『経済経営論集』(桃山学院大学)第40巻第1号、1998年6月発行

  

『資本論』第3部「主要草稿」における生産価格論の形成

 

松尾 純

 

T.は じ め に

『資本論 』の正確な理解を目指して、 これまでさまざまな議論が繰り返さ
れてきた。それらのなかには、 マルクスの叙述の不明確さや不正確さに起因
するものも多く含まれていた。とりわけ、『資本論』第3部は、皮肉にもその
ような性格を持つ論争問題の「宝庫」ともなってきた。 それゆえ、『資本論』
第3部の「主要草稿」1)MEGAによって1992年(実際は周知のように1993
年)に公刊されて以来、『資本論』研究が極めて低調な昨今の状況にもかかわ
らず、 従来議論されてきた問題点の解決・解明を目指して 、エンゲルス編集
の現行版『資本論』第3部とマルクス執筆の『資本論 』第3部「主要草稿」
の対比研究がにわかに活発化した。本稿が取り上げようとする問題も、『資本
論』第3部「主要草稿」の公刊によって活発化した研究対象のひとつである。
すなわち、それは、『資本論』第3部「主要草稿」においてマルクスがどのよ
うに生産価格論を展開しているかという問題である。
 筆者は、かつて、『資本論』に先だってマルクスによって執筆された「1861ー
63年草稿」2)を取り上げて、同草稿におけるマルクスの「生産価格論」に関す

1)Karl Marx, Ökonomische Manuskripte 1863‐67, in: Karl Marx/Friedrich Eng-
els Gesamtausgabe(MEGA), Abt.U, Bd.4, Teil 2, 1992, Dietz Verlag Berlin.
以下この書を Kapital と略記する。引用に際しては、引用箇所を、引用文直後に
Kapital の引用ページと 、それに対応する MEW版『 資本論 』( Karl Marx, Das
Kapital, MEW, Bd.25, Dietz Verlag, Berlin, 1964) およびその邦訳(岡崎次郎
訳『資本論』大月書店、国民文庫版(6))の引用ページを次のように略記して示す。
例、(Kapital, 221; MEW, 1974; 訳、234)。

ー79ー

る諸論述を時系列的に検討し、同草稿における生産価格概念の形成過程を詳
細に分析した。3)その概略は、次のようなことであった。
まず、「1861―63年草稿」前半期(執筆時期の観点からノート]Yおよびノ
ート]Z冒頭を含む)のマルクスの「標準価格」・「平均価格」論を取り上げ
た。この時期マルクスは、平均価格論については、『資本論』の生産価格論に
結びつけうる議論をほとんど展開しておらず、平均利潤論に関連して僅かに
その問題の所在を付随的に指摘するのみで、その位置づけについて「のちに
私が証明する」(MEGA、386;草稿集D90)と言うだけであった。
つづく同草稿後半期(ノート]〜ノート]T)のマルクスは、「平均価格」(の
ちに「費用価格」という用語に変更)論について本格的な議論を展開し、問
題の基本的な解決を果した。本格的な展開の端緒は、ノート]・445 〜 ノート
]T・552でロートベルトゥスの「新地代論」批判とマルクス自身の絶対地代
の解明であり、「平均価格」・「費用価格」論はそのための理論的基礎であった。
さらに、ノート]T〜]U部分におけるマルクスの「平均価格」論=「費用価
格」論を詳しく分析した。この時期のマルクスは、「平均価格」に代わって「費
用価格」という用語を常用するようになった。「平均価格」から 「費用価格」
という用語への移行は、絶対地代の問題が一つの理論領域をなす問題として
取り上げられ、概念的に確立し、「資本一般」の問題として取り扱うという構
想が表明されるようになったことと深く関わっている。また、この用語の移
行は、ノート]T・534以下での「 市場価値 」論の成立にも関係がある。すな
わち、ノート]T・485以下の差額地代論に附随してマルクスは自身の「市場

2)Karl Marx, Zur Kaitik der politischen Ökonomie ( Manuskript 1861-63), in:
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe ( MEGA ), Abt. U, Bd. 3, Teil
1,1976;Teil 2,1977;Teil 3,1978;Teil 4,1979;Teil 5,1980;Teil 6,1982, Dietz
Verlag. 以下この書を MEGA と略記する。引用に際しての訳文は 、資本論草稿集
翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集 』CDEFGH 、大月書店、1978, 1980,
1981, 1982, 1984, 1994年 に従う。引用に際しては 、引用個所を 、引用文直後
MEGA の引用ページと 草稿集の引用ページを次のように略記して示す 。 例、
(MEGA,1974;草稿集C234)。
3)拙稿「生産価格論の形成(1)(2)(3)(4)」『経済経営論集』(桃山学院大学)第28巻第1
号、第2号、第3号、第4号、1986年6月、10月、12月、1987年3月。

