2010. 8.23.

 お盆の火祭り

 「今年の夏休みは暑い日が続きますが、私の子供の頃の夏休みというと、帰省・昆虫採集・そして、お盆。両親の里の高知県山間部では、お盆にはホーカイという松明を立て、ご先祖さまをお迎えし、お送りしていました。今住んでいる西播磨の各地でも、お盆には火を焚きます。ご先祖さまをお迎えし、お送りする、夏の火祭りです。・・・・・」と、西播磨のお盆の火祭りを紹介してきましたが、このたび、少しヴァージョン・アップ、内容を少し変えました。写真も、近年ものに入れ替えました。やはり、学問的にどうこう言うことにこだわらず、楽しんでいただければ、と思います。

 

谷の火あげ

 まず、火あげ。かつては姫路市網干区〜御津町苅屋にかけての各地で行われていました。次第に途絶えてきましたが、今でも姫路市勝原区朝日谷・たつの市御津町新舞子(みつ海まつり)で行われています。
    

 朝日谷の火上げは、「原の松明(後述)・谷の火あげ」として有名ですが、「投げ松明」・「ほうでん」とも呼ばれています。明応年間(1492〜1501)に、雨乞いとして、始められたといい、昔は、大人がしていましたが、今は子供たちの行事になりました。

 お盆の8月15日、朝から村人が村の背後の丘陵の突端にある、愛宕神社下の火揚げ場に集まり、準備をはじめます。12mほどの柱の先にじょうごのような竹籠を作って麦わらを詰め、真ん中に御幣竹を差し込み、それを火上げ場に立てます。大人の男たちが、柱の根元を固定して、大小の梯子と2本の木を縄で繋いだカナツメを使って、少しずつ立ち上げていきます。もちろん火を上げるところもいいのですが、ここが一番の見物です。
     
火揚げの柱を立てる(2009)
 夕暮れが近づくと、火揚げ場で鉦が打ち鳴らされ、村人が徐々に集まってきます。そして、午後7時から、子供たちが参列して愛宕神社で神事があり、その後、子供の長が2mくらいの大きな松明に神前から親火をもらい、火上げ場の一角に敷き詰められた麦わらに火をつけようとします。ところが、他の子供たちはそれを待ちかまえて、火をつけささないように邪魔し、そこで一暴れあります。

 やがて麦わらに火がつくと、子供たちは、各自、わら縄をつけた小松明にその火を移し、10m余の天空の籠めがけて、振り回して放り上げます。この火を投げ上げる様子は、「まるで蛍が乱れ飛ぶようだ」と江戸時代に書かれた『西讃府志』にあります(津市場の火あげの例)。意外に難しく、なかなか籠に火が入らず、中学生や高校生たちが手助けすることも。
    
子供の大将が、ご神前の火を、火上げ場へ運ぶ(1993)
  
“籠”をめがけて、火を投げ上げる(2005)
   
柱松のまわりを駆け回る(2005)
   
引き倒された“籠”。火の粉が舞い上がる一瞬!(1999)
   
 ようやく籠に火が入ると、子供たちは柱の周りに輪になって、鉦を打ち鳴らして「マエ マエ マエ マエ」といいながら、右に左に駆け廻ります。その後、ある程度燃えたら、大人たちが柱を北西(墓地の方向)に引き倒します。以前は、この後、この火の周りで盆踊りをしていました。

 元々は大人の行事でしたが(当時の柱は19mくらいある)、幾度かの中断・復活を経て、昭和33年(1968)以降は子供会の行事として行われるようになり、現在は朝日谷火揚げ保存会が中心になって、自治会・消防団などの協力を得て行われています。平成21年(2009)2月、姫路市の無形民俗文化財に指定されました。

 
 

原の松明

 次いで、原の松明。朝日谷から東へ約2km、揖保郡太子町原に伝わる火祭りです。
 同じく8月15日の晩に行われます。
   

 古くは、紺の法被に白襷姿の青年団員が、村の裏山の岩の上で麦わらの火を焚いて、「ほーてんと ほーてんと 雨をくだされ ほーてんと」と叫んで、その火を移した2m余の竹松明を手に、「ちんかん もんかん いのしし豆食って のーほいほい」と叫んで鉦太鼓を打ちながら、一気に山を駆け下り、村の大歳神社の境内に走り込んでいたといいます。今は、圃場整備のすんだ田んぼの農道に一斗缶を並べて火をつけ、子供たちが松明を手に、村の下の田んぼから、大歳神社へ行列しています。
    

農道に並べられた火(1999)
  

 
松明を手に、大歳神社へ向かう(1991)
  
そのまま大歳神社境内を廻る(1993)
  
大松明が大歳神社境内を駆け廻る(2006)  photo by Takami R.
    

