『経済経営論集』(桃山学院大学)第42巻第3号、2001年1月発行

  

「1861―63年草稿」における
生産価格概念の生成

 

松尾 純

 

T.は じ め に

 マルクスの生産価格論は果たして何時頃成立したかのか、また、その生産
価格論を彼の著述プラン「経済学批判体系」の「資本一般」に編入するとい
う構想が何時頃から抱き始められたのか。これらの問題については、マルク
ス執筆の「1861―63年草稿」 (いわゆる23冊のノート )1)がMEGA刊行によ
って全面的に公刊されるにつれ活発に議論されるように なった。とりわけ、
新たに公刊された草稿部分の一部である草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」
部分(ノート第16冊、17冊)が、いわゆる『剰余価値学説史』部分(第6冊
〜第15冊 )に先立って執筆されたことが大村泉氏の文献考証2)によって明ら

1)Karl Marx,Zur Kritik der politischen Ökonomie(Manuskript 1861- 63), in:
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.U,Bd.3, Teil 1, 1976;Teil
2,1977;Teil 3,1978;Teil 4,1979;Teil 5,1980;Teil 6, 1982,Dietz Verlag.以
下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は 、資本論草稿集翻訳委員
会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する )CDEFGH、大月書
店、1978, 1980, 1981, 1982, 1984,1994年に従う。部分的に訳文を変更する場
合があるが、いちいち断わらない。以下この書からかの引用に際しては、引用箇所
を、引用文直後にMEGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して
示す。例(MEGA,1974;草稿集C234 )。
2)生産価格論の成立過程に関する大村泉氏の研究は、次の諸論文・著書にその成果
を見ることができる。@大村泉「一般的利潤率・生産価格と剰余価値の利潤への

ー249ー

かにされるに及んで議論が活発化した。
 草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」部分が、MEGA旧編集部が言うよ
うに、執筆後に記されたノート 番号(第16、17冊 )順に執筆されたとすれ
3)、マルクスの生産価格論は、『剰余価値学説史』の「g)ロートベルトゥ
ス氏」・「h)リカード」部分における生産価格に関する詳細な研究を俟って
初めて成立の緒についたと考えられ、その後執筆された草稿「第3章 資本
と利潤」・「雑録」部分における平均利潤や生産価格に係わる議論は、『剰余
価値学説史』の「g)ロートベルトゥス氏」・「h)リカード」部分の研究成
果を踏まえた議論であるということになる。ところが、大村氏の考証どおり
に、草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」部分が執筆後に記されたノート番
号(第16、17冊)順にではなく『剰余価値学説史』部分に先立って執筆され
たということであれば、『剰余価値学説史』の「g)ロートベルトゥス氏」
・「h)リカード」部分における生産価格に関する研究は、逆に、草稿「第3

転化」『北海学園大学経済論集』第30巻第3号、1982年12月。ABC大村泉「生
産価格と『資本論』の基本論理」(上)(中)(下)『経済』227,228,229号、
1983年3,4,5月 。D大村泉「論文集『「資本論」第二草稿 』( Der zweite
Entwurf des 》Kapital《(ベルリン、1983年)の刊行によせて(上)」『経済』
240号、1984年4月。E大村泉「草稿「第3章 資本と利潤」=1862年12月作成
説にたいして」『経済』241号、1984年5月。F大村泉,Über die Entstehungsー
phasen des "Dritten Capitel.Capital und Profit" und der "Miscellanea":
Dezember 1862 oder Dezember 1861?, Beiträge Zur Marx-Engels-Forschung,
Bd.16, 1984.G大村泉「資本一般と競争――草稿第3章『資本と利潤』を中心
に―」経済理論学会編『『資本論』の現代的意義』(経済経済理論学会年報第21
集)、青木書店、1984年。H大村泉「新『メガ』編集者による編集訂正と『資本
論』成立史の新たな時期区分――『マルクス・エンゲルス研究論集』第16集
(Beiträge zur Marx-Engels-Forschung,Heft 16,Berin,1984)による私見の公
表によせて――」『経済』259号、1985年11月。I大村泉・大野節夫「DDRでの
二つのコロキウムに参加して」『経済』261号、1986年1月。J大村泉「絶対地代
の発見と『資本一般』― 『剰余価値学説史』『g.ロートベルトゥス氏』と草
稿第3章『資本と利潤』との連繋――」『経済学』(東北大学 )第48巻第3号、
1986年11月。K大村泉『新MEGAと《資本論》の成立』八朔社、1998年。等々。
以上の諸文献から引用する際は、引用文直後に、文献番号とページ数を、例え
ば次のように示すことにする。例、(大村B、345頁)。
3)周知のように、この旧メガ編集部の見解は、大村氏の批判を受け入れて、その後
変更された。

ー250ー

章 資本と利潤」「雑録」部分における平均利潤や生産価格に係わる議論を
踏まえたものであるということになる。その場合、「第3章 資本と利潤」・
「雑録」部分における研究が生産価格論の生成にとって決定的な役割をなし
たのか、それとも、これまで通り『剰余価値学説史』の「g)ロートベルト
ゥス氏」・「h)リカード」部分における研究を俟って初めて生産価格論の本
格的な成立が始まったと考えるべきか、という問題が生じてくるのである。
こうして、「1861―63年草稿」の公刊後、この問題が『資本論』成立史研究
の主要問題の一つとして活発に議論されるようになったのである。

 U. 生産価格論の成立過程を巡る議論――大村説への批判と反論

生産価格論の成立過程を 巡るこの問題を最初に提起されたのは大村泉氏で
ある。大村氏は、この問題に関するMEGA編集部に代表される旧説に対し
て、『剰余価値学説史』の「g)ロートベルトゥス氏」・「h)リカード」部
分における研究は生産価格論の成立や「資本一般」への生産価格論の編入構
想の成立にとって決定的な契機・画期をなしてはいない、なぜなら、生産価
格論の「資本一般」への編入構想は『剰余価値学説史』起筆前後に成立した
のであって、それが可能になったのは『剰余価値学説史』に先行して執筆さ
れた草稿「第3章 資本と利潤」末尾において「価値―生産価格」問題の基
本的解明が果たされていたからである、と主張された。筆者は、大村氏の草
稿執筆時期推定の正しさを 独自の文献考証によって確証することができた
4)、生産価格論の成立過程については、氏の主張に同意することができな
かった5)。大村氏の所説に対して、筆者は、『剰余価値学説史』起筆前後にそ


4)拙稿「1861―63年草稿記載の『第3章 資本と利潤』の作成時期について 」『経
済経営論集』(桃山学院大学 )第26巻第1号、1984年6月において、筆者は、「生
産価格」概念の表わす用語の変遷過程および「資本の有機的構成 」に関わる用語
の変遷過程を追跡することによって、大村氏による草稿執筆順序の推定が正しい
ことを確認した。
5)生産価格の成立過程に関する大村氏の所説に対して、筆者は 、これまで、次の諸
論文において批判的見解を明らかにしてきた。@ABC拙稿「生産価格論の形成」
(1)(2)(3)(4)『経済経営論集』(桃山学院大学 )第28巻第1号、第2号、第3号、第

ー251ー

にそのような構想をマルクスが抱き始めることができるほど、先行する草稿「第
3章 資本と利潤」部分において「価値―生産価格 」問題の基本的解明が果
たされていたとは考えられない、と主張した。筆者のこのような批判に対し
て、大村氏から詳細な反論が寄せられた6)。しかし、氏の反論は筆者に充分
納得がいくものではなかったし、また、幾つかの論点で反論を頂けなかった。
その後『経済学史学会年報』第37号に大村泉氏の新著『新 MEGA と《資本
論》の成立』を書評7)する機会を得、さらに、大村批判を主題とする青才高

4 号 、1986年6 、10 、12月 、1987年3月 。D拙 稿「 生産価格論の形成を巡る最近
の論調― 大村氏の所説の検討を中心にして― 」『 経済経営論集 』( 桃山学院大
学)第29巻第1号 、1987年6月 。E拙稿「 生産価格論の成立の起点をめぐって
――大村泉氏の所説を再び検討する ― 」『経済経営論集』( 桃山学院大学 )第33
巻第4号、1992年3月。F拙稿「書評 大村泉『新MEGAと《 資本論 》の成立 』、
八朔社、1998、X+5+436p. 」『 経済学史学会年報 』37号 、1999年11月。
  以上の諸文献 から引用する際は 、引用文直後に、 文献番号とページ数を、例え
ば次のように示すことにする。例、(拙稿C、65頁)。
6)大村Kの第4章に見られる長大な 注63)、75)[ 大村K、160−167頁 ]において、
筆者の批判 に対する詳細な反論が展開されている 。それに対する再批判 が本稿
[次節]の主目的である。
7)この「書評」において 、筆者は 、 大村説を次のように批評した。「著者は、『剰余
価値学説史 』起筆段階にマルクスは『 利潤に関する章 』の主題の1つとしてJ.
ミルの葡萄酒価格論批判を考えていたに違いないという『 推定 』に基づいて『 剰
余価値学説史 』起筆段階には既に価値ー生産価格問題の 核心部分を解決していた
はずであると主張し 、価値― 生産価格問題の基本的解決を『 剰余価値学説史 』
『g )ロートベルトゥス氏 』における研究に求める評者[ 松尾 ]らの見解を批判
した。 しかし、『剰余価値学説史 』起筆段階にマルクスが『利潤に関する章 』の
主題として考えていたのは 、利潤に関する2つの「転化 」問題だけであって 、こ
の問題と不可分なはずの価値― 生産価格問題はまだ十分解明されていなかったた
めに、『のちに』『証明する』とだけ指示せざるをえなかったと考えるべきではな
かろうか。」(拙稿 F、157頁)。 これに対して 、大村氏から、同「書評」に対する
次のような「リプライ」を頂いた。「 筆者が問題にした評者[ 松尾 ]の主張は草
稿同章の『標準価格』規定は『 後の生産価格論と直接結びつけられうる内容を有
していない』という断言であり、『 剰余価値学説史 』起筆直後に記載された利潤
章( = 古典派利潤学説批判 )に関する3つの留保文言の内容的関連に否認であっ
た 。拙著は草稿の論述そのものを典拠に評者の主張が成立し難いことを詳論した。
コメントではそうした典拠への言及は皆無であり 、 筆者の具体的論拠のどこに問
題があるのかが不分明である。評者が 旧説に固執するのであれば 、 筆者が挙げた
典拠に即して筆者の読解を説得的に批判すべきであろう。 」(同上 、158頁)。 本稿
は、大村氏の「筆者の具体的論拠のどこに問題があるのかが不分明である 。 … 筆

