『経済経営論集』(桃山学院大学)第50巻第3号、2008年12月

 

マルクスの「現実の資本の過剰生産」 概念について
 

 

松 尾   純
 

 

 I. はじめに――これまでの論点整理
『資本論』第3部草稿1)におけるマルクスの 「現実の資本の過剰生産」概
念の理解をめぐって、前畑憲子氏と筆者との間で議論が交わされてきた2)


1)Karl Marx, Ökonomische Manuskript 1863-67, in:KarlMarx/Friedrich Engels
Gesamtausgabe (MEGA)
, Abt.U,Bd.4,Teil 2,1992,Dietz Verlag.引用に際して
は、引用箇所を、引用文直後に引用ページと、それに対応するMEW版『資本論』
(Karl Marx,Das Kapital,MEW,Bd.25,Dietz Verlag,Berlin,1964)およびその
邦訳(岡崎次郎訳『資本論』大月書店,国民文庫版 [6] )の引用ページを次の
ように略記して示す。例,(Kapital,221;MEW,1974;訳, 234)。訳文について
は、現行版と「 主要草稿 」との異同が理解しやすいように、現行版『資本論』
の訳文を利用し、原文が異なる場合だけ新たな訳文を当てた。
2)『資本論』における「資本の過剰生産」概念に言及した前畑憲子氏の最近の論稿
として次のものを挙げることができる。
@前畑憲子「『利潤率の傾向的低下法則』と『資本の絶対的過剰生産』――恐慌
研究の一論点――」、『立教経済学研究』第55巻第1号、2001年7月。
 A同「利潤率の傾向的低下法則と恐慌――『現実の資本の過剰生産』をめぐって
――」、『経済学研究』(北海道大学)第56巻第2号、2006年11月。
 B同「利潤率の傾向的低下法則と恐慌――『資本論』第3部第15章の主題との関
連で――」、 大谷禎之介編『21世紀とマルクス 資本システム批判の方法と理
論』桜井書店の第3章、2007年3月。
『資本論』における「資本の過剰生産」概念に言及した筆者の論稿として次の
ものがある。
 @松尾純「マルクスの『資本の過剰生産』規程について――『資本論』第3部第
3篇第15章第3節の分析を中心にして――」、『経済学雑誌』第79巻第4号、
1979年3月。

キーワード:資本の絶対的過剰生産、相対的過剰人口、現実の資本の過剰生産、
      資本の過多、過剰資本

ー59ー

その発端は、同草稿におけるマルクスの「現実の資本の過剰生産」概念に関
する筆者の理解に対する前畑憲子氏の以下のような批判的コメントであった
 「松尾氏は、『現実の資本の過剰生産 』論で想定されている利潤率の低下
は、搾取率の低下から生ずる利潤率の低下ではなく、生産力の発展⇒資本の
有機的構成高度化に『起因している 』利潤率の低下であるとされている…。
その際の主要な(一)論拠としては、『現実の資本の過剰生産』には『多少
とも大きな相対的過剰人口を伴う』ことを挙げられているが、…これは論拠
になりえない」(前畑@、70頁)。
 「松尾氏は『現実の資本の過剰生産』を生産力の発展⇒資本の有機的構成
高度化に『起因する』利潤率の低下であると捉えた上で、『資本の絶対的過
剰生産』と対比され、次のように述べられている。『両者の概念規定の中に
は、明らかに相互排除的な関係しかもち得ない規定が一部含まれているよう
に思われる。『資本の絶対的過剰生産』は〔急速な資本蓄積 →労働力不足ママ
→賃銀騰貴〕から導き出されるのに対して、『現実の資本の過剰生産』の方
は、〔資本蓄積→相対的過剰人口の累進的生産〕を伴いつつ発生するとされ
ており、両者は概念的に対立せざるをえないのである』… 。『資本の絶対的
過剰生産』と生産力の発展に起因する利潤率の低下との「相互排除的な関係」
を問題にするのであれば、それは、相対的過剰人口の吸収かそれとも排出か
ではなくて、一方は搾取率の低下であり、他方は搾取率の上昇だという関係
であろう」(前畑@、72頁)。

A同「マルクスの『資本の過剰生産』論――再論・『資本論』第3部『主要草稿』
を踏まえて――」、『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第2号、1994年12
月。
 B同「『資本の絶対的過剰生産』論の復位――井村喜代子氏の見解の検討を通じ
て――」、『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第3・4号、1995年3月。
 C同「『現実の資本の過剰生産』と『資本の絶対的過剰生産』――前畑憲子氏の
批判に応える――」、『経済経営論集』(桃山学院大学)第43巻第4号、2002年
3月。
以上の諸論稿からの引用に際しては、原則として、引用ページ数を引用文直後
に、例えば(前畑@、456頁)あるいは(松尾A、123頁)のように示すことにす
る。

ー60ー

 これらの批判的コメントからも分かるように、筆者・松尾は、<「資本の
絶対的過剰生産」>と<「生産力の発展⇒資本の有機的構成高度化に『起因し
ている』利潤率の低下」の過程において現出する「現実の資本の過剰生産」
>とを対立的に捉え、前者は相対的過剰人口の減少によって現出するが、後
者は相対的過剰人口の増大を伴って現出する事態であると理解しているのに
対して、前畑氏は、<「資本の絶対的過剰生産」>と<生産力の発展に起因す
る利潤率の低下>との関係は、「相対的過剰人口の吸収かそれとも排出かで
はなくて、一方は搾取率の低下であり、他方は搾取率の上昇だという関係」
(前畑@、72頁)である;「利潤率の傾向的低下法則…を相対的過剰人口の一
方的排出とイコールのものとして取り扱」ってはならない(前畑@、75頁);
「生産力の発展⇒資本の有機的構成高度化に『起因している』利潤率の低下」
の場合には搾取率の上昇が見られるのに対して、「現実の資本の過剰生産」
の場合にも「 資本の絶対的過剰生産」の場合にも搾取率の低下が見られ、し
たがって両者の違いは「あくまで『搾取率の低下』の程度問題である」(前
畑@、70頁)と主張されるのである。
 この前畑氏の主張がはたして『資本論』第3部草稿におけるマルクスの資
本過剰論の正当な解釈であるのかどうか、筆者は、前稿「『現実の資本の過
剰生産』と『資本の絶対的過剰生産』――前畑憲子氏の批判に応える――」
『経済経営論集』(桃山学院大学)第43巻第4号、2002年3月において検討し
た。その結果の概要は以下のようである。
 筆者は、まず、前畑氏の主張を次のように要約した。「『現実の資本の過剰
生産』と『資本の絶対的過剰生産』は、いずれも相対的過剰人口の吸収→賃
銀騰貴→搾取度の低下によって生ずる。両者の相違は、『「搾取率の低下」の
程度[が大きいか、それとも 、小さいかの――松尾] 問題』である。他方、
『資本の絶対的過剰生産』と『利潤率の傾向的低下法則』との関係は、相対
的過剰人口の吸収かそれとも排出かではなくて、搾取率の低下かそれとも搾
取率の上昇かである。『利潤率の傾向的低下 』は、相対的過剰人口の形成を
伴い、同時に相対的過剰人口の吸収を伴うのであって、相対的過剰人口の一

