タンポポ

 

 久し振りにあの方の部屋から暴れまわる音が聞こえてきた。 ここ最近は面白いものを見つけたと言っていた通り楽しそうで、後で楽しみが味わえるんだからこんな仕事も苦じゃないよと笑いながらペンを走らせていたのはつい昨日の事。ここの壁は薄いのかあの方の暴れ方がそれ程すごいのかは分からないが、そして次の日にはもう暴れていた事に、隣の部屋にいた菊地(きくち)はすっかり安心しきっていた為素直に驚いてしまった。

 最初にドンッと机を叩いたであろう音が一つ響き渡った後――ちなみにその時菊地はコーヒーを飲んでいて、驚きの為思わず吐き出しそうになった――、嵐の前の静けさとはこの事だろうか、少しの静寂が訪れた後に大量の紙が宙を舞う音、その紙が引き裂かれる音、壁を叩いたり蹴ったりそこら辺にある物を投げ飛ばす音がいっせいに辺りを走り回った。

 しかしそれは仕方のない事だ。少し口から溢れ出たコーヒーをティッシュで拭きながらまだ温かいコーヒーが少し残っているコップを机の上に置く。あの方は大変忙しい。やっと書類を終えたと思った次の瞬間には机から溢れんばかりの書類が追加されるのである。そんな書類の山を見てそれでも終わらせようと頑張る姿を見れば、誰も暴れ出す事に文句を言う者はいない。しかし、その怒りをそこら辺に置いてある物にまで八つ当たりをするのはいけない事だ。随分前に、借りていた本まで投げ飛ばし表紙を破った事がある。もちろんその時はあの方と一緒に謝りに行ったが、謝っているのは菊地だけであの方は腕を組んで不機嫌そうな表情を浮かべていただけであった。まだあの時は中身が無事だったので許してもらえたのだが、これ以上仕事が増えない為にも自分がしっかり見守っておかなければ。

 だが問題はそこである。あの方は自分の感情を抑える事ができないので周りのものに八つ当たりをしている為、うかつに止めようと近寄れば更に怒らせる事になる。なので菊地は取り敢えず気持ちが納まったあの方と一緒に気晴らしに外に出かけ、文句を聞く事しかできない。

 だから今日もあの方が部屋から出てきて自分の名を呼ぶのを、椅子に深く腰掛けコーヒーを飲みながら待っていた。前に一度だけあの方が部屋から出る前に廊下で待っていたら、部屋から出てきた彼はしばらく不機嫌な表情で菊地を見詰め、「片付けとけよっ!」視線を逸らしそう言い残して去っていった事があった。

 残っているコーヒーを全部飲み込んで一息をつき聞き逃さない為に耳を澄ますが、静寂だけが広がっていて物音一つ聞こえてこない。変だ、今までこんな事一回もなかった。もしや暴れすぎて倒れてしまったのではないだろうかと心配はつのるばかりで、心配だけしていても何も変わらないので様子を見に行こうと立ち上がる。もし中にいてまだ気持ちが納まっていなかったら怒られるだろうが、無事ならそれでも構わない。

 廊下に出てすぐ左隣にある扉。八つ当たりしすぎて傷だらけになってしまったこの扉は、昔は傷が一つ増える度にもっと大切に扱えと色んな人に怒られていたが、今では皆あの方の部屋だと認識するものとしてしか見ていない。その扉を少し見詰めてから軽く二度ノックしてみる。これだけ静かならば小さくてもちゃんと聞こえているだろうし、大きすぎるとあの方の苛立ちを増すだけにしかならないだろう。だが、予想していた高い声は聞こえてこなく、違和感だけが残る。

(きょう)様、菊地です」

 もう一度軽く二度ノックして名乗ってみるが、いないのかやはり返事はない。しばらく右手を上げたままどうしようかと考え込んでいたが答えは一つしか思い浮かばず、仕方なく部屋の中に入る事にした。どうか鍵がかかっています様に。矛盾の事を願いつつ恐る恐るドアノブに手を伸ばして握り、一瞬だけ躊躇した後思い切ってドアノブを回す。するとドアノブは何の抵抗もなく回り、そのまま押すと主人以外が開けた事を嫌がる扉が少し悲鳴を上げた。

 部屋の中は暗闇に包まれていた。しかしそれはいつもの事。あの方――響は暗闇を好み、暗闇の中で仕事をしている。服も全て漆黒であるし、首を覆い隠すぐらいの長さの髪は珍しく茶色が混ざっていない黒で、それが気に入っているので染めた事などない。なので風に流れる髪はまるで水が流れている様な印象を抱く。そして菊地が着ている服も短い髪も黒なのは、もちろん響の命令だった。

