伝わらない、伝えられない
「おやすみなさい」
すっかり昨日を今日と呼ぶ時間帯に入ってしまい、やっとパソコンから離れられた私は遠くでパソコンの電源が情けない音をだして切れるのを聞きながら扉を開け、振り向きざまに母親の背中に毎度の台詞を口にした。母親はその言葉に、すっかりパソコンでの作業に没入してしまっていてパソコンから目を離さないまま同じ言葉を繰り返した。
そんな母親の背中を見て、私は少し胸が痛んだ。夏休みにある行事の用意をしなければならなくなった母親の背中は、まるで私の手には届かない所に行ってしまったような気がする。例えるならば、太陽。そこに見えているはずなのに、手を伸ばせばその距離を思い知らせる。本当はそんな事を止めて自分の体の方を心配して欲しい。疲れて苛立ちながらそれでもちゃんと仕事をする母親を見て、それに比べると全く何もやっていないで暇としか言っていない私は罪悪感を覚えた。
何か言葉をかけたくてその場に扉を開けたままとどまっていたが、肝心の言葉が思い浮かばない。早く寝てね。これでは焦りを与えるだけだし無責任だ。自分の事も考えてよ。いや、そんな事母には分かりきった事だろう。あえて口にするまでもない。扉に寄りかかるようにして言葉を探していたら、いつまでも動かない私を不審に思い不思議そうな表情を浮かべた母親と目が合う。
無言のまま何かまだ用なのかと訴える母親の瞳から逸らせないでいた私は、できるかぎり思考を巡らせて言葉を探し続ける。だが、焦れば焦るほど考えは絡まっていき、まともな言葉など探せる訳なかった。髪を乱暴にかきむしった私は、
「頑張ってね」
最も無責任で残酷な台詞を母親に送ってしまったのである。
一体何故そんな言葉を言う為にそんなに悩んでいたのだろうと不思議そうな顔を浮かべた母親は、ただそれに返事を返すと1秒でも惜しいかのようにまたパソコンの画面へと目を移す。再び母親の背中を見る事になった私はそっと扉を閉め、昼間よりはマシだが暑苦しい空気が充満している廊下とクーラーの付いた涼しい部屋との区切りをつける。
こんな事を伝えたかった訳ではないのに。無駄に重く感じる足をあげて前進む。私はただ、仕事を頑張るのも良いけど自分も大切にして欲しいと、その事だけを伝えたかっただけなのに。思いつかなかったとはいえそんな言葉を吐いてしまった自分に嫌気が差し、噛む力を加えて口を閉じる。
この時ほど言葉に困った事はなかった。
スランプ脱出の為練習…というよりも、寝る前にあった出来事を書いてみただけです。
…うん、やっぱりスランプから脱出する為には日常の一場面をちょっとずつ書いていくのが一番手っ取り早いな。
これをきっかけにここはネタ帳となった(え)。って言っても実際に長々と話をつくる訳ではなく、参考程度に…。
05年7月17日