『経済経営論集』(桃山学院大学)第45巻第3号、2003年12月

 

マルクスにおける再生産論と恐慌論

 

           

松尾 純

I. は じ め に

 かつて、マルクスの「恐慌論体系の展開方法」をめぐって久留間鮫造氏と
富塚良三氏との間で論争が行われた1)。論争の出発点は、久留間氏編『マル
クス経済学レキシコン』恐慌篇(第6、7、8分冊)の 「 栞」であった。そ
こには、山田盛太郎氏以来の有力な考え方ー―再生産論といわゆる「 内在的

1)論争勃発当初の関連文献として次のようなものがある。
 久留間鮫造編『マルクス経済学レキシコン』第6,7分冊、恐慌T.U.,の「栞」、
 大月書店、1972年9月、1973年9月。 大谷禎之介「『内在的矛盾』の問題を再生
 産論に属しめる見解の一論拠について――『資本論』第2部注32 の『覚え書き』
 の考証的検討――」、『経済経営研究所研究報告』(東洋大学)第6号、1973年。
 富塚良三「恐慌論体系の展開について――久留間教授への公開質問状――」、『商
 学論集』第41巻第7号、1074年7月。二瓶敏「再生産論と『恐慌の一層発展した
 可能性』――表式における『内在的矛盾』把握の否定論によせて―― 」(大島雄
 一・岡崎栄松編『資本論の研究』、日本評論者、1974年)。久留間鮫造「 恐慌論体
 系の展開方法について(1)」(富塚氏への公開回答状)、『経済志林』第43巻第3号、
 1975年10月。富塚良三「 再生産論と恐慌論との関連について――久留間教授への
 公開書簡(その二)」『商学論纂』第17巻第3号、1975年9月。拙稿「『資本論』
 第2部「第1草稿」(1864−65年)について」『経済評論』、1975年10月号。 同
 「『恐慌論体系の展開方法』に関する一考察」『大阪市大論集』第24号、1976年3
 月。久留間鮫造「恐慌論体系の展開方法について(2)」(富塚氏への公開回答状)
 『経済志林』第44巻第3号、1976年10月。八尾信光「『剰余価値学説史』における
 恐慌の説明」『立教経済学論叢』第10号、1976年11月。拙稿「『資本論』第2部の
 論理構造と「恐慌の一層発展した可能性 」について 」『経済学雑誌』第76巻第1
 号、1977年1月。

ー115ー

矛盾 」 とを連繋させようとする見解――に対する疑問が提出され、富塚氏に
対する 暗示的・明示的な批判がなされていたが、 それに対して、 富塚氏が、
「久留間教授への公開質問状」 によって反論するに及んで論争が展開されるこ
とになった。論争で問題になった事柄は、「(1)再生産論と恐慌論との関係に
ついて。(2)均衡蓄積率の概念について。(3)《恐慌の必然性》の項を設けるこ
との是非について」2) 、の3点であった。論争は、その後も新たな情報 ・資料
を踏まえつつ継続され議論が深められてきたが、 最近になって再度活発化し
つつある3)。中心となる論者は、今度は、富塚良三氏と大谷禎之介氏である。
中心論点は、上記の第1論点である。
 本稿では、最近再燃しつつある富塚・大谷論争を検討し、「再生産論と恐

2) 久留間「恐慌論体系の展開方法について(1)」『経済志林』第43巻第3号、1975年
 10月、1頁。
3)最近再燃しつつあるこの論争に直接関連する両当事者の文献として次のようなも
 のがある。
 大谷禎之介「メガの編集者は禁欲を要求される」『資本論体系』第1巻、大月書
 店、2002年12月の付録、『月報』No.9、同年同月。同「『betrachtenすべき』は
 『再生産過程の攪乱』か『第3部第7章』か―富塚良三氏の拙訳批判に反論する
 ―」『経済志林』第70巻第3号、2002年。同「『資本論』第2部注32における第3
 篇への指示について」マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究者の会2001年次
 第17回例会「恐慌論シンポジウム」質問・コメント集、2002年5月。同『 マルク
 スに拠ってマルクスを編む―久留間鮫造と『マルクス経済学レキシコン』―』大
 月書店、2003年9月。同「再生産論と恐慌論との関連をめぐる若干の問題につい
 て―富塚良三氏の拙論批判に関連して―」『マルクス・エンゲルス・マルクス主
 義研究』第40号、2003年9月。
  富塚良三「『資本論』第2部初稿第3章第9節『再生産過程の攪乱』について 」
 『資本論体系』第4巻、大月書店、1990年4月の付録、月報No.6、1990年 3月。
 同「補説」『資本論体系4 資本の流通・再生産』第U部「論点 」第9論文「拡
 大再生産の構造と動態〔U〕」Aの補説、有斐閣、1990年4月。同「 再生産論の
 課題―『資本論』第2部初稿第3章結節『再生産過程の攪乱』について ― 」『商
 学論纂』(中央大学)第42巻第5号、2001年3月。同「 再生産論の課題 〔U〕―
 『資本論』第2部初稿第3章『流通と再生産』再論―」『商学論纂』(中央大学)
 第43巻第1号、2002年2月。同「《コメントに対する回答》 」マルクス・エンゲル
 ス・マルクス主義研究者の会2001年次第17回例会「恐慌論シンポジウム」質問・
 コメント集、2002年5月。同「再生産論の課題〔V〕― 『資本論』第2部第2稿
 第3章の再生産論について―」『商学論纂』( 中央大学 )第44巻第2号、2002年12
 月。同「再生産論の課題〔W〕ー『資本論』第2部初 稿第3章結節の指示書きに
 ついての再論ー」『商学論纂』(中央大学)第44巻第6号、2003年6月。

ー116ー

慌論の関係」という論争問題に対する筆者の考え方を提示したいと考える。
論争では、いわゆる「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」の問題が再生産論
において論じられるべきか 否か という形で 問題が提起され議論 ているの
であるが、しかし、筆者の見るところ 、真の問題は、 『資本論』第2部第3
篇の論理次元に固有の視角から「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」の問題
が論じられるということであり、その意味が問われている のである。という
のは、マルクスが『資本論』第2部 第3篇再生産論においていわゆる 「 内在
的矛盾」や「再生産過程の攪乱」を論じようとしていたこと自体は、論争両当
事者が論争の過程で確認し認めるところであって、問題は、その先にあって 、
マルクスが『 資本論 』第2部第3篇再生産論において「内在的矛盾」や「再生
産過程の攪乱」の問題のすべての諸側面・諸要素を議論じようとしていたと
いう訳ではなくて、『資本論』第2部 第3篇 再生産論という論理次元に固有
の視角から可能な限り「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」の問題を取り扱
おうとしていたと考えねばならないからである。問題は、< 論理次元に固有
の視角>とは何かということであり、「内在的矛盾」や「再生産過程の攪乱」
の問題 をどのような側面・ どのような論点で議論しようとしていたのかと
いう問題でなければならないのである。