  

 松明が大歳神社へ着くと、子供たちが手に手に松明を持ち、境内をまわり、そして、大松明の登場となります。一抱え以上あるような大松明が消防団に担がれて登場、鉦とともに、境内狭しと走り回り、見物客をおどろかし、拝殿にも駆け上がります。いくつもの大松明が駆け回った後、消防団全員が喚声を上げながら太鼓を持って拝殿に駆け上がり、「ワッショイ ワッショイ」と太鼓を高く突き上げ、神勇み(神楽唄)を唄います。 この後、境内で盆踊り(播州音頭)が踊られます。  
    
観客を威かしながら駆け廻る(1999)
   
太鼓を突き上げる(2005)
   

 原の松明は、昭和30年代後半、50年代の2度の中断を経て、平成2年(1990)に復活、少し形は変りましたが、原松明保存会を中心に、村が一つになる一大イベントとして、村をあげて盛大に行われています。この時間に通る新幹線から見ると、田んぼ一面に火の海が幻想的ですばらしいとのこと。道路からも見えますが、脇見運転に注意!(毎年、急ブレーキの音が響いています)

 なお、「谷の火あげ」と「原の松明」は、“はしご”できます。

 
 

奉天灯祭 

 朝日谷や原から、大津茂川を北へ約6kmさかのぼった姫路市太市に、破磐神社があります。神功皇后が射た矢が割ったという巨岩をご神体とする神社で、旧太市郷の総鎮守社です。ここでも、8月15日の夜、火の祭りが行われます。
     
 8月15日の夕方、午後6時頃から、浴衣姿の関係者が参列して神事があり、その後、1時間余り盆踊りがあります。
 そして、午後8時30分頃、青年の代表がご神前の火を長さ3mくらいの大松明に受け、境内に作られた5mくらいのトンドに移します。
     

青年団の長が、神前の火を大松明に受ける(1997)
  
境内に作られたトンドに、神火が入る(2010)
  
 その火を、各人が手に持つ1m余りの松明にもらい、「なんじゃいな、ひょうたんや」などと唄いながら、トンドの廻りを数周廻った後、社殿正面に付けられた茅の輪をくぐって舞殿に入ります。
     
ご神火を手に持つ松明に移し、トンドの周りをまわる(1997)
  
松明を手に、舞殿をまわる(2010)
     
 舞殿の中では、

  目出度目出度が三つ重りて  鶴が御門に巣をかける おもしろや
  なんじゃいな おひょうたんや  さあーゑんとゑんと

などと唄いながら反時計回りに3周ほどした後、唄の「さあーゑんと」の部分に合わせて「ゑんと、ゑんと」と叫びながら、松明で床を、そしてお互いの身体を叩きまわります。舞殿は火の粉と煙に満たされます。
   
松明でたたき合う(2010)
     
 かつては、神社のある太市西脇の子供と青年団の行事で、子供たちは、境内を縦横に走り回り、高く低く松明を投げ戯れました(投げ松明)。青年団は浴衣姿で「ゑんと」といいながら松明で打ち合い、外から見ると危なそうですが、神の御加護か、一人のけが人も出すことはなかったそうです。
 その後、昭和25年(1950)からしばらく中断しますが、昭和60年(1985)に破磐神社の氏子全体の行事として復活、現在は、破磐神社伝統文化保存会が中心になり、厄年の男の人と子供たちが主役になって行っています。   

 
 

