『経済経営論集』(桃山学院大学)第48巻第3号、2006年11月

 

『資本論』第2部「第8草稿」後半部分
においてマルクスは何を考察しているか
 

 

松 尾   純        

 

 

 I. はじめに
 マルクスはどのような恐慌論の体系を構築しようとしていたのかという問
題について、長期にわたってさまざまな論争が行われてきた。その中心論点
の1つは再生産論と恐慌論との関係である。この問題を巡る論争が、最近、
富塚良三氏と大谷禎之介氏との間で再燃しつつあるが, その中心論点の1つ
は、『資本論』第2部第3篇の再生産論と「再生産過程の攪乱」との関係で
あり、もう1つは、『資本論』第2部第3篇の再生産論といわゆる「 内在的
矛盾」との関係である。
 第1の論点、『資本論』第2部第3篇再生産論と「再生産過程の攪乱」の
関係について、富塚氏は、『資本論』第2部第3篇再生産論においてマルク
スは「再生産過程の攪乱」を論じようとしていたと主張する。そして、『資
本論 』第2部 初稿 第3章 最終節 = 第9節「再生産過程の攪乱」に記載の
「”Zu betrachten ch.VII,Buch III.”『第3部第7章を考慮すべきである。』
という指示書き」について次のように解釈する。すなわち、それは、マルク
スが「『 第3部第7章』でヨリ具体的な 問題視角からする本格的な論述を行
うことを予定し、それを念頭におきそれとの対応を考慮しながら、 第2部第
3篇の論理段階において可能なかぎりで、それに固有の視角から、『再生産


キーワード:再生産論、恐慌、内在的矛盾、再生産過程の攪乱
ー1ー

過程の攪乱』の問題を論じようとしていた」1)ことを示すものである、と。
これに対して、大谷氏は、『資本論』第3部第7章においてマルクスは「再
生産過程の攪乱」を論じようとしていた、ただし、『資本論』第2部第3篇
再生産論においてもマルクスは「再生産過程の攪乱」を論じようとしていた
と主張する。そして、『資本論』第2部初稿第3章最終節=第9節「再生産過
程の攪乱」に記載の ”Zubetrachten ch.VII, Buch III. ”という指示書き
について次のように解釈する。すなわち、それは、「第2部第3章で『再生
産過程の攪乱』を考察するのだが、この問題は…さらに第3部第7章でもこ
の問題を考察しなければならない」2);「第2部第3章では…再生産過程の攪
乱について主題的に論じるが、しかし、この問題はさらに第3部第7章でも
考察しなければならない」3)とマルクスは考えていたことを示すものである、
と。
 以上が、第1論点を巡る両氏の論争である。筆者の見るところ、両氏の意
見の対立は、現行『資本論』第2部第3篇(あるいは第3部第7章)におい
てマルクスは「再生産過程の攪乱」問題を論じようとしているのか、それと
も、論じようとしていないのかという点にあるのではなくて、本当は、現行
『資本論』の第2部第3篇および第3部第7章においてマルクスは「再生産
過程の攪乱」問題を、どのような分析視角から、また、どの程度主題的に論
じようとしていたのかという点にあると言うことができる。
 このような論争状況を解決するためには、勿論「再生産過程の攪乱」とは
何かということがまず了解されていなければならないが、しかし、それ以前
に、富塚・大谷両氏が共に自説の典拠としている『資本論』第2部第21章
「蓄積と拡大再生産」の草稿(第8草稿46〜71ページ4))においてマルクスが


1) 富塚良三『『資本論体系4 資本の流通・再生産』第U部「論点」第9論文Aの補
説、297ページ。
2) 大谷禎之介「『 betrachtenすべき』は『再生産過程の攪乱』か『第3部第7章』
か」『経済志林』第70巻第3号、2002年12月、254ページ。
3) 同上、231ページ。
4) 本稿において『資本論』第2部第8草稿46〜71ページ部分(現行『資本論』第

ー2ー

どのような論述をしているのかということが確認されていなければならない
のではなかろうか。そして、そのためには、同草稿の論述を忠実に追跡して、
そこでの議論の流れを追うことによって、マルクスが、そこで、何を、どの
ように、考察しているのかということを確認する地道な作業をする必要があ
る。
 富塚・大谷両氏の論争のもう1つの論点は、『資本論』第2部第3篇再生
産論といわゆる「内在的矛盾」の関係であるが、この問題について、富塚氏
は、『資本論』第2部第 3篇再生産論においていわゆる「 内在的矛盾」が論
じられるべきであると主張し、大谷氏は、『資本論』第2部第3篇再生産論
においていわゆる「内在的矛盾」を論じようとする意図はマルクスにはなかっ
たと主張する。
 富塚氏は、『資本論』第2部の「註32の『覚え書』に記されているところ
の、『生産と消費の矛盾』によって社会総体としてみた『商品資本の、した
がってまた剰余価値の実現』が『限度づけられ制限される』といった内容の
論述が『次の篇』すなわち第3篇に属すべき問題」である5)と主張し、これ
に対して、大谷氏は、「当該の部分で『内在的矛盾』…について述べられて
いたわけではなかった」;「この部分を、『内在的矛盾』の問題は第3篇に属
する、とマルクス自身が明言している箇所と見なすことができない」6);「こ
こ[注32の「覚え書」]では剰余価値の実現による生産の制約について述べ
られている」が、「それこそまさに、『第3章 流通過程および再生産過程の
実体的諸条件』、すなわちのちの第3篇の問題」である7)、と主張する。


2部第3篇第21章相当部分)を引用・参照する場合、大谷禎之介「『蓄積と拡大
再生産」(『資本論』第2部第21章)の草稿について――『資本論』第2部第8稿
から――」(上)、(下)、『経済志林』第49巻第1号、第2号、1981年7月、10月
の解読原文・訳文・訳注を使用・参照することにする。引用に際しては、引用箇
所を大谷氏訳稿のページ番号を引用文末に示すことにする。
5) 富塚良三「再生産論の課題〔V〕――『資本論』第2部第2稿第3章の再生産論
ついて――」『経済志林』第44巻第2号、2002年12月、28ページ。
6) 大谷禎之介「『資本論』第2部注32における第3篇への指示について」、マルクス・
エンゲルス・マルクス主義研究者の会/2001年次第17回例会「恐慌論シンポジウ
ム」質問・コメント集、2002年5月、13頁。

ー3ー

  見られるように、富塚・大谷両氏は、「注32の『覚え書』」記載事項が『資
本論』第2部第3篇再生産論に属する問題であるという点では認識を共有し
ているが、 しかし、 富塚氏は、「覚え書」に記述されているのはいわゆる
「内在的矛盾」であると見るのに対して、大谷氏は、「覚え書」では「『内在
的矛盾』…について述べられていたわけではなかった」と見る。
こうした見解の違いは、言うまでもなく、「注32の『覚え書』」の読み方の
違いに起因しているのであるが、そのような読み方の違いは、実は、エンゲ
ルス版『資本論』第2部第2篇注32の文言「nie」をめぐる文献解読・解釈
の違いに起因しているのである。すなわち、富塚氏は、エンゲルス編集の通
りに「nie」と解読することによって マルクスの論述の意図を正しく読み取
ることができると主張し、大谷氏は、 エンゲルス編集版の解読「nie」は誤
りであって、それはマルクスの意図を正しく反映していない;「nie」は正し
く「nur」と解読されなければならないと主張する。そして、 これらの主張
を根拠に、 両氏はそれぞれ、 『資本論』第2部第3篇再生産論といわゆる
「内在的矛盾」の関係について次のように主張される。すなわち、富塚氏は、
「nurと読む場合のその叙述は、『(生産される)剰余価値が実現される範囲
内でのみ生産の潜勢力は充用される』ということを内容とするもの」となる
が、 それは「資本制的生産の論理としては成立しえない命題」である8)
「nur」と読んだ場合、「文章の前後のつながり」が 「不自然」なものにな
9)、と主張する。 これに対して、大谷氏は、 nieをnurと訂正して読むこ
とによって、「覚え書」で説明されているのは「生産の諸力能は剰余価値の
実現が可能なかぎりにおいてしか充用されえない」10)という命題であること
が明確になる;この問題こそ「『第3章 流通過程および再生産過程の実体


