『経済経営論集』(桃山学院大学)第41巻第4号、2000年3月発行

『資本論』における資本減価と恐慌

 

松尾 純

T.は じ め に

 マルクスの恐慌論体系の構築を目指す全ての論者が、『資本論 』第3部第15
章[ 以下第15章と略記する ]の難解な論述に苦しめられてきた。 恐慌論体系
にとって重要な論述は、確かに、それ以外の箇所(例えば『資本論 』第1部
第7編や第2部第3編)でも見られるが 、しかし、それらは第15章の論述に
比べればはるかに理解が容易である。
 この第15章の難解で錯綜した論述の合理的な理解を得ようとして、多くの
論者が、これまで様々な努力を積み重ねてきた。しかし、その研究の対象は、
第15章第1節と第3節の議論に集中していたし、研究内容は、率直に言って、
多くの場合、第15章の第1節のいわゆる「生産の諸条件と実現の諸条件の不
一致」命題や第3節の「資本の絶対的過剰生産 」規定が恐慌論体系にいかに
位置づけられるべきかという点を巡って行われてきた。筆者も第15章につい
て同様の研究方法をとってきた1)。しかし。このような研究態度に抗するかの
ように 、逢坂充氏は、等閑視されてきた第15章第2節を正面から研究対象と
して取り上げ 、そこには<資本の潜在的減価の累積が恐慌を引き起こすこと
になる>という議論が展開されていると理解し 、さらにその理解に基づく独
自の恐慌論体系を展開されようとした2)。以下本稿では、この逢坂氏の見解を

1)拙稿「マルクスの「資本の過剰生産」規定について――『 資本論 』第3部第3篇
第15章第3節の分析を中心にして――」『 経済学雑誌』第79巻第4号、1979年3月。
同「マルクスの「 資本の過剰生産」論――再論:『 資本論 』第3部「主要草稿」を
踏まえて―」『 経済経営論集 』(桃山学院大学)第36巻第2号 、1994年12月。同「『資
本の絶対的過剰生産 」論の復位――井村喜代子氏の見解の検討を通じて――』『経
済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第3・4号、1995年3月。
2)逢坂充著『 再生産と競争の理論―産業循環分析論 』、梓出版社、1984年11月。こ

ー77ー

検討することによって、第2節を含む第15章全体の論脈を正しく理解し、マ
ルクスの恐慌論体系の再構築を実現するための礎を確認したい。
 本稿で検討しようとする逢坂氏の見解の独自性は、次のような第15章第2
節に対する氏の理解ないし評価に端的に現われている。すなわち、第15章第
2節では「『既存資本価値の減価』という要因が… きわめて重要なキー・カ
テゴリーをなすことをあらためて気付き、さらにこの『減価 』概念が提起す
る問題の重大性と深刻性に対していっそう認識を深めるとともに 、大方の注
意を促したのであった。しかも、この『既存資本の減価』の問題は、この『減
価』を概念的に『潜在的な減価』と『事実上の減価 』とに区別することによ
って、じつはこの二種類の『減価』がいわゆる『過剰資本 』の規定と、まさ
に不可分な有機的関連をもつことになるという意味で 、つぎの第3節に受け
継がれていく性質のものであった 、ということをも特に強調しておいたので
ある。」(逢坂、190頁)。
 このような逢坂氏の第15章第2節評価に対しては、当然、多くの論者から
疑問や批判が投げかけられた3)。筆者も 、遅ればせながら本稿において、疑問
や批判を明らかにしようと考える。というのは、筆者は 、実は、逢坂氏が独
自の議論を展開された当初から名指しの批判を受け4) 、これに応える義務を

の著書には、1973年〜1984年に同氏が執筆した14篇 の論文が収められている。以
下引用に際しては 、原則として 、初出文からではなく、同書からの 引用ページ
数を引用文直後に、例えば(逢坂、123頁)のように示すことにする。
3)逢坂充氏の所説に対する批判・書評については、次のものがある 。高山満「書評
逢坂充『再生産と競争の理論―産業循環分析序論― 』梓出版社」『経済研究』(一
橋大学 )第37巻1号 、1986年1月。二見昭「 利潤率の傾向的低下法則と恐慌 」に
関する一考察(2)―井村喜代子及び逢坂充氏の見解をめぐって―」『経済理論』(和
歌山大学)第221号、1988年1月。同「「利潤率の傾向的低下法則と恐慌 」に関す
る一考察(3)―井村喜代子氏及び逢坂充氏の見解をめぐって―」『経済理論』(和歌
山大学)第223号、1988年5月。前畑憲子「「資本減価」論についての一考察」『マ
ルクス・エンゲルス・マルクス主義研究 』第9号、1990年1月。鈴木勝男「「利潤
率の傾向的低下」に基づく恐慌論について」『東北学院大学論集』(経済学)第126
号、1994年10月。早坂啓造「「資本過剰」論の体系的位置づけについて」『マルク
ス・エンゲルス・マルクス主義研究 』第31号、1997年12月。廣田精孝「 産業循環
の理論的考察を巡る緒論点 」富塚良三 ・ 吉原泰助編『 資本論体系9-2 恐慌・
産業循環(下)』有斐閣、1998年。
4)前掲拙稿「マルクスの「 資本の過剰生産 」規定について…」発表直後に 、筆者

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負っていたからである。逢坂氏の筆者に対する批判は次のようなものであっ
た。「[松尾純]氏が上のような結論を導き出された真の理由は、その副題か
らも明らかなように、氏が考察の対象を第3節だけに狭く限られたことから、
第3節の『過剰』論と第2節の論理、とくに『減価』論との関連を何ら考慮
されなかったところにある」(逢坂、218頁)5)。「[松尾純]氏は以前の論稿『マ
ルクスの「資本過剰」規定について』…でもそうであったが、第15章第2
節で問題とされている既存資本の『減価 』論を認めようとされないために、
どうしても考察の視界が狭くなってしまったように思われる。」 (逢坂、350−
351頁)6)。
 逢坂氏のこの批判は、第15章に関する拙稿に対する批評として取りあえず
は甘受せざるを得なかった。というのも、筆者が旧稿の分析の対象としてき
たのは、『資本論 』第3部第15章のうちもっぱら第1節と第3節の論述であり、
第15章第2節の論述には 一切言及してこなかったからである 。その理由は、
筆者が第15章第2節には恐慌論体系にとって最重要な命題が含まれていない
と暫定的に考えていたからである。しかし、以下本稿では、逢坂氏の拙稿批
判を正面から 受け止めて 、筆者の 作業仮説に 誤りがなかったかどうかを
改めて「検証」してみることにする。

 U.『資本論』第3部第15章の主題は何か
 マルクス恐慌論体系にとって第15章第2節がどのような理論的意義をもっ
ているのかということを明らかにするためには、第2節だけではなく、第2
節を含む第15章全体の内容把握が必要である。


は逢坂充氏の批判を受けていた。同氏稿「過剰資本と利潤率低下の法則(下)――
『資本論』第3部第15章とは何か――」『経済学研究』(九州大学)第45巻第4・
5・6号、1980年7月、同「 商品過剰説と利潤率低下の法則(下)――再び井村
喜代子氏の所説に寄せて――」『経済学研究』(九州大学)第46巻第6号、1981年
2月(いずれも、前掲書『再生産と競争の理論――産業循環分析論』、梓出版社、1984
年11月の第2編、第3編に所収)。
5)逢坂充「過剰資本と利潤率低下の法則(下)…」、219−220頁。
6)逢坂充「商品過剰説と利潤率低下の法則(下)…」、32頁。

