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スクラップブック

中身は古いが、その時代を反映しています。 (転載 2011.08.18.)

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アルマゲドン      1999年

落 城 (Windows95奮闘記) 1996年

元号 と 西暦     1994年

今日は天神祭り    1993年

勲 章          1993年

思い起こせば(2)   1993年

思い起こせば(1)   1993年

国際化           1992年

国際化と慰安婦問題  1992年

日本の貢献について  1991年

海外旅行         1991年

たびのおもいで     1991年

行楽のシーズン     1991年



  アルマゲドン     1999年  5月     JA3ARI

  今日アルマゲドンを見てきました。遅いなーと思われるでしょうが、私もそう思います。見たいと思っていたのですが見過ごしたのです。アルマゲドンの話題が出てきたので新聞を見ると未だやっている映画館がある。そうだ見に行こう、と昨日決め今日見てきました。空いていましたよ、朝一番の上映でしたからかも知れませんが大きくない劇場の席数の1割程度でしたか。それでも10時半から始まって1時まで、上映時間2時間半。入場料1000円ですが運転免許証を示したところ、この次から提示は要らないと言われてしまいました。ショックです。提示しなくても顔を見たら分かると言うことでしょうか。これが本当の顔パス? 
  ハルマゲドンはHを発音しないフランス語ではアルマゲドンとなるのでフランス語発音かと思っていたら、この映画の題名は始めから文字のHを取ってアルマゲドンとなっていました。因みにノストラダムスはフランスのノートルダムですから映画の中ではフランスのパリがエッフェル塔も吹っ飛ぶ大被害です。ニューヨークも被害を受け松田聖子がエキストラで一瞬写ると言うことでしたがほんまに一瞬でした。映画の筋も分かりますし、その音響の凄さオーバーさは娯楽映画はこのぐらいの方が楽しいと思いますが効果音の入れ過ぎ。
CGも凄い。しかし、こちらは津波はなかった。その点ディープインパクトは津波のCGが凄かった。ディープインパクトは全部アメリカの画面で済ませていた。ストーリーは似たようなものだがアルマゲドンの方が雑なようでトムハンクスで客を引きつけたようなもの。矛盾やおかしいところが一杯あったが、それはそれいいじゃあありませんか。1000円で結構楽しませて貰った。ウオーターワールドの時は1800円取られたが、ディープインパクトから1000円で見られる様になりました。これからも顔パスを使おう、少し悲しいけれど・・・
                                JA3ARI


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  落 城 (Windows95奮闘記)     1996年  4月     JA3ARI

  「50(歳)の手習い」で始めたパソコン通信が今年で8年を過ぎました。始めた頃のパソコン通信は、まだおたく的存在で冷ややかな目で見られたものです。翌年にはパケット無線を開設し学生の頃から始めた赤十字奉仕団の仲間と資金を出し合い日赤大阪府支部屋上にホスト局を設けました。パケット無線は無線電話と違い、伝言ゲームのような情報の変形がありませんから非常災害通信に適しており、阪神大震災ではパソコン通信と共に活躍しました。そして1年が過ぎ、2月頃我が社のサーバーをインターネットに繋ぐ事になったので、これを機に我が家にもWindows95を導入することにしました。Windows95は発売当初のフィーバーから先輩諸氏の苦労話を聞くにつけ、我が腕には荷が重すぎると思っていましたが早急に環境を整える必要が出てきた為、仕方なく重い腰を上げる事にしました。これは Windows95インストールの奮闘記であります。