ー61ー

方的排出とイコールではない」(松尾C、240-241頁)。
 こう要約した上で、この前畑氏の主張に対して、筆写は、以下のような幾
つかの疑問点を提示した。
 [ 1 ]前畑氏は、「現実の資本の過剰生産」を <相対的過剰人口の吸収→
賃銀騰貴→搾取度の低下>によって生ずる事態であると理解しているが、そ
のような理解は、『資本論』第3部草稿 のマルクスの「現実の資本の過剰生
産」概念に合致しているとは思えない。というのは、『資本論』では次のよ
うに述べられているからである。「生産力が発展すればするほど、ますます
それは消費関係が立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ち・・・・・
た基礎・・・のうえでは、資本の過剰 redundancy of capital が相対的過剰人口・・・・・・・
増大wachsenderrelativerSurpluspopulationと結びついているということ…
は、けっして矛盾ではない」( Kapital, 313 ; MEW, 255 ; 訳,401)。「この
ような資本の過多は、相対的過剰人口を刺激するのと同じ事情から生じるも
のであり、したがって相対的過剰人口を補足する現象である 。…2つのもの
は互いに反対の極に立つのであって 、一方には遊休資本が立ち、他方には遊
休労働者人口が立つのである」(Kapital, 325 ; MEW, 261 ; 訳,410)。「こ
のような資本の過剰生産・・・・・・・ [=「現実の資本の過剰生産」] が多少とも大きな
相対的過剰人口・・・・・・・を伴うということは、けっして矛盾ではない。…[ 相対的過
剰人口が]過剰資本・・・・によって充用されないのは 、それが労働の低い搾取度で
しか充用できないからであり、… 与えられた搾取度のもとでそれが充用され
るであろう利潤率が低い・・・・・・からである」 (Kapital, 330 ; MEW, 266;訳,417-
418)3)。これらの叙述から分かるように、マルクスは、「資本の過剰」と「相


3)拙稿[松尾C]におけるこれら3つの引用文の引用ページの表記について、前畑
氏から次のような指摘があった。「松尾論文の241ページの3つの文章の引用ペー
ジは、現行版『資本論』の頁とMEGAの頁とがすべて逆になっている。」(前畑
A、29頁)、と。しかし、この指摘の意味が筆者には不明である。前畑氏の言う
「現行版『資本論』」とは、MEW(KarlMarx-Friedrich Engels Werke,Bd.25,1964)
のことであり、「MEGA」とは、本稿注2に掲げた「Karl Marx,Ökonomische
Manuskript1863-67
,in:KarlMarx/FriedrichEngels Gesamtausgabe(MEGA),Abt.
U, Bd.4,Teil 2,1992,Dietz Verlag」のことであるとすれば、それらの頁表記

ー62ー

対的過剰人口」とが結びついているというだけではなくて、<資本の過剰>
と<相対的過剰人口の増大>とが結びついている点に留意を促している。マ
ルクスが「資本の過剰が相対的過剰人口の増大と結びついている」と現に述
べているにもかかわらず4)、前畑氏は、いかなる根拠によって、<資本の過
剰が、相対的過剰人口の吸収→賃銀騰貴→搾取度の低下によって生じる>と
主張されるのか、筆者には理解できないのである。
 [2] 前畑氏は、一方では、<「資本の絶対的過剰生産」>と<生産力の発
展に起因する利潤率の低下>とは、「相対的過剰人口の吸収かそれとも排出
かではなくて、一方は搾取率の低下であり、他方は搾取率の上昇だという関
係」(前畑@、72頁)にあると言い、他方では、「現実の資本の過剰生産」と
「資本の絶対的過剰生産」とは「いずれも…相対的過剰人口の吸収⇒賃銀騰貴
⇒利潤量の減少⇒利潤率の低下によって生ずる事態」である( 前畑 @ 、72
頁 )と言う。あるいは、前畑氏は、一方では、「資本の有機的構成高度化に
よってもたらされる一般的利潤率の低下」は「 剰余価値率の上昇を伴う 」
( 前畑@、70頁)と言うが、他方では、「利潤率の傾向的低下法則…を相対的
過剰人口の一方的排出とイコールのものとして取り扱 」ってはならない(前
畑 @、75頁)と言う。これらの主張は、筆者にとっては、相矛盾する主張で
あると思われるのであるが、前畑氏はいかにしてそれらを相互に矛盾なく関
連づけて理解しているのか、筆者には疑問である。


