『経済経営論集』(桃山学院大学)第43巻第4号、2002年3月
 

 

「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」
――前畑憲子氏の批判に応える――

 

松 尾 純 

 

 

     T は じ め に

 現行版『資本論 』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則 」第15章「法
則の内的諸矛盾の展開」は、マルクスの方法に従って恐慌論を構築しようと
する論者にとって最重要視されてきた箇所であり、そこには、議論の重要な
手掛りとなる諸命題が多数存在するにもかかわらず、その論旨の明確な把握
が極めて困難な箇所である。そのため、同章の諸命題を、どのように理解し、
どのように恐慌論の構築に活かすべきか、多くの議論と論争が繰り返されて
きた。
 その際最重要とされてきた論題は、同章第3節のほぼ全紙幅を費やして展
開されている「資本の過剰生産」論(「資本の絶対的過剰生産」論および「現
実の資本の過剰生産」論)である。筆者は、2度に亙って(1度は1)、 『資本
論』第3部「主要草稿」の筆写ノ−ト2)を利用して、もう一度は3)、 Karl Marx/

1)拙稿「マルクスの「資本の過剰生産」規定について――『資本論』第3部第3篇第
15章第3節の分析を中心にして――」『経済学雑誌』第79巻4号、1979年3月。
2)この筆写ノ−トは、アムステルダムの社会史国際研究所蔵の『資本論』第3部「主
要草稿」を故佐藤金三郎教授がヨ−ロッパ留学中に同研究所に立寄られて筆写し
たものである。筆者は、旧稿を執筆するに際して、同教授の利用に先駆けて、同
草稿の現行版第15章第3節相当部分を訳出・引用することを許された。

ー235ー

Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd. 4, Teil 2 に公刊された同草
稿4)を利用して)、 同所(同草稿の231〜237ペ−ジ部分)におけるマルクスの
「 資本の過剰生産 」概念を詳細に分析し、資本過剰概念をめぐる従来の諸解
釈の問題点を再検討した。
上記拙稿の中心課題は、『資本論』第3部草稿においてマルクスが、2つの
資本過剰概念(「資本の絶対的過剰生産」と「現実の資本の過剰生産」)をど
のように概念的に 区別していたかであり、またこれら資本過剰概念と「 利潤
率の傾向的低下法則 」とをどのように関連づけ ていたかであった。この問題
は、その後も議論が積み重ねられてきたが5)、今回前畑憲子氏の新稿6)におい
て本格的に取り上げれ、上記拙稿 が批判の俎上に 上げられた。早速、拙稿に
対する批判論点を検討したが、そこには、看過し 得ない論点が 含まれている

3)拙稿「マルクスの「資本の過剰生産」論――再論:『資本論』第3部「主要草稿」
を踏まえて――」『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第2号、1994年12月。
同「『資本の絶対的過剰生産』論の復位――井村喜代子氏の見解の検討を通じて
――」『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第3・4号、1995年3月。
4)Karl Marx, Ökonomische Manuskript 1863-67, in :KarlMarx/Friedrich Engels
Gesamtausgabe (MEGA)
, Abt.U, Bd.4, Teil 2, 1992,Dietz Verlag.以下この書
Kapitalと略記する。引用に際しては、引用箇所を、引用文直後にKapitalの引用
ページと、それに対応するMEW版『資本論』(Karl Marx, Das Kapital,MEW,
Bd.25,Dietz Verlag,Berlin,1964)およびその邦訳(岡崎次郎訳『資本論』大月
書店,国民文庫版(6))の引用ページを次のように略記して示す。例,(Kapital,
221;MEW,1974;訳,234)。なお、訳文については、現行版と「主要草稿」との異
同が理解しやすいように、現行版『資本論』の訳文をベ−スにして、原文が異な
る場合だけ新たな訳文を当てた。
5)市原健志「【コメンタール】(特集 新MEGAと『資本論』第3巻の新コメンター
ル)第3篇 利潤率の傾向的低下の法則」『マルクス・エンゲルス・マルクス主義
研究』28/29号、1996年11月。早坂啓造「『資本過剰』論の体系的位置づけについ
て」『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』31号、1997年12月。大村泉『新
MEGAと《資本論》の成立』(293−303頁)、1998年。谷野勝明「資本の絶対的過
剰生産論に関する一考察」、富塚良三・吉原泰助編集『資本論体系 9−1 恐慌・産
業循環(上)』有斐閣、1997年。以下、これらの論文からの引用に際しては、原則
として、引用ページ数を引用文直後に、例えば(谷野、123頁)のように示すこと
にする。
6)前畑憲子「利潤率の傾向的低下法則」と「資本の絶対的過剰生産」――恐慌研究
の一論点――」『立教経済学研究』第55巻第1号、2001年7月。以下、本論文から
の引用に際しては、原則として、引用ページ数を引用文直後に、例えば(前畑、
456頁)のように示すことにする。
ー236ー