  日本橋に出掛け、1GBのハードディスクとWindows95(以後 Win95)のCDーROMを購入した。もくろみはインターネットをWin95でやる事だった。Win95を導入して、将来の環境を整えて同時にインターネットの環境も出来上がる。Win95に対する腕も知識もないのに、この一石二鳥を狙ったのが事の始まりであった。
  去年Win95の事を考え、メモリーを拡張しCPUも倍速にし環境を整えた。準備は出来ていたが、あのWin95フィーバーに恐れをなし、当分は見送ることにしていたのである。自分より知識のある先輩諸氏が大いに苦労している状況を見るにつけ、聞くにつけ、どうも手に負えるものでは無さそうに思えたのですが。さてWin95を迎え撃つ我がパソコンの陣容はAドライブがMS−DOS、BドライブがWindows3.1(以後 Win3.1)、Cドライブがデータファイルの連合軍であった。これは内蔵ハードディスクに納まっている。この内蔵ハードディスクの内容を保存しつつWin95を外付けハードディスクのDドライブ(1GB)に納めようとする作戦でありました。まず外付けハードディスクをフォーマットする。このフォーマットが一番危険なのである。内蔵ハードディスクをフォーマットしてしまう危険がいつも付きまとう。慎重に操作しなければならない。
  フォーマットしたDドライブにWin3.1をインストールし、ウインドウアクセラレーター、CD−ROMドライブ、PCM、FM音源をセットしWin95インストールの準備が出来上がった。このように時間が掛かる作業は休みの日にしか出来ない。そのためWin3.1のインストールで既に1週間は過ぎていた。
  2週間目の連休で、いよいよWin95インストールを開始した。しかし、CD−ROMをスタートした途端 PRINT.DRV があるのでインストール出来ない、とWin95からクレームがついてストップ。PRINT.DRVを削除して再スタート。今度は順調である。しかし時間が掛かる。プログラムの誘導に従って項目を設定しながらインストールを無事終了した。初めてのインストールだ、わくわくしながら指示に従って再立ち上げ、これも時間が掛かる。掛かる・・・掛かる・・・アレッ?? ハードディスクが止まっている。いつまで経っても音沙汰無い・・・ハングアップしている。
  アンインストールでWin95を削除。Win3.1も削除し再インストール。今度はCD−ROMドライブだけ入れてWin95を再インストール。これもインストール終了後の再立ち上げでハングアップ。その間に先輩より、Win95は原則としてAドライブのみ有効で、仮にインストール出来ても後々問題が出てくると聞いていた。しかし私はどうしてもDドライブに入れたい。
  ABCドライブ連合軍を守るため、ビル・ゲイツ率いるWin95軍団との戦いが始まったのである。毎週土日の決戦であった。浅学の私が考えられるあらゆる手を打って行った。インストール、フォーマット、インストール、フォーマット、インストール全て再立ち上げでハングアップしてしまう。我が社のソフト屋さんに聞いてもパソコンはケースバイケースだ。現物を触ってみないと何とも言えないとの事。事実、私のパソコンは本体とハードディスク、CD−ROMドライブ、ウインドウアクセラレーター、FM音源ボード、倍速CPU、拡張メモリ全てメーカーが違うので、これでは何が原因しているのかパソコンに詳しいソフト屋さんにも聞いただけでは判らない。ギブアップして会社へパソコンを持って行ったり、家にソフト屋さんを呼ぶわけには行かない。あくまでも自分で処理しなければ自分のレベルアップにならないと、そう覚悟を決めた。
  インストール、再立ち上げ、ハングアップの図式は変わらず、Dドライブ、すなわち外付けハードディスクのフォーマットは十数回、恐らく20回にも達しようとしていた。ただ、再立ち上げのハングアップが最終段階の2ステップ手前の所まで進んで起こるようになった。もう一息だと思った。ビル・ゲイツ将軍のWin95軍団は、がんとしてDドライブにインストールされる事を拒否し、あくまでも本丸のAドライブを狙っているかのようであった。時間が過ぎ行き季節は冬から春に替わりつつあった。その3月の土曜日に、忘れもしない悪夢のような出来事が起こったのである。
  昼食後、パソコンの電源を入れた。前回ハングアップのままなのでフォーマットをしてスタートしようと考えていた。エンターボタンを押して、フと見ると何時もと違うハードディスクが動いている。・・シマッターーー内蔵ハードディスクが動いている。茫然として、一瞬電源 を切りたい衝動に駆られた。しかし、グッと我慢した。ソフトを失い、その上ハードディスクまで壊しては元も子もない。このフォーマットの時間ほど長く感じたことはない。誰がしたわけでもない自分がした事だ。・・・どんなソフトがあったのか、どんなデータがあったのか、頭の中をぐるぐる巡った。何年間もの歳月を経て蓄積したものが消えた。ABC軍団が消滅した。Win95軍団の執拗な抵抗に、自滅した。落城である。
  気を取り直し、逆襲を試みた。失うものは何もない。内蔵ハードディスクをスリープにし、外付けハードディスクを再フォーマット、パーティションをABCDとしてDドライブにWin95をインストールした。結果は、再立ち上げでハングアップした。ソフト的には何の障害も無い筈なのに立ち上がらない。再度挑戦したが、Dドライブでは、どうしても立ち上がらない。土曜日の夜も更けた。かくなる上は意地を張っても仕方がない。落城した以上は城を明け渡すしか無いだろう。落城してから3回目のフォーマットは内蔵ハードディスク全部をAドライブとした。夜半を過ぎて3回目のインストールが終わった。再立ち上げ・・・・Win95は立ち上がった。動いている。動いている。だが、しかし・・・無念!!  今までの作業は何だったのか。取扱説明書には、どのドライブにでもインストール出来るように書かれているが、あれは嘘だったのか。どうやらビル・ゲイツ将軍のWin95軍団は、必ず城の主でなければならない。自分がパソコンを牛耳って、他に命令を下す立場に無ければ動かないように仕組まれているのでは無いだろうか。Aドライブにしかインストール出来ないのであれば、初めから注意書きすべきだ。初心者にはAドライブしかインストール出来ませんと。またはAドライブ以外にインストールするには高度な技術が要りますと。
  私の知人には40回もインストールし直した人がいる。私が10数回だと言うと、まだまだ勉強が足りん、と言われた。Win95に好意的な人は、Win95は非常に繊細なのだ、と言う。しかし、本当だろうか、案外に裸の王様で、そう言わないと自分のレベルが低いと思われる、と多くの人が考えているのと違うだろうか。我々が商品(電子機械)を作る時、如何に多機能で、しかも簡単に扱えるかを真剣に考える。色々なことが出来る機能があって、しかも老人や子供でも扱えるのが目標である。そのような観点からすればWin95は落第のように思えるが、如何であろう。自分の非力は承知しているが、それだけに悔しく腹立たしい。しかし、世の中の流れが、そうであればWin95を使って行くより仕方あるまい。ましてや戦いに負けたのだから。戦い済んで日が暮れて・・・・・気を取り直して、パソコンの修復に取り掛かった・・・・・

  幸いなことに地震体験記を始め、去年の秋以前の記録はフロッピーにバックアップされていた。消えたのは、この一冬の分のみ。ただし蓄積していた画像は全部消えた。ソフトはフロッピーで貰ったものは保存されているので使える。通信でダウンロードして、そのまま使っていたものは全滅したが、これも半分がフロッピーベースで残って居た。これはコピーして人にあげようと準備していたもので、これが残っていて大いに助かっている。
  しかし、通信ソフトが大変で電話番号、ID、パスワードなどオートログインするための設定が全てやり直し。しかも繋がるか、ちゃんとアクセス出来るか電話を掛けてチェックしなければならず、4つのNETの各bps平均4つのスピードと各NETのGUIソフト。その他アプリのインストールと作業は山ほどあり、復旧にはかなりの時間が掛かりそうである。・・・そして、