 II. 「1861-63年草稿」におけるマルクスの恐慌論体系――再生産論と
   「恐慌の可能性」4)
 本稿における 筆者の基本的立場を予め明らかにしておくために、かつて議
論された問題、すなわち「 1861-63年草稿」においてマルクスが恐慌論と再
生産論をどのように関連づけているかという問題に対する旧稿で示した私見
を概観することからはじめよう 。筆者は、旧稿において、久留間・富塚論争
に触れつつ、「1861-63年草稿」におけるマルクスの恐慌論体系をめぐる論争
問題に関説 し私見を明らかにしたことがあるが、その概要は以下のとおりで


4)以下は、筆者旧稿「『恐慌論体系の展開方法』に関する一考察」の要約である。
ー117ー

ある。
 「1861-63 年草稿」においてマルクスは恐慌論の展開方法について次のよ
うに述べている。
 「しかし、いま問題であるのは、潜在的恐慌のより進んだ発展――現実の
恐慌は、資本主義的生産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することが
できる――を追跡することである。 といっても、それは、恐慌が、資本の諸
形態規定から出てくるかぎりにおいてであり、そして、この諸形態規定が、
資本としての資本に特有な … ものであって、資本の商品および貨幣として
の単なる定在のなかに含まれていないものであるかぎりにおいてである。
 ここでは、資本の単なる生産過程(直接的な)は、それ自体としては、な
にも新しいものをつけ加えることはできない。 そもそもこの過程が存在する
ように、その諸条件が前提されているのである。 だから、資本――直接的生
産過程――を取り扱う第1篇では、恐慌の新しい要素は少しもつけ加わらな
い。恐慌の要素は、即自的にはそのなかに含まれている。 というのは、生産
過程とは、剰余価値の取得であり、したがってまた剰余価値の生産だからで
ある。 しかし、生産過程そのもののなかでは、これが現れることはありえな
い。 なぜならば、生産過程そのものにおいては、再生産された価値の実現だ
けでなくて、剰余価値の実現も、問題にならないからである。
 その事項は、それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程において
はじめて現われうる。
 ここでさらに次のことを述べておかなければならない。 すなわち、われわ
れは、完成した資本――資本と利潤 ― を説明するよりも前に、流通過程す
なわち再生産過程を説明しなければならない。 なぜならば、われわれは、資
本がどのように生産をするかということだけでなく、資本がどのように生産
されるかということをも説明しなければならないからである。 しかし、現実
の運動は現存の資本から出発する――これは、それ自身からはじまりそれ自
身を前提とする発展した資本主義的生産を基礎とする現実の運動ということ
である。 だから、再生産過程と、この再生産過程のなかでさらに発展した恐
ー118ー

慌の基礎とは、この項目そのもののもとでは、ただ、不完全にしか説明され
ないのであって、『資本と利潤』の章でその補足を必要とする。
 資本の総流通過程またはその総生産過程は、資本の生産部門とその流通部
門との統一であり、両方の過程を自己の諸部面として通過するところの一過
程である。 この過程のなかに、さらに発展した恐慌の可能性またはその抽象
的な形態が存在する」5)
 以上のマルクスの論述から久留間・富塚両氏は、それぞれ次のような解釈
を引き出された。すなわち、久留間氏は、「 マルクスは… 恐慌の新しい要
素は『それ自体同時に再生産過程でもある流通過程』でやっと現れている、
と書いているのだが … ここでいう『流通過程』というのは『資本論』第2
部第3篇の再生産論」のことではない、「ここでいう『流通過程』というの
は『資本論』第2部の全体にあてられている『資本の流通過程』のこと」6)
であると主張された。これ対して、富塚氏は、「『それ自体同時に再生産過程
であるところの流通過程』とは、後に『 資本論 』第2巻第3篇…において
分析対象とされる… 『総=流通・再生産過程』」7)のことであると主張され
た。
 これら解釈に基づいて、両氏は、それぞれ次のような見解 を主張された。
すなわち、久留間氏は、「『可能性の一層の発展』は第2部第3篇だけでなく
て、第2部全体についてみる必要がある」8)と主張され、富塚氏は、「『発展
した恐慌の可能性』が『資本論』第2巻第3篇の再生産表式分析によって解
明されるとする山田盛太郎氏 … 以来の見解… は誤っていない 」9)と主張

5)Karl Marx,Zur Kritik der politischen Ökonomie(Manuskript1861-63),in:Karl Marx
 /Friedrich Engels Gesamtausgabe
,Abt.U,Bd.3,Teil3,1978,Dietz VerlagBerlin,S.
1133〜1134.
資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』E、大月書店、
1981年、718〜719ページ。
6)久留間編『マルクス経済学レキシコン』第6分冊、恐慌Tの「栞」、8ページ。
7)富塚「恐慌論体系の展開について――久留間教授への公開質問状――」、241ペー
ジ。
8)久留間編『マルクス経済学レキシコン』第6分冊、恐慌Tの「栞」、11ページ。
9)富塚「恐慌論体系の展開について――久留間教授への公開質問状――」、241ペー
ジ。
ー119ー

された。
 この両氏の主張の違いは、以下のような見解の違いに起因しているものと
思われる。すなわち、久留間氏は、「恐慌の一層発展した可能性」とは、「恐
慌の抽象的な可能性が、資本の流通過程のなかで、もろもろの具体的な内容
規定を受け取っていく、現実性に発展しうる基礎を与えられていく、という
こと」10)であり、いわゆる「内在的矛盾」とはちがうものであると理解する。
これに対して、富塚は、「資本制生産の本質そのものに根ざす矛盾(いわゆ
る『生産と消費の矛盾 』はそのうちの最も規定的な要因… )は生産過程そ
のもののなかでは… 『恐慌の要素』として現れることなく、『 価値および
剰余価値の実現』の問題がそこで問題となるところの『資本の総=流通・再
生産過程』においてはじめて、そういうものとして現れる」11)と理解する。
 こうした見解の違いは、『資本論』草稿の一文節の理解の違いにも関連し
てくる。すなわち、『資本論』第2部注32のマルクスの「覚え書き」をいか
に解釈するかという問題について、久留間氏は、「『次の部分』とは第2部第
3篇だという考え方がありますが…。 こういう問題を、マルクスが『 資本
論』第2部第3篇で取扱っているとは考えられません。『 次の部分 』は…
やはり、第3部のことだろうと思います」12)と言われ、これに対して富塚氏
は、「『次のAbschnitt』は、やはり第2巻第3篇をさすと考えて差支えない
のではないか――但し、『生産と消費の矛盾』の問題が第2巻第3篇の再生
産(表式 )論にすべて包括されるという意味ではなく、第2巻第3篇の再生
産論なくしては如何にして(究極的には)労働者階級の『消費制限』によっ
て『商品資本の、したがってまた剰余価値の、実現』が限界づけられるかは
解明しえない、という意味において――」13)、と主張さるのである。  

10)久留間編『マルクス経済学レキシコン』第6分冊、恐慌Tの「栞」、11ページ。
11)富塚「恐慌論体系の展開について――久留間教授への公開質問状――」、245ペー
ジ。
12)久留間編『マルクス経済学レキシコン』第7分冊、恐慌Uの「栞」、6ページ。
13)富塚「恐慌論体系の展開について――久留間教授への公開質問状――」、284ペー
ジ。
ー120ー