ー80ー

価値」論を固める努力をしているが、「平均」価格に代って「費用」価格とい
う用語が選ばれたのは、実は 、絶対地代論・差額地代論の成立の結果として
生じる「生産費」・「費用」概念の変化に起因していたのである。
最後に、ノート]X記載の「収入とその諸源泉」部分(ノート]X・891ー944)
を分析し、「費用価格」から「生産価格」への用語の変更過程を明らかにした。
この部分の主内容は 利子生資本論である。 主題の利子生資本論は全体とし
て見ると、@完成した呪物としての利子生資本論→A利潤の利子と産業利潤
とへの分割論→B利子の「費用」化論・(産業)利潤の「労賃」化論、という
内容構成をとっている。「費用価格」と「生産価格」の概念的区別と生産価格
概念を表わす用語の変更(「費用価格」から「生産価格」へ)は、B利子の「費
用」化論を踏まえて、マルクスの「費用」・「生産費」概念の変更に関連して
行なわれてたのである。ここでマルクスが到達した「生産費」・「費用」概念
とは、つぎのようなものである。すなわち、まず第一に費用と呼ぶことがで
きるのは、「前貸しされたもの」であり、これによって規定された価格が「費
用価格」である; 第二に生産費と呼ぶことができるのは、前貸資本の価格・
プラス・平均利潤によって規定される価格であり、この価格が生産価格であ
る;生産費の第三概念は、「商品の生産に必要な労働…の現実の量」に等し
い(MEGA、1510;草稿集F496―497)。このような「生産費」・「費用」概念
の展開を踏まえて、マルクスは、「費用価格」と「生産価格」の概念的区別を
始めたのである。その結果、マルクスは、ノート]X・928において、『資本論』
の「生産価格」に相当する概念を表わす用語を、「費用価格」から「生産価格」
へと変更することを宣言しえたのである。すなわち、「生産費と呼ぶことがで
きるのは、 … 前貸資本の価格・ プラス・平均利潤、によって規定される価
格である … このような価格が生産価格である」(MEGA、1510; 草稿集F
496―497)。
しかし、これ以降も、両者が同じ概念を表わす用語として併用された。「費
用価格」と「生産価格」の併用は、ノート]X後半の「商業資本。貨幣取引業
に従事する資本」部分(ノート]X・944―973)の商業利潤の考察過程におい
ー81ー

て漸く解消される。すなわち、商業資本にとっては、「費用価格」=「購買価格」
であり、「生産価格」=「販売価格」=「費用価格・プラス・産業利潤(利子を含
む)・プラス・商業利潤」(MEGA、1597;草稿集G84)である、と。
以下のマルクスの生産価格概念の形成過程に関する研究史を踏まえた上で
本稿の本題に戻って、1992年公刊の『資本論 』第3部「主要草稿 」において
マルクスは生産価格をどのように概念規定し、またどのように生産価格論を
展開しているかを、現行版『資本論』第3部4)との叙述の相違に注目しながら
『資本論』第3部「主要草稿」の叙述を分析・検討することによって明らか
にすることにしよう。

U.『資本論』第3部「主要草稿」における「生産価格」の概念規定
まず、『資本論』第3部「主要草稿」において「生産価格」がどのように概
念規定されているかを確認することにしよう。
「生産価格 」の概念規定それ自体に関しては、マルクスの叙述は明快・明
瞭である。すなわち、「いろいろな生産部面のいろいろな利潤率が平均されて
この平均利潤がいろいろな生産部面の費用価格に加えられることによって成
立する価格 、これが生産価格である。 …商品の生産価格は、 商品の費用価
格・プラス・一般的利潤率にしたがって百分比的に費用価格につけ加えられ
る利潤、言い換えれば、商品の費用価格・プラス・平均利潤に等しいのであ
る。 … 一商品の費用価格・プラス・ 平均利潤に等しい価格はその商品の生
産価格である。」(Kapital,233―234;MEW,167―168;訳,263―265)と。
見られるように、生産価格とは、「平均利潤がいろいろな生産部面の費用価
格に加えれられることによって成立する価格」、「商品の費用価格・プラス・一
般的利潤率にしたがって百分比的に費用価格につけ加えられる利潤、言い換
えれば、商品の費用価格・プラス・平均利潤に等しい」価格、「一商品の費用


4)Karl Marx, Das Kapital, MEW, Bd.25, Dietz Verlag, Berlin, 1964( 岡崎次郎
訳『資本論』大月書店、国民文庫版(6))。現行版『資本論』からの引用に際しては、
引用ページを次のように略記して示す。例、(MEW,1974;訳、234)