ー252ー

志氏の新稿「生産価格の編入と<資本一般 >の転回――大村泉氏の見解の検
討を中心として― 」8)に接する機会を得たのを契機に、本稿において、再度
大村氏の所説を詳しく検討することにした。


 行論の都合上、本稿論題に関連するマルクスの論述全てをまずはじめに纏
めて引用しておくことにする 。本稿でこれらの論述を参照・引用する際は、
読者の便宜のため 、他の論者の文中であっても、引用文番号をすべてこれら
の引用番号に変更して使用することにする。
 [引用文@]「 商品の市場価格は、需要と供給との関係が変動するにつれ
て、その交換価値以下に下がったり 、それ以上に上がったりする。だから商
品の交換価値は、需要と供給との関係 によって規定されているのであって、
それに含まれている労働時間によって規定されているのではない。じっさい、
この奇妙な推論では、交換価値の基礎のうえでそれと異なる市場価格がどう
して展開されるのか、もっと正しく言えば 、交換価値の法則はどうしてそれ
自身の反対物でだけ実現されるのか、という問題が提起されているだけであ
る。この問題は競争論で解決される。」9)
 [引用文A]「労働の価値の水準でさえも、同一の国におけるブルジョア
的時代のさまざまな時期を比較すれば、上下している。だが最後に、労働能
力の市場価格は、あるときはその価値の水準以上に上がり、あるときはそれ
以下に下がる。これは他のすべての商品についていえるのと同じことであっ
て、ここでは、すなわち諸商品が等価物として交換される、あるいはそれら

者が挙げた典拠に即して筆者の読解を説得的に批判すべきであろう。 」(同上、
158頁)という批判に答えようとしたものである。
8)青才高志「生産価格の編入と<資本一般>の転回――大村泉氏の見解の検討を中
心として――」『信州大学経済学論集』43号、2000年。以下、この論文からの
引用の際は 、引用文直後に、引用箇所を次のように示すことにする。例(青才、
107頁)。
9)Karl Marx, Ökonomische Manuskripte und Schriften 1858-1861 , in : Karl
Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.U,Bd.2,1980,S.139;資本論草稿
集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』B、大月書店、1984年、262頁。

ー253ー

の価値を流通で実現する、という前提からわれわれは出発するここでは、ど
うでもよい事情である。(この、諸商品一般の価値は、労働能力の価値とま
ったく同様に、現実には、騰落する市場価格を相殺したときに得られるそれ
らの平均価格として表わされるのであり、これによって諸商品の価値が市場
価格のこれらの変動そのもののなかで実現され、実証されるのである。)」
(MEGA,39;草稿集C64−65)。
 [引用文B]「商品の市場価格はもちろんその価値よりも高いか低いかで
ある。確かに、のちに私が証明するように、商品の平均価格でさえ、つねに
その価値とは相違する。ところが、A・スミスは、自然価格に関する考察に
おいて、このことにはなんら触れていない。つけ加えておけば、価値の性質
にたいする洞察が基礎になければ、諸商品の市場価格も、またいわんや諸商
品の平均価格の動揺も理解されえないのである。」(MEGA,386;草稿集D90
頁)10)
 [引用文C]「…市場価格の絶え間ない振動、その上昇と低下は、互に償
い合い、相殺されて、おのずからその内的基準としての平均価格に還元され
るのである。この基準は、たとえば、比較的長い時期にわたるすべての企業
で商人や産業家の導きの星となる。つまり、彼は、いくらか長い期間を全体
として見れば、商品が現実にはその平均価格よりも安くも高くもなくその平
均価格で売られるということを知っている。だから、かりに、利害関係を離
れた考え方こそがおよそ彼が関心事なのだとすれば、彼は自分にたいして資
本形成の問題を次のように提起しなければならないであろう。平均価格によ
って、すなわち結局は商品の価値によって、価格が規制される場合に、どの
ようにして資本は発生することができるのか?と。私が『結局は』と言うの
は、平均価格はA・スミスやリカードウなどが考えるように直接に商品の価
値量と一致するものではないからである。」11)

10)この引用文の前後には、マルクスによる自然価格論や平均価格論への言及が多く
見られが、それと表裏一体の関係にあるはずの剰余価値・利潤の問題への言及が
見られないという事実を指摘しておかなければならない。

ー254ー

 [引用文D]「すべての経済学者が共通にもっている欠陥は、彼らが剰余
価値を純粋に剰余価値そのものとしてではなく、利潤および地代という特殊
な諸形態において考察している、ということである。このことからどんな必
然的な理論上の誤りが生じざるをえなかったかは、第3章で、剰余価値が利
潤としてとる非常に変化した形態を分析するところで、さらに明らかになる
であろう」(MEGA,333;草稿集D5頁)。
 [引用文E]「利潤においては、剰余価値が前貸資本の総額にたいして計
算されるのであり、しかもこの修正のほかに、なお、資本のいろいろな生産
部面における諸利潤の均等化によって新しい修正がつけくわわる。アダムは。
剰余価値を、なるほど事実としては説いているが、しかし、その特殊な諸形
態から区別された一定の範疇の形態ではっきりと説いていないために、すぐ
あとで、彼は、剰余価値を、利潤というさらに発展した形態と直接に混同し
てしまう。この誤りは、リカードウやそのすべての後継者においても、その
ままである。このことから(特にリカードウの場合には、いっそう明白に、
というのは彼の場合には価値の根本法則がもっと体系的な統一性と首尾一貫
性とをもって貫徹されており、したがってまた前後撞着と矛盾もより明瞭に
現われているからである)、一連の前後撞着、解決されない矛盾と無思想ぶ
りとが出てくる。これをリカードウ学派の人たちは(のちにわれわれが利潤
に関する章において見るように)ものの言いまわしによってスコラ哲学的に
解決しようとするのである」(MEGA,381;草稿集D82頁)。
 [引用文F]「 競争関係がここで( その展開そのものに属するものとして
ではなく)例証のために考察されるかぎりでは、その競争関係は、個々の資
本家の得る剰余価値が実際には決定的なものではない、ということを必然的
に伴っている。なぜならば、平均利潤が形成されるから…である。…そのた
めに、商品の現実の価格は、――市場価格の変動を別にして――本質的に修

11)Karl Marx, Das Kapital, MEW, Bd.23, Dietz Verlag,Berlin,1962,S.181.;大
内兵衛・細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』第23巻第1分冊、大月書店、
1965年、218頁。

ー255ー

正され、商品の価値とは相違することになる。それゆえ、個々の資本家は、
彼自身によって生みだされた剰余価値が彼の得る利潤のなかにどれぐらいは
いっているのか、はいっていないのか、また、資本家階級によって生みださ
れた剰余価値の一部分が彼の商品の価格のなかにどれぐらいはいっているの
か 、ということを云々する ことができないし 、また知らないのである 」
(MEGA,1605−1606;草稿集G99頁)。
 [引用文G]「 こういうわけで 、第2の場合には、利潤と剰余価値とのあ
いだに、それと同時に商品の価格と価値とのあいだに、本質的な相違が現れ
る。そのことから、諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、
それらの価値と相違するということが生じる。このことをもっと詳しく研究
することは、競争の章に属するが、そこではまた、商品の価値の変革が、諸
商品の標準価格とそれらの価値とのこのような差異とは別に、商品の価格を
どのように修正するかということを証明しておくべきである。/しかし、最
初からわかっていることは、経験的な利潤と剰余価値との混同によってどの
ような[ 混乱が生じる ]かということである――利潤はまったく転化した形
態で剰余価値を表すのであり(それに対応する、諸商品の標準価格とそれら
の価値との相違そのものの混乱によって[生じる混乱]もまた同じである)」
(MEGA,1630;草稿集G139頁)。
 [引用文H]「 第4に 。剰余価値と利潤との混同または両者の区別の欠如
は、ただ正当な叙述それだけが問題であるかぎりでは、経済学における最大
のばかげた誤りの源[であった]。 たとえばリカードのような 、すぐれた経
済学者たちは、もちろん両者を絶対に混同してはいない。といっても、彼ら
はけっして意識して[両者の] 相違を把握しているわけではないが。 ところ
が、そのことが原因となって、彼らの場合には、一方では、現実の法則が現
実の運動の抽象として現れており、それゆえにまた現実の運動が細部にいた
るところで彼らに反駁するものになっている。他方では、彼らは、無理やり
に、利潤の形態での剰余価値にのみ起因する諸現象を、価値または剰余価値
の性質によって解明しようとしている。このことから、まちがった諸法則が
ー256ー