 以上、再生産論と恐慌論との関係をめぐる富塚・久留間論争を、「1861-63
年草稿」の一文節の解釈の対立に関わらせて見てきたが、上記解釈論争に対
する筆者の考えを結論的に述べるとすればこうである。
  富塚説の論拠は、「その事柄は、それ自体同時に再生産過程…であると
ころの流通過程…においてはじめて現われうる」という「1861-63年草稿 」
の一文節に対する氏の独自な理解にある。氏は、それを、「『それ自体同時に
再生産過程であるところの流通過程』とは、後に、『資本論』第2巻第3篇
…において分析対象とされる…『 総=流通・再生産過程』」14)のことであ
ると理解されるのであるが、筆者の考えでは、富塚氏のこの解釈は、『資本
論』第2部「第1草稿」の次の記述をふまえて考えれば、明らかに、誤って
いると言わざるをえない。「これまで〔第2部第1、2章では―松尾〕、資本
の総流通過程または総再生産過程の研究に際しては、われわれは、資本が通
過する諸契機あるいは諸局面を形式的にのみ 考察した。 これに反して、い
まや〔第3章では―松尾〕、われわれは、この過程が行われうる現実的諸条
件を研究しなければならない」15).見られるように、マルクスは、「資本の総
流通過程または総再生産過程」は『資本論』の「第2部、資本の流通過程」
全体で考察される、と述べている。加えて、マルクスは「1861-63年草稿 」
において、「資本の再生産過程」という言葉と「資本の流通過程」という言
葉を常に結びつけて使用しているのである。したがって、「1861-63年草稿」
で、「資本の再生産過程」といえば、直ちに『資本論』第2部第3篇のこと
であるとする富塚氏の解釈に根拠はないと言わねばならない。
 いま仮に「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」が『資本
論』第2部第3篇のことであると解釈することができたとしても、「恐慌の
一層発展した可能性」は『資本論』第2部第3篇においてはじめて問題にな
るという見解を、そこから引き出すことはできない。というのは、マルクス

14)同上、241ページ。
15)К.Маркс и Φ.Энгельс Cочинения,издание
второе,том 49,москва,1974,стр.412.
ー121ー

は「1861-63年草稿」において次のように述べているからである。「いま問題
であるのは、潜在的恐慌のより進んだ発展―― 現実の恐慌は、資本主義的生
産の現実の運動、競争と信用からのみ説明することができる――を追跡する
ことである。 といっても、それは、恐慌が、資本の諸形態規定から出てくる
かぎりにおいてであり、そして、この諸形態規定が、資本としての 資本に特
有なものであって、資本の商品および 貨幣としての単なる定在のなかに含ま
れていないものであるかぎりにおいてである.」16).ここには次のことが述べ
られている。すなわち、<いま問題であるのは、「恐慌の一層発展した可能
性」であり、この「恐慌の一層発展した可能性」は、「 資本一般」を取扱う
箇所全体で論じられうるものであるが、「現実の恐慌」 は「 競争 」および
「信用」を取扱う論理段階で論じられうるものである>、と。
 かくて、本節冒頭の引用文全体に対する筆者の理解はこうである。すなわ
ち、<問題は、商品・貨幣の論理段階や「競争」「信用」の論理段階とは異
なる「資本一般」の論理段階の「恐慌の一層発展した可能性」であり、「資
本一般」の各部分(「資本の生産過程」「資本の流通過程」「資本と利潤」)が
「恐慌の一層発展した可能性」とどのように関連しているのかを説明してい
る。「直接的生産過程――を取扱う第1篇では、恐慌の新しい要素は少しも
つけ加わらない」。「恐慌の新しい要素」・「恐慌の一層発展した可能性」は、
「それ自体同時に再生産過程であるところの流通過程」=「資本の流通過程」
において「はじめて現われうる」。だが、「恐慌の一層発展した可能性」は、
「資本の流通過程」では、「ただ、不完全にしか説明されない」。「『資本と利
潤』の章」において「恐慌の一層発展した可能性 」の説明の「補足を必要と
する」>。
 なお付言すれば、このような 筆者の理解 に照らしてみれば、久留間 氏の
<「潜在的恐慌の一層の発展」は『資本論』第2部だけに限定してみる必要

16)Karl Marx,Zur Kritik der politischen Ökonomie(Manuskript1861-63),in:Karl
Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe
,Abt.U,Bd.3,Teil3,S.1133.資本論草稿集
翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』E、718ページ。

ー122ー

がある>という見解もマルクスの意図を正しく反映したものとは言えない。
 以上の論争の検討を通じて、筆者は、マルクスの恐慌論体系について以下
のような結論を引き出した。「恐慌の一層発展した可能性」は、マルクスは、
「経済学批判」体系の「資本一般」全体で論じられる必要があると考えてい
た。「資本一般」における恐慌論体系の展開方法は、(a)商品・貨幣論の論理
段階では販売と購買の分離の可能性に基づく「 恐慌の最も抽象的な形態 」
「恐慌の形式的可能性」、(b)「資本の生産過程」「資本の流通過程」「資本と利
潤」の3部分からなる「資本一般」の論理段階での「恐慌の一層発展した可
能性」、(c)資本主義的生産の現実的運動・「競争」「信用」の論理段階での
「現実の恐慌」である。「資本一般」の範囲内で「現実の恐慌」が論じられ
るとしても、それは、「資本一般」の説明に必要なかぎりでの言及にすぎな
い.いわゆる「内在的矛盾 」の問題が「資本一般」において論じられるとし
ても、矛盾の具体的な 累積過程が問題 にされるわけではなく、主要論点は
「生産の消費の矛盾」とは何かという問題だけであると。
 本稿では、以上の筆者旧稿の分析結果を踏まえた上で、『資本論』諸草稿
においてマルクスが、再生産論と恐慌論の関係をどのように捉えていたのか
という問題を、最近議論が活発化しつつある富塚・大谷論争の検討を通じて、
考察することにする17)。提起されている論争点は、再生産論において「内在

17)富塚・大谷両氏の論争の単なる傍観者であるはずの筆者が本稿を執筆しようと考
えた理由・動機を明らかにしておきたい。 筆者は、約30年前に『資本論』第2部
第1草稿がロシア語訳本(К.Маркс и Φ Энгельс Cочинения,издание второе,
том 49, москва,1974
)として初めて公刊された際、同書の紹介論文を執筆した
が、その文末に次のようなことを述べた。「だが、『資本論』第2部用『第1草稿』
では、一度は第3章第7節の表題を『再生産過程における攪乱』と書きながら、
その実際の考察をマルクスは『第V部第Z章で考察すること』(149ページ )と
している。つまり、再生産論の基本的課題とそれを一つの基礎とする『攪乱』の
考察とを明確に区別して別々の場所で展開しようとしている。このことは、私見
によれば、『学説史』段階とちがって、この『第1草稿』では、再生産論の基本
的課題がそれ自体固有な問題領域をなすものとしてマルクスによって意識される
ようになったことを示す(とはいっても、草稿の最後に書かれた第3章のプラン
の第6節に『再生産過程の攪乱』という表題がなお見られるのではあるが)。」
(拙稿「『資本論』第2部「第1草稿」(1864ー65年)について」『経済評論』第24
巻第11号、 1975年10月、 119頁 )。 この論述の趣旨は、『 資本論 』第2部用「第1