ー82ー

価格・プラス・平均利潤に等しい価格」であると説明されている。ここには、
何ら不明確な点、曖昧な点は存在しない。というよりも、これは「生産価格」
に対するマルクスの定義であり、この定義自体にわれわれが異論を差し挟ん
でみても意味がないのである。しかも、これは、『資本論』第3部「主要草稿」
において初めて登場したものではなく、先に見たように「1861―63年草稿」で
の「生産価格」概念の生成過程を通じてマルクスによって幾度となく確認さ
れてきたものである。
 なお、これ以外に「生産価格」について次のような説明も存在する。「生産
価格は、長い期間について見れば、供給の条件であり、それぞれの特殊な生
産部面の商品の再生産の条件…である。」(Kapital,272; MEW, 208; 訳,
327―328)。これは、生産価格を論じる際の再生産論的視角の必要性をマルク
スが指摘してものであるが、しかし 、この指摘の正確な意味・内容は不明で
ある。というのは、「再生産の条件」とはいっても、それが、『資本論』第2
部で考察予定の実現問題を考慮に入れた「再生産の条件」論を意味するのか、
それとも、ただ諸資本の競争の中にあっては「長い期間について見れば」平
均利潤を含む形で商品を 販売することが資本の再生産の条件 になるという
(程度の)ことを意味するのか、不分明だからである。
 ともあれ、『資本論』第3部「主要草稿」の「生産価格」の概念規定それ自
体には、何ら問題が存在しないようである。 いわゆる転形論者が指摘してき
たように、やはり、問題はその先にあると言えよう。 その先の問題とは、端
的に言って、今期の生産物の生産価格の概念規定を行なう際マルクスは費用
価格にはいる諸商品の価格が価値と等しいものと仮定しているが、費用価格
にはいる諸商品は実は今期の生産物を生産するための生産過程に入ってくる
前にすでにその価値は生産価格化されている、この点を踏まえて生産価格の
概念規定が行えば、いわゆる総計一致の二命題が成立しないのではないかと
いう問題である。このような批判・疑問を提起する際の典拠として多くのい
わゆる転形論者が引用してきたのが、現行版『資本論』第3部の次の叙述で
ある。
ー83ー

  引用文T=「TからXまでの5つの別々の投資が一人の資本家のものだと
仮定しよう。TからXまでの各個の投資で充用資本100につきどれだけの可変
資本と不変資本とが商品の生産に消費されるかは与えられているであろう…
… 。… これらの費用価格はTからXまでの各商品種類によって違うであろ
う … 。しかし 、TからXまでで生産されるいろいろな剰余価値量または利
潤量について言えば、資本家はまったく簡単にそれを自分の前貸総資本の利
潤として計算し、資本100ごとに一定の可除部分が割り当たるようにすること
ができるであろう。TからXまでのそれぞれの投資で生産される商品の費用
価格はそれぞれ違っているであろう。しかし、販売価格のうち、資本100当た
りのつけ加えられる利潤にもとづく部分は、これらの商品のどれでも同じで
あろう。だから、TからXまでの商品の総価格はそれらの総価値に等しいで
あろう。すなわち、TからXまでの費用価格の合計・プラス・TからXまで
で生産された剰余価値または利潤の合計に等しいであろう。つまり、それは、
実際に、TからXまでの商品に含まれている過去の労働と新たにつけ加えら
れた労働との総量の貨幣表現であろう。そして、これと同じように、社会そ
のもの――すべての生産部門の総体としての――のなかでも、生産された商
品の生産価格の総計は商品の価値の総計に等しいのである。/この命題と次
のような事実は矛盾するかのように見える。すなわち、資本主義的生産では
生産資本の諸要素は原則として市場で買われるのであり、したがってそれら
の価格はすでに実現された 利潤を含んでいるのだから、この点から見れば、
ある産業部門の生産価格がそれに含まれている利潤といっしょに他の産業部
門の費用価格にはいるのだという事実、つまり一方の産業部門の利潤が他方
の産業部門の費用価格にはいってゆくという事実がそれである。しかし、一
方の側に全国の商品の費用価格の総計を置き、他方の側に全国の利潤または
剰余価値の総計を置いてみれば、計算は正しく行なわれるにちがいないとい
うことは、明らかである。たとえば商品Aをとってみよう。その費用価格は
B、C、D、Eの利潤を含んでいるかもしれないが、またBやCやDなどの
費用価格にもAの利潤がはいってゆくかもしれない。そこで、計算をやって
ー84ー