7) 大谷禎之介「『ではけっしてない(nie)』か『でしかない(nur)』か――マルク
スの筆跡の解析と使用例の調査によって――」、『経済志林』第71巻第4号、2004
  年3月、7ページ。
8) 富塚、同上、38ページ。
9) 同上、36−37ページ。
10) 大谷、同上、6ページ。

ー4ー

的諸条件』、すなわちのちの第3篇の問題」である11)、と主張する。
見られるように、富塚氏は、「覚え書」中の文言nie / nurを「nie」と解
読した方が「文章の前後のつながりや全体としての流れへの留意、とりわけ
経済学的な内容の読みとり」・「前段の文とのつながり、ないしは対応」が
「自然」なものとなると主張することによって自説を根拠づけしているが、
これを逆に表現すれば、 「nur」と読んだ場合「文章の前後のつながり」が
「不自然」なものになるということである。しかし、氏がこのように判断さ
れる基準は、どうやら、『資本論』第2部第3篇再生産論に関して富塚氏が
どのような意義づけを与えているかということに求めることができる。つま
り、nieか nurか という文言の解読・解釈の違いは、実は、再生産論に対し
て富塚・大谷両氏がそれぞれどのような意義づけを行なっているかというこ
との結果であると見ることができる。すなわち、論争点を巡る両氏の主張の
違いは、結局は、『資本論』第2部第3篇再生産論に対する両氏のそれぞれ
の理解の仕方の違いに起因するのである。<再生産論と内在的矛盾の関係を
どう見るか>という最初の問題に考えるために持ち上がった論争点 (nieか
nurか という問題)に答えるために、最初の問題すなわち<再生産論と内在
的矛盾の関係をどう見るか>という問題に対する「回答」が持ち出されてき
ているただけなのである。
 恐慌論体系における『資本論』第2部第3篇再生産論の位置を明らかにす
るために、まず最初に再生産論といわゆる「内在的矛盾」の関係が問われた
のであるが、これに答えるために、『資本論』第2部第2篇の「注32の『覚
え書』」をどう解読・理解するかという問題が持ち出された。ところが、こ
の「覚え書」の読み方を 根拠づけるために、今度は、 再生産論といわゆる
「内在的矛盾」の関係をどのように考えるかという<最初の問題>に対する
「答え」が持ち出され、議論がぐるぐる回っているだけのことである。
 われわれは、もはやこのような論点の変転に振り回される必要はないであ


11) 大谷、同上、7ページ。

ー5ー

ろう。<最初の問題>に真っ正面から答えるべきである。そのためには、ま
ず、『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿(「第8草稿」46〜
71ページ)においてマルクスが実際何を考察しているかを明らかするべきで
ある。『資本論』第2部第3篇においてマルクスが何を考察する「予定」で
あったかとか、あるいは、『資本論』第2部第3篇においてマルクスが何を
考察する「はず」であったとか、あれこれ推定するのではなく、『資本論』
第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿(「第8草稿」46〜71ページ)に
おいてマルクスが実際に何を考察しているかという実相を正確に予断・予見
を入れずに把握することが肝要であると考える。
 そこで、以下本稿では、上記論争を検討する準備作業として、論争当事者
が自説の典拠とする『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿
(「第8草稿」46〜71ページ)において、マルクスが、何をどのように考察し、
どのような分析結果を引き出しているかを明らかにするために、草稿におけ
る議論の流れ(下記@〜J)を忠実に追って――したがって、些末な脇道の
議論には深く立ち入らずに――その論述内容を逐次確認する作業を行うこと
にしよう。

U.『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿(「第8草
稿」46〜71ページ)における論述

 @『資本論』第2部第8稿46〜71ページから現行版『資本論』第2部第3
篇第21章(拡大再生産論)相当部分が編集されているが、その冒頭にマルク
スは、「先取り。U)蓄積または拡大された規模での生産」(上、31)という
標題を掲げている。この箇所以下の論述が「蓄積と拡大再生産」論であるこ
とを示すものと言える。
 冒頭に「1)」と記載された叙述部分の冒頭で(草稿46ページ)、マルクス
は、『資本論』第1部において個別資本の蓄積に関して考察したことを再確
認している。「1)第1部では、 蓄積が個々の資本家については次のように
現れる……こと」、すなわち「彼の商品資本を貨幣化するさいに彼はこの商

ー6ー

品のうち剰余価値を表示する…部分をそれによって貨幣に転化させるが、そ
れを彼はふたたび彼の生産資本の現物諸要素に再転化させるというように現
れること、つまり、実際には現実の蓄積とは拡大された……規模での再生産
であること」を明らかにした(上、32)、と。そして、この内容を数値例で
次のように説明する。すなわち、「ある個別資本が500で、 年間剰余価値が
100(つまり商品生産物は 400c+100v+100m)だとすれば、 600が貨幣に転
化され、そのうちの400cは ふたたび前貸不変資本の現物形態に、100vは労
働力に転換され、そして――蓄積の場合には…、 それに加えて、 100mが商
品形態から貨幣形態に転換された《のちに》、さらに生産資本の現物諸要素
への転換によって追加不変資本に転化させられる」(上、32〜33)、と。マル
クスも述べているように、これらの内容すべては、すでに『資本論』第1部
で明らかにされたものであり、ここで再度の解説を要しない論述である。こ
れに続く叙述で(草稿46ページ)、マルクスは、個別資本の蓄積に関して重
要な問題(「潜勢的な貨幣資本の形成」問題と「拡大再生産の諸要素の潜勢
的存在」)を指摘している。1つは、「現実の蓄積――拡大された規模での生
――が始められるようになるまでには、もっとずっと長いあいだにわたる
剰余価値の貨幣への転化と貨幣での積立てとが必要」(上、33)であるとい
う問題であり、もう1つは、蓄積・拡大再生産が始められるためには、「
勢的にこの再生産[拡大再生産――松尾]の諸要素が現に存在するようになっ
」(上、33)いることが必要であるという問題である。 これらの事柄も、
すでに先行箇所で事実上指摘されていたことである。
A冒頭に「2)」と記載された次の草稿部分(草稿46〜47ページ)では、
マルクスは、 個別資本Aを事例として取り上げ、 資本家Aにおける剰余価
値の貨幣化とその積立て=潜勢的新貨幣資本の形成(蓄蔵貨幣)について詳
述する。そして、この考察部分の最後に次の問題を指摘している。すなわち、
蓄蔵貨幣のためには「貨幣は、商品を売ってもそのあとで買わないことによっ
て、流通から引き上げられ」(上、38)なければならない。しかし、それが
一般的に行われるものと考える場合には、買手がどこからやってくるとい

ー7ー

うのかわからないように見える」(上、38)、と。ところが、このように問題
を提起しながら、ここでは、 マルクスは直ちに問題の解明に深入りせずに、
「この外観上の困難をさらに詳しく解決する前に、 まず部門I(生産手段の
生産)での蓄積と部門U(消費手段の生産)の蓄積とを区別しなければなら
ない。部類Tから始めよう」(上、40)と述べるだけで、次の番号「3)」で
始まる草稿部分(草稿47〜55ページ)に問題を先送りしている。
B冒頭に「3)」と記載された次の草稿部分(草稿47〜55ページ)の最初
の部分(草稿47, 51ページ)では、部門I内部の2つの資本群(資本A, A’
, A”,等々と資本B, B’, B”,等々)の間の転換による剰余生産物の貨幣化
とその積立て(=貨幣蓄蔵の形成)、潜勢的貨幣資本の現実的投下=追加不
変資本の形成について述べられている。すなわち、「3)部門Tを構成して
いる多数の産業部門での諸投資も、それぞれの特殊的産業部門内部でのさま
ざまな個別的投資も、…それぞれの年齢、すなわち機能期間に応じて、それ
ぞれ、剰余価値が《次々に》潜勢的な貨幣資本に転化していく過程のさまざ
まな段階にある」(上、40)。「1部分は…積み立てられた貨幣で生産手段
不変資本の《追加的》諸要素――を買っているが、他方、他の1部分はまだ
自分の潜勢的な貨幣資本の積立てをやっている」(上、40)。「資本家たちは、
この2つの部類のどちらかに属して、一方は買い手として他方は売り手とし
て…互いに相対している」(上、40〜41)。「この操作は、Aの側〔で行〕な
われるだけ《でなく》、流通表面…の多数の点で他の資本家A’, A”, A”,
等々によっても行なわれる」(上、42)。
このように述べることによって、マルクスは、先の「買手がどこからやっ
てくるというのかわからないように見える」という問題に答えている。
 これに続く叙述部分(草稿 51ページ)では、資本A, A’, A”, 等々の剰
余生産物が、資本B, B’, B”,等々との転換を通じて販売され、どのように
蓄蔵貨幣の形成が行なわれるかが考察される。すなわち、「部門Tの内部だ
けでの流通を考察している当面の場合には、剰余生産物の現物形態は、…部
門 I の不変資本の1要素という現物形態である、すなわち生産手段の生産手