が拙稿において「すべて逆になっている」という指摘の意味が不明である。
4)筆者は、旧稿[松尾C ]において『資本論』の3つの引用文を根拠として、「前
畑氏はマルクスのこの『増大』という文言の存在を無視して、<資本の過剰が相
対的過剰人口の吸収[=相対的過剰人口の「減少」――松尾]→賃銀騰貴→搾取
率の低下によって生じる>と主張されるのである」(松尾C、242頁)として前畑
氏を批判したのに対して、次のような反論を受けた。すなわち、「松尾氏が援用
したマルクスの3つの『資本の過剰』についての記述のうち、相対的過剰人口の
『増大」と結びついている、といっているのは、第15章1節の記述…だけである。
したがって、…マルクスの記述にもない相対的過剰人口の『増大」を『無視』し
たといわれても困惑するばかりである」(前畑A、29頁)、と。しかし、たとえ1
箇所だけであっても、マルクスは「増大」という言葉を使っていることには間違
いないのであるからそれがどうして使われたのかということを前畑氏は説明す
る必要があるのではなかろうか。

ー63ー

 [ 3 ]「 資本の有機的構成高度化によってもたらされる一般的利潤率の低
下」が進行する過程は、「傾向的」低下の過程であり、その実際の過程は、
さまざまな諸局面・諸部面を含むジグザグの諸過程である。そこには、相対
的過剰人口を生み出す諸局面と相対的過剰人口を吸引する諸局面が含まれる
しかし、前畑氏は、「資本の有機的構成高度化によってもたらされる一般的
利潤率の低下」が進行する過程は、全体として見れば、相対的過剰人口の吸
収の過程であると言われる。しかし、そのような理解は筆者には正当なもの
とは思えない。
 というのは、マルクスが次のように述べているからである。「労働の生産
力を高くし、…利潤率・・・を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口・・・・・・・
生みだしたのであり、また絶えず生みだしているのであって、それが過剰資・・・
によって充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できない
からであり、または少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが充用され
るであろう利潤率が低い・・・・・・からである」( Kapital, 330; MEW, 266 ; 訳, 417-
418)。マルクスがここで述べていることは、「利潤率を低下させた事情」と
は <労働の生産力の発展による資本の有機的構成高度化> であり、それと
「同じ事情」によって相対的過剰人口が絶えず生みだされるのであるが、そ
うして生み出された相対的過剰人口は「過剰資本によって充用」しようとし
ても「低い搾取度でしか充用できない」、ということである。
 このような理解と違って、前畑氏は、<「利潤率の傾向的低下法則…を相
対的過剰人口の一方的排出とイコールのものとして取り扱」ってはならない
(前畑@、75頁)>、<「利潤率の傾向的低下」過程を搾取度の上昇過程と結
びつけて理解すべきである>5)と主張される。 しかし、 労働生産力の発展→
資本の有機的構成の高度化→利潤率の傾向的低下が進行する過程が、全体と


5)「「資本の絶対的過剰生産」と生産力の発展に起因する利潤率の低下との「相互排
除的な関係』を問題にするのであれば、それは、相対的過剰人口の吸収かそれと
も排出かではなくて、一方は搾取率の低下であり、他方は搾取率の上昇」である
(前畑@、72頁)。

ー64ー

して、相対的過剰人口の一方的排出とイコールのものでなく、相対的過剰人
口の吸収過程であるとすれば、そこには、当然、それに反対に作用する要因
が作用していなければならないはずである。すなわち<相対的過剰人口の減
少→賃金上昇・搾取率の低下>という要因が働いていなければならないはず
である。ところが、 前畑氏は、 逆に、 その過程は搾取度の上昇をもたらすと
主張される。それはどういう論理でそうなるのか、筆者には、直ちに理解で
きないのである。
 [ 4 ] 前畑氏は、「資本の絶対的過剰生産」と「現実の資本の過剰生産」
は、いずれも「相対的過剰人口の吸収⇒賃銀騰貴⇒利潤量の減少⇒利潤率の
低下によって生ずる事態」( 前畑@、72頁 )であり、両者の相違は「あくま
で『搾取率の低下』の程度問題である」( 前畑A、70頁 )と言う。その意味
は、「『搾取率の低下』の程度」が深刻でない状況が「現実の資本の過剰生産」
であり、「『搾取率の低下』の程度」が深刻化すれば「資本の絶対的過剰生産」
が現出するということであろう。
 前畑氏はまた次のようにも言われる。「現実的な資本の過剰生産」は「相
対的過剰人口の吸収によって労働の搾取度が『一定の点以下へ』低下するこ
とによって、生ずる事態」であり、「賃金上昇による一般的利潤率の低下の
事態」(前畑@、70頁)である。「資本の有機的構成高度化によってもたらさ
れる一般的利潤率の低下」は「剰余価値率の上昇を伴うのであって、…搾取
率の低下によって生じるのではない」(前畑@、70頁)。「資本の有機的構成
の高度化から生ずる利潤率の低下は 、相対的過剰人口の排出に結果」 (前畑
@、73頁) しない。
 つまり、前畑氏は、<「現実の資本の過剰生産」は、相対的過剰人口の吸
収・搾取率は低下 =賃銀騰貴によって生じる事態>であるが、<「資本の有
機的構成の高度化から生ずる利潤率の低下」が進行する過程は、 剰余価値率
の上昇を伴う過程・相対的過剰人口の排出に結果しない過程である>と言う
のである。
 しかし、前畑氏は、 <「資本の有機的構成の高度化から生ずる利潤率の低


ー65ー

下」が進行する過程は相対的過剰人口の排出に結果しない過程である >と主
張するのであれば、<「資本の有機的構成の高度化から生ずる利潤率の低下」
が進行する過程は、剰余価値率の上昇を伴う過程である>と言うのではなく、
むしろ、剰余価値率の低下を伴う過程であると言わねばならないはずである。
ところが、そうは言われないのである。これはどういう訳であろうか、筆者
には疑問である。
 以上が、前畑氏の拙稿批判に対して筆者が堤した疑問点である。これらの
疑問に対して、前畑氏は新たな論稿のほぼ全文を費やして再度筆者批判を展
開された。幸い、この再度の拙稿批判によって、前畑氏と筆者の意見の相違
がより明確になった。とりわけ、議論の焦点とも言うべき「現実の資本の過
剰生産」概念に関する前畑氏の理解に含まれる問題点がより明確になった。