 さいれん坊主

 太市から、古代山陽道を西へ8.5km、たつの市揖西町の恩徳寺では、お盆の8月14・15日、播州の奇祭といわれる“さいれん坊主”が行われます。
 恩徳寺は、長谷寺観音の建立や西国巡礼の開祖として知られる徳道上人が、父母の広大な御恩に報いるために建立し、長谷寺の観音様と同木で作った十一面観音様を安置したという古刹で、境内には旧平井郷と旧桑原荘13ヵ村の氏神である春日神社がありました。そして、さいれん坊主はこの13ヵ村のお盆の行事でしたが、今は旧平井郷の中垣内のみが行っています。
 中垣内では、地区総代を会長として全住民参加のさいれん坊主保存会を結成し、播磨の奇祭「さいれん坊主」として、8月14日の晩に村の井関三神社で、15日に恩徳寺で奉納し、伝統文化の継承に努めています。
      
 8月14日は、中垣内の氏神さん・井関三神社で行われます。
  
 ほおづき形の籠に紙を貼ったものを長い竹竿の先につけ、かごの中にろうそくを入れて灯すようにしたものをさいれん坊主といいますが、この日は、おもに村の北部の人たちが参加し、夕方6時30分頃、絵を描いたり五色の色紙で飾ったり様々に工夫を凝らしたボウズを持って神社の少し南にある橋に集まり、そこから井関三神社まで行列します。途中、何度か止まって、踊るように太鼓を叩きます。
        
 井関三神社では、休憩をとりながら8時頃まで約1時間、境内を輪になって廻り、その後9時頃まで、盆踊りが行われます。 
     
鳥居前で太鼓を叩く(2009)
   


ぼうずを持って境内を廻る(2009)
   
神社へ向かう(2009)
   
昔ながらのぼうず。竹竿は10mちかくある(1995)
   
    
 竿の長さは、今はほとんどが2mくらいまでですが、10年くらい前までは、昔のように5〜10mくらいの長い竹竿の先に籠をつけたものもありました。
    
 翌15日は、恩徳寺で行われます。
 夕方6時30分頃、ぼうずを持って清水川と景雲寺の2ヶ所に集合、それぞれが行列して、恩徳寺の約100m南で合流、そしてみな揃って恩徳寺に向かいます。入場前の門前で、そして入場後は境内で踊るように舞うように太鼓を叩き、その周りをぼうずが輪になって廻ります。哀愁を帯びた鉦太鼓が響く中、長い竿の先につけられたほおずき形の灯籠がしずしずと境内を廻り、幻想的な雰囲気に包まれます。
 その後、アイデア賞・かわいいで賞などぼうずの表彰があり、盆踊りも行われ、お盆の夜が更けていきます。
         
勢ぞろいして、恩徳寺に向かう(2009)
   
恩徳寺境内のぼうずたち(2009)
   
踊るように太鼓を叩く(1995)
   
 境内を廻るぼうずたち(2009)
  
 坊主が終わると、恩徳寺の境内で盆踊りが行われ、お盆の夜が更けていきます

     
   

 町屋のちょうさい

 町屋のちょうさいは、さいれん坊主の行われているたつの市揖西町中垣内の南西約2km、揖保川西岸に位置する、たつの市揖保川町町屋のお盆の行事で、8月14・15日と地蔵盆の23日に村の墓地で行われています。
 午後6時頃、子供たちが公民館に集まり、鉦を叩いて村中に「今からいくぞー」と触れて廻り、お墓参りをうながします。そして、提灯を持って揖保川沿いにある村の墓地へ向かいます。
     
村の墓地の「向かい地蔵」の周りを廻る(2008)
   
 墓地では、中学生が向かい地蔵の所に太鼓を据え、小学生は、その周りに輪になります。そして、鉦太鼓を合図に、「ちょうさい、ちょうさい」と言いながら、向かい地蔵の周りを、反時計廻りに何回も廻ります。
     
 六地蔵のうしろで(2008)
   
堤防の道で(2008)
   
 しばらくして太鼓が連打されると、子供たちは年長の子を先頭に、駆け足で六地蔵の後へ行って並び、「とうろにさわるまい、たばこにすいかけまい」と繰り返します。  しばらくすると、再び太鼓が連打され、小学生たちは駆け足で堤防の土手に上がり、提灯を上下させて、「おおてんと おおてんと、雨をくだされ おおてんと」、「もどせ もどせ、もとのように もどせ」と唄いながら、土手の上を行き来します。
   
