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小 説・記 述
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大阪城公園      2002年

私の水泳人生     2000年

電磁波問題雑感   1996年

鳥の世界は       1996年

一幅の絵       1996年

夜 空         1993年

人生タイムテーブル 1992年


  大阪城公園     2002年  1月     JA3ARI

   昨年2001年、化粧直しを終えた大阪城は綺麗になりました。豊臣秀吉により建てられた大阪城は徳川家康に攻められ落城し、徳川家康によって再建されま したが落雷?により焼失しました。その後、市民の寄付により再建されました。この再建された大阪城は、徳川家康が再建した大阪城ではなく、豊臣秀吉が全盛 時に建てた華麗な大阪城が再現されております。
   この大阪城は鉄筋コンクリート造りで、中にエレベーターもあります。エレベーターで天守閣最上階に登り展望を楽しめます。残念ながら天守閣は70数メー トルしかありませんので通天閣や隣のツインタワーの方が高いのですが、これはこれで城主になった気分で良い眺めです。それから順次階段で降りますと豊臣秀 吉ゆかりの刀、かぶと、その他沢山の資料が展示されており、1階に降りるまでに多くの歴史を学び、知識が身に付くでしょう。夜は10時までライトアップさ れて綺麗です。大阪城へは地下鉄天満橋または谷町4丁目が最寄り駅です。

  大阪城公園はツインタワーのある京橋から環状線森ノ宮まで大 阪城の東側に広がっている広大な土地です。大阪城公園にはJR環状線、大阪城公園駅で降りるのが最寄りですが、この場所は明治の昔から砲兵工廠で大砲など を造っていました。司馬遼太郎著の「坂の上の雲」にも書かれていますが日露戦争の時は大活躍しました。当然の事ながら大東亜戦争(太平洋戦争)時にも軍需 工場として兵器を量産して居ましたから米軍の攻撃目標となりました。この目印が大阪城でありましたから大阪城の隣が跡形も無くなる程爆撃されたにもかかわ らず大阪城が無傷だったのはその様なわけがあるのです。同時にJOBK(NHK大阪放送局)が爆撃されなかったのは、米軍がそれをビーコン代わりに使って いたからです。ガム島や硫黄島から飛来する米軍のB29はJOBKの電波に誘導され、大阪に来れば大阪城を目印に爆撃していたわけです。私も疎開するまで は晴天にB29が悠々と飛んでいるのを幾度も見ました。機体のジュラルミンがきらきら光ってまぶしいくらいでした。味方の戦闘機などは姿もありませんでし た。代わりにグラマン戦闘機がパイロットの姿が見えるくらいの低空で飛んでいました。その頃、大阪環状線は省線(鉄道省)と呼ばれ、私は都島に住んでいま したから親に連れられ桜宮から省線に乗った記憶があります。13日の大空襲があって、こちらも危ないと知らされ大急ぎで疎開しました。疎開先の話は「私の 水泳人生」に記載していますので省略しますが、空襲で焼けたと聞いたあと親に連れられ私達の住んでいた所に行くと辺り一面焼け野原になっていました。私の 家の防空壕は残っていましたがその中にいては恐らく生きてはいられまいと思いました。その後、国鉄城東線(大阪城の東側を走る線)と呼ばれて居ました。戦 後は幾度も京橋駅から乗って森ノ宮駅までのあいだの赤い鉄骨だけがむき出しになっている廃墟のような情景が目に焼き付いています。どれだけ沢山の爆弾が落 とされたのか、犠牲者も沢山出ました。それは長い間そのままにされていました。詳しい事は知りませんが、それは城東線が環状線と呼ばれる頃まで放置されて いた様に思います。日本の経済が復興し成長して行くに従って京橋側からツインタワーを始め多くの高層ビル群が出現し、森ノ宮までの広大な土地は大阪城公園 として再生されたのです。


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  私の水泳人生     2000年  3月     JA3ARI