ー79ー

 エンゲルス編集『資本論』では第15章は4つの節で構成されているが、第
4節「補遺」を除く最初の3つの節においてそれぞれ何が論じられているの
であろうか。この点の確認から始めることにしよう。
 (1)まず、第15章第1節「概説」が何を主題として論述されているのかを
見ることにしょう。第1節は、筆者の見るところ、大きく3つの部分に分か
れているので、それに沿って見ていこう。
 まず、第1の部分(第1〜6パラグラフ)の冒頭で、『資本論』第3部で既
述の<利潤率は剰余価値率よりもつねに低い>という命題や<上昇する剰余
価値率でさえも低下する利潤率に表わされる傾向がある>という命題が再確
認されている。続く第3〜6パラグラフでは、第15章全体への序論的叙述が
続いている。その内容は、資本蓄積・労働生産力の発展・利潤率の低下過程
に随伴する諸現象や諸問題(資本の集積・集中、独立資本形成の緩慢化、過
剰生産、過剰資本、恐慌)のスケッチである。これらは、錯綜した叙述では
あるが、第15章の第2,第3節を含む第15章全体において考察・言及されて
いる重要論点である。第1節の第2部分(第7〜8パラグラフ)では、いわ
ゆる「直接的搾取の諸条件とその実現の諸条件の不一致」命題の説明が行わ
れている。(訳、398−401頁;MEW、254−255)。このいわゆる「生産の諸
条件と実現の諸条件の不一致」命題の論述箇所において注目すべきは、次の
叙述部分である。「生産力が発展すればするほど。ますますそれは消費関係が
立脚する狭い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎の上では、
資本の過剰が人口過剰の増大と結びついているということは、けっして矛盾
ではない … 。なぜならば 、この両方をいつしょにすれば、… この剰余価
値が生産される諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾は増大す
る…」。ここには、第3節の「資本の過剰生産」命題といわゆる「生産の諸
条件と実現の諸条件の不一致」命題とが有機的な連関を有していることが指
摘されている。第1節の第3部分(第9〜最終パラグラフ)では、資本蓄積
に伴なう利潤率の低下、利潤量の増大、資本の集積・集中、そして資本主義
的生産の崩壊等について論述されている。これらは、恐らく第15章の論述を
ー80ー

進めていくときマルクスの念頭にあった諸問題の摘要ともいうべきものであ
ろう。
以上、第1節の概観から分かるように、エンゲルスの節区分と表題(「概説」)
にもかかわらず、第15章第1節は、大掴みに言って2つの内容を含んでいる。
一つは第15章全体で言及されたり考察されるべき諸問題を指摘した序論的内
容であり、もう一つはいわゆる「生産の諸条件と実現の諸条件の不一致」命
題である。
 (2)次に、論者の間で比較的意見が一致しやすいと思われる第3節「人口
の過剰に伴う資本の過剰」の内容分析を行うことにしょう7)。第3編「利潤率
の傾向的低下の法則」の最終章の事実上の最終節に相応しく、この第3節で
は 、論者の間で評価異なるとしても 、利潤率の低下過程に随伴する現象と
しての「資本過剰」論が主題として論じられている。
 第3節全体は、筆者の見るところ、4つの部分から構成されている。
第1部分の第1・2パラグラフは、第3節全体の序論である。第1パラグ
ラフには次の叙述が見られる。「いわゆる資本の過多は、つねに根本的には、
利潤率の低下が利潤の量によって償われない資本 … の過多に … 関連して
いる。このような資本過多は、相対的過剰人口を呼び起こすのと同じ事情から
生ずるものであり、したがってこの相対的過剰人口を 補足する現象である」
(訳、410頁;MEW、261)8)。要点は、<資本過多や相対的過剰人口は利潤
率の低下と「同じ事情 」から発生する>ということである 。これを受けて
第2パラグラフでは、第15章第3節全体のテーマ・「資本の過剰生産」とは何か
という問題が提起されている。しかし、マルクスは、この問題には正面から

7)第15章第3節の概要については、前掲拙稿「マルクスの「資本の過剰生産」規定
について…」37−40頁を参照せよ。
8)『資本論』第3部からの引用は、引用直後に引用箇所を 、邦訳( 岡崎次郎訳『 資
本論』大月書店,国民文庫版(6)、1972)ページ数とその原書 (Karl Marx, Das
Kapital, MEW, Bd.25, Dietz Verlag, Berlin, 1964 ) ページ数を次のように略記
して示す。例、(訳,234;MEW, 1974)。なお 、エンゲルス編『 資本論 』第3部
第15章第2節と『資本論』第3部「 第1草稿 」当該箇所を比較検討したが、筆
者の見るところ 、細部はともかくとして 、本稿の論題に関わる叙述内容の重要な
違いは存在しない。

ー81ー

答えずに、「資本の過剰生産」が「何であるかを理解するためには…それを絶
対的なものと仮定してみさえすればよい」として 、「資本の絶対的過剰生産」
という「極端な」場合について 、以下第3節の大部分(第3〜14パラグラフ)
を費やして考察している 。以上が第3節の第2部分である。第3節の第3の
部分は 、第15〜21パラグラフであり、ここでは最初に提起された「資本の過
剰生産 」とは何かという問題に答えようとしている。エンゲルス編集『資本
論』では第15パラグラフの冒頭部分が欠落していたが 、マルクスの原稿では、
そこに重要な文章が存在していた。すなわち、「現実の資本の過剰生産は、こ
こで考察されたものとけっして同じではなく、それと比べてみれば 、相対的
なものにすぎない」( Karl Marx, Ökonomische Manuskripte 1863-67, in :
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe( MEGA ), Abt.U, Bd.4,Teil
2,1992,Dietz Verlag Berlin,S.329)。この文章の意味は、「現実の資本の過
剰生産」は「相対的なもの」のであって、「絶対的なものと仮定」されて以上
で考察された「資本の絶対的過剰生産 」とはけっして同じものではない、と
いうことである。この欠落文章以降第21パラグラフまで、「資本の過剰生産」=
「現実の資本の過剰生産」とは何かという問題に答えようとしている。続く第
3節の第4部分(第22〜最終パラグラフ)では、労働の生産力の発展に伴う
利潤率の低下や資本主義的生産の発展に対する利潤による制限など 、要する
に「資本主義的生産様式の制限」の問題が論じられている。
以上、明らかになったことは、第15章第3節全体のテーマは「資本の過剰
生産」とは何かという問題であり 、この問題に答えるためにマルクスはそれ
の「極端な」場合として「絶対的なものと仮定 」された「資本の絶対的過剰
生産」について詳論しているということである。
(3)最後に、本稿の中心課題の第15章第2節「生産の拡大と価値増殖の衝
突」の叙述内容の分析を行おう。第15章第2節は 、 以上2つの節と違って、
節全体の論脈を叙述の順序に従って纏めることは 困難である 。したがって、
以下では、叙述の順序に余り拘らずに 、第2節全体に散在する重要論点を確
認していくことにしょう。