ことがわかった 。そこで、以下本稿において、前畑論文の問題点を明らかに
し、筆者に降り掛かった火の粉を払うことにしたい。

 U.筆者旧稿に対する前畑憲子氏の批判

 前畑氏による私見批判とは、以下のようなものである。
 「松尾氏は、『現実の資本の過剰生産』論で想定されている利潤率の低下は、
搾取率の低下から生ずる利潤率の低下 ではなく、生産力の発展 ⇒資本の有機
的構成高度化 に『 起因している 』利潤率の低下 であるとされている… 。そ
の際の主要な(一)論拠としては、『現実の資本の過剰生産』には『多少とも
大きな 相対的過剰人口 を伴う 』ことを挙げられているが、… これは論拠に
なりえない」(前畑、70頁)。
「松尾氏は『 現実の資本の過剰生産 』を生産力の発展 ⇒資本の有機的構成
高度化に『起因する』利潤率の低下であると捉えた上で、『資本の絶対的過剰
生産』と対比され、次のように述べられている。『両者の概念規定の中には、
明らかに相互排除的な関係 しかもち得ない規定が 一部含まれているように思
われる。「資本の絶対的過剰生産」は〔 急速な資本蓄積 →労働力不足や→賃
銀騰貴〕から導き出されるのに対して、「現実の資本の過剰生産」の方は、資
本蓄積 →相対的過剰人口の累進的生産 〕を伴いつつ発生するとされており、
両者は概念的に対立せざるをえないのである』… 。『資本の絶対的過剰生産』
と生産力の発展に起因する利潤率の低下との『 相互排除的な関係 』を問題に
するのであれば、それは、相対的過剰人口の 吸収か それとも排出かではなく
て、一方は搾取率の低下であり、他方は搾取率の上昇だという関係であろう
(72頁――引用文中の下線は松尾)。
 前畑氏と筆者の理解の違いは何処にあるのか。筆者は、「資本の絶対的過剰
生産」と「 生産力の発展 ⇒資本の有機的構成高度化に『起因している』利潤
率の低下 」の過程において現出する「現実の資本の過剰生産 」とを対立的に
捉え、前者は 相対的過剰人口の 減少によって現出するが、後者は相対的過剰
人口の増大を伴って現出する状況 であると理解 する。これに対して、前畑氏

ー237ー

は、「資本の絶対的過剰生産」と生産力の発展に起因する利潤率の低下との関
係は、「相対的過剰人口の吸収かそれとも排出かではなくて、一方は搾取率の
低下であり、他方は搾取率の上昇だという関係」(前畑、72頁)であり、「利潤
率の傾向的低下法則… を相対的過剰人口の 一方的排出と イコール のものと
して取り扱 」ってはならない( 75頁)、と主張される。前畑氏は、「生産力の
発展⇒資本の有機的構成高度化に『起因している 』利潤率の低下 」の場合に
は搾取率の上昇が見られるが、それに対して、「現実の資本の過剰生産」の場
合にも「 資本の絶対的過剰生産 」の場合にも搾取率の低下が見られ、したが
って「現実の資本の過剰生産 」と「資本の絶対的過剰生産 」の違いは「あく
まで『搾取率の低下』の程度問題である」(前畑、70頁)、と主張されるので
ある
 筆者に対するこの前畑氏の批判がはたして『資本論』第3部「 主要草稿 」
における資本過剰概念の 正当な 解釈に基づく批判であるのかどうか、以下、
本稿において検討することにしよう。

 V.「資本の絶対的過剰生産」と「現実の資本の過剰生産」と
「相対的過剰人口」の増減の関係――前畑説の検討

(1)問題の焦点は「資本の絶対的過剰生産 」と「現実の資本の過剰生産 」
と「 相対的過剰人口 」の増減の関係であるが、これら3つの概念の関係につ
いて前畑氏がどのように『資本論』を解釈し理解しているか確認するために、
まず問題に関連する氏の論述を纏めて引用しておこう。
 「『絶対的』に対する『相対的』というのは、多少なりとも相対的過剰人口
が存在し、追加投資が 剰余価値の 絶対量の増大をもたらすという点での区別
である。しかし『相対的』であるとはいえそれが過剰生産であるのは、『資本
主義的生産過程の「健全な 」「正常な 」発展が必要とするような搾取度』…
で労働を搾取する ことができないからである 。 すなわち、この追加投資によ
って剰余価値の『 絶対量 』は増加するにしても、ますます相対的過剰人口の
吸収は進み、したがってますます搾取率は低下 = 賃金が騰貴し、そのために

ー238ー

一般的利潤率は 急速に低下する。… こうして相対的な 過剰生産 においても
追加投資が停止する事態が生じ、それは『資本主義的生産過程の停滞や攪乱、
恐慌、資本の破壊を引き起こす』…ことになろう」(前畑、69-70頁)。
 「現実的な資本の過剰生産 」と「資本の絶対的過剰生産 」の「両者に共通
なのは、いずれも相対的過剰人口の 吸収によって労働の搾取度が『 一定の点
以下へ 』低下することによって、生ずる事態 とされていることである。した
がって、この事態は 賃金上昇による一般的利潤率の 低下の事態であって、そ
れは、資本の有機的構成高度化 によってもたらされる一般的利潤率の 低下で
はありえないのである 。 後者は、生産力の発展 によってもたらされるのだか
ら、それ自体としては、剰余価値率の上昇 を伴うのであって、剰余価値率の、
搾取率の低下によって生じるのではないからである」(前畑、70頁)。
 「マルクスが、『現実の資本過剰』が『資本の絶対的過剰生産』に比して『相
対的 』であるとするのは、あくまで『 搾取率の低下 』の程度問題である。つ
まり、ここでの追加投資停止へ導く 一般的利潤率の低下の原因は『 搾取率の
低下』であるとしている」(前畑、70頁)。
 「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」は、「いずれも『搾
取率の一定点以下への低下 』によって、すなわち、相対的過剰人口の吸収 ⇒
賃銀騰貴 ⇒利潤量の減少 ⇒利潤率の低下 によって生ずる事態 」である (前
畑、72頁)。
 「 資本の有機的構成の高度化から生ずる利潤率の低下 は、相対的過剰人口
の排出に結果するのだろうか 。 否である 。 利潤率の傾向的低下は生産力の発
展によって引き起こされるのであり、この発展は また、資本の蓄積の増大を、
すなわち、投下資本量の増加を伴っているからである」(前畑、73頁)。
 「 利潤率の傾向的低下は 相対的過剰人口の形成を伴い、同時にそれは相対
的過剰人口の吸収を伴うのである 。 前者の契機だけを問題にするのは、利潤
率の傾向的低下は 、利潤率の傾向的低下は 生産力の発展がその原因をなし、
その発展は同時に蓄積の過程であることが 、すなわち 、利潤量の増大を伴う
過程であることが見逃された結果である 。 それはまた、利潤率の傾向的低下
ー239ー

