狭い通路で
「ちょっと、お兄さん」
唐突にそんな高い声に呼び止められてしまい、正直驚いて体が強張り思わず前へ出かけた足を止めてしまった。今は仕事中ではないので――仕事中なら一人で歩けないし――目立たない様私服を着ているし、この左目を覆っている眼帯のせいで誰も声をかけてこようとはしない。それに、今慧が歩いているところは昼間なのに薄暗く誰も通らない狭い通路。声が聞こえてきた方は自分の後ろから、つまりこの狭い通路で誰かがいれば気付くはずだし、例え後ろからやってきたとしても足音や気配だけで分かるはずだ。声をかけてきた人物は、ただの通行人という訳でもなさそうである。
「ちょっと、そんな強張らなくてもいいじゃないの?」
クスクスと抑えた笑い声が耳に入ってくる。恐る恐る肩越しに振り返ってみればすぐ後ろに、机の上に裏返しにして重ねておいていた複数のカードを手に持ちきり始めた、薄い紫色の布で口元を隠し、一つにまとめた茶色の長い髪と同じ色の瞳を持つ女性が座っていた。もしかしたら全身真っ黒の服を着ていたのでこの薄暗い通路の陰で見えなかったとかそんな事に少し期待しながら振り向いた慧に否定を表すかの様に、女性は目を細める。
「何の用……ですか?」
初対面の相手に敬語なしでは失礼だと思い後から無理矢理そう付け加えて女性の前に立ち、女性の考えている事を読み取ろうと必死に目を見詰め返していた。「んー、そんな大事な用でもないんだけどね……」しかし残念ながらそう答えながらカードをきっていた手を止めた女性の瞳からは、何の考えも読み取れない。
「お兄さん、悩んでいるんじゃないかなって思って」
これまで感じた事がない様な悪寒が背筋を走った。今日は疲れも溜まっているだろうと休みをもらったので気晴らしに散歩をしていたところである。そんな悩みと言えるほど大した悩みは持っていなかったが、どこか心の奥底で何かが引っかかっており、それのせいで先程から少々苛立っていたのである。
「ちょっとお兄さん、さっきからいきなりぼーっとしちゃって……失礼なんじゃない?」
女性の少し苛立ちが混じった――といっても微妙な変化で一般人は聞き分ける事ができないと思う――その言葉を聞いて、はっと我に返った。そしてその言葉を頭の中で整理した後、「……僕、アナタより年下だと思いますが」わざと悪い意味に聞こえる様な言い方であえてそう言ってみる。もちろん女性は大人っぽく見えるし、自分はまだ二十歳にもなっていない。実際は年寄りだとかそういう意味で言った訳ではないのだが。
「あら、それはごめんなさい。じゃあ“ぼうや”って呼ばしてもらうわ」
どうやらそう簡単に紐を操らせてはくれない様である。もしこの女性が累の様な分かりやすい者であれば少しは考え事を見抜けるかもしれないと思ったのだが、むしろ跳ね返されて自分に苛立ちが返ってきてしまった様であった。
「じゃあ、本題に戻しましょう。悩み事。お姉さんでよければ、話を聞いてあげるわよ」
カードを重ねたまま机にそっと置いて両肘をつき、手を組みその上に顎を軽く乗せて目を細める女性。多分笑みを浮かべているのだろう。やはり口元が隠れている分表情を読み取りにくい。「顔に出て……いましたか?」女性の言葉にはあえて答えず無理矢理敬語に直し逆に尋ねてみた。「ううん」しかし女性は首を振り、否定を表す。じゃあ何故そう思ったのだろうか。
「ぼうやが放つオーラ、ピリピリしていて痛かったわ。こっちまで苛立っちゃうくらい。……あ、それで思い出したんだけど」この人には注意しておいた方がいい。そう肝に銘じていた時、唐突に女性がそんな声をあげ言葉を切ったので何を言い出すかと思えば、更に背筋に悪寒が走る様な言葉を女性は口にしたのである。
「ぼうや、変な職についているでしょ?」
耳元で心臓がうるさく鳴り響いている。この動揺と緊張が女性にまで伝わっていないか心配だった。「どうして……そう思うの?」動揺と緊張を隠そうとして思わずいつもの口調で言ってしまう。
「これもオーラ関係なんだけど……ぼうやに説明しても分かるかしら?」口は隠れていても慧の顔を覗き込む様にしてそんな口調で言ってくれば、誰にだってからかっている事は分かる。しかしこれでも結構累と付き合っているのだ。そういう事に関してはそう簡単に感情を表さないつもりである。「話してもらわないと分からないんじゃないの」冷たくそう言い放すと、あらと意外そうな声を上げて女性は背筋を伸ばした。どうやら苛立ちが混じった返事が返ってくると思っていたらしい。
「苛立ちと共に違う……何て言えばいいのかしら。例えば……冷たい、そんな感じのオーラが頬を撫でるの」そんな丸出しにしていると簡単に命を落とすわよ。後から付け加えたその言葉を聞いて、女性が何となくどんな職か感じ取っているのだと分かった。
「……あら!」
唐突に同じ言葉を口にするのでどうしたのかと思えば、女性は左手首につけた腕時計を見ている。「ぼうやの悩み事について色々語り合いたかったのに……残念ね」腕時計から目を離してカードを手に持ちながらそう言う女性の声からは少しも残念な気持ちを聞き取れない。
「じゃあ最後にそんなぼうやに良い事教えてあげる。邪魔者っていうのはいきなり現れたかと思ったら、いつの間にか去っているものなのよ。……ほら」
そう言って慧の後ろを指差すので肩越しに振り返るが、薄汚い壁がただそこにあるだけであった。それを見てから気付く。弾ける様に女性の方を見るがそこには同じ様な壁があるだけで、この柔らかい土に机の脚の跡すらない。気付くのが遅すぎたか……。ぎりっと歯を鳴らして右手を爪で傷口が出来てしまうほど強く握る。自分の愚かさに吐き気がした。どうやら悩み事が一つ増えたようである。
「……何が何だかよく分からないけど、取り敢えず知らせておいた方がいいみたいだね」
取り敢えず落ち着く為に自分にそう言い聞かせて踵を返し急いでもと来た道を戻った。爪が食い込んでできた傷口が一滴、地面に落ちて染みをつくっていったのにも気付かず。
そして再び静寂が戻った薄暗い狭い通路。「そう……それでいいのよ……」そんな嬉しそうな口調が響き渡り、そして誰の耳にも入る事なく消えていった。
End
スランプ中うーんうーん唸りながら書いたもの;
やはり展開をつくった方が書きやすいです………ん、当たり前か;でもこのお姉さん、悪役じゃないですよ。もしそうだったら例え理由があろうとも人を殺す慧達が正義になってしまいますし(笑)。
さて、この人は名前もないまま終わるかまた出てくるか…それは私が一番分かりません(おい)。
しかしスランプというものは本当に侮れないものですねー…。いきなりでした;何の前触れもなく。そりゃあったら逆に怖いですが…(笑)。この作品もちゃんと慧の悩みについて考えていたのに、全くその後が思い浮かばず結局ボツでしたからね…;;一番肝心なところが;
04年11月30日