ー82ー

 第15章の第1の部分(第1〜5パラグラフ)において、まず 、社会的生産
力の発展は 、資本蓄積過程において資本蓄積や利潤率に対して相反する二面
的な作用を及ぼすということが述べられている。すなわち 、生産力の発展・
資本蓄積につれて、一方で資本構成が高度化し 、他方で剰余価値率の上昇が
生じるが、それらは利潤率に対して反対の作用を及ぼすということ 、また生
産力の発展は、一方では既存資本価値を増大させるが 、他方では既存資本の
減価を生じさるということ、が述べられている。
 第15章第2節の第2の部分(第6〜12パラグラフ――ただし第11パラグラ
フは除く)は、うえの生産力の二面的作用論を受けて 、蓄積過程に含まれる
2つの契機とそれが内包する矛盾 、生産力の発展・資本蓄積に随伴する相矛
盾する諸傾向・諸現象の素描である。すなわち、「蓄精過程に含まれているこ
の二つの契機 … 。この二つの契機は一つの矛盾を含んでおり 、この矛盾は
矛盾する諸傾向および諸現象となって現われる。」(訳、406頁;MEW、256)。
「利潤率が低下すると同時に諸資本の量は増大し 、またこれに伴つて既存資
本の減価が進み 、この減価は利潤率の低下を妨げて資本価値の蓄績に促進的
な刺激を与える 。/生産力の発展と同時に資本構成の高度化…が生じる。/
これらのいろいろな影響は 、ときにはより多く空間的に相並んで作用し、と
きにはより多く時間的に相次いで作用する 。そして抗争する諸能因の衝突は
周期的に恐慌にはけロを求める。恐慌は、つねに 、ただ既存の諸矛盾の一時
的な暴カ的な解決でしかなく 、また撹乱された均衡を回復する暴力的な爆発
でしかない。」(訳、407頁;MEW、259)。
 以上の論述を図式化して示せば 、<利潤率低下・資本蓄積→既存資本の減
価→利潤率低下の阻止 →蓄積刺激… → 抗争する諸能因の衝突→恐慌>、と
いうことになろう。
 同様の論述は、第12パラグラフでも続けられている。「既存資本の周期的な
減価は 、利潤率の低下をせき止めて資本価値の蓄積と新資本の形成を促進す
るための 、資本主義的生産様式に内在する手段であるが、この減価は、資本
の流通・再生産過程がそのなかで行なわれる与えられた諸関係を撹乱し 、し

ー83ー

たがって生産過程の突然の停滞や恐慌を伴うのである 。/生産力の発展に伴
って進む不変資本に比べての可変資本の相対的減少は 、労働者人口の増加に
刺激を与えるが、同時にそれは絶えず人為的な過剰人口をつくりだす 。資本
の蓄積は、価値から見れば、利潤率の低下によって緩慢にされるが 、それは
使用価値の蓄積をいっそう促進することになり 、同時にこれはまた蓄積を価
値から見ても加速的に進行させるのである。」(訳、408頁; MEW、260)。
 この論述の要点は、<既存資本の周期的減価によって 、利潤率低下が阻止
され資本蓄積が促進される> 、<既存資本の周期的減価は恐慌を伴う>、<
生産力の発展につれて資本構成が高度化し 、労働人口が増加するとともに過
剰人口が生み出される> 、<資本蓄積につれて利潤率が低下し資本蓄積が緩
慢化する>、<資本蓄積は使用価値の蓄積を促進し 、その結果資本蓄積を促
進する>等々ということである。
 これらの様々な相反する因果関係を 指摘する叙述を簡明な形に総括するの
は極めて困難であるので、ここではマルクス自身の叙述(第11 、13 、14パラ
グラフ)を借りて総括しておく他ないであろう、「矛盾は、ごく一般的に言え
ば、次のような点にある。すなわち 、資本主義的生産様式は 、… 生産力の
絶対的な発展への傾向を持っているが 、同時に他面では既存資本の交換価値
の維持とその最大限の増殖 … とを熱望しているという点にある 。 … それ
がこの目的を達成する諸方法は、利潤率の低下、既存資本の減価 、すでに生
産されている生産力を犠牲としての 労働の生産力の発展を含んでいるのであ
る。」(訳、407−408頁;MEW、259)。「資本主義的生産の真の制限は、資本
そのものである 。資本とその自己増殖とが生産の出発点と終点、目的として
現われるということである 。生産は資本のための生産だということ … であ
る 。生産者大衆の貧困化と収奪にもとづく資本価値の維持と増殖とはこのよ
うな制限のなかで運動することができるのであるが 、このような制限は、…
労働の社会的生産力の無条件的発展に向かって突進する生産方法とは 、絶え
ず矛盾することになる 。手段――社会的労働の生産諸力の無条件的発展――
は 、既存資本の増殖という制限された目的とは絶えず衝突せざるをえない。」

ー84ー

(訳、408−409頁;MEW、260)。これら叙述の要点は、<資本主義的生産
様式の矛盾=生産力の絶対的発展傾向と資本の価値増殖欲との矛盾 、社会的
生産力の無条件的発展と既存資本の価値増殖 という制限された目的との耐え
ざる衝突> ということである 。この要点整理が正しいものであるとすれば、
その内容は 、第1節の<生産の諸条件と実現の諸条件との不一致>命題と同
であると言うことができよう。とすれば、第15章第1節と第15章第2節とは、
エンゲルス編集『 資本論 』における節区分にかかわらず 、内容的には同等
equivalentであり、両節は 、やはりマルクスにとって同じ第15章なかでの一
続きの論述であったと見ることができよう。
 以上、第15章全体の内容を見てきたが 、いまそれを総括するとすれば、論
点は次の3つに纏めることができよう。一つは 、第15章全体で言及・議論さ
れる諸問題を指摘した序論的内容であり、もう一つは 、いわゆる「生産の諸
条件と実現の諸条件の不一致」命題であり、さらにもう一つは、「資本過剰」
論(「資本の絶対的過剰生産」論を含む)である。最初の第15章全体の序論的
内容を含む第1論点では 、利潤率の傾向的低下・社会的生産力の発展過程に
おいて生じる諸問題の摘要が行われており、そこには、『資本論』第3部第3
篇の第13 、14章の利潤率の傾向的低下論の後続章に相応しい内容が含まれて
いる。それ以外の論題であるいわゆる「 生産の諸条件と実現の諸条件の不一
致」命題および「資本過剰」論(「資本の絶対的過剰生産」論を含む)は、ま
さに 、社会的生産力の発展過程・利潤率の傾向的低下過程において生じる諸
問題の主要論点である。したがって、この2つの論題が 、第15章の主要論点
であると言うことができよう。9)
以上の第15章についての内容総括を踏まえて、次に 、第15章第2節の主題

9)以上のように 、第15章はエンゲルス編『資本論』第3部では4つに節区分されて
いるが 、それら4つの節は 、それぞれ厳密に区分された独自の主題・ テーマを持
っているわけではない。したがって第15章の内容は、節区分にこだわらずに 、全
体を通しての論脈によって行われるべきであると考える 。このような第15章の捉
え方は、その精神において、富塚良三「この法則の内的諸矛盾の展開」( 本間要一
郎・富塚良三編集『資本論体系5 利潤と生産価格』有斐閣1994、79−89頁)に
おける第15章の内容整理の仕方と同じであると考える。