   私は親に連れられて大阪市都島本通りから、生駒山麓が近い片町線(今は学研都市線)の星田駅近く、寝屋と言う所に疎開した。国民学校1年生の時だった。 そして2年生で終戦を迎え、校長先生が運動場に生徒を集め「今日から小学校になりました、英語でプライマリスクールと言います」と高らかに言い放ったのを 憶えています。
  戦争が終わって3年生の夏は友達と生駒山麓の池に泳ぎに行きました。それは山奥の池で殆ど人が訪れない池です。当時、池で泳ぐ ことは学校で禁じられていましたから人に見られては困るのです。今から考えると非常に危険なことをやっていたようです。何故かって、私は泳ぎを知らないか らです。そこで友達に犬かきを教えて貰いました。50cmか1mぐらいは泳げ、水際でばたばたやっていました。
  ある日そこへ年長組のグループ がやってきて一緒に泳いでいましたが、その1人が突然、私を池の中央へ引っ張って行き放したのです。私は必死に泳ぎました、もちろん犬かきで。途中で何回 も水を飲んだ事を憶えています。大人が見れば身震いするような事を当時は平気でやっていたようです。
  やっとの思いで岸にたどり着きましたが、 顔は青ざめていたと思います。しかし、それがきっかけで私は池の披(ひ、池の水を抜く栓、杭・・・この字だと思うが間違っているかも)迄泳げるようになり ました。その距離は2〜3mでしたが。そして犬かきからカエル泳ぎになり、その距離も伸び池の中央まで往復できるようになりました。
  そしてあちらこちらの池に泳ぎに行きました。その頃の水着は褌で、駄菓子屋で売っている黒い三角形の布の三方から紐が出ている簡単なふんどしで、何時 もポケットの中に入っていましたから、これがあれば何時でも何処でも泳げたのです。
  時に先生が池を見回って来ましたから逃げたり、披(ひ、これが結構大きい柱の栓で)の陰に隠れて先生が去るまでじっとしていた事もあります。脱いだ衣 服は、この様な時の事を考えて見付からないような所に隠していました。
   私が疎開した先は、実は産業経済新聞社の山の家で、敷地内には竹藪が3山、栗林が1面、畑が4面、その間に池が3っありました。春には筍掘り、秋の台風 が過ぎた後は栗拾いをやりました。芋掘りや野菜の収穫は半分強制で手伝わされましたが、今では楽しい思い出になっております。
  終戦直後には都 会から遠い私の家まで少しの伝手を頼って多くのお客さんが来訪されました。その度に私の飼っている(正確には飼育の世話を命じられている)ニワトリやウサ ギが1匹ずつ減って行くのです。来客を歓待するために、すき焼きをするのですが、その肉になりました。もっとも私もお相伴しましたが。
  そして 帰りには唐草模様の大きな風呂敷にサツマイモを一杯詰めてお土産にしました。帰りがけに両親がいつも言う言葉を憶えておりますが「この次は遠慮せずに リュックサックを持ってきて下さいね」。お土産は芋が主で筍や野菜になりますが田圃が無かったのでお米が穫れなかったのです。お米は近くの農家から分けて 貰うことになりますが十分でなく、来客用が主で、私たちの常食はサツマイモや畑で穫れた小麦の粉やマッカーサーの配給の脱脂小麦粉(メリケン粉)で作った 「だんご汁」でした。
  さて、話が横道に逸れましたが、その3っある池の一番下の池が砂浜のような砂地が出来ており、泳ぎやすかったので友達 と、その池でよく泳ぎました。対岸に松の木が手頃な枝を伸ばしているので、そこが飛び込み台代わりになり、代わる代わる飛び込んで遊んでいました。ある 日、その木を見ますと白蛇が登って行くではありませんか。驚きましたが反面、白蛇は神様の使いと聞いておりましたから安堵したように記憶しております。
   記憶と言えば、私たちがその池で泳いでいますと近くの警官住宅に住んでいる若奥さんが通りかかって「私も泳ご!」と、すっぽんぽんになって池に入ってき たのには驚きました。山里深く人も殆ど通らない池で、泳いでいるのは子供ばかりとは言え大胆な。その頃は娯楽も少ないとは言え、若い元気なお巡りさんの事 で子供も沢山生まれ、末の子に「ますみ」と付けても次の子が産まれると言う人でしたから、私はその裸を見て子供心に「あーぁ体の線が崩れてる」と思ったの を憶えています。
  小学校も高学年になって寝屋川町の小学校に転校しました。越境入学で、その小学校まで山道と言ってもけものみちの様なところ を歩いて通いました。(今では宅地開発されて山などなく住宅街になって昔の面影はありません)暫くして寝屋川町に転居しましたので越境入学ではなくなりま した。寝屋に居た頃は寝屋川の源流も小さな小川で、よく堰き止めて魚をとりました。周りの土で堰き止めるので、そんなに時間はありません、ほんの短時間で すがそれでも水の流れなくなった下流でドジョウやもろこ、ふな、エビガニ、たまにはカニなども獲れました。堰は破れ再び元の川に戻りますがこれを我々は 「じゃっかい」又は「じゃっかき」と言っていました、北河内の方言でしょうか。
  寝屋川町には名前の通り寝屋川が流れております。この寝屋川は 上流のいくつかの川が合流し、現在の寝屋川市駅の横を今も流れていますが川が二つ平行して流れています。この川を一つは良水と言い他の一つは悪水と呼ばれ ていました。別に一つは綺麗で一つは汚いと言うわけではなく、何故そう呼ばれたのか長老にでも聞いてみないと分かりませんが、この川で良く泳ぎました。場 所は現在の寝屋川市駅の直ぐ側です。只泳ぐだけでなく鬼ごっこをやりました。鬼になった者が誰かを捕まえ、掴まった者が今度は鬼になるルールです。この寝 屋川の2本の川には実は両川を通ずる大きな土管で貫通されていたのです。この川は水の中では繋がっていたのです。
  鬼ごっこで逃げる際、飛び込 んでまっすぐ行かず直ぐ曲がる術を会得して鬼をやり過ごすなど、追う側逃げる側の知恵合戦ですが、この土管の中を潜り良水から悪水へ、悪水から良水へ逃げ 回ります。今でも水の中で多分外から見えないと思いますし、今では柵が為されて川へは立ち入り出来ません。川と川を挟む土手は8mはあったかと思います。 この土管の中を潜水して抜けるのですが、何しろ身体には浮力があるので土管の上部に吸い付けられる様な作用が働きます。これに逆らって身体を下方に持って 行くよう必死に泳ぎました。誰も事故が無かったから良かったものの、今から考えれば、ゾッとするような事を無鉄砲にやっていたものです。土管に吸い付けら れれば身動きできず水死間違い無しです。また、川の水は潜れば見えなくなる程度の汚れがあり、視界は余り良くなかった。だから鬼から身を隠す事が出来たわ けですが、今から考えると汚い水の中で泳いでいたものです。因みにこの川は萱島から四条畷、野崎、住道、京橋を経て天満橋のたもと桜宮公園で淀川に合流し ます。昔の「野崎詣りは屋形船で参ろう・・・」(東海林太郎、唄)は、この寝屋川をのぼって野崎の観音さんへお詣りした情景を唄ったものです。「野崎参 り」と言う上方落語もあります。
  さて、中学生になりますと行動範囲が広くなります。川や池で泳いでいるわけには参りません。とは言え昨今のよ うに近くにプールなど無く、寝屋川から扇町の大阪プールや扇町プールまで遠征していました。扇町の大阪プールは深さが180cmもあり、真ん中は背が立ち ません。従って中学生以上が入場の資格です。大阪プールもよく出かけましたが、夏は何と言っても海で、南海沿線の海水浴場に出かけましたが私が一番よく 行ったのは助松海水浴場です。他の海水浴場にも行きましたが、やはり助松が常連ようで一番記憶にあります。
  近くには大阪府立短期大学(現在は 大阪府立工業専門学校)があり、そこにはプールがあります。しかし一般は入れません。ところが幸いなことに、そこの先生の息子さんが居りまして、その息子 さんとは同級で友達だったので息子さんと一緒だとプールで泳ぐことが出来ました。泳いでいると水泳部のお兄さんが「お前のクロールは天然自然流やな」と 言って型を直してくれました。このお陰でスピードがぐんと上がりました。中学生で25m18秒を記録したので早速青年団のリレー選手に選別されました。