法則の内容についての無理解にもとづくものである」(前畑、73-74頁)。
 「利潤率の傾向的低下法則とは、利潤量の増大を伴う『 二重性格の法則 』
であって、したがって 、第1に、それを相対的過剰人口の 一方的排出とイコ
ールのものとして取り扱い 、それと、この過剰人口の 吸収によって生じる資
本の絶対的過剰生産とを対比して、『相互排除的関係』として考察することは、
そもそもこの法則の内容についての誤解である」(前畑、75頁)。
 「谷野氏は、『労働需要を増大させるほど蓄積が加速度的に進展してゆく現
実的根拠』…について 、『61−63草稿』におけるマルクスの一文 、『新たな生
産的基礎の上での労働量の増加が避けられないのは 、一部は低下する 利潤率
を 利潤量 によって埋め 合わせる ためであり、 … 』 … を援用して、次の
ように述べられている。『…資本の絶対的過剰生産は、資本構成高度化に起因
する利潤率の傾向的低下を 利潤量増大 により埋め合わそうとすることから、
蓄積がいっそう加速され 、それによって労働需要の増大が進み 、更新部分の
資本構成高度化 による労働者の 生産過程からの排出量よりも追加資本部分に
よる労働者の吸収量が大きくなる点が必然的に発生し 、そうした 相対的過剰
人口の動向を「 背景 」…としてやがて 労賃の市場率の 急騰が生じ、そのた
めに利潤量の増大 が不可能 となり、その結果として蓄積が停滞するという局
面を意味しているということになる 』 … 。生産力の発展が 引き起こす利潤
率の低下には利潤量の増大 が伴うのであって 、利潤率は低下させるにしても
その追加投資が 利潤量の増大 をもたらさないのであれば、その時点ですでに
絶対的過剰生産の事態になっているとしなければならない」(前畑、75頁)。
 以上が 、問題に関連する 前畑氏の論述である。要約すれば次のようになろ
う。《「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」は、いずれも相
対的過剰人口の吸収 → 賃銀騰貴 → 搾取度の低下によって生ずる。両者の相
違は、「『搾取率の低下』の程度[ が大きいか、それとも 、小さいかの――松
尾]問題 」である。他方、「資本の絶対的過剰生産 」と「利潤率の傾向的低下
法則 」との関係は 、相対的過剰人口の吸収かそれとも排出かではなくて、搾
取率の低下かそれとも搾取率の上昇かである。「利潤率の傾向的低下 」は、相
ー240ー

対的過剰人口の形成を伴い、同時に相対的過剰人口の吸収を伴うのであって、
相対的過剰人口の一方的排出とイコールではない》。
 このような前畑氏の主張に接して筆者がまず抱く疑問は 、前畑氏が「 現実
の資本の過剰生産 」を、< 相対的過剰人口の吸収 →賃銀騰貴 →搾取度の低
下 >によって生ずるとしている点である。率直に言って、そのような理解は、
『資本論』第3部草稿におけるマルクス の「現実の資本の過剰生産 」概念に
合致しているとは思えない。たとえば、『資本論』第3部には次のような叙述
が見られる。
 「 生産力が発展すればするほど 、ますますそれは消費関係が立脚する狭い
基礎と矛盾してくる 。このような矛盾に満ちた基礎のうえでは 、資本の過剰
が相対的過剰人口 の増大 と結びついているということ( daß redundancy of
capital verbunden ist mit wachsender relativerSurpluspopulation)は、けっ
して矛盾ではない 。なぜなら、両者をいっしょにすれば 、生産される剰余価
値の量は増大するであろうとはいえ 、まさにそれとともに 、この剰余価値が
生産される諸条件とそれが実現される諸条件 とのあいだの矛盾が 増大するか
らである」(Kapital,313;MEW,255;訳,401――太字は松尾)。「このような
資本の過多は、相対的過剰人口を 刺激するのと同じ事情 から生じるものであ
り、したがって相対的過剰人口を 補足する現象 である 。… 2つのものは互
いに反対の極に立つのであって 、一方には遊休資本が立ち 、他方には遊休労
働者人口が立つのである」(Kapital,325;MEW,261;訳,410)。「 このような
資本の過剰生産[=「 現実の資本の過剰生産 」]が多少とも大きな相対的過剰
人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。(この相対的過剰人口の減
少は、それ自身すでに恐慌の一契機である 。というのは 、それは、うえで考
察された資本の絶対的過剰生産の場合 に近づくからである。)… [ 相対的過
剰人口が ]過剰資本によって充用されないのは 、それが労働の 低い搾取度で
しか充用 できないからであり 、… 与えられた搾取度の もとでそれが充用さ
れるであろう利潤率が低いからである」 ( Kapital, 330; MEW, 266;訳,417-
418)。
ー241ー

