大徳寺にまつわる不思議は多い。しかし、山内二十四ヶ寺のうち、常時公開されているのは大仙院、瑞峯院、高桐院、龍源院の四院で、冬など時期を限って公開されている芳春院、聚光院を加えても公開されているのは六院に過ぎない。方丈にある国宝の唐門さえ非公開なので、こうした事情を知って探訪することが大切だ。
③官池と梅橋
仏殿と法堂の東側にあるが、立入禁止となっている。江戸期、大徳寺には「大徳寺十境」と呼ばれた奇観があった。瑞雲軒、看雲亭、金剛軒、起龍軒、雲軒庵、明月橋、古厳松(いずれも現存せず)と達磨峰(比叡山)、それに官池とこの池に架けた梅橋である。この官池の由来については二説ある。一つは、後醍醐天皇がこのあたりを指差して、ここに池を作るのがよかろうと大燈国師に宣ったからという(『都林泉名勝図会』)。二つは、大燈国師が官人と協力して錦のもつこで土を運んで造ったからだという(『山城名勝志』)。
④唐門
方丈前庭にある。切妻造り、桧皮葺の四脚門で、前後に唐破風を付ける。豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構と伝えられ、軒廻りには桃山時代特有の豪華な彫刻が施されている。特に柱の頭貫に浪を刻んで両端に鯉が遊泳する姿は大胆奇抜なデザインとして有名(『京都民俗志』)。一日見ても見飽きることがないので、日暮し門ともいう。『都名所図会』の絵図では勅使門の西にあるが、明治期に現在地に移された。国宝。
⑤和泉式部井(真珠庵)
一休宗純ゆかりの真珠庵方丈の北にある。一説に紫式部の井戸とも。江戸期の地誌類にはたいがい出ている有名な井。『雍州府志』巻八に「真珠庵に在り。相伝。この地和泉式部の住し所也と。その後寺と為る。井猶存す。一休宗純この井を号して聖泉といふ」とある。
⑥大仙院庭園
本堂の東側にある。非常に狭い空間に作られた禅院式の枯山水庭園。相阿弥の作と伝えるが、一説に開山古岳和尚の作ともいう。東北隅に枯滝組を作って深山幽谷となし、そこから流れ出た滝水が渓流となり、やがて石橋をくぐって大きな川となる。果ては大海に注いで石船を浮かべるという壮大な構想。『都名所図会』を著した秋里籬島が書いた『築山庭造伝』前編は、この庭園を「形制厳整体」と表現する。竜安寺の石庭とともに、天下無双の名庭。国の特別名勝史跡。
⑦呑湖閣(芳春院)
本堂背後にある小堀遠州作の「楼閣山水の庭」の中心をなす二重楼閣。元和三年(1617)の建立で、春屋和尚の木像や前田家一族らの位牌を安置。閣上からは真東に比叡山が見え、琵琶湖を呑み込んでしまうような壮大な景観が広がる。池を「飽雲池」といい、本堂との間に「打月橋」が架かる。『築山庭造伝』前編は、この庭園を「平心和気体」と表現する。金閣、銀閣、飛雲閣と並び京都四閣の一つ。
⑧千利休墓(聚光院)
千利休ゆかりの聚光院本堂庭園の南側にある。高さ二メートル余の石造多宝塔で、基礎から相輪まで一石で作られている。『京の七不思議』は、利休は生前、この塔に眼を付けて墓にするよう申し伝えていたという。また、石塔の穴は後に穿ったというが、首を入れると茶臼の音がするとして名高いという。周囲には表、裏、武者小路の三千家の墓や三好長慶の墓という五輪石塔がある。国の重要美術品。

細川忠興の墓 |
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⑨細川忠興墓(高桐院)
細川氏ゆかりの高桐院本堂の西にある。六角型の石灯籠を墓標としているのが珍しい。この石灯籠はもと利休の所蔵。豊臣秀吉と細川忠興の二人から所望されて困った利休は、わざと笠石の蕨手(反りあがった部分)の一つを欠きとった。そして、秀吉には疵物ということで断り、忠興に与えたものという。忠興は深く感謝して、これを陣中まで持参するほど愛玩したという。
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