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洛東
南禅寺

南禅寺三門

アクセス
JR京都駅→地下鉄烏丸線→烏丸御池駅→地下鉄東西線→蹴上駅
歩行距離等
歩行距離:4キロ
所要時間:3時間

■江戸期の南禅寺

今、南禅寺の境内は四万坪であるが、江戸期には十三万坪もあった。その広大な境内には、『雍州府志』・『菟藝泥赴』・『山城名勝志』などに「南禅寺十境」と讃えられた景観があった。その十境とは、①独秀峯(『雍州府志』は南禅寺十境の随一也という)、②羊角峯(鐘楼の上の峰)、③帰雲洞(方丈の北にある南院国師の塔所)、④拳龍池(勅使門前の池)、⑤(どん)()堂(仏殿)、鎖春亭(勅使門近くの亭)、蘿月(らげつ)菴(駒ヶ前蔵春峡の傍らの庵)、綾戸廟(拳龍池の西にある南禅寺の鎮守)、()(こう)亭(不詳)、薝蔔(たんほく)(りん)(衆寮)をいう

■南禅寺の歴史

臨済宗南禅寺派の大本山。山号は瑞龍山。正しくは太平興国南禅禅寺。本尊釈迦牟尼仏。この地は古くは福地と呼ばれ、園城寺(三井寺)別院の最勝光院があったが衰退。文永元年(1264)亀山天皇が母大宮院の御所として離宮禅林寺殿を造営。正応四年(1291)禅寺に改め龍安山禅林禅寺としたのが南禅寺の起源。開山は無関普門(大明国師)。第二世規庵祖円(南院国師)のとき、七堂伽藍が完成。その後、後宇多天皇から「瑞龍山太平興国南禅禅寺」の宸額を賜り、これが現称となった。建武元年(1334)後醍醐天皇は、南禅寺を京都五山の第一位とした。その後、足利義満によって「天下五山之上」に列せられた。時代が下り、大火や兵乱で伽藍のほとんどが焼失したが、桃山・江戸期に豊臣・徳川家等の援助により法堂、方丈、三門などが再建。塔頭の金地院や南禅院なども逐次修築や再興がなされた。


江戸期の南禅寺(都名所図会)





南禅寺の不思議

①総門

地下鉄東西線「蹴上」駅前の三条通り西約500メートルにある岡崎通り交差点を右折、北に約100メートルで再度右折すると、すぐにある。もとはインクラインの上に架かる南禅寺橋の袂にあったが、琵琶湖疏水工事のため明治十九年(1886)、現在地に移築された。本瓦葺・切妻の簡素な高麗門で、「南禅惣門」と記されている。昔はここからが旧境内で、中門まで松並木が続いていたという。頼山陽が「人に遇うて南禅寺を問うことをやめよ、一帯青松、路迷わず」と詠んだ道でもある。


総門

順正書院跡

②順正書院跡

 南禅寺橋の東、(あや)(との)小路(こうじ)に南面した料亭「順正」は、江戸後期の蘭方医新宮凉庭(17871854)が天保十三年(1842)頃に開設した医学・経学に関する学問所「順正書院」の遺構である。表門をはじめ、玄関、講堂などの建築物は順正書院のもので、ほぼ建築当時のまま残されている。玄関に掲げられた「順正書院」と記された額は、京都所司代間部詮勝(180484。福井鯖江藩主。のち老中。松堂と号す)が揮毫したものという。登録有形文化財。『京都坊目誌』に「近古医家新宮凉庭の設くる学校也。講堂、文庫、其の他の建物あり。堂には佐藤一齋、篠崎小竹等の筆する扁額を掲く。今尚子孫之を継承す」とある。文久二年(1862)刊行の『花洛名勝図会』は、順正書院の全景を細密に描く。新宮凉庭の墓は南禅寺塔頭の天授庵にある。