 再び太鼓が連打され、小学生たちは駆け足で最初の向かい地蔵の廻りに輪になって、「ちょうさい、ちょうさい」といながら、ぐるぐる廻ります。お参りの人が少なくなるまで、これを何度も繰り返しましす。
 8月14・15日は同じようにしますが、地蔵盆の23日は、堤防の土手の上では、「おくった おくった、だいじのぼんを おくった」と唄います。

 このちょうさい、嘉吉の乱で滅んだ赤松氏を弔うために、表向き雨乞いに見立てて、その霊を慰めたのが始まりともいわれています。また、揖保川対岸のたつの市龍野町大道にもよく似た行事が伝承されています。       

  
        

 大道のお地蔵さん

 たつの市揖保川町の町屋と川をはさんで対岸の同市龍野町大道では、8月14日夜に、お地蔵さんの行事が行われています。
 町屋と大道は、いずれも揖保上荘に属し、同市龍野町日山鎮座の粒坐天照神社の氏子です。また、かつては揖保川が今より東を流れていましたので、境を接する隣村でした。
      
 子供たちは6時30分頃、公民館に集まり、提灯を2つずつ持ってを出発、「墓にまいるぞよ」と大声で触れながら、村の墓地に向かいます。
   
 村の墓地では、お地蔵さま(「南無阿弥陀仏」と書かれた名号石)の前に線香焼所が設けられ、その周囲に竹で提灯掛けを作り、その外側を子供たちの廻り参道として、周囲を松の杭(かつては竹でしていた)と縄で囲ってあります。墓地に着くと、子供たちは、提灯掛けに提灯を吊り下げた後、その明かりの下で、お地蔵さんの周りを反時計回りに駆け回ります。
    
お地蔵さんのまわりを廻る(2008)
    
 子供たちは、お地蔵さんの周りを駆け廻りながら、「まんれい ま んれい」、大声で繰り返しながら、お地蔵さんの廻りを反時計回りに駆け回ります。やがてその声は、「やれまえ そらまえ」にかわり、また「まんれい ま んれい」と大声で繰り返しながら、お地蔵さんの廻りを反時計回りに駆け回ります。その輪の中で、中学生たちが線香を焚き、お墓参りに来た人たちは、その線香を貰って自分の家のお墓に供えていきます。
    
お地蔵さんのまわりを廻る(2008)
       
   途中、休憩をはさみ、7時30分すぎまで廻った後、持ってきた提灯を再び手にとって公民館へ帰り、その後、浴衣に着替えてきて、8時頃より、盆踊りが行われました。
     
揖保川の堤防からみた様子(2008)
   
 この行事は「まんれい」ともいい、昔、他の場所にあった村の共同墓地を移転させたときに出来た村の総墓であるお地蔵さんの供養の行事といわれ、8月14・15・16日の3日間、行われていました。しかし、昭和27年(1952)、揖保川の改修工事によって村の墓地が再び移転したことなどから途絶えていましたが、学校週5日制を契機に、地域で子供が主体の行事をして3世代の交流をはかろうという動きの中で、平成15年(2003)に復活、以後、毎年8月14日に実施されています。

  
  

新田山の万灯

 龍野から揖保川を北に6kmの新宮町でも、町の南西にある小高い丘・新田山で火祭りが行われます。この火祭りは、新田山の万灯といわれ、新宮の街の南西にある小高い丘・新田山の上で新宮の人たちが行う松明と、その麓で芝田の子供たちが行う太鼓からなるお盆の行事です。
     
 8月15日の夕方6時ころ、芝田の子供たちが、村のはずれ、新田山を見上げるの輪袈裟の清水の広場に集まり、

(囃子)スッポコデンジャー モーデンジャー
(太鼓)ドーン ドーン ドンドンドン

と囃しながら太鼓を叩きます。昔は男の子ばかりでしたが、今は女の子も加わります。
 後ろに、新田山が見えます。
     
芝田が太鼓を叩く(1994)
  
