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2洛東
三十三間堂とその周辺





三十三間堂




アクセス
JR京都駅中央口→市バス206系統(6分)→博物館・三十三間堂(スタート)→妙法院(ゴール)→東山七条→市バス206系統(7分)→JR京都駅中央口
歩行距離等
●歩行距離:2キロ
●所要時間:2時間

○三十三間堂

■江戸期は杜若の名所 『都名所図会』に「堂の傍らに池ありて、春の末より初夏に至り杜若咲き乱れて、濃むらさきの色、池の面に麗しく、京師の騒客、廻りの茶店に宴を催して、終日これを美賞す」と記されているがごとく、杜若の名所として有名であった。江戸期から洛陽三十三所観音霊場の第十七番札所(『京羽二重』)

■歴史 七条通の東端、東山区三十三間堂廻り町にある。正しくは蓮華王院。本尊千手観音坐像の前に二十八部衆、背後に一千体の千手観音立像を配する。名称は本堂の内陣の柱間が三十三あることに由来。蓮華王院の前身の得長寿院について『出来斎京土産』巻三は、「天承元年(1131)三月十三日に供養あり。導師は天台座主忠尋僧正なり。衆病悉除身心安楽とたからかに唱へ給ひけるに、その声京白川にひびきて辺土洛陽に上下男女二万三千人一時に癒たり。この故に異名は平癒寺と号すとかや」と記す。二代目の千体御堂は長寛二年(1164)後白河法皇の勅願で平清盛が建立。建長元年(1249)大火で焼失したが、文永三年(1266)に再興。天正十四年(1586)豊臣秀吉により北隣に方広寺が創建されて、その山内寺院(千手堂)となる。このとき太閤塀と称する巨大な塀や南大門が造られた。江戸初期から天台宗三門跡の一つ妙法院が管理。

○法住寺

道路を挟んで三十三間堂の東側にある天台宗の寺。本尊不動明王。もと大興徳院と称したが、後白河法皇の院の御所として創建した法住寺跡にちなみ昭和三十年に現称に改名。『雍州府志』に「養源院の南に在り。後白河法皇の像有り。毎年三月十三日開帳す(現在は毎年五月一日~七日)。又妙法院代々の塔有り。古に所謂法住寺は此の処に非るか」とある。

○養源院

道路を挟んで三十三間堂の東側(法住寺の北隣)にある浄土真宗遺迎院派の寺。本尊阿弥陀如来像。文禄三年(1594)淀君が父浅井長政ら一族の菩提を弔うため創建。寺号は長政の法号に基づく。元和五年(1619)火災で焼失したが、同七年淀君の妹崇源院(徳川秀忠夫人)が伏見城の遺構を移して再建、以来徳川家の菩提所。俵屋宗達筆と伝わる松図襖絵十二面・杉戸絵八面(いずれも重要文化財)が有名。庭は小堀遠州の作と伝える。

○妙法院

 三十三間堂の北東、東大路通に西面する天台宗の寺。山号は南叡山。本尊は普賢菩薩。永暦元年(1160)後白河法皇は、護持僧であった延暦寺西塔の本覚院の昌雲を別当として新熊野社を勧請。その際、昌雲が院の御所であった法住寺殿に接して本覚院の里坊を置いたのに始まる。鎌倉初期の尊性法親王(後高倉天皇の皇子)以来、代々法親王が入寺し、梶井門跡(三千院)や青蓮院門跡と並び天台宗三門跡の一つ。その後兵火で焼失したが、豊臣秀吉が方広寺を建立する時に当寺を経堂として再建。

不思議

棟木(むなぎ)の柳(三十三間堂)