  現在はAドライブをWin95、BドライブにMS−DOS、CドライブにWin3.1、Dドライブをデータ領域に設定し、ソフトの修復も出来、旧機種ながら快適にインターネットでメール交換やネットサーフィンの毎日を過ごしております。
  Win95には皆さんも、お気をつけ下さい。この奮闘記が少しでもお役に立てば書いた甲斐があると言うものです。
                              おわり


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  元号 と 西暦    1994年 1月    JA3ARI

JA3YDO LIB 94/1/15 19:53  掲載    JA3ARI


  お正月に親戚中が集まった時、四柱推命や六星占術で今年の運勢を占ってあげました。占いには西暦が必要で、その時、元号と西暦の換算に手間取りましたので、その時のメモを表に纏めました。パスポート取得の際にも必要かと思いますので、ご利用ください。


元号 と 西暦


  明治31年 1898年       昭和31年 1956年
  明治32年 1899年       昭和32年 1957年
  明治33年 1900年       昭和33年 1958年
  明治34年 1901年       昭和34年 1959年
  明治35年 1902年       昭和35年 1960年
  明治36年 1903年       昭和36年 1961年
  明治37年 1904年       昭和37年 1962年
  明治38年 1905年       昭和38年 1963年
  明治39年 1906年       昭和39年 1964年
  明治40年 1907年       昭和40年 1965年
  明治41年 1908年       昭和41年 1966年
  明治42年 1909年       昭和42年 1967年
  明治43年 1910年       昭和43年 1968年
  明治44年 1911年       昭和44年 1969年
  明治45年 1912年       昭和45年 1970年
  大正 1年 1912年       昭和46年 1971年
  大正 2年 1913年       昭和47年 1972年
  大正 3年 1914年       昭和48年 1973年
  大正 4年 1915年       昭和49年 1974年
  大正 5年 1916年       昭和50年 1975年
  大正 6年 1917年       昭和51年 1976年
  大正 7年 1918年       昭和52年 1977年
  大正 8年 1919年       昭和53年 1978年
  大正 9年 1920年       昭和54年 1979年
  大正10年 1921年       昭和55年 1980年
  大正11年 1922年       昭和56年 1981年
  大正12年 1923年       昭和57年 1982年
  大正13年 1924年       昭和58年 1983年
  大正14年 1925年       昭和59年 1984年
  大正15年 1926年       昭和60年 1985年
  昭和 1年 1926年       昭和61年 1986年
  昭和 2年 1927年       昭和62年 1987年
  昭和 3年 1928年       昭和63年 1988年
  昭和 4年 1929年       昭和64年 1989年
  昭和 5年 1930年       平成 1年 1989年
  昭和 6年 1931年       平成 2年 1990年
  昭和 7年 1932年       平成 3年 1991年
  昭和 8年 1933年       平成 4年 1992年
  昭和 9年 1934年       平成 5年 1993年
  昭和10年 1935年       平成 6年 1994年
  昭和11年 1936年       平成 7年 1995年
  昭和12年 1937年       平成 8年 1996年
  昭和13年 1938年       平成 9年 1997年
  昭和14年 1939年       平成10年 1998年
  昭和15年 1940年       平成11年 1999年
  昭和16年 1941年       平成12年 2000年
  昭和17年 1942年       平成13年 2001年
  昭和18年 1943年       平成14年 2002年
  昭和19年 1944年       平成15年 2003年
  昭和20年 1945年       平成16年 2004年
  昭和21年 1946年       平成17年 2005年
  昭和22年 1947年       平成18年 2006年
  昭和23年 1948年       平成19年 2007年
  昭和24年 1949年       平成20年 2008年
  昭和25年 1950年       平成21年 2009年
  昭和26年 1951年       平成22年 2010年
  昭和27年 1952年       平成23年 2011年
  昭和28年 1953年       平成24年 2012年
  昭和29年 1954年       平成25年 2013年
  昭和30年 1955年       平成26年 2014年



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  今日は天神祭り    1993年  7月    JA3ARI

  JA3YDO RBBS 1993/7/25  (教育問題)

  天神祭りの救護活動ご苦労様です。大変な人出だったらしいが出かけるのが億劫でテレビを見ていた。天神祭りの中継のテレビを・・・・・

  それにつけても日本の国は自由で何をやっても自由ですが、言論だけが不自由なのです。その結果、筒井康隆のようになる。

  日本では何かを言うと、それに反対する人が出る。それぞれが個人主義で利己的で人の事には感心無い。纏まるのは反対する人々、その人々は大抵声が大きい。それをテレビや報道機関は偽善ぶって報道するから国民全体が反対しているように錯覚してしまう。また、わざとその様に仕向ける報道機関もある。

  その様な現状から責任者になりたがらない。責任者になったら攻撃されるから。また、責任を全うするつもりで首長や議員になったのではない。地位が得られてお金が儲かるからで、国のことを考える憂国の士は、何処にも見当たらない。

  一つには戦後教育が・・・私ら、ろくな事しか教えて貰って居ない。危機管理意識と言うが、村山さんを代表に危機ってなあに? 地震? ああ、5千人程死んだだけなの・・・オウム? ああ、5千人ほど苦しんだ、あの事? 交通事故で毎年1万人ほど死者が出てるじゃん、大したこと無いじゃん。 堺? お弁当に当たってお腹が痛いって? 神戸も岡山も堺も、みーんな田舎の出来事です。東京から見れば軽い軽い。危機なんてものでは無い。

  それよか住専で、わしらに責任が掛かりそうだで武村さん、そんなら政権を放り出して橋本に押しつけよう。首輪をはめておけば彼も何も出来まい。これが危機管理意識と言うものよ、ウワハハハハ・・・

  為政者も戦後教育で国を愛する事を教わっていない。国民を愛することを教わっていない。平和平和とお題目を唱える平和教の信者が信者を増やし、決断力を持った人が現れてこない。これは、かの国の思う壷。日本が下り坂を駈けているが下まで来たら踏み潰してやろう、と待ちかまえている。   何とかしなければ・・・・・