出てくる。リカードは、[一方では、]資本の一般的性質を展開するさいは、
競争を捨象している。他方では、彼は、価値を規定するさいにすでに、すな
わち最初のところですぐに、固定資本などを規定的な諸契機としてもちこん
でいるのであって、そのために、彼は、マルサスが正当にも指摘しているよ
うに、自分のいわゆる法則を、廃棄したり、単なる痕跡に縮小したりしてい
るのである。他面、ミルやマカロックのようなリカードの弟子たちの場合に
は、たとえば流通期間を労働期間に変えるという途方もない企図が、最終的
には、野獣の役割だけではなく死んでいるものの役割をも、すなわちそれら
のもののあらゆる自然的作用をも、労働と呼ぶ [ことになっている ]。この
点では、セーも [同じである]。だが、このような批判は 、この章の最終部
分に属する。」(MEGA,1606; 草稿集G、100−101頁)。》
 [引用文I]「 最初の場合には転化は形式的であり 、第2の場合には同時
に実質的でもある。というのは、今では個々の資本に割り当たる利潤は、そ
の資本によって生産された剰余価値とは事実上違った大きさであり、その剰
余価値よりも大きかったり小さかったりするからである。最初の場合には剰
余価値が、この特定の剰余価値を生産する資本の有機的な諸成分を顧慮する
ことなしに、ただ資本の大きさに従ってだけ計算される。第2の場合には、
個々の独立した資本に割り当たる総剰余価値中の取り分の分け前が、この総
剰余価値の生産に対する個々の独立した資本の機能的な割合を顧慮すること
なしに、ただその資本の大きさに従ってだけ計算される。」(MEGA,U,
1630;草稿集G139頁)。
 [引用文J]「 それとともに 、われわれはまた別の論点にも気づく。そも
そも一般的利潤率は、利潤率が一方の事業部門では過大、他方の部門では過
小であることによってのみ、すなわち、剰余価値――これは剰余労働と合致
する――の一部が一方の資本家から他方の資本家へと移転されることによっ
てのみ、可能である。たとえば、5つの事業部門で利潤率がそれぞれ 、aが
15%  bが12%  cが10%  dが8%  eが5%であるなから 、平均率は10
%である。だが、この平均率が実際に存在するためには、cの率がもとのま
ー257ー

まにとどまるのにたいして、資本家AとBが7%をDとEに 、すなわち2%
をDに、5%をEに譲らなければならない。 同じ100という資本にたいして
利潤率が同一である、というようなことはありえない 。というのは、労働の
生産性が異なるのに従って、原料・機械装置・ 労賃の割合が異なるのに従っ
て、そして 、そもそも生産が成り立つために必要とされる規模が異なるのに
従って、剰余労働の割合がまったく異なるのだからである。だが 、事業部門
eが 、たとえば製パン業者の部門が、必要なのだとすれば 、この部門にも平
均率の 10%が支払われなければならない。 しかしこういうことが生じうるの
は 、ただ 、a とb とがそれらの剰余労働の一部をeに提供することによって
でしかない。 資本家階級はある程度まで、総剰余価値を次のように分配する。
すなわち彼らが、[総剰余価値を] 、個々の事業部門で諸資本が現実につくり
だした剰余価値に従ってではなく 、彼らの資本の大きさの割合に従って、あ
る程度まで均等に[ 分かち合うように ]分配するのである 。水準よりも大き
い利潤――その源は一方の生産部門の内部での現実の剰余労働 、現実につく
りだされた剰余価値である――は 、競争によって水準にまで押し下げられ、
他方の事業部門における剰余価値のマイナスは 、この部門からの資本の引き
上げによって、つまり需要・供給の関係が有利になることによって 、水準に
まで押し上げられる。競争は 、この水準そのものを押し下げることはできな
いのであり、ただ 、このような水準をつくりだそうとする傾向をもつにすぎ
ない。これ以上のことは、競争にかんする項目[Abschnitt von derConcurrenz]
で論じるべきことである。以上のことは 、さまざまな事業部門のもろもろの
価格が、一方の部門ではその価値以下に低下し 、他方の部門ではその価値以
上に上昇するという、それらの関係によって実現される 。このことによって、
もろもろの不同の事業部門にある同額の資本が 同一の剰余労働ないし剰余価
値を生み出すかのような外観が生じるのである。」12)

12)Karl Marx,Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1857/58),in :
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe (MEGA),Abt.U,Bd.1,Teil 2,
1981,Dietz Verlag,S.346-347;資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草

ー258ー

 [引用文K]「 リカードウに反対するもろもろの反論も 、同様に彼の弟子
たちによる絶望的なもろもろの詭弁(たとえばマカロック氏は、剰余労働に
よって、古いぶどう酒が新しいぶどう酒にたいしてもつ剰余価値を説明して
いる)も〔、リカードウが彼の弟子たちを困難のなかに巻き込んでいること
を示している〕。」13)
 [引用文L]「 さらに次のことがつけ加わる。すなわち 、現実の流通過程
では、これまでに考察してきたような…諸転化が行われるだけではなく、こ
れらの転化が現実の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での売買
と同時に行われるので、そのため、資本家たちにとっては、各個々の資本家
にとって実際にそうであるように、利益は、剰余価値として現われるのでは
なく、つまり、労働の搾取度のよって定まるのではなく、彼らどうしのごま
かし合い、すなわち、ずっと古い経済学者たちだけではなく近代の経済学者
たちでさえもこれまで是認してきたような1つの観念…によって定まるよう
に見える、ということがつけ加わる。」(MEGA,1604−1605;草稿集G97−98頁)。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 以上の引用文を参照しつつ、以下、大村説に対して筆者が抱く疑問点を整
理していこう。
 (1)まず、大村氏の初発の主張を見ることしよう。
 「引用文@、Aにおいては、商品の市場価格の動揺は、商品の価値をめぐ
って、価値を中心に生じるものとされている。…/…引用文B、Cでは、商
品の市場価格の動揺を相殺したときにえられる『平均価格』は、『つねにそ
の価値とは相違する』、あるいはただ『 究極において 』のみ価値によって
『規制される』と正しく規定されている。…こうした事実関係は、マルクス
が、草稿『第3章 資本と利潤』をはさむある時期に、部門内競争と部門間
競争の基本的な相違を明瞭に意識するようになったということを…しめして

稿集』A,大月書店,1993年、61−63頁。
13)ibid.,S.454;草稿集A243−244頁。

ー259ー

いる」(大村H、312−313頁)。「マルクスは、引用文@、Aを執筆していた
当時は、生産価格や市場価値・市場価格の諸規定を、『第3章 資本と利潤』
=『資本一般』においてではなく、『資本一般』の続編(章)としての『競
争』で取り扱う構想を有していた。…引用文Cの時点では、そうした諸規定
が『資本一般』の枠組みに編入されていたことはいうまでもない。…引用文
Bの時点ではどうであろうか。ここではマルクスは『のちに私が証明するよ
うに、商品の平均価格でさえ、つねにその価値とは相違する』、と述べてい
る」(大村H、313頁)。ここで言われている「のちに私が証明する」個所
とは具体的には「引用文@、Aにおけると同様、『第3章』=『資本一般』で
はなく、『資本一般』の続編(章)としての『競争』論なのであろうか。そ
のように考えることはできないであろう。」(大村H、313頁)、と。
 このように、大村氏は、草稿「第3章 資本と利潤 」に先行する時点では、
マルクスは、生産価格や市場価値・市場価格の諸規定を「第3章」=「資本
一般」ではなく「競争」論で解明しようとしていたが、草稿「第3章 資本
と利潤」に後続し『剰余価値学説史』に先行する時点では、「価値ー生産価
格」問題は「競争」論ではなく「資本一般」において議論されるものと考え
ていた、と主張された。しかし、この主張が成立するためには、引用文Bの
「のちに私が証明するように…」という場合の「のちに」とは、「競争」論
ではなくて「資本一般」の「第3章 資本と利潤」のことでなければならな
い。大村氏は 、<「のちに」=「第3章 資本と利潤」> と理解する根拠を、
『剰余価値学説史 』冒頭部分の2つの論述[D E]に求めることができると
考え、次のように言われた。すなわち、「これら2つの引用文[引用文DE]
においては、先行諸学説の、なかんずく、古典経済学の根本的な欠陥が、剰
余価値と利潤との混同にあるということが、とくに強調されている。…この
剰余価値と利潤との相違…が、価値を生産価格の転化する最大の理由である
…。 …そうだとすれば…引用文D、Eで強調されている事柄と、さきの引用
文C …Bで強調されている事柄とは、まったく同一の延長線上にあるといわ
なければならない。かくしてまた、これら2つの引用文D、Eにマルクスの
ー260ー