ー123ー

的矛盾 」・「 再生産過程の攪乱 」の問題が論じられるのか否かと言う問題
であるが、本稿では、問題を2つの論点に切り離して検討することにする。1つ
は、再生産論と「再生産過程の攪乱」の関係、2つは再生産論と「内在的矛
盾 」の関係、である。富塚・大谷論争では、2つの論点が一括して論じられ
ているが、筆者は、 2つの論点を区分して問題を検討すべきであると考える。
その理由は、以下の行論において明らかになる。

 V. 『資本論』第2部第3篇における再生産論と「再生産過程の攪乱」

 まず、『資本論』第2部第3篇再生産論において「再生産過程の攪乱 」の
問題 が論じられるべきか否かという点について、マルクスがどのように考え
ていたかを検討することにしよう。
 富塚良三は、『資本論 』第2部第3篇再生産論においてマルクスが「再生
産過程の攪乱」を論じようとしていたと一貫して主張されてきた。すなわち、
 「『 資本論 』第2部初稿第3章…の最終節 は第9節『 再生産過程におけ
る攪乱…』であるが、そこには ”Zu betrachten ch.VII,Buch III.”すなわ
ち『第3部第7章を考慮すべきこと。』という指示書き」18)が存在する。それ


草稿」では、「再生産過程における攪乱」の考察をマルクスは「第V部第Z章で
考察すること」と考えていたということを主張しようとしたものであったが、そ
の際、解明すべき論点が残されていることを筆者は自覚していた。筆者はそのこ
とを、「『資本論』第2部用『第1草稿』では、一度は第3章第7節の表題を『再
生産過程における攪乱』と書きながら、…」、「(とはいっても、草稿の最後に
書かれた第3章のプランの第6節に『再生産過程の攪乱』という表題がなお見ら
れるのではあるが)」という「注記」を書き残したのである。とくに、「(とはい
っても、草稿の最後に書かれた第3章のプランの第6節に『再生産過程の攪乱』
という表題がなお見られるのではあるが)」という「注記」は、筆者の率直な疑
問を――自説に対して――述べたものである。
 今回、富塚・大谷両氏の論争において、筆者が旧稿において言及したマルクス
の記述が論点として取り上げられるに至って、旧稿に「第V部第Z章で考察する
こと」というロシア語版の記述を無批判に紹介したこと、草稿の最後に書かれた
第3章のプランの第6節に「再生産過程の攪乱」という表題が見られるのは何故
かという疑問を持ちつつも、その疑問を少しも解明せずに放置したままになって
いたことに責任を感じ、旧稿で懐い た疑問を、富塚・大谷論争や新たな資料・議
論を踏まえて検討してみようと考えた。
18)富塚「『資本論』第2部初稿第3章第9節『再生産過程の攪乱』について」、1ペ

ー124ー

は、「 第2部第3章において、それに固有の方法的限定のもとで可能なかぎ
りで、それに固有の問題視角から、『 再生産過程の攪乱』の問題をマルクス
は論じようと意図していた」19) ことを、そして、「『第3部第7章』でヨリ具
体的な問題視角からする本格的な論述を行うことを予定し、それを念頭にお
きそれとの対応を考慮しながら、第2部 第3篇の論理段階において可能なか
ぎりで、それに固有の視角から、『再生産過程の攪乱』の問題を論じようと
していた」20)ことを、示している。ところが、「邦訳『資本の流通過程――
『資本論』第2部第1稿――』…は『 これは、第3部第7章で考察すべき
である。 』…となっている。…第2部 初稿の 最終ページに記されたプラ
ンから明らかに読み取れるマルクスの意図とはまさに逆の意味内容の訳文」
である21)。「 " Zu betrachten ch.Z,Buch V "というマルクスの原文のままな
らば、…当然、『第3部第7章をbetrachtenすべきである。』と読むより他
はない」22)。「"Zu betrachten ch.Z,BuchV"という短い文の構造からして、
また…その指示書きの同ページのすぐ下に記されている第2部第3章『 流
通と再生産』の執筆プランの内容からして、『再生産過程の攪乱 』の問題
をその第3章において マルクス が論ずる予定であったことは疑問の余地なく明
かである。第2部第3章の論述をしめくくるべき箇所において、再び第6節
として『再生産過程の攪乱』というこの表題が掲げられ、しかも第7節『第
3部への移行』の直前にそれが置かれていることは、第3部に入ってゆく前
に、…第2部第3章の再生産論を総括するものとして『再生産過程の攪乱』
の問題を論ずる意図であったことを明示している」23)。「"Zu betrachten ch.
VII.Buch III.”は、 … 大谷氏のように原文にはないinを勝手に挿入して
"Man soll diesesProblem in ch.VII.BuchIIIbetrachten."などと読むべき

19)同上、2ページ。
20)富塚『資本論体系4 資本の流通・再生産』第U部「論点」第9論文Aの補説、
297ページ。
21)富塚「再生産論の課題…」、52ページ。
22)同上、58ページ。
23)同上、62−63ページ。

ー125ー

ではない」 24)
 これに対して、大谷氏は、『 資本論 』第3部第7章においてマルクスは
「再生産過程の攪乱」を論じようとしていたと主張された。加えて、『資本
論』第2部第3篇再生産論においてマルクスが「再生産過程の攪乱」を論じ
ようとしていたことを否定するつもりはないとも言われた。
 「[『資本論』]第2部第1稿…第3章の最後の項は ”9 ) Störungen im
Reproductionsprocesß"であるが、そこにはただ1行、"Zu betrachten ch.VII.
Buch III"と書かれているだけである」25)。この指示書きを、フォルグラード
は、「ほぼ70%ほどの確率で、"Zu betrachten :ch.VII.Buch III"(以下のと
ころで考察すべき――第3部第7章 )、と読みたいね。」26)と述べている。
「[富塚氏は、]原文が“Zu betrachten ch.VII.Buch III.”なのだから、これ
は『第3部第7章で考察すべきである』と読むことはできず、『第3部第7
章を考慮すべきである』、と読むほかはないのだ」と断定するが、「拙訳を
『誤訳』だとされる理由、根拠はまったく書かれていない」27)。「筆者の訳で
は、マルクスは第3部第7章で『 再生産過程の攪乱』を『考察すべきだ』と
言っていることになる―― ただし、… このことは第2部第3章が『再生産
過程の攪乱』を論じることを排除するものではない」28)。「第2部第3章では
1節を立てて再生産過程の攪乱について主題的に論じるが、しかし、この問
題はさらに第3部第7章でも考察しなければならない」29)というのがマルク
スの意図である。「 [『 資本論 』第2部第1稿第3章の最終節中の ” Zu
betrachten ch.VII.Buch III”という指示書きは、]第2部第3章で『再生産
過程の攪乱 』を考察するのだが、この問題 は … さらに第3部第7章でも

24)富塚「再生産論の課題〔W〕」、169ページ。
25)大谷「メガの編集者は禁欲を要求される」、6ページ。引用文内の[ ]は、
引用者による加筆。以下同じ。
26)同上、8ページ。
27)大谷「『betrachtenすべき』は『再生産過程の攪乱』か『第3部第7章』か」、
219ページ。
28)同上、230ページ。
29)同上、231ページ。