ー85ー

は何かということを考えてみよう。
 第15章第2節の主題について、逢坂氏は次のように言われる。「[第15章第
2節のテーマは] 生産諸力の発展と加速的蓄積とが相互に促進し合って確か
に総資本の価値量の増加をもたらしながら 、しかし 、他方では同じ生産力の
発展がその増加にもかかわらず、 …『 既存資本の減価 』という関係を潜在
的に進行させ 、そして結局は顕在化させずにはおかぬ というという 問題で
ある。」(逢坂、154頁)。
 このように、逢坂氏は、第15章第2節について独自の解釈・意味づけをさ
れているのである。15章は 、3つの節に分かれていて 、その第1節のいわ
ゆる「生産の諸条件と実現の諸条件の不一致」命題や第3節の「 資本過剰」
論(「資本の絶対的過剰生産」論を含む)と並んで第2節でもそれと同等の重
要な議論(「資本減価」論)が展開されている、しかもそれら3つの節で展開
されている諸命題は、「資本減価」論として相互の有機的連関を有していると
いう理解である。しかし、このような第2節の位置づけ・意義づけは、第15章
の全体の論脈理解としては、正しいものであるとは思えない。第15章第2節
の全体の論脈は、既に見たように 、その主要論点は 、利潤率の傾向的低下過
程・社会的生産力の発展の過程において生じる諸問題の素描と資本主義的生産
様式の矛盾規定 (= 生産力の絶対的発展傾向と資本の価値増殖欲との矛盾、
社会的生産力の 無条件的発展と既存資本の価値増殖という制限された目的と
の耐えざる衝突)である。これに対して、逢坂氏は、第15章第2節の主題は
「生産力の発展が … 『 既存資本の減価 』という関係を潜在的に進行させ、
そして結局は顕在化させずにはおかぬ というという問題」であると主張され
ている。この逢坂氏の主張は、うえで見たように、第15章第2節の主題や内
容の正しい理解を踏まえたものであると決して思えない。

 V.『資本論』第3部第15章における<資本減価と恐慌>
 以上で見たように、逢坂氏の所説には 、第15章第2節の論述に対する受け
入れがたい解釈が含まれている。それは、第15章第2節には、「既存資本の減

ー86ー

価」の潜在的累積が恐慌を引き起こす「 能因 」であるという議論が存在し、
それが第2節の主題であるという解釈である。 果たしてこれは正しい解釈で
あろうか。以下検討してみることにする。
 第15章第2節の幾つかの箇所でマルクスは「資本減価」に言及しているの
で、まず、それらすべてを引用してみよう。
 @「直接に生産力の増大(これはまた 、前述[第15章の範囲内で言えば、
いわゆる「 生産の諸条件とその実現の諸条件の不一致」命題の箇所でのみ、
マルクスは資本減価に言及している(訳、400; MEW、254 )――松尾] の
ように、つねに既存資本の減価を伴う) が資本の価値量を増加させることが
できるのは 、ただ、それが利潤率を高くすることによって年間生産物の価値
のうち資本に再転化させられる部分を増加させる場合だけである 。労働の生
産力を問題にするかぎりでは、こういうことが起こりうるのは( この生産力
は既存資本の価値とは直接にはなんの関係もないのだから)、ただ、それによ
って相対的剰余価値が増されるか 不変資本の価値が減らされるかするかぎり
でのことである 。つまり、労働力の再生産かまたは不変資本の諸要素かには
いって行く商品が安くなるかぎりでのことである 。ところが、これは両方と
既存資本の減価を含んでおり、また両方とも 不変資本に比べての可変資本
の減少を伴っている。」(訳、405;MEW、258)。
 A「 利潤率が低下すると同時に諸資本の量は増大し、またこれに伴つて
存資本の減価が進み、この減価は利潤率の 低下を妨げて資本価値の蓄績に促
進的な刺激を与える。」(訳、407頁;MEW、259)。
 B「 資本主義的生産様式は、… 生産力の絶対的な発展への傾向 を持って
いるが、同時に他面では 既存資本の交換価値の維持と その最大限の増殖 …
とを熱望している… 。 … それがこの目的を 達成する諸方法は 、利潤率の
低下 、既存資本の減価、すでに生産されている生産力を犠牲としての労働の
生産力の発展を含んでいるのである。」(訳、407−408頁; MEW 、259)。
 C「 既存資本の周期的な減価は、利潤率の低下をせき止めて資本価値の蓄
積と新資本の形成を促進するための、資本主義的生産様式に 内在する手段で

ー87ー

あるが、この減価は、資本の流通・ 再生産過程がそのなかで行なわれる与え
られた諸関係を撹乱し 、したがって生産過程の突然の停滞や恐慌を伴うので
ある。」(訳、408頁;MEW、260)。
 これら4つの引用文のうち@ABでは 、<生産力の発展にともなう既存資
本の減価、その結果としての利潤率低下阻止・ 資本蓄積促進>という論点が
指摘されているが 、恐慌については少しも言及されていない。これに反して、
引用文Cにおいてだけ、「恐慌」への直接の言及が見られる。すなわち、「こ
の[ 既存資本の ]減価は… 恐慌を伴う 」と。本稿の問題関心から 、以下引
用文Cを分析し 、そこに逢坂氏の主張される<資本減価→恐慌>という論点
を読み取ることができるかどうか検討してみよう。
 逢坂氏は、引用文Cに次のような解釈を加えられた。
 「この『減価』は、一方では利潤率の低下を『緩慢 』にして『資本価値の
蓄積を促進するための手段』として作用し 、かくして生産力の発展に刺激を
与えるという面 … 、他方では『資本の流通・ 再生産過程の与えられた諸関
係を攪乱』するような利潤率の低下 、しかも突然の低下をひき起こし、した
がって『生産過程の突然の停滞や恐慌』をさえ誘発して 、結局は生産力の不
当な破壊や蕩尽に導くという面である。… 『減価 』の対抗的な二重性とは、
一方では、生産力の発展と加速度的蓄積とを促進する『手段 』として『利潤
率の低下をせき止め』、むしろその上昇傾向に作用しながら、他方では、こう
した利潤率の上昇と資本価値の蓄積・増大に作用しながら 、他ならぬこの利
潤率を反対の低下へと至らしめ、それとともに蓄積の『 突然の停滞や恐慌』
を現実化させる、ということである」(逢坂、175頁)。
 「問題は 、…この『減価 』は、何ゆえに『資本の流通・ 再生産過程がそ
のなかで行われる与えあられた諸関係を攪乱』するのか、したがってまた『生
産過程の突然の停滞や恐慌』へ発展することになるのか … 。 … 『 既存資
本の周期的減価』がいかなる意味で恐慌の現実的契機や『能因 』 … である
のか」ということである(逢坂、175頁)。
 逢坂氏のこれらの解釈は 、論述を概ね正しくパラフレーズしているかのよ