③綾戸大明神

南禅寺会館の駐車場の南西隅の築山に鎮座している瓦葺・流造の小さな祠をいう。古くは綾戸廟とか綾戸の宮の社といい、南禅寺十境の一つであった。『雍州府志』に、「南禅寺の中に在り。則ち鎮守となす。相伝ふ。この地亀山法皇の離宮たり。牛を飼ふ人綾戸小路に居り。常に醇酒を醸し之を献す。帝之を愛し給ふ。死後霊有り。土人之を視る。応永年中(13941428)伯英和尚、之を廟に改造す。伯英は南禅寺大寧院之住にして入唐の僧也」とある。前の道路は、綾戸大明神にちなみ綾戸小路という。


綾戸大明神

拳龍池

④拳龍池

南禅寺会館の東、勅使門の西にある池をいい、石造の反橋が架されている。『京都坊目誌』は、南禅寺の山号「瑞龍」に因み、この名があるという。南禅寺十境の一つ。『都花月名所』は、この池を綾戸池と呼び、蓮の名所に挙げている。江戸時代と同様、今も多数の蓮が植わっている。

⑤勅使門

拳龍池の東、三門の西にある。桧皮葺の四脚門で桃山時代の様式を伝える。御所の日華門であったが、南禅寺の懇請により、寛永十八年(1641)明正天皇(後水尾天皇と徳川和子の皇女)より賜ったと伝える。『京都坊目誌』は、「古へ之を天下龍門と云ふ。桧皮葺四足也。寛永十八年明正天皇勅して日華門を賜ひ之に移築すと云ふ。常に(とざ)す。勅使来山又は住持普山の時、開くのみ」という。重要文化財。

 


勅使門

石灯籠

⑥石灯籠

 三門下段の右手にある。高さ6メートルに達し、大きさでは日本有数。『京都坊目誌』は、「白川石にして希代の大作也。形六角総高二丈六尺軸長五尺六寸。周囲一丈八寸。基石一丈一尺。銘云。寛永五年(1628)九月十五日、佐久間勝之、之を寄進す」とある。『都花月名所』は名石の部に、この大灯籠を挙げる。佐久間勝之は、柴田勝家の元家臣で、大坂の陣で戦功を挙げ信濃長沼藩主となった。上野東照宮にあるお化け灯籠(高さ6.8メートル)、名古屋熱田神宮の大灯籠も勝之の寄進で、南禅寺の石灯籠と合わせて「日本三大灯籠」と呼ばれる。

⑦三門

勅使門の東、上段の地にある。五間三戸、重層。屋根は入母屋造り、本瓦葺。左右に山廊を付している。寛永五年(1628)藤堂高虎の寄進で再建されたもので、天下龍門と呼ばれる(『京都坊目誌』は勅使門を天下龍門という)。重要文化財。『雍州府志』は、「斯く寺三門中絶。慶長年中摂州大坂陣の後、藤堂高虎(しばら)く聴松院に寓する時、之を嘆き再興す。高虎、大坂之役に大功有り。相従ふ者の数人戦死す。これに於いて自他の結縁となし、各位の牌を閣上に置き、之を追善す」とある。上層内部は、聖観音像を中心として左右に十六羅漢像・徳川家康・藤堂高虎・金地院崇伝の像が安置されている。天井には狩野探幽の筆になる天人・鳳凰図が描かれていることから、五鳳楼と呼ばれる。

歌舞伎の「楼門(さんもん)五三(ごさんの)(きり)(初世並木五瓶作)では、三門に天下の盗賊石川五右衛門が棲み、都を眺めて「絶景かな絶景かな。春の眺めは価千金とは小さなたとえ。己の目には一目万両。はてうららかな眺めじゃなあ」とうそぶく。ただしこれは史実ではなく、三門は、五右衛門が刑死して三十数年後に建立されている。