ー126ー

この問題を考察しなければならない、という覚え書」である30)。「再生産の諸
条件が同時に恐慌の諸条件であり、社会的再生産の実体的諸条件の分析が同
時に恐慌の発展した可能性の解明であって、ここで恐慌の抽象的形態が内容
諸規定を受け取るのだ、ということを想起するならば、第2部第3章で『再
生産過程の攪乱』が論じられること自体にはなんの不思議もないし、第2部
第3章での社会的再生産の実体的諸条件の分析を基礎とし、そのうえで社会
的総再生産過程における貨幣運動を総括的に考察するという構想のもとに予
定されていた第3部第7章で、貨幣運動を前提していま一度『再生産過程の
攪乱』が取り上げられる予定だったこともそれなりに納得いく」 31)
 以上の富塚・大谷両氏の見解を纏めると次のようになろう。
 富塚氏の主張:『 資本論 』第2部初稿第3章最終節=第9節「再生産過程
の攪乱」に見られる「”Zu betrachten ch.VII,Buch III.”『第3部第7章を考
慮すべきである。』という指示書き」は、マルクスが「『第3部第7章』でヨ
リ具体的な問題視角からする本格的な論述を行うことを予定し、それを念頭
におきそれとの対応を考慮しながら、第2部 第3篇 の論理段階において可能
なかぎりで、それに固有の視角から、『 再生産過程の攪乱 』の問題を論じよ
うとしていた32)
 大谷氏の主張:「第2部第3章で『再生産過程の攪乱 』を考察するのだが、
この問題は … さらに第3部第 7章 でもこの問題を考察しなければならな
33)、「第2部第3章では… 再生産過程の攪乱について主題的に論じるが、
しかし、この問題はさらに第3部第7章でも考察しなければならない」34)
マルクスは考えていた。
 文言の限りでは、富塚・大谷両氏は、ほぼ同じことを主張されている。し

30)同上、254ページ。
31)同上、255ページ。
32)富塚『資本論体系4 資本の流通・再生産』第U部「論点」第9論文Aの補説、
297ページ。
33)大谷「『betrachtenすべき』は『再生産過程の攪乱』か『第3部第7章』か」、
254ページ。
34)同上、231ページ。

ー127ー

かし、両者の主張には違いがある。それは、『資本論』第2部第3篇と第3
部第7章において「再生産過程の攪乱」の問題を論じる場合、どのような固
有の視角から問題を考察するのかという点をめぐってである。『資本論』に
おいて或る特定の問題について考察する場合、マルクスは、『資本論』のど
こか特定の箇所で一括してその問題を論じるのではなく、『資本論』の様々
な箇所・様々な論理次元のもとで、様々な考察視角・様々な問題側面から問
題を論じるという考察方法を採っているのであって、「 再生産過程の攪乱」
の問題を考察する場合も、その問題が『資本論』第2部第3篇で論じられる
べきであるのか、それとも、『資本論』第3部第7章で論じられるべきであ
るのかというような単純な問題設定は、『資本論』における理論展開・考察
方法を正しく理解していない問題設定であると言わなければならない。もし、
大谷氏が指摘されるように、富塚氏が「 筆者[=大谷氏]が『 これは、第3
部第7章で考察すべきである』と訳したのは、読者に、あたかもマルクスが
『再生産過程の攪乱』を第2部第3章ではなくて第3部第7章で考察すると
言っているかのように読ませるための意図的な改変にちがいない」35)と思わ
れたのであれば、富塚氏の『資本論』の読み方それ自体の問題点を露呈させ
たものと言わなければならない。

 W. 『資本論』第2部における再生産論と「内在的矛盾」

 次に、『資本論』第2部第3篇の再生産論においていわゆる「内在的矛盾」
が論じられるべきか否かという点についてマルクスがどのように考えていた
のかを検討しよう。
 富塚氏は、『資本論』第2部第3篇再生産論において「内在的矛盾」が論
じられるべきであると主張されている。すなわち、
 マルクスは、「[『資本論 』第2部]註32の『覚え書』に記されているとこ
ろの、『生産と消費の矛盾』によって社会総体としてみた『商品資本の、し


35)同上、252ページ。
ー128ー

たがってまた剰余価値の実現』が『限度づけられ制限される』といった内容
の論述が『次の篇』すなわち第3篇に属すべき問題だ 」と指示している36)
「[『資本論』第2部註32の「覚え書」で]論じられているのは、『その限界
をなすものがあたかも社会の絶対的な消費能力ででもあるかのように』無制
限的に、生産諸力を発展させ生産を拡大しようとする資本主義的生産様式に
固有の『衝動』と社会の大多数の成員が貧困であらざるをえない社会の消費
欲求すなわち資本主義的な消費需要の制限との間の『矛盾』であり、それを
第2部第3章の論理次元に固有の問題視角から究明しようとする [マルクス
の]意図」である37)。「[久留間鮫造氏と私の論争は]第2部注32の『覚え書』
の内容は『生産と消費の矛盾』による『実現』の問題が論じられたものである
という双方に共通の認識の前提のもとに展開された」38)
 これに対して、大谷氏は、『 資本論 』第2部第3篇の再生産論において
「内在的矛盾 」を論じようとする意図はマルクスにはなかったと主張された。
すなわち、
 「[『資本論』第2部注32の「覚え書」に]『内在的矛盾』の問題が含まれ
ているとされてきた根拠は、エンゲルス版での次の一文の下線部部分にあっ
た。『さらに次の矛盾。資本主義的生産がそれのすべての力能を発揮する諸
時期は過剰生産の時期であることが明かとなる。なぜなら、生産の諸力能は
それによって価値がより多く生産されうるだけでなく実現もされうるという
ように充用されることはけっしてできないが、商品の販売、商品資本の実現
は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会一般の消費欲求によってではな
く、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざる
をえないような社会の消費欲求によって限界を画されているのだからである。
… 』 … 。これによれば、『 価値がより多く生産されうるだけでなく実現
もされうる』ということと、資本主義手生産のもとであらゆる制限を乗り越

36)富塚「再生産論の課題〔V〕」、28ページ。
37)同上、32ページ。
38)同「再生産論の課題〔W〕」、205−206ページ。

ー129ー

えて推し進められる『生産の諸力能の充用』とが矛盾する、ということ、つ
まり『内在的矛盾』の両項とその対立とが指摘されていると読めるのであっ
て、この読み方にもとづいて、マルクス自身が『内在的矛盾』の問題は『次
の篇で問題となる』と書いていたと考えられてきたのであった。/ところが
草稿では後半の部分は次のようになっている。『 なぜなら、生産の諸力能は
それによって剰余価値が生産されうるだけでなく実現もされうるかぎりにお
いて充用されることができるだけであるが、商品資本の実現(商品の販売)
は、だからまた 剰余価値の実現もまた、社会の消費欲求によってではなく、
その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつねに貧乏のままであらざるをえ
ないような社会の消費欲求によって限界が画され、制限されている等々だか
らである。… 』 …。/エンゲルス版との決定的な違いは、同版 で nie と
なっているところが草稿では nurだという点である。ここでは、生産の諸力
能は剰余価値の実現が可能なかぎりにおいてしか充用されえないにもかかわ
らず、その剰余価値の実現は大衆の貧困を伴う社会の消費欲求によって限界を
画されている、ということが述べられており、『 生産諸力 を、その限界を
なすものがあたかも社会の絶対的な消費能力ででもあるかのように発展させ
ようとする、資本主義的 生産様式の衝動 』…そのものについててはまった
く触れられていない」39)。「草稿によって明かとなったのは、当該の部分で
『内在的矛盾』…について述べられていたわけではなかった、ということ 」、
「この部分を、『内在的矛盾』の問題は第3篇に属する、とマルクス自身が明
言している箇所と見なすことができない、ということ」である40)
 以上のように、「内在的矛盾」が『資本論』第2部第3篇で論じられるべ
き問題 であるのかどうかという問題について、富塚氏と大谷氏との間には、
大きな見解の相違が存在する。見解の違いの中心は、『資本論』第2部第2
篇草稿中の注32の 「 覚え書 」 の内容理解である。富塚氏は、 「註32の『覚え
書』に記されているところの、『生産と消費の矛盾』によって社会総体とし