 しかし瞳の色は嫌いらしく、いつも前髪で隠していた。どんな色なのか見た事はないが、多分一番嫌いな色なのだろう。一度前髪を無理矢理切られそうになった時、剣を抜いて殺しかけたくらい抵抗していたのを思い出す。

 そこまで思い出してすっかり考えに没頭してしまっている事に気付き、本来の目的を思い出す為に首を振る。その時廊下の明かりのおかげで、扉近くに文字がぎっしり書いてある紙や逆に何も書いていない紙などが落ちているのが視界に入ってきた。

 一人で出かけられたのだろうか……? そう思いながら取り敢えず散らばった紙を片付けようとしゃがんだ時だった。まるで逃げるかの様に紙が舞い冷たい風が頬をなでていく。後ろからではなく前からだった。靴を脱ぎ、すみませんと心の中で謝りながらなるべく紙を踏まないように部屋の中を歩いていくと、暗闇に慣れた目が映したのは風にはためく、光が入らない様にと安全ピンでとめた何枚もの漆黒のカーテン。下からカーテンをめくり覗き込んで確信する、響は窓から外に出たのだ。カーテンと共にしっかり固定された縄は風に吹かれて揺れていた。

 しばらく呆然と揺れる縄を見詰めていたが唐突に寒さを感じて身震いを一つしたので、窓を閉める為に縄を解いて近くにある机の上に置く。そして一度自分の部屋に戻って漆黒のコートを着てから、響を捜す為に外へ出た。

 

 

 響の部屋の窓を確認してから取り敢えず建物の周りを探してみる事にする。そんなに時間は経っていないのでそう遠くへは行っていないだろう。しかし周りだけといってもかなり広範囲である。さてどこから捜そうかと辺りを見回した時であった。風に吹かれ宙を漂う無数の白い物。目を凝らしてよく見てみるとそれはタンポポの綿毛の様で、全て同じ方向からこちらまでやってきている。

 何となく綿毛を見ながら綿毛がやってきた方向へ進んでみるとこの建物を囲む塀にまでやってきてしまい、その隅の方には地面にしゃがみ込んで背中を丸めている見慣れた後姿が目に映った。ここに黒一色しか身につけない人は自分の他に一人しかいない。走って近寄る気持ちを抑え、静かにしゃがみ込んでいる人物の後ろに立った。

「響様、勝手に外出してはいけません」

 一応決められた台詞を口にする。もともと菊地は響の行動監視役であるので、最初の頃なんていつも外を走り回っていた。いつの間にか響から菊地の傍にいる様になり、この台詞を最後に口にしたのはいつだったか忘れてしまったくらい久し振りだ。しかしいつ言ったかは忘れていても次に響がいつも吐き捨てた台詞は覚えている様で、そう言われるのを待っている自分がいる事に気付く。

「決められた台詞だけ喋っていれば良い奴は楽で良いね」

 肩越しに振り返り肩をすくめて鼻で笑う、まるで合言葉の様に毎日交わされていた台詞。しかし目の前で微動だにしない響は、まるで聞こえていないかの様に返事すらしない。一体何が響をこんな風にしているのか、上から覗き込めばそこにはまだ黄色い花を咲かせているタンポポやもう綿毛になってしまったタンポポ、綿毛が全て飛んでいってしまったタンポポなど沢山のタンポポが風に吹かれて揺れていた。

 しばらく覗き込んだままの形でそのタンポポを響と同じ様に見詰めていたが、さすがにこの姿勢では疲れてきたので、彼の右隣に立って何か喋り出すのを待つ。下手に喋りかければ怒らせてしまうかもしれないというのは、ずっと響を見てきて学んだ事の一つだった。

 隣に立ち、何も喋らず何もせずにただ響が喋り出すのを待つ、その時間はとても長く感じられた。丁度一本のタンポポの綿毛が全て旅立った時、「――ねぇ、きく」こんな静かな場所でも小さいと思ってしまうほどの声が耳に入ってくる。名前を呼ばれたと理解した時、そういえば最初の頃は名前ではなく、おいやらお前など呼ばれていたという全く関係ない事を少しだけ思い出した。

「何でコイツらはどんなに踏まれても生きようとするんだろう。雑草なんて名前の通り余計な物なのに」

 指先でタンポポをつつきながらそんな台詞を口にする。いつもの感情のこもっていない、まるで台本を読んだ様な台詞とは違い、本当に不思議そうに尋ねてくる口振りから必要ないので消してしまえば良いのにと考えている事が安易に感じ取れて、少し心が痛む。

 響が何も言い出さないという事は答えを待っているという意味なので、何か答えなければと思えば思うほど焦ってしまい頭の中が真っ白になる。重苦しく漂う沈黙に耐えられず思わずタンポポから響へと視線を移すが、前髪で目を隠している為口元しか分からなく、何を考えているのか読み取れない。