三門

方丈

⑧方丈

 法堂の東にある。大方丈とその奥に続く小方丈から成る。大方丈は入母屋造り、杮葺の建物で、天正年間豊臣秀吉が寄進した御所の清涼殿を慶長十六年(1611)後陽成天皇から賜ったものという。小方丈は桃山城の小書院を移築したもの。いずれも、桃山時代寝殿造の代表的建築物で国宝。『京都坊目誌』は、「大方丈は南禅寺仏殿の後にあり。特別保護建造物なり。始め天正十八年、豊臣秀吉の造進する所の清涼殿也。慶長十六年、後陽成帝、勅して之を賜ひ移築す。額あり毘盧頂と号す。僧乾峰の筆。往時の建物中央を龍淵室と云ふ。今尚襲名せり。東の間上壇金張附。鳴龍の図及び花鳥図は狩野元信の筆。中間二十四季の図は狩野永徳筆。西の間花鳥の図も同筆とす。共に有名也。小方丈は右に続く。之を資福堂と号す。伏見桃山城の旧殿にして、徳川氏の寄進也。之を虎之間と云ふ。竹林虎豹の図を描くを以てなり。狩野探幽の筆なりと」という。

方丈庭園(虎の子渡し)

大方丈に南面する禅院式枯山水庭園をいう。方丈(清涼殿)、庭園、借景の羊角嶺(大日山をいう。南禅寺十境の一つ)が渾然一体となった、趣のある庭園である。白砂と塀際に置かれた大小五つの石は、あたかも流れを渡る親子の虎を連想させることから、「虎の子渡し」と称されている。名勝。『京都坊目誌』は、「庭園は虎の子渡しと称す。龍安寺に似て非也。畳石の配置按配凡に超越し。平地白沙を敷く。頗る快濶なり。伝て小堀政一の作庭と云ふ」という。名勝。

 


方丈庭園

水路閣

⑩水路閣

 塔頭南禅院の手前を東西に横断している水路橋をいう。琵琶湖第二疏水の一部。田辺朔郎が設計したもので、全長93メートル、半円アーチ式煉瓦造で明治二十一年に完成。建設当時は、古い寺院の境内に最新式の建造物を築造するということで物議を醸したようだ。『京都坊目誌』にも「古風の建造物と欧州式の橋台と相対照して異様の感あり。竟に風致と新事業とは伴随せず。惜むべし」とある。しかし、築造してから百数十年経過した現在、程よく風化した煉瓦のアーチと古い禅刹が溶け込んで、素晴らしい景観美を演出している。特に紅葉の頃が見事だ。京都市史跡。

⑪駒ヶ滝

 水路閣をくぐった東にある最勝院の右手を渓(蔵春峡)沿いに南禅寺山(独秀峰)を登ると、西面して道智僧正を祀る祠がある。ここらあたりは、江戸期には「神仙佳境」と呼ばれた。その背後に、樋から細流が落ちている高さ6メートルほどの滝がある。滝の右手に不動明王が祀られている。あまり見栄えがよくないので、『京城勝覧』は「よき滝にはあらず」と記す。しかし、南禅寺創建にかかわる怪異話では有名な滝で、多くの地誌に紹介されている。例えば『東北歴覧記』には、「古へ三井寺最勝光院の僧正道智、この地に住す。山上に駒の瀑あるにより、世に駒の僧正と称す。その霊、この地を惜しみけるか、昼夜妖怪千変万化なり。亀山法皇有験の高僧を召集、種々加持の法を行はしめ玉ひけれども、やまず。時に東福寺釈(無関)普門を召す。普門命を奉り二十口の僧侶を率ひ、宮中に安居すること九旬、別の行法もなく、唯二時の斎粥、四時の座禅のみ也。変怪忽ち止み、上下安寝せり。叡感の余り、宮を革して寺とし玉ふなり」と記す。『名所都鳥』もは、「むかし南禅の地は、もと三井寺の派。道智僧正の住する所也。遷化の後もこの地の南禅寺となる事を深く惜しみ。まのあたり白き駒に乗りて、この滝のほとりにあらわれ、南禅寺を見おろす時には、かならず祟をなす。これによって駒の僧正と号す。今にいたって南禅寺の法堂に。道智が位牌を建。祭る也」というが如くである。