39)大谷「『資本論』第2部注32における第3篇への指示について」、12−13頁。
40)同上、13頁。

ー130ー

てみた『商品資本の、したがってまた剰余価値の実現』が『限度づけられ制
限される』といった内容の論述が『次の篇』すなわち第3篇に属すべき問題」
である」41)、と主張され、これに対して、大谷氏は、「当該の部分で『内在的
矛盾』…について述べられていたわけではなかった」、「この部分を、『内
在的矛盾』の問題は第3篇に属する、とマルクス自身が明言している箇所と
見なすことができない」42)、と主張されるのである。
 富塚氏は、注32の「覚え書」に記されているのは「内在的矛盾 」であり、
「内在的矛盾」は『資本論』第2部第3篇の再生産論において論じられるべ
きであると主張し、これに対して、大谷氏は、「ここ[注32の「覚え書」]で
は剰余価値の実現 による生産の制約について述べられている 」のであって、
「それこそまさに、『 第3章 流通過程および再生産過程の実体的諸条件』、
すなわちのちの第3篇の問題」である、と主張する。したがって、両者の違
いは、結局のところ、注32の「覚え書 」において何が指摘されているのか
そして、それが第2部第3篇においてどのように取り扱われるのかという点
についての理解の違いである。
 両氏はともに、注32の「覚え書」記載の事柄が『資本論』第2部第3篇の
再生産論に属すべき問題であると考えているが、しかし、富塚氏は、注32の
「覚え書」において指摘されているのは「内在的矛盾」であると見るのに対
して、大谷氏は、注32の「覚え書」では「『内在的矛盾』…について述べ
られていたわけではなかった」と主張する。したがって、両氏の見解の違い
は、結局、注32の「覚え書」の読み方の違いに帰着するのである。 そして、
「覚え書」の読み方の違いは、それぞれの文言解釈の違いに起因するのであ
る。
 富塚氏の「覚え書」の読み方はこうである。
 「覚え書」の「基本的趣旨」は、「資本主義的生産様式そのもの基本性格
に根ざす『生産と消費の矛盾』によって社会総体としての商品資本の従って

41)富塚「再生産論の課題〔V〕」、28ページ。
42)大谷「『資本論』第2部注32における第3篇への指示について」、13頁。

ー131ー

また剰余価値の実現が限界づけられるということ」である43)。「『資本主義的
生産がその全潜勢力を発揮し、限界点に達するまで生産する時期は( 決って)
過剰生産の時期となって現われる。』と述べ、それを承けて『何故ならば』
として、『生産の潜勢力は、それによって剰余価値が生産されるだけでなく
実現 もされうるようには決して充用されえないのだからである。』と述べ、
さらにどうしてそういうことになるのか、どうして剰余価値の生産とその実
現が乖離ないしは背反 することになるのかが、セミコロンの後にくる文で、
『商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現』は社会の絶対的な消費
欲求によってではなく、『社会の大多数』すなわち生産者大衆が『貧困のま
まであらざるをえない』ような、そういう特定の一社会の消費欲求によって
『限界づけられ、制限されている』からである、と論述がすすめられている
のである。この一連の文章の自然な流れを、そのまま普通に読めば、問題と
されているその箇所は、やはり、ことさらモスクワのML研解読文のように
nurと読むのではなく、エンゲルスのようにnieと読むべきではないか 」44)
「ここで論じられているのは、『その限界をなすものがあたかも社会の絶対
的な消費能力ででもあるかのように』無制限的に、生産諸力を発展させ生産
を拡大しようとする資本主義的生産様式に固有の『衝動』と社会の大多数の
成員が貧困であらざるをえない社会の消費欲求すなわち資本主義的な消費需
要の制限との間の『矛盾』」である45)。「大谷氏は、…nieが、『モスクワ
のML研保有の解読文 』では、… nur → nun →nieと変わったというこの
事実から、… この nie のような文字がいかに判読しにくいものであるかを
述べている 。しかし、大谷氏が指摘されたこの事実は反面では同時にまた、
『モスクワのML研保有の解読文』は、文章の前後のつながりや全体として
の流れへの留意、とりわけ経済学的な内容の読みとりが不充分なままに行わ
れているおそれが充分にあることを、われわれに知らせている」46)。「『資本

43)富塚「再生産論の課題〔V〕」、29ページ。
44)同上、31−32ページ。
45)同上、32ページ。
46)同上、35ページ。

ー132ー

主義的生産がその全潜勢力を発揮する・・時期は、過剰生産の時期となって
現われる。』という前段の文に、『…何故ならば、生産の潜勢力は、それに
よって剰余価値が生産されるだけでなく、実現もされうる限りにおいて、充
用されるのだからである。… 』 となるのでは、前後の文章のつながり具合
がいかにも不自然であろう。モスクワのML研の解読文のように nie をnur
と読んだのでは『文意が前後撞着する』」47)。「そもそもnurと読む場合のそ
の叙述は、『(生産される)剰余価値が実現される範囲内でのみ生産の潜勢力
は充用される』ということを内容とするものであって、それは実は、資本制
的生産の論理としては成立しえない命題なのである」48)
 これに対して、大谷氏の読み方はこうである。
 「[注32の「覚え書」の]草稿では後半の部分は次のようになっている。
『なぜなら、生産の諸力能は、それによって剰余価値が生産されうるだけで
なく実現 もされうるかぎりにおいて充用されることができるだけであるが、
商品資本の実現(商品の販売)は、だからまた剰余価値の実現もまた、社会
の消費欲求によってではなく、その大多数の成員がつねに貧乏でありまたつ
ねに貧乏のままであらざるをえないような社会の消費欲求によって限界が画
され、制限されている等々だからである。 … 』… / エンゲルス版との決
定的な違いは、同版でnieとなっているところが草稿では nur だという点で
ある。ここでは、生産の諸力能は剰余価値の実現が可能なかぎりにおいてし
か充用されえないにもかかわらず、その剰余価値の実現は大衆の貧困を伴う
社会の消費欲求によって限界を画されている、ということが述べられており、
『生産諸力を、その限界をなすものがあたかも社会の絶対的な消費能力でで
もあるかのように発展させようとする、資本主義的生産様式の衝動 』… そ
のものについててはまったく触れられていない」49)
 以上の対比から分かるように、見解の違いは、エンゲルス版『資本論』第

