◇加藤拓三、正岡子規と「坂の上の雲」



      祖母、加藤ひさのこと 


         ー 小林一三を小僧扱いに ー

ここに一枚の写真がある。約九十年前にパリで撮影された祖母の若き日の姿である。
彼女は百六十二糎の私より少し背が高くてスラリとしていたから、明治生まれの女性
としてはかなり大柄の方だろう。

彼女の父親の樫村清徳は明治・大正天皇の侍医で、今の中央線飯田橋駅近くに約
二千坪の庭がある屋敷を構えていたが、関東大震災で焼け、その跡地の半分が東
京大神宮になったと亡父から聞いたことがある。
ひさの三男であった父によると、彼女はどちらかというと肉親の愛情に薄い人というこ
とになっていたが、それは父が生まれて直ぐに両親が日本を離れ幼児を乳母の手で
育てられた事にも起因しているかも知れない。併し彼女にはたしかに男勝りというか、
こわいもの知らずのところがあって、父が阪急の新入社員の頃に天理教のはっぴを
来て社長室に乗り込んでいき、小林一三氏を小僧っ子扱いにして大いに驚かした言
うエピソードも彼女の性格の一面を如実に物語っている。


        − 次男の死で修道女へ ー

彼女が宗教に入るきっかけは次男の死にあった。父のすぐ上の兄の六十郎は旧制
一高に首席で合格した眉目秀麗な秀才であったが、ボート部に入って激しい練習を
したため結核性肋膜炎にか々り、10代の若さで夭折してしまったのである。

その数年後に夫の拓川が死に、彼女はすべての財産を教会に寄進してしまった。
私の父は正岡家に養子に出ていたため、幸い学資を絶たれずにすんだらしいが、
父の妹は女学校をやめてカトリックの修道女になった。

七十過ぎまで布教活動に寧日なき毎日を送っていた彼女は、小学校の夏休み等
に孫の私を旅のお供に連れ歩いたが、かっての外交官夫人が乗る汽車は一等や
二等ではなく何時も混雑した夜行列車であった。

後年、大学生となって上京した私は、品川の教会に寄宿をさせてもらう代わりに早
朝の勤行に太鼓を叩く約束であったが、寝坊して次第にサボリ勝ちになり彼女に半
年で追い出されてしまったのも今を思えば懐かしい。
私が生まれた時に彼女が軒先に植えたという柿の木は約50年後の今、二階の屋
根より高くなって我が家の狭庭を覆っている。




      ◇叔母・ユスティシアのこと
    

       − 天理教からカトリック総長へ ー

この舌をかみそうな名前は父の妹の尼僧名である。時代はずっと後になるが、子規
にとって彼女は恐らく最も年下の従妹に当るのではないだろうか。
亡父は男三人女二人の五人兄弟であったが、父とこの叔母を除く三人が十代から
二十代の若さで夭折したため、父はこの妹を終生大切にした。さして信心深いとも
思えない父が年をとってから洗礼を受けたのも、どうやらこの叔母を安心させるた
めだったらしい。

相次ぐ子供の死が動機となって天理教に入信した祖母は、この末娘を天理女学校
に入れたが、彼女は何故かこの学校にはなじまず寄宿舎を抜け出して母校の聖心
に戻り、親戚の援助を得て国文科と英文科を卒業して修道女になった。

そして彼女は聖心の中学・高校の先生や校長を務め、四〇過ぎで「総長」という尼
さんの大将の様な立場になったが、この頃の叔母はとても威厳があって、彼女がた
まに我家に泊まった時には早目に朝食をすませて学校へ出かけたりして、あまり
顔を合わせない様にしたものである。

大学に入って上京した私が神奈川県にあるこの修道院を訪れた時、当時としては
大変な御馳走が出たので、その後私は度々叔母を訪問した。此処の広大な敷地
の中には野菜畑や牧場があって食料が自給自足出きる様になっていたが、シスタ
ー達は院内の食堂で質素な食事をしていたことを後で知った。

