Cheshire Cat
ペンを走らせていた手を止めて意識して周りの音を聞いてみれば、真後ろから窓を叩く無数の音が聞こえてきていた。ペンを机の上に置きカーテンの隙間から外の様子を覗いてみれば、案の定そんなにひどくはないが雨が降っている。
「雨、か……」
誰の耳にも届かないその言葉は、漆黒の闇に包まれた部屋の中で雨音にかき消されていく。
カーテンの中に入ると、暗闇に慣れた目が一瞬光を受け入れられなくて思わず目を瞑り手で覆ってしまった。しかし、すぐに目をこすって数回瞬きをしてから窓を開ける。右手を差し出すと冷たい雨が当って心地良かった。ずっとペンを握っていたせいですっかり熱をもった掌には丁度良い冷たさで、思わず上半身を乗り出して空を見上げる。雨に濡れた長い前髪が顔にへばりついてきたがそんなに気持ち悪くはなかった。
薄目を開けると髪の隙間から、無数の水が灰色の重苦しい所から何の抵抗もせず落ちてくるのが目に入ってきた。まるで自分の事を哀れむかの様に、顔を弾く雨は頬を優しくなでてそのまま落下を続ける。
……別に雨なんかに同情してもらう理由なんてないし。そこまで流れる様に考えていたが、唐突にそんな思考にたどりついた自分に苛立ってきて上半身を引っ込める。わざわざタオルを持ってきて拭くのも面倒臭かったので顔を振って水をきっていたら、当たり前だが先程まで書いていた書類に水は飛びインクがにじんでしまった。「あ」そんな光景が目に入ってきたので顔を振るのを止め、しばらく乱れた髪のまま書類を見詰めたが、まぁいいかと思い直し黒い服で顔を拭く。
「雨の日に渡す奴が悪い」
服から顔を上げて一息つき、鼻で笑い飛ばしながらそんな勝手な事を口にする。そう言ってからふと、今日書類を届けに来た奴は前まで届けに来ていた奴と違うという事に気付いた。前まで届けに来ていた奴は短い茶髪を重力に逆らわせて耳にはピアスの穴が沢山開いており服装もだらしなく、初めて会った時はまるで自分の方が上だという態度で渡してきたのでちょっと腹が立ったから前髪の隙間から睨んで奪うように取ったら、それからやけにオドオドした態度をしていたっけ。記憶を探りながら勢い良く椅子に腰掛け、背もたれに寄りかかり背伸びをする。
よく思い出してみれば今日渡しに来た奴はそいつよりも身長は高かったし、無駄な行動もなかった。それに短い髪の色も着ている服も響の好きな色――黒だったので、違和感なんて少しもなくまるでずっと昔からいる様な錯覚を覚え、こちらも返事を2回して受け取っただけだった。
「逃げた、か……」
顎に手を当て低く呟く。紹介もなく唐突に替えられてさっそく書類を届けに来たという事は、そういう事だろう。しかし別に腹は立たなかったし、むしろこちらとしてもありがたかった。あんな変な色を飾っている奴なんてこっちから願い下げだ。誰だか知らないが彼を選んでくれた奴に今すぐ礼を言いたいくらい気分はものすごく良い。
床に散らばっている書類を軽く避けながら――いつもは踏んだり蹴飛ばしたりしながら歩いている――扉を開け、右隣にある扉の前に立つ。書類を届けに来る奴らは必ず響の右隣の部屋を使わしてもらい、監視しやすい様にしている。
多分、いや絶対に自分の事は誰かから紹介してもらっているだろうが、それなのにこちらは相手の事を何一つ知らないというのは不公平だ。それに自分を客観的に見た説明だろうから、何故か奴には本当の自分を知って欲しい気持ちが溢れ出してきて、それは不思議と嫌ではなく、むしろ心地良い。もちろん今までそんな事はなかったし、むしろ誰にも会いたくもないという気持ちしかなかった。
たかがそんな事ぐらいで気持ちが変わるのだろうか。そう考えても何か答えが思い浮かぶ訳ではないし考えるのも面倒臭くなったので、その考えはそこで中断してドアノブに指先が触れた時だった。
触れた指先に激しい痛みが走り、反射的に手を離す。無意識のうちに痛みを和らげる為手をなでながら、呆然と扉を見詰める。その扉は入る事を拒絶するどころか、触れる事すら許さなかった。まるであの人の様に――。
「――っ! いた、い……」