『都名所図会』は三十三間堂の「棟木の柳」の由来について、「平等寺縁起(因幡堂)」を引用して次のように物語る。少し長いが、面白い話なので全文を引用しよう。

「そもそも後白河法皇はつねに頭痛の御悩みましませば、医療さまざまなりしかども、その験さらになし。あるとき熊野に御幸ありてこれを祈らせ給ふに、権現告げて宣ふやうは、洛陽因幡堂に天竺より渡る妙医あり。かれに治療を受け給へと。これによつて永暦二年(1161)二月二十二日、因幡堂に参籠してひたすら祈り給ふに、満ずる夜、貴僧忽然として、また告げて曰く。法皇の前世は熊野にあつて蓮華坊といふ人なり。海内(かいだい)を行脚して仏道を修行す。その薫功によつていま帝位に昇れり。されども前世の髑髏(どくろ)、いまだ朽ちずして岩田河の水底にあり。その頭より柳の樹貫きて生ゆる。風の吹くごとに動揺す。すなはち、いま身に響きてこの悩みをなせり。急ぎかの頭を取り上げなば苦悩を免るべしと。香水をもつて法皇の頂に(そそ)ぐと思しめして夢覚めたり。やがてかのところを見せし給ふに、河底より髑髏を得る。すなわち、これを観音の頭中に籠め、三十三間堂を建立して蓮華王院と号す。かの柳の樹を堂の梁となさしむ」と。江戸期には、この話をもとに「三十三間堂棟木の由来」という浄瑠璃ができた。今も毎年一月十五日に行われる「楊枝(ようじ)浄水(じょうすい)()(柳の御加持ともいう)は、後白河法皇が観音に祈願して頭痛を治した伝説に基づく行事である。


夜泣泉

夜泣(よなき)(せん)(三十三間堂)

三十三間堂の東の庭園の中央部にあるお堂の中にある。四角い井戸で石(かまち)に夜泣泉と刻してある。傍らに長方形の手水鉢と石の地蔵尊がある。寺伝では、三十三間堂創建の翌年(1165)、堂僧が夢のお告げで発見したという。『古今著聞集』に「八功徳水甘露利益の方便水にして貴賎汲みけれど尽きざりけり。また汲まぬ時も余らず不思議なりける事」とある。『都名所車』は名清水の一つにあげている。名の由来は、夜のしじまに水の湧き出す音が人の「すすり泣き」に似ているからという。いつの頃か傍らに地蔵尊が祭られ、特に幼児の「夜泣き封じ」に御利益があるとされてきた。今も、その御利益を求めて参拝する人が後を絶たない。

③法然塔(名号石)(三十三間堂)

 夜泣泉の傍らにある。寺伝では、元久元年(1204)土御門天皇が三十三間堂で後白河法皇の十三回忌を行った際、請いを受けた法然上人は「六時礼讃」という法要を修し、「南無阿弥陀仏」と書写して参集した人々に分け与えたという。この「六字の名号」が石に刻まれて、世に法然塔と呼ばれた。『山州名跡志』は「夜泣泉」を「(おとの)(みず)」と呼び、「古へこの傍らに法然上人六字自筆の石塔婆あり。今在る所の者は後世に立る所也」という。


法然塔


通し矢の行われた堂の西縁

④通し矢(三十三間堂)

通し矢は、堂の西の縁において、端から端まで六十六間(120メートル)を一昼夜に何本の矢を通すかで競われた。大矢数(おおやかず)ともいった。室町時代後期の洛中洛外図にも堂の傍らで弓を射る武士の姿が描かれている。『雍州府志』は、「近世、武家、射芸の者、初夏毎に此の堂に登り、暁より暮に至りて矢を放つ。その数一万に至る。その内、直に(あた)るもの、是を通り矢という」という。実際の記録について『都名所車』は、「寛文二年五月二日尾張の星野勘左衛門八千九筋。そののち貞享六年四月二十七日紀州の和佐大八八千百三筋なり」という。記録の検証は妙法院の寺侍が務めた。堂内に星野勘左衛門と和佐大八郎の「天下一」の掛額が残されている。和佐大八郎が天下一となったとき、若干十八歳であった。今は、毎年一月十五日の「柳の御加持」の結願にちなむ行事として弓の引き初め儀式があり、大いに賑わっている。

