○上賀茂神社
■江戸期の上賀茂社 『都名所車』に「古今無双の神地なり。諸国の旅人上京あらば先ず上下の社へ参詣すべし。まして都の人は参詣せでかなはぬ御神也。身を潔くして神拝すべし。遊山などの時は畏れ敬ひ神前に近づくべからず」とある。上賀茂社は延喜式神名帳の式内社で、山城国一の宮といわれた。江戸期の社領は二千七百石で、山城国では岩清水八幡宮の七千四十石、延暦寺の五千石、醍醐寺(上醍醐)の四千石に次ぐ大社であった(ちなみに下鴨神社は五百四十石)。
■歴史 祭神は賀茂別雷大神。正しくは賀茂別雷神社。下鴨神社とともに賀茂社と総称し、当社を上社、下鴨神社を下社と呼ぶ。祭神の賀茂別雷大神の母玉依媛命、祖父賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。『山城国風土記』逸文によれば、賀茂建角身命が日向国の曾の峰に降臨し、伊可古夜日売を娶って玉依日子と玉依日売(姫)が生まれたという。かつてこの地に勢力があった賀茂県主家の奉祭する氏神神社が始まりとされる。平安遷都の時に桓武天皇が行幸して以来、王城鎮護の神とされ、歴代の天皇の行幸があった。また、武家の信仰も篤く、なかでも徳川家康は、家紋の三つ葉葵が当社の神紋に由来するため篤く信仰した。弘仁元年(810)嵯峨天皇が賀茂斎院の制を設け、皇女の有智子内親王を斎院として以後、約400年間斎院がたてられた。
■見どころ 正面右側の本殿、左側の権殿は文久三年(1863)の造替で、ともに三間社流造で国宝。境内に建つ社殿の多くは重要文化財。玉橋の下の流れは御物忌川といい、御手洗川と合流して「ならの小川」となる。世界文化遺産。
○下鴨神社
■江戸期の下鴨社 『京童』に「当社の御事は、上にて(上賀茂社のこと)あらはし侍るごとく御祖の神と申奉る。玉より姫これ也。かの丹塗りの矢に鴨の羽あれば、この所を鴨といふなるぞ」とある。下賀茂神社でなくて下鴨神社である由縁を説いているが、一説では鴨川のそばにあるから下鴨神社というなど、現在に至るまで定説はない。→巻末絵図7(下加茂御本社)
■歴史 祭神は賀茂建角身命と玉依媛命。正しくは賀茂御祖神社。古くは賀茂県主家の奉斎する氏神であったという。上賀茂神社を上社、当社を下社と略称し、賀茂社と総称する。祭神の賀茂建角身命は上賀茂神社の祭神賀茂別雷大神の外祖父で玉依媛はその母に当たる。平安遷都後は王城鎮護の社として朝廷はじめ公家や武家の崇敬を集めた。
見どころ 社叢は糺の森といい、古代祭祀の遺構が発見されている。面積約12万平方メートルで樹齢数百年に及ぶ五千本の古樹が生い茂っており、国の史跡に指定されている。境内には摂社の河合神社・三井神社・出雲井於神社、末社の言社・印璽社などが建ち、境外摂社として御蔭神社がある。東本殿と西本殿は文久三年(1863)の立替。ともに三間社流造で国宝。その他、境内の社殿は寛永六年(1629)徳川家の支援による再興で、その多くが重要文化財。世界文化遺産。
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