そこまで思考がたどりついた途端、今度は激しい頭痛に襲われ両手で頭を覆い、思わずうずくまってしまう。思い出したくもないあの人があの台詞を呟きながら頭の中を駆け回って這い出そうとしている。首を右に傾け焦点の合わない虚ろな瞳に半開きの口、両手は自分を捕まえようと前へ伸ばし純白のワンピースから覗いている足はその手にひかれておぼつかない足取りで、それでも正確に追いつこうとしている。逃げなければ。そう思えば思うほど足は思う様に動いてくれなくて、それなのにあの人はものすごい速さで追いかけてきて――。
まだ響く頭を右手だけで押さえ、左手で支えながらも何とか体を起こす。何赤の他人に頼っているんだろ。自嘲を浮かべてそのまま扉の前を通り過ぎる。水を浴びて全てを洗い流してしまいたかったが風呂場でまた色々とやるのは面倒臭かったので、丁度雨も降っているので外へ出る事にした。どうせ先程上半身が濡れてしまったのだから、今更ズボンが足にへばりついてしまうなんて事気にしない。それに服の色は黒色なので色の心配もない。
まだ部屋の中にいる奴は自分の事をあまり知らないとはいえ、油断はできない。気付かれない様に静かに歩き、外へと向かった。
無駄に大きくて重い扉を何とか開けると、まるで響の機嫌と比例するかの様に雨は先程見たよりも勢いを増していた。空の色は見ているだけで憂鬱になりそうなくらいのユナイテッドグレーに染め上げられている。水を含んだ地面を思いっ切り踏んづけても、耳には雨の音しか入ってこない。歩きながら肩越しに振り返り地面を見れば、形は少し崩れているがそれでもはっきりと足跡が残っているのが目に入る。
雨ひどいなー……。他人事の様にぼんやりとそう思いながら、水を吸い変な方向にへばりついている前髪を指先で真っ直ぐに直す。まるでシャワーを浴びている様で、服はすぐに水を含んで重く冷たくなっていった。それに激しく打ち続ける雨は痛くて、長い事そこにいればいるほど鬱陶しくなってくるし、気持ちは少しも流れてくれなくて、むしろ独りでいる事により考えてしまい余計悪い方へと進んでいる様な気がする。思っていたよりも雨に打たれるのはあまり良いものではなかった。帰ろうと思い直し踵を返して一歩前に踏み出した時だった。
この雨の中、耳にはっきりとした抑えた笑い声が入ってきた。
最初は空耳かと思い特に気に留めはしなかったが、しかしそれにしては長すぎるなと足を止め、肩越しに振り返る。前髪は張り付いているし雨で視界はにじんでいたが、そんな瞳にも灰色の世界には全く似合わず浮いている色ははっきりと映った。肩にかかる程度の髪はピンクよりも少し薄い色で、左側に少しだけ混じっているディープピンクをまとめて三つ編みにしている。黄色の瞳は暗闇の中で薄く光っていた。
雨のせいでタンクトップとベルボトムは体に張り付いていてそれだけでも寒そうなのに、肩に乗せているだけで役目を果たさないディープロイヤルパープル――水を吸って色が濃くなっただけかもしれないけど――のファーは普段は柔らかい感触で気持ち良いのだろうが、雨のせいでしおれていて余計に寒さを呼ぶだけになっている。そんな格好でも、目の前にいる青年は口元に右手を当てて何がおかしいのか抑えた笑い声を辺りに響かせていた。
ここは高い塀に囲まれていて関係者以外は立ち入り禁止なので、いくら他人付き合いが悪いとはいえこんなに目立つ青年がいれば一度ぐらいは目にしているはずだし話を聞いた事がないはずがない。一体どこから入ってきたのか、いつからそこにいたのか、何の用なのか――疑問はいくらでも溢れ出てきて止まらないが、「……誰?」取り敢えず最もな質問をする事にする。
抑えた笑い声を続けていた青年は、その言葉は雨に掻き消される事なく届いたのか笑う事を止めしばらくそのままの姿勢で止まっていたが、不意に黄色の瞳を細めて口元に当てていた手を下ろすと、一歩一歩ゆっくりとこちらに向かって歩き出した。水を含んだ地面を踏み潰して水が溢れ出てくる音が断片的に雨音に混ざって大きくなってくる。
一体何を考えているのだろうか。そんなに遠い距離ではないのだから充分声は届く。もしかしたら殺すつもりかもしれない。そう思った瞬間体が強張り、普段背中に括りつけている剣は雨が降っていたので持ってこなかった為服の中に隠し持っている短剣に手を伸ばして、気がつけばそれを抜き「動くなっ!」そう叫んでいた。青年もまさかそんな行動に出るとは思っていなかったのだろう、上げようとした足が不自然な位置で止まる。
