ー 漱石との52日間 −
漱石の下宿に移った子規は「
柳原極堂」ら地元の松風会会員等と連日句会を開いて。
漱石もこれに加わり俳句に熱中する。
12月帰京後「
高浜虚子」に自らの文学上の後継者になることを依頼するが断られる。
29歳正月3日子規庵で句会が催され、「
森鴎外」「
夏目漱石」も同席する。以降
鴎外主宰の『めさまし草』が創刊。子規を中心にした「日本派」の俳句が掲載される。
2月腰部が腫れ痛みがひどくなり歩行困難になり、脊椎カリエスの手術を受ける。
「
松蘿玉液」でベースボールを紹介。9月5日、人力車で出かけ、与謝野鉄幹ら新体
詩人の会に出席。この年、子規の提唱する新俳句が一般的に広く知られる様になる。
ー俳句革新は日本中に大きな反響を巻き起こした―
30歳、腰部の手術をするも、1ヶ月後は病状悪化、談話も医者に止められる。
子規が編集した『
古白遺稿』が発刊される。第1回子規庵で第一回蕪村忌を開催。
「歌よみに与ふる書」を発表し短歌の革新運動に着手する。子規庵で始めて歌会
33歳、1月3日「
伊藤左千夫」が始めて来訪。
3月、「
長塚節」が来訪。8月ロンドン留学が決まった漱石が「
寺田寅彦」と来訪。
11月静養に専念する為に子規庵の句会、歌会を中止。
34歳、
『日本』に「墨汁一滴」の連載開始。藤の花の歌十首を「墨汁一滴」に発表。
9月、『
仰臥漫録』をつけ始める。11月ロンドンの漱石に手紙を出す。
ー 壮絶な戦いの末の最後 −
35歳、病状は悪化するばかり、痛みを和らげるために、連日麻酔剤を用いる。
3月より、左千夫、秀真、虚子、碧梧桐、鼠骨らが交代で看護にあたる。
5月、『
病牀六尺』を「日本」に連載開始。連載は死の2日前まで続ける。
9月10日、子規の枕元で最後の蕪村句集輪講会が開かれる。
14日、虚子が「九月十四日の朝」を口述筆記する。18日、絶筆糸瓜三句を記す。
19日午前1時ごろ死去。
子規の死後は「
子規庵」として「寒川鼠骨」に守られて昭和27年には東京都の
文化史蹟に指定された。
◇ 正岡子規
1867年、慶応3年(明治元年)松山藩士の家で誕生する。
(現在の松山市花園町)
本名、常規(ツネノリ)。幼名、処之助。のちに昇(ノボル)と改める。
父は佐伯政景の二男松山藩藩士、正岡芳隼太常尚。母は儒学者、大原観山有常の
長女、八重に生まれる。後に出来た妹、律との二人兄弟。
− 上京 −
16歳の時松山中学を退学して東京に出ることを決意、叔父の「
加藤拓川」に懇願して、
同意の書簡を受け取り上京する。
17歳の時東京大学予備門(第一高等中学校)に入学。同級に夏目漱石などがいた。
18歳、松山に帰省中に「
秋山真之」の
紹介で桂園派の歌人「井出真棹」に歌を学んだ。
21歳、7月第一高等中学校
予科を卒業、8月鎌倉・江ノ島で遊び始めて吐血をする。
ベースボールに熱中したのはこの頃から。
ー 漱石との出会い −
22歳のとき夏目金之助(漱石)と寄席(落語)で知り合い、交遊を始める。
5月突然吐血。時鳥(ホトトギス)の句を40〜50句作り、始めて「子規」と号す。
25歳のとき「
月の都」を持って「
幸田露伴」に批評を依頼するも評価が低く、小説家を
諦めることになる。2月根岸に移転、母と妹の3人の同居生活が始まる。
12月日本新聞社に入社。
ー 従軍・吐血・帰郷 −
28歳のとき従軍記者として遼東半島に渡り、4月金州で藤野古曰の死を知る。5月
従軍中の「
森鴎外」を訪ねる。日本に帰国中の船中で吐血する。神戸に上陸し直ちに
県立神戸病院に入院するも一時重体に陥る。その後須磨の病院に転院して8月20日
退院する。28日には松山に入り、漱石の下宿(のち愚陀仏庵)の階下に転がり込む。