   小学校で組み立てた鉱石ラジオがスタートで、中学生の頃はご近所の注文を受け5球スーパーラジオを組み立てて小遣いを貯め、高周波増幅1段付きの6球 スーパーラジオを自作してBCL(国内の民間放送や海外の中波放送リスナー)やSWL(海外の短波放送リスナー)を始めていましたが高校受験で中断。高校 に入学してからは、日本短波クラブ(JSWC会員No.332本部、仙台市)のDXer(遠距離放送受信者)としてSWLに専念しました。私のDX(遠距 離受信)レポートは当時のラジオ京都DXタイム、ラジオ神戸のDXアワーで度々放送されました。Hi−Fiオーディオにも凝り、水泳は殆どお休み。その挙 げ句、大学受験の時期になりました。その頃には未だ府立高校以下、中学校小学校にプールは設置されていませんでした。
  大学時代は音響工学研究 会に所属、オーディオとアマチュア無線が趣味を占め、誘いがあれば海へ泳ぎに行く程度。そして社会人になって、ますます水泳とは遠のくばかり。会社のグ ループでキャンプに行ったりはしますが、主に遊びで泳ぐ程度。仕事仕事に追いまくられ、子供が出来て夏休みは海へ、丹後半島の琴引が浜へ10年通ったら子 供が中学生になり琴引きが浜を卒業。以後泳ぐ機会は皆無。

