さて、どうであろう。

②菅公登天石(水火天満宮)

水火天満宮(祭神は菅原道真)は上京区堀川通寺之内上ル東入扇町にある。菅公登天石は南向きの本殿の左手傍らにある。その由来はこうである。菅原道真の死後、都では天変が相次ぎ、人々は道真の怨霊のせいと信じた。大雨が続いたので、時の醍醐天皇は延暦寺の法性坊尊意僧正に祈祷を命じた。尊意は山を降りて宮中に急いだが、途中賀茂川まで来ると川が増水しており渡ることができない。尊意が祈祷すると、不思議なことに水流が二つに別れ、石の上にいた道真の霊が昇天して大雨もやんだという。そのありがたい石を供養し、登天石と名付けた。この石は、火難水難除けの御利益はもちろんのこと、迷子が無事戻るという信仰がある。


菅公登天石


   百々橋の礎石


洛西竹林公園に移設された百々橋
百々(とどの)(はし)

堀川通寺之内東入ル百々町の尼門跡宝鏡寺の東にあった小川(こがわ)に架かっていた長さ四間余りの橋をいう。近世に板橋を改めて石橋にしたという(『雍州府志』)。『京都坊目誌』に「今昔物語に百々の辻子あれば平安京中期の開通ならん。小川の流れに架す。石橋なり。長さ四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」とある。更に『京都坊目誌』四に「この橋、幽雅にして野趣あり。街道を往復する者、ここに休憩す」とあり、なかなかの名橋であったようだ。『応仁記』によると、この橋を挟んで西軍の山名方と東軍の細川方が何度も合戦を行ったという。『京羽二重』織留などは、この橋を古戦場と呼んでいる。現在、橋の礎石が寺之内通と小川通の西角に置かれている。縦横80センチ、高さ70センチのかなり大きな石で、真中に直径48センチの丸い穴が穿れている。実物はどういうわけか、洛西竹林公園に移築されており、百余りの竹類が取巻く中、貴重な点景として異彩を放っている。

④晴明井(晴明神社)

 晴明神社は、堀川今出川から堀川通を約250メートル下がったところ(上京区葭屋町通一条上ル晴明町)にある。平安中期の陰陽博士安倍晴明を主神とし、(うが)()(みたまの)(みこと)を合祀する。社伝では寛弘四年(1007)一条天皇の勅旨により、晴明の邸跡に創建されたという。晴明は星座の急変するのを見て花山天皇の退位を予知したという。晴明井は二の鳥居を入った右手にある。古より湧き出ていた洛中名水の一つで、諸病平癒の信仰を集める。数年前までは飲用不適であったが、最近整備されて飲用可能になったようだ。駒札に、流水口が本年の恵方(えほう)を向いており吉祥水が得られるとある。


晴明井


五芒星の額束

五芒(ごぼう)(せい)額束(がくつか)(晴明神社)

 入口の石鳥居の額束には、晴明ゆかりの五芒星が記されている。額束には神社名とか大明神とかが掲げられるのが普通で、このような額束は珍しい。

一条戻(いちじょうもどり)(ばし)

上京区一条通の堀川に架かる小橋。平安京遷都以来、その位置が変わらないということで歴史的にも貴重な名橋。藤原(ふじわらの)(ゆき)(なり)の『権記(ごんき)』に初見する古い橋。名前の由来は、延喜十八年(918)文章博士の三善(みよしの)(きよ)(ゆき)とその子の浄蔵貴所の親子物語で、『都名所図会』に「三善清行死するとき、子の浄蔵、父に逢はんため熊野・葛城を出でて入洛(じゅらく)し、この橋を過ぐるに及んで父の喪送に遇ふ。棺を止めて橋上に置き、肝胆をくだき念珠を揉み大小の神祇を(いの)り、つひに咒力(じゆりき)陀羅尼(だらに)の徳によつて(えん)()王界(おうかい)に徹し、父清行たちまち蘇生す。浄蔵涙を(ふる)ふて父を抱き家に帰る。これより名づけて世人、戻橋といふ」とある。この記事の元ネタは鎌倉時代の説話集の『撰集抄』。江戸期の地誌がこぞって取り上げた洛陽の名橋である。この戻橋には、源頼光の家来渡辺(わたなべの)(つな)がある夜、美女に化けた鬼に出会いあやうく一命をとりとめたとか(『平家物語』)、安倍晴明が橋下に式神を封じ込めたととか(『今昔物語』)、平清盛の妻二位(にいの)(ぜん)()が娘の建礼門院の難産で(はし)(うら)をしたとか(『源平盛衰記』)、豊臣秀吉が千利休の木像を(はりつけ)にしたという話が伝わる。近年でも、戦時中には出征する兵士がこの橋を渡って無事を祈ったとか、婚礼の行列はこの橋を渡ってはならないとか、さまざまな伝説・伝承が残されている。現在の橋は平成七年建造と新しいが、欄干を御影石で化粧しており、それなりに味わいがある。