「一体誰なんか……それだけ答えろ」
少しだけ雨音だけが響いた後それだけ口にする。他にも動いたら殺すなど色々言おうと思っていたが、いざ言う時になると何だか面倒臭くなって結局言わない事にした。それにこの状況なら青年にも充分その事が伝わっているだろう。
足を不自然な位置で止めていた青年はゆっくりと足をそろえると――バランス感覚が良いのか微動だにしてなかった――、いきなり表情を和らげて肩をすくめる。それからこちらの方に黄色の瞳を向けると、笑みを一つ浮かべた。
「別に何とでも呼んでもらっても構わないけど……周りからは“チェシャーキャット”って呼ばれてる」
いや別に名前を聞いた訳ではないんだけど……。思わず溜息をつくが、そう言い直すのも面倒臭かったので「そう」取り敢えず一言だけ返事を返す。何だかこんな奴に緊張した自分がバカらしくなってきた。もしかしたら油断させる目的で態度を変えたのかもしれないが、そもそもこんな天気の中敵の中に突っ込んでくる様な奴だったらこっちも何とか対応できるはず。
「……ねぇ、もし良かったらさ……その剣、なおして欲しいんだけど……」
思考を巡らしているとそんな恐る恐る頼む声が耳に入り込んできたので「あ、うん……ごめん」思わず反射的に小声で謝ってしまった。何謝ってんだろ……。思わず溜息が出そうになった口を閉じ、濡れた刃を服で軽く拭いて服の中にある鞘に納める。
「――で、アンタは何しに来たの?」
激しく降り注ぐ雨の勢いで変な方向へとはねている髪を手で押さえつけながら質問を続けたが、青年は何も答えてこなかったので目だけを動かし見てみれば、何故だかとても驚いた様な表情を浮かべている様に見えた。黄色の瞳はじっとこちらを見詰めているので、その驚きは自分の何かをさしている事に嫌でも気付かされる。自分でも気付かないものに気付いて勝手に反応しているのを見ているのはとても腹が立つ事であった。「何、何が言いたい訳?」自然と口調も冷たくなる。
驚きの表情を浮かべていた青年は腹が立っている事に気付いたらしく、すぐに愛想の良い笑みを浮かべて謝ってきた。悪いが上辺だけ謝られても響の神経を逆なでる事にしかならない。
「いやさ、名乗って“アンタ”って呼ばれたの、初めてだったから。大抵の人はそのまま呼んでくれてね」
「じゃあ何でも良い何て言わなければ良いんじゃないの?」
青年の態度にも言い方にもだんだん腹が立ってきた響は、気が付けば言下に考えるよりも先に口がそう吐き捨てていた。言った後で自己嫌悪に陥るが、何故か表情だけは戻らず鋭く青年を睨み付けている。
「いや、そういう意味じゃなくってさ……」さすがに笑みを浮かべていられなかった様で、困惑な表情を見せて続ける言葉を考えていた青年は、短気だなぁー……。頭をかきながら八つ当たりの様に呟いたが、すぐに首を振って右を向くと遠くを見詰める。「アレで呼ばれるの、厭きたから……。だけど言われなくても言ってくれるのを待っていたから。だから、例え固有名詞じゃなくても嬉しいより先に驚いた」
それで終わりのはずなのに何故かまだ言葉が続きそうな気がして、そんな気がしたので中途半端なまま雨の音だけが辺りに響き渡った。まるで誰かに聞いて欲しかったとでも言いたげなその言葉に、既視感を覚える。その言葉自体に、ではなく、その心の奥底にあるその言葉の本当の意味に。
思いつくままに考えていたら唐突に我に返り、額に手をあてて小さく溜息をつく。長居しすぎた。無駄に腹が立つのも変な方向へ考えてしまうのも、この雨のせいだろう。本当はそれを忘れたくて自分から外に出たのに、そう考える事でしか自分を抑える事ができなかった。
「分かった」取り敢えず何か言った方が良いだろうと思い、感情のこもっていない声で返事を返す。「で、話を戻すけどさ、結局アンタはここに何をしに来たの?」
その言葉を聞いてこちらを向いた青年の顔は、思わず先程見せた暗い表情が見間違いだったと思ってしまうほど何事もなかった様な表情をしていた。それから少し目を逸らして小さく唸った後、人の良さそうな満面の笑みを浮かべる。