  時が過ぎ、1993年5月1日、会社の同僚が宝塚のプールへ泳ぎに行ってい ると聞いたので同行する。場所は宝塚スポーツセンター内にある温水プールです。健康のためと始めましたが最初は50m泳ぐのも苦しく、肺に空気ばかり溜 まって苦しい。でも1週間に1回を目標にして通う内、泳ぐ距離も伸び、1000mをノルマに決める。
  以後、調子の良い時は1500m、調子の悪い時でも1100m、平均して1300mは泳いでいる。その結果、2000年2月一杯で238回を数えまし た。平均1300mとして309Kmを泳いだことになりますので、これを機会に水泳自分史を書き留める事にしました。

   まだまだこれからも続けるつもりでおります。泳種は犬かきは勿論クロール、平泳ぎ、横泳ぎ、背泳ぎ、抜き手(2種類)、立ち泳ぎ、ホバリング、潜水、飛 び込み(5mH)などが出来ます。(あるいは若い頃には出来ましたと言うべきものもあります) 最近のプールは安全第一で深さが1m〜1m20cm程度で 飛び込みも出来ませんから子供たちには気の毒な事です。少なくとも、先の大阪プールでは自由に飛び込みが出来ましたから、型も訓練で整いますが、今の子供 は恐らく頭から飛び込む事は選手にでもならない限り出来ないでしょう。世の中なんでもかんでも過保護になって子供たちが自由に遊べなくなっています。私た ちが少年の頃は、小川に掛かる土橋に欄干など無く、自転車で渡る際、何度も自転車もろとも小川に落ちたものです。これも不思議なもので自信があれば難なく 渡れるので殆ど成功していますが、時として不安が頭をよぎった時、失敗してしまうのです。水たまりを飛ぶとき、自信を持って飛べば成功するが、どうかなと 不安がよぎったときは、必ずと言って良いほど飛びきれず水を跳ねてしまうことがあるでしょう。これは小川を飛び越えるときも同じで片足ぐらいは小川に足を 突っ込んでいました。
  このような土橋に欄干を付けるような余裕も無い時代でしたから、何度落ちても、「お前が悪いのだ、ちゃんとバランスを 取って渡れ」と言われておしまいでした。自転車は子供用なんて贅沢な物は無く、小学校低学年では大人用の自転車を、足が届かないので三角乗りと言って、三 角形のフレームの間から足を入れて反対側のペダル踏むため、どうしても自転車は斜めになります。そして常に立って漕ぎます。したがって荷台に荷物を載せて いると、その重量と体重のバランスを取りながら斜めになった自転車を運転せねばならず。ふつうに自転車を乗るより不安定です。
  物が不足してい たから、今ある物を工夫して使う。考えて物を作る。親も苦労していたから子供も親の仕事を手伝うようになる、或いは手伝わさせられた。この事によって親の 知恵や考え(モラル)が子供に伝わる。親の使っている敬語を聞いていて、自分が一人でお遣いに出たとき親の真似をする。すると相手は「良くできた賢いお子 さんですね」と褒めてくれる。親から子へのこのような習慣が無くなって久しく、子供は親から何も教えて貰えなくなっている。私たちの子供の頃は不便で苦し かった時代かも知れないが、情操は豊かだったのかも知れませんね。

  文末に余計なことを書いてしまいましたが、これが2000年2月までの私の水泳人生です。
                         おしまい


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  電磁波問題雑感    1996年 5月    JA3ARI

  短編小説「鳥の世界は」を作るヒントになりました。この話を読んで頂いた後に「鳥の世界は」を読まれますと話の中身が分かっていただけると思います。

   以前から電磁波が問題になっていたのをご存じでしょうか。始めに携帯電話の話をしますが、携帯電話は元々電子調理器いわゆる電子レンジの周波数を立ち退 かせてその周波数を使用して発展している物なのです。ですからアメリカでは出力6W以上は危険だとしています。日本の携帯電話は0.7W程度ですから安全 ですが、長電話をしますと脳が沸いてくるかも知れませんよ。・・・・・いやこれは携帯電話を持っていない者のやっかみで言っているのです。ハイ