ー8ー

という範疇に属する。それが買い手であるB, B’, 等々の手のなかでどう
なるか…は、すぐに見るであろう」(上、44)。「当面の場合には、この商品
はその現物形態…から見て、 B , B’の不変資本の要素…としてはいる」が、
これについては、「剰余生産物の買い手であるB等々に掛り合うときに、もっ
と詳しく述べよう」(上、45)、と。
ここで述べられていることはこうである。すなわち、資本A, A’,A”,
等々は自己の剰余生産物(現物形態は部門 Iの不変資本の1要素)を資本B,
B’,B”,等々に売るが、資本B,B’,B”,等々は貨幣を流通に投げ入れて商
品だけを流通から引きあげることによって、資本A,A’,A”, 等々は貨幣
蓄蔵が可能になる。売られた商品は、資本B,B’,B”,等々の不変資本の要
素になるが、もっと詳しいことは後で述べるとされている。
 これに続く論述(草稿 51〜52 ページ)は、以上の議論の流れから離れた
「岐論」になっている。すなわち、「ついでに、…ふたたび、次のことを述べ
ておこう」(上、46)という注意書きから始まる叙述で、そこでは、商品の
売買過程に内在する販売と購買の分離の可能性に基づく「恐慌の諸可能性」
について種々説明されている(上、46〜52)。
この「岐論」とも言うべき論述に続く草稿部分(草稿52〜53ページ)では、
部門 Iの追加不変資本に関わる潜在的貨幣資本の形成とその貨幣資本の現実
的資本への投下について考察が継続されている。すなわち、「この剰余生産
物を次々と売っていくことによって、資本家たちは蓄蔵貨幣、《追加的な》
潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には、この剰余価
値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余
生産物は、 B,B,’B”,《等々》(I)の手のなかではじめて追加不変資本
して機能する」(上、54)。ところで、このA,A’,A”(I)の資本家たちの
「生産手段の生産手段というかたち 」で存在する剰余生産物は、 果たして
どこから出てくるのか。「この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造
するのに追加資本が動かされたわけでもなく、また単純再生産の基礎の上で
支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもない」(上、54)。

ー9ー

単純再生産を前提する場合には、「充用される剰余労働」は「cU)をその
現物形態でふたたび補填すべき生産手段」(上、54)を生産する形態で支出
されるのであるが、 いまやA, A’, A”(I)の資本家のもとで「充用され
る剰余労働」は違った形態で支出されるのである。追加的な潜勢的貨幣資本
の形成が可能となるためには、A, A’, A”(I) の資本家のもとで充用さ
れる「剰余労働は、 Uのために機能すべき、 またそこでcU)となるべき
産手段の生産にではなくて、生産手段 (I) の生産手段支出 」(上、54)
されていなければならない。
 以上は I のA,A’, A”の側からの事態の考察であるが、これに続く草
稿部分(草稿54ページ)では、剰余生産物を買うIのB,B,’B”側で結果と
して起きる事態が考察されている。すなわち、「剰余生産物の売り手である
A, A,’ A”,等々(I)に《とって》は、この剰余生産物は生産過程の直接
の結果であって、この生産過程は単純再生産の場合にも必要な、不変資本と
可変資本との前貸のほかにはなにも流通行為を前提しないのであり、さらに
彼らは、拡大された規模での再生産の実体的基礎……を供給し、事実上、
能的追加不変資本をつくりだすのであるが、これにたいしてB, B,’B”,
(T)は違った事情にある。1) 彼らの手によってはじめて、A, A’, A”,
等々 (I) の剰余生産物は実際に追加不変資本…として機能する。 2)だが、
この剰余生産物が彼らの手にはいってくるためには、流通行為が必要なので
あって、…彼らはこの剰余生産物を買わなければならない」(上、63)。
言われていることはこうである。A, A’, A”,等々(I)にとっては、生
産手段という現物形態の剰余生産物は彼らの生産過程の直接の結果であって
彼らは、こうして拡大された規模での再生産の実体的基礎を供給するのであ
るが、しかし、それは、可能的追加不変資本をつくりだすだけであり、AA’
A”,等々 (I) の剰余生産物は、B, B’, B”,(I)の手によってはじめて
実際に追加不変資本として機能することができるようになる。だが、そのた
めには、B, B’, B”,(T)がこの剰余生産物を買わなければならないと。
これに続く草稿部分(草稿54〜55ページ)では、マルクスは、上記文中の

ー10ー

「2)」の流通行為のための貨幣の問題(B,B',B",(I)等側がA, A',A",
( I )側から剰余生産物を買うための貨幣は何処からくるかという問題 )を
提起する。すなわち、「この流通行為のために必要な貨幣はどこからやって
くるのか?」(上、64);「それはさておき、あの貨幣はどこからやってくる
のか?」(上、65)、と。この問題に対するマルクスの答えはこうである。
「われわれがすでに単純再生産の考察から知っているように、TとUとの資
本家たちの剰余価値(ないし剰余生産物)を転換するためには、彼らの手中
に、ある量の貨幣がなければならない。以前の場合には、収入への支出、消
費手段への支出に役だっただけの貨幣が、資本家たちが各自の商品の転換
ために前貸しした度合いに応じて、彼らのもとに帰ってきた。今度も同じ
がふたたび現われるのであるが、しかし今度はその機能が違っている。A
たちとBたちとは( I )、 剰余生産物を追加的な可能的貨幣資本に転化する
ための貨幣をかわるがわる供給しあうのであり、また、新たに形成された貨
幣資本を購買手段としてかわるがわる流通に投げ返すのである」(上、66)。
拡大再生産の物質的基礎である T 部門の剰余生産物の転換を可能にする
「貨幣」の問題に対してこのような答えを与えたのであるが、しかし、問題
はまだ半分しか考察されていない。というのは、これまでのところ、T部門
の剰余生産物の追加的不変資本への転化のための貨幣が考察されただけだか
らである。「これまでは《追加》不変資本だけを問題にしてきたので、今度
追加可変資本の考察に転じなければならない」(草稿55ページ;上、70)。
 C冒頭に「4)」と記載された次の草稿部分(草稿55、57ページ。56ペー
ジは存在しない)では、追加的可変資本の形成に関わる剰余生産物の転態の
考察が行われる。部門TのA,A',A",等々が剰余生産物を部門UのB,B',
B”, 等々に売って貨幣を入手しその貨幣を蓄蔵する転換過程を考察する。
すなわち、「4)これまでわれわれは、A, A’, A”,等々(I)が彼らの剰
余生産物をB, B’, B”,等々( I )に売ることを前提してきた。しかし、
[以下では――松尾]A( I )が、B( U )への販売によって自分の剰余生
産物を貨幣化する、と仮定しよう。このことはただ、A( I )がB(U)に