 見られるように 、マルクスは、< 資本の過剰が相対的過剰人口の増大と結
びついている > 、< このような資本の過多は、… 相対的過剰人口を補足す
る現象である>、<このような資本の過剰生産[=「現実の資本の過剰生産」]
が多少とも大きな相対的過剰人口を 伴うということは 、けっして矛盾ではな
い> 、< [相対的過剰人口は]過剰資本によって充用されない(充用されると
しても、低い搾取度で充用される)>、と論じているのである7)
 ここで注目すべきは、マルクスは、「資本の過剰」と「相対的過剰人口」と
が結びついていると言っているのではなくて 、<資本の過剰 >と<相対的過
剰人口の増大 >とが結びついていると言っている点である 。前畑氏は、マル
クスのこの「 増大 」という文言の存在を無視して、<資本の過剰が相対的過
剰人口の吸収[=相対的過剰人口の「減少 」――松尾 ] →賃銀騰貴 →搾取度
の低下によって生じる>と主張されるのである。
 前畑氏は、「現実の資本の過剰生産 」は< 相対的過剰人口の吸収→賃銀騰
貴→搾取度の低下によって生ずる >と言いながら、他方で「 現実の資本の過
剰生産 」と「利潤率の傾向的低下法則 」は切り離して理解すべきであると主
張せんがために、「利潤率の傾向的低下」過程は搾取度の上昇と結びつけて理
解すべきであると主張される。すなわち、「資本の有機的構成高度化によって
もたらされる 一般的利潤率 の低下 」は「 剰余価値率 の上昇 を伴うのであ
って、… 搾取率の低下によって生じるのではない 」( 前畑 、70頁 )、と。と
ころが、他方で、前畑氏は、「利潤率の傾向的低下」過程は相対的過剰人口の
一方的排出とイコールのものと 理解してはならないと言われる 。この2つの
主張(「利潤率の傾向的低下」過程と搾取度の上昇とを結びつけて理解すべき
であるという主張と「 利潤率の傾向的低下 」過程は相対的過剰人口の一方的
排出とイコールのものではないという主張 )は 、果たして、前畑氏において
どのように関連づけられているのであろうか。

7)ここで言われる「資本の過剰(生産)」とは、前後の文脈から考えて、間違いなく、
「資本の絶対的過剰生産」のことではなく、「現実の資本の過剰生産」のことであ
る。
ー242ー

 「利潤率の傾向的低下」の過程は、文字通り「傾向的」低下の過程であり、
その実際の過程は、さまざまな諸局面 ・ 諸部面を含むジグザグの諸過程であ
る 。したがって、そこには 、相対的過剰人口を反発する諸局面と同時に相対
的過剰人口を吸引する諸局面が含くまれているし 、相対的過剰人口を 反発す
る生産諸部面と 同時に相対的 過剰人口を吸引する生産諸部面が含くまれてい
る。したがって、「利潤率の傾向的低下」の過程は、<相対的過剰人口の一方
的排出とイコールのもの >であると単純化できるはずがない 。このことを十
分承知のはずの前畑氏が、「利潤率の傾向的低下」過程は<相対的過剰人口の
一方的排出とイコールのものではない >という当たり前 の命題をわざわざ強
調されるからには、それなりの特別の理由があるはずである 。それは 、当然
「傾向的 」低下の上述のような意味を確認するためではないであろう 。そう
ではなくて、前畑氏が殊更そう主張する目的は、「利潤率の傾向的低下」過程
が進行する諸局面・諸部面は 、全体として総括して見れば 、相対的過剰人口
吸収過程であると理解すべきであると主張したいからではなかろうか。しかし。
そのような理解は、「 利潤率の傾向的低下法則 」の過程の理解として正当な
ものとは思えない。
 というのは、「利潤率の傾向的低下」と相対的過剰人口の生産との関係につ
いて マルクスが 次のように 述べている からである 。「 労働の生産力を高
くし 、 … 資本の蓄積を … 促進し 、利潤率を 低下させた事情 、その同じ
事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしているので
あって 、それが過剰資本によって充用されないのは 、それが労働の低い搾取
度でしか充用できないからであり 、または少なくとも 、与えられた搾取度の
もとでそれが充用されるであろう利潤率が低いからである 」 ( Kapital,330;
MEW,266;訳,417-418)。
 ここで述べられていることは、<利潤率を低下させた事情」と「同じ事情」
( = 資本の 有機的 構成高度化 )が他方では「 相対的 過剰人口 を生みだ
し…また絶えず生みだしている 」ということ 、その相対的 過剰人口 は「過
剰資本によって充用」しても「低い搾取度でしか充用できない」、ということ
ー243ー