「“言葉”をあげにきた、かな?」
しかしその満面の笑みはその言葉を吐いたと同時に消え去り、目を細めて口元を吊り上げ、笑った。まるで暗闇に浮かぶ薄い月の様に寒さのせいで紫色に染まってきた唇を歪め、自分でもはっきりと分かっていない返事を返す。
何故か響にはその笑みは、こみ上げてくる何かを無理矢理抑えつけている様な笑みに見えて、それはまつ毛に雨が弾け飛んでいるせいだと勝手に自分自身に納得させた。それに雨水をどっぷりと吸収した薄ピンクの重たそうな髪が更にその切なさを強調しているのだろう。それは響にも言える事だが。
「言葉?」
少しの間を置いた後最初の単語をオウム返しで尋ねると、薄い月が開き「そう」そのままの表情で、その表情には似合わない明るい声で頷く。
「自分から拒絶しているのに期待している自分がいて、そんな矛盾を抱えている自分はおかしいって悩んでいるんでしょ?」
驚きで声も出なかった。ここまで明確に言い当てられると、どう反応していいか分からなくなってしまう。そんな動揺を隠し切れない響を見て、自分が思っていた通りの反応が返ってきて面白かったのか単にそんな彼がおかしくなったのかは分からないが、手の甲で口元を隠し、初めて出会った時の様に抑えた笑い声を響かせていた。
先程までの響であれば青年のその態度に苛立ち、考えるよりも先に何か言葉を吐いていただろう。だがそんな感情よりも不気味さからくる恐怖により言葉も出なくなっていた。幼い頃、どれだけ人の考えている事を読み取る事ができたら良いだろうと羨ましがっていた。そうしたらあの人嫌われない様に行動できるから少なくともあの時よりは受け入れてもらえると、今でも時々そう考えてしまう時がある。だが、目の前にいる青年は、本当に自分の頭の中を読んだのかは知らないが明確に言い当てた。これは勘なんかでは言い当てられない、絶対何かを見て言い当てた言葉である。
人間とはそういうものに憧れるほど、いざその力を持っている人物を目の当たりにすると拒絶するというのは何故か記憶されていた。もちろんそんな人物なんかに出会った事などなかったので自分勝手だと不思議がっていたが、今なら分かる。
普通は持っていないものを平然とやる不気味さと、それが自分に害が及ばないかという恐怖感。
勝手だと思う。自分の感情に疑問を隠せない頭が吐き捨てるようにそう考えた。
「……へー、だったら何? 慰めてくれるの?」
先程までと同じく苛立ち混じりの言葉に聞こえる様に何とか声を絞り出す。意識して眉間にシワを寄せてみるが変に眉が痙攣して失敗に終わってしまい、気付かれてないかと無駄に心臓が早鐘を打つ。何に怯えているのか、見えない恐怖に苛立った。
「まぁ……そんな感じかな」
少し目線を逸らし唸りながら何故か垂れたファーの先を振り回して水を吹き飛ばし始めた青年は、唐突に顔をしかめるので何事かと尋ねる前に左手で目をこすり始める。飛ばした水が目に入ったのか、雨に濡れたままにしていた顔にそって流れ落ちる水が気になってやったのかは知らないが、そんな青年を見ていると自分の顔にも違和感を覚えてきたので濡れた服で顔を乱暴に拭く。
雨に打たれたままなのですぐに顔は濡れるが先程よりは少しマシになったので顔をあげると、瞳には今度は両手で目をこする青年の姿が入ってきた。止めた方が良いだろうと青年に近付き何も言わないまま左手首を掴むと驚きの表情に満ちた、少し赤くなった金色の縦に細長い瞳孔とぶつかる。
「目赤くなってるよ」
一瞬言われた事を理解できていない様子だったが、「あ……う、うん……ありがと」すぐに笑みを浮かべてお礼を言う青年は、掴まれた左手を慌てて引っ込めるのでいきなり突き放された響の右手は変に宙に浮いたままになった。そんな青年の拒絶した行動に違和感を覚えるが、その事を口にする前に青年は「で、話し長くなるけどさっきの続きを言わせてもらうと」視線を逸らしながら左手首を押さえる。
「矛盾はおかしいって言うけど、それが普通なんだよ。君がどうして拒絶し始めたかは知らないけど、そんな人間ばかりじゃないと思ってしまうから、期待してしまう。でも他人には自分の気持ちなんて分かるはずないから、傷付くって分かってるから怖くて拒絶する。それのどこがおかしい? 本当の恐怖は、“知らないもの”なんだと思う。答えが分かっていないから」