みるとすれば、Aの利潤はA自身の費用価格にははいっていないし、同様に
BやCやDなどの利潤もそれら自身の費用価格にははいっていない。だれも
自分自身の利潤を自分の費用価格に算入しはしない。たとえば生産部面がn
個あって、それぞれの部面でpに等しい利潤が得られるとすれば、すべての
部面の合計では費用価格はk―npである。そこで、総計算を見れば、ある生
産部門の利潤が他の生産部門の費用価格にはいるかぎりでは、これらの利潤
はすでに最終生産物の総価格では計算にはいっているのであって、二度と利
潤の側に現われることはできないのである。しかし、もしそれらが利潤の側
に現われるとすれば、それは、ただ、その商品そのものが最終生産物だった
からであり、したがってその生産価格が他の商品の費用価格にはいらないか
らである。」(MEW、169―170;訳、267―268)。
いわゆる転形論者を中心とする人々は、これまで繰り返し繰り返し、この
引用文Tにおける「ある産業部門の生産価格がそれに含まれている利潤とい
っしょに他の産業部門の費用価格にはいるのだという事実、つまり一方の産
業部門の利潤が他方の産業部門の費用価格にはいってゆくという事実」とい
う叙述を典拠にして、「生産された商品の生産価格の総計は商品の価値の総計
に等しい」という命題がはたして成立するのであろうかという疑問を提起し
てきた。「生産された商品の生産価格の総計は商品の価値の総計に等しい」と
いう命題を定式化する際マルクスは「一方の部面の生産価格は他方の部面の
費用価格に入って行く」という「事実」を考慮していなかったが、もしこの
点を織り込んで考察すれば、この「命題」が成立しないのではないか、とい
う疑問・批判である。
長期にわたる論争の起点ともなったこの種のいわゆる転形論者の批判・疑
問に対して、さまざまな反論や問題解明が繰り返されてきたが、『資本論』第
3部「主要草稿」の1992年の公刊を機に、大野節夫、大村泉、宮川彰氏らに
よって新たに以下のような反論が展開された。その議論の典拠とされたのは、
『資本論』第3部「主要草稿」における以下の論述である。〔下線は、現行版
(エンゲルス版)と「主要草稿」との注目すべき異同箇所である〕。
ー85ー

  引用文U=「[TーXの] 5つの別々の投資が一人の資本家のものだと仮定し
よう。TからXまでの各個の投資で充用資本100につきどれだけの可変資本と
不変資本とが商品の生産に 消費されるかは与えられているであろう … …。
…これらの費用価格はTからXまでの各商品種類によって違うであろう …
… しかし 、TからXまでで生産されるいろいろな剰余価値量すなわち利潤
量について言えば、資本家はまったく簡単にそれを自分の前貸総資本の利潤
として計算し、資本100ごとに一定の可除部分が割り当たるようにすることが
できるであろう。そして、いまやTーXの費用価格はさまざまであるが、T―X
の商品価格のうち100 に付加される均等な利潤を構成する部分は等しいので
ある。だから、TからXまでの商品の総価格はそれらの総価値に等しいであ
ろう。すなわち、TからXまでの費用価格の合計・プラス・TからXまでで
生産された剰余価値または利潤の合計に等しいであろう。… そして 、この
ようにして、社会そのもの――社会的生産諸部門の総体としての――のなか
でも、生産された商品の生産価格の総計は商品の価値の総計に等しいのであ
る。〔次のことによって困難が生じるように見えるかもしれない。すなわち、
T―Xをとると、諸資本TーXの不変部分および可変部分は購入されたもので
あって、他の生産諸部門からこれらの生産諸部門に入ってくるものであるか
もしれない。したがって、一般に次のように言うことができよう。すなわち、
ある部門の生産価格は別の部面の費用価格に入って行く、と。しかし、一方
の側に全国の商品の費用価格の総計を置き、他方の側に全国の利潤または剰
余価値の総計を置くとすれば、計算は訂正されなければならないのは明らか
である。たとえば商品Aをとってみよう。その費用価格はB、C、D、Eの
利潤を含んでいるかもしれないが、またE、F、G等々にAの利潤が入って
行くかも知れない。しかし、そこで、計算をやってみるとすれば、Aの利潤
はA自身の費用価格にははいっていないし、E、F、G等々の利潤と同様に
BやCやDなどの利潤もそれら自身の費用価格にははいっていない。そこで、
総計算を見れば、ある生産部門の利潤が別の生産部門の費用価格にはいるか
ぎりでは、これらの利潤は商品の総価格では計算にはいっているのであって、
ー86ー