 


駒ケ滝

曹源池

曹源池(南禅院)

南禅院は水路閣の南にある南禅寺の別院で、曹源池はその林泉。南禅院は、亀山上皇の離宮禅林寺殿上宮の跡で、上皇崩御後遺命により分骨が埋葬された。応仁の乱後衰退したが、元禄十六年(1703)徳川綱吉の母桂昌院が再興。曹源池は上皇の離宮が営まれた際に作庭されたものといい、池泉回遊式。中央に心字島がある。『都林泉名勝図会』に「鮮にして実に日月を扶助するの霊境也」とある。『京都坊目誌』も「林泉は山内第一とす。東に羊角嶺ありて、独秀峰を背ひ、渓谷より落る飛泉は注で曹源池に入る。樹木繁茂し、極めて幽静なり」と記す。

⑬明智門(金地院)

 金地院は南禅寺の塔頭。応永年間(13941428)足利義持の帰依を受けた大業徳基が洛北鷹ヶ峰に創建したと伝える。慶長十年(1605)頃南禅寺の中興開山以心崇伝が現在地に移建、伏見城の旧殿を移築して方丈とした。以心崇伝(15691633)は金地院崇伝ともいい、徳川家康に召されて宗政や外交に辣腕を揮った。僧禄司にも任ぜられ、全国の禅宗寺院を掌握した。『京城勝覧』に「子院の内、金地院奇麗なり。伝を求め見るべし」とあるように江戸期は非公開の寺院であった。明智門は表門を入った左にある割合簡素な造りの唐門で、天正年間(157392)明智光秀が母の菩提を弔うため建立したもの。もと大徳寺にあったが、明治元年に移築された。

明智門








東照宮

⑭東照宮(金地院)

拝殿・本殿と中央の石の間からなる権現造りの社。屋根は入母屋造りで本瓦葺である。拝殿天井には狩野探幽が描いた鳴龍の図がある。崇伝が徳川家康の遺髪と念持仏を奉戴して寛永五年(1628)に造営したもの。『山城寺社物語』に「権現様の御玉屋は金地院にあり。参詣ならず」とある。重要文化財。

⑮鶴亀の庭(金地院)

 方丈に南面する枯山水の庭園。東西に長い長方形をしており、一面に白砂を敷き、右に鶴島、左に亀島を置いた蓬莱式枯山水庭園である。かれさんかい表す石組を置く。鶴島と亀島の間には、蓬莱連山を表す三尊石組や東照宮を遙拝するための長方形の大きな平石(遙拝石と呼ばれる)などがある。寺伝によるとこの庭園は、小堀遠州の作庭というが、実際は遠州が崇伝の依頼を受けて設計、庭師賢庭が作庭に当たったもの。特別名勝。

 


鶴亀の庭

⑯八窓席(金地院)

茶室(はっ)窓席(そうのせき)は、方丈北側の書院にある小堀遠州好みの三畳台目の茶席。創建当時には窓が八つあったので、その名がある。明治期の修築により窓が二つなくなって現在は六つの窓が残る。大徳寺の孤篷庵の忘筌席、曼殊院の八窓席とともに、京都三名席の一つ。重要文化財。

⑰ネジリマンポ

金地院から蹴上方面に抜けるインクライン下のトンネルをいう。インクラインの軌道とトンネルが斜めに交わっているため「ネジリマンポ」工法が用いられており、それがそのままトンネルの名となった。建築技術的にも優れたものとして名高い。蹴上側のトンネル入口上部には、明治二十三年竣工した琵琶湖疏水の功労者、第三代京都府知事北垣国道が揮毫した「雄觀奇想」(見事な眺めとすぐれた発想という意味)と記した額を掲げる。


ネジリマンポ

「雄観奇想」と記した額
南禅寺不思議探訪順路図(イメージ)



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