                              JA3ARI



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  勲 章    1993年     JA3ARI

  オリンピックで金メダルが話題になるが、それで思い出したのが勲章。わが国の受賞者で気になるのが、次のようなパターンである。

  働き盛りの頃は反国家的な働きをし、国民を惑わし、自信を失わせる煽動をし、国民を不幸におとしいれ、国の外交を弱めさせ悦に入っている。そしてそれを自分の功績だ、実績だと胸を張る。

  しかして晩年は、地位や名誉を手に入れ、それにしがみつき、ついには勲一等にありつく。まもなく皆さんは、その様な人たちの叙勲のニュースを聞くことになるでしょう。これからは昔より、ぞろぞろ出てきますよ。

  国民のために害になった人たちが勲一等で、(そうでない人々も少しは居るが)、何十年の長きに亘って公園を掃除し、町を綺麗にし、或いは介護に挺身した、或いは私たちに潤いを与えてくれた人たちは、貰えても勲七等程度の評価しか受けない。これが我が日本国です。

  最もひどい例は、トラトラトラでお馴染みの真珠湾攻撃の1時間前に宣戦布告の文書をアメリカ政府に届けず、1時間後となり「卑怯の代名詞」になった、時の駐米日本大使は切腹するでもなく、晩年に勲一等を叙勲されたのです。如何に不公平、不条理、勲章はどの様な基準で叙勲が決まるのでしょうね。おかげで責任を取らない人々がうじゃうじゃ・・・・・

                           JA3ARI



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  思い起せば(2)    1993年 7月    JA3ARI

JA3YDO  RBBS  93/7/18 22:48


  思い起せば20数年程前になりますが、私がテレビ技術委員会委員をしていた頃、カラーブラウン管の放射線が問題になりました。この事を知ったある東京の◎◎大学の教授が(六大学では無い)新聞や週刊誌に載せると電子機械工業会に通告してきたのです。(一種の脅迫です)このため、工業会では、その先生に贈り物をして口封じをしたと聞いております。
  実際、ブラウン管は2万ボルトの電圧を掛け、陰極線がブラウン管の前面を掃引しますが、その時に同時にソフトX線を出します。この為、現在ではブラウン管前面は鉛を多く混ぜX線を阻止する仕掛けになっていますが、テレビとかカラーディスプレイの後ろ側は、対策が薄いので、今でも注意が必要です。そのためテレビの工場では作業員の胸にフイルムバッヂをつけ、放射線の量をチェックしてます。ブラウン管の前面ガラスには鉛を入れ、先のように対策を講じてあるとは言うものの、ブラウン管の近くで長時間を過ごすのは止めたほうが良いでしょう。ディスプレイにスクリーンを付けるとか、女性には作業用エプロンとか作業着が発売されていますが、これらは、それらの対策のための物ですから、無視されないほうが良いと思います。さらにブラウン管の大きさも大きくなっておりますので、電力も、それだけ多く要りますし、それだけX線の出る量も多くなるでしょう。

  ソフトX線とは・・普通のX線はレントゲン写真のように人間の体を貫通します。このレントゲン撮影は1回で1年分の自然に体に受ける放射線の量と言われています。しかし、このX線は体を貫通してしまうのであまり問題ではありません。ところが、このソフトX線と言うのは体の10cm程度の所で止まってしまうのです。貫通しないのです。厄介な事に10cmの深さには人間の生殖器官がある場所です。問題になったのはこの為です。現在では規格も定められ、各メーカーも規格を守っている事でしょうから、必要以上に恐がる事はありませんが、長時間の使用には目も疲れるでしょうから、そのような事も考えて対処されたら宜しかろうと思います。特に前の席の人がPCを使いディスプレイの後ろ側が自分の席の前にある人は、知らず知らずのうちにソフトX線を受けている事になりますので、遮蔽物で防御して下さい。私のように、役に立たない生殖器官を持っている者は問題ないのですが、これから子供を産んでもらわなければならない妙齢のご婦人には注意してあげて下さい。そして男性もついでに ハイ

                                JA3ARI



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  思い起せば(1)    1993年 7月    JA3ARI

JA3YDO  RBBS  93/7/18 14:56

  思い起せば25年程前になりますか、私が日本電子機械工業会のテレビ技術委員会委員をしていた頃、NHKの要請でテレビのUHFチューナーを開発する事になった。ご存じのようにテレビはVHF1Ch〜12Ch、UHF13Ch〜62Ch、です。(アメリカはUHF14Ch〜83Ch) しかし、それまではVHFしかなかったのです。

  NHKから招かれて、東京商工会議所の8階のレストランへ。この東京商工会議所は皇居の正面にあってレストランからは皇居、皇居前広場がよく見え、見晴らしの良い所でした。ここで、フランス料理のフルコースをご馳走になりながら、NHKの説明を受けたのです。いわく、テレビは、これからVHFからUHFに移行します。したがってUHFを受信できるテレビを早急に造って下さい。技術資料はここに準備しました。これを各社もち帰り、直ちに開発に取り掛かって下さい。

  各社がよーいドンでスタートしました。この頃、UHFは未開拓分野で、UHFに使える真空管もトランジスターも無かった。当時でもSHFの分野はマイクロウエーブと言われ、電電公社(現NTT)などで中継に使われていました。また、レーダーなどの開発も進んでいました。したがって部品などの開発も盛んでした。VHFはご存じのテレビで代表される利用があった。業務用無線などはVHFに集中していました。
  しかしUHFだけは何故か放置されていたのです。何とか使える真空管がアメリカとヨーロッパにありました。我が社では、それらを入手し実験を開始しました。真空管の足は金メッキされていました。その後、研究の途上でUHF用のトランジスターが開発され、購入したそのTRは当時のお金で1本2万円。我々の月給が1万5千円程度でしたから、オシャカにすると莫大な損害になります。それを恐る恐る使っての実験でも満足な性能は得られなかったのです。UHFの開発は当初言われていた通り10年は掛かりました。しかし、チューナーだけでなく、UHFの開発が盛んに行なわれた結果、すべての溝を埋めてしまったのです。そして、現在のようにUHFは日常茶飯事、携帯電話に至るまで、隅々まで使えるようになったのです。