 新宮では、午後6時頃から、男の人たちが松明を持って新田山に上ります。新田山の手前の西光橋の辺りで、お神酒を呼ばれて、山に上っていきます。
       
御神酒を呼ばれて新田山に上る(2003)
 山上では、辺りが暗くなった午後7時頃、実行委員長の挨拶の後、松明に火をつけます。
 松明は長さ2〜3m、太さ20cmくらいで、以前はワラの中に肥松を入れていましたが、今は麦わらを割り竹で包んで固くしばったり、人によって様々です。
      
松明に火をつける(2003)
       
松明を手に、山上を廻る(1994)

 松明に火をつけた後、それを横に持って上下に振りながら、山上の広場を時計回りに3回まわり、「スッポンデンヤ ホーネンヤ」と囃します。
         
 山上の広場を3回まわったあと、「スッポンデンヤ ホーネンヤ」 と囃しながら、尾根沿いに北西に行列 していきます。さらに行列して尾根沿いに歩き、子供たちは手前のカラス岩で、大人たちは奥のトウノ岩まで行き、岩の上に松明を積んで燃やします。
  
山上を行く松明(2003)
   
  
烏岩の上で燃やされる松明(2003)
   
トウノ岩の上で燃やされる松明(2003)
   
 手前のカラス岩では、子供たちなどが持ってきた松明を積み上げて燃やします。岩の向こうに、新宮の街の明かりが見えます。
 大人たちは、さらにトウノ岩まで行列し、岩の上に松明を積みあげて燃やします。山の下で叩く芝田の太鼓の音が、よく聞こえてきます。
 また、以前は、この松明の火を龍野の小宅あたりからも見ることができ、楽しみにしてくれていたそうです。
  
 この万灯は、昔、新田山から大きなスッポンが出て付近の農作物を荒らし回ったので、困った百姓たちが松明に火をつけ、太鼓を叩きながら新田山周辺を囃して回って、スッポンの出没を防いだことが始まりとか、この辺りの百姓がスッポンが出て困っていたのを、弘法大師(あるいは法然上人)が退治したのを供養するため始めたといい伝えています。
 今も昔も行事は変っていませんが、現在、新宮では実行委員会を作り、連合自治会と観光協会のサポートを受けて、続けています。

  
  

河内神社のすっぽん踊り

 新田山の万灯と同じように、「スッポンデンヤ モーデンヤ モーヤーラン ヤーラン」と謡い鉦を叩きながら、神社の周りを回るスッポン踊りという行事が、新田山の西約●.●km、牧の河内神社でも行われています。

 スッポン踊りは、たつの市の西北の端、西栗栖の牧にある河内神社で行われているお盆の行事です。河内神社は、かつて栗栖荘24ヵ村の産土神でしたが、南北朝の頃、神社の後の岩室に妖怪が棲みつき、毎年お盆の7月14日に、神託と偽って白羽矢を氏子の家の屋根に立て、これを当屋として、若い娘を人身御供に出させるようになりました。もし逆らえばたちまちに神罰が下り、凶作・洪水・凶事などが起こるとして、人々は大変恐れ、千本村や平野村は、その難を逃れるために村内に分神を祀るようになったといいます。やがて、嘉慶元年(1387)、河内国牧岡神社の神霊が飛来してその妖怪を退治し、人身御供はやんだといいますが、その妖怪の正体は、神社北の岩室に住むスッポンだったということで、それ以来、河内神社では、お盆の7月14日(現在は月遅れの8月14日)に、神徳をたたえるてスッポン踊りを行うようになったといい伝えています。
     

社殿の周りを廻る(2009)
    
 8月14日の午後2時頃、神社本殿で神事が始まります。その間に子供たちが本殿前に集まり、神事の最後に神主さんのお祓いを受けます。そして、大人の人に先導されながら、鉦・太鼓(竹に吊して前後二人で担ぎ、後ろの子が叩く。大小5つある。)を叩いて、

 すっぽんでんや、もうでんや、 もぅやぁらん やぁらん

と囃しながら、時計回りに本殿を3周します。そして続いて拝殿を3周廻ります。
   
 社殿を廻った後、神主さんを先頭に、神社の北の岩室へ向かいます。その間も ずっと、鉦太鼓を叩いて、 「すっぽんでんや、もうで んや」と囃します。
   
神社北の岩室に向かう(2009)
 かつて妖怪がすんだという岩室には、大磐があり、その上に祠が祀られています。神主さんがそこにお供えをして祝詞を上げ、すっぽん踊りは終わりになります。
 この後、神社の社務所で直会があり、当年の秋祭りについての話し合いなどが行われました。
岩室での神事(2009)
  