   日本人の場合は、あまり神経質ではなく、タバコにしてもアメリカではやいのやいのと言いますが、日本では「良くない」程度しか言いません。紫外線の害に ついても欧米では紫外線予報まで出して国が注意を呼びかけていますが、日本では無頓着に裸になって甲羅干しをやっていますし紫外線予報など考えられていま せん。どちらも癌が発生すると言うモノですが(肺ガンと皮膚ガン)、ガンは神経質な人ほどなりやすく、無神経な方が良いのかも知れませんね。

   1987年に米国の博士が調べたところ、2mG(ミリガウス)以上の磁場で小児白血病の発生率が1.9倍、小児筋肉腫が3.26倍と言う結果が出た。ス ウェーデンの博士は1993年に北欧の国で集計したところ2mG以上で小児白血病2.1倍、小児脳腫瘍1.5倍との調査結果を発表した。そして現在は電磁 波が影響ありとする論文が多くなっています。

  他の国では対策は遅れていますが、スウェーデンではテレビやパソコンのモニター規制で画面から30センチ離れて2mG以下と決められ、この2mGを基 準に高圧線の下の小学校や幼稚園は移転するか高圧線鉄塔の撤去などを始めているそうです。

  日本では全然無頓着で、高圧線の下に家がどんどん建っています。規制が甘いのは日本だけです。日本では○○自らの利権につながる規制はきついのに、国 民の安全に関わる規制は甘いか放置されています。エイズ薬害は、その典型ですね。

因みにどのようなモノが電磁波を出しているか調べた書物のコピー(書籍名が分かりません)によりますと、

電 子レンジ・200mG、電気冷蔵庫・20mG、電気洗濯機・30mG、電気炊飯器(電子ジャー炊飯器)・40mG、電気掃除機・200mG、ホットカー ペット・30mG、電気こたつ・100mG、電気アイロン・3mG、ヘアードライアー・70mG、コーヒーメーカー・1mG、電気鉛筆削り・90mG、電 気シェイバー・100mG、エアコン(窓型)・20mG、ステレオ・20mG、カラーテレビ・20mG、ビデオデッキ・6mG、コピー機・40mG、 FAX機・2mG、液晶ワープロ・1mG、携帯電話・200mG、

  このように電気を使うモノからは大抵電磁波が出ています。アンテナ や高圧電線も電磁波の発生源ですが、我々は余り気にせず過ごしてきました。しかし、最近このような事が一般の人にも分かってきました。そこでご多分に漏れ ず、環境保護団体、地球に優しい団体、市民活動団体、が動き出しております。私は、ここで煽っているわけではありませんし、わざと怖がらせているわけでは 有りません。少なくとも私は技術者として長年勤務して来ましたし、科学技術の理解者の端くれであると信じていますから、これらの事を、冷静に考えて、対処 して頂くため、また知識が無く、しゃにむに怖がる人が居れば理屈を説明してあげて、防護策を考えて行く程度の余裕を持って頂くために、躊躇したのですがこ れを書きました。

  一部に、著作権に関わる部分があります。また、データの出処が分かりませんので、この内容は他に転載しないようお願いしておきます。



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  鳥の世界は    1996年  6月    JA3ARI

  この物語はフィクションであり、事実と全く関係ありません。科学理論に基づくものでもありません。筆者の独断と偏見により、こんなことが、もし有った らどうしよう。あったら怖いと思いつつ書き上げたものです。