そこで言葉を切った青年は左手首を押さえていた右手を額に当て俯くので、「ねぇ、ちょっ」様子が変だ。大丈夫かと手を伸ばそうとしたら、それは青年が左手を勢い良くあげた事により不自然に途切れる。最後まで言わせて欲しいと言いたいのだろう。
「君は、相手に何を求めるの? 友情、居場所、優しい言葉、安心感――、それはさ……相手の心まで得られないともらえない満足感? 心は自分だけのものなのに、何で相手には分け与えてもらわないと満足しないんだろうね。一人じゃ生きていけないって言うけど、だからと言って必要以上に仲良くする必要もないし、むしろそれは逆効果なんじゃない? それに良い所と悪い所があって生き物は成り立っているんだから、完全に嫌っているって事は……それはその人の一部しか見れない可哀想な奴でしょ。そんな奴に好かれようとする必要はないし、そんな奴は一生……きっと言われても理解できないと思うよ」
そこまで俯いたまま吐き出した青年は仰々しく溜息をつき、顔を上げた。やけに目立って頬を伝い流れ落ちる水が雨によってなのか涙なのか、それはもしかしたら青年にも分からないかもしれない。
金色の瞳とぶつかった瞬間にぎこちない笑みを浮かべられて、それを見てその話はそこで終わった事を理解した。だが一体青年が何を伝えたかったのか、一番肝心な所を頭が理解していなくて、何と返事を返せば良いか困っていた時だった。
「怖くないの?」
何の前触れもなく唐突にそんな事を尋ねられ、青年が伝えたかった事を理解しようと思考を巡らしていた響は反応が遅れてしまい、「え」結局口から出た言葉はもう一度言ってくれる様促す簡単な言葉だけだった。
まさかもう一度言ってもらう様促されるとは思っていなかったのだろうか、少し困惑な表情を浮かべて目を逸らしそのまま黙り込んでしまった後、「君の悩み、言い当てて、さ……」意を決してもう一度、今度は正確に尋ねてきた声は心なしか震えている。その言葉を聞いた響までも、思わず目を逸らして俯いてしまった。
恐怖感と不気味さを感じだのは本当だ。あの時の自分の感情を思い出すと、背筋に悪寒が走る。そこまで思い出していて、ふとある事に気が付いた。もしかしてあの時、目をこすっていたので止める為に手首を掴んだ時青年驚いたのは、単に唐突で驚いただけではなくもしかしたらそんな行動に出られるとは想像していなかったからかもしれないし、最悪、何かされると思っていたのかもしれない。知らずにやって傷付けてしまったと気付いてしまった時ほど感じる痛みはない。
水を含みきれずポタポタと後から地面へ流れ落ちていく髪を乱暴に掴み、暴走し始めた思考を抑える。やはり本当の事は言わなければならないだろう。
「怖い、とは思った」その言葉を聞いた青年が、誰が見ても分かるほど肩を振るわせたのを見て後悔しなかった訳ではない。だが、本心を早く伝えたかった為に今はあえてその気持ちを無視した。「思ったけど、だけどそれがアンタなんでしょ? それにアンタ、良い所と悪い所があって生き物は成り立ってるって自分で言った通り、それが良いか悪いかはっきり言えないけど……アンタはそれを無駄に使おうとはしてないし、むしろ慰めに使おうとした。その優しさだけで良いんじゃないの?」
だんだん自分でも何が言いたいのか分からなくなってきて、尻すぼまりになる自分の言葉に苛立った。自分でも何が言いたいか分からないのにその言葉は青年に伝わるのだろうか。確かめなくてはならない。恐る恐る顔を上げてみると最初に飛び込んできたのは驚きで目が見開いている青年の顔であった。一体何と言えば良いのか分からないままじっと青年を見つめていると、たった今気付いたとでもいう様な表情を見せた後、満面の笑みを浮かべられる。「優しいんだ」
その言葉を聞いた途端、心の中に何と表現したら良いのか分からない感情が溢れ出てきた。今まで一度もそんな事を言われた事がなかったので、そんな感情に思わず焦ってしまう。だが、嫌ではなかった。とても暖かくて心地良いこの気持ちは、何故かそれだけですごく満足感を与えてくれる。