47)同上、36ページ。
48)同上、38ページ。
49)大谷「『資本論』第2部注32における第3篇への指示について」、12−13ページ。

ー133ー

2部第2篇注32の論述中の「nie」を、マルクスの意図を正しく反映した解
読と考えるのか、それとも、それを「nur 」に入れ替えなければマルクスの
意図を反映した解読にはならないと考えるのか、ということである。
 富塚氏は、エンゲルス編集の通りに解読することによってマルクスの論述
の意図を正しく読み取ることができる、そして、「覚え書」には「内在的矛
盾」の説明があり、その問題は『資本論』第2部第3篇に属する問題である
とマルクスが考えていたと主張する。これに対して、大谷氏は、エンゲルス
編集版の解読nie は誤りであって、それはマルクスの意図を正しく反映して
いない、nieは正しくnurと解読されなければならない、そして、「覚え書」
で説明されているのは、「『内在的矛盾』――それの両項とそれらの対立…
ではなかった」50)、「剰余価値の実現による生産の制約について」である、と
主張するのである。
 両氏の論争点をヨリ明確な形で理解するために、富塚氏が自説を根拠づけ
るためにどのような文言解釈をしているか、そいて、大谷氏の文言解釈をど
のように批判しているかを、以下少し詳しく見てみよう。
 富塚氏の説明 はこうである。「大谷氏は、… nie が、モスクワでの解読
ではnur→nun→nieと変わったというこの事実から、…このnieのよう
な文字がいかに判読しにくいものであるかを述べている。しかし、大谷氏が
指摘されたこの事実は反面では同時にまた、『モスクワのML研保有の解読
文』は、文章の前後のつながりや全体としての流れへの留意、とりわけ経済
学的な内容の読みとりが不充分なままに行われているおそれが充分にあるこ
とを、われわれに知らせている」51)。「nieではなくnurと読んだ場合の、『何
故ならば』として承ける前段の文とのつながり、ないしは対応」が問題であ
る。『資本主義的生産がその全潜勢力を発揮する・・時期は、過剰生産の時
期となって現われる。』という前段の文に、『…何故ならば、生産の潜勢力
は、それによって剰余価値が生産されるだけでなく、実現もされうる限りに

50)同上、13ページ。
51)富塚「再生産論の課題〔V〕」、35ページ。

ー134ー

おいて、充用されるのだからである。 … 』となるのでは、前後の文章のつ
ながり具合がいかにも不自然であろう。モスクワのML研の解読文のように
nieをnurと読んだのでは『文意が前後撞着する』と『 資本論体系 』第4巻
294ページに注記したのは、こうした理由によってである」52)。「大谷氏はnie
と読んだ場合にはアンダー・ラインを付したこの叙述部分… は、『 価値と
それに含まれている剰余価値とを度外視して生産力を絶対的に発展させる傾
向 』… 、『 生産の無制限的な増加に向かって突進する生産方法 』…が語
られていることになる、と断定的に述べられているが、どうしてそういうこ
とになるのか全く不可解である」53)。「そもそもnurと読む場合のその叙述は、
『(生産される)剰余価値が実現されうる範囲内でのみ生産の潜勢力は充用
される』ということを内容とするものであって、それは実は、資本制的生産
の論理としては成立しえない命題なのである。それ故に、nur と読んだその
命題こそが第2部註32の『覚え書』の主要部分をなすものであり、また『 次
の篇』に属するとされた問題に他ならないとする大谷氏の結論は、氏の再生
産論理解そのものの限界を露呈するものと言うべきであろう」54)
 富塚氏が「nie」を「nur」と訂正したうえでマルクスの意図を理解すべき
でないと主張する根拠は、どうやら、「文章の前後のつながりや全体として
の流れへの留意、とりわけ経済学的な内容の読みとり」・「前段の文とのつな
がり、ないしは対応」・「前後の文章のつながり具合」ということにあるらし
い。しかし、「nur」と読んだ場合「文章の前後のつながり」が「不自然」な
ものになるからと主張するだけでは、再生産論を富塚氏流に理解をしない論
者にとっては、根拠のない一方的な主張と言わざるを得ない。
 この説明不足を補足するためか、富塚氏は、大谷氏を批判して次のように
言われる。すなわち、「nurと読む場合のその叙述は、『(生産される)剰余
価値が 実現される範囲内でのみ生産の潜勢力は充用される 』ということを

52)同上、36−37ページ。
53)同上、37ページ。
54)同上、38ページ。

ー135ー

内容とするもの」となるが、それは「資本制的生産の論理としては成立しえ
ない命題」である55)、と56)
 かくて、両者 の「 覚え書 」の読み方の違いが明確になった。富塚氏は、
「nurと読む場合のその叙述は、『(生産される)剰余価値が実現される範囲
内でのみ生産の潜勢力は充用される 』ということを内容とするもの 」とな
るが、それは「 資本制的生産の論理としては成立しえない命題 」である;
「nur」と読んだ場合、「文章の前後のつながり 」が「不自然」なものになる、
と言う。これに対して、大谷氏は、nie をnurと訂正して読むことによって、
「覚え書」で説明されているのは「生産の諸力能は剰余価値の実現が可能な
かぎりにおいてしか充用されえない 」という命題であることが明確になる、
この問題こそ「『第3章 流通過程および再生産過程の実体的諸条件』、すな
わちのちの第3篇の問題」である、と言うのである。
 いまや、真の論点が明らかになったのではなかろうか。nie が正しいのか、
それとも、nurが正しいのかという文言解釈の是非ではなく、「覚え書 」に
何が書かれているべきかということが、真の論争点であったのである。文言
解釈の違いの原因は、それぞれの論者による再生産論理解の違いなのである。
nie かnur かではなく、各論者が「 再生産論と内在的矛盾の関連 」問題に
ついてどのように理解しているかが、争われていたのである。
 マルクスの恐慌論体系における『資本論』第2部第3篇再生産論の意義を
明らかにするために最初「再生産論と内在的矛盾の関連」が問われたのであ
るが、この問題に答えるために持ち出されたのが、『資本論』第2部第2篇

55)同上、38ページ。
56)因みに、大谷氏の解釈はこうであった。 「ここでは、生産の諸力能は剰余価値の
実現が可能なかぎりにおいてしか充用されえないにもかかわらず、その剰余価値
の実現は大衆の貧困を伴う社会の消費欲求によって限界を画されている、という
ことが述べられており、『生産諸力を、その限界をなすものがあたかも社会の絶
対的な消費能力ででもあるかのように発展させようとする、資本主義的生産様式
の衝動』…についててはまったく触れられていない」(大谷同上、13頁)。「
こでは剰余価値の実現による生産の制約について述べられているとすれば、それ
こそまさに、『第3章 流通過程および再生産過程の実体的諸条件』、すなわちの
ちの第3篇の問題なのだ」(同、13頁)。

ー136ー

の注32の「覚え書」の内容をどう理解するかであった。ところが、この「覚
え書」の読み方を根拠づけるために持ち出されたのが、最初の再生産論と内
在的矛盾の関連をどのように考えるかという問題に与えられるべき「解答」
だったのである。これから証明されるべき「解答」が、証明の根拠にされて
いるのである。注32の「覚え書」に関する富塚・大谷両氏の論争で問われて
いるのは、結局は、論者それぞれの再生産論理解だったという訳である。

