■江戸期の南禅寺
今、南禅寺の境内は四万坪であるが、江戸期には十三万坪もあった。その広大な境内には、『雍州府志』・『菟藝泥赴』・『山城名勝志』などに「南禅寺十境」と讃えられた景観があった。その十境とは、①独秀峯(『雍州府志』は南禅寺十境の随一也という)、②羊角峯(鐘楼の上の峰)、③帰雲洞(方丈の北にある南院国師の塔所)、④拳龍池(勅使門前の池)、⑤曇華堂(仏殿)、⑥鎖春亭(勅使門近くの亭)、⑦蘿月菴(駒ヶ滝前蔵春峡の傍らの庵)、⑧綾戸廟(拳龍池の西にある南禅寺の鎮守)、⑨愈好亭(不詳)、⑩薝蔔林(衆寮)をいう。
■南禅寺の歴史
臨済宗南禅寺派の大本山。山号は瑞龍山。正しくは太平興国南禅禅寺。本尊釈迦牟尼仏。この地は古くは福地と呼ばれ、園城寺(三井寺)別院の最勝光院があったが衰退。文永元年(1264)亀山天皇が母大宮院の御所として離宮禅林寺殿を造営。正応四年(1291)禅寺に改め龍安山禅林禅寺としたのが南禅寺の起源。開山は無関普門(大明国師)。第二世規庵祖円(南院国師)のとき、七堂伽藍が完成。その後、後宇多天皇から「瑞龍山太平興国南禅禅寺」の宸額を賜り、これが現称となった。建武元年(1334)後醍醐天皇は、南禅寺を京都五山の第一位とした。その後、足利義満によって「天下五山之上」に列せられた。時代が下り、大火や兵乱で伽藍のほとんどが焼失したが、桃山・江戸期に豊臣・徳川家等の援助により法堂、方丈、三門などが再建。塔頭の金地院や南禅院なども逐次修築や再興がなされた。
|