テクテク歩いて見に行こう!
田んぼの水は何処から?
大堰(東から) |
岩見井を歩く
太子町やその周辺の地域は、ほとんどほ場整備や区画整理が行われておらず、中世以来の土地景観が残されていると考えられています。太子町立歴史資料館では、その荘園の現地を歩く見学会を開催しています。そのうち、毎年第1回目は田んぼの用水に焦点を合わせた見学会をしています。
岩見井は、太子町南部から姫路市にかけて、中世岩見郷と福井庄の大津茂川西岸の村々へ水を送る水路で、鵤荘同様、揖保川の水を林田川に落とし再び取水するという、特徴のある用水体系をしています。この水路が水を送る田んぼは、約460ha、ここから約1,474t、25,000俵近くのお米がとれたといいます。文禄4年(1595)5月の年紀のある「揖保川用水絵図」(ゴゼヶ瀬用水争論絵図、岩見井組所蔵)には、昭和20年(1945)の枕崎台風の被害を受けて、鉄とコンクリートの井堰に作り替えられる以前(この時、井堰が統合整理されました)の姿とまったく同じ井堰と用水路の様子が描かれ、細かな説明は省きますが、このような用水体系は、中世荘園の時代から、大きくは変わっていないと考えられています。
その水路にそって、遡るように歩いてみましょう。
1.JR網干駅東の水路(南から) 今回のコースは、JR網干駅北に集合、 ここからスタートです。 |
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2.糸井山の北の水路(北から) この丘の上に、糸井の荒神さん・ 厳島神社があります。 |
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3.阿曽井系の水路の合流(南から) 左が岩見井。右から合流するのは、 阿曽井系の水路の落ち水。 |
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4.糸の井 3のすぐ東に泉がありました。深くはない けれど、水はこの上なく清らかで、枯れた ことがありません(でした)。この糸の井は、 江戸時代に書かれた『播磨鑑』に、朝日山 の顕実上人の硯水と書かれています。顕 実上人は文永の頃(1264〜75)の人で、こ の頃、播磨で浄土宗がもっとも盛んに信仰 されていました。 いろいろの木の葉 流るる糸の井は ゆききの人の しるしとぞ聞く 顕実上人 |
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5.糸井の北を流れる水路(南東から) さて、水路の方にもどりましょう。 奥の青い水門の向こうで、 網干駅西の県道に出ます。 |
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6.県道の西側を南流する(北から) | |||
7.糸井の北を東流する(東から) 下の方に水を送る幹線水路は、まわりの田んぼより低い位置を流れることが多く、 その場合、その周囲の田んぼは、たとえ水量の多い水路の隣にあっても、そこから水がとれず、 上の方から別の水路で水を引いてこなければなりません。 そして、低い位置にある幹線水路の上に橋(樋・とゆ)を渡して、水を送ることも行われました。 |
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8-1.糸井の北の水路の立体交差(東から) | 8-2.同じ所(北から) | ||
9-1.福地東の水路の合流・立体交差(東から) | 9-2.同じ所(南から) | ||
水路の分岐点も要チェックポイント。 水量が決められたように分かれるように、分かれた水路がしばらく並走することもめずらしくありません。 |
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10-1.竹広水路の分岐(東から) 東流する水路から、南流する水路を分ける 所。分けられた水路が、数十メートルに渡っ て併走しています。 |
10-2.同じ所(西から) 同じ分岐を、分岐点から見たところ。 2本の水路は、奥のカーブミラーの所 で、ようやく分かれていきます。 |
11.福地東の水路(南から) 右端の青い水門の所が竹広水路。 南に流れてきた水路がここで東に向 きを変え、余分な水が、今は水のな いこの大きな溝に落とされます。 かつて子供たちはここで泳いで遊ん でいたそうです。すぐ左には石海小学 校があります |
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12.北から南へ流れる竹広水路(南から) 左の広い溝が竹広水路。 ここでも、より下へ水を送る竹広水路は 水位が低いため、このあたりの田んぼに 水を入れるための水路が別につけられて います(右隣の細い溝)。 奥に見えるのは、立岡山。 |
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13.消防署のすぐ東の旧河道(北から) 70〜80m幅で、周囲より低くなっています。 昔の川の跡(旧河道)です。その旧河道の東の 高い位置を流れるのが、遡ってきた岩見井の 竹広水路。中央の一番低い所を流れるのは石 井水路。 この旧河道は、先ほどの石海小学校東の旧 河道につながります。 |
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14.石井溝の分岐(北から) | ||
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15.老原村の中を流れる水路(東から) |
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16.佐々木市三郎・亀吉の碑 岩見井組の組長(井頭)だった、佐々木 市三郎・佐々木亀吉氏の顕彰碑。 17.蓮常寺水路の分岐(北西から) 右の溝が遡ってきた竹広水路。 左の水路は、岩見井の水路の内でもっとも北、 弘山荘との境を流れる蓮常寺水路。 |