ー11ー

生産手段を売るが、そのあとで消費手段を買わない、ということによっての
み、つまりAのほうの一方的な販売によってのみ、行なわれることができる」
(上、72)。
この論述の途中(草稿57ページ)、マルクスは、上記過程に伴って発生す
る「過剰生産」問題を指摘し、以下、この「問題」の解決を目指して考察を
進めていく。すなわち、「ところで、 c(U)が商品資本の形態から不変資本
の現物形態に転換されるのは、‖57| v( T )だけではなくm( T)の少な
くとも1部分もまたc( U )(これは消費手段の形態で存在する)の1部分
と転換される ことによってのみ 可能であり、 それゆえ いまAが自分のm
( I )を 貨幣化するのは、この転換が行なわれないことによって――すなわ
ちA( T )が自分のm( T )の販売で手に入れた貨幣を、商品cUの購買で
〔商品に〕転換するかわりに、流通から引きあげることによって――なので
あるが、そのかぎりでは、A( T )のほうではたしかに可能的追加貨幣資本
の形成が行なわれるが、しかし他方ではB( U )の不変資本のうち価値の大
きさから見てそれに等しい1部分が、不変資本…の現物形態に転換されるこ
とができないまま、商品資本の形態で動きが取れなくなっているわけである。
換言すれば、Bの商品の1部分が――そして、一見して明らかに、この部分
が売れなければBは自分の不変資本を全部は生産的形態に再転化させること
ができないのに――売れなくなったのであり、それゆえまた、Bにかんして
は過剰生産が生じるのであって、この過剰生産は同じくBにかんして再生産
を――不変な規模での再生産でさえも――妨げるのである」(上、72〜73)。
 以上の議論を纏めると次のようになる。すなわち、A,A’,A”,等々(I)
が剰余生産物をB, B’, B”等々(U)に売ることを前提して、追加的不変
資本の形成を考察すれば、「AたちとBたちとは ( I )、 剰余生産物を追加
的な可能的貨幣資本に転化するための貨幣をかわるがわる供給し合う」こと
で問題が解決される。しかし、A, A’,A”,等々( I )が剰余生産物をB,
B’,B”等々( I )に売ることを前提して、追加的可変資本のための追加的
可能的貨幣資本の形成を考察すれば、「貨幣をかわるがわる供給」するとい

ー12ー

う回答は無効となる。というのは、Bの側に過剰生産が発生するからである。
 見られるように、ここで、マルクスは、「過剰生産」問題を指摘している
が、なぜか、彼は、直ちには問題の解決に向かわずに、考察対象を「部門U
での蓄積」に移している。すなわち、「この点についてはここでこれ以上詳
しく論じることはしないで、次のことを述べておこう。……そのほかこの点
に関連する諸問題は、いま、部門Uでの蓄積がどのようにして行なわれるこ
とができるのかを見ることによって、さらに明らかになるであろう」(上、
76〜77)と。
Dこれに続く草稿部分(草稿57〜59ページ)は、「5)部門Uでの蓄積
と記載された箇所(草稿57ページ)から始まる。ここでは、部門Tの1000m
の半分の500mが蓄積されると仮定して、「U部門における蓄積」が考察され
る。そして、部門Uにおいて500c( U )が転換できなくなるという問題が指
摘される。
「a)…いま、 たとえば…500m( I )、 つまり剰余生産物Tの半分がふた
たびそれ自身不変資本として部類 I に合体されるとすれば、Iの剰余生産物
のうち I に保留しておかれる部分は、cUのどの部分をも補填することがで
きない。それは消費手段には転換されないで(そしてこの場合、TとUとの
あいだの流通のこの部分では、1000v( T )による1000c(U)の補填とは違っ
現実の相互的交換、 つまり諸商品の双方的場所変換が行なわれる)、I
《そのもの》の《なかで》追加生産手段として役だつべきものである」(下、
1 )。「‖ 58 |……だから、2000( v+m )( I )ではなくてただ1500( T)だ
けが、つまり( 1000v+500m ) I だけが、2000( c ) U)と転換可能である。
すなわち、500c( U )は、その商品形態から生産資本(不変資本) U に再転
化できないのである。したがって、Uでは過剰生産が生じることになり、そ
の大きさはちょうどTで行なわれた、生産Tの規模の拡大のための過程に対
応することになる」(下、2)。
この「過剰生産」問題が発生する原因をマルクスは承知していた。すなわ
ち、「そのさい考えるべきことは、Tでは単純再生産が行なわれただけだと

ー13ー

いうこと、表式Tに見られる諸要素が――たとえば来年といった将来の拡大
を目的として――違うように配列ないし配置されているだけだということで
ある」(下、2)。つまり、「単純再生産」を前提にした数値例で拡大再生産
を考察すれば「問題」が発生するという訳である。そこで、次に(草稿58ペー
ジ)、マルクスは、「Tの諸要素の違った配置」のもとで拡大再生産を考察し
なければ上記問題が発生すると指摘する。すなわち、この問題は、「Tの諸
要素の再配列、違った配置(再生産にかんしての)だけに起因する1つの
自な現象」(下、7 )である。したがって、これとは「別の配置なしには、
およそ拡大された規模での再生産は行われえない」(下、7)、と。
Eこれに続く草稿部分(草稿 59〜 61ページ)では、マルクスは、上記の
「諸要素の違った配置」を提示し、拡大再生産の考察を進めていく。(因みに、
現行版『資本論』では、ここから「第3節 表式による蓄積の叙述」が始ま
る。)「諸要素の配置」が単純再生産を前提したものであれば、それは拡大再
生産の諸転換に「問題」をもたらす原因となるとマルクスは考えた。それゆ
え、マルクスは、拡大再生産を考察するために「諸要素の違った配置」( 「表
式a)」)を前提して、「さて、次の表式によって再生産を考察しよう」(草稿
59ページ;下、8)と述べて、以下諸転換の分析を進めていく。
 「a)T)4000c+1000v+1000m=6000
U)1500c+ 376v + 376m =2252 合計=8252」(下、8)。
この「表式 a ) 」には単純再生産の場合よりも小さい数値が使われている
が、それは、「拡大された規模での再生産…は生産物の絶対的大きさとは少
しも関係がないということ」(下、8)、「単純再生産の与えられた諸要素の
量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって、この変化が、そのあ
とに続いて行われる拡大された規模での再生産の物質的前提」(下、8 )で
あることを示すためである。以下、この「表式a)」を使って拡大再生産の
分析が行われる。すなわち、部門Iでも部門Uでも剰余価値の50%を蓄積す
ると仮定すると、「1000m( I ) の半分つまり500はいずれか一方の形態で蓄
積される(すなわち追加生産資本として、または可能的追加貨幣資本として

ー14ー

とどめられる)のだから、1000v+500m( I )だけが収入として支出される」
(下、11)。 この「1000v+500m( I )と1500c( U )とのあいだの転換は、
単純再生産の過程としてすでに述べた」(下、11)。「同様に4000c(I)も考
察にははいらない。というのは、……すでに論究したからである」(下、11)。
したがって、「ここで研究しなければならないものとして残っているのは、
500( I )と376v+376m( U )」(下、12)である。部門「Uでも同じく剰余
価値の半分が蓄積されることが前提されているのだから、ここでは 188が資
本に転化することになり、そのうち……47が可変資本……とすれば、不変資
本に転化されるべき 188−48=140が残る」(下、12)。
 以上の考察の後、「1つの新しい問題」(下、12)が指摘される。すなわち、
残された「‖ 60 | 140m( U )は、m( I )の諸商品のうちそれと同じ価値
額の1部分によって補填されることによってのみ、 生産資本に転化すること
ができる。……この補填はUの側での一方的な購買によってのみ行なわれる
ことができる」(下、13)。「Uは140m( I)を現金で買わなければならない
が、しかもそのあとで自分の商品を Iに売ることによって彼のもとにこの貨
幣が環流するということなしにそうしなければならない」(下、13)。しかし、
「そのための貨幣源泉はUのどこでわき出るのか?」(下、13)。
この問題に対する回答はこうである。すなわち、「Uは、新たな可能的貨
幣資本の形成のためには、……まったく不毛の地のように見える」(下、14)。
まず、Uv376は「貨幣蓄積の源泉ではない」(下、15)。というのは、「労働
力に前貸しされたこの 376の貨幣資本は、商品( U )が買われることによっ
て、貨幣形態にある可変資本という形態でたえず資本家Uのもとに帰ってく
る」(下、14〜15)だけであるからある。例えば、「賃金引き下げ」という方
法があるが、「376vを部門Uが支出すべき可変資本として前提している以上、
いま新たにぶつかった問題を説明するのに、Uが前貸しするのは 376vでは
なくて、《もしかしたら》350vでしかないかもしれない、などという仮定を、
にわかにこっそりと持ちこんでではならない」(下、16)。また、「名目上は正
常な労賃を支払いながら事実上は同じ労働者からその1部分を 《 相応の商