いわゆる『第3章』あるいは『利潤にかんする章』は、引用文Bにマルクス
のいわゆる『のちに私が証明する』個所と一致するとみてなんら支障は生じ
ないであろう」(大村H、314頁)、と。
 このように、大村氏は、「剰余価値と利潤の相違」問題と「価値ー生産価
格」問題は表裏一体の関係にあり、また引用文DEで強調されている事柄と
引用文BCで強調されている事柄とは「まったく同一線上にある」事柄であ
り、そして、その事柄が引用文DEでは「第3章」=「利潤にかんする章」
に属するとされている以上、引用文Bで同じ問題が指示されている「のちに」
とは「第3章」「利潤にかんする章」のことであると理解しなけれなならな
い、したがって生産価格論を「資本一般 」に「編入 」するという構想は、
「草稿『第3章 資本と利潤』の執筆以降、『学説史』起筆=1862年3月の
間」に成立したと推定される、と主張されるのである。
 このような大村氏の主張に対して、筆者は次のように主張した。
 まず、引用文Dについて。ここでは、「剰余価値そのもの」と「利潤およ
び地代という[剰余価値の]特殊な諸形態」とを区別しない経済学者たちの
誤りは、「第3章で…さらに明らかになるであろう」ということがのべられ、
そして、<「剰余価値」の「特殊な諸形態(利潤および地代)」への転化>
問題は、まず「剰余価値に関する諸学説」の項で考察され、その後「さらに」
「剰余価値が利潤としてとる非常に変化した形態を分析する」「第3章」で
考察されるという構想が表明されている。マルクスがこのような構想を表明
できたのは、『剰余価値学説史』に先行する草稿「第3章 資本と利潤」に
おいてすでに「剰余価値の利潤への転化」・「利潤の平均利潤への転化」論を
詳しく展開していたからであると考えられる。
 次に、引用文Eについて。ここでは、マルクスは、剰余価値と利潤に関す
る2つの「修正」問題(剰余価値から利潤への転化と利潤の平均利潤への転
化)について説明し、剰余価値と利潤を混同する経済学者たちの誤りは「利
潤にかんする章において見る」という構想を表明しているが、これもまた、
『剰余価値学説史』に先行する草稿「第3章 資本と利潤」において「剰余
ー261ー

価値の利潤への転化」・「利潤の平均利潤への転化」論が詳論されていること
を前提にした論述である。
 要するに、引用文DでもEでも、中心問題は2つの転化論(剰余価値から
利潤への転化と利潤から平均利潤への転化)であり、それらの問題は「第3
章」「利潤にかんする章」で展開されるという構想をマルクスが表明してい
るのであるが、しかし、注意すべきは、いずれの箇所でも、これらの問題と
切り離せないはずの「価値ー生産価格」問題に対してマルクスは一切直接の
言及を行っていないのである。
 ところが、引用文Bでは、「商品の平均価格でさえ、つねにその価値とは
相違する」という問題(「価値―生産価格」問題)に対する直接の言及があ
り、しかも、この問題は、「第3章」「利潤にかんする章」で論じられるので
はなく「のちに私が証明する」とされているのである。引用文DEでは利潤
に関する2つの転化問題は「第3章」「利潤にかんする章」で論じられるべ
き問題であると明言されているのに対して、引用文Bでは「価値―生産価格」
問題(「平均価格」論)が論じられるべき場所に関して、「のちに私が証明す
る」という曖昧な表現が使われているのである。問題の展開場所のこのよう
な区別は、それなりの事情・理由があるからだと考えるべきであろう。
 筆者はその事情・理由を次のように考える。すなわち、この頃マルクスは、
平均利潤論については、それは「第3章 資本と利潤」に属する問題である
という明確な考えを抱いていたが、他方の「平均価格」論については問題の
存在自体は自覚していたが、その問題の解明が充分進んでいなかったため、そ
れが果たしてどこで論じられるべきかについて明確な見通し持ちえず、<そ
の問題は「のちに私が証明する」>という曖昧な態度をとらざるをえなかっ
た。この態度の曖昧さは、当時の彼の「平均価格」論の理論水準に照応して
いたのである。というのは、この頃マルクスは、「商品の平均価格」・「標準
価格」は「その価値とは相違する」という程の(古典派においてさえ存在し
た)認識を持っていたが、その両者が果たしてどのような理論的な媒介項を
介して関連しているかという肝心の(古典派にはついに解明できなかった)
ー262ー

問題をまだ本格的に解明できていなかったのである。
 このような筆者の批判に対して、大村氏から次のような反論が寄せられた。
 「この松尾の批判に対しては次のようにいえよう。ここでは引用文BDE
で『第3章』の対象領域に古典経済学批判が含まれていたこと、この『第3
章』では自説の積極的な展開だけではなく、マルクス以前の経済学者の学説
を取りあげようとしていたことがまったく考慮に入れられていない。松尾は、
引用文Eでは『剰余価値と利潤のあいだの2つの『修正』問題が…指摘され、
それらは『利潤に関する章において見る』,ということが述べられているだ
け』だという。だがこれは事実に反する。/『利潤にかんする章』で予定さ
れていたのは、そうした2つの『修正』に関するマルクスの自説展開だけで
はない。ここでの2つの『修正』問題に関するスミスやリカードウの学説だ
けではなく、リカードウの後継者たちの学説までもが批判的に解明されよう
としていたのである。『第3章』=『利潤に関する章』の主題の1つに学説
批判が組み込まれたこと、これとの関連で引用文Bもまた引用文DEと同一
の問題関心のもとに記されていることが確認できたのであった。/松尾の場
合、この観点が欠落しているために、引用文Bの『のちに』『証明する』と
いう指示文言を、『第3章』=『利潤にかんする章』を指すと理解できない
でいるのではあるまいか。マルクスは、『平均価格』(=生産価格)をどこで
説くかについて見通しがはっきりしなかったから『のちに』『証明する』と
いう『曖昧』な指示を与えたのではない。引用文C…と引用文E…における
問題関心の同一性と、記載箇所の接近が、繰り返しを嫌って『のちに』『証
明する』と記させたのである。/『利潤にかんする章』では、『剰余価値の
利潤への転化』と『利潤の平均利潤への転化』に関わる剰余価値に関する2
つの修正問題が扱われ、かつこれに関する古典経済学の批判が詳述される、
しかもスミスやリカードウといったその代表者の学説だけではなく、リカー
ドウ学派の面々の学説についても検討される。その場合、J.ミルの問題の処
理における『詭弁』や『スコラ哲学的』側面にまで立ち入って評論されると
したとき、松尾のように価値ー生産価格の詳論がこの章では予定されていな
ー263ー

い、と考えるのは無理があろう。この時期マルクスは、 スミスやリカードウ、
そしてその後継者たちの利潤学説・自然価格(生産価格)学説批判を、『資
本一般』の次元と『競争』の次元の2本立てで行う予定でいた、とでも松尾
は主張したいのだろうか。あるいは松尾は、J.ミル『経済学要綱』における
葡萄酒価格論の『詭弁』や『スコラ哲学的』側面を価値ー生産価格の解明抜
きに批判しうると考えるのであろうか。 引用文EでJ.ミルへの直接言及は
ない。しかし引用文該当個所でミルの葡萄酒価格論が念頭に置かれていると
考えるのは、筆者の特異な見解ではないであろう。…ミルの葡萄酒価格論を
価値ー生産価格の解明抜きに論評するというのは、明らかに無理がある。」
(大村K、163―164頁)。
 (2)この大村氏の反論に対する筆者の考えは次節に譲ることにして、次に、
大村説のもう一つの論点を見ておこう。それは 、大村氏の< 生産価格論の
「資本一般」への編入構想の成立を可能ならしめたのは、草稿「第3章 資
本と利潤」における「価値―生産価格」論の研究である>という主張である。
大村氏は次のように主張される。
 「『第3章 資本と利潤』第1節末尾でマルクスは次のように言う。競争
によって『平均利潤が形成される』と、『商品の現実の価格は…本質的に修
正され、商品の価値とは相違することになる』。あるいは、『剰余価値と利潤
とは混同または両者の区別の欠如は、ただ正当な叙述それだけが問題である
かぎりでは、経済学における最大のばかげた誤りの根源』であった…」、と
言うことが述べられているが、「こうした一連の言及のなかに… 引用文B、
C、D、E における諸規定と同一主旨の諸規定をみいだすことができる」
(大村H、315−316頁)。「第3章」の「第1節『剰余価値と利潤』〜第6節
『生産費』項『f…』において『資本論』第3巻第1篇の対応する展開をお
えたあと、この第6節の項『g 利潤率と利潤量。資本の大きさに比例する
利潤、または利潤の平均率』でつぎのようにいうのである。…[一般的利潤
率の形成についての論述の要約――松尾]…、と。だが、それだけではない。
『標準価格でさえもが、価値から乖離する』。…マルクスは、この命題を提
ー264ー

起するさい、右に略述したような展開を『こういうわけで、第2の場合には』、
と直接うけ、そのうえで提起しているのである」(大村H、315頁 )。草稿
「第3章 資本と利潤 」の論述[F G]中に見られる「標準価格」論は、先
行する平均利潤論を織り込んで理解すべきであり、そうすれば「草稿『第3
章 資本と利潤』の擱筆の段階でマルクスが 、生産価格や市場価値・市場価
格の全面的な解明にいついかなる時点において取り組むことになったとして
も、なんら不思議ではないという理論的水準に到達していた」(大村H、318
頁)ことが了解されよう、と。
 この大村氏の主張に対して、筆者は次のように主張した。
 まず、引用文Fの理解の仕方について。引用文Fの論述は、それに先行す
る箇所での論述[ 引用文 L]を受けたものであると考えられる。 そこでは、
「現実の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での売買」=「資本
家どうしのごまかし合い」について述べられている。したがて、引用文Fに
述べられている「商品の現実の価格」論は、直ちに、のちの『資本論』の生
産価格論に直接結びつくものと理解することができない。引用文Fに先行す
る箇所での論述内容[ 引用文 L ]を踏まえて考えれば 、ここで指摘される
「商品の現実の価格」と「商品の価値」の相違の中には、<平均利潤の形成
によって生じる価値と価格の相違>だけではなく、<「資本家どうしのごま
かし合い」によって生じる価値と価格の相違>も含まれていると考えなけれ
ばならないのである。マルクスは、まだこの時、「競争」論次元に属する問
題群から『資本論』の生産価格論に相当する問題を独自の理論領域として取
り出しえていなかったと考えるべきである。
 次に、引用文Gの理解の仕方について。ここでは、先行する叙述箇所での
平均利潤論を受けて若干の認識の進展があり、<平均利潤の形成によって生
じる「標準価格 」と「商品の価値 」の相違>と<「商品の現実の価格」と
「価値」の相違>とが用語上区別され、しかも「商品の現実の価格」や「標
準価格」でさえ「商品の価値」と本質的に相違するという指摘が確かに行わ
れている。しかし、ここでも、この2つの「相違」が、区別された上で、そ
ー265ー

