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洛中
大徳寺

大徳寺塔頭芳春院の秋


アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(37分)→大徳寺前
歩行距離等
●歩行距離:1キロ
●所要時間:1時間

■歴史 北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派の大本山。龍宝山と号す。本尊釈迦如来。開基は宗峰妙超(大燈国師)。『都名所車』に「後醍醐天皇の勅願寺として大燈国師の開基。境内ひろくして塔頭四十二院。この内真珠庵は一休和尚の居給ひし寺也。一休和尚の事世の人しる所也。大燈国師は鎌倉建長寺の大応国師にしたがひ悟道第一の弟子となり、大応遷化しより都にのぼり、この寺に居給ふ。建武十二年(1345)月二十二日五十六歳にて遷化」とある。建武元年(1334)後醍醐天皇は、大徳寺を「本朝無双の禅苑」として京都五山の上に置いたが、宗峰門派と対立する夢窓疎石に帰依した足利尊氏が政権を握ると急速に衰退し、至徳三年(1386)には五山の下の十刹(じゅうさつ)となる。永享三年(1431)自ら五山を脱し、林下(りんか)と呼ばれる在野の禅寺として独自の宗風を築いた。一時荒廃したが、堺の豪商尾和宗臨や連歌師宗長の支援を得て復興。天正十年(1582)豊臣秀吉が当寺で織田信長の葬儀を挙行し、信長の菩提寺として総見院を建立したので、以後武将による塔頭建立が相次いだ。

■茶道とのかかわり 侘び茶を創始した村田珠光が一休宗純に、また千利休が総見院開山の古渓宗(こけいそう)(ちん)帰依するなど、大徳寺はとの関わりが深い。表、裏、武者小路の三千家の菩提寺である聚光院(じゅこういん)初めほとんどの塔頭に茶室があことから俗に「大徳寺の茶面(ちゃづら)」と称される。



不思議

大徳寺にまつわる不思議は多い。しかし、山内二十四ヶ寺のうち、常時公開されているのは大仙院、瑞峯院、高桐院、龍源院の四院で、冬など時期を限って公開されている芳春院、聚光院を加えても公開されているのは六院に過ぎない。方丈にある国宝の唐門さえ非公開なので、こうした事情を知って探訪することが大切だ。


平康頼の塔

平康頼(たいらのやすより)の塔

西門を入り勅使門を右手に見て参道を直進したところにある。花崗岩の表面に地蔵菩薩立像、裏面に釈迦・多宝二如来並座の多宝塔が彫刻されているのが珍しい。『京羽二重織留』に「平判官康頼塔、始は大徳寺の三門の前にあり。二つの石地蔵を立て康頼夫婦の墓と云へり。今は地蔵門前大将軍の社の後に移す。その跡に松ばやし有り。この辺もと康頼の宅地なりと云ふ」とあるので、今の塔は後世に立てられたもののようだ。平康頼(平安末期・鎌倉初期の武士、歌人。生没年不詳)は、後白河法皇の近臣として検非違使に任ぜられたが、僧俊寛らと鹿ケ谷事件に連座して喜界が島に流された。のち許されて帰京。

②金毛閣

康頼の塔の右手すぐにある(勅使門の北側)。五間三戸、入母屋造、本瓦葺の二重門で、左右に山廊が付いている。『雍州府志』は「三門は連歌師宗長建つる所にして、然る後に千利休、閣をその上に設け、己が像を置く。これによりて秀吉公、僭踰(せんゆ)を怒り、その像を下して一条(もどり)橋に(はりつけ)す」という。『京羽二重織留』巻四にも「中世まで三門なかりしに連歌師宗長白銀若干をよせて資料とし三門を建しかれども、閣をかまゆるのちからなし。千利休かさねて白銀を施し、門上に閣を造り自己の像に(くつ)をはかしめ、閣上に置きぬ。豊臣秀吉公その罪を怒り給ひ、利休を殺し閣上に置所の木像を一条戻橋に捨る。その時の住職古渓和尚も像を置かしむるの罪によつて大徳寺を出て市原常楽庵に隠る」という。両説とも利休の木像は一条戻橋で処分されたと伝える。事実は利休の死後岡山の池田候のもとに移され、明治二十一年再びここに安置された。ちなみに連歌師宗長はこの三門の建立のため、藤原定家秘蔵の源氏物語を泣く泣く売却したという(『都林泉名勝図会』)。重要文化財。内陣は非公開。