「さて、お互いこんな雨の中じゃ疲れたんじゃない?」
いきなり今までの雰囲気には場違いな大声が響き渡り、その言葉が次に何を伝えようとしているのか響には嫌というほど伝わってきた。出会いも突然で自分勝手だったけど、別れも突然で自分勝手なんだな。思わずそんな青年の雰囲気に合わせて心の中で八つ当たりをする。
「今度はいつ会おうか?」
「さぁ? アンタの事だから約束しても気まぐれに破るんじゃない?」
また会える事を喜ぶ気持ちとは裏腹に口では思わずそんな事を言ってしまった。「ひどいなー」そう文句を言った青年も、自然な笑みを浮かべて笑っている。しかしすぐに二人共黙り込んでしまい、ただ初めて出会った時よりも衰えてきた雨音だけが辺りに響き渡ってしまう。久し振りにまともに話して心から笑えた。できる事ならまだこの場にいて欲しいのだが、背を向けた青年の背中がそれを拒否していた。
何も言わずに歩き出した青年を引き止める事は簡単にできる。だが、止める事はできても青年の意思までは変える事はできない。背中を見つめながらそんな事を考えていたら、唐突に青年は立ち止まり肩越しに振り返って、「優しいのも良いけど、大切な人の前では素直になった方が良いよ」
唐突の言葉に思考は絡まり、思うように動いてくれず言葉が出てこなかった。あえてそれを狙ったのかそれとも偶然だったのか、そんな事はどんなに考えても青年にしか分からない。
「また来るよ。今日みたいな日に、お気に入りの帽子をかぶってとっておきのお茶を用意して、笑う三日月の下で待っててね」
最後に一つ微笑みかけそんな言葉を残し青年は、今度は一度も振り返らずに暗い雨の中を真っ直ぐ進んで行くのを、響はただその姿が暗闇に飲み込まれるまで見つめる事しかできなかった。
†
何の前触れもなく唐突に響のペンを走らせていた右手が止まったので、失礼だがまた暴れ出すのではないだろうかと先程から菊地は疑いの目を、本棚に隙間なく並べてある本の背表紙から時々横目で彼の方に向けて監視していた。そんな事に全く気付いていない様子の響は、右手を止めた時からずっと頬杖をつき低く唸っている。
何の前触れもなく唐突にといえば、響が菊地の部屋へ両手でも抱えきれないほどの書類を持ってやってきた時は、置く場所がなくなってとうとうこちらにまで場所を広めたのかと思ってしまうほど驚いてしまった。もちろん書類で菊地の顔が見えない響は、「失礼するよ〜」くぐもった声で一応そう口にして勝手に机の上に置いてあったものを、書類を持った腕で乱暴にどけてから勢い良く書類を置いて、
「仕事するから、机借りるよ」
有無を言わせぬ勢いで椅子に座り込んで勝手にペンを握り、まるで文章を覚えているかの様な速さで文字を書き始めた。どうやら置く場所がなくなったというのは当たっていたようだ。しかしそれを片付けようと頑張る姿を見て、まだまだ自分は彼の事を理解していないなと叱る。
しかし、何故暗闇を好む響がこちらで作業しようと考えたのか、それは分からない。こちらに書類を置いて自分の部屋で仕事をする事もできたはずだ。そんな考えが少し脳裏を横切ったが、いくら考えても答えは本人にしか分からないのですぐに考える事を止めた菊地は、自分も仕事があるので電気をつけたままにしても良いかと尋ねると、「んー……別に良いよ」心ここにあらずという返事が返ってきた。
そしてしばらくの間お互い自分の仕事をしていたのだが、響が手を止めて考え事をし始めたので先程から菊地は落ち着きなく時々彼を見ているのが今の状況である。一体自分は何に対して心配をしているのだろうか。ふとそんな考えが浮かび上がり、自分勝手な心配に一つ溜息をついた時であった。
「あぁ、そうか」
そんな溜息を消し去るかの様に響が頬杖をついたまま、ぽつりと呟く。「チェシャーキャット、帽子……お茶会に三日月……」なるほどと繰り返しながら頷いている様子から今まで引っかかっていた言葉の意味に気付いた事が安易に予想できたが、そんな言葉を聞いた事がない菊地にとってはそれだけの言葉では謎が深まるばかりであった。しかし、全く分からないという訳でもない。その言葉が出てくる話を、一つだけ知っている。