れぞれがどのような理論的な含意の相違なのかという肝心の問題点が一切説
明されていない。「価値」と相違する価格概念を表すために「標準価格」と
いう用語がせっかく新たに登場したにもかかわらず――以下で述べるように
筆者はこの用語が 、「価値 」と相違する価格概念を表す用語として適切で
あるとは思わない――、その用語についての立入った説明が一切行われてい
ない。それは、当時のマルクスの「生産費」概念の状況――すなわわち「1861
―63年草稿」前半期(草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」部分を含む)には、
「資本家の立場から見た生産費」(=C+V)と「商品の内在的な生産費」
(=C+V+M)という生産費概念しか存在せず、「1861―63年草稿」後半
期に頻出する「前貸の価値・プラス・平均利潤の価値」と等置される「生産
費」概念が存在しなかったという状況――に照応している。加えて、「標準
価格」という用語の未熟性を指摘しなければならない。この「標準価格」と
いう用語は、草稿「第3章 資本と利潤」段階におけるマルクスの生産価格
概念の未熟性――未成立ではなく、未成熟――を示している。「標準価格」
という用語は、草稿「第3章 資本と利潤」中の「標準利潤率」に対応する
用語であると思われるが、この同じ「標準」という形容詞を持つ「標準利潤
率」という用語――草稿「第3章 資本と利潤」に頻出するが――をマルク
スが使用する場合、それは、第1に、「非常に違ったいろいろな利潤率の平
均」としての利潤率であり、第2に、現実の利潤率がいろいろと変動する中
心・標準としての利潤率であり、この語は、「競争」論次元で論じられるべ
き「現実の」利潤率を意味するのである。とすれば、同じ「標準」という形
容詞を持つ「標準価格」という用語もまた 、「資本一般 」次元でではなく
「競争」論次元で解明されるべき「諸商品の現実の価格」の変動の中心・標
準としての価格を意味すると見なければならないであろう。要するに、当時
マルクスは、「諸商品の現実の価格」と「標準価格」とを認識論上峻別する
ことができず、両者を事実上同じ「競争」論次元の概念として捉えていた考
えるべきである。
 以上の筆者の批判に対して、大村氏から次のような反論が寄せられた。
ー266ー

 「確かに、松尾のように引用文の後半段落[ 引用文G――松尾 ]だけに着
目すると、そこに問題の『本質的相違』の『具体的内容』に関する説明を見
いだすことはできない。しかし…引用文の後半段落は、『したがって、第2
の場合には』、と引用文の前半段落[引用文Iーーーー 松尾] を受けたものであ
って、この『本質的相違』の『具体的内容』は引用文の前半段落で与えられ
ている、とみるのがこうした場合の文義解釈の常道ではあるまいか。/その
ように考えると、この『本質的相違』の『具体的内容』を次のように解釈し
てもなんら問題はあるまい。すなわち『剰余価値の利潤への転化』(第1の
転化)を基礎に、『利潤の平均利潤への転化』(第2の転化)が生じ、一般的
利潤率が形成されると異種部門の諸資本に平均利潤としての総剰余価値の再
配分が行われるようになり、『個々の資本に帰属する利潤が、実際に、その
資本によって生産された剰余価値とは区別される大きさとなり、それよりも
大きかったり、小さかったりすることに』なる。この結果、『諸商品の現実
的な諸価格』の価値からの乖離が、『標準価格』の価値からの乖離さえもが、
生じる。その乖離の度合いは各産業部門で実際に生産される剰余価値と、そ
こに帰属する平均利潤との差額によって規定される、と。/…松尾のもっと
も積極的な主張、すなわち草稿第3章『資本と利潤』の『標準価格』概念は
『のちの生産価格論と直接結びつけられうる内容を有していない』と断じた
り、この概念は『理論的に把握された抽象概念』ではない、というのは失当
というほかあるまい。マルクスはここで『第2の転化』論の延長線上に『標
準価格』を設定し、それと価値との『本質的相違』の出発点を、…各産業部
門に現実に帰属する平均利潤と各産業部門で実際に生産される剰余価値との
差額に求めているからである」(大村K、166―167頁)、と。

 以上が、大村氏と筆者の間でこれまでに交わされてきた議論の概要である。
筆者の2度の批判に対して、大村氏からは上記のように詳細な反論が寄せら
れたのであるが、しかし、筆者はそれに充分納得することができなかった。
そこで、本稿次節において、大村氏から寄せられた反論を詳しく検討するこ

ー267ー

とにする。

V.生産価格論の成立過程を巡る議論――大村氏の反論への再批判

 筆者への反論のために、大村氏は、引用文Eを典拠として引用し、そこで
マルクスの念頭に置かれているのは、2つの「修正」問題だけではなく、2
つの「修正」問題に関わる学説批判でもあることを強調された。しかし、そ
れは拙論への誤解に基づく反論である。まずこの誤解を解くことから始めよ
う。
 まず、明言しておくが、筆者は、引用文Eにマルクスの学説批判が含まれ
ていることをけっして否定していない。否定していないどころか、引用文が
『剰余価値学説史』冒頭に存在するという事情から考えれば、引用文Eの主
題は、学説批判であるのは当然である。引用文Eについて筆者が主張したい
のは、<引用文Eの主題は、2つの「修正」問題だけであって学説批判では
ない>ということではなく 、<引用文E の主題は、2つの「 転化 」問題
(『剰余価値学説史』の論述であるから、当然、これらに関連する学説批判を含
む)であって「価値と生産価格」問題(同様に、関連する学説批判を含
む)ではない>ということである。引用文Eには「価値―生産価格」問題に
対する直接の言及が見られないという事実が、そのことを示している。引用
文Eでは、2つの「転化」問題(と関連する学説批判)が議論されているが、
「価値と生産価格」問題(と関連する学説批判)への言及が一切存在しない
という事実が 、筆者にとって問題解明 にとってきわめて重要な鍵なしてい
るのである。この点について大村氏はどのように考えられるのか、お尋ねし
たい。
 ところで、大村氏は、引用文Eを典拠にして、筆者にさらに次のような反
論を展開された。
 「この時期マルクスは、スミスやリカードウ、そしてその後継者たちの利
潤学説・自然価格(生産価格)学説批判を、『資本一般』の次元と『競争』
の次元の2本立てで行なう予定でいた、とでも松尾は主張したいのだろうか。

ー268ー

あるいは松尾は、J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒価格論の『詭弁』や
『スコラ哲学的』側面を価値―生産価格の解明抜きに批判しうると考えるの
であろうか。引用文 EでJ.ミルへの直接的言及はない。しかし引用文該当
個所でミルの葡萄酒価格論が念頭に置かれていると考えるのは、筆者の特異
な見解ではないであろう。…ミルの葡萄酒価格論を価値―生産価格の解明抜
きに論評するというのは、あきらかに無理がある。」(大村K、164頁)。
大村氏のこの反論には 、率直に言って 、筆者は当惑せざるをえない。とい
うのは、大村氏自身が「引用文 EでJ.ミルへの直接言及はない」ことを知
りながらも、敢えて、「引用文該当個所でミルの葡萄酒価格論が念頭に置か
れていると考える」ことができると言われるが、それはどのような根拠に基
づいてのことなのか、理解しがたいからである。また、「ミルの葡萄酒価格
論を価値ー生産価格の解明抜きに論評するというのは、明らかに無理がある」
と言われるが、引用文中の何処にも「ミルの葡萄酒価格論」への直接の言及
が無いにもかかわらず、どうしてそのような推定・断言ができるのか、筆者
は理解に苦しむのである。大村氏の手元には、筆者に知り得ない情報が存在
するのか、それとも、筆者が迂闊にも看過している事実が存在し、それを根
拠に大村氏がそのようなことを主張されているのかと、繰り返し自説を検討
した次第である。したがって、再度、大村氏に疑問を呈することをお許し願
いたい。すなわち、「引用文EでJ.ミルへの直接言及はない」にもかかわら
ず、なぜ、「引用文該当個所でミルの葡萄酒価格論が念頭に置かれている」
と考えることができるのか、その根拠・典拠はなにか、と。
 大村氏が重視される引用文Eについて、さらに次のことを指摘しなければ
ならない。すなわち、それと類似の論述[引用文K]が、『剰余価値学説史』
に先行する『要綱』にも存在し、しかも、それに先行する箇所でマルクスは、
利潤と賃金、剰余労働と剰余価値、剰余価値と生産力の増大等の関係につい
て論じているが、「価値―生産価格 」問題については一切言及していない、
という事実を指摘しなければならない。このことは、「ミルやマカロックの
ようなリカードの弟子」・「リカード学派」に言及されているからと行って、
ー269ー