ー15ー

品》等価なしにくすねてふたたび取り返す、あるいは盗み《返す》」(下、
17)という方法があるが、それは1)と同じやり方であって、「ただそれが
変装され回り道をして実行されるだけのことである」(下、18)。次に、376
mUのほうはどうかというと、「もっと疑わしい」。というのは、「ここでは、
同じ部門の資本家たちだけが…消費手段を互に買い合い互に売り合っている
この転換に必要な貨幣は、流通手段として機能するだけであって、…当事者
たちがそれを流通に前貸しした程度に応じて彼らのもとに環流」(下、20)
してくるだけであるからである。
 F以上の考察に続く草稿部分(草稿61〜64ページ;下、21〜38)では、マ
ルクスは、「表式a)」と異なる数値の「表式B)」を使って再度拡大再生産
の分析を行っていく。
  T) 4000c+1000v+1000m=6000
合計=9000
U) 1500c+ 750v+ 750m=3000 (下、21)
 まず「Tで、剰余価値の半分、 つまり500が蓄積されると仮定」すると、
「われわれがまず受け取るのは1500c( U)と取り替えられるべき1000v+500
m( I )すなわち1500 T である。この場合には…I )4000c+500mが残り、
この後者の500mが蓄積されることになる。{ 1000v+500mTが 1500 cUと
き換えられるのは…すでに単純再生産のところで論じた。}」(下、22)。500
mIの蓄積のうち「400は不変資本に転化し100は可変資本に転化すると仮定」
(下、22)する。400mTの蓄積については既に論究した。「それはそのまま
c(T)に合体される」(下、22)。100mTの蓄積については、「U)のほう
では、蓄積のためにTから100m( T )を買い、それが《今度は》Uの追加
不変資本になるが、他方、U)が支払う貨幣はTの追加可変資本の貨幣形態
に転化する」(下、23)。すると、「T)は、4400c+1100v(貨幣で)5500
(下、23)となる。その結果、「U)は今では不変資本として1600cをもって
いる。これを処理するためにはU)は50を貨幣で労働力を買い入れのために
追加しなければならない。したがってUの可変資本は750から800に増大する。

ー16ー

そこで……U は次のようになる。 B) U) 1600c+800v+50m(50追加可変
貨幣資本のための在庫として) +100m (追加の100v Iのための在庫として)
+最後に600m (これは U〔 の資本家 〕自身の消費ファンドになる)」(下、
23)。このような諸転換の結果、次のようになる。
B)T) 4400c+1100v(+1500消費ファンドで)=6000
=9000
U) 1600c+ 800v(+ 600消費ファンドで)=3000
    因みに、この表式にマルクスは次のような説明を加えている。「われわれ
の出発点であった 9000 の生産物は、再生産のために、用途〔Bestimmung〕
から見てまた貨幣取引を考慮しないとして、つぎのように準備されている」
(下、25)12)、と。
 さらに、上記表式のもとで同じ道筋を辿って再生産を幾度か繰り返すと、
次のようになるとされている。
   T) 7045c+1982v(+消費ファンドで……)
   U) 2684c+1818v(+消費ファンドで……) (下、37)
 ここで(草稿64ページ)、マルクスは、出発表式と最後の表式とを比較対
照する。「はじめ可変資本不変資本1500 : 6000、つまり3 :12=1:4
であったが、今では 3800 : 9729、つまり 1: 2
2129
―――
3800
となっている。これは、

資本主義的生産の進行とは矛盾している」(下、37)。


12) 文 中に「 貨幣取引を 考慮しないとして 」という表現が 見られるが、 これは、
「貨幣取引」の要因を考慮しないで考察を進めていくということを意味するのであろ
う。貨幣問題が、 この断り書きが登場する前後の考察では 重要な要因ではないと
いうことであろう。こうした断り書きは他の箇所にも存在する。 例えば、「 これ
が行なわれれば( 貨幣はここではさしあたりわざと度外視する )、この取引の結
果として次のものが残ることになる。」(草稿62ページ;下、26)、「/ 69 / c)
9000 という生産物は、 500m ( T )が資本化されることになれば、 再生産のため
に次のような 配置を取らなければならない。そこで( ただ商品だけを考察するか
ぎり)次のようになる。」(草稿69ページ;下、60)。これらは、断り書きの登場
する論述箇所の前後では、 貨幣流通を重要な分析要因とせずに、 再生産の諸転換
を考察するというマルクスの姿勢を表わしているのであろう。

ー17ー

  以上の叙述部分に続く草稿部分(草稿64ページ;下、39)では、マルクス
は上記と異なる数値の表式(草稿でマルクス自身が数値を修正)を掲げてい
る。
   T) 5000c+1000v+1000m
   U) 1500c+ 250v+ 250m
  さらに、続く箇所( 草稿64ページ )で、上記と剰余価値率が異なるが、
「そのほかのすべての比率は……同じ」(下、40)である数値の表式を掲げて
いる。
   T) 4135c+ 827v+1238m
   U) 1800c+ 360v+ 640m  (下、40)
この表式を使用してマルクスは、上記と同じ仕方で拡大再生産の分析を続
けて、次のような表式(草稿65ページ)を得る。
   T) 4347c+ 880v+1320m
    U)  1953c+ 370 v+ 656
1
3
m     (下、43)
さらに、それに続く箇所(草稿65ページ)で、マルクスは、上記と異なる
数値の表式を掲げて、拡大再生産の分析を進める。
   T) 5000c+1000v+1000m
   U) 1430c+ 285v+ 285m   (下、44)
 この表式は、年間生産物が上記例と同じ9000であるが、「可変資本と不変
資本との一般的な平均比率が1:6[ 正しくは5 ]であるような形態をとっ
ている」(下、44)表式である。これは「資本主義的生産が、またそれに対
応して社会的労働の生産諸力がすでに著しく発展していること」(下、44)
を前提とする表式である。
以下、 この表式に基づいて 拡大再生産の分析が続けられる。 すなわち、
「いま、T){すなわち資本家階級T)}がmの
1
2
すなわち500を消費し、他
の半分を蓄積するとしよう。 この場合には、 1000v+500m15001500
(U)に転換される」(下、46〜47)。これに対応して、「Uではcは1430でし

ー18ー

かないから、1500の額に仕上げるには285m のなかから70を追加しなければ
ならない」(下、47)。その結果は、次のようになる。
   T) 5000c+500v(+消費ファンド1500)
   U) 1430c+ 70c+285v+215m    (下、47)
 「ここでは70m(I)〔すなわち70c(U)〕は直接にc(U)に合体され
るので、これは、この追加不変資本を動かすための可変資本として…14を必
要とする」(下、47)。その結果は、U)1500c+299v+201mである(草稿6
5ページ末尾;下、47)。
 Hこう述べた後、マルクスは考察を中断して(草稿69ページまで中断)、
拡大再生産のための転換 [(v+
1
2
m)I対cUの転換] について注釈を加
える。すなわち、「ここでいくつかの独自性を述べておく必要がある。とい
うのは、ここでは、(v+
1
2
m) I はc(U) によってではなく、cU・プラ
ス・mUの1部分によって補填されるのだからである。/蓄積を前提すれば、
v+m( I)はcUよりも大きいのであって、単純再生産でのように c U に等
しいのではないということは、自明である。というのは、……」(下、48)。
 この考察の中断中に(草稿67〜68ページ;下、50〜55)、さらに、「ついで
に」という断り書きの後、 次の問題、 すなわち<資本家たちは、労働者が
「自分の貨幣を支出する仕方や、労働力がこの貨幣を実現する商品について
は、しばしば御不満」である>という問題やそれに関連する幾つかの問題に
ついて注釈が加えられる。
 これに続く草稿部分(草稿68ページ;下、55)で、拡大再生産の考察に戻
るべくマルクスは次のように言う。すなわち、「 IがUの《追加》不変資本
を自分の剰余生産物のなかから供給しなければならないのと同様に、Uはこ
れと同じ意味でTのための追加可変資本を供給する。可変資本にかんするか
ぎりでは、Uは、自分の剰余生産物の、したがってまたとくに自分の剰余生
産物のより大きな部分を必要消費手段の形態で《再》生産することによって
Iのために、また自分自身のために蓄積するのである」(下、55)。「拡大す