 U. 前畑氏の「現実の資本の過剰生産」理解

 以下では、新稿における前畑氏の見解をすべての論点にわたって検討する
のではなくて、問題の核心である「現実の資本の過剰生産」概念に関する前
畑氏の理解と筆者の理解の相違を検討することにしよう。
 前畑氏による「現実の資本の過剰生産」概念の理解は次のようなものであ
る。すなわち、
 「『現実の資本の過剰生産』とは、…『相対的』…であるから、『多少とも
大きな 相対的過剰人口を伴 』い、追加投資によって生産される剰余価値の
『絶対的な量』は多少なりとも増大する…。しかし、この『膨張した価値…
に比例してこの価値の追加的増殖』を生み出しはしない。…つまり『現実の
過剰生産』とは『絶対的過剰生産』の場合ほどではないが、労働の低い搾取
度のために、利潤率の急落を生み出さざるをえない事態であろう」(前畑A、
24頁)。
 「[『現実の資本の過剰生産』は〕多少なりとも相対的過剰人口が存在し追
加投資が剰余価値の絶対量の増大をもたらしうる…。…『相対的』であると
はいえそれが資本の過剰生産であるのは、「資本主義的生産過程の『健全な』

ー66ー

『正常な』発展が必要とするような『搾取度』で労働を搾取することができ
ないからである」(前畑A、24頁)。
 「資本の絶対的過剰生産」と「現実の資本の過剰生産」とは「両者とも、
利潤率の低下と利潤量の増大とが同時に生じることによって引き起こされる
諸資本間の競争戦によって労賃が上昇し、労働の搾取度が「一定の点以下へ』
低下することによって生じる事態」である(前畑A、24頁)。
 「労賃の上昇を招来する諸資本間の競争戦は、労働の生産力の発展による
資本の有機的構成の高度化に起因する利潤率の低下の事態に直面した『分散
した小資本』やこれから自立しようとする『資本の若枝』によって、つまり
利潤率の低下を利潤量の増大によって補えない諸資本によって引き起こされ
るものであった。すなわち、これらの利潤率の低下を利潤量の増大で埋め合
わせることのできない諸資本を生み出したその同じ過程が、相対的過剰人口
を生み出したのであり、したがって、そこには過剰人口が存在していたので
ある。…この競争戦において、それらの吸収が進むが、しかし、『現実の資
本の過剰』は…その範囲においても『相対的』なのだから、そこに、『多少
とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない』と
いうのは当然のことなのである」(前畑A、25頁)。
 「<『現実の資本の過剰生産』は、相対的過剰人口の吸収、搾取率の低下=
賃金騰貴によって生じる事態である>という要約」は、「筆者の見解の正し
い要約」あり、「マルクスの理解そのものでもある」(前畑A、26頁)。
 「谷野氏は『現実の資本の過剰生産』…について次のような理解を示して
いる。1)資本の絶対的過剰生産にいたるまでの賃金上昇は相対的過剰人口
の減少を背景としているのであって、その枯渇を意味していないのだから、
その過程には相対的過剰人口が随伴している。…以上の理解には同意できる」
(前畑A、26頁)。
 「生産力の発展→資本の有機的構成高度化→利潤率の低下には、利潤量の
増大が伴う。…生産力の発展の結果、利潤率の低下と利潤量の増大とが同時
に生じる事態にあっては、相対的過剰人口は吸収されているのか、それとも

ー67ー

排出されているのか、その事態に至る過程でどちらの要因が強く作用したと
考えるべきか。…この事態に至る過程は、相対的過剰人口の吸収の要因の方
が強く作用する、と考えるべきであろう。しかし、ここでの相対的過剰人口
の吸収が搾取度の低下をもたらすかといえば、そうではない。この過程その
ものが、生産力の発展に起因するのであるから、…搾取率の上昇要因も同時
に働くのであるから、この相対的過剰人口の吸収は搾取率の低下をもたらす
ことにはならないであろう。」(前畑A、28-29頁)。
 「その生産は…相対的過剰人口の急速な吸収をもたらし、労働者人口の制
限さえも乗り越えることになる。賃金の上昇による利潤量の減少、それによ
る利潤率の急速な低下である。すなわち、『資本の絶対的過剰生産』の事態
に、実際にはより相対的な『現実の資本の過剰生産』に行き着かざるをえな
いのである」(前畑A、30頁)。
 「『現実の資本の過剰生産』は。労賃の騰貴による搾取率の低下、したがっ
てまた、相対的過剰人口の減少をその『一契機』…として発現する」( 前畑
A、30頁)。
 以上引用した幾つかの論述から、前畑氏の「現実の資本の過剰生産」理解
が次のようなものであることが分かる。すなわち、<「現実の資本の過剰生
産」とは、「『絶対的過剰生産』の場合ほどではないが、労働の低い搾取度の
ために、利潤率の急落を生み出さざるをえない事態」(前畑A、24頁)、「利
潤率の低下と利潤量の増大とが同時に生じることによって引き起こされる諸
資本間の競争戦によって労賃が上昇し、労働の搾取度が『一定の点以下へ』
低下することによって生じる事態」(前畑A、24頁)、「相対的過剰人口の吸
収、搾取率の低下=賃金騰貴によって生じる事態」(前畑A、26頁)である;
「資本の有機的構成の高度化に起因する利潤率の低下の事態に直面した『分
散した小資本』や…『資本の若枝』…つまり利潤率の低下を利潤量の増大に
よって補いえない諸資本」によって「諸資本間の競争戦」が「引き起こされ」、
「この競争戦において、それら[相対的過剰人口――松尾]の吸収が進むが、
しかし、『現実の資本の過剰 』は…『 多少とも大きな相対的過剰人口を伴