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18.竹広水路の分岐(北西から) 片吹井本流が、福地・船代などへ南へ行く水 路(右)と、蓮常寺・竹広など南西へ行く水路(左) に分かれます。 |
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19.茶屋垣内の地蔵と片吹井の分水 (南から) 旧山陽道沿いにある茶屋垣内の地蔵。 かつて、隣家の糀屋(こうじや)林兵衛さんが、 百歳の寿を祈って安置したといいます。 横の水路は、常全へ行く水路。 このすぐ西に一里塚がありました。 |
20.片吹井の水路(南から) 片吹井の本流。ここで大きく 2つに分かれ、左は常全へ、 右は老原をへて各村へ分か れていきます。 |
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21.片吹井堰 岩見井で揖保川から水を引いてきた水を、 一旦林田川に落とし、 その水を再び取るための井堰。 もっとも今は、揖保川の水は、 林田川の下をサイフォン(トンネル)で くぐっています。 |
地図(その1) ここまでのルート |
林田川を渡りまして、少し神社に立ち寄ります。 | ||
22-2.姥ヶ堰の碑 加藤稲荷神社の境内にあります。 詳しくは、後ほど。 |
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22-1.加藤稲荷神社 片吹の荒神さん。賎ヶ嶽の七本槍の一人、加藤嘉明 が、同じく脇坂安治に頼んで、自分を祀ってもらった神 社とか。村のおじいさんがお話ししてくれました。 後の山は、小宅荘絵図にある「傾山」。 |
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23.「小森山」 高さは数mですが、立派な岩山。 小宅荘絵図には「小森山」とあります。 |
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再び水路に戻ります。 岩見井は、林田川東岸の、岩見井組の村々(岩見井の水を使う岩見郷と福井荘の村々)に 水を送る水路ですが、ここから先、井組外の村々へも水を分けていました。江戸時代、その水 の分け方をめぐって、何度も水争いが起こりました。 岩見井組の人は「この水路の水は、自分たち岩見郷・福井庄の田んぼのための水で、井組 外の村々には、それぞれ別の用水路があるのだから、無理に分けてやる必要はない」といい、 井組外の村々の人は「自分たちの所を通してやっているのだから、水をとってどこが悪い」、と いっていました。 |
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24.水路の立体交差(北から) 左(北西)から右(南東)に流れる岩見井の上を、 上沖の大堰(30) で分かれた水路が横切ってい きます。 |
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25.姥ヶ堰(北東から) 右(北)から左(南)に流れる岩見井に、作られた 赤い堰が「姥ヶ堰」。右奥の藪の手前を流れる浦上 井の分水に水を送り、片吹(かたぶき)の水田10 町歩(1町歩=約1ha)を潤しています。片吹は、こ こで岩見井の水を取りながらも、揖保川の井堰作り や溝掃除に参加しなくてもよく、また、水不足の時 でも自由にここから水をとっていいことになっていま す。それには、次のようないわれがあります。 |
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26.姥ヶ堰から水を得る浦上井系の水路(東から) 右上(北西)から左下(南東)へ流れる水路に、 右下(北東)から、姥ヶ堰の水が合流する。 |
室町時代、播磨の殿様だった赤松満祐は、嘉吉の乱(1441)を起こし、新宮の城山城で滅ぼされました。その後、一族の赤松政則がお家の再興を許され、夢前町の置塩城を本拠として播磨を治めます。その時、西播磨の拠点として、龍野城に赤松村秀を住まわせましたが、村秀はまだ幼なく、片吹村の“ちよ”がお城に上って養育しました。
やがて 村秀も成人し、“ちよ”もおばあさんになったので、片吹村へ帰ることになりました。その時、村秀は、彼女に、お礼に何か希望はないか聞きました。彼女は「片吹村は浦上井の一番下なので、田んぼの水に不自由し、農民はほかの村の何倍も苦労しています。それでもとれるお米は少なく、ほとんどを年貢としてお城へ運びますので、ほんの僅かに残った米と、稗や粟で食いつないでいます。もし許されますなら、片吹村の北を流れる岩見井から、鍬1枚分の水を取らせていただきたい」とお願いしました。
農民の水に対する思いや苦労を知らない村秀はそれを許し、溝に鍬1枚分の穴をあけさせました。岩見井の村々も城主の命令なので泣く泣く従わざるをえません。片吹村は思いがけない水に大喜びし、その水でつくる田んぼ10町歩を「御田地」とか「御殿地」と呼んで、特別扱いにしたそうです。そして、いつの頃からかこの堰を姥ヶ堰と呼ぶようになりました。
片吹村に戻った“ちよ”は、その後、そこで余生を送り、天文3年(1534)に亡くなったそうです。
(門田富一『岩見井おぼえ書き』より)
27.南流する岩見井(南から) 遠方の山の麓が龍野のお城下。 |
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28.南流する岩見井(南から) 岩見井が流れる部分は周囲より一段低く、旧 河道にあたる。 この旧河道の右手(東側)が、小宅荘絵図に ある「八日市」の比定地。小宅荘の宿の跡。 29.岩見井改修竣工碑 |
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30-1.上沖(かみおき)の大堰(東から) | 30-2.上沖の大堰(西から) | |