二度と利潤の側に現われることはできないのである。しかし、もしそれらが
利潤の側に現われるとすれば、それは、ただ、その商品が他の商品の費用価
格にはいらないからである。」(Kapital,235―236;MEW,169―170;訳,267―
268)。
以上の『資本論』第3部「主要草稿」の叙述を典拠にして、大村泉、宮川
彰、大野節夫氏らは、いわゆる転形論者らの批判に対して以下のようなマル
クス擁護論を次々と展開していった。筆者の見るところ、それらはほぼ同趣
旨の議論(マルクス擁護)であると思われるが、その嚆矢は、大野節夫氏稿
「マルクスの草稿と『価値の生産価格への転化』」5)である。
大野節夫氏は、現行版『資本論』第3部の第9章の問題箇所(MEW,S.
169;訳、267頁の第3パラグラフの書き出し)が、「主要草稿」では、「この
命題と次の事実は矛盾するかのように見える」ではなく、「次のことによって
困難が生じるように見えるかもしれない」となっていることを初めて同論文
で指摘し、転形論者が費用価格の生産価格化の必要性・問題性の論拠を(エ
ンゲルス版の)同所の論述に求めようとする立場に対して、『資本論』第3部
「主要草稿」におけるマルクスの見地に立てば、それは「偽問題」であると
主張したのである。すなわち、「マルクスがここで述べていることは、ある商
品の費用価格には他の商品の利潤がはいりこむので、費用価格の総計に利潤
の総計を対置すれば、利潤が両項で二重に計算されることであり、それゆえ
に『計算が修正されなければならない』ということ、修正されるならば、二
重計算問題はマルクスにあっては『矛盾とされていない』」6)のである、と。
大村泉氏も同趣旨の主張をした。すなわち、引用文中の「『この命題』とは、
前後の文脈からいって 、…〔その直前の〕『総価値=総生産価格』であり、
『この命題と矛盾するかのように見える』『事実』とは、ある産業部門の生産
価格が別の産業部門の費用価格に入ること、費用価格の構成部分が生産価格

5)大野節夫「マルクスの草稿と『価値の生産価格への転化』」、大村泉・宮川彰編『マ
ルクスの現代的探求』八朔社、1992年6月所収。
6)同上、173頁。

ー87ー

化することである。つまりここでは 、総価値=総生産価格の『命題』と費用
価格の生産価格化とが『矛盾するかのように見える』とされているわけであ
る。さらにここでは、『しかし』と続けて、一方の側に全国の費用価格の総額
を、他方の側に利潤の総額を置くならば、『計算が正しくおこなわれるに違い
ない』としている。これらの分言が典拠になって、研究史では、引用文第2
段落以後の主題は費用価格の生産価格化と総価値=総生産価格の命題との外
見的『矛盾』の解明であり、この解明には『一方の側に』云々の計算方法を
置く必要がある、という理解が一般的である。しかし草稿の論述を踏まえる
とこの理解は再考の余地がある。 … (中略) … ここでの書き出しは、第
9章のように、『この命題と次の事実は矛盾するかのように見える』ではなく、
『次のことによって困難が生じるように見えるかもしれない』である。文脈
から判断して、マルクスがここで『次のこと』というとき、含意されている
のは、ある部門の生産価格が他の部門の費用価格に入ることであって、これ
は第9章の『次の事実』と同一である。だが、ここではそうした費用価格の
生産価格化が、総価値=総生産価格の命題に抵触する、この命題と『矛盾す
るかに見える』とはされていない。ここでは一般的にそうした費用価格の生
産価格化はなんらかの『困難』発生の原因となる、とされているにすぎない。
さらに、ここでは『しかし』と続く条件分へのコメントは第9章にように『計
算が正しくおこなわれるに違いない』ではなく、『計算が訂正されなければな
らない』である」7)、と。
宮川彰氏も同様の主張をした。すなわち、「引用段落[MEW、169ー170]の
冒頭において、一部門の生産価格が他の部門の費用価格にはいることからひ
き起こされる総計一致命題の『矛盾』(マルクスの草稿では『困難…』)に
ついて――正確にいえば外観上の『困難』について――マルクスが指摘した
ことをもって、費用価格の生産価格化の手続きを続行する必要があることを
マルクスみずからが認めたものだ、と転形論者は受けとめる。/しかし、こ