私がサラリーマンになった時分に、会社の同期生八人位で江ノ島に海水浴に行った
帰りに此処に立ち寄り、叔母が留守であったのを幸い、私は喉が乾いている仲間の
ために麦酒(ビール)を所望した。若者達が修道院の芝生の上で車座になって麦酒
を飲んでいるのを、多勢の尼さん達が呆れ顔で眺めている様はかなり滑稽でもある
が、私はこの女子修道院史上「前例の無い事件」のために爾後数年叔母から出入り
禁止になった。

少年時代にカトリックの学校で過ごし、尊敬できる神父さん達を知己に持つ私には
書き辛いことであるが、尼さんの世界にも時として浮世の権力闘争に似たことが起
こるらしく、叔母は突如地方の小さな教会に左遷されて以後十数年をそこで寂しく
暮らした。

併し七十四歳で叔母が亡くなった時は、晩年の不遇を償うかの如く葬儀が盛大に
営まれた。聖句を唱えながらシスター達が花を投げ入れる光景は、私に外国映画
の埋葬シーンを思い出させた。叔母は癌で大分苦しんだときいたが、信仰の厚い
シスターらしく、そのデスマスクはとても安らかであたかも微笑んでいるかの様で
あった。         

       
     昭和四十五年十月・修道院にて右は美智子妃殿下(当時)一人おいて左がユスティシア
   
    祖父、加藤拓川のこと        
    

         ー 子規の母方の叔父 ー

私の父方の祖父は恒忠、雅号を「拓川」という。詳しい人名辞典等に
名前が出ていることもあるが、歴史上さほど有名な人物というわけでもない。
拓川の名が語られるのは、主として子規に関連してである。一族の麒麟児
的存在として将来を嘱望されていた拓川は渡仏にあたり八歳下の甥である
郷里の子規に手紙で至急上京するように勧め、十六歳の子規は松山から笈を
負うて勇躍上京の途に就くのである。
 
子規はその後拓川の親友の「陸掲南」の経営する新聞社に入り、特に晩年の
七年間は病臥の身にありながら仕事を貰い、その隣家を終の栖とする等、掲南
には公私ともに大変世話になっている。

正岡家に養子に出た亡父の忠三郎は、昔私によく拓川の話をしたが、その
時の口振りからも、余程立派な人物であったように私には思える。
父が好んでした話のひとつは、拓川が貧乏書生時代に友人の「原敬」等と
蕎麦屋に入り蕎麦湯を何杯もお代わりして腹をはらしたというもので、父も蕎麦屋
へ行くと必ず蕎麦湯を注文した。

          ー 吉田茂とも親交 ー

また拓川は人間味溢れる人であったらしく数多くの逸話があるが、そのなかで
も最も傑作なものをひとつ紹介する。  
あるときパリの大使館に、男が若い女が欲しくて堪らんから世話しろと尋ねて
きたので、応対に出た拓川が悪戯心を起こして、「男には玉があるから煩悩に苦し
むので、これを取ってしまえばサッパリする。」と言ったところ、男がその通り実行
したのでさすがに仰天してその男を急ぎ日本に送り返したというのである。
我が家に六冊の拓川全集が残っているが、石井菊次郎(拓川の妻ひさの義弟)
を中心とした外交官八人による追悼座談会でも色々面白いエピソードが語られて
いるが、その時下座のほうで畏まって時折発言している若い人が、後の吉田総理
その人である事に迂闊にも最近まで気がつかなかった。

         ー 衆議院議員から松山市長 ー

拓川は松山市長時代に六十五歳で世を去ったが、死ぬ直前に筆をとり「再生観
月吾常於此楼」と漢詩を認めた。
今その九文字は陋屋の居間の額に掛かっているが、墨跡淋漓として力強く、
喉頭癌のため三十六日間絶食し死を目前にした人の揮毫とは思えない。
死の床にあって、果たして明治人の拓川や子規の如く立派に生涯を終えること
出きるか否かに思いを巡らせるとき、現代人としてもとりわけ意気地のない私等は、
己を顧みて内心誠に忸怩たるものがある。

                    祖父・祖母のこと           正岡 浩                    


























































































































































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