正岡子規

  「悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、   
   しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない」    ー
 子規 ー


                    
《病牀六尺》
 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。
 僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。
 甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
 苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死後の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、
 其れでも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、
 其れさえ読めないで苦しんで居る事も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、
 たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。   − 子規 −

       
               ー 漱石との52日間 −
 
  漱石の下宿に移った子規は「柳原極堂」ら地元の松風会会員等と連日句会を開いて。
  漱石もこれに加わり俳句に熱中する。

  12月帰京後「高浜虚子」に自らの文学上の後継者になることを依頼するが断られる。
  29歳正月3日子規庵で句会が催され、「森鴎外」「夏目漱石」も同席する。以降
  鴎外主宰の『めさまし草』が創刊。子規を中心にした「日本派」の俳句が掲載される。
  
  2月腰部が腫れ痛みがひどくなり歩行困難になり、脊椎カリエスの手術を受ける。 
  「松蘿玉液」でベースボールを紹介。9月5日、人力車で出かけ、与謝野鉄幹ら新体
  詩人の会に出席。この年、子規の提唱する新俳句が一般的に広く知られる様になる。

            ー俳句革新は日本中に大きな反響を巻き起こした―

  30歳、腰部の手術をするも、1ヶ月後は病状悪化、談話も医者に止められる。 
  子規が編集した『古白遺稿』が発刊される。第1回子規庵で第一回蕪村忌を開催。 
  歌よみに与ふる書を発表し短歌の革新運動に着手する。子規庵で始めて歌会 
  33歳、1月3日「伊藤左千夫」が始めて来訪。

  3月、「長塚節」が来訪。8月ロンドン留学が決まった漱石が「寺田寅彦」と来訪。 
  11月静養に専念する為に子規庵の句会、歌会を中止。 
  34歳、『日本』に「墨汁一滴」の連載開始。藤の花の歌十首を「墨汁一滴」に発表。 
  9月、『仰臥漫録』をつけ始める。11月ロンドンの漱石に手紙を出す。

              ー 壮絶な戦いの末の最後 −

  35歳、病状は悪化するばかり、痛みを和らげるために、連日麻酔剤を用いる。
  3月より、左千夫、秀真、虚子、碧梧桐、鼠骨らが交代で看護にあたる。
  5月、『病牀六尺』を「日本」に連載開始。連載は死の2日前まで続ける。 
  9月10日、子規の枕元で最後の蕪村句集輪講会が開かれる。
  14日、虚子が「九月十四日の朝」を口述筆記する。18日、絶筆糸瓜三句を記す。 
  19日午前1時ごろ死去。 
  子規の死後は「子規庵」として「寒川鼠骨」に守られて昭和27年には東京都の
  文化史蹟に指定された。


  ー 参考リンク集 −【松山句碑めぐり】
 【年 表など 】 【作品リストなど】 【正岡子規国際俳句賞】 【秋尾敏の俳句世界】
 【松山市子規記念博物館】the Shiki internet Haiku Salon【近代デジタルライブラリー】

〔管理室〕

正岡子規


    
    ◇ 正岡子規 
  1867年、慶応3年(明治元年)松山藩士の家で誕生する。(現在の松山市花園町
  本名、常規(ツネノリ)。幼名、処之助。のちに昇(ノボル)と改める。
  父は佐伯政景の二男松山藩藩士、正岡芳隼太常尚。母は儒学者、大原観山有常の
  長女、八重に生まれる。後に出来た妹、律との二人兄弟。

                − 上京 −

  16歳の時松山中学を退学して東京に出ることを決意、叔父の「加藤拓川」に懇願して、
  同意の書簡を受け取り上京する。

  17歳の時東京大学予備門(第一高等中学校)に入学。同級に夏目漱石などがいた。

  18歳、松山に帰省中に「秋山真之」の紹介で桂園派の歌人「井出真棹」に歌を学んだ。 
  21歳、7月第一高等中学校予科を卒業、8月鎌倉・江ノ島で遊び始めて吐血をする。
  ベースボールに熱中したのはこの頃から。

              ー 漱石との出会い −

  22歳のとき夏目金之助(漱石)と寄席(落語)で知り合い、交遊を始める。
  5月突然吐血。時鳥(ホトトギス)の句を40〜50句作り、始めて「子規」と号す。
 
  25歳のとき「月の都」を持って「幸田露伴」に批評を依頼するも評価が低く、小説家を
  諦めることになる。2月根岸に移転、母と妹の3人の同居生活が始まる。 
  12月日本新聞社に入社。

              ー 従軍・吐血・帰郷 −

  28歳のとき従軍記者として遼東半島に渡り、4月金州で藤野古曰の死を知る。5月
  従軍中の「森鴎外」を訪ねる。日本に帰国中の船中で吐血する。神戸に上陸し直ちに
  県立神戸病院に入院するも一時重体に陥る。その後須磨の病院に転院して8月20日
  退院する。28日には松山に入り、漱石の下宿(のち愚陀仏庵)の階下に転がり込む。
  

        

   




            











           















          
バットを持った子規                        「坂の上の雲」産経新聞夕刊               




















































正岡家親族の図









                                                    






































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