  思い起せば20数年前、何故VHFのテレビがUHFに引っ越さねばならなかったのか、その原因はアメリカにあります。それは軍事目的です。アメリカのICBMの誘導はVHFが使用されていました。そのICBMの弾頭の数が増えるに従ってVHFの使用できる周波数が足りなくなってきました。VHFではテレビがVHFの広帯域を占めていました。軍は、テレビに目を付けたのです。アメリカのテレビも日本のテレビもUHFに移って貰い、その空いた周波数をICBMの誘導に使おう。
  所が、ところがです、UHFの開発のおかげで、ICBMの誘導そのものがUHFで出来るようになってしまったのです。ですからVHFは必要で無くなった。むしろUHFの方がバンド幅も多く取れる。VHFは要らんと言う事になって現在に至っています。従ってVHFのChもそのままです。それで、折角テレビにUHFを付けたのだから、UHFの放送もやろう、と、申し訳程度にUHF局を作りました。あとは難視聴地域解消の為、山間部に飛びの悪いUHFを使って中継局を作りました。と、真相はこうだったのです。時効だと思うから思い出して書きましたが、技術の進歩と言うものは、このような所から生ずるようで、ICBMを増やすと言う当初の恐ろしい目的から、我々の生活のレベルを向上させる技術へと発展してくる事はNASAの例を見れば良く分かりますね。

                               JA3ARI



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  国際化    1992年     JA3ARI

JA3YDO  RBBS  92/8/30 16:30

国際化について一言。

  国際化国際化と良く言われますが、その実、日本人は国際化に対して何の準備もしていない。日本の政府まで何の準備もしていない。PEMさんのレポートにもありましたように、受け入れの準備が整わない間に他の国の人々は、経済力が有るのだから、それくらいの受け皿は有るだろうと黄金の国ジパングになだれ込んでくる。
  今年の上野の桜見物は、イランを始め中近東、アジア、南米、の多くの人々が奇異な目で眺める中で、日本人がござを敷いて飲めや歌えの大騒ぎだった。明日が食えない、明日の生活に希望の見えない人々の前で!!
  日本人は、国際化と言うのは、日本人が外国へ行き、よその国の人々の間で暮らす事。とばかり考えていた。しかし、本当の国際化と言うのは、私の隣に、あなたの隣に外国から移住してきた人々が住む、と言う事なのです。これは仮の話ではなく現実に、私の近所にもスペイン語?を話す南米の方が居ます。(その人の子供が可愛い・・・)
  日本人は外人外人と良く言いますが、これを英語に直すと「エイリアン」。「エイリアン」とは、あの怪獣の事でしょう。外人(エイリアン)では、あの怪獣を想像してしまいます。外国人の事を怪獣と言うのでは失礼です。気の毒ですね。それで、日本政府は空港の税関に「エイリアン」と書かれていた看板を今年になってはずしました。日本では昔、戦争中は「鬼畜米英」と言ったのです。ですから当時の日本人はグラマン戦闘機に、B−29爆撃機に赤鬼が乗っていると思っていたのです。戦争が終わって、実際にアメリカ人を知ってみると同じ人間だと分かったのです。
  今、私たちは選択を迫られています。この日本を本当に国際化するのか、それとも・・・・・外国人コンプレックスの強い日本人が本当に国際化を許せるのか? 外国人がじゃんじゃん入ってきたら日本人は段々押されて海へこぼれるのでは?  気の弱い日本人の事ですから、言いたい事も言えずに・・・それに、真の国際化は、血が交じる事も意味しています。近所に住むだけでなく恋もすれば、結婚もします。従って混血児が生まれます。そのような混血児を日本人は差別します。日本人同志でさえ差別しているのに目の色が違えば、皮膚の色が違えば、どうなりますか。だから国際化の前に、日本人の心から「差別」の字を抜き去らなければ国際化は無理、と断言できます。この問題は、政府の問題だけではなく、われわれ日本国民も真剣に考えなければならない時期が来ているのでは無いでしょうか。

                         Aris ー◎●◎ー



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  国際化と慰安婦問題    1992年     JA3ARI