そのことがマルクスによる「価値―生産価格」問題への言及を意味する訳で
はないということを示す証拠ではなかろうか。
 なお、引用文Kの内容を筆者と同じようにMEGA編集者が理解している
ことは、引用文Kに付けられたMEGA編集者〔註解〕(マカロック『経済
学原理…』の論述)によって知ることができる。すなわち、「50ポンド・ス
ターリングだけ要費した1樽の新しいワインが貯蔵室に入れられ、12ヶ月た
ったあとでそれが55ポンド・スターリングの価値をもつ…と仮定すれば、問
題はこうである。ワインに付与された付加価値の5ポンド・スターリングは、
50ポンド・スタリーングの価値ある資本がしまいこまれていた時間に対する
1つの補填とみなされるべきなのか、それとも、それは、現実にワインのた
めに使用された追加労働の価値とみなされるべきなのか?私は、それは、後
者の見地から考えられるべきだと思う…」14)。見られるように、ここには、
単なる時間の追加が価値を増大させるのではなく、追加労働が剰余価値を生
み出すという問題が論じられているが、「価値―生産価格」問題が論じられ
てはいないのである。
 引用文Eを典拠にして、さらに、大村氏は、「この時期マルクスは、スミ
スやリカードウ、そしてその後継者たちの利潤学説・自然価格(生産価格)
学説批判を、『資本一般』の次元と『競争』の次元の2本立てで行なう予定
でいた、とでも松尾は主張したいのだろうか」と筆者を批判するが、しかし、
この批判は、拙論に対するまったく誤解に基づいている。筆者の主張したい
ことは、この時期マルクスは、<スミスやリカードウ、そしてその後継者たち
の利潤学説>を「資本一般」の「利潤にかんする章」において行ない、<彼
らの自然価格(生産価格)学説批判>を「競争」篇で行なうという構想を持
っていた、ということである。
 大村氏は、また、「松尾は、J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒価格論

14)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1857/58), in :
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe(MEGA),Abt.U,Bd.1,1981,Dietz
Verlag,ApparatS.1013;草稿集A245−246頁。

ー270ー

の『詭弁』や『スコラ哲学的』側面を価値―生産価格の解明抜きに批判しう
ると考えるのであろうか」と筆者を批判するが、しかし、大村氏と同様に、
筆者も、「J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒価格論の『詭弁』や『スコ
ラ哲学的』側面を価値―生産価格の解明抜きに批判しうる」とはけっして考
えない。筆者が主張したいのは、「価値―生産価格の解明」を果たしていた
とは思えないこの時にマルクスが、「J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒
価格論の『詭弁』や『スコラ哲学的』側面」を「価値―生産価格」論のなか
で取り上げようとしていたと推定することができない、ということである。
確かに、マルクスは、「J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒価格論の『詭
弁』や『スコラ哲学的』側面」を論じようとしていたようであるが、しかし、
これらの問題を、「価値―生産価格」問題として論じようとしていたのでは
なく、2つの「転化」問題(「剰余価値の利潤への転化」・「利潤の平均利潤
への転化」問題)に関わる学説批判を行おうとしていたのである。もしこの
時マルクスが、「J.ミル『経済学要綱』における葡萄酒価格論の『詭弁』や
『スコラ哲学的』側面」を「価値―生産価格」問題として論じようとしたと
しても、その問題について充分な理論的解明を果たした上での議論の展開が
可能であったとは思えない。
 以上の大村氏と筆者の間の以上の議論を論評しつつ、青才高志氏は、次の
ような大村批判を展開された。
 「[大村氏は] 松尾氏を手厳しく批判している。だが 、その批判は、マル
クスが、草稿『第3章』第1節(MEGA,S.1606)において、『…[引用文
H]…』…といっていることを考えると 、成立しようが無い… 。なぜなら、
ここで、マルクスは、『J.ミルへの直接的言及』を行っており、また、『ミル
の葡萄酒価格論』を明確に批判した上で、『このような批判は、この章の最
終部分に属する』といているが 、その後執筆した引用文(d)(MEGA, S.
1630 )[引用文G――松尾]では 、生産価格を『この章 [「第3章 資本と利
潤」]』外に留保しているが故に、大村氏の批判が正しいとすると、マルクス
は、『ミルの葡萄酒価格論を価値―生産価格の解明抜きに論評する』という
ー271ー

『明らか(な)無理』を犯そうとしていた、ということになってしまうから
である。」(青才、107頁)、と。
 青才氏が指摘するように、引用文Eと類似の論述内容をもつ引用文Hの文
末に、「このような批判は 、この章[ 第3章 資本と利潤 ]の最終部分に属
する」と明言されている以上、引用文Eに基づく大村氏の拙稿批判は成り立
たない。大村氏は、『剰余価値学説史』の引用文Eによって生産価格の「資
本一般」への編入構想の成立を根拠づけ、「のちに」「証明する」とは「利潤
にかんする章」で「証明する」という意味であるとされるのであるが、青才
氏の批判によって、大村氏のこの解釈は成り立たないことが明らかになった
のではなかろうか。
 ところで、青才氏が注目された論述とは、引用文Hである。それは、マル
クスは、「剰余価値と利潤」についての議論を終え、次の「生産費」へと筆
を進める前に議論を中断して、今後の議論の進め方を覚え書風に纏めたもの
である。内容は、「剰余価値と利潤 」に関連する諸学説の問題点を指摘し、
それらの詳細な検討は「この章 [第3章 資本と利潤] の最終部分 」で行な
う予定であるという構想表明である。引用文Hを典拠にしたこの青才氏の大
村批判は、一面では正当なものであるが、しかし、その先にある氏の次の主
張には問題が含まれているように思われる。
 「生産価格留保の理由が『理論的水準』の問題というよりもプラン問題的
要因にあるとすると、事態は異なってくる。なぜなら、松尾氏は、草稿『第
3章』の理論水準を低く見るが故にそうはならないが、大村氏のように――
筆者もそうであるが――その理論的水準を高く見るなら、生産価格留保から
編入への『一歩』は特別な理論的な発展が無くともなされうる『一歩』であ
るからである」(青才、107頁)。
 氏の主張の要点は 、生産価格論の「資本一般 」への編入構想の成立には
「プラン問題 的要因 」が大いに関係しているという点にある。 大村氏は、
「固定資本の価値移転の特殊性 」論が、草稿「第3章 資本と利潤」最終節
・第7節において「行論に理論的に取りこまれ」、「草稿「第3章 資本と利
ー272ー

潤」におけるマルクスの根本的誤謬の一つ」が「是正」「解消」されること
によって、初めてマルクスは生産価格論を「資本一般」に編入する構想を抱
き始めることができたと主張するのであるが、これに対して、筆者は、草稿
「第3章 資本と利潤」における生産価格論の成熟度は、『剰余価値学説史』
起筆段階では生産価格論の「資本一般」へに編入構想を抱き始めることがで
きるほど高くはなかったと主張した。この両者の見解に対して 、青才氏は、
次のように主張されたのである。
 「草稿『要綱』においてすでに、生産価格に関する基本認識(平均価格が
価値ではなく生産価格であるということ、および、Bの意味での一般的利潤
率論)自体は有していた…、草稿『第3章』の執筆…を通じ、生産価格に関
する基本認識からする理論内容の発展」(青才、103頁) がみられたにもかか
わらず、「『要綱』的な<資本一般>と<競争>との厳格な区分から脱するこ
とができず、生産価格は『競争の章』に留保」(青才、118−119頁)されて
いた、しかし、草稿「第3章」執筆過程でやがてその「厳格な区分」=「プ
ラン問題的要因」から解き放たれ、「早ければ『学説史』準備… 過程で、遅
くとも『学説史』『c)A.スミス 』におけるスミスの価値構成説の批判の過
程までに、…生産価格編入への『一歩』を踏み出す」(青才、118−119頁)
ことになった、と。
 この青才氏の主張は、「価値―生産価格」問題の基本的解明は『剰余価値
学説史』以前に果たされていたと見る点では、大村氏の主張に通ずるものが
あるが、しかし、両者の主張は、次の点で根本的に対立している。すなわち、
それは、大村氏が、マルクスが生産価格論の「資本一般」への編入構想を抱
き始めたのは、草稿「第3章 資本と利潤」末尾における「固定資本の価値
移転の特殊性」問題の解明後であるとするのに対して、青才氏は、生産価格
に関する基本的認識は草稿「第3章 資本と利潤」における研究を待たずと
もすでに獲得されていたのであって、草稿「第3章 資本と利潤」から『剰
余価値学説史』冒頭にかけての時期は、「資本一般」を拡充して生産価格論
をそこに編入すべきかどうかという点を巡って「動揺」していた時期である
ー273ー

と主張されるのである。青才氏は、生産価格論の「資本一般」への編入構想
の成立は「資本一般」の「外延」という「プラン問題的要因」によって実現
したと主張するとともに、筆者の大村批判を援用しつつ、草稿「第3章 資
本と利潤」末尾における「固定資本の価値移転の特殊性」問題の解明が生産
価格論の「資本一般」への編入構想の成立を促す契機となったとする大村説
の破産宣告をされた。
 青才氏のこの大村批判によって、生産価格論の成立を巡る議論に、「興味
深い」論点が浮かび上がってきたのである。すなわち、それは、大村氏の言
うように、草稿「第3章 資本と利潤」末尾における「固定資本の価値移転
の特殊性」問題の解明をへてはじめてマルクスは「価値―生産価格」問題に
関する基本的認識を獲得することができたと考えることができるのか、それ
とも、青才氏が主張されるように、もっと以前の『経済学批判要綱』におい
てすでにマルクスは「価値―生産価格」問題に関する基本的認識を獲得して
いたと考えることができるのか、という論点である。
 そこで、以下、この論点、すなわち草稿「第3章 資本と利潤」の研究過
程においてはじめてマルクスは「価値―生産価格」問題についての基本的に
認識を得たという大村氏の主張と、そうではなくて、それ以前の『経済学批
判要綱』においてすでにマルクスは「価値―生産価格」問題の基本的認識を
得たという青才氏の主張のどちらが正しいのかを検討してみることにしよう。
まず、青才説について見ることにしよう。
 青才氏は、「『要綱』[および]…それ以前のマルクスにおいて既に、平均
価格が価値ではなく生産価格であるという認識そのものはあった」(青才、91
頁)。「草稿『要綱』においてすでに、生産価格に関する基本認識(平均価格
が価値ではなく生産価格であるということ、…)自体は有していた…、草稿
「第3章」の執筆、とりわけ、第6)節gの執筆を通じ、生産価格に関する
基本認識からする理論内容の発展」(青才、103頁)がみられた、と主張され
るのであるが、氏のこの主張の典拠は、『経済学批判要綱』の引用文 Jの論
述である。引用文Jを踏まえつつ、青才氏は次のように主張された。
ー274ー