 かつては祝踊りといい、社殿を3周した後に社殿前で踊っていたようですが、昭和のはじめ頃までには踊りはなくなっていたようです。
 このスッポン踊り、今は火は焚きませんが、鉦太鼓を叩いて、「すっぽんでんやー もーでんや」と囃しながらぐるぐる回る様子から、ここまで見てきた「お盆の火祭り」と一連の行事であることが推測できます。
     

  
  

お幡入れ・法伝哉

 

 お幡入れ・法伝哉は、法隆寺領鵤荘に伝わる伝統行事で、現在の揖保郡太子町平方・東保・東南、たつの市誉田町福田の4ヵ村が斑鳩寺で行いました。物部守屋との合戦に勝利した聖徳太子の凱旋の様子を表したものといい、紺の襦袢に白襷の青壮年たちが幡をつけた長さ十数mの青竹を威勢良く立てて幡をひるがえらせ(お幡入れ)、「ホーデンヤ」の掛け声にあわせて、踊るように鉦を打ち、太鼓を叩くものです(法伝哉)。

そのうち、鵤荘の東方にある太子町内の3ヵ村は、各村がそれぞれ聖徳太子の御定紋だという沢瀉・橘・桔梗の3色の紋の一つが描かれた幡を1本ずつ持ち、台につけられた太鼓を叩いて法伝哉を踊ります。それに対して、西方にあるたつの市の福田は幡を3本持ち、法伝哉も、仁王門からケンケンで駆け込み (からす跳びといわれる)、2人で太鼓を支え1人が叩いて行います。
   
平方のお幡立て(2009.10.)
     
 掛け声と共に、竹の弾力を使って、一気にお幡を立てます。
           
平方の法伝哉(2009.10.)
   
腰を落とし、手を廻し、飛び跳ねるように、踊るように太鼓を叩きます。
  
福田の法伝哉(1998. 5.)
  
福田の法伝哉(1998. 5.)
  
 福田は、頭上に太鼓をかざし、ケンケンをするように跳びながら入場し、からす跳びといわれています。
 
 福田では、法伝哉も、二人が支え持った太鼓を、もう一人が踊るように叩きます。
  
  
 このお幡入れ・法伝哉も、今は火を焚きませんが、江戸時代の記録によると、元々は斑鳩寺境内で鵤荘の荘民たちが行うお盆の行事で、各村が持ち寄ってきた幡竿を太子殿前に立て、長さ1間半、周囲3尺5寸の大松明、麻柄を束ねた周囲1尺の手松明を焚いて、斑鳩寺の境内を駆け回っていました。しかし、元禄の頃には喧嘩口論がつきもので、さらに火災の危険もあって、元禄14年(1701)、お盆の行事としては永久に停止になり、雨乞いなど特別なときにだけ執行を許されるようになりました。それが「お幡入れ・法伝哉」となり、4ヵ村がそろって奉納したのは昭和10年(1935)が最後になりましたが、現在、平方と福田に保存会が結成され、伝承されています。

  
  

 マントウ   

 河内神社からさらに奥に入った奥小屋では、お盆の締めくくりとして、マントウが行われます。
 8月25日をマントウ盆といい、その前夜、24日の夕方にマントウを焚きます。川原の広場で松明を焚くだけですが、村人みんなが集まってきて、マントウの火に当たりながら、暗くなるまで、村の話し合いや雑談をします。原点に近い、素朴な火祭りがここにありました。
   
 マントウの火の下に、村人が集まる。
 
 マントウの火。この火にあたると、無病息災だという。
  

 

 西播磨では、他にも各地で、夏の火祭りが行われていました。その多くが行われなくなってしまいましたが、近年、夏祭りのイベントとして再生したものもあります。いずれにしても、ご先祖さまをお迎えしお送りする火だからでしょうか、おごそかな、そして神々しい火でした。

 

 

       ご感想はこちらへ

 ←季節の庭にもどる