JA3YDO  RBBS  92/8/30 16:45

国際化について一言。で一気に書いたのですが、長くなったのでJA3YDO RBBSが受け付けてくれない。仕方がないので二つに分けました。国際化について二言目。

  日本では英会話を始め語学教室が、学校が盛んです。これは一見、国際化に備えてみんなが語学の勉強をしているのだな・・熱心だな、と思っていました。学校に通うのは女の子が多い、女の子の方が熱心なのだなと思っていたら、女の子達、外国人の先生が狙いで、語学はついで・・・だった。聞いてみたら、外国人の彼氏を持つのが流行(はやり)、だそうで、黒人なんかは最高だそうです。何が最高なのか分かりませんが<知ってるけど>、日本の女性はお金持ちですから彼氏になってくれたら、躰もただで上げるのだそうです・・・それは彼氏ですから、それくらいは当然でしょう。外国人の語学の先生は、授業料は入ってくるし、ついでに躰も頂けるし、こんな好い商売は無いと「テレビ」で公言していました。(それで語学のほうも勉強しないお客様ですって)
  他方、海外旅行は、若い女の人が多いでしょう。あれも海外で彼氏を見つけ、適当に遊ぶためだそうで、それがナウイんだそうな。彼氏を見つけても楽しいお話をするだけでは無いので、当然・・・・・それが目的で旅行しているのだから。中には殺されたり、消えたり、まあ昔からの女性に対する制約の「たが」が外れたような物ですね。日本女性の頭から「貞操」の文字が消え行くのも、これも国際化の流れでしょう。
  これでは日本人は男性も女性も、下半身に人格がないのを証明している様なもので、外国から従軍慰安婦の問題が出てきても自業自得と言えます。戦争と言うのは異常な状態で有るわけで、昔ローマ軍、シベリアのソ連軍、戦争ですから勝者は無茶句茶をしたもので、中には負けた部族の男は全部殺し、女性を戦利品にして、好き放題をした。と言うのも歴史に残っています。戦争であればこそ、異常事態が起こるので、これは何処の国でも同じ事、日本が負けた時、遊廓の女性が中心になって防波堤を築き、外国の進駐軍に対応した。その人達はパンパンと言って軽蔑されたが、このお陰で一般の女性が守られたのです。戦争に勝てば何処の国でも同じ事をして来たのに、この時期、なぜ日本だけが・・・・と思ったのですが、日本人自身に、何の反省も無いようでは、弱みに付け込まれても 仕方がない。なさけない話ですが・・・

                         Aris ー◎●◎ー



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  日本の貢献について    1991年     JA3ARI

  湾岸戦争をピークとして世界に対する、アメリカに対する日本の貢献度が問題視され、色々と物議を醸してきましたが、本当に日本は何もしなかったのか。40億ドル+90億ドル=130億ドル(1兆8千億円)も出してです。
  成る程日本は血を流すのを嫌った臆病者だったかも知れない。しかし、それは人にも命知らずの勇敢な人も居れば、血を見れば震え上がる臆病者が居るように、それぞれであっていいと思う。
  考えて見れば、各国が飛ばした救援機も日本が金を出したと言うし、日本のPRが下手だから日本国民の血税が死んでいるのです。ロケット弾の精度も日本の半導体が貢献していますし、あのパトリオットに使われている測定器も日本製でカタログを見たことがあります。これで人の命が、どれだけ奪われ、どれだけ助かったか、日本は何も言わず、黙って下を向いて涙ぐんでいるだけです。
  遅れ馳せに出掛けた掃海艇の事も、日本の報道機関はあまりニュースにしない、と言う事は、外電として世界を駈け巡らない、事を意味します。掃海艇は十何発、今では二十発を越えていると思いますが、機雷を処理しています。それも残っているのは難しいものばかりです。(簡単なのは既に処理されている)
  日本政府も宣伝に乗り遅れないよう、電通や博報堂にコマーシャルを頼めば・・・とにかく悔しい思いです。その中で外国で日本を応援する論文が発表されたと新聞に載っていましたので、転載します。CIAの様な例もありますが、あれは、あれで、アメリカでも批判されていますのでほっといて、・・・・・しかし、今年は真珠湾攻撃60周年に当たります。今年ハワイやアメリカへ行かれる人は注意しましょう。特に12月7日は・・・・・

  我々日本人は胸を張って頑張らなければ、と思います。自信を持って。

  「ポリシー・レビュー誌」(春季号)に載っている「ソニー・サイド・アップ」と言う論文に注目したい。これはミシガン大学のゲイリー・R・サクソンハウス教授(経済学)がサニー・サイド・アップ(目玉焼き)をもじって、米国経済への日本の貢献を肯定的に評価した論文である。それによれば、日本は次の4点で1980年代の米国経済に貢献した。
  T 日本からの大量な資本流入(総額1千3百億ドル=これは外国資本総額6千5百億ドルの5分の1に当たる)があったので、米国は、資本ストックを減らす事無く、国民の生活水準を落とさずに、1980年代の国防を増強することが出来た。
  U 低価格、高品質の日本製品、つまりカメラ、計算機、ビデオテープレコーダー、その他もろもろの製品をたやすく購入できたので、米国製品の価格低下につながり、米通貨当局は1980年代初期のインフレ抑制を実施することが出来た。
  V 日本からの技術移転が、数多くの米国産業、特に自動車、鉄鋼産業を生き返らせた。
  W 日本が米国製品の主要輸入国(昨年の米国製品の輸入額は5百億ドルにのぼる)となったため、米国はこの数年間、輸出主導型の製造業ブームを謳歌できた。
  つまり、結論を言えば、日本は米国民の生活向上と米国の防衛に大変な貢献をしているのである。

  1千3百億ドルと言えば瀬戸大橋が17橋も出来る。日本国内の公共投資が不十分なのに、それをせずアメリカを支えているのです。
  日本のトイレをご覧なさい、ちょっと街を出ると未だに汲取式ですよ。世界大2位の経済大国が下水道設備世界何十位なんてナンセンスだと思いませんか。
  この独断と偏見の意見に対し、皆さんの反対、賛同のメッセージをお待ちしています。