  電線の上にとまった雀が燕に聞いた。
「つばめさん、この頃の旅は如何ですか。最近はツアー参加者が減ってるそうですが、 やはり、バブルがはじけたからでしょうか?」
  燕は、少し悲しそうに言った。
「そうではないのですよ、すずめさん。」
「私達が南の国から日本へ飛んで来るには、みちしるべが必要なのです。」
「その道標、ロランの役目をしてくれるのが、地球の地磁気なのです。」
「ところが、ここ20年ぐらい前から人間たちが色々な種類の電磁波を、大量に発射するようになって、最近では人工衛星をどんどん打ち上げて、それからも電 磁波が出ているし、私達は、そのために正確な地磁気を捕捉する事が段々出来なくなってきているのですよ。」
「それで、途中で道に迷って、行けども行けども陸に到着せず、そのうちに力が尽きて海に落ちる仲間も増えてきました。」
「目的の日本で無くてよその国へ行ってしまった仲間も居ますが、まだ運の好い方で、危うく命拾いした、と言ってました。」
  雀は、それを聞いて思い出した。
「そう言えば最近、私も時々目まいがするのですが、そのせいでしょうかね。」
「田圃には霞網や、コンピューターで考えたバルンが揺れていて吃驚するのですが、強力な磁石で地磁気を乱し、鳥を追っ払う試みがなされて、実用化したそう です。」
「そのような時は私達も頭の中が真っ白になるのですよ。」
  燕はさらに肩を落として言った。
「日本の国も住みにくくなりましたね。」
「私たち渡り鳥連盟で聞いた話では、白鳥さんや鶴さんも時々、方角が分からなくなるそうですよ。」
  雀は驚いて、
「それでは、あの広い海原の上で、迷い子になるではありませんか。」
「ああーあ、私達は日本にだけ住んでて良かった。」
  そして、続けて言った。
「人間たちは、地球の環境を守ろう、だとか地球に優しい、だとか言っていますが、それは自分たちだけの都合で、自分たちだけの環境を守ろうとしているので す。」
「愛鳥週間なんかがあって、鳥類を守ろうなんて言っているけれど、私達の本当の悩みなんかは分からないのでしょうね。」
  燕は目を伏せて、
「人間のやる事は電波を止める事ではなく、せいぜい飛べなくなった我々を飛行機で南の島へ輸送することでしょう。」
「海 の上で、鮫さんに聞いた話ですが、海の底でも住みにくくなってきたそうですよ。何でも海底ケーブルとやらが、やたらと多くなって、光ケーブルは気にならな いが電磁波の通っているのは、そばを通ると頭の中が掻き乱されてイライラするので、時々食い千切ってやるのだ。と、言ってました。」
  雀はそれを聞いて、
「私のように日本にだけ住んでいるすずめには世界の事は分かりませんが、この頃空気も汚くなって、それに陽の光も以前のように穏やかで無く、刺すようにき つくなってるのは分かります。」
  燕が続けて、
「南から飛んで来ますと日本の海も汚れているのが良く分かります。」
「ところで話を元に戻しますが、・・・」
  と、燕は話しだした。
「昔、沖縄にV.O.A(ボイスオブアメリカ)と言う放送局があって、その放送局の出力が1MW(1,000KW)もあった。その出力の大きさは、近くに アンテナを張ってアースの間に電球を繋いだら、電球が点いたと言われています。」
「また、そのアンテナの下の農作物、大根や茄子が普段より大きく成長し、ジャンボ茄子や大根が出来たと聞いております。」
「これだけの大きな電磁波エネルギーが空中に放出され、何か影響があるのでは無いかと誰も考えないのでしょうか。」
  雀が言った。
「それどころか、人間は大きな太陽電池の人工衛星を打ち上げ、太陽エネルギーを電力に代えて、それを電磁波で地球に送電する計画があるそうですよ。」
「そうなると渡り鳥さんには脅威ですね。」
  燕は、あきらめたように、
「その時、我々がどうなるか、神様のみが御存じなのでしょう。」
「その時期が来るまで、お互いに命を大切にしましょう。」

  燕と雀は別れを告げて、それぞれの方向に飛んで行った。西の空には沈みかけた太陽が真っ赤に空を染めていた。
                               おわり

  筆者注 : 燕にも雀にも肩はありません。・・ねんのため ハイ


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  夜 空    1993年 1月    JA3ARI

  宏は星を見るのが好きだった。今日も満天の星だ、雲ひとつ無い。あれはマゼラン、こちらはカシオペヤ、銀河の星々、そして、輝く太陽が二つある遥かな るケンタウリ。
  星にはロマンがある。何万光年、いや何十万光年を経て届く光にどんな物語が秘められているのだろうか。・・・・・宏は輝く星々に囲まれて、しばし微睡 んだ。

  しばらくまどろんだ宏は目覚めて驚いた。辺りは闇に包まれている。「これはどうした事か、星が消えている!」「今日は雲もなかったはずだ」これは不吉 だ、何かが起るかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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  「お母さん、電球が切れているわよー」 真理子は母を呼んだ。

そして、また大きな声を出した、
  「おかーさん、お兄さんが古いお鍋さんをかぶって寝ているわー」
「ちょっと来てよー、あの穴の沢山あいてる古いお鍋さんがあったでしょー」
                                      (完)