広かった川幅が、突然、さらに倍以上になり、何処にこんなたくさんの水があったのか と思うくらい、たくさんの水が流れています。ここで、上沖・高駄・井上(いずれも小宅荘) へ水が分けられますが、堰の底に石を埋めて水が行きにくくしたり、堰の下流側を掘り下 げて水がたくさん流れるようにしたりということで、寛政7年(1795)・9年(1797)、文化7年 (1810)に、ここで水争いが起こりました。 また、以前は、この大堰の下に水車小屋があり、小麦を摺って粉にして、それで素麺を 作っていました。今は、水路の北側に公園が整備されています。 |
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31.直角に曲がる岩見井(北から) 大堰の手前で、岩見井は、直角に曲がり ます。このあたりでは、岩見井は、小宅井の 分水の流れる旧河道(東)と浦上井の流れ る旧河道(西)の間を、条里地割りに沿って 流れています。それは、岩見井の成立年代 に関係するとも考えられています。 |
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水路際に作られた東屋。風が吹き抜けて、 気持ちのいい休憩場所です。 |
32-1.長真の枠堰(北から) 長真・上沖(小宅荘)へ水を分ける堰です。 万治・貞享の頃(17世紀後半頃)に幾度かの水争 いがあり、堰の寸法等を取り決めて木枠で堰を作っ たので、枠堰といいました。 この堰の上流にも、水車小屋がありました。 |
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32-2.長真(ながざね)のお稲荷さん 枠堰の分水の南に、村の荒神さんがあります。 |
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33.枠堰からまっすぐ北へのびる岩見井(南から) |
34.四箇(よっか)の堰(西から) |
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35.釜土の堰(西から) |
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地図(その2) ここまでのルート |
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36.ダイエー西の水路 ここでは、道1本はさんで、岩見井(東)と浦上井(西)が並んで流れています。そして、岩見井 の方が浦上井よりも高い位置を流れています。 文政6年(1823)は大干ばつで、浦上井の村々は水に困り、周辺の井組に水を分けてくれる よう頼みました。岩見井組も気の毒に思い、「7月20日には一番下の宮田村(姫路市)へ水が 行き着くだろうから、そこまで水が行き渡ったら、水を分けましょう」と返事をしました。しかし、 その20日の夜、宮田村へ水が行き渡る前に、浦上井の者がここの道を掘って溝を作り、岩見 井の水を取ってしまいました。それは龍野藩がすぐにやめさせましたが、さらに21日の夜、浦 上井堰下の川原に浦上井の人たち700人余りが集まり、岩見井堰を切り落とそうと(壊そうと) しました。岩見井の人たちも、200人余りが岩見井堰近くの薬師堂に集まって堰を守ろうとし、 お城のすぐ足下でのにらみ合いに、藩からも大目付(警察)や井奉行(用水管理係)らが駆けつ け、大騒ぎになりました。領内の大庄屋の取りなしや何やでその場はなんとか収め、5年後の 文政11年(1828)に浦上井側が謝って、ようやく仲直りしました。 この浦上井の水路が小宅荘と上揖保荘の境になります。 |
37.ヒガシマルの工場の間を抜ける(南から) 夏休みに入るとこのあたりで、岩見の用水祭り が開かれ、大勢の人たちでにぎわいます。今年 (2008)は、7月20日(日)です。 |
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38.浦上井の分岐 (南から) 奥の青い堰で浦上井の水が左に分かれる。 |
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39.岩見井跡(南西から) 岩見井は、以前は緑の楠と白壁の屋敷・堀家の 前あたりにありました。取水した水が堤防を越える 堰の場所(青い堰)は、昔と変わっていません。 堀家は、一橋領の大庄屋で、この屋敷のすぐ東 が、小宅荘絵図の「散所屋敷」に比定されています。 |
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40.岩浦統合井堰 昭和20年(1945)9月、敗戦直後の日本を 枕崎台風が襲いました。揖保川は氾濫し、岩 見井・浦上井をはじめ、下流の全ての井堰が 流れ、壊れてしまいました。その後、洪水のな い川への河川改修と安定した農業用水の確 保のために、いくつかの井堰を統合にする事 になり、岩見井は浦上井と一緒にして、今まで より約300m上流に可動堰を作ることになり、 昭和23年(1948)着工、28年(1953)春に完 成しました。 この岩浦統合井堰の水で、当時、889町の 田んぼが潤され、約2万石(5万俵)の米がと れました。 |
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この後、旧岩見井跡、旧浦 上井跡を見ながら揖保川を 沿いを下り、神姫バスの「龍 野橋東詰」バス停へ。そこを ゴールにしました。 |
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地図(その3) ここまでのルート |
※ みんなを引っぱって先頭を歩くので、見学会の当日は、写真を撮れません。
ここの写真は、コース下見の日などに撮ったものです。
こうして水路を歩いていると、、ふと村の中の水路を見て、
この水は何処から来て、何処へ流れていくのか、つい気になってしまいます。