『都名所図絵』に見る
 現在の地にある神社は、天禄2年(971)大雲寺だいうんじ建立こんりゅうのとき、その東側に守護神しゅごしんとして勧請された石座明神に始まるといわれています。
 その後、長徳3年(997)鎮守石座明神に、高徳の七明神(新羅、八幡、山王、春日、住吉、松尾、賀茂)を勧請し、八所明神社となりました。さらに、天正20年(1592)にはその西横に、八所明神に四神(伊勢、平野、貴船、稲荷)を加え十二明神がまつられ、二社となりました。それ以来長く神社の名称は八所・十二所明神といったようです。明治になって、社殿があり松明たいまつを燃やし神輿みこしを出す、こちらを「石座神社」と変更したようです。

大雲寺 【左図】天明6年(1786年)、大雲寺の観光案内『都名所図絵みやこめいしょずえ』のもので、大雲寺の全景です。東下に「石座明神」の文言があり、1721年に建設の大鳥居が見えます。ところが、八所・十二所明神の詳細を見るのは無理なようです。
 大雲寺境内に参籠人さんろうにんの「籠屋こもりや」があちこちに見られます。大雲寺境内に狂疾者きょうしつしゃがここに籠もり、日夜観音堂に参詣さんけいし回復を祈願しました。このこと大雲寺の大きな収益源だったようです。


大雲寺2 【右図】左図を神社境内の部分を拡大したものです。(更に拡大右図をクリック
 長く伸びる階段は今の岩倉陵へ繋がるもののようで、神社の階段はその右にあるようです。大鳥居の前には「大岩」でも祭っているのでしょうか。神社の奥(北)は樹木が生え行き止まりのようで、ここに「石座明神」の文言が見えます。
 図の左上端には「八所神社」の文言が見え、本来ならコの字形の棟の辺に本殿があるはずです。1743年の神祭で、松明と神輿2社、さらに鉾が5本がでているようですが、この絵図の状態では祭りの実態が予想できません。目的が大雲寺の観光案内図ですから致し方ないところでしょう。
 『都名所絵図』の大雲寺境内に「石座明神」の文言があるから、地方の方には誤解を生む事もあったでしょう。明治の初めまで、ずっと「石座大明神」や「石坐明神」の文言が付いていたのは現・山住神社の方で、この大雲寺の地では八所・十二所明神であったからです。山住神社が「石座大明神」であったことは、別の絵図や村民の記録(1743年)、それに岩倉村が幕府に提出した文章(1805年)にも見られます。

注1)石坐、石座、岩座、岩蔵、磐座、岩倉、いずれも「いわくら」と読みます。
注2)現在の大雲寺は石座神社の東ですが、創建から昭和60年まで西の地にありました。