7)大村泉「『資本論』第3部主要草稿(1864―1865年)の平均利潤」『経済学』(東
北大学)第57巻第4号、1995年12月、14頁。

ー88ー

れは誤解である。ここでの主題は、ある商品の生産価格において実現された
利潤が、それが生産手段としてはいりこむ別の商品の費用価格としても再現
し、そのためその部分が重複計上されるかのようにみえることによって、総
計一致命題がつき崩されるかのようにみえてくる事態に、どのように対処す
るかという問題である。したがって、第一に、これは価値の生産価格への転
化とは本来別問題である。…第二に、『一方の側に一国全体の諸商品の費用
価格の合計をおき、他方の側に一国全体の利潤または剰余価値の合計をおく』
という『総計算』の処置をほどこすならば、『計算は正しく行われる』として、
総計一致命題が揺るぎないことを確認しつつ、二重計算問題がたんに外観上
の困難でしかないことを明らかにしている。」8)、と。
『資本論』第3部「主要草稿」の問題箇所に係わるこれらの批判・反論は、
筆者の見るところ、マルクスの論述意図に完全に沿ったものであり、妥当な
ものであると思われる。現行版『資本論』の引用文Tの「ある産業部分の生
産価格が利潤といっしょに他の産業部門の費用価格にはいるのだという事実
云々」という叙述を典拠にして、いわゆる転形論者(および一部のマルクス
擁護者たち)は、この「事実」が総計一致命題を揺るがすような「矛盾」を
引き起こす、と従来理解してきたが、『資本論』第3部「主要草稿」の公刊の
結果、問題箇所のオリジナル情報が明らかになるにつれて、その様な理解に
は無理があり、誤りであることが判明したのである。とりわけ、現行版『資
本論』第3部と『資本論』第3部「主要草稿」との対比において注目された
のは、前者においては「この命題と次のような事実は矛盾するかのように見
える。… しかし、… 計算は正しく行われるにちがいない 」という叙述が、
いわゆる転形論者の指摘する問題が妥当なものであるかのような理解を抱か
せる可能性を有していたが、後者の「主要草稿」では、引用文Uに見られる
ように、「次のことによって困難が生じるように見えるかもしれない。…し
かし、…計算は訂正されなければならない」という叙述になっており、「あ

8)宮川彰「労働価値論と現代の『転形問題』(下)『経済』(復刊)4、1996年1月、
165頁。

ー89ー

る部門の生産価格は〔それに含まれている利潤といっしょに〕別の部面の費
用価格に入って行く」ことによって「困難」が生じるように見えるかも知れ
ないが、計算の訂正によってその「困難」は解決されるにちがいないという
趣旨の論述が行われていることが明白になったのである.『資本論』第3部「主
要草稿」の叙述に沿って理解する限り、総計一致命題を揺るがすような「矛
盾」など存在しないのであって、マルクスがここで指摘している問題は、費
用価格に付加されて生産価格の一構成要素として他の部面に入っていく利潤
の二重計算の問題である。そして、この問題に対するマルクスの回答は、「あ
る産業部門の生産価格が利潤といっしょに他の産業部門の費用価格にはいる
のだという事実」を組み入れて考察するとすれば、たしかに利潤の二重計算
が発生するが、しかし計算が訂正されさえすれば問題は解消するにちがいな
いというものである。だからこそ、現行版『資本論』で「矛盾」となってい
るところを、マルクスは、「主要草稿」の相当箇所で「困難」という表現を使
用しているのである。

V.「商品の費用価格の規定」の「〔もう〕一つの修正」問題
現行版『資本論』第3部(MEW,169―170)の「ある産業部門の生産価格
が利潤といっしょに他の産業部門の費用価格にはいるのだという事実云々」
という叙述を巡る論争問題については、以上Uで見たように、大野節夫氏ら
の『資本論』第3部の「主要草稿」と現行版との比較研究に基づく批判によ
って完全に解決されたということができよう。しかし、現行版『資本論』第
3部第9章には、これ以外にも、「費用価格の生産価格化」問題に関連する注
目すべき叙述が存在する。それは、次の叙述である。
引用文V=「たとえば資本Bの生産物の価格がその価値からかたよる、とい
うのは、Bで実現される剰余価値はBの生産物の価格でつけ加えれられる利潤
より大きいことも小さいこともありうるからであるが 、…同じ事情がまた、
資本B の不変部分 と資本B の可変部分 をもなしている諸商品にもあては
まる…。不変部分について言えば、この部分そのものが費用価格 ・プラス・