である。このマルクスの論述を無視して、前畑氏は、「利潤率の傾向的低下」
過程は相対的過剰人口の一方的排出 とイコール ではないと主張されるのであ
る。その一方で、前畑氏は、「利潤率の傾向的低下」過程を搾取度の上昇過程
と結びつけて理解すべきであると言われる。「利潤率の傾向的低下 」過程が、
相対的過剰人口の一方的排出と イコールのものでない( 相対的過剰人口の吸
収過程である)という命題が成立するとすれば 、そこには、< 相対的過剰人
口の減少→賃金上昇 ・搾取率の低下>の要因が働いているはずである 。とこ
ろが、前畑氏は、逆に、その過程は搾取度の上昇をもたらすと言われるのである。
それはどういう訳なのか、筆者には、直ちに理解できない主張である。
 (2)前畑氏は 、上記新稿で筆者を批判するだけでなく、同時に「 資本の
絶対的過剰生産 」概念を分析する谷野勝明氏の論稿をも批判されている 。し
かし、その批判は 、有効な谷野説批判にはなっておらず 、逆に、批判者自身
の所説の問題点を浮き立たせるものとなっているように思われる。
 批判対象となった谷野氏の主張とは次のようなものである。すなわち、「資
本の絶対的過剰生産は 、資本構成高度化に起因 する利潤率の傾向的低下を利
潤量増大により埋め合わそうとすることから 、蓄積がいっそう加速され 、そ
れによって労働需要の増大が進み 、更新部分の資本構成高度化 による労働者
の生産過程からの排出量 よりも追加資本部分 による労働者の吸収量が大きく
なる点が必然的に発生し 、そうした相対的過剰人口の動向を『 背景 』 …と
してやがて労賃の市場率 の急騰が生じ 、そのために利潤量の増大が不可能と
なり、その結果として蓄積が停滞するという局面を意味している」(谷野、230−
231頁)。
 この論述に対する前畑氏の批判はこうである。すなわち、「資本の有機的構
成の高度化に伴う 利潤率の低下過程で 、一般的にその低下を利潤量の増大で
『埋め合わせ』ようとして資本蓄積が加速化され → 全体としての相対的過剰
人口の吸収 →賃銀騰貴 →利潤量増大不可能 (搾取率低下 ) → 蓄積の停滞と
いうのであれば 、結局 、資本の有機的構成の高度化に伴う利潤率の低下は、
利潤量で『埋め合わせ』ることはできないということになる。つまり、『資本
ー244ー

の有機的構成の高度化 にともなう利潤率の 低下には 利潤量の増大 がともな
う』という、『二重性格』としての『利潤率の低下法則』は妥当しない(不成
立 )ということに論理的にならざるをえない 。 … そもそも 利潤率の低下過
程は生産力の発展を伴った資本蓄積 の過程であり 、この蓄積が利潤量そのも
のを減少させるものであるとすれば …… 利潤率の低下をもたらす生産力の発
展もまたありえないであろう」(前畑、74−75頁) 。「改良された生産方法が普
及し、利潤率の低下が現れる → そこでそれを利潤量の増大で『埋め合わせ』
ようとする →蓄積加速化 これが『資本の絶対的過剰生産 』に行き着く蓄積
加速化の『現実的根拠 』であると一般的にいうのであれば 、これもまた不合
理である 。改良された生産方法が普及した時点 ですでに利潤率の低下を利潤
量で補いえない事態が現実化しているのであれば、そのこと自体がすでに『絶
対的過剰生産 』に立ち至って いるということ であって 、あらため量での補
償のために資本蓄積が 加速化することも 、またそのための諸資本の競争も生
じる余地がないのである」(前畑、75頁 )。「生産力の発展が引き起こす利潤率
の低下には利潤量の 増大が伴うのであって 、利潤率は低下させるにしてもそ
の追加投資が利潤量の増大を もたらさないのであれば 、その時点ですでに絶
対的過剰生産の事態になっているとしなければならない」(前畑、75頁)。
 谷野氏の対するこのような前畑氏の批判は 、筆者の見るところ 、有効な批
判にはなっておらず 、谷野氏の所説 に含まれる積極面をまったく理解しない
的外れな批判であるように思われる。
 谷野氏は、「利潤率の傾向的低下を利潤量増大により埋め合わそうとするこ
とから、蓄積がいっそう加速され、… 労働需要の増大が進み 」、やがて「更
新部分の資本構成高度化 による労働者の生産過程 からの排出量よりも追加資
本部分による労働者の吸収量が 大きくなる点が必然的に発生 」し、その結果
「資本の絶対的過剰生産」が現出すると説明している。つまり、「利潤率の傾
向的低下 」過程において 、過程の最初から「更新部分の資本構成高度化によ
る労働者の生産過程からの排出量よりも 追加資本部分 による労働者の吸収量
が大きくなる」事態にあるわけではなく、「加速的蓄積」の過程進行の結果到
ー245ー

達する「 必然的な帰結 」としてそうした事態が招来しやがてその最終局面と
して「資本の絶対的過剰生産 」が現出すると理解しているのである 。したが
って、谷野氏にとって、問題は、「資本の絶対的過剰生産」が現出する「時点」
が 、いつ 、いかにして必然的に到来するのかということであり、谷野氏の主
張が成立しうるかどうかはこの点の解明に掛かっているのである 。 それゆえ、
谷野氏は、「例解」を用いてこの問題を懸命に解明しようとされている(谷野、
226-231頁)。
 「例解 」とは次のようなものである。すなわち、《不変資本200+可変資本
200+剰余価値200から、総資本の1/10を更新投資、資本構成c:vを1:1
から4:1に高度化するとして、剰余価値の25%を蓄積する場合、50%を蓄積
する場合、75% を蓄積する場合、80%を蓄積する場合について考察している。
このうち剰余価値の75%を蓄積の場合、結果は、資本構成は不変資本( 180+
20+12+120=332)+可変資本(180+8+30=218)となり、可変資本は200か
ら218へと増大し、現存の相対的過剰人口量20 に更新投資部分の資本構成高度
化による労働者排出量12が加わったしても、追加資本部分の追加労働需要量
30 を差し引けば 、資本構成高度化にもかかわらず相対的過剰人口が減少す
る》。
 この谷野氏の「例解 」は、その積極的な意図はともかく 、現実離れした数
値例であるように思われる。というのは、「例解 」における<不変資本200+
可変資本200+剰余価値200から、総資本の1/10を更新投資、資本構成c:v
を1:1から4:1に高度化する>という数値を、少しばかり「現実的なもの」
にするために、『資本論』第2部でマルクスが使用している数値に変更してみ
れば、違った結果が得られるからである。
 試しに、『資本論』第2部第3篇第21章第3節「蓄積の表式的叙述」の再生
産表式aの第T部門の数値8)を使って谷野氏と類似の「例解」を試みてみよ
う。<不変資本4000+可変資本1000+剰余価値1000から、総資本の1/10を