ー88ー

うな印象を与えるかもしれない。しかし 、<資本減価と恐慌の関係>に触れ
る肝心の箇所に関しては、その解釈を筆者は受け入れることができない 。逢
坂氏は、引用文末尾の<この減価は生産過程の突然の停滞や恐慌を「伴う」>
という叙述を 、<この減価は生産過程の突然の停滞や恐慌を「誘発」する>
と言い換えている10)。しかし引用文の文言を率直に読めば、資本減価が恐慌
を「誘発」するという解釈は導き出されうるとは思えない。マルクスは 、叙
述前半部分では < 既存資本の周期的な減価は 、利潤率の低下を緩慢化し資
本蓄積を促進する> と述べ、後半部分では<既存資本の周期的な減価は、資
本の流通・ 再生産過程が行なわれる諸関係を撹乱し生産過程の突然の停滞や
恐慌を伴う> と述べている。前半部分の理解については問題はないが、後半
部分の「この減価は 、資本の流通・再生産過程がそのなかで行なわれる与え
られた諸関係を撹乱 」するという事態から、直ちに、<この減価は生産過程
の突然の停滞や恐慌を「誘発」する >という事態を引き出すことだできない
のではなかろうか。そこには議論の飛躍があるのではなかろうか。
 資本減価が経済的諸関係に何らか撹乱を与えるからといって 、それが直ち
に、社会の全機構を震撼させる「恐慌」(資本過剰・過剰生産)を「誘発」す
るということにはならない。経済的諸過程には「諸関係を撹乱 」させる様々
な諸契機・諸作用がつねに存在するが、それらすべてが、必ずつねに、「恐慌」
(資本過剰・過剰生産)の「能因」となり、恐慌を「誘発 」する訳では断じ
てない。「諸関係を撹乱」させる諸契機・諸作用のある種のものだけが、しか
もある限度を超えた場合に限って、「諸関係を撹乱」させる事態から「恐慌」
へと事態を進行させるのである。問題は、どのような諸契機・諸作用が 、ど

10)二見昭氏も、筆者と同様にこの言葉のすり替えに注目されている。すなわち 、「逢
坂氏は、『既存資本の周期的な減価 』は『資本の流通・再生産過程がそれまで行わ
れる与えられた諸関係を攪乱し 、 したがって生産過程の突然の停滞と危機とを伴
うのである』というマルクスの叙述について、『伴う』を『能因』と解釈され、『既
存資本の減価 』が恐慌の『能因 』であるというのがマルクスの見解だと主張され
る」(二見前掲論文、97頁)。二見氏同様に筆者も、この言葉のすり替えは重要で
あると考えるが 、しかし 、より重要な問題は、言葉のすり替えによって導き出さ
れている命題の是非であると考える。

ー89ー

の程度限度を超えて作用した場合に「諸関係を撹乱」させる事態から「恐慌」
へと事態を進行させるのかということである。逢坂氏の言う「既存資本の周
期的減価」の「累積」が果たしてそのような契機なのか、そしてそれが及ぼ
す作用が「諸関係を撹乱」するだけに留まらずに、事態を「恐慌」へと進ま
せるうる程度のものなのかどうか、それが問題である。
 逢坂氏は、引用文Cについて「資本減価」論が恐慌の「能因」であるとする
因果関係を主張する根拠の一つとして、次のような文言解釈を持ち出される。
すなわち、「ここでの『周期的減価』が、前後の文脈からして、すぐ前の…
『周期的』恐慌を念頭に置いて述べられたものであることは、それ程想像に
難くない。」(逢坂、174頁)、と。しかし、これは、氏の主張をけっして根拠
づけてはいない。逢坂氏は、「既存資本の周期的減価」が恐慌を引き起こすと
いう主張の根拠を先行するパラグラフの「抗争する諸能因の衝突は周期的に
恐慌にはけ口を求める」という表現に求めているが、これは、氏の意図に反
して逆のこと示している。「周期的減価」という表現が先行するパラグラフの
「周期的」恐慌を念頭に置いたものであるとすれば、引用文Cの「周期的減
価」は、資本蓄積の過程で「潜在的に」進行し累積していくようなものでは
ありえず、恐慌時にだけ「周期的に」に勃発するものであると言わなければ
ならない。少なくともここでは、マルクスは、「既存資本の減価」が恐慌時に、
恐慌に伴なう現象として周期的に勃発すると考えているからこそ、「周期的」
恐慌に関説した叙述に続けて、「周期的減価」は「恐慌を伴う」という表現を
用いたのではなかろうか。
 逢坂説の問題点をさらに明らかにするために、逢坂氏の言う所をさらに聞
くことにしょう。
 「ここにいう『既存資本の減価 』が、… 生産力の増進と特別剰余価値の
増大――マルクスの場合には『相対的剰余価値の増大』となっているが――
等々に基づく利潤率の上昇傾向の過程に同時に並存して進展し、その増加と
ともに深化していく性質のものである …。してみれば 、ここにも1つの矛
盾した関係が展開する。つまり、一方では資本の『価値増加』がありながら、

ー90ー

しかし他方では、それと並存して資本の『価値減少』が同時的に進行すると
いう … 相反する関係が析出されているからである。」(逢坂、168頁)。
 「既存資本の潜在的『減価』 … と、マルクスが次の第3節でしばしば言
及している『旧資本の事実上の減価』 … 。 … 前者は、生産力の増進によ
って既存資本の価値に不可避的に生じる潜在的な『減価』であり、それが深層
で未だ潜行していて顕在化しない限りでは 、依然として既存資本の最高度の
価値として『維持』され『減価していない資本価値』として観念される。…後
者は、潜行する『減価』の累積が『資本の流通・再生産過程の諸関係』によ
って画された一定の限界を超えて顕在化したときに蒙る『事実上の減価』の
謂である。 … 前者から後者への転機を画する諸関係が、 … 『直接的搾取
の諸条件』と『この搾取の実現の諸条件』との不一致を根拠にしている」(逢
坂、176−177頁)。
 「『既存資本の減価』問題にとって最も重要で決定的な論点は、この『減価』
が要するに、労働の社会的生産力の発展に基因した『生産過程を通じての資
本の価値喪失』 … であることを認め、したがってこの『減価』を恐慌の積
極的な動因とみるか、あるいは逆に、恐慌によって強制される既存資本の『突
然の暴力的な価値喪失』 … と解して、これを恐慌のいわば結果現象とみる
か」ということである。「前者のような生産力の発展によって既存資本群に潜
在的に含まれる内的関係としての『減価』を前提にしてこそ、後者の『減価』
が結果として現実化し顕在化する」のである(逢坂、213-214頁)。
 以上の逢坂氏の主張を要約すると、次のようになろう。《生産力の発展・
特別剰余価値の増大等々に基づく利潤率の上昇過程に並行して不可避的にし
かも過程の深層で潜在的な形で「既存資本の減価」は進行する。しかしそれ
は顕在化しない限り「減価していない資本価値」として観念される。ところ
が、この潜行する「減価」が累積して「資本の流通・再生産過程の諸関係」
によって画された一定の限界を超えたとき顕在化し「事実上の減価」となる。
前者から後者への転機は、「直接的搾取の諸条件とこの搾取の実現の諸条件」
との不一致を根拠にしている11)。したがって「既存資本の減価」は恐慌の積