 響は一度黙ると相手が何か答えるまで一言も喋らない、それが余計に菊地を焦らせる。ダメだ。響様は待っているのだから、答えなくては……! 取り敢えず落ち着かせる為に小さく深呼吸をし、それから自然と思いついた言葉を口にした。

「それは、響様が見つけてくださるのを待っていたんですよ」

「ふーん――は?」

 多分適当に相槌を打っておこうと最初から決めていたのだろう。少し間を置いてから弾ける様にこちらを向く。口は半開きになっていて、それは間違いなく響が驚きを隠す事すら忘れるほど驚いている事を表していた。素直に驚かれるなんて、初めてだ。

「自分がタンポポであれば、こんな所で響様の目に留めてもらえた事は……それだけでとても幸せです。それは自分の存在を認めて下さったと実感できるからだと思います」

 思わず見とれてしまっていた事を気付かれない様に自然に見える様目を逸らし、その場にしゃがみ込んでタンポポに視線を戻す。相変わらず風に身を任せるだけのタンポポ。タンポポが踏まれて痛いと感じるのか目に留めてもらって嬉しいと感じているのか分からないし、もしかしたら何にも思っていないのかもしれない。あくまでも自分がタンポポになった時の気持ちなので、別に無理に分かって欲しいとは思っていなかった。ただ、思った事を口にしただけ。菊地が答えてもまだ黙っている響がこの意味を理解しようとしているのか、またはどうとも思っていないのかは分からない。ただ、そういう考えもあるんだと思ってくれれば、それだけで良かった。

 もう話は続かないだろうと思い、響の方を向きそろそろ帰りましょうかと尋ねようとした時であった。

「それは……お前の言葉?」

 地面に腰を下ろした響がこちらを向いて、菊地が尋ねるより少し早く質問とは全く違う事を尋ねてくる。前髪で見えなかったが、何となく寂しそうな悲しそうな――そんな目付きで見られている様な気がした。

 響が二度も答えを求めてくるなんて珍しい。いつもは遠くの方を見ながら喋り続けて、菊地が頷いているのすら見ていない。まるで静寂を恐れるかの様に質問も関係なく口にしているだけ。そんな響が他人の声を聞きたいほど何かあったのだろうか。取り敢えず今は質問に答えるのが先なので「はい」声に出して返事を返す。

 その返事を聞いた響は、口元に笑みを浮かべた。いつもの様に口元を吊り上げて薄ら笑いを浮かべるのではなく、小さくであったが本当に嬉しそうに。

「お前の言葉なら、そうなんだろうな」

 小さく呟いた響の言葉は、すぐ近くにいた菊地の耳にちゃんと届いた。そんな事誰にも言われた事のなかった菊地はその言葉を理解するのが一瞬遅れてしまう。どういう意味かと問う前に響は地面に手をついて立ち上がり服についた土を払って、「帰るよ」目を逸らし、まるで先程までのは見間違いだったかの様にいつもの口調でそう言い放つと、さっさと後ろを向いて歩き始めてしまう。そんな響に遅れないよう菊地も急いで立ち上がり、慌てて響の後ろを追った。

「寒い」

 唐突に後ろを向かず短くそう言うので、菊地は着てきた漆黒のコートを脱ぎ、彼の歩調にあわせながらそのコートをそっと肩にかける。ずり落ちない様にコートを押さえた響の手と一瞬だけしか触れていないのに、それだけで充分手が冷たいのが伝わってきた。

 再び冷たい風が頬をなでる。空を見上げれば、先程と同じ様に無数の綿毛が風に身を任せて宙を舞っていた。そんな光景を同じ様に見上げていた響は足を止め、「アイツらは誰に会いに行くんだろうね」誰に問いかけた訳でもないその言葉は、どこか物悲しさを含んでいた。

End

 

 

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…自分が存在する意味は何なんだろうと考えながら打っていたらこうなっていた;最初考えていた通りの文章になった事はなったんですが、そんな深い意味はなくただ響を捜しに菊地が行った…っていう話だったんだけど…どこで間違えた;
五月病です。

菊地が響にコートを肩にかけるところは絶対書きたかったので、満足ですvコート羽織って袖ヒラヒラさせているのって何か好きなんですよ。かっこいいv
…響が窓から縄で下りていったのは、単に一度やってみたかっただけだったり(私が/え)。
最後に書いてある“物悲しさ”というのは特に深い意味がある訳ではなく、空を見上げていると何となく悲しくなってくるような寂しくなってくるような…そんな感じです。

……関係ないですが響は綿毛を飛ばす時、茎を折るのではなく自分がしゃがんで吹き飛ばします。全然関係ないね…;

05年5月28日