ー68ー

う…』」(前畑A、25頁);「相対的過剰人口の急速な吸収…賃金の上昇による
利潤量の減少、それによる利潤率の急速な低下」が起これば、「『資本の絶対
的過剰生産』の事態に、実際にはより相対的な『現実の資本の過剰生産』に
行き着かざるをえない」(前畑A、30頁)。>
 要するに、前畑氏は次のように理解しているのである。<労働の生産力の
発展→資本の有機的構成の高度化に起因する利潤率の低下→「分散した小資
本」・「資本の若枝」間の競争→相対的過剰人口の吸収→賃銀騰貴・搾取度低
下→「現実の資本の過剰生産」の発生>。このように纏められる前畑氏の主
張において注目すべきは、「現実の資本の過剰生産」の発生過程と「資本の
絶対的過剰生産」の発生過程とが共通の論理で説明されているという点であ
る。すなわち、次のように言われる。「資本の絶対的過剰生産」と「現実の
資本の過剰生産」とは、「両者とも、利潤率の低下と利潤量の増大とが同時
に生じることによって引き起こされる諸資本間の競争戦によって労賃が上昇
し、労働の搾取度が『一定の点以下へ』低下することによって生じる事態」
である(前畑A、24頁)、と。
 前畑氏は、<生産力の発展→資本の有機的構成高度化を伴いつつ資本蓄積
→利潤率の低下と利潤量の増大とが同時に発生する過程>においては、「相
対的過剰人口の吸収の要因の方が強く作用する」が、しかし「相対的過剰人
口の吸収が搾取度の低下をもたらす」訳ではない、なぜなら、この過程では
「搾取率の上昇要因も同時に働く」ので、「相対的過剰人口の吸収は搾取率の
低下をもたらすことにはならない」(前畑A、28-29頁)からである、と言う。
他方、前畑氏は、「現実の資本の過剰生産」という事態とそれに続く事態で
ある(と前畑氏が考える)「資本の絶対的過剰生産」との違いを、相対的過
剰人口の吸収程度の違いと理解する。すなわち、「資本の絶対的過剰生産」
は相対的過剰人口の「枯渇」の結果として発生するが、「現実の資本の過剰
生産」は相対的過剰人口の「枯渇」ではなくが「減少」の結果として発生する、
と理解するのである。
 それを前畑氏は次のように説明する。「その生産は…相対的過剰人口の急
ー69ー

速な吸収をもたらし、労働者人口の制限さえも乗り越えることになる。賃金
の上昇による利潤量の減少、それによる利潤率の急速な低下である。すなわ
ち、『資本の絶対的過剰生産』の事態に、実際にはより相対的な『現実の資
本の過剰生産』に行き着かざるをえないのである」(前畑A、30頁)、と。こ
れによって分かるように、前畑氏は、「現実の資本の過剰生産」事態の進展
の結果として「現実の資本の過剰生産」が発生すると考えるのである。氏の
考えをシェーマ化して示せば、[ 資本蓄積・生産力の発展→相対的過剰人口
の「減少」→労賃の騰貴→搾取率の低下→「現実の資本の過剰生産」の発生]・
[ 資本蓄積・生産力の発展→相対的過剰人口の「枯渇」→労賃の騰貴→搾取
率の低下 →「 資本の絶対的過剰生産」の発生 ]となる。このうち、後者の
「資本の絶対的過剰生産」の発生過程については、『資本論』研究者の間で見
解の相違・理解の相違はないであろう。しかし、前者の「現実の資本の過剰
生産」の発生過程については、前畑氏の説明は、『資本論』でのマルクスの
論述と合致しているとは思えない。以下、詳しく検討することにしよう。

V. マルクスの「現実の資本の過剰生産」論

 前畑氏は、「現実の資本の過剰生産」の発生過程について、先にも見たよ
うに、次のように説明している。「その生産は雇用労働者人口の増大を、す
なわち相対的過剰人口の急速な吸収をもたらし、労働者人口の制限さえも乗
り越えることになる。賃金の上昇による利潤量の減少、それによる利潤率の
急速な低下である。すなわち、『資本の絶対的過剰生産』の事態に、実際には
より相対的な『現実の資本の過剰生産』に行き着かざるをえないのである 」
(前畑A、30頁)。
 うえでも指摘したように、前畑氏は、<「相対的過剰人口の急速な吸収」
→「賃金の上昇」→「利潤量の減少」→「利潤率の急速な低下」>という過
程が進行すれば、「現実の資本の過剰生産」という事態が発生し、そして、
その過程が進行して事態がいっそう深化すれば、「資本の絶対的過剰生産」
という事態に「行き着かざるをえない」と考えているのである。言い換えれ

ー70ー

ば、<「相対的過剰人口の急速な吸収」→「賃金の上昇」→「利潤量の減少」
→「利潤率の急速な低下」>という過程がどの程度進行するかによって、「現
実の資本の過剰生産」という事態が発生することもあれば、「資本の絶対的
過剰生産」という事態が発生することもあると考えられるのである。しかし、
はたして、「現実の資本の過剰生産」は、<「相対的過剰人口の急速な吸収」
→「賃金の上昇」→「利潤量の減少」→「利潤率の急速な低下」>という過
程が進行した結果発生するものであろうか。筆者の見るところ、『資本論』
においてマルクスはそのような議論を展開していないように思われる。以下、
その理由を述べることにしよう。
 前畑氏は、「現実の資本の過剰生産」の発生を説明する際その出発点にお
いて、「利潤率の低下と利潤量の増大とが同時に生じることによって引き起
こされる諸資本間の競争戦」には「労働の生産力の発展による資本の有機的
構成の高度化に起因する利潤率の低下の事態に直面した『分散した小資本』
や…『資本の若枝 』」等の諸資本が参戦する、と説明している。しかし、
氏のこの説明は、『資本論』におけるマルクスの「分散した小資本」や「資
本の若枝」についての説明と合致しているとは思えない。
 前畑氏は、<諸資本間の競争戦→相対的過剰人口の吸収→労賃上昇→搾取
度の低下>の結果として、「現実の資本の過剰生産 」が発生する説明して
いるが、しかし、そのような理解は「現実の資本の過剰生産」についての『資
本論』の論述内容と合致しているとは思えない。以下、筆者がそのように考え
る根拠となるマルクスの論述を幾つか示しながら、 筆者の考えを明らかに
することにしよう。
 [1]『資本論』第3部草稿の第3篇第15章 第3節「人口の過剰に伴う資
本の過剰 」の冒頭――すなわち同節 第3パラグラフ以降におけるいわゆる
「資本の絶対的過剰生産」論に入る直前の第1パラグラフにおいて――、マ
ルクスは、自身の「資本の過剰」概念を次のように説明している。
 「利潤率の低下・・・・・につれて、…資本の最小限・・・・・・は増大する。…それと同時に集
積も増大する。…この増大する集積は、それ自身また、ある高さに達すれば、