一条戻橋

一条戻橋の復元模型(晴明神社)


小町草紙洗いの水碑
⑦小町草紙洗いの水

 一条戻橋の東二筋目の小町通を少し上った左手にあったとされる井。名前の由来は謡曲「草紙洗小町」にある。小野小町の才色を妬んだ大友黒主が、万葉集に細工して小町の和歌を誹謗。この万葉集が記された草紙をこの井の水で洗い流すと元の和歌が現れて小町の身の潔白を証明したという。この話は謡曲「草子洗小町」となって今に残る。『都名所図会』に「戻橋の丑寅(北東)、諸侯屋敷の庭にあり。清和水ともいふ。傍らに小町の塔あり」とある。元は晴明神社の境外飛び地であったともいうが、現在は民家が建ち並んでいる。清和水とか更級水とも呼ばれ、この水を使うと小野小町のようにと美人になるとされていた。現在は一条通と小町通の西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」と記した石標があるのみ。

佐女(さめ)()()

下京区佐女牛井町にあった京師七名水の一つ。醒ヶ(さめが)()ともいった。源頼義(9881075。平安中期の武将。前九年の役で安倍貞任を討つ)がこの地に築いた六条堀川邸の井戸と伝える。『山城名勝志』に「水味いは天下無双」とある。また『山州名跡志』に「将軍義政公の世、茶道世に盛なり。時に茶人村田珠光斎この所に宅を為す。義政公時々来臨し給へり」とある。安土桃山・江戸初期の茶人織田有楽斎は、この水を賞して「佐女牛井 元和二年五月吉日有楽再興之」と記した石碑を建てた。その後天明の大火(1788)で瓦石に埋もれたが、茶道藪内家により再興された(『京都坊目誌』)しかしこの名高い醒泉も、第二次大戦時の堀川通の拡幅で消滅してしまった。堀川五条下ル西側の故地に「左女牛井跡」碑が立つ。


佐女牛井の跡碑


梅ヶ枝の手水鉢

梅ヶ枝(うめがえ)手水(ちょうず)(ばち)

堀川通の一本西にある西堀川通と木津屋橋通の交差点の北東角にある。現物は何の変哲もなさそうな長方形の石なので、これが手水鉢かと驚く。背後の駒札を見過ごさないように注意しよう。この手水鉢のいわれはこうである。源平宇治川合戦で遅れをとった源氏の武将梶原影季は源頼朝の不興を買い、やがて女房千鳥は神崎の廓で、遊女「梅ヶ枝」にまで身を落とした。寿永三年(1184)影季は一ノ谷合戦に出陣を願っていたが、頼みの鎧は借金三百両のかたに質入中。この時梅ヶ枝がお金の工面を祈ったというのがこの手水鉢。手水鉢を必死で叩くと不思議なことに小判が降ってきて、このお金で影季は無事出陣できたという。假名垣魯文作の歌舞伎「ひらかな盛衰記」の一節である。明治から大正にかけて次の俗謡が流行した。

 梅が枝の手水鉢 叩いてお金がでるならば  若しもお金が出た時は  その時や身請をそれ頼む

 この手水鉢は、第二次大戦中に行われた堀川改修の際に発見されて鑑定の結果、本物であることが確認されたという。

⑩芹根の水

西堀川通木津屋橋下ル元安寧小学校の西の塀際にある。江戸期には、堀川西岸のたもとから清泉が間断なく湧出していたという。これを芹根の水といい、都七名水の一つとされた(『京都坊目誌』)。『都名所図会』に「芹根の水は堀川通生酢屋橋の南にあり。近年書家()(せき)(かつ)(しん)、清水に井筒を入れて傍らには芹根の水の銘、みづから八分(はふ)()(隷書の一種)に書して石面に彫刻す」とある。また、ここから東山の渋谷峠にかかる月を見るのを「田毎の月」といい、名月鑑賞の場としても有名であった。


芹根の水碑


コラム12 名水の話

衛生的で便利な水道施設のない江戸期では、貴賎上下に関らず、豊かで美味しい水は、ほとんど憧憬の対象だった。各地誌でも競って名水を取り上げているが、なかでも『京羽二重』は、「名水」という項目を設けて、明星水、智弁水、岩清水、香水、糺清水、薬師清水、紫雲水、手水の水、尼寺の水、弁慶水、朧の清水、瀬井清水、醒井の水、柳の水、梟の水、吉水、清水、蹴上水、仙人水の十九の名水を案内する。時代はくだって、形として残っているものはまま見られるが、飲用に適するものはほとんどなくなっている。ちなみに、染井、県の井、佐女牛井を「京都三名水」といい、御手洗井、菊の井、明星水を「京三名水」(江戸期)という。

堀川不思議探訪順路(イメージ)

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