ー90ー

剰余価値に等しく、したがって今では費用価格・プラス・利潤に等しく、そ
してこの利潤はまだそれによって代位される剰余価値よりも大きいことも小
さいこともありうる。可変資本について言えば、平均的な一日の労賃は、つ
ねに、必要生活手段を生産するために労働者が労働しなければならない時間
の価値生産物に等しい。しかし、この時間数そのものもまた、必要生活手段
の生産価格がその価値からかたよることによって、変造されている。とはい
え、このようなことは、つねに、剰余価値としてははいるものが一方の商品で
多すぎるだけ他方の商品では少なすぎるということで、したがってまた諸商
品の費用価格に含まれている価値からの諸偏差も 相殺されるということで、
解消していまう。 … (中略) … 以上に述べたことによって、商品の費用
価格の規定については明らかに一つの修正がはいってきている。最初は、商
品の費用価格はその商品の生産に消費される諸商品の価値に等しいと仮定し
た。商品の生産価格は、費用価格として別の商品の価格形成にはいるのだか
ら生産価格は商品の価値からはなれれ、ある商品の費用価格も、その商品の総
価値のうちその商品にはいる生産手段の価値によって形成される部分よりも
大きいかまたは小さいことがありうる。そこで、費用価格のこのような修正
された意味を頭に入れておくことが必要であり、したがって、ある特殊な生
産部門で商品の費用価格がその商品の生産に消費される生産手段の価値に等
しいとされる場合には、いつでも誤りが起こりうるということを注意してお
くことが必要である。われわれの当面の研究にとっては、この点にこれ以上
詳しく立ち入る必要はない。とにかく、商品の費用価格はつねにその商品の
価値よりも小さい 、という命題が正しいことに変わりはない。なぜならば、
たとえ商品の費用価格がどんなにその商品に消費された生産手段の価値と一
致しなかろうとも、資本家にとってはこのような過去の誤りはどうでもよい
ことだからである。商品の費用価格は与えられたものであり、この資本家の
生産にはかかわりのない前提であるが、他方、彼の生産の結果としての商品
は、剰余価値を含んでおり、したがってその商品の費用価格を越える価値超
過分を含んでいるのである。 … 社会的総資本を見れば、これによって生産
ー91ー

される諸商品の費用価格は、価値よりも、またはこの価値と一致する生産価
格よりも 、小さい …。商品の費用価格はその商品に含まれている支払労働
の量だけに関係があり、価値はその商品に含まれている支払労働と不払労働
との総量に関係がある。生産価格は、支払労働とそれぞれの生産部門にとっ
てそれ自身にかかわりなく規定されている不払労働量の合計に関係がある。」
(Kapital, 237―242 ; MEW,170―175 ; 訳, 269―276 ――下線は筆者)。
結論を先取りして述べれば、さきの引用文T・Uの場合とは違って、この
引用文Vの論述に対する大村泉氏らの以下で見る理解については、筆者は直
ちに同意することはできない。というのは、大村泉氏らの理解には、マルク
スの労働価値論の根本に係わる重大な問題が含まれているように思われるか
らである。たしかに、大村泉氏らの理解それ自体はマルクスの論述意図に沿
ったものであると見ることができるが、しかし、それは同時にマルクスの労
働価値論の展開に係わる重大な帰結を齋らすものを含んでいるように思われ
る。以下その理由を述べることにしよう。
まず、問題の大村氏の主張を見てみよう。「[MEW,171冒頭の――松尾]
段落で、費用価格の不変、可変両部分を形成する諸商品 … が生産価格で売
買されることによって、商品の生産価格は平均利潤だけでなく、費用価格そ
のものが原因となって価値から乖離することが明らかにされた後、次のよう
に述べている。/[MEW,Bd.25,S.171の引用]/同じ箇所は草稿では次の
ようになっている。/[Kapital, U/4.2, S.237の引用]/両者を対比す
ると、…[前者では]『商品のもろもろの生産価格』に潜む価値からの乖離
が、『一方の商品に剰余価値として入り込むものが多すぎる分だけ、他方の商
品に入り込むものが少なすぎる』ことによって社会的に相殺される、と記さ
れている。これに対して草稿では、この相殺は『商品のもろもろの費用価格』
について行われるとなっている。… / … 商品の費用価格の大きさは 、そ
の商品が生産される以前ニ与えられている 。すなわち費用価格の大きさが価
値から乖離するのは、費用価格に平均利潤が付加される以前においてであっ
て、前者の乖離は後者の乖離に時間的に先行して生ずる。だから、費用価格
ー92ー