ー91ー

極的な動因であり、恐慌の結果現象ではない。》
 この逢坂氏の主張について、筆者は次のような疑問を抱く。すなわち、逢
坂氏の言う原因によって本当に「既存資本の潜在的減価」が発生するのか、
氏が「既存資本の潜在的減価」という場合の「潜在的」とは何か、また「既
存資本の潜在的減価」の「累積」とはどのような事態を指すのか。
 これらの点を明らかにするために、まず、逢坂氏の念頭にある「既存資本
の減価」概念から検討してみよう。
 「労働の社会的生産力の発展に起因した『生産過程を通じての資本の価値
喪失』」(逢坂、213頁)。「生産力の増進と特別剰余価値の増大――マルクスの
場合には『相対的剰余価値の増大』となっているが――等々に基づく利潤率
の上昇傾向の過程に同時に並存して進展し、その増加とともに深化していく
性質のもの」(逢坂、168頁)。「生産力の増進によって既存資本の価値に不可

11)逢坂充氏は 、氏独自の「資本減価 」概念に基づいて恐慌論体系を展開されようと
しているが、しかし 、筆者の見るところ 、氏の体系にとって理論的に不純な要素
がそこには混入しているように思われる。それは、「資本の潜在的減価」から「資
本の事実上の減価 」への転機を画する諸関係は「 直接的搾取の諸条件とこの搾取
の実現の諸条件との不一致 」にその根拠を求めることができるとする主張である。
この主張は 、逢坂充氏の恐慌論において 、恐慌が引き起こされるための最後の詰
めの論理をなしているが 、その反面 、氏の議論の「体系性」を壊す重大欠陥をな
しているのではなかろうか 。この論理の不純性は他の論者からも指摘されている。
例えば、鈴木勝男氏は次のような指摘をしている。「[逢坂]氏は『過剰資本』の
『発生の源泉』と『顕在化の条件』とを『明確に区別して 』恐慌を論じているが、
発生の源泉の論証には難点があるのではなかろうか 。過剰資本の顕在化の条件を、
氏が『実現の諸条件 』に求めている点で 、むしろ商品過剰恐慌論になっていはい
まいか。」(鈴木前掲論文、120頁)。また廣田精孝氏も次のように述べている。「逢
坂氏は 、… 過剰資本の顕在化の条件を … 『 実現の諸条件 』に求めていた …、
今度は一転して、『事実上の減価』を蒙り顕在化する過剰資本の過剰の内実を、新
旧の社会的価値の差額を 意味するものと捉えているのである 。 … 何故このよう
な奇妙な議論が展開されることになってしまったのか。」(廣田前掲論文、353−354
頁)。このように、逢坂充説が肝心な点で「実現の諸条件 」論に依拠しているが、
それは 、氏の恐慌論体系に新たな課題を課することになろう 。資本の「潜在的減
価 」から「事実上の減価 」への転換の根拠となるためには、上記の「不一致」の
程度・内容が問題になるのではなかろうか。「不一致」さえ存在すれば、直ちにそ
こに恐慌が発生するということにはならない。どのような程度と内容を持った「不
一致」が発生すれば、「根拠」となりうるのかを逢坂充氏は説明しなければならな
いのではなかろうか。しかし 、これを逢坂充氏が本格的に行えば 、逢坂充氏の恐
慌論体系は変質してしまうのではなかろうか。

ー92ー

避的に生じる潜在的な『減価』」(逢坂、176頁)。
 このように、逢坂氏は、「既存資本の減価」は、生産力の増進と特別剰余価
値の増大過程に同時並行して起こるものであると主張している。しかも、『資
本論 』における叙述にその主張の根拠を求めることができるとされている。
 逢坂氏の典拠とされる『資本論』の叙述とは、第15章第2節第4パラグラ
フの次の叙述である。「直接に生産力の増大(これはまた、前述のように、つ
ねに既存資本の減価を伴う)が資本の価値量を増加させることができるのは、
ただ、それが利潤率を高くすることによって年間生産物の価値のうち資本に
再転化させられる部分を増加させる場合だけである。労働の生産力を問題に
するかぎりでは、こういうことが起こりうるのは(この生産力は既存資本の
価値とは直接にはなんの関係もないのだから)、ただ、それによって相対的剰
余価値が増されるか不変資本の価値が減らされるかするかぎりでのことであ
る。つまり、労働力の再生産かまたは不変資本の諸要素かにはいって行く商
品が安くなるかぎりでのことである。ところが、これは両方とも既存資本の
減価を含んでおり、また両方とも不変資本に比べての可変資本の減少を伴っ
ている。両方とも利潤率の低下をひき起こし、また両方ともこの低下を緩慢
にする。」(訳、405頁;MEW、258)。
 ここでは、マルクスは、労働生産力の増大によって資本の価値の増大が起
こるのは、「それによって相対的剰余価値が増されるか不変資本の価値が減ら
されるかするかぎりでのこと」、「労働力の再生産かまたは不変資本の諸要素
かにはいって行く商品が安くなるかぎりでのこと」であり、このことは「両
方とも既存資本の減価を含んでおり、また両方とも不変資本に比べての可変
資本の減少を伴っている」、と述べている。要するに、<労働生産力の増大に
よって、「労働力の再生産かまたは不変資本の諸要素かにはいって行く商品が安
くなる」、その結果既存資本の減価が進行する>ということである。
 これを逢坂氏は独自に次のように解釈される。「ここにいう『既存資本の減
価』が、…生産力の増進と特別剰余価値の増大――マルクスの場合には『相
対的剰余価値の増大』となっているが――等々に基づく利潤率の上昇傾向の

ー93ー

過程に同時に並存して進展し、その増加とともに深化していく性質のもので
ある」と。見られるように、マルクスが、「それ[生産力の増大]によって相
対的剰余価値が増されるか不変資本の価値が減らされるかする」、その結果
「既存資本の減価」が生じる、と述べているのに対して、逢坂氏は、敢えて
それを「生産力の増進と特別剰余価値の増大――マルクスの場合には『相対
的剰余価値の増大』となっているが――等々に基づく利潤率の上昇傾向の過
程に同時に並存して」「既存資本の減価」が進展する、と解釈されている。マ
ルクスの「相対的剰余価値の増大」という文言を「特別剰余価値の増大」と
いう用語に置き換えているのである。この置き換えは、自覚的である。マル
クスの論述の主旨は、《生産力の発展→生産力を発展させた部門で生産され
る生活手段あるいは生産手段の低廉化→低廉化した生活手段あるいは生産手
段を購入する生産部門における相対的剰余価値の増大・資本価値の減価》で
ある。 これに対して、 逢坂氏は 、《生産力の発展→革新的資本における特別
剰余価値の増大・革新的資本と既存資本の競争→革新的資本の価値増加と既
存資本の「減価」》という図式を対置されるのである。この点について逢坂氏
は次のように説明している。
 「マルクスは、こうした利潤率の上昇する根拠について、(新資本の高い生
産力によって)『 相対的剰余価値が増やされるか不変資本の価値が減らされる
かするかぎりでのことである』というのであるが、後者の不変資本の価値の
減少はともかく、前者の相対的剰余価値の増大は、むしろ革新的追加資本が
その高い生産力から直接取得する特別剰余価値の増進と看た方がより適切で
はあるまいか」(逢坂、164頁)。「新資本群の高い生産力が既存資本部分の価
値に対して『なんの関係もない』どころか、逆に重大なインパクトを与えず
にはおかないであろう … 。 … 生産力の発展と加速的蓄積の過程には、一
方で資本価値量の『増加』を積極的に推進しておきながら、他方ではその深
層で既存資本の『減価』を強制し潜在的に促進していくような、互いに対抗
し合う契機が内含されている」(逢坂、166−167頁)。「生産力の発展をめぐる
新・旧両資本群 … の対抗のうちに潜在的に進行する既存資本の『減価』が