  「資本の有機的構成の相違・回転の相違等によって部門間に利潤率の相違
が生ずるという点に関しては、『資本論』とほぼ同様の認識」が示されてい
る。「部門間において相違する利潤率は、『競争』を通じて、『需要と供給の
調節作用』を通じて、…『一般的利潤率』に均等化されるとしている。そし
て、その利潤率の均等化は、…『様々な事業部門で、ある部門ではその価値
以下に低下し、他の部門では価値以上に騰貴する諸価格の関係を通じて実現
される』としている。すなわち、利潤率の均等化は、…『それ故に、後の表
現を使って言えば、価値の生産「価格」への転化を『通じて実現される』と
いうのである。…一般的利潤率の成立、または 、価値の生産価格への転化は、
資本配分の変更、物量体系の変化を意味するという叙述は、当然批判されて
よいものでしかない。また、このような、『需要と供給の調節作用』を通じ
ての一般的利潤率成立論は、…当然批判されてよいものでしかない 。だが、
それらの難点は、現行『資本論』にも共通する難点…であるのであって 、こ
の引用Aが記述されている『要綱』において、すでに、マルクスが、価値の
生産価格への転化論に関し、『資本論』とほぼ同様の認識を有していたこと
を否定するものではない。」(青才、89−90頁)、と。
 大村氏は、<草稿「第3章 資本と利潤」第7節以前はまだ生産価格に関
する基本的認識が充分獲得されていなかったが、草稿「第3章 資本と利潤」
第7節における「固定資本の価値移転の特殊性」論の解明を経て初めて「価
値―生産価格 」問題を本格的に 解明することができたと主張するのに対し
て、青才氏は、<草稿「第3章 資本と利潤」に先行する『要綱』において
すでに生産価格に関する基本的認識をマルクスは獲得していた>、<生産価
格の理論的解明は、草稿「第3章 資本と利潤」末尾から『剰余価値学説史』
にかけて大きく進展した訳ではなく、『要綱』から草稿「第3章 資本と利
潤」に至る過程においてある程度果たされていた>、と主張されるのである。
両者の見解の相違は、青才氏が『経済学批判要綱 』引用文Jに 、大村氏が
「第3章 資本と利潤」引用文Gに、それぞれその典拠を求めることに起因
しているのである。しかし、果たして、引用文Jと引用文Gの間に生産価格
ー275ー

論の形成過程を画期するような重要な論述内容の相違が存在するのであろう
か。
 引用文Jと引用文Gとの間には、筆者の見るところ、第1に、生産価格概
念を表す用語が前者には存在しないが、後者には「標準価格」という用語が
登場する、第2に、生産価格に関する論述に先行する平均利潤論の展開が、
前者よりも後者のほうがより詳細である、という違いが存在するが、このう
ち、第1の用語問題は、青才・大村両氏にとってはそれほどの重要性を持た
ないようであるが、筆者は、用語問題は理論・概念の成熟度を示す重要な指
標をなすものと考える。というのはこうである。すなわち『経済学批判要
綱』には、生産価格に関する基本的な認識をマルクスが有していたという解
釈を許す論述が存在するとしても、そこには、生産価格概念を表すための用
語が存在しないということ、それに対して、草稿「第3章 資本と利潤」に
は、周知のように、そのような解釈を許す論述が存在するだけではなくて、
生産価格概念を表すための用語が存在し、それによって、『経済学批判要綱』
から草稿「 第3章 資本と利潤 」に向けて生産価格論の形成が一定程度前
進したと見ることができる。しかい、草稿「第3章 資本と利潤」には、生
産価格に関する基本的な認識が存在し、かつ、生産価格概念を表すための用
語が登場するに至ったとはいえ、そこに新たに登場した用語「標準価格」は、
後の『資本論』における生産価格概念を表す用語としては不適切でありまだ
不十分なものであると考えられる15)。 草稿「第3章 資本と利潤」に登場し
た新たな用語「標準価格」は、生産価格論の完成を示しているとはいえない
までも、生産価格に関する理論形成の「一定の」前進を示しているのである。
理論形成の成熟度を示す重要な用語 の変遷問題を重視しないとすれば 、大
村氏は、上記の第2の相違点に注目し、『経済学批判要綱』引用文Jと「第
3章 資本と利潤 」引用文G との間で平均利潤論の論述内容に重要な相違

15)そうであるがゆえに、その後『剰余価値学説史』における生産価格論の研究過程
において、生産価格概念を表すための用語の幾多の変遷を経ることになったので
ある。

ー276ー

が存在し、それが生産価格に関する理論・概念の成熟度にとって重要な意味
を持っているということ>を、論述内容を具体的に分析しつつ示してみる必要
があるのではなかろうか。
 次に、大村氏は、『剰余価値学説史』冒頭時点では「価値―生産価格」問
題が基本的解決されていたとする主張の典拠として、『剰余価値学説史』冒
頭近くの論述[引用文E]を引用するのであるが 、しかし 、これと同種の葡
萄酒価格論への言及はそれより遥に先行して執筆された『経済学批判要綱』
引用文Kにも存在し、そこでは、単なる時間の追加が価値を増大させるので
はなく、(追加)労働が(剰余)価値を生み出すという問題が論じられてい
るのみで、「価値―生産価格」問題には一切言及されていないという事実を
すでに指摘したが、大村氏が、青才氏の批判を受け入れて、もし『要綱』の
引用文Kでもマルクスがすでに「価値―生産価格」問題を念頭に置いて議論
していると主張するのであれば、引用文Eに関して一貫した解釈を示された
ことになろうが、しかし、その場合には、草稿「第3章 資本と利潤」起筆
時にはマルクスは未だ「価値―生産価格」問題の基本的認識を確立すること
ができていなかったという氏の主張が成り立たなくなり、大村氏の初発の主
張に一貫性が無くなるのである。
 ところで、筆者が、引用文Fとそれに先行する箇所での論述[引用文 L ]
を典拠にして、草稿「第3章 資本と利潤」ではいまだマルクスは生産価格
に関する基本的解明を果たしていないと主張したのに対して、青才氏から次
のような批判を頂いた。
 「松尾氏は、その叙述はそれに先行する叙述(MEGA、S.1604−5)をう
けたものであり、…と言っている。問題となるのは、その『先行する叙述』
である。マルクスは、そこで次のように言っている。『現実の流通過程では、
これまでに考察してきたような…諸転化が行われるだけではなく、これらの
転化が現実の競争すなわち価値より高いか低い価格での売買と同時に行われ
るので、そのために、資本家たちにとっては、各個の資本家にとって実際に
そうであるように、利益は 、剰余価値として現われるerscheinen のではな
ー277ー

くて、つまり、労働の搾取度によって定まるのではなくて、彼らどうしのご
まかし合い――によって定まるように見えるerscheinen』と(MEGA, S.
1604-5)。問題とされるべきは、マルクスは、『資本家たちにとっては…見え
る…』と言っている点にある。マルクスは、ここでは、自分は『これまでに
考察してきたような…諸転化』――実質的には剰余価値率の利潤率への転化
――から生ずる価値と『現実の価格』との相違(松尾のいうところこの『平
均利潤の形成によって生ずる価値と価格の相違』)と、『資本家どうしのごま
かし合い』から生ずるそれとの違いを知っているが、『資本家たち』はそう
ではない、それ故に、『資本家たちにとっては…、利益は、剰余価値として
現われる…のではなくて、…彼らどうしのごまかし合い…によって定まるよ
うに見える…』と、言っているのではないだろうか。さらに、当該部分は、
若干の字句修正を経たのみで 、『資本論』第3部主要草稿(K. V, S.53,
MEGA,U/4-2,S.59)に再録されているという点にも注意する必要がある。
このことは、当該部分の叙述は生産価格論確立後のマルクスにおいてもなさ
れうるものであるということを、それ故に、当該叙述からマルクスの理論水
準を低いと結論づけることはできないということを意味するだろう。」(青才、
107−108頁)。
 見られるように 、引用文Fに「先行する叙述」[引用文 L]を、青才氏は
次のように注釈される。
 「マルクスは、ここでは、自分は『これまでに考察してきたような…諸転
化』――実質的には剰余価値率の利潤率への転化――から生ずる価値と『現
実の価格』との相違(松尾のいうところこの『平均利潤の形成によって生ず
る価値と価格の相違』)と、『資本家どうしのごまかし合い』から生ずるそれ
との違いを知っているが、『資本家たち』はそうではない…』と、言ってい
るのではないだろうか」(青才、107頁)、と。
 しかし、この注釈は、マルクスの論述の誤読である。引用文L冒頭でマル
クスは、まず「さらに次のようなことがつけ加わる」と述べ、続けて「現実
の流通過程では」、「諸転化」と「現実の競争すなわち価値よりも高いかまた
ー278ー