金毛閣


③官池と梅橋

 仏殿と法堂の東側にあるが、立入禁止となっている。江戸期、大徳寺には「大徳寺十境」と呼ばれた奇観があった。瑞雲軒、看雲亭、金剛軒、起龍軒、雲軒庵、明月橋、古厳松(いずれも現存せず)と達磨峰(比叡山)、それに官池とこの池に架けた梅橋である。この官池の由来については二説ある。一つは、後醍醐天皇がこのあたりを指差して、ここに池を作るのがよかろうと大燈国師に宣ったからという(『都林泉名勝図会』)。二つは、大燈国師が官人と協力して錦のもつこで土を運んで造ったからだという(『山城名勝志』)

④唐門

 方丈前庭にある。切妻造り、桧皮葺の四脚門で、前後に唐破風を付ける。豊臣秀吉が造営した聚楽第の遺構と伝えられ、軒廻りには桃山時代特有の豪華な彫刻が施されている。特に柱の頭貫に浪を刻んで両端に鯉が遊泳する姿は大胆奇抜なデザインとして有名(京都民俗志』)。一日見ても見飽きることがないので、日暮し門ともいう。『都名所図会』の絵図では勅使門の西にあるが、明治期に現在地に移された。国宝。

⑤和泉式部井(真珠庵)

一休宗純ゆかりの真珠庵方丈の北にある。一説に紫式部の井戸とも。江戸期の地誌類にはたいがい出ている有名な井。『雍州府志』巻八に「真珠庵に在り。相伝。この地和泉式部の住し所也と。その後寺と為る。井(なお)存す。一休宗純この井を号して聖泉といふ」とある。

⑥大仙院庭園

 本堂の東側にある。非常に狭い空間に作られた禅院式の枯山水庭園。相阿弥の作と伝えるが、一説に開山古岳和尚の作ともいう。東北隅に枯滝組を作って深山幽谷となし、そこから流れ出た滝水が渓流となり、やがて石橋をくぐって大きな川となる。果ては大海に注いで石船を浮かべるという壮大な構想。『都名所図会』を著した秋里籬島が書いた『築山庭造伝』前編は、この庭園を「形制(けいせい)(げん)整体(せいのてい)」と表現する。竜安寺の石庭とともに、天下無双の名庭。国の特別名勝史跡。

⑦呑湖閣(芳春院)

本堂背後にある小堀遠州作の「楼閣山水の庭」の中心をなす二重楼閣。元和三年(1617)の建立で、春屋和尚の木像や前田家一族らの位牌を安置。閣上からは真東に比叡山が見え、琵琶湖を呑み込んでしまうような壮大な景観が広がる。池を「(ほう)(うん)()」といい、本堂との間に「打月橋」が架かる。『築山庭造伝』前編は、この庭園を「(へい)心和(しんわ)気体(きのてい)」と表現する。金閣、銀閣、飛雲閣と並び京都四閣の一つ。

⑧千利休墓(聚光院)

千利休ゆかりの聚光院本堂庭園の南側にある。高さ二メートル余の石造多宝塔で、基礎から相輪まで一石で作られている。『京の七不思議』は、利休は生前、この塔に眼を付けて墓にするよう申し伝えていたという。また、石塔の穴は後に穿ったというが、首を入れると茶臼の音がするとして名高いという。周囲には表、裏、武者小路の三千家の墓や三好長慶の墓という五輪石塔がある。国の重要美術品。


細川忠興の墓
⑨細川(ただ)(おき)(高桐院)
 細川氏ゆかりの高桐院本堂の西にある。六角型の石灯籠を墓標としているのが珍しい。この石灯籠はもと利休の所蔵。豊臣秀吉と細川忠興の二人から所望されて困った利休は、わざと笠石の蕨手(わらびて)(反りあがった部分)の一つを欠きとった。そして、秀吉には疵物ということで断り、忠興に与えたものという。忠興は深く感謝して、これを陣中まで持参するほど愛玩したという。










































大徳寺不思議探訪順路(イメージ)



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