ー71ー

利潤率の新たな低下をひき起こす。したがって、分散した小資本の大群は冒
険の道に追いこまれる。投機、信用思惑、株式思惑、恐慌へと追いこまれる。
いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、利潤率の低下が利潤の量によっ
て償われない資本――そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれであ
る――の過多に、または、このようなそれ自身で独自に行動する能力のない
資本を大きな事業部門の指導者たちに(信用の形で)用だてる過多に、関連
している。このような資本過多は、相対的過剰人口を刺激するのと同じ事情
から生じるもの…である。といっても、…一方には遊休資本が立ち、他方に
は遊休労働者人口が立つのであるが。」(Kapital, 324-325; MEW, 261;訳,
409-410)。
 この引用文冒頭でマルクスは、利潤率の低下につれて、資本の最小限は増
大し同時に集積も増大するが、それがある高さに達すれば、利潤率の新たな
低下をひき起こし、その結果「分散した小資本の大群は冒険の道に追いこま
れる」ことになる、と説明しているが、なぜ、「分散した小資本の大群は冒
険の道に追いこまれる」ことになるのかと言えば、その理由は、利潤率の低
下にともなって、「分散した小資本」・「資本の若枝」・「新たな、独立に機能
する追加資本」等の諸資本にとって「利潤量の増大によって利潤率の低下を
埋め合わせる」という「補償条件」の獲得が困難になるからであると述べて
いる。「分散した小資本」・「資本の若枝」・「新たな、独立に機能する追加資
本」等の諸資本中の一部資本が資本として機能する条件(資本主義的生産の
「正常な」発展にとって必要な平均的な増殖欲を充たす利潤率・搾取率)を
充たすことが出来なくなり、それらの資本が過剰資本として「冒険の道に追
いこまれる」ことになると考えたのであろう。引用文中段で、「いわゆる資
本の過多」――『資本論』第3部草稿第5章ではこの用語の意味をマルクス
は「いわゆる資本の過多・・・・・(常に貨幣資本 monied Capital について使用され
る表現)」(Kapital, 529; MEW, 493; 岡崎次郎訳『資本論』大月書店,国
民文庫版 (7), 284頁 )と説明している――について、マルクスは、それは
「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本――そして新たに形成さ

ー72ー

れる資本の若枝はつねにこれである――の過多に」「関連している」という
注釈を付け、この「利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本――そ
して新たに形成される資本の若枝はつねにこれである――」は「相対的過剰
人口を刺激するのと同じ事情から生じるもの」である、と説明している。
 かくて、上記引用文全体をもってマルクスが述べていることは、要するに、
資本蓄積に伴って「分散した小資本の大群」・「新たに形成される資本の若枝」
等が増大していくが、それに伴って、それら諸資本と「同じ事情」から生じ
る相対的過剰人口も増大していくということである。
 [2]現行版『資本論』第3部第3篇第15章第3節 第3パラグラフ〜第14
パラグラフのいわゆる「資本の絶対的過剰生産」論を終えた後、マルクスは、
続く第15パラグラフ以降の箇所――第14パラグラフと第15パラグラフの間に
は、現行版『資本論』には存在しないマルクスによる「現実の資本の過剰生
産」概念の説明 [Kapital, 329末尾 2行 ]が存在するが――において、「現
実の資本の過剰生産」に関する次のような纏まった議論を展開している。
 「資本の過剰生産・・・・・・は、資本として機能・・できる、すなわち与えられた搾取度・・・・・・・・
での労働の搾取に充用されうる生産手段・・・・――労働手段および生活手段――
過剰生産・・・・以外のなにものでもない。与えられた搾取度でというのは、この搾・・・
取度の・・・一定の点以下への低下が、資本主義的生産過程の停滞と撹乱、恐慌と
資本の破壊をひき起こすからである。 このような資本の過剰生産・・・・・・・が多少とも
大きな相対的過剰人口・・・・・・・を伴うということは、けっして矛盾ではない。(この
相対的過剰人口の減少は、それ自身すでに恐慌の一契機である。というのは、
それは、うえで6)考察された資本の絶対的過剰生産の場合に近づくからであ
る。)労働の生産力を高くし、生産物(商品)の量を増やし、市場を拡大し、


6)『資本論』第3部草稿のこの箇所をKarlMarx,ÖkonomischeManuskript1863-67,
in:KarlMarx/FriedrichEngels Gesamtausgabe(MEGA),Abt.U, Bd.4, Teil2,
1992,Dietz Verlag編集者は「eben」と解読しているが、同草稿を所蔵するアム
ステルダムの社会史国際研究所において同草稿 フォト コピーを調査した佐藤金三
郎氏は、この箇所を「oben」と解読している。本稿ではこの佐藤氏の解読・筆
写に従うことにする。