は低い価格での売買」・「彼ら[資本家たち ]どうしのごまかし合い 」とが
「同時に行われるので」云々と論述している。したがって、引用文Lの意味
を理解するためには、「さらに次のようなことがつけ加わる」という冒頭文
言に先行する箇所で、マルクスが何を論じていたのかということを見なけれ
ばならない。マルクスがそこで論じているのは、「平均利潤の形成によって
生ずる価値と価格の相違」問題ではなく、次のようなことである。すなわち、
「流通過程のなかでは、一方では剰余価値が新たな諸規定を受け取り、他方
では資本が諸転化を通過し、最後に資本は、そのなかで、いわばその有機的
生活から外的な生活関係にはいる。この関係のなかでは、……資本と賃労働
とが相対している元来の形態は、いわば廃止されて、外観上はこの形態から
独立な諸関係が現れ、剰余価値そのものは、もはや労働時間の取得の産物と
しては現われないで、商品の価値を越える商品の販売価格の超過分として現
れ、とりわけまた貨幣として現われる。――したがって、剰余価値の元来の
性質への思い出は完全に消滅してしまう」(MEGA, 1603−1604; 草稿集G、95
頁)、と。見られるように 、ここでは、流通過程における<「資本の諸転化」
とその結果生じる剰余価値に関わる観念の転化>について論じられているの
であって、けっして、「平均利潤の形成によって生じる価値と価格の相違」
問題が論じられいる訳ではない。青才氏は、引用文Fで「価値 ―生産価格」
の基本的認識が確立していることを主張するために、引用文F とそれに先行
する論述[引用文L ]を引用され上記のように解釈されるのであるが 、氏の
解釈は、明らかに、マルクスの論述の誤読である。さらに言えば、そこでの
マルクスの論述は、そもそも、そのような内容を含むことができない論理段
階(=「資本の流通過程」の論理段階)でのものなのである。
 筆者への批判を補強するために、青才氏は、引用文Fに「先行する叙述」
[引用文L]が、生産価格論確立後の『資本論 』第3部「主要草稿」中に再
録されているという事実を指摘される。しかし、それによって、青才氏の筆
者批判が補強されるどころか、逆に、氏の解釈は誤読に基づいていることを
露わにするのである。青才氏が参照を指示された『資本論』の叙述とは、次
ー279ー

のようなものである。
 「商品の費用価格を越える商品価値の超過分は直接的生産過程で生ずるの
ではあるが、それは流通過程ではじめて実現されるのであって、それが流通
過程から生ずるかのような外観をますますもちやすくなるのは、この超過分
が実現されるかどうか、またどの程度に実現されるかは、現実には、競争の
なかでは、現実の市場では、市場の状況にかかっているからである。ここで
論ずる必要もないことであるが、ある商品がその価値よりも高く売られたり
安く売られたりしても、ただ剰余価値の分配の変化が生ずるだけであり、ま
た、このような分配の変化、すなわちいろいろな人々が剰余価値を分け取る
割合の変化は、剰余価値の量やその性質を少しも変えるものではないのであ
る。実際の流通過程では、第2部で考察したような諸転化が行われるだけで
はなく、これらの転化が現実の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価
格での商品の売買と同時に行われるので、個々の資本家にとっては、彼自身
が実現する剰余価値は、労働の直接的搾取によって定まるのと同様に彼らど
うしのごまかし合いによって定まるのである。」16)
 引用文Lについて青才氏は、<「これまで考察してきた…諸転化」…から
生ずる価値と「現実の価格」との相違>と<松尾のいうところこの『平均利
潤の形成によって生ずる価値と価格の相違』>とを等置することができると
いう解釈を示されていたが、しかし、青才氏がここに引用された『資本論』
の叙述は、まさに、そのような解釈、そのような等置は不可能であることを
示している。というのは、さきの引用文L中の「これまで考察してきた…諸
転化」という文言が、『資本論』第3部では明確に「第2部で考察された諸
転化」という文言に変更されており、この文言変更によって、<「これまで
考察してきた…諸転化」>に関わる問題と<平均利潤の形成によって生ずる
価値と価格との相違>とがけっして等置されるべきものではないことが判明

16)Karl Marx,Das Kapital,MEW, Bd.25, Dietz Verlag, Berlin,1964, S.53; [若
干の字句表現が異なるが、MEGA,U/4-2,S.59];岡崎次郎訳『資本論』大月
書店,国民文庫版(6)、78−79頁。

ー280ー

するからである。『資本論』第3部のこの文言変更は、マルクスの考え方の
変更ではけっしてなく 、草稿「 第3章 資本と利潤 」での「 これまで考
察してきた…諸転化」という表現をより具体的・正確に明示したものであり、
草稿「第3章 資本と利潤」における『資本論』で 、マルクスが議論している
ことは、「現実の流通過程」(=「現実の競争」過程・「現実の市場」過程)
では、「流通過程」・「本来の流通過程」(=『資本論』第2部の「資本の流通
過程」)における「諸転化や諸変形」だけではなく、同時に行われる「現実
の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での商品の売買」によって
価値と価格の相違が発生する、それゆえ、生産過程において生産された剰余
価値は、売買過程と競争過程での「諸転化」すなわち「彼らどうしのごまか
し合い」によって定まるかのように見えるようになる、という剰余価値の出
所に関わる観念の転化問題である。マルクスが「流通過程」・「本来の流通
過程」(=『資本論』第2部の「資本の流通過程」)の「諸転化や諸変形」に
ついて説明した後、「さらに次のことがつけ加わる」として、「現実の流通過
程」=「現実の競争」過程における売買によって生じる問題について説明し
ているのである。したがって、引用文Fとそれに先行する引用文Lに関して
筆者に加えられた青才氏の批判は、明らかに、マルクスの論述の誤読に基づ
くものである。
*****************************
 以上、われわれは、生産価格論の成立過程に関する大村泉氏の所説を様々
な論点から検討してきた。大村氏は、第1に、草稿「第3章 資本と利潤」
末尾における「固定資本の価値移転の特殊性」問題を解明することによって
「価値―生産価格」問題に関する基本的解明を果たした、第2に、マルクス
が生産価格論を「資本一般」に編入するという構想を抱き始めたのは、『剰
余価値学説史』起筆前後である、と主張された。筆者は、この大村氏の主張
を詳細に検討しその問題点を検討した。その結果、第1に、「価値―生産価
格」問題が基本的に解決されたのは草稿「第3章 資本と利潤」においてで
はなく、『剰余価値学説史』の「g)ロートベルトゥス氏」・「h)リカード」
ー281ー

部分の生産価格論の詳細な研究過程においてである、第2に、マルクスが生
産価格論を「資本一般」に編入するという構想を抱き始めたのは、『剰余価
値学説史』起筆前後ではなく、もっと後になってからである、と主張した。
大村氏のこの所説に対して 、青才氏は 、生産価格に関する基本的認識は
『経済学批判要綱』において事実上獲得されていたのであって、草稿「第3
章 資本と利潤」執筆過程において初めて「価値―生産価格」問題の基本的
解明がなされたのではない、と主張した。同氏のこの大村批判によって、草
稿「第3章 資本と利潤」執筆過程末尾にマルクスは「価値―生産価格」問
題解明の決定的なステップを踏んだという大村氏の主張には何ら根拠がない
ことが明らかにされた。いまや問われているのは、『経済学批判要綱』や草
稿「第3章 資本と利潤」に存在する生産価格論の生成に関連すると見られ
るマルクスの論述を、それぞれどのように評価するかである。真に問われて
いる問題は、『経済学批判要綱』においてすでに生産価格に関する基本的認
識をマルクスが獲得していたと見ることができるのか、草稿「第3章 資本
と利潤」における研究を通じてマルクスは生産価格に関する基本的認識を獲
得していったと考えるべきか、それとも、『剰余価値学説史』執筆中に漸く
マルクスは「価値―生産価格」問題の基本的解明を果たすことができたと捉
えるべきか、ということであるが、この問題に対する本稿の回答は、すでに
明かである。
(まつお・じゅん/経済学部教授/2000.St.Andrew's Day受理)

ー282ー

Summary in English
  

The Making of The Theory of Price of
Production in Marx's "Manuscript 1861-63"

Jun Matsuo

The aim of this paper is to elucidate the making process of Marx's
theory of the price of production in his "Manuscript 1861-63." For this
purpose, I examine the views of Professor Izumi Ohmura, who asserts
that Marx's theory of the price of production was formed in the above
manuscript.
Professor Ohmura's interpretations and assertions can be outlined as
follows. First, Marx gained a basic understanding of the problem of
"value and price of production" at the end of his manuscript, " Drittes
Capitel.Capital und Profit.
,"in the process of elucidating the problem of
the "special characteristics of the transfer of value of fixed capital."
Second, the idea of including the theory of the price of production into
"Capital in General" came to Marx at about the time of beginning of
the writing of "Theories of Surplus Value."
Having considered each of these two points, I previously arrived at
the following assertions. First, Marx achieved a basic understanding of
the price of production in "g) Rodbertus" and "h) Ricardo" in the
"Theories of Surplus Value,"and not in"Drittes Capitel.Capital und Profit."
Second, Marx began to entertain the idea of including the theory of the
price of production into "Capital inGeneral" in the time of the writing
of "g) Rodbertus" and "h) Ricardo" in the "Theories of Surplus Value,"
and not at about the time of beginning of the writing of "Theories of
Surplus Value.
"
In response to the foregoing criticisms, I received a detailed rebuttal
from Professor Ohmura. But this did not resolve my doubts concerning

ー283ー

his position.In Volume 37 ofThe Annals of the Society for the History of
Economic Thought,1999, I had the opportunity to write a review of
Professor Ohmura's new book, "The New MEGA and the Making of 'Das
Kapital'". In the course of writing this review, I carefully re-examined
the assertions of Professor Ohmura. Given the limited space available in
the review article, Professor Ohmura pointed out that my exposition
was inadequate. This paper now presents the results of my examination
in full detail.

ー284ー