ふと視線に気付いたのか、自分の答えに納得していた響は顔を上げ菊地の方を向く――例え前髪で目が隠れていようと、それくらい分かる――。その時初めてずっと響の事を見詰めていた事に気が付き、慌てて謝ろうと口を開けて言葉を放とうとした時、その事に察したかの様に彼が口元に笑みを浮かべた。
「菊地は真面目だなぁ」
指先でペンを弄びながらそう言った響の言葉の意味は、“監視者”としての仕事の事を表しているのだとその言葉の響きだけですぐに分かった。「いくらなんでも菊地の部屋では暴れないから安心して」思考が追いつかないで呆然としていたら、すぐ隣にあった本棚から本を一冊取り出して適当にページをめくりながらどうでも良さそうに呟く響の台詞が聞こえてきたので、申し訳なくなってきて謝ると、「菊地は本当に真面目だよ」少し黙り込んだ後彼が同じ台詞をもう一度口にする。その後小声で何かを呟いた様に聞こえたが、それを問う前に響は話を変えてしまった。
「そういえばさ、初めて会った日の出来事……覚えてる?」
すぐに記憶の引き出しの中で一番古いものを探し出し、頷きながら返事を返す。初めて響の監視者としての仕事をもらったその日にさっそく書類を届けるように言われ、緊張しつつノックをするとしばらくして扉から出てきた彼を見た時は驚いた。事前に聞いた注意事項から想像していた人物は、常に口を動かしていないと気がすまなくて何か他人の悪い部分を見つけてはそればかりを口にしている子供っぽい奴だと思い込んで身構えていたのだが、扉から出てきた漆黒の前髪で目元を隠した響は、問題が全くないという感じではなかったがむしろ、あえて一人になっていそうな――そんな雰囲気を漂わせていた。
思っていたよりもやりやすそうな相手だったので安堵していたのだが、どんなに時間が経っても全く書類を届けに来る気配がないので、菊地は溜息をつきながら隣の部屋へと向かう。ちゃんとこちらの書類の方を優先にして欲しいとも出来上がったら持ってくるようにとも伝えた。まさか注意事項を教えてくれた人物が嫌そうな表情を浮かべながら語っていた例の事がさっそく起きたのかとその時は思っていたのだが、ノックをしても返事がないので恐る恐る開けて目に入ってきた光景に、菊地は少しの間頭の中が真っ白になり何も考えられなくなった。いないのである。暗闇に包まれた部屋の中に、人の気配が全くしない。
考えるよりも先に走り出していた。怒られるという心配も響に対しての苛立ちもなく、ただ捜さなければならないと、どこへ向かえば良いのか分からなかったが足の向くままに走っていた。長い閑静とした廊下にただ慌しい足音だけが響き、時々扉が開いている部屋を覗いてはまた走り出す、そればかり繰り返していた。
そして外へと続く無駄に大きな扉の前を通り過ぎた時、かすかにだが一瞬雨の音が大きくなった様な気がしたので慌てて足を止める。自分の聴覚を信じて踵を返してみれば、そこには重たそうな色になってしまった服から流れ落ちる水にも気にしないで、まるで散歩から帰ってきたかの様に平然としていた響が、「あ」騒がしい足音の正体を見る為に顔を上げ、すぐに小さくそう呟いたのが耳に入ってきた。
「ずぶ濡れで帰ってきた時は驚きました。それなのに響様、いきなり寝るなんて言い出して……」
探していた本をやっと見つけ、隙間なく本棚に入れていた為少し抜き出すのに苦労しながらその時の気持ちを伝えてみた。あの後しばらくの間変な沈黙が流れ、早く着替えた方が良いとやっと沈黙を破る勇気が出たのにそれを踏みにじる様に響は、「疲れた、寝る」それだけ伝えて髪をかき上げると、さっさと菊地の横を通り過ぎて部屋に戻ってしまったのである。
「あー、そんな事も言ったねぇ……」
当の本人は菊地の苦労も知らずにその時の自分を思い出して、ただ笑い声をあげた。しかしすぐに笑う事を止めると、今書いていた書類の上に本棚から適当に取り出した本を置いて背もたれに背を預け、「ねぇ……菊地」呟く様にそう名を呼んできたので、黙って続きを待つ。こういう風に名を呼ぶ時は、返事を返さずに次にくる言葉を待つのが一番良いのは、今まで経験した中で覚えた事だった。
「今度さ、ゆっくりお茶でも飲もうよ」
