◇ 鷺谷墓地に眠る秋山好古 2004/5/24 岡田

  秋山好古の墓は道後温泉から程近い坂の上の山手、「鷺谷墓地」にある。
  東京の青山霊園の秋山家から分骨を受け、古い先祖の墓九基も整理して建立。
   親切にも好古の墓の前にはビニール袋に丁寧に入った墓の案内図と「鷺谷に眠る
  六人の偉人たち」として紹介した手製のパンフレットが置いてあった。
  「坂の上のきよめ隊」という団体が松山市、伊予鉄道の許可を得て「鷺谷墓地」と
  「梅津寺」の秋山兄弟銅像および見晴台展望台の清掃奉仕をしているとの事である。
    
                ― 日本騎兵の父 ―
  安政六年(1869)一月七日生まれ、昭和五年(1930)十一月四日没、享年七十二歳
  松山市徒歩(かち)町で三男に生まれる。大阪師範学校を卒業後教員生活数ヶ月で
  陸軍士官学校騎兵科に入学。陸軍大学校でドイツ人メッケル少佐の薫陶を受けた後
  フランスに留学して騎兵学を極める。帰国後は「日本騎兵の父」として後輩の育成にも
  力を注いだ。
  日清戦争では「騎兵第一大隊長(少佐)、日露戦争では「騎兵第一旅団長」(少将)とし
  て敵軍の探索に活躍した。
  日露戦争の「黒溝台の戦い」では三十キロにも及ぶ最左翼を守備し、僅か八千の兵で
  十万の敵の攻撃を耐え抜き、日本陸軍を壊滅から救った。好古の申し出によって、日本
  陸軍で初めて配備されていた機関砲(騎兵砲)が、この戦いで大活躍をした。
                                 

              ―  身だしなみに無頓着も  ―
  司馬遼太郎「坂の上の雲」でも戦闘中に好古が酒を飲む場面があるが、窮地に立った
  時は悠然と酒を口にして、弾の飛び交う最前線に身を曝し、部下の士気を高めたという。
  そんな時も自ら携帯する武器はおもちゃのような指揮刀と自決用のピストルだけだった。
  又、外人将校の様な立派な風貌だが、身だしなみには全く無頓着で風呂は戦地に出て
  も一度くらいしか入らず、洗顔もめったにせず、下着もろくに着替えなかったので、天気
  の良い日にはよくシラミ退治をしていたという。

              ― 時計の様に几帳面な面も ―  
  また、大変な部下思いで戦場に大好きな洋酒が四ダースも届けられた時には、その一
  本だけを取って、残りは全て部下に分け与えた。
  タバコ、時計、万年筆などのもらい物も、全て欲しがる者に譲り、給料の大半も郷里に凱
  旋する部下に分け与え好古の持ち帰ったトランクには品々の目録と給与の明細書ばかり
  詰まっていた、と言うほど所有欲に乏しかった
  予備役となった六十六才(大正十二年)に友人に誘われて松山の北予中学校の校長に
  就任。毎日馬で登校し、一日も欠勤や遅刻をせず、きっかり二十分前には出勤するので
  沿道の人はその姿を見て時計の針を正した程であったという。

                                      ー  坂の上のきよめ隊 −ガイド 



             正面右手前から見たところ奥の二基が二枚目の写真である。
          




               「永仰遺光(えいごういこう)」 「永く仰ぎて光を遺す」と読む。
          

◇日清・日露戦争と秋山好古◇

坂の上の雲



































































































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