                       Aris −◎●◎−



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  海外旅行    1991年     JA3ARI

海外旅行、パスポート編。

  ハワイ旅行の申し込みをして、数日経った。海外へ行くとあって、家族の者も躊躇している。行こうかな、どうしようかな、ふんぎりがつかない。やはり国内旅行と違って外国へ行くとなると、二度と帰って来られないかも知れない、無事に帰って来られるか心配である。飛行機だって長時間乗らなければならない。テロがある、ハイジャックがある、墜落するかも知れない。そしたら一家全滅だ。折しも湾岸戦争の最中であった。心配事だらけである。そんな目までして海外へ行くことない。大抵の人が、我が家と同じように緊張と不安に襲われる。初めての人は、ここで立ち止まってしまう。やはり行くのはよそう。
  海外旅行を経験した人は、ニャッと笑っているかもしれない。そうなんです。行ってしまえば、どおって事はない。それどころかまた行きたくなる。
  そこで、我が家の経験を、お話して、立ち止まっている人、躊躇している人の参考にして頂ければ思い、狭い経験ですが書いてみました。
  話を続けましょう。家族から本当に行くのーっ、と半信半疑のさなか旅行業者から大きな封筒が送られてきた。ツアーに関する、手続きと日程の案内である。曰く、
  パスポート申請  パスポート申請に必要な書類を、別紙の通りご準備下さい。
  米国査証     米国査証に関する質問書の記入をお願いします。
パスポート申請に必要な書類とは、
  申請書 1通、 戸籍謄本 1通(家族一括だから謄本、一人の場合は、抄本)、
  住民票謄本 1通(家族一括だから謄本、一人の場合は、抄本)、
  写真 2枚、5×5cm上半身正面、背景無地、スピード写真は不可、
        裏面に漢字で氏名を記入して下さい。
  未使用の官製はがき 1枚、表面には住民票と同一の住所と本人の氏名を記入して下さい。

実際には、申請書は旅行業者が書いてくれますので、申請書を除いて米国査証質問書迄を4人分準備して旅行業者に送ります。

  我が家では大分の市役所に電話をして方法を聞き戸籍謄本を取り寄せる一方で白い壁をバックに家族の写真を取り(サービスサイズの写真を想定し、ファインダーに写る像の大きさを決め、撮影した)サービスサイズに焼き増して、これを5×5に裁断して作り上げたので安くついた。写真を現像している間に住民票謄本を取り寄せ米国査証に関する質問書の記入を4人分、生年月日を西暦で書かなければならず、結構ややこしい、最後にサインは必ず本人がしなければいけません。はがきにも宛名を書いて、全部揃ったところで旅行業者に発送。

数日経つと再び申請書類を整えて送り返して来ますので、これを大阪府旅券事務所へ持って行き申請するのです。この時は代理申請が出来ますので1人で行きます。申請時には、身分を証明する免許証か保険証、印鑑を忘れないようにします。
  1週間か10日で、はがきが届きます。
このはがきと、申請時と同じ印鑑、申請料8,000円(1人分)を持って、今度は本人が出掛けなければなりません。
8,000円で収入印紙を購入、受領申込書に貼ります。と云っても収入印紙を差し出せば係官が全てやってくれます。パスポートは本人がサインをして受け取ります。この時サインを間違いますと再発給申請が必要になります。サインは日頃書いている漢字の署名でOKです。日本も大国になったので、これで通りますが20数年前に渡米した時はパスポートに慣れないローマ字でサインしたのを憶えています。アメリカへ行くにはビザも予防注射も要りません。但し観光で1ヵ月以内だったかと思います。仕事で行くか、向こうで仕事をする時はビザが必要な筈です。

  我が家では4人全員で出掛けました。大阪府旅券事務所は大阪府庁の南側にあり、また阿倍野の近鉄百貨店の8階に出張所が有りますので、どちらかに申請されたらよいと思います。但し、申請された所でしかパスポートは受け取れません。阿倍野の近鉄百貨店では、出張所の前のフロアーで海外旅行の用品が販売されているので便利です。たとえば紙のパンツとかシャツとか(これだと洗濯せずに捨てられます、パックで小さくなって売られています)トランクとか、旅行の必需品が沢山有りました。なるほどなあ、と思わせる用品もあり、見て回るだけでも結構知識が身につきます。

  話が横道にそれましたが、受け取ったパスポートは数次旅券で5年間有効。この間に何回でも使えます。5年経てば更新すれば良いのです。
  このパスポートを受け取って、やっと外国へ行くのだなぁー、と実感が沸いてきてみんなの覚悟が出来たようです。

  さて、これからです話は。
受け取ったパスポートは旅行業者に預ける為に送るのです。何故か?
J−NETで、この疑問を投げ掛けてみました。J−NETはJTBの関連会社が運営しているので、旅行に詳しい人が沢山居るようで、すぐに返事が返って来ました。
  パスポートは大切なものです。それを預けるのですから、第一に信用のある旅行業者か確認する事が大切です。パスポートは裏では100万円の値打ちがあるのだそうです。くれぐれも盗難には注意したいものです。盗まれたパスポートは間違いなく悪用されます。災いが降り掛かってくるかも知れません。
  一方、旅行業者がパスポートを集めるのは、間違いなく出発時に空港で参加者に手渡す事が出来るようにです。参加者は浮き浮きと旅行の準備をして空港に集まってきますが、案外空港に来てからかんじんのパスポートを持ってくるのを忘れた事に気づく人が多いのです。パスポートが無ければ出発出来ないわけで、このような事が多発した経験から旅行業者が前以て管理しておき出発時に航空券とパスポートを渡す様にしているとの事でした。
  この話は、表向きの理由ではありますが、ほかの理由は、パスポートの世話だけして、出発迄の間にほかのツアーに乗り換えられキャンセルされるのを防ぐためでもあるわけです。この辺は双方の利益に合致するようです。納得し、信用したわけでもありませんが、パスポートは書留便で送りました。しばらくのお別れです。空港でまた会いましょう。

  さーこれで、あとは出発日迄に準備をするだけです。荷物は最小限に押さえる。トランクは20数年前に社命で渡米した時に買った物が押入の奥に眠っている。2度と使う事はないだろうと思っていたが日の目を見る事になった。着替えも少なめにして向こうで洗濯する事にした。忘れ物を作らないためにチェックシートを作成した。チェックシートは旅行案内の本にはたいてい書かれているが、それにプラスして自前の用品を書き込んで行く、そしてトランクとかバッグに入れたらチェックして行くと良い。荷物は少なめに、帰りは土産など荷物が多くなるのだから・・・・・

