①棟木の柳(三十三間堂)
『都名所図会』は三十三間堂の「棟木の柳」の由来について、「平等寺縁起(因幡堂)」を引用して次のように物語る。少し長いが、面白い話なので全文を引用しよう。
「そもそも後白河法皇はつねに頭痛の御悩みましませば、医療さまざまなりしかども、その験さらになし。あるとき熊野に御幸ありてこれを祈らせ給ふに、権現告げて宣ふやうは、洛陽因幡堂に天竺より渡る妙医あり。かれに治療を受け給へと。これによつて永暦二年(1161)二月二十二日、因幡堂に参籠してひたすら祈り給ふに、満ずる夜、貴僧忽然として、また告げて曰く。法皇の前世は熊野にあつて蓮華坊といふ人なり。海内を行脚して仏道を修行す。その薫功によつていま帝位に昇れり。されども前世の髑髏、いまだ朽ちずして岩田河の水底にあり。その頭より柳の樹貫きて生ゆる。風の吹くごとに動揺す。すなはち、いま身に響きてこの悩みをなせり。急ぎかの頭を取り上げなば苦悩を免るべしと。香水をもつて法皇の頂に酒ぐと思しめして夢覚めたり。やがてかのところを見せし給ふに、河底より髑髏を得る。すなわち、これを観音の頭中に籠め、三十三間堂を建立して蓮華王院と号す。かの柳の樹を堂の梁となさしむ」と。江戸期には、この話をもとに「三十三間堂棟木の由来」という浄瑠璃ができた。今も毎年一月十五日に行われる「楊枝浄水供」(柳の御加持ともいう)は、後白河法皇が観音に祈願して頭痛を治した伝説に基づく行事である。
⑥親鸞蕎麦喰木像(法住寺)
木像は親鸞自作の坐像と伝わる。親鸞が二十八歳の年、建仁元年(1201)延暦寺で修業中、毎夜比叡山を下って六角堂に百日間の参籠をした時、この木像が親鸞の身代わりになって留守居を勤めたという。親鸞の留守中、天台座主の召しに応じて他の僧とともに「そば」の振る舞いを受け、本人に成り代わって食べたという伝説が残る。『京都坊目誌』は、「摂取堂に親鸞蕎麦喰ひ像と称するものあり。今本尊を拝する者無く、蕎麦喰いの像のみ賽者多し。主客転倒す。呵々」と嘆くほど、有名な木像であった。
⑦四十七士木像(法住寺)
山科に閑居して好機を待ち受けていた赤穂浪士大石内蔵助は、法住寺の身代り不動尊に詣でて大願成就を祈願。内蔵助にとって法住寺は、妙法院の院家であり宮方を通じて公儀の情勢が得やすかったこと、また、同志との連絡の場所としても便利であった。こうした因縁により、法住寺では、浪士の遺徳を伝えるため、四十七士の木像を安置したもの(『法住寺略縁起』)。木像の製作者や安置された時期は不明だが、四十七士のそれぞれは個性のある面構えしており、一体一体つぶさに見てゆくと面白い。
⑨血天井(養源院)
本堂回廊の血痕が方々に附着した天井をいう。手足や顔のような形をした血痕がみてとれる。伏見落城の際、守将鳥居元忠ら三百数十人が自刃。血糊の付いた廊下の板を、霊を弔うというために、そのまま天井板として用いたものという。血天井は、宝泉院(三千院)、天珠院(妙心寺)、正伝寺(西賀茂)、源光庵(鷹が峰)、興聖寺(宇治)にも残されている。
⑩三方正面八方にらみの獅子(養源院)
本堂の杉戸絵八面は俵屋宗達の筆。どの杉戸絵を見ても奇抜な着想で描かれていて面白い。特に本堂玄関の杉戸絵は、三方正面八方にらみの獅子を描いたもので、獅子のひょうきんなご面相は見飽きない。重要文化財。
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