口元に笑みを浮かべて珍しい事を言い出すので、「それも良いですね」少し間を置いた後そう言ったら逆に驚愕に満ちた表情を浮かべられてしまう。もしかして変な事を言ってしまったのかと考え込んでいたら唐突に何故か失笑されてしまった。口元に手を当てて笑いを抑えている響は途切れ途切れに何とかごめんの一言を口にする。
「いやさー、だって……菊地が笑ったの、もしかして初めてなんじゃないかなーって思って」
言われて初めて気が付いて、無意識のうちに口元を手で覆い隠す。笑われた事に恥ずかしいと思うよりその事実を一番近くにいた響に指摘された事が、何だか良く分からないが心の中で重く響き渡った。別に今まで笑わないように意識していた訳ではない。だからこそ、無意識のうちに監視者を演じていた事実が菊地に想像以上の動揺を与えた。
そんな菊地の気持ちを気付いていないのかあえて気付いていないフリをしているのか、響は背もたれから背中を離して再び頬杖をついて、「美味しそうなヤツ、買ってこないとね」いつもの様に唐突に話を変えてくる。特に意識なんかせずいつも通り話を変えてきたのかもしれない。そうかもしれないが、何故か菊地にはそれがあえてやった様に思えてきて、こんなのではダメだと自分に言い聞かせ動揺から立ち上がらせる。
「そうですね、いつが良いでしょうか?」
自分では笑っているなんて意識をしないと分からないが、できる事なら無意識のうちに、先程のような笑みを浮かべられるようにそう話を続ける事にした。たまには監視者から抜け出す事も、一人の人間として接する事も許されると信じて。
End
えー…っと、私いつからこれ書いてたんだっけ?;……5月29日!?ここまで丁寧に(自分なりに)書いて終わらせたのって…もしかして初めてかもしれない…;チェシャーキャットが好きになって、それから絶対いつかコイツを登場させるぞ思っていたわりには全然書く暇がなくて、でやっと書き始めても終わるのに2ヶ月近くかかって…実際キャラを考えてどれくらい経ったんだろう…?;
チェシャーキャットのキャラを書くぞと思っていただけで細かい設定は全然考えていなくて、これからもできたら出したいキャラだからって結構真剣に悩んでいたから、それに1番時間がかかったと思う。でもファーは絶対巻かせるって最初から決めてた。擬人化した時のしっぽみたいなもので決してスカ様や黒鷹の影響じゃないですよ;(…)
視点が菊地になったところで分かると思いますが、響がチェシャーキャット(名前長いな…;)と出会ったのは随分昔の出来事です。この頃の響は人に好かれようと気を遣いすぎて精神的にも疲れきって、だけどそれでも人に好かれたいと思う自分に苛立っていました。人に好かれようと意識し始めた原因は、未だに頭痛を襲わせる“あの人”に嫌われていたせい。怒られるどころかもう存在していないものと扱われていたので、それは自分が悪いせいだと幼い頃から努力していました。
で、今あんな子供っぽく振舞っているのは…まぁ限界を超えて壊れてしまったようなものです;きっかけはもちろんチェシャーキャットの言葉。でも本人は菊地の側にいられるだけで幸せのようです。
チェシャーキャットが響の前に現れたのは、自分と似ていたから…らしい(え)。
しかし…まぁ見事に性格がごちゃごちゃだな;しかも二人とも同じようなキャラだし…;;
それと、“奴”というのは菊地です。響はその日にチェシャーキャットだけでなく菊地とも初めて出会いました。
それから響が呟いた言葉、あれは全て不思議の国のアリスに関係しています(分かってるって)。“チェシャーキャット”はそのまま、“帽子”はきちがい帽子屋、“お茶会”も彼らがやっていたきちがいお茶会。で、問題の“三日月”はもちろんチェシャーキャットの口を表しているのですが、もう一つ、三月うさぎの事も示しているんです、実は。いや、ね…三月うさぎの事をずっと三日月うさぎだと思っていたので…;勘違いではないかもしれませんがきちがい帽子屋ときちがいお茶会も何故かイカレた帽子屋とイカレたお茶会だと思っていたし…。
…あ、ねずみがいない。
…チェシャーキャットは本名じゃないです。説明する機会がなかった…;
05年7月8日