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  一幅の絵    1996年 5月    JA3ARI

  昨年の地震の直後に一幅の油絵を手に入れた。大きさは40インチのハイビジョン位だと思って下さい。それは海と山が描かれた絵でありました。買ってき て壁に掛けてふと見ると端の方に何やら見覚えのある物が見えるではありませんか。そうだ、これはポートタワーだ、阪神淡路大震災の直後に神戸の絵が手には いるなんて、何かの因縁かも知れない。しかも、その絵にはメリケンパークと第一突堤、第二突堤に大きな貨物船が三艘。その前を行き交う小さな船が又三艘描 かれています。突堤には瓦屋根と思しき倉庫が立ち並び、その倉庫と後ろの山の間には何も高い建物が描かれておりません。横浜のマリンタワーの後ろには、こ のような高い山は有りませんから、まさしく神戸に間違い有りません。何十年か前の神戸です。買った時は絵が重なっていて端の方が見えなかったのです。そし て左下の隅にHIROYAの署名があります。

  現在では神戸海洋博物館やホテルオークラ、直ぐ隣にハーバーランド、右の方には神戸市役所などの高い建物が一杯建っています。そして絵を描いている側 の陸地は公園のようになっている。そうすると、この場所はポートアイランドか。  ポートタワーが出来たのは、可成り古い。しかしポートアイランドは、ど の程度昔から出来ていたのであろうか。そのころのポートアイランドからは何も高い建物が見えないとすれば、これは一体何時の年代に描かれた物であろうか。

  疑問は深まっ た。しかし、今神戸は大変だ、とても絵を描いた現場を検証できる状態ではない。神戸の復興を待とう。・・・・・それから1年が過ぎ、復興 の明るいニュースが流れるようになった。時機は到来した、現場へ行ってみよう。

  5月3日、カメラを下げて神戸へ向かった。三宮からポートライナーに乗る。ポートライナーは何処まで乗っても1回240円なので3っ目の中公園駅で降 りるのはもったいない。そこでポートアイランドを1周回って見て、帰り道の中公園駅で降りる事にした。

  中公園駅を降 り、北公園に向かう。歩道は液状化現象を残したまま工事中で、柵に囲まれた細い道を歩く。コンテナーや大型機械が一杯置かれた淋しい道が 続く。北公園に着いたら公園は工事中で入れず、その横の道路から海に出た。先の方は工事中につき立入禁止になっていた。公園の横にはタグボートが沢山係留 されていて、それが邪魔になってポートタワーのある風景が撮影できない。見ると先端には釣り人が数人居り怒られそうにもない。ちょっと失礼して前に出て、 やっと現在の風景をカメラに納めて早々に退散した。

  少し位置が違うと思われたが、描いたであろう位置は何処かの会社の敷地内なので立ち入れず、許される範囲の位置から写真撮影を行った。この辺りも埋め 立てが進んで昔とは様子が違っているのだろう。それと、画家は時として空想を描くことがある。もしかして、こちらの陸地は無かったのかも?  そのような 思いに捕らわれながら北公園を後にした。写真が出来上がって絵と比較するのが楽しみだ。  中公園から再びポートライナーに乗る。もう1回1周して帰るこ とにした。国際展示場やポートピアランドは人人人で一杯だった。でも、まだまだ傷跡が残っている。

  三宮に戻った我々は(1人旅ではなかった、妻と一緒でした)元町から南京町までウインドウショッピングを楽しんだが、ものすごい人出で、横から「震災 以来最高やなー」の声が聞こえて来た。南京町では、京都の円山公園でパフォーマンスしていた外人の曲芸師が同じ芸を披露して拍手を浴びていた。その南京町 でお腹を一杯にして再び三宮までぶらぶら。

  今回の神戸行きで感じた事は、民活の凄さだ。総じて言えることは、民間の復興が早く、店舗や家々を見ても、綺麗になっている。それに比べて公共の設 備、道路の復旧の遅さ。おおかたの見当は付いていたが、1年を過ぎても未だ・・・・・  地震直後の対応が遅く、せめて復旧だけでも早くするのかと思った ら、それも遅い。

                                    完
注:一幅の絵(いっぷくのえ)
      辞書によれば、一幅の絵とは掛け軸の絵を指す。
      額に入った油絵には用いられないかも知れないが、
      言葉の響きが良いので、敢えて使用しました。



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  < 人生タイムテーブル >      JA3YEO−RBBSに掲載
                         1992年 9月  JA3ARI