ー73ー

資本の蓄積を(それの素材の大きさから見ても価値の大きさから見ても)促
進し、利潤率・・・を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人口・・・・・・・を生みだし
たのであり、また絶えず生みだしているのであって、それが過剰資本・・・・によっ
て充用されないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであ
り、または少なくとも、与えられた搾取度のもとでそれが充用されるであろ
利潤率が低い・・・・・・からである」(Kapital,330;MEW,266;訳,417-418)。
 ここで述べられていることは次の諸点である。すなわち、@「資本の過剰
生産」とは、「与えられた搾取度での労働の搾取に充用されうる生産手段…
の過剰生産」である。「搾取度の一定の点以下への低下」が起これば、「資本
主義的生産過程の停滞と撹乱、恐慌と資本の破壊 」が引き起こされる。A
「資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴う」のは「けっして
矛盾ではない」。B「労働の生産力を高くし、…資本の蓄積を…促進し、利
潤率を低下させた」のと「同じ事情」が「相対的過剰人口を生みだし」「ま
た絶えず生みだしている」。C相対的過剰人口が「過剰資本によって充用さ
れないのは、それが労働の低い搾取度でしか充用できない」からである。
 これら諸点のうち注目すべきは論点Bと論点Cである。論点Bの意味は、
「労働の生産力」→「資本の蓄積」が進展すれば、利潤率が低下するが、そ
れに伴って同時に相対的過剰人口が生み出されるということであり、論点C
の意味は、「労働の生産力」→「資本の蓄積」が進展してゆけば、いずれ、
相対的過剰人口は過剰資本によっては充用されなくなるか、あるいは、たと
え充用されても「低い搾取度」でしか充用されないことになり、その事態が
進展すれば、「資本主義的生産過程の停滞と攪乱、恐慌と資本の破壊」が引
き起こされることになるということである。そして、まさに、これが『資本
論』第3部草稿におけるマルクスの「現実の資本の過剰生産」に関する論述
の要点である。前畑氏の「現実の資本の過剰生産」理解は、このマルクスの
説明と合致しているとは思えないのである。
 [3]うえで引用した論述箇所に続く箇所( 現行『資本論』第17 パラグラ
フ)でも、マルクスは、「現実の資本の過剰生産」に関して次のように述べ

ー74ー

ている。
 「蓄積に結びついた利潤率の低下は必然的に競争戦を呼び起こす。利潤量
の増大によって利潤率の低下を埋め合わせるということは、ただ社会の総資・・
について、また十分に備えのある大資本について言えるだけである。新た
な、独立に機能する追加資本にとってはこのような補償条件は与えられてい
ないので、これからそれを戦い取らなければならない。このようにして利潤
率の低下が諸資本間の競争戦をひき起こすのであって、その逆ではない。も
ちろん、この競争戦は労賃の一時的な上昇を伴い、またそのためにさらにいっ
そう利潤率が一時的に低下することを伴っている。」(Kapital, 330; MEW,
266-267;訳,418)。
 ここで マルクスが述べていることは次のようなことである。 すなわち、
「利潤量の増大によって利潤率の低下を埋め合わせる」ことができるのは、
「社会の総資本」や「十分に備えのある大資本」であるが、「分散した小資本」・
「資本の若枝」・「新たな、独立に機能する追加資本」等にはそのような「埋
め合わせ」という「補償条件」が予め「与えられていないので、これからそ
れを戦い取らなければならない」。そこで「競争戦」が引き起こされる。こ
の「競争戦」が激化してゆけば、「分散した小資本」・「資本の若枝」・「新た
な、独立に機能する追加資本」等の諸資本が「補償条件」を獲得するのがま
すます困難になっていく。「この競争戦は労賃の一時的な上昇を伴い、また
そのためにさらにいっそう利潤率が一時的に低下」することになり、「競争
戦」がいっそう激化してゆく。
 以上、マルクスの『資本論』における論述を引用し、それらに対する筆者
の理解の仕方を示してきたが、以下 では、それを踏まえた上で、前畑氏の
『資本論』理解を検討することにしよう。
 そこで、まず、前畑氏の見解をもう一度シェーマ化して示しておくとこう
である。<労働の生産力の発展→資本の有機的構成高度化→利潤率の低下と
利潤量の増大→「分散した小資本」「資本の若枝」等の「諸資本間の競争戦」
→相対的過剰人口の急速な吸収・相対的過剰人口の減少(枯渇ではない)→

ー75ー

賃金上昇→労働の搾取度の低下→利潤率の急速な低下→「現実の資本の過剰
生産」の事態→「諸資本間の競争戦」→相対的過剰人口の枯渇→「資本の絶
対的過剰生産」の事態>。前畑氏は、<「労働の生産力の発展による資本の
有機的構成の高度化に起因する利潤率の低下の事態に直面した『分散した小
資本』や…『資本の若枝』…つまり利潤率の低下を利潤量の増大によって補
いえない諸資本」によって「諸資本間の競争戦」が展開されるのであるが、
「この競争戦において、それら[相対的過剰人口]の吸収が進む」>と主張し
ているが、しかし、このような理解には疑問がある。というのは、うえで示
したように、マルクスは、「利潤率の低下の事態に直面した『分散した小資
本』や…『資本の若枝』…つまり利潤率の低下を利潤量の増大によって補い
えない諸資本」によって「諸資本間の競争戦」が展開されるのであるが、だ
からといって、それらの諸資本が資本として充用される・すなわち資本主義
的生産の「正常な」発展にとって必要な平均的な増殖欲を充たす利潤率・搾
取率で充用されることになる訳ではない、言い換えれば、それらの諸資本と
相対的過剰人口とが資本の平均的な増殖欲を充たす利潤率を生みだす形で結
合されるこちになる訳ではないと考えているからである。
 もう一度確認しておこう。『資本論』では次のことがに述べられている。
<「利潤量の増大によって利潤率の低下を埋め合わせる」という「補償条件」
は「社会の総資本」や「十分に備えのある大資本」には存在するが、「新た
な、独立に機能する追加資本」には「与えられていないので、これからそれ
を戦い取らなければならない」。競争戦でその「補償条件」を「戦い取る」
ことができない諸資本は過剰資本となる。「競争戦」が激化すれば、「新たな、
独立に機能する追加資本」等の諸資本は、「補償条件」を獲得することがま
すます困難になり、ますます過剰資本への道を歩まざるを得なくなる。かく
て、資本蓄積に伴って「分散した小資本の大群」・「新たに形成される資本の
若枝」が増大していくと同時に、相対的過剰人口もますます増大していく>。
 前畑氏は、「諸資本間の競争戦」において、過剰資本が充用される(つま
り過剰資本と過剰人口とが結合される);したがって過剰資本と過剰人口の