ー94ー

再生産の諸条件による限界、あるいは資本価値にとっての内在的な諸限界を
超えたとき、それは…『過剰資本』として顕在化する」(逢坂、177−178頁)。
 要するに、逢坂氏においては、資本減価論は、特別剰余価値の獲得をめぐ
る同ー生産部門内の諸資本の競争過程の問題として捉えられているのである。
すなわち、特別剰余価値の取得を可能ならしめる革新的資本の高い生産力は、
新生産方法を導入しない既存資本の価値に対して重大な影響を与える。生産
力の発展過程において、一方で革新的資本の価値量が増加するが、他方では
既存資本の「減価」が潜在的に促進されていき、そして潜在的に進行するこ
の既存資本の「減価」が再生産の諸条件による限界を超えたとき、それは「過
剰資本」として顕在化する、と主張されるのである。
 逢坂氏のこのような主張に、筆者は幾つかの点で疑問を感ぜじるを得ない。
このような主張の典拠となった論述に対する氏の解釈は、マルクスとの違い
を自覚したうえでの解釈であり、マルクス批判とも言うべきものである12)。

12)評者の多くは、第15章第2節の問題箇所では、マルクスは、<生産力の発展→相
対的剰余価値の増大・ 不変資本の価値低下>の問題を論じているのに 、それを間
違えて 、逢坂充氏は 、同一生産部門内の<生産力の発展→特別剰余価値の増大>
の問題として論じていると批判している。たとえば、高山氏は、「著者はマルクス
がそこで労働力の再生産要素の価値低下 による相対的剰余価値生産を 、資本『減
価』論の文脈の中で触れている点について、『混乱の誤解』を招きかねないとして、
『新旧両資本群の生産力格差をめぐる競争 』と『特別剰余価値生産 』を問題にす
ればよいと述べている。 しかし 、 … マルクスは労働生産性上昇が内包する『既
存資本の減価』の具体例として『労働力の再生産要素かまたは不変資本の諸要素』
となる商品の価値低下に論及することによって 、正にこれら『諸要素 』を生産し
ている部門の生産力の発展が 、それらを利用する部門に 与える影響を明らかにし
ているのである。」(高山前掲論文、92頁)。また前畑憲子氏も、「逢坂氏とマルク
スの既存資本の減価についての相違は 、 … 氏は 、特別剰余価値の生産によって
という回答を出し 、マルクスは 、前貸資本に入る商品が 安くなるからだという、
その相違によって必然的に導かれた『減価』の相違であった。」( 前畑前掲論文、
67頁)。さらに二見昭氏も、「逢坂氏はこれを『同一部門内における生産性格差を
めぐる問題』(高山満氏)として認識されているのに対して、マルクスの場合は『労
働力の再生産要素かまたは不変資本の諸要素 』となる商品の価値低下( 生産力の
発展の結果として)が、『それらを利用する部門に与える影響』(高山氏)を論じ
ているのである。」(二見前掲論文、96ー97頁)。前畑氏の論稿は、第15章第2節の
問題部分の論述を巡る マルクスと逢坂充氏の対抗が 氏の論稿の紙幅の大部分を占
めている。
この種の逢坂充批判も必要であるが 、より重要なのは 、マルクスの意図に反し

ー95ー

逢坂氏の解釈は、『資本論』におけるマルクスの叙述意図とは明らかに異なる
ものであるが、問題は、逢坂氏の《生産力の発展→革新的資本側における特
別剰余価値の取得→既存資本の減価》というシェーマが成り立つのかどうか
である。特別剰余価値概念の常識的な理解からすれば、《生産力の発展→革
新的資本側における特別剰余価値の取得》ということから《既存資本の側で
取得される剰余価値の減少・利潤率の低下→既存資本側の蓄積速度の低下》
ということを導き出すことができよう。しかし、それが可能であるとしても、
そこから直ちに《既存資本の側における資本価値の減価》という結論を導き
出すことには疑問がある。
 逢坂氏の主張を極力理解するために 、 特別剰余価値論の理解を「少し 」変
えてみよう。そうすれば、逢坂氏の主張にも「一貫性」が見出せるかもしれ
ない。すなわち、《一方で新生産方法の導入を果たした革新的資本群が特別
剰余価値を取得することができるとすれば、他方では旧生産方法に留まって
いる既存資本群は、前者が取得する剰余価値額だけの損失を受ける。その結
果、前者は剰余価値総額が増加するので利潤率は上昇し、後者は剰余価値総
額は減少するので利潤率は低下する》というのが剰余価値についての常識的
な考え方である。これを変えて、《革新的資本群は新生産方法を導入した結
果、資本価値の社会的評価が高まるのに対して、後者の既存資本群は旧生産
方法に留まっているので資本価値の社会的評価は低下する 。 前者が新生産
方法の導入の結果、増価した資本に対応して剰余価値を増加させるとすれば、
後者は旧生産方法に留まる結果、減価した資本に対応して剰余価値は減少し
利潤率が低下する>という考え方をしてみてみよう。この場合、利潤率は、減少
した剰余価値総額と減価した資本価値とで計算されるため、低下すると考え
る必要がないであろう。既存資本の利潤率が低下するとは考えずに、同じ商
品を生産する同じ生産部門の革新的諸資本群に新生産方法が導入された結果、

た解釈に基づく逢坂充氏の主張・所説(革新的資本群の側での新生産方法の導入
が、同じ生産部門内の「既存資本」の側に「資本減価」を発生させるという主張)
が、果たして成立しうるのかどうかということであると筆者は考える。

ー95ー

旧い生産方法に留まる既存諸資本は社会的平均的生産技術の水準から立ち後
れている分だけ資本価値額が、社会的評価として減価したと考えるのである。
過程の出発点に与えられた簿価には変化がないので、既存資本群の資本家た
ちにとっては資本減価が生じてはいないという「外観」を呈することになる。
既存資本にとってはまさに資本減価は「潜在的に」進行しているということ
になろう。
 このように考えれば、逢坂氏の主張にも「一貫性」が出てくるであろう。
しかし、それは、資本価値額を収益性(取得可能な剰余価値総額)から推定・
規定する考え方であり、労働価値論の基本原理(商品であれ資本であれ、そ
の価値の大きさは、それを生産するために生産過程で現に投下された労働量、
あるいは、それを再生産するに要する投下労働量によって規定する)から懸
け離れた考え方であり、事実上労働価値論を放棄する考え方であである。こ
のような考え方には、率直に言って、筆者は与することはできない。もし、
逢坂氏が上記のように考えるのであれば、氏の著書に見られる多くの『資本
論』からの引用・参照が何を意味するのか筆者には不明であると言わざるを
得ない。
 逢坂氏の主張の意味を検討するために、さらに別の考え方をしてみよう。
すなわち、革新的資本群が、特別剰余価値の取得を可能とする新生産方法導
入の結果生活手段あるいは不変資本諸要素の低廉化を実現するが、その生産
物を自己の生産部門に属する諸資本に供給し、その結果として資本減価が生
じるとするケースを検討してみよう。この場合は、資本減価は自己の生産部
門に属する諸資本のすべてに同程度に生じるであろうから、このことによっ
て革新的資本と既存資本との間に資本減価を巡る対抗という問題は起こらな
いであろう。つまり、このケースは、特別剰余価値の取得が可能な革新的資
本群とそれが不可能な既存資本との対抗関係が生じないケースである。そも
そも 、このケースは、特別剰余価値の取得を巡る対抗を軸にして問題を論じ
る逢坂氏にとっては、想定外のケースであり、またわれわれにとっても想定
する必要がないケースである。