  まえがき
RBBSやパソコンに詳しいOMが多い中で、このストーリーを発表するには躊躇するのですが、間違いや、おかしいところは洒落で見逃して下さい。
ストーリーだけを楽しんで頂ければと思います。 あるいは楽しめないかも・・・

  < 人生タイムテーブル >  (ショートストーリー)

  左千夫はひそかにハッカーを自認していた。今までにもカリフォルニア大学、コーネル大学、マサチューセッツ工科大学、メロン大学のコンピューターに侵 入した経験を持つ。そして今年はアメリカのペンタゴンのコンピューターに接続する秘策を練っていた。
   今日は、その腕馴らしにバーミューダ大学のコンピューターに接続しょうと、自動検索でパスワードを探っていた。しかし、時間がかなり経っていた、いくら 国際電話・VAN回線の料金が安くなったと言っても馬鹿にはならない。だいいちバーミューダ大学なんてあったのか、怪しいな、あんな島に大学が? でも電 話帳にテレフォンナンバーが載っていたではないか、電話があるということは大学もあるのだろう。
バーミューダ諸島のあるバーミューダ海域は、あの魔の三角地帯として有名だ。不思議な事がよく起こる。「そろそろやめようか」 左千夫はそう思って、ふと ディスプレイを見た。パスワードを探り当てたのかディスプレイにはぎっしりとプログラムが現れている。しかも、今までに見た事もないような・・・・・
「えっ。これは。なんだ。」 左千夫は仰天した。

  そこには何万、何十万、いや何千万、何億人のプログラムが分単位で、いや秒単位で組まれているではないか。左千夫は焦った、まともなコマンドも分から ない。がむしゃらにキーを叩いた。少し落ち着いて来たので、内容が分かるようになった。これは人生タイムテーブルだ、人の一生がプログラムされてい る・・・
  ある人は36才で交通事故のためENDとなっていた。癌で死ぬ人、エイズで亡くなる人、ひとさまざまだが、出産が予定されていて、そこから新しいプロ グラムが始まっているものもある。肺結核が割り込みでプログラムされていて、闘病生活が予定され、そののちまた良くなる人もある。航空機事故で壮絶な死に かたをする人など色々あったが、自然死・・最後に心不全、心臓が止まってプログラムがENDとなっている人がほとんどであった。多少の長い短いはあった が・・・
  それだけではない、何月何日何時何分何秒にID何番の彼女を好きになり、何回デートを重ね、いつ何処でキッスする、それも何分何十何秒にと、までプロ グラムされているのだ。さらにディレクトリを辿って行けば、電車に乗り遅れ目の前でドアが閉まり苦笑いする動作までプログラムされている。

  これは神様のコンピューターにつながったのか? 運命の神のウルトラスーパーコンピューターにつながったのか、それにしても大変なことになった。
左千夫はますます焦った、と同時に自分の運命も見たい欲望が沸いてきた。我々人の運命は、それぞれ人の動きは、感情は、見るもの聞くもの味わうもの匂うも の触るもの全てがコンピューターにプログラムされており、コンピューターが食べるという感覚を作り出し美味しいと感じさせているのだ。喧嘩だって2人用 ファミコンゲームの様なものなんだ。物に触る感覚さえも、触るプログラム、感じさせるプログラム、ぎっしりである。
人は一人一人が自由に人生を送っているように見えるが、その実はコンピューターにプログラムされた通りに動いている、いや、動いている感覚がコンピュー ターから送られているだけで、我々は動く事もない端末機に過ぎないのかも知れない。
例えば旅行をしても、毎日会社へ出勤しても、そのような感覚が、景色が、動きが、コンピューターから送られてきているだけで、まさにバーチァルリアリ ティーの世界に生きているのだとしたら・・・・・・・???
  それに、これは英語のプログラムである、そうすると日本人の運命は日本語で組まれているかもしれない。ひょっとしてレイヤが違うのかも・・・
ああ、コマンドがあるはずだ。日本人のコマンドはなんだーっ!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・*#$<%¥  RING RING

  突然電話が鳴った。しまった!! うちはキャッチホンだった。
この大事な時に電話に割り込まれてしまった!

電話の向こうで甲高い声がした「左千夫!今夜のデートはどーなったの待ってるのに」
そうだ今日はデートの日だった、彼女の怒った顔が浮かんだ。 そして、

  これもコンピューターのプログラムの内か・・・・・・左千夫は唖然とした。

                               オワリ



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