                        Aris −◎●◎−



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  たびのおもいで    1991年     JA3ARI

JA3YDO  RBBS  TIS  91/7/4 22:30

  「たびねー、たびって あの小はぜの付いてる和製靴下のあれでっかー」、「それは足袋やがな」。「そしたら、あの猫の好きな奴」、「あれはまたたびや」。「そしたら電車に乗ったり飛行機で行くやつ」、「それは・・・ああ合うてるがな」。
  「旅のおもいでと言えば、思い出すなー」、「なんや」。「学生の頃、仲間と白馬岳へスキーに行った時、ARI局を分解してリュックサックに入れて持って行った、あの時の電源、30キロ以上有ったでー」、「それがどうしてん」、「あれは重いでー・・・・・旅の重いで!」、「アホか!!」

  想い出します。学生の頃、AUF、ARH、AFGらとスキーに行った時の事を。アノラックの腕に、それぞれコールサインを縫い付けて。あの野球帽に付いているGだのTだのと言う奴をそれぞれコールサインで特注して腕に付けて行ったんです。アノラックと云っても今の様なものではなくヤッケ見たいな物ですが、・・・・・これが効きました。
  大阪から名古屋で乗り換えしましたが、満員で我々は連結器の付近に立っていました。そしたら同じアマチュア無線の仲間が我々のコールサインを見て我々の座席を確保してくれました。お陰で座れたのです。
  その時に持っていったのがオール自作の3.5,7MHz(昔MC)送受信機。それぞれ送信機、受信機、電源に別れていて、送信機受信機は軽いのですが、電源が重い、それぞれをリュックに入れて持っていったのですが、回り持ちした。電源の番になると重いこと重いこと、しっかり前かがみになっていないと、油断するとうしろに引っ繰り返りそうになる。
  しかし、その甲斐有ってJA3ARI白馬山麓移動局は、その当時珍しいJA1YL局とのQSOを始め多くの局とQSO出来ました。アンテナはみんなで民宿の庭の木の枝から枝へ張ったロングワイヤーアンテナでした。今で言うアフタースキーは健康的なものでしたよ、それでもって楽しかった。ログは残っていまして押入の中を探せば出てくる事でしょう。
  その時おやつに出てくる野沢菜の美味しかったこと、この味が忘れられません、そいでもって信州へ行ったり、通過する時は、必ず野沢菜をつい買ってしまいます。息子が信州へスキーに行った時も、土産に買ってこいと・・・・・でも大阪で食べると、もひとつで、その土地雰囲気が大事なのでしょうね。信州蕎も信州で食べるから美味しいのであって、土産に買ってきても今一つですね。
  たびのおもいで、でした。

                          Ari −◎●◎−



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  行楽(子う楽)のシーズンに思う    1991年     JA3ARI

JA3YDO  RBBS  91/5/7 00:03

  聞くところによると、ゴールデンウイークとは大阪の興行師がこのシーズンになると、演芸や芝居小屋が満員になるので、お金が儲かる。お金が入るウイークでゴールデンウイークや、と言ったのが始まりとか。
  何も我々の為に言われた言葉ではない。強いて言えばお金が出て行くウイークでゴールデンウイークかも知れない。
  同じように子が楽しむシーズンだから子楽のシーズンとも言い、親がしんどい目にあうシーズンでもある。この時期お子さんが居れば、これだけの休みで、何処にも連れて行かなければ、学校へ行って子供が肩身の狭い思いをする。可哀相である。仕方なく泣く、どこかへ連れて行き、子が楽しむ、即ち子楽のシーズン親しんどいシーズン。
  しかし、このように、しんどい目をしても父親なんてつまらないものです。母親は、このあと母の日なんてーのが有って感謝のカーネーションを貰う。それでは可哀相だと義理で父の日が出来た。しかしこの父の日が、またまた受難の日である。父の日は父親参観なんてつまらないものを作り、父親を学校まで引っ張りだす。ゆっくり休みたいのに。幼稚園の先生綺麗な人よ、なんて言われて鼻の下を長くして出掛けて行き、結局子供とお遊戯なんかさせられて、格好悪い。こんな父の日なんか無い方がいい。
  そして、とどめは子供が大成した時、誉められるのは母。いわく野口英世の母、湯川秀樹の母、であり決して父は出てこない。しかし、その理由は有るのです。母はやっぱり偉いのです。その証拠に、このような話がある。
  子供は母親の遺伝子を引き継ぐ、従って父親が幾ら偉大でも子供に引き継げない、その証拠が、あの長島である。長島の二世は、あの長島のようには行かない、それは母親の運動神経を受け継いでいるからです。母親は運動を得意としない人だと聞いてます。
  さてそこで、これから結婚する人(男)よ、よーく考えて嫁を見付けて下さい。頭のよい女(ひと)か、または運動神経の発達した女(ひと)、を選べば、我が子が東大京大へ行くか、はたまたプロ野球かサッカーかプロゴルファーかオリンピックか、が狙えるかも知れませんぞー。

  と言うわけで、このゴールデンウイークに旅行した人は、人が一杯でしんどかったとボヤキ、何処にも行けなかった人は、何処にも行けなかったとボヤキ、かくしてゴールデンウイークは終わったのでした。そして、間もなく、また、お盆休みで民族の大移動が。・・・・・際限なく続くのです。
                             おわり

<付録>

  連休は
   寝て過ごすのか
    遊ぶのか

  五月晴れ
   釘引っ掛けて
    蚯蚓腫れ

  連休は
   高速混んで
    街空いて

  パソ通に
   首突っ込んで
    早三年

  こんなこと
   やってて人に
    笑われて
            お粗末。

                          Ari −◎●◎−





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