ー97ー

 もはや、逢坂氏の『資本論』解釈とそれに基づく氏独自の<資本減価と恐
慌>問題を検討する必要はないであろう。そこで議論を元に戻して、先のマル
クスの論述 [引用文C ]について、相対的剰余価値の増大および不変資本諸
要素の低廉化に関するマルクスの論述意図に沿って、<資本減価と恐慌>問
題を考えてみることしよう。
 新生産方法の導入によって生産力の発展を果たした革新的資本群が、安価
な生活手段および不変資本諸要素を生産し、他の生産諸部門に低廉化した生
産物を供給し、その結果それら部門の諸資本が相対的剰余価値を得ることが
でき、必要な資本量を削減することができるようになるというケースである。
この場合、確かに、安価な生活手段や不変資本諸要素を購入することができ
る諸資本は、それら諸要素を充当する追加的資本部分や更新資本部分のコス
ト(可変資本および不変資本)を縮小させることができる。その結果従来の
生産規模を維持するのに必要な資本量が減少し余剰資本が追加的資本として
投下され、拡大再生産が実現することになるであろう。それに反して、低廉
化した不変資本諸要素等を購入しない諸資本や更新時期がきていない原資本
部分は、それらを再生産するのに必要な労働量が減少するため資本減価が生
ずるであろう。しかし、このようにして進行する資本減価は、逢坂氏が言う
ように「潜在的」なものではない。生産力の発展は日々進行するものである
し、生産される諸商品は日々低廉化する。その結果、低廉化した不変資本諸
要素等を購入する生産諸部門の諸資本は、直ちに、それらの更新時期に達し
ていない原資本部分は減価したものとして行動する。同様に、低廉化した不
変資本諸要素等を購入することができない諸資本も、自己の資本が減価した
ことを認識し減価したものとして行動するであろう。また、この場合、資本
減価は、技術革新に遅れた一部既存資本にのみ進行するのではなく、低廉化
した不変資本諸要素等を購入する立場にあるすべての生産諸部門のすべての
諸資本に関して起こる。このような資本減価は、絶えず進行し日々「資本の
流通・再生産過程がそのなかで行なわれる与えられた諸関係」を攪乱する。
しかし、新生産方法がよほど革命的で、その導入の規模が同時大量でない限

ー98ー

り、その作用・影響の度合いは制限されたものであり、直ぐさま、恐慌等の
経済的攪乱を誘引するものではない。したがって、このケースの場合にも、
逢坂氏の言われるような事態、すなわち革新的資本群における資本蓄積の加
速的進行、既存資本群における「潜在的な」資本減価とその「潜在的」累積
という事態は生じないのである。つまり、《生産力の発展→既存資本の
減価の潜在的進行・累積→恐慌》という逢坂氏の主張される図式は成立しな
いと言わざるを得ないのである。13)
  ******************************
 以上、本稿において考察してきたことを纏めてみれば、次のようなことに
なろう。
 逢坂氏は、同氏著『再生産と競争の理論』において、次のような独自な『資
本論』理解と恐慌論体系の骨子を展開されている。(1)『資本論』第3部第15
章第2節の主要テーマは「資本減価」論である。(2)同章第2節は、同章第1
節や第3節と同じ程度の重要性を持つ節である。(3)同章第2節ではマルクス
は、<資本の「潜在的減価」の累積の結果として恐慌が発生する>という命
題を展開している。
 本稿ではこれらの3つの論点を逐次検討した。その結果次のような結論を
得た。(1)『資本論』第3部第15章第2節の主要テーマは資本減価論ではない。
(2)第15章の3つの節は、エンゲルス編集における節区分であり、第2節は独
自な主題・テーマをもってはいない。3つの節を別々にではなく、第15章全
体を見る立場から重要論点を明らかにしなければならない。その観点から見
れば、第15章全体の重要テーマは、「生産の諸条件と実現の諸条件との不一致」
についての論述と「資本過剰 」論である。(3)逢坂氏が同章第2節の主題と考

13)逢坂充説に対する筆者を含む大方の評者の結論に反して、前畑憲子氏は次のよう
に主張されている。「マルクスは、…生産力の発展そのものが作り出す資本に特
有な生産の制限の一契機として、 … 『既存資本の減価』を位置づけていること
は確かなことであろう。 … 2節では『既存資本の減価』はこのように、抽象的
ではあるが、恐慌の現実性への転化における一契機として位置づけられている」
(前畑前掲稿、74頁)。どうしてこのようなことが言えるのか、根拠が示されてい
ない。筆者には理解できない。

ー99ー

える<資本の潜在的減価の累積の結果として恐慌が引き起こされる>という
命題は、そこには存在しない。
(まつお・じゅん/経済学部教授/2000.3.14受理)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー98ー
Summary in English
 
  

Marx's Explanation of the Relation Between Capital
Depreciation and Economic Crisis in Das Kapital

Jun Matsuo

  The aim of this paper is to examine the development of Marx's theory
of economic crisis in Volume 3 Chapter 15 of Das Kapital. For this pur-
pose, I consider the views of Professor Mitsuru Ohsaka who has deve-
loped notable interpretations concerning this issue. Following this, I
present my own thoughts.
While numerous scholars have repeatedly delved into this issue, their
efforts have been concentrated on Sections One and Three of Chapter
15. As opposed to this, Professor Ohsaka has directly focused his re-
search on the neglected descriptions of Section Two to elucidate a sys-
tem of economic crisis based on the theory of "capital depreciation." In
this paper, I examine Professor Ohsaka's understanding of Das Kapital
and his theory of"capital depreciation"which is rooted in his interpreta-
tions.
In his publication entitled A Theory of Reproduction and Competition,
Professor Ohsaka outlines his interpretations of Das Kapital and the sys-
tem of economic crisis as follows. (1) The principal subject of Volume 3
Chapter 15 Section Two of Das Kapital is the theory of "capital deprecia-
tion." (2) Section Two of Chapter 15 is of equal importance as Sections
One and Three. (3) In Section Two, Marx develops the idea that "eco-
nomic crisis is generated as a result of the accumulation of the'potential
depreciation' of capital."

ー101ー

  Having considered each of these three points, I arrive at the following
assertions. (1) The principal subject of Volume 3 Chapter 15 Section
Two of Das Kapital is not the theory of capital depreciation. (2) The
division of the three sections of Chapter 15 is an editorial creation of En-
gels, and Section Two does not have its own separate subject or theme.
As such, the three sections should not be considered separately, but
must be viewed as a whole when identifying their central argument.
Seen from this perspective, the important themes of Chapter 15 in its en-
tirety consist of the proposition that "the conditions of direct exploita-
tion is not identical with the conditions of its realization", and the
theory of "capital surplus." (3) Contrary to Professor Ohsaka's contention,
the argument that "economic crisis is generated as a result of the accu-
mulation of the 'potential depreciation' of capital" does not in fact exist
in Section Two.


ー102ー