ー19ー

る資本基礎の上で生産が行われる過程では、v+mT、イコール、c U・プラ
ス・剰余生産物のうち資本としてふたたび合体される部分・プラス・Uでの
生産拡大のために必要な追加不変資本部分、でなければならない。そして
の拡大の最小限は、それなしにはT自身での蓄積(実体的〔reell 〕蓄積)
<実行できないという大きさの拡大である」(下、56)。
 Iこれに続く草稿部分(草稿68ページ;下、56)で漸く、マルクスは、拡
大再生産の考察に戻っていく。
まず、すでに解決済みの部門間転換について説明する。すなわち、「 b)
考察した事例に返れば、この事例の特徴は、c Uが (v+
1
2
m)Iよりも、
すなわち cTのうち消費手段に置き換えられるべき部分――収入として支出
される部分――よりも小さいということ、したがって、1500(T)をそのよ
うに転換するために、剰余生産物( U )の1部分 ( =70 ) がそれによってた
だちに…(実現される)ということである。c U =1430 について言えば、そ
れは、Uでの単純再生産が行われうるために、同じ価値額の ( v+m ) Iに
よって補填されなければならない…のであり、そのかぎりでは…これ以上考
察する必要はない」(下、56〜57)。こう述べた後、マルクスは、草稿65ペー
ジ(下、47)で中断した箇所での拡大再生産の考察に戻っていく。すなわち、
「それを補う70m(U)のほうはそうではない。Tにとっては単なる、消費
手段による1500( I)の補填であり、単に消費を目的とする商品交換である」
(下、57)が、「Uにとっては…、Uの剰余生産物の1部分が消費手段の形態
から追加不変資本の形態に転化すること」(下、57)であり、「Tが70の貨幣
(剰余価値の転換のための貨幣準備)で70mUを買うとき、もしもUがそれ
にたいして70m( I ) を買わずに70を貨幣資本として蓄積すれば、この貨幣
資本は…たしかにつねに追加生産物の…表現ではあるが、しかし、Uの側で
のこの貨幣蓄積は、同時に、生産手段の形態にある売れない70m( I ) の表
現でもある。つまり、Uの側での再生産が同時には拡大されないことに対応
して、Iでの相対的過剰生産が生じることになる」(下、57)。

ー20ー

ここには、 前提された表式のもとで 拡大再生産の諸転換を行なった場合発
生する「過剰生産」問題が指摘されている。しかし、マルクスは、その問題
の解決に向かわず、「このことは度外視しよう」(下、57)と述べるだけで、
考察対象をU部門の別の問題に移している。すなわち、「I からきた70貨幣
がUの側からの70m(I)の購入によってIに帰ることがまだ行なわれていない
か、 または まだ部分的にしか 行なわれていない期間を通じて、 貨幣での
70は、その全部または1部分が、Uの手にある追加貨幣資本としての役を演
じる。云々……」(下、57)。
 これら叙述の後(草稿69ページ;下、60〜67)、マルクスは、出発表式に
戻って拡大再生産の考察を進めていく。すなわち、「c )9000という生産物
は、500m( I ) が資本化されることになれば、 再生産のために次のような
配置を取らなければならない。そこで ( ただ商品だけを考察するかぎり)次
のようになる」(下、60)。
  「1) 5000c+500m{(+1500の商品在庫)(+1000v(貨幣)〈)〉}{+
100Tのための追加可変資本のための貨幣}=7000の商品
   2) 1500c+299v+201m 合計、商品での2000
TおよびUの総計=商品での9000    」(下、60)
 蓄積に向けての諸転換を経たあと、次のようになる。
   T) 5400c+1100v
   U) 1600c+318v(+82)=2000 (下、60)
 これを前提に幾度か再生産が繰り返されれば、次のようになる。
  「T) 6200c+1220v
総資本(c+v)T+U=9688
   U) 1900c+ 368v(U)+ 208m 」(草稿69ページ末尾;下、66)。
 Jこの後(草稿70ページ;下、68)、再び、マルクスは、拡大再生産のた
めの諸転換の分析を止めて、拡大再生産に関わる部分問題に議論を移してい
く。まず取り上げられている問題は、拡大再生産の分析において最重要な、
[ 剰余価値の半分を 蓄積するという これまでの 数値例で言うと ] (v +

ー21ー

1
2
m)Tと(c+mの1部分)Uとの転換関係についてである。 まず、 マル
クスは次のように言う。すなわち、「|70| したがって、次のようないくつか
のケースがあるわけである」(下、68)。「単純再生産の場合。(v+m)T=c
(U)……蓄積の場合。……これまでの事例では、Tでの蓄積率がつねに
不変であって、
m
2
(T)が蓄積される ものと仮定した。 しかし、
m×3
――
4
けが拡大された生産で蓄積され、
m
4
は貨幣で蓄積されるものとした」(下、
68)。
 このうち「蓄積の場合」の論述は、拡大再生産の分析方法についての纏め
であるが、マルクスは問題をさらに一般化して次のように言う。すなわち、
「1)(v+
1
2
m)(T)=c(U)。このc(U)は(v+m)Tよりも小さい。
…/2)(v+
1
2
m)>cU。この場合には、Uが(c・プラス・mの1部
分)Uによって(v+
1
2
)mT [(v+
1
2
m )Tの誤記]を補填することによっ
分)て、補填が行われる。したがってこの額は(c
1
2
+m)T[(v+
1
2
m)Tの
誤記]である。この場合、この転換は U)にとってはその不変資本の単純再
生産ではなくて、すでに、Uの剰余生産物のうちUが生産手段Tと交換する
部分だけの大きさの不変資本の蓄積であり、同時にまた、Uがそれに応じて
自分の可変資本を自分自身の剰余生産物から補充することを含んでいる。/
3)v+
1
2
m)〔T〕<cU、この場合には、U はこの転換によっては自分
の不変資本をすっかりは再生産していないのであって、不足分のために Iか
ら買わなければならない。しかし一方では、そのために〔Uでの〕可変資本
のそれ以上の蓄積が必要になるわけではない。というのは、Uの不変資本は、
その大きさから見れば、この操作によっていまはじめて、すっかり再生産さ
れるのだからである」(下、68〜69)。

ー22ー

 この後、さらに、マルクスは、単純再生産の議論にまで立ち戻ってもっと
一般的にこの問題を論じようとする。すなわち、「1 ) 単純な蓄積 [=単純
再生産――松尾]では、…(c+v)(T)=c(U)であって、この場合には
単純な再生産が行われる。このことは、資本主義的生産とは両立しないだけ
ではない。…この場合には、逆に資本の蓄積は、つまり現実の資本主義的生
産は不可能である。……」(下、71)。「したがって、資本主義的生産では
 (v+m)Tがc(U)に等しいことはありえないのであり、言い換えれば、
相互の転換でこの両者が一致することはありえないのである」(下、73)。こ
の単純再生産の場合と違って、 蓄積 ・ 拡大再生産の場合には、 ――「 I
m
x
)をm《(I)》のうちIが収入として支出する部分だとすれば、(v +
m
x
Iはc(U)に等しいことも、それより大きいことも、小さいこともあ
りうる」が――「(v+
m
x
)I はつねに(c+m)Uよりも小さくなければな
らない」(下、73〜74)。
 次に、取り上げられている問題は、固定資本の価値移転の特殊性の問題で
あり、さらに拡大再生産に関わる幾つかの重要問題であるが、後者の拡大再
生産に関わる諸問題の1つとして、金生産者の剰余価値がT及びUの本源的・
追加的な貨幣源泉になるという問題が議論されている。すなわち、「cUの1
部分と交換される、金生産Tの(m+v)T」(下、76)は、「Uにとっての
本源的な貨幣源泉」(下、76)をなす。「金生産者がcUと交換する(v+m)
Tからは、Uのある種の生産部門が原料等々として、要するにその不変資本
の諸要素として――あるいはむしろこれらの要素の再補填のために――必要
とする《金》部分が差し引かれる」(下、76)。また、「金生産の剰余価値の
うち収入として支出されない部分は追加可変資本としてUにはいって、ここ
で新たな貨幣蓄蔵を促すか、あるいはまたI から買うための新たな手段を直
接に――直接に再びTに売ることなしに――与えるのである」(下、76)。
「TとUとの関係のなかでの一時的な――拡大再生産に先行する――貨幣蓄