8)Karl Marx,Das Kapital,MEW,Bd.24,Dietz Verlag,Berlin,1964,S.501.カー
ル・マルクス著、岡崎次郎訳『資本論』、大月書店、国民文庫(5)、408頁。
ー246ー

更新投資、資本構成c:vを4:1から16:1に高度化する(最初の資本構成
が谷野氏の例解と同じく4倍化する)>とすれば、そして、極端にも<剰余価値
を100%蓄積する>とすれば 、結果は、<資本構成は不変資本( 3600+471+
941=5012)+可変資本(900+29+59=988)>となる。すなわち、可変資本は
1000から988 に減少し 、相対的過剰人口量が増大するという結果が得られる。
この数値が極端であるというのであれば、<資本構成が14:1になり、剰余
価値が100%蓄積される >場合はどうか 。結果は、<資本構成は不変資本
(3600+467+933=5000)+可変資本(900+33+67=1000)>となり、可変資本
1000 は不変であり相対的過剰人口量は不変であるという結果が得られる 。つ
まり、資本構成が4:1から14:1以上に高度化すれば、剰余価値の蓄積率が
どうであれ、相対的過剰人口量は増大するということになる。
 剰余価値の100% を蓄積するのではなく、谷野氏の「例解」のように剰余価
値を75%蓄積するとして、資本構成を4:1から例えば 25:2に高度化する
場合を考えてみると、結果は、資本構成は不変資本(3600+463+694=4757)
+可変資本(900+37+56=993)となり、相対的過剰人口は増大するという結
果が得られる。
 以上の簡単な数値例から次のような結論が得られる 。すなわち 、資本構成
がある程度以上に高度化した状態から出発する場合には、剰余価値を100% 蓄
積したとしても 、蓄積に伴う資本構成の高度化率がある程度以上の場合には、
可変資本総額は減少し 、社会全体の相対的過剰人口量 は増大するという結果
が得られる 。また『資本論 』第2部の拡大再生産表式で仮定されているよう
に剰余価値の50%を蓄積率するとすれば、資本構成が4:1から10:1以上
に高度化しさえすれば 、可変資本総額は減少し 、相対的過剰人口量は増大す
る 。出発時点の資本構成が高ければ高いほど 、資本蓄積に伴う資本構成の高
度化率がそれほど高くなくても 、剰余価値の蓄積率がどうであれ 、相対的過
剰人口量は増大する。言い換えれば 、資本主義的生産が発展し 、資本の有機
的構成がきわめて高い時点 を出発点にして 資本蓄積が開始 される場合には、
剰余価値がどれほどの率で蓄積されても 、資本構成の高度化率 がわずかでも
ー247ー

あれば、相対的過剰人口量は増大するということになるのである。
 こうして分かることは、谷野氏の「例解」は、「極端な」数値例に依拠した
「例解」であり、現実妥当性を欠いているということである。谷野氏は、「利
潤率の傾向的低下 」過程において「 利潤率の低下を利潤量増大により埋め合
わ」せようと資本蓄積を開始した時点では 、まだ「 資本の絶対的過剰生産」
状況にはないが、その後 、資本蓄積は加速化されてゆけば 、そのような状況
がやがて到来すると考え 、それが、いつ 、いかにして必然的に到来するのか
――つまり、「資本の絶対的過剰生産」の状況がいかに必然的に現出するのか
というプロセス ―― を説明するために数値例を示されたのであるが、上述し
たように、それは現実妥当性を欠いたものになっているのである。
 ところで、谷野氏は 、先の論述中で 、何故か、マルクスの「現実の資本の
過剰生産」概念に一切言及していないのである 。筆者がかつて『資本論 』第
3部「主要草稿」の第3編第15章第3節相当部分の論述を詳細に分析し、同
所の主要テーマは「現実の資本の過剰生産 」概念であることを指摘し 、この
資本過剰概念が「資本の絶対的過剰生産 」や「利潤率の傾向的低下法則 」に
対して如何なる関連にあるかを明らかにした。ところが、谷野氏は、「利潤率
の傾向的低下 」過程と「資本の絶対的過剰生産 」との関係を解明されている
が、それら両概念と「 現実の資本の過剰生産 」概念とがどのような関連して
いるのかを解明しないばかりか 、事実上「現実の資本の過剰生産 」概念を無
視して議論を展開している。それは何故なのか 。マルクスが『資本論 』第3
部草稿において 論理次元 の制約を踏まえつつ 懸命に論述 しようとしている
「概念 」を無視するのであれば 、そこには相当の理由がなければならない。
ところが、それが一切示されていないのである。
 「資本の絶対的過剰生産 」の発現プロセスの「例解 」に不備な点があり、
その発現プロセスの解明に関連ある「 現実の資本の過剰生産 」概念に一切言
及しないという点で谷野説は批判 されるべきであると 筆者は考えるのである
が 、前畑氏の批判はそのような 問題点を的確に衝く有効な批判になっておら
ず、むしろ自説の問題点を浮き上がらせることになっているように思われる。
ー248ー