 V. むすび

 以上、『資本論』第2部第3篇再生産論においてマルクスは「内在的矛盾」
や「再生産過程の攪乱」の問題をどのように論じようとしていたかという論
争問題を検討してきたが、その結果、以下のようなことを明らかにした。
 まず第1に、『資本論』第2部第3篇再生産論において「再生産過程の攪
乱」の問題が論じられるべきであるのかどうかという問題について。
 富塚・大谷両氏はともに、『資本論』第2部第3篇再生産論においてマル
クスは「再生産過程の攪乱」の問題を論じようとしていたと主張された。し
かし、「再生産過程の攪乱」の問題は『資本論』第2部第3篇においてどの
ように論じられようとしていたのかという点になると、両者の見解はまった
く異なるものになる。しかし、『資本論』第2部第3篇において、「再生産過
程の攪乱」の問題が、どのように・どのような視角から考察されるのかとい
うことが明らかにされないで、ただ単に同所で「再生産過程の攪乱」の問題
が論じられるとか論 じられないというだけでは、その主張は無内容である。
 第2に、いわゆる「内在的矛盾」が『資本論』第2部第3篇で論じられる
べき問題であるのかどうかという点については、富塚氏と大谷氏との間には
大きな見解の相違が存在した。見解の違いの原因は、『資本論』第2部第2
篇の注32の「覚え書」の内容理解の違いにある。富塚氏は、註32の「覚え書」
に記されているのは「生産と消費の矛盾」であり、その問題は「次の篇」=
『資本論 』第2部第3篇に属すべき問題であると主張した。これに対して、
大谷氏は、当該部分では、いわゆる「内在的矛盾」問題が『資本論』第2部

ー137ー

第3篇に属する問題であるとされている訳ではないと主張した。この見解の
違いは、エンゲルス版『資本論』第2部第2篇注32の論述中の「nie」という言葉を、
マルクスの意図を正しく反映した草稿解読の結果と考えるのか、それ とも、
「nie」は「nur」に入れ替えなければマルクスの意図を反映した草稿解読に
はならないと考えるのか、ということである。富塚氏は、エンゲルス編集の
通りに解読することによってはじめてマルクスの論述の意図を正しく読み取
ることができるということ、そして「覚え書 」にはいわゆる「内在的矛盾」
の記述があり、その問題は『資本論』第2部第3篇に属する問題であるとマ
ルクスが考えていたと主張した。これに対して、大谷氏は、エンゲルス編集版
『 資本論 』の解読nie は誤りであって、それはマルクスの意図を正しく反
映していない、nieを正しくnurと解読しなければならない、「覚え書」で説
明されているのは、「『内在的矛盾』…ではなかった」、「剰余価値の実現に
よる生産の制約について」の論述である、と主張した。
 両者の違いは、要するに、エンゲルス版『資本論』第2部第2篇注32の論
述中の「nie 」をそのまま受け止めてマルクスの意図を理解すべきか、それ
とも、エンゲルス版『資本論』第2部第2篇注32の論述中の「nie」を「nur」
と訂正したうえでマルクスの意図を理解すべきか、ということであるが、こ
の違いの究極の根拠を理解するために、富塚説の根拠を詳細に検討した。そ
の結果、問題は、論者にとってnie が正しいのか、それとも、nur だ正しい
のかという草稿解読・文言解釈の是非ではなく、「覚え書」に何が書かれて
いるべきかということであり、文言解釈の違いをもたらしているのは、論者
の再生産論理解の違いであるということが分かった。nie かnur かという問
題に答えるために、結局、最初の問題に戻ったという訳である。

        

(まつお・じゅん/経済学部教授/2003.11.11受理)

ー138ー

Marx's Theory of Reproduction and Theory of Crisis
in Karl Marx's Das Kapital

MATSUO Jun

  In  this  paper,  we  examined  arguments  concerning  Marx's  discussion  of  so-
called "internal contradiction" and "disturbances in the process of reproduction"
in Das Kapital Volume 2 Section 3, the Theory of Reproduction, and clarified the
following matters.

First, regarding the question of whether the issue of "disturbances in the proc-
ess of reproduction" should be discussed in Das Kapital Volume2 Section 3, the
Theory of Reproduction , Professors Ryozo Tomizuka and Teinosuke Otani both
argue that Marx was attempting to discuss the issue of "disturbances in the proc-
ess of reproduction.” However, their views differ completely on the how the
issue of "disturbances in the process of reproduction" was being attempted to be
discussed in Das Kapital Volume 2 Section 3, the Theory of Reproduction.

Merely presenting the question of whether or not" disturbances in the process
of reproduction" was discussed in Das Kapital Volume 2 Section 3 without any
reference to how and from what perspective such a question is to be discussed
results in arguments that are devoid of content.

Second, regarding the question of whether so-called "internal contradiction"
constitutes an issue that should be discussed in Das Kapital Volume 2Section 3,
a major gap exists in the views of Tomizuka and Otani. This difference of opinion
is attributable to the difference in the interpretation of the meaning of the so-
called "memorandum" appearing in footnote 32 of Das Kapital Volume 2 Section
2. Tomizuka argued that the "memorandum” in footnote 32 refers to the “cont-
tradiction between production and consumption" and belongs in the "next sec-

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tion: "that  is,  Das Kapital Volume 2 Section 3.  As  opposed to this, Otani argued
that the text in question does not contain any indication that the issue of so-
called "internal contradiction" belongs in Das Kapital Volume 2 Section3. This
difference in opinion is rooted in the question of whether the "nie" appearing in
footnote 32 of the Engels edition of Das Kapital Volume 2 Section 3 represents
the reading of the manuscript which correctly reflects Marx's intent, or whether
the manuscript should be read as "nur" to correctly reflect Marx’s thinking.
Tomizuka argued that the intent of Marx's argument can be properly understood
only if the text is read as it appears in the Engels edition.Based on this position,
he claimed that the “memorandum" does contain references to the so-called
"internal contradiction" issue and that Marx believed this to be an issue belong-
ing to Das Kapital Volume 2 Section 3. On the other hand , Otani argued that the
"nie" in the Engels edition of Das Kapital represented an error in reading and did
not correctly reflect Marx's intent; that "nie" should be correctly read as "nur";
and that the "memorandum" was not an explanation of 'internal contradiction'
"but rather a discussion of"restriction of production due to the realization of sur-
plus value."

To restate : the difference in the two positions reverts to whether the "nie" ap-
pearing in footnote 32 of the Engels edition of Das Kapital Volume 2 Section 2
should be accepted as it is to reflect Marx's intent,or whether the "nie"in foot-
note 32 of the Engels edition of Das Kapital Volume 2 Section 3 should be
changed to "nur" in understanding Marx's intent. In order to arrive at the ulti-
mate source of this disagreement, we undertook to examine in detail the grounds
of the Tomizuka's assertion and arrived at the following conclusions.The ques-
tion is not a matter of correctreading of the text and textual interpretation
wherein either "nie" or "nur" can be determined to be correct. The key question
concerns what should be written in the "memorandum” and the difference in
Tomizuka's and Otani's understanding of the theory of reproduction. Hence, we
have returned to the initial issue in attempting to respond to the question of
"nie" or "nur."

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