ー23ー
のための要素は、次のような場合に生じる。Tにとっては、mTの1部分
がUの追加不変資本のためにUに一方的に売られる場合にのみ、生じる。U
にとっては、同じことがTの側で追加的可変資本について行なわれる場合に
生じる。同じくUにとっては、Tによって収入として支出される剰余価値の
1部分が c ( U )によって補填されず、したがってm( U)《部分》にまで
及び、この部分がそれによってただちに貨幣化される場合に生じる」(下、7
6)。
拡大再生産に関わるもう1つの問題は、再生産のための諸転換による貨幣
蓄蔵の問題である。「問題になるのは、Uの資本家たちの交換――m(U)
に関連しうるだけの交換――の内部でどの程度まで貨幣蓄蔵が行なわれうる
か、ということである。……Uの内部で直接的蓄積が行なわれうるのは、m
(U)の1部分が直接に可変資本に転化される(TでmTの1部分が直接に
不変資本に転化されるのとまったく同様に)ということによってである。U
のさまざまな事業部門のなかでも、また同一の事業部門のさまざまの構成員
(消費する構成員)についても、蓄積の年齢階層はさまざまであるが、必要
な変更を加えれば、Tの場合とまったく同様に説明される。一方のものはま
だ退蔵の段階にあって、買うことなしに売り、他方のものは拡大再生産の時
点(沸騰点 )に達している( 売ることなしに買う)。追加可変《貨幣》資本
はまず第1に追加労働力に支払われる。 しかしこの労働力は、貨幣蓄蔵をし
つつある人々…から生活手段を買う。彼らの貨幣蓄蔵の程度に応じて、貨幣
は彼らの手から出発点に帰ってこないで、彼らが貨幣を退蔵するのである」
(下、76〜77)。  

以上、われわれは、『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿
(第8草稿46〜71ページ)の論述内容を可能な限りマルクス自身の叙述に沿っ
て見てきたが、以下では、 その結果を踏まえて、草稿における様々に入り組
んだ議論を出来る限り論点整理をすることによって、マルクスが、果たして、
『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿(第8草稿46〜71ペー

ー24ー

ジ)の「再生産論」において、何を、どのように考察していたのかというこ
とを明らかにし、さらに、それを踏まえて、同所においてマルクスが、いわ
ゆる「 内在的矛盾 」や「 再生産過程の攪乱」の問題を主要課題の1つとして
論じていたのかどうかという本稿の問題を検討することにしよう。以下、叙
述順序(@→……→J)に従って見ていくことにしよう。

V. 『資本論』 第2部 第21章 「 蓄積と拡大再生産 」の草稿 において
「 再生産過程の 攪乱 」 やいわゆる 「 内在的矛盾 」 が 主題的に 論じ
られているか

@個別資本の蓄積問題に関わる前書き的叙述 ( 草稿 46ページ;上、31〜
35)
『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」の草稿(第8草稿46〜71ペー
ジ)の冒頭でマルクスは、個別資本の蓄積に関して『資本論』第1部ですで
に考察した論点を確認している。さらに、個別資本の蓄積に関して重要な問
題(@潜勢的な貨幣資本の形成問題とA拡大再生産の諸要素の潜勢的存在)
を指摘している。これらも先行箇所で事実上で指摘されていた論点である。
したがって、ここでの論述は、いわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程の
攪乱」と全く関係のない内容であると見ることができる。
A個別資本Aを事例にした蓄積に関わる諸問題(潜勢的貨幣資本の形成と
拡大再生産の諸要素)の考察(草稿46〜47ページ;上、35〜40)
冒頭に「2)」と記載されたこの草稿部分では、個別資本Aにおける剰余
価値の貨幣化とその積立て(潜勢的新貨幣資本=蓄蔵貨幣の形成)について
考察されている。この部分の最後、マルクスは、蓄蔵貨幣の形成は資本蓄積
にとって重要問題であることを指摘しているが、しかし、直ちにこの問題に
深入りせずに、ここでの論述を終えている。個別資本Aだけを事例にした分
析では問題を解明することができないと判断したからであろう。
したがって、ここでの論述も、いわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程の
攪乱」と全く関係がない内容であると見ることができる。

ー25ー

  BT 部門の剰余生産物の 追加的不変資本への転化の考察――資本群 A,
A',A" と資本群B,B',B" の取引を事例にして(草稿47,51ページ;
上、40〜44)
以上の論述では資本 A,A’,A”, 等々だけが分析対象とされてきたが、
今度はそこに資本B,B’,B”,等々を導入して蓄積の問題が考察される(草
稿46〜51;上、40〜46)。すなわち、資本A,A’,A”,等々は自己の剰余生
産物を資本B,B',B”,等々に売るが、 資本B,B',B”,等々は貨幣を流通
に投げ入れて商品だけを流通から引きあげる。これによって、資本A,A’,
A”,等々において貨幣蓄蔵が可能になり、売られた商品は資本B,B',B",
等々の不変資本の要素になる。
この論述に続いて、販売と購買の分離の可能性や恐慌の可能性について論
述され(草稿51〜52ページ;上、46〜53)、さらにそれに続いて、T部門の
剰余生産物の追加的不変資本への転化について考察される(草稿52〜55ペー
ジ;上、53〜72)。この考察に関連して、B,B',B”,(I)等の側がA,A',
A”,( I )の側から剰余生産物を買うための流通行為とそのための貨幣は何
処からくるかという問題が考察される。 この問題には、 資本家たちA及び
Bは、手中にある貨幣を「剰余生産物を追加的な可能的貨幣資本に転化する
ための貨幣をかわるがわる供給し合う」という回答が与えられる。
以上の論述内容から判断して、ここでの論述も、 いわゆる「 内在的矛盾」
や「再生産過程の攪乱」と関係がある内容を含んでいないと言えよう。
 CT部門とU部門の転態による追加的可変資本の形成の考察(草稿55, 57
ページ;上、72〜77)
これまでは、T部門の剰余生産物が追加的不変資本へ転化する問題だけが
考察されてきたが、以下では、追加的可変資本の形成問題を考察するために、
T部門とU部門の転態が考察される。すなわち、A,A’,A”,等々( I )が
彼らの剰余生産物をB,B’,B”,等々( U)に売ることによって、追加的可
能貨幣資本の形成がどのように行なわれるのかが考察される。 そのために、
「A( I )がB( U )に生産手段を売るが,後で消費手段を買わない」と仮定

ー26ー

される。ところが、その結果として「Bにかんしては過剰生産が生じる」こ
とが指摘される。このように「過剰生産」問題を指摘するが、なぜか、マル
クスは、その問題の解決を避けて論点を他に移している。「この点について
はここでこれ以上詳しく論じることはしないで、次のことを述べておこう。」
と述べて、問題を次の「5)部門Uでの蓄積」へと先送りしている。
見られるように、マルクスは、たしかに、部門Uにおける「過剰生産」問
題に言及しているが、しかし、ここでは、問題の存在を指摘するだけで、問
題について立ち入った議論を展開したり考察したりしている訳ではない。要
するに、マルクスは、ここで、いわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程の攪
乱 」の問題を主要課題の1つとして取り上げ、立ち入った議論を展開してい
る訳ではないと見ることができよう。
 D部門Uでの蓄積の考察(草稿57〜58;下、1〜8)
この草稿部分では、具体的な数値例を使ってU部門における蓄積が考察さ
れている。その議論の中で、部門Uの「過剰生産」問題が具体的な数値例で
指摘される。しかし、ここで指摘されている「過剰生産」問題は実際の再生
産過程におけるいわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程の攪乱」に関連する
事象ではなく、「単純再生産」を前提とする「諸要素の配置」の数値例(表
式)とは異なる「諸要素の配置」の数値例(表式)を仮定すれば発生しない
問題である。
したがって、ここでの論述は、現実の恐慌に関わるいわゆる「内在的矛盾」
や「 再生産過程の攪乱 」と関係がある内容であるとは言えないであろう。
 E拡大再生産が可能な「 諸要素の配置」(「表式a」)のもとでの蓄積の考
察(草稿59〜61;下、8〜21)
上記のような「過剰生産」問題が発生せず拡大再生産が可能な「諸要素の
配置」(「表式a)」)のもとで再生産過程の考察が進められる。現行版『資本
論』の「第3節 表式による蓄積の叙述」が始まる箇所である。論述の途中、
マルクスは「1つの新しい問題」を指摘する。部門Uにおける蓄積のための
貨幣源泉の問題である。しかし、マルクスはこの問題に回答を与えぬまま議