 谷野氏は、「利潤率の傾向的低下」過程の最初の段階には「更新部分の資本
構成高度化による労働者の 生産過程からの 排出量よりも追加資本部分による
労働者の吸収量が大きくなる 」状況でなかったものが 、過程の進行の結果と
して「 更新部分の資本構成高度化 による労働者の生産過程からの排出量より
も追加資本部分による労働者の吸収量が大きくなる 」状況が発生し 、やがて
その過程の「必然的な帰結 」として「資本の絶対的過剰生産 」状況が現出す
ると説明する。それに対して 、前畑氏は 、利潤率の低下を利潤量増大により
埋め合わそうとすれば 、そこにはすでに「資本の絶対的過剰生産 」状況が現
出していることを意味するとし、「資本の絶対的過剰生産」状況の出現の以前
か以後かの違いは、「更新部分の資本構成高度化による労働者の生産過程から
の排出量よりも追加資本部分による 労働者の吸収量が大きくなる 」事態の有
無ではなく、<相対的過剰人口の吸収・減少→搾取率の低下>作用の「程度」
が問題であるとするのである。それは、前畑氏は、「利潤率の傾向的低下」過
程を、全体として見れば相対的過剰人口の吸収過程 ・ 搾取度の上昇過程であ
ると理解しているからである。谷野氏は、正当にも、「更新部分の資本構成高
度化による労働者の生産過程からの 排出量よりも 追加資本部分による労働者
の吸収量」が大きくない状況が、「利潤率の傾向的低下」過程の最初の段階に
存在するとし 、過程の進行の結果 、やがて「更新部分の資本構成高度化によ
る労働者の生産過程からの 排出量よりも 追加資本部分 による労働者の 吸収
量 」が大きくなる状況が出現しその過程の最終局面として「 資本の絶対的過
剰生産」状況が現出するとされるのであるが、前畑氏は、「利潤率の傾向的低
下 」過程の最初の段階にそのような「 更新部分の資本構成高度化による労働
者の生産過程からの排出量よりも 追加資本部分による労働者の吸収量 」が大
きくない状況の存在自体を認められないのである。
 前畑氏が 、谷野氏の議論の枠組と その積極的な側面を正当に受け止めるこ
とができない原因は、前畑氏の側にあると考えられる。
 前畑氏による2つの資本過剰概念の区別はこうである。すなわち《「現実の
資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」の相違は、「あくまで『搾取率
ー249ー

の低下』の程度問題である」(前畑、70頁)、「現実の資本の過剰生産」と「資
本の絶対的過剰生産 」は、「いずれも …相対的過剰人口の吸収 ⇒賃銀騰貴
⇒利潤量の減少⇒利潤率の低下によって生ずる事態 」(前畑、72頁)である;
「現実の資本の過剰生産 」と「資本の絶対的過剰生産 」は、いずれも「 相対
的過剰人口の吸収 ⇒賃銀騰貴 ⇒利潤量の減少 ⇒利潤率の低下によって生
ずる事態」である》と。要するに、「『搾取率の低下』の程度」が深刻でない
状況が「現実の資本の過剰生産」であり、「『搾取率の低下』の程度」が深刻
化すれば「資本の絶対的過剰生産」が現出するというのである。
 他方、「現実の資本の過剰生産」と「利潤率の傾向的低下法則」の関係につ
いて前畑氏は次のように説明する。すなわち、「『相対的』であるとはいえそ
れが過剰生産であるのは、『資本主義的生産過程の「健全な」「正常な」発展
が必要とするような搾取度 』 … で労働を搾取すること ができないからであ
る。…… 追加投資によって剰余価値の『 絶対量 』は増加するにしても、ます
ます相対的過剰人口の吸収は進み、したがってますます搾取率は低下 = 賃銀
が騰貴し、そのために一般的利潤率が急速に低下する」(前畑、69-70頁)。「現
実的な資本の過剰生産」は、「相対的過剰人口の吸収によって労働の搾取度が
『一定の点以下へ』低下することによって、生ずる事態」・「賃金上昇による
一般的利潤率の低下の事態」である(前畑、70頁)。「資本の有機的構成高度
化によってもたらされる一般的利潤率の低下」は、「剰余価値率の上昇を伴う
のであって、… 搾取率の低下によって生じるのではない 」( 前畑 、70頁 )。
「 資本の有機的構成の高度化から生ずる利潤率の低下は 、相対的過剰人口の
排出に結果するのだろうか。否である 。」(73頁 )。 利潤率の傾向的低下法則は
「相対的過剰人口の一方的排出とイコール 」ではない( 前畑 、75頁 ) 、と。
 要するに、<「現実の資本の過剰生産」は、相対的過剰人口の吸収、搾取率
は低下 =賃 銀騰貴によって生じる事態である>、<「利潤率の傾向的低下法
則」過程は、 剰余価値率の上昇を伴う過程であり、かつ相対的過剰人口の排
出に結果しない過程である>というのである。
 このように、前畑氏は、何の理論的媒介もなく<「利潤率の傾向的低下法則」
ー250ー