⑤南大門と太閤塀 (三十三間堂)

 三十三間堂の南大門は三間一戸の八脚門で、豊臣秀吉が文禄四年(1595)に建立した大仏殿方広寺の南門として築いたものと伝える。南大門から西に伸びる築地塀は高さ5.3メートル、長さ92メートルの重厚な建築物で、瓦に太閤桐の文様を用いていることから「太閤塀」と称されている。ともに重要文化財。ちなみに南大門と同時に建築された西大門は明治期に移築されて東寺の南大門になっている。


南大門

太閤塀瓦の紋様


⑥親鸞蕎麦喰木像(法住寺)

木像は親鸞自作の坐像と伝わる。親鸞が二十八歳の年、建仁元年(1201)延暦寺で修業中、毎夜比叡山を下って六角堂に百日間の参籠をした時、この木像が親鸞の身代わりになって留守居を勤めたという。親鸞の留守中、天台座主の召しに応じて他の僧とともに「そば」の振る舞いを受け、本人に成り代わって食べたという伝説が残る。『京都坊目誌』は、「摂取堂に親鸞蕎麦喰ひ像と称するものあり。今本尊を拝する者無く、蕎麦喰いの像のみ賽者多し。主客転倒す。呵々」と嘆くほど、有名な木像であった。

⑦四十七士木像(法住寺)

 山科に閑居して好機を待ち受けていた赤穂浪士大石内蔵助は、法住寺の身代り不動尊に詣でて大願成就を祈願。内蔵助にとって法住寺は、妙法院の院家であり宮方を通じて公儀の情勢が得やすかったこと、また、同志との連絡の場所としても便利であった。こうした因縁により、法住寺では、浪士の遺徳を伝えるため、四十七士の木像を安置したもの(『法住寺略縁起』)。木像の製作者や安置された時期は不明だが、四十七士のそれぞれは個性のある面構えしており、一体一体つぶさに見てゆくと面白い。


揚梅の木

(やま)(もも)(養源院)

本堂の左手にあるヤマモモの大木をいう。ヤマモモは常緑の高木で、果実は食用になる。豊臣秀吉が伏見城で手植えしたものを、後年この地に移植したものと伝える。根元から二つに分かれた幹を持ち、枝葉を半球形に四方に伸ばした樹勢は見事。東山名木の一つで、京都市指定保存樹。


⑨血天井(養源院)

本堂回廊の血痕が方々に附着した天井をいう。手足や顔のような形をした血痕がみてとれる。伏見落城の際、守将鳥居元忠ら三百数十人が自刃。血糊の付いた廊下の板を、霊を弔うというために、そのまま天井板として用いたものという。血天井は、宝泉院(三千院)、天珠院(妙心寺)、正伝寺(西賀茂)、源光庵(鷹が峰)、興聖寺(宇治)にも残されている。

⑩三方正面八方にらみの獅子(養源院)

本堂の杉戸絵八面は俵屋宗達の筆。どの杉戸絵を見ても奇抜な着想で描かれていて面白い。特に本堂玄関の杉戸絵は、三方正面八方にらみの獅子を描いたもので、獅子のひょうきんなご面相は見飽きない。重要文化財。

⑪大庫裏(妙法院)

 『京都坊目誌』に「寝殿の北にあり。慶長四年豊国社造営成り、その落成に際し、饗宴厨房のため建つる所。瓦屋なり。梁行十三間一分。桁行十三間二分。槻材を用ひ堅固なる築造とす。近時特別保護建造物に指定せらる」とある。近世の寺院建築では、庫裏は台所と住居を兼ねるものが多いが、この建物は大規模なのに台所専用というのが珍しい。建築美術的にみても、南側屋根上に張り出した煙出しの小棟は非常に印象的。


妙法院庫裏(国宝)



三十三間堂とその周辺不思議探訪(イメージ)


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