ー27ー

論を終えている。
したがって、ここで、マルクスは、いわゆる「 内在的矛盾 」や「 再生産過
程の攪乱 」の問題をまったく扱っていないとは言えない。 また、これらの
問題の取り扱いを先送りするとも述べていない。とはいえ、指摘されたこれ
ら「 問題」を真っ正面から取り上げ立入った考察を行なっている訳でもなく、
問題に正当な回答を与えている訳でもない。 問題の考察は、実際のところ、
あとに続く叙述部分に先送りされここでの論述が終わっている。
 F拡大再生産が可能な「諸要素の配置」(「表式B」)のもとでの蓄積の考
察(草稿61〜64;下、21〜29)
 ここでは、拡大再生産が可能な「諸要素の配置」を示す数値例・「表式B」
を利用して、拡大再生産の分析が行なわれる。幾度かの拡大再生産過程が繰り
返された後、マルクスは、出発表式と最後の表式とを比較対照し、「これは、
資本主義的生産の進行とは矛盾している」ことを指摘する。
ここでの論述には、たしかに「矛盾」という文言が登場するが、それは、
実際の再生産過程に「攪乱」を齎らす「矛盾」ではないし、いあわゆる「内在
的矛盾」の内容をなす「矛盾」でもない。与えられた数値例を利用して再生
産過程を繰り返した場合得られる結果と資本主義の進行に伴う実際の結果と
が食い違っているという事態をマルクスが「矛盾」という言葉で表現し指摘
しているだけであると考えることができる。
したがって、ここでの論述には、いわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程
の攪乱」の問題は一切登場しないと言うことができる。先行箇所で指摘され
た問題(部門Uの蓄積のための貨幣源泉の問題)もここでは一切言及されて
いない。もっぱら、具体的な数値例で構成された表式を使って再生産過程が
順次繰り返される事態が考察されているだけである。
G拡大再生産のさまざまに異なる数値例 ( 表式 ) のもとでの蓄積の考察
(草稿64〜65;下、29〜47)
さまざまに異なる数値例の表式を掲げて、拡大再生産の諸転換が説明され
ている。ここでの論述も、いわゆる「 内在的矛盾 」や「再生産過程の攪乱」

ー28ー

と全く関係のない内容であると言うことができる。
 H拡大再生産における(v+
1
2
m) I 対 cU の転換に関わる幾つかの注
釈(草稿65〜68;下、48〜56)
拡大再生産の分析が中断され、(v+
1
2
m)I 対cU の転換に関わるいく

つかの注釈が加えられている。したがって、ここでの論述も、いわゆる 「内
在的矛盾」や「再生産過程の攪乱 」の問題と全く関係がない内容であると言
うことができる。
 I拡大再生産が可能な「諸要素の配置」(「表式B」)のもとでの蓄積の考
察(草稿68〜69;下、56〜67)
「表式b)」のもとで拡大再生産が考察される。ここでも「過剰生産」の
問題が指摘されているが、しかし、マルクスは、問題の所在を指摘するだけ
で、その問題の解決に当たらずに、「このことは度外視しよう」と言うだけ
で議論を終え、その後、再度拡大再生産の考察を進め、再生産過程の繰り返
しを説明している。
ここでの論述では、たしかに「過剰生産」問題を指摘しているが、「この
ことは度外視しよう」と述べて考察を中断し、「 問題 」を論述の中心題と
して取り上げようとしていない。 したがって、ここでの論述も、 いわゆる
「 内在的矛盾」や「 再生産過程の攪乱 」の問題を主要課題の1つとして取り
扱っているとは言えない。
 J再生産に関する部分的な諸問題の考察(草稿70〜71;下、68〜78)
これまで具体的な数値例(表式)を用いて再生産を分析してきたマルクス
は、ここでその歩みを止めて、再生産に関する部分問題、( v+m )Tと c
(U)の関係、(v+
)Iとc(U)の関係等について考察する。 これに続

いて、固定資本への価値移転の特殊性の問題や拡大再生産に関わる幾つかの
問題を考察する。すなわち、金生産者の剰余価値(追加的な金)がT及びU
の本源的・追加的な貨幣源泉になるという問題、再生産のための諸転換によ

ー29ー

る貨幣蓄蔵の問題等である。
見られるように、ここでの論述も、いわゆる「内在的矛盾」や「再生産過
程の攪乱」を論じたものであるとは言えない。

 W.むすび
マルクスの恐慌論体系における再生産論と恐慌論との関係を巡る論争が、
富塚・大谷氏の間で目下行われているが、その中心論点の1つは、『資本論』
第2部第3篇の再生産論と「再生産過程の攪乱」との関係であり、もう1つ
は、『資本論』第2部第3篇の再生産論といわゆる「内在的矛盾」との関係
である。
本稿では、この論争問題に対する筆者の考え方を確認するためには、両氏
が主張の重要な典拠としている『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生産」
の草稿(「第8草稿」46〜71ページ)の論述内容を出来る限り正確に把握す
ることが必要であると考え、同草稿における議論の流れを出来うる限り忠実
に追跡することによって、マルクスが、同草稿において、何を、どのように
考察し、どのような分析結果を引き出しているかを明らかにする作業に努め
た。
この確認作業を受けて、次に、『資本論』第2部第21章「蓄積と拡大再生
産」の草稿(「第8草稿」46〜71ページ)において、マルクスは、いわゆる
「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」の問題を主題的に論じているのかど
うかという問題を検討した。その結果、同草稿において、マルクスは、いわ
ゆる「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」の問題を主題的に論じてはいな
いという結論を得ることができた。

(まつお・じゅん/経済学部教授/2006.09.26受理)

ー30ー

  

What was Karl Marx Examining in the Latter Half
of "Manuscript VIII" of Das Kapital Volume II?

MATSUO Jun

  


  There has been a  long debate on what kind of systematic theory of criー
sis Karl Marx was attempting to develop. A key issue in this debate has
been the relation between the theory of reproduction and the theory of
crisis. Recently, this debate has been reignited by Professors Ryozo
Tomizuka and Teinosuke Otani with a focus on two central questions.
The first question concerns the relation between the theory of repro-
duction in Marx’s Das Kapital Volume II Section 3 and “disturbances in
the process of reproduction”. Tomizuka has argued that Marx was at-
tempting to discuss “disturbances in the process of reproduction”in the
theory of reproduction in Das Kapital Volume II Section 3. On the other
hand, Otani has argued that Marx was attempting to discuss “distur-
bances in the process of reproduction" in “Das Kapital VolumeIII Chapter
7”;and that Marx was not discussing“disturbances in the process or re-
production” in the theory of reproduction in Das Kapital Volume II
Section 3.
The second question concerns the relation between the theory of repro-
duction in Das Kapital VolumeII Section3 and the so-called "internal con-
tradiction .” Tomizuka has argued that the “internal contradiction”
should have been discussed in the theory of reproduction in Das Kapital
Volume II Section 3. As opposed to this, Otani has argued that Marx had
no intention of discussing the"internal contradiction" as one of the cen-
tral themes in the theory of reproduction in Das Kapital Volume II
Section 3.
To properly evaluate thisdebate,I believe it is necessary to understand
as accurately as possible the contents of the manuscript of Das Kapital

ー31ー

Volume  II  Chapter 21 : “ Accumulation and  Reproduction on an Expanded
Scale” (“ Manuscript VIII” pp. 46-71), which constitutes an important
source in this debate.For this purpose, in this paper, I have followed as
faithfully as possible the flow of the discussions contained inManuscript
VIII , and have endeavored to confirm what and how Marx was examin-
ing in Manuscript VIII and what results he derived from his analysis.
Based on the outcome of this confirmatory process, I next examined
whether the problems of the so-called "internal contradiction” and "dis-
turbances in the process of reproduction” were treated by Marx as cen-
tral themes in the manuscript of Das Kapital Volume II Chapter 21 :
“ Accumulation and Reproduction on an Expanded Scale” (“Manuscript
VIII” pp. 46-71). As a result, I arrived at the following conclusion.The
problems of the so-called “internal contradiction" and “disturbances in
the process of reproduction ” were not treated by Marx as central themes
in the manuscript of Das Kapital Volume II Chapter 21: “Accumulation
and Reproduction on an Expanded Scale” (“ Manuscript VIII” pp. 46-71).