ー76ー

双方が減少する、と考える。マルクスは、「諸資本間の競争戦」において、
「分散した小資本」・「資本の若枝」・「新たな、独立に機能する追加資本」等
の諸資本等の一部が「資本主義的生産過程の『健全な』『正常な』発展が必
要とするような『搾取度』で労働を搾取する」ことが可能な充用場所を獲得
できず、それらは過剰資本・過剰人口とならざるを得ず、しかもそのような
運命を辿る過剰資本が増大して行かざるを得ないと考えているのである。
 前畑氏の説明の通りに、「諸資本間の競争戦」において、「分散した小資本」・
「資本の若枝」・「新たな、独立に機能する追加資本」等の諸資本が過剰人口
を充用し、その結果過剰人口が減少すると考えるのであれば、それは、過剰
人口と結合される「分散した小資本」・「資本の若枝」・「新たな、独立に機能
する追加資本」等の諸資本も減少して行き、その結果それら資本が競争戦で
敗退して過剰資本として累積しないと考えることができるであろう。しかし、
繰り返して言うが、そうした理解は、『資本論』のマルクスの意図とは異な
る理解である。マルクスは、<生産力の発展・資本蓄積→・・・→諸資本間の
競争戦の展開>が進行する過程において、「資本主義的生産過程の『健全な』
『正常な』発展が必要とするような『搾取度』で労働を搾取する」ことがで
きない諸資本、すなわち過剰資本がますます増大していく、そして、同時に
このような過剰資本のもとで雇用される過剰人口もますます増大していくと
考え、そして、このような事態の推移の中に資本主義的生産の矛盾の拡大を
見出そうとしていたのである。
          (まつお・じゅん/経済学部教授/2008.11.10受理)

ー77ー

  

On Karl Marx's Concept of
"Actual Overproduction of Capital"

  

MATSUO Jun      

 Professor Noriko Maehata  and  I have been engaged in  discussions con-
cerning the understanding of the concept of “actual overproduction of
capital" as contained in Karl Marx's Das Kapital,Volume III. The discus-
sion originated in Professor Maehata's criticism (“'Law of the Tendency
of the Rate of Profit to Fall' and ‘Absolute Overproduction of Capital'
-An Issue in Research on the Theory of Crisis,'"EconomicSociety of Rikkyo
University (Rikkyo Keizai Gaku Kenkyu
),Vol.55,No.1, July 2001 ) of my un-
derstanding of “ actual overproduction of capital." I immediately re-
sponded in my paper entitled, “ 'Actual Overproduction of Capital ' and
'Absolute Overproduction of Capital ' -->A Response to the Criticisms of
Professor Noriko Maehata?" (St.Andrew's University Economic and Business
Review
, Vol. 43, No. 4, March 2002).
 In answer to my response, Professor Maehata published a second paper
entitled,“Law of the Tendency of the Rate of Profit to Fall and Crisis -
Regarding‘ Actual Overproduction of Capital' " ( Keizaigaku Kenkyu
(Hokkaido University
), Vol.56, No.2, November 2006 ). This second criti-
cism more clearly delineated the differences in our two views.
Specifically , the problems contained in Professor Maehata's understand-
ing of "actual overproduction of capital" became very clear. The purpose
of this present paper is to examine the problems in Professor Maehata's
understanding of “actual overproduction of capital."
 In her second paper, Professor Maehata explained the mechanism of
the occurrence of “actual overproduction of capital" in the form of the
following causal nexus: “increased producing powers of labor -->advance-
ment of the organic composition of capital --> fall in profit rate and

ー78ー

increased  mass of profit -->‘concurrence among capitals (“small split 
capitals"and“fresh branches of capital")'-->rapid absorption of relative
overpopulation and ‘reduction' in relative overpopulation(but not its
‘exhaustion') --> rise in wages -->diminished degree of exploitation of
labor -->rapid decrease in profit rate-->occurrence of'actual overproduc-
tion of capital' -->‘concurrence among capitals' ->'exhaustion' of rela-
tive overpopulation --> occurrence of ‘ absolute overproduction of
capital'." I cannot agree with Professor Maehata's explanation that “ac-
tual overproduction of capital" occurs as a result of the causal nexus:
“rapid absorption of relative overpopulation'-->rise in wages ->decrease
in mass of profit ? rapid decrease in profit rate."
 My disagreement is based on the following expositions of “actual over-
production of capital" contained in the manuscripts of Volume III of Das
Kapital
.(1)“Actual overproduction of capital" is the“overproduction of
means of production which may serve to exploit labor at a given degree
of exploitation.""A fall in the intensity of exploitation below a certain
point… calls forth disturbances and stoppages in the capitalist produc-
tion process, and the destruction of capital."(2)"Overproduction of capi-
tal is accompanied by more or less considerable relative overpopulation."
(3) The rate of profit is lowered through the process of “increased pro-
ducing powers of labor ? accumulation of capital." This process simulta-
neously creates relative overpopulation. (4) Relative overpopulation is
not employed by the surplus-capital. Even if employed, relative overpopu-
lation would be employed at a “low degree of exploitation," which would
"call forth disturbances and stoppages in the capitalist production proc-
ess, and the destruction of capital."
 Professor Maehata makes the following argument. “Faced with a de-
clining rateof profit,'smallsplit capitals'and'fresh branches of capital'
are used as capital (that is , these capitals are combined with relative
overpopulation),which gives rise to‘concurrence among capitals.' In the
process of 'concurrence among capitals,' overpopulation is used by capi-
tal newly trying to become independent and additions to existing capital.
As a result, overpopulation is reduced." However,this is not the thinking

ー79ー

of Marx. Marx's assertion is as follows.<The rate of profit will fall as 
increased producing powers and accumulation of capital advances.
However,at the same time,the mass of profit will increase. While the "in-
crease in the mass of profit compensates for the decline in the rate of
profit,"this"compensation"applies“only to the total social capitals and
to the big,firmly placed capitalists.The new additional capital operating
independently does not enjoy any such compensating conditions. It must
still win them." If they cannot“win them" through competitive struggle,
these capitals become excess capital. If concurrence among capitals be-
comes intensified, an even greater number of “small split capitals" and
“fresh branches of capital" (in other words, capital newly trying to be-
come independent and additions to existing capital) that are unable to“
exploit labor at the ‘intensity of exploitation' necessary for the
‘sound' and ‘normal' development of the capitalist production process"
( Maehata ) become excess capital. At the same time, the excess popula-
tion employed by excess capital will continue to increase.>
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー80ー