過程は相対的過剰人口の排出に 結果しない過程である >と主張するのである
が 、そのような主張は疑問 とせざるを得ない 。というのは 、そうようなこ
とを主張するのであれば、<「利潤率の傾向的低下法則」過程は、剰余価値率
の上昇を伴う過程である>と言うのではなく、むしろ、<「利潤率の傾向的低
下法則 」過程は 、剰余価値率の低下を伴う過程である>と主張しなければな
らないはずである。<「利潤率の傾向的低下法則」過程は、剰余価値率の上昇
を伴う過程である>ということを主張するためには、その前に、「利潤率の傾
向的低下法則」過程における《 相対的過剰人口の [排出ではなく] 吸収 →搾
取率の低下 》と《労働生産力の発展→搾取率の上昇 》とが比量されなければ
ならない。ところが、前畑氏は、何の理論的媒介もなく、一方で、<「利潤率
の傾向的低下法則 」過程は相対的過剰人口の排出 に結果しない過程である>
と言い、他方で、<「利潤率の傾向的低下法則」過程は、剰余価値率の上昇を
伴う過程である>と主張しているのである 。筆者には理解し難い議論である。

 以上、本稿において、マルクスの2つの資本過剰概念(「現実の資本の過剰
生産」・「資本の絶対的過剰生産」)に関する前畑憲子氏の見解=拙稿批判を
種々検討してきたが、以下簡単に論点を纏めておこう。
 前畑氏は、<「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」は「い
ずれも相対的過剰人口の吸収⇒賃銀騰貴[・搾取率の低下]⇒利潤量の減少
⇒利潤率の低下によって生ずる」;両者の違いは、「あくまで『搾取率の低下』
の程度問題である」;「資本の有機的構成高度化によってもたらされる一般的
利潤率の低下」は「搾取率の低下によって生じるのではない」;「資本の有機
的構成の高度化から生ずる利潤率の低下は 、相対的過剰人口の 排出に結果」
しない ; 利潤率の傾向的低下法則は「相対的過剰人口の一方的排出とイコー
ル」ではない>と主張される。
 これに対して筆者は 、本稿において 、次のような疑問を提示した。すなわ
ち、「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」は「いずれも相対
的過剰人口の吸収⇒賃銀騰貴 [・搾取率の低下 ] ⇒ 利潤量の減少 ⇒ 利潤率

ー251ー

の低下によって生ずる」と言えるのか;両者の違いは、「『搾取率の低下』の
程度」だけの問題と言えるのか;「資本の有機的構成高度化によってもたらさ
れる一般的利潤率の低下 」は「搾取率の低下によって生じるのではない 」と
いうことからすれば 、「 資本の有機的構成の高度化から生ずる利潤率の低下
は、相対的過剰人口の排出に結果」しないと言うことができるのか。
(まつお・じゅん/経済学部教授/2002.1.22受理)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー252ー

Summary in English

"Actual Overproduction of Capital" and
"Absolute Overproduction of Capital"

   ーA Response to the Criticisms of Professor Noriko Maehataー

Jun Matsuo
 
  For scholars attempting to construct a theory of crisis based on the
methodology of Marx, Chapter 15 of Book 3 of Das Kapital represents an
area of highest interest as it contains numerous subjects of critical
importance to the discussion. In fact, the contents of Chapter 15 have
been the subject of numerous and repeated discussions and arguments.
The key issue in these discussions has been Marx's "overproduction of
capital" ("absolute overproduction of capital" and "actual overproduc-
tion of capital") which appear in Part 3 of Chapter 15 of Book 3 of Das
Kapital. In the past, I have undertaken a detailed analysis of Marx's con-
cept of the "overproduction of capital" on two separate occasions (once
using the hand-copied notes by Professor Kinzaburo Sato from the "main
manuscript" of Das Kapital Book 3(in posession of Internationaal
Instituut voor Sociale Geschiedenis), and a second time using the manu-
script published in Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.II,Bd.
4,Teil 2) for the purpose of re-examining the problems in various exist-
ing interpretations of the concept of overproduction of capital.
In the above-mentioned studies, I examined two central qestions: How
does Marx differentiate between the two concepts of overproduction of
capital ("absolute overproduction of capital" and "actual overproduction
of capital") in the manuscript of Book 3 of Das Kapital? And, how does
he relate these two concepts of overproduction of capital to the "law of
falling profit rates?" In her recent paper ("'Law of Falling Profit Rates'
ー253ー

and 'Absolute Overproduction of Capital' -- An Issue in Crisis Studies,
" Rikkyo Keizaigaku Kenkyu(St. Paul's Economic Review), Vol. 55, No. 1,
July 2001), Professor Noriko Maehata has undertaken a thorough study
of these issues and has made my above-mentioned studies the subject of
her criticism. Upon examining the various criticisms directed against my
work by Professor Maehata, I have discovered several serious problems
that cannot be overlooked.
Professor Maehata's position is as follows. "Actual overproduction of
capital" and "absolute overproduction of capital" are both the results of
the following causal nexus: absorption of relative overpopulation --> ris-
ing wages and falling rate of exploitation-->reduction in profits-->falling
rate of profit. Any difference between the two is strictly a question of a
difference in the degree of the "falling rates of exploitation."The Fall in
the general rate of profit resulting from the development of the organic
composition of capital is not generated by the fall in the rate of
exploitation. The fall in the rate of profit resulting from the development
of the organic composition of capital does not lead to the creation of rel-
ative over population. The law of falling profit rates is not equivalent to
the unilateral creation of relative overpopulation without the absorption
of relative overpopulation.
My purpose in the present paper is to identify the faults in these
interpretations and to rebut the criticisms that have been directed toward
me.
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー254ー