の価値からの乖離が社会的に相殺されるとすれば、この相殺は、費用価格化
する商品が、費用価格化する以前に生産価格化するさい、その商品と同時に
生産価格化する諸商品との間でのみ可能となる。/こうした諸点を考慮する
と、費用価格の生産価格化に伴う商品価格の価値からの乖離を敷衍したのち、
エンゲルス版第9章のように、生産価格一般の価値からの乖離の社会的相殺
を云々するのは議論の飛躍である。草稿の『もろもろの費用価格』を『もろ
もろの生産価格 』に変更するのは 正しくない 。 草稿の 今少し 進んだ箇
所…では、費用価格の生産価格化にともなって『費用価格の定義に』『1つ
の修正』…が生じるとしたのい、費用価格を形成する諸商品が如何に価値か
ら乖離しようとも、『 資本家にとっては 、こうした過去の誤りはどうでも
よい』…『商品の費用価格は彼には与えられており、彼の生産から独立した
前提』…であることが強調されている。草稿でのこの強調は、上の草稿から
の引用文におけるマルクスの術語と相互に補完し合う関係にあると言ってよ
いであろう 。/ … 一定の期間に一定の範囲内で取り引される 諸商品につ
いて、それぞれの商品の生産価格化した費用価格を取りだした場合、そうし
た費用価格の間で、それぞれの価値からの乖離が社会的に過不足なく相殺さ
れる保証はない。」9)
同様に、宮川彰氏は次のように言われる。「マルクスのここ[MEW,Bd.
25,S.174――松尾]での指摘は、費用価格の生産価格化の必要性を述べたも
のでは全然ない、とみるべきである。マルクスの趣旨は、むしろ逆に、主題
にてらして費用価格の生産価格への転化を遂行する必要がないこと、価値か
らの乖離の可能性を留意しさえすれば費用価格部分をそのままにしておくこ
とが生産価格の主題の基本展開をなんら損なうものでないこと、とわれわれ
は理解する。マルクスは、そのために具体的に理由を二つあげている。すな
わち、価値からの相互に反対方向の離反が相殺されるという関係に依拠した
ものと、もう一つは、個別資本の循環の視点から、あたえられた前提として

9) 大村、同上論文、16頁

ー93ー

の費用価格の地位を明らかにすることである。」10)。「マルクスは、費用価格に
生じる価値と生産価格との食い違いの可能性を承認したうえで、費用価格の
生産価格化の手続きが必要ではなくむしろ不要であることを、次のように積
極的に根拠づけている。/… [引用]… /このようにマルクスは、生産価
格をもつ諸商品があらためて費用価格にはいりこむことによって費用価格と
そこに含まれる価値とのあいだの量的乖離がどのように影響を受けるかにつ
いて、不変資本部分と可変資本部分にわたって、疑念の余地なく明らかにし
ている。要点は、社会総体と個別との関連づけにかかわっている。相殺の作
用は二重にはたらく。/第一は、社会総体の組成との近似にもとづくもので
ある。費用価格にはいる諸商品は、生産手段からも、また――労働力を介し
て――消費手段からもなり立っていることから、社会的生産物全体の分布に
近似した構成をもつと考えられよう。… それゆえ 、これら諸用品の生産価
格について起こりえた価値からの上方または下方へのそれぞれの離反は、プ
ラスとマイナスがほぼバランスをとって相殺されることになる。すなわち、
商品の費用価格…はその価値と対応するとみなして差し支えないのである。
これが費用価格の価値からの離反の問題を度外視することが許される理由の
一つである。/第二は、社会総体の一分肢としての考えにもとづくものであ
る。『ある特殊な生産部門では』、もちろん、費用価格がその生産に消費され
た生産手段の価値に直接対応していて『等しいとされるならば、つねに誤り
が生じうる』だろう …。だが 、もしそうだとしても、別の『特殊な生産部
面』で、逆方向での価値からの費用価格の離反が同様に想定されうるのであ
り、両者あいまって社会全体としてやはり、プラス/マイナスが相殺される
ことになる。なぜそのような想定が必要なのかといえば、今期に費用価格に繰
り込まれてくるもの(生産財と消費財の総集計)は、前期の所産全体として、
価値と価格との一致およびそこに含まれた剰余価値と利潤との一致を想定し
なければならないからである。前期において総計一致の二命題が成立してい

10)宮川、同上論文、161頁。

ー94ー

たのであれば、その生産物を受け入れる今期において、もし一方で一群の商
品の生産価格を価値から離反すると想定する場合には、他方において、対極
にある別の一群の商品の反対方向への離反の想定を組み合わせなければなら
ないだろう。これが費用価格部分について価値からの離反の問題を度外視す
ることが許されるもう一つの理由である。/こうして、価値から価格の離反
にたいして相殺の関係が二重にはたらき、費用価格部分の価値との一致を前
提にすえる根拠がかたちづくられている。 … この前提のおかげで、剰余価
値の利潤への転化とそれにもとづく価値の生産価格への転化のプロセスが、
すなわち、価値という内的な抽象的本質から生産価格というより具体的な諸
関係をまとう新たな概念への発生的展開が、純粋に説明できるのである。こ
れと並んで、じつは接近法の観点からみてもっときっぱりしたもう一つの処
理の仕方も呈示されている。」11)。「第一の相殺説に対比して、この第二の資本
循環視点は、自立的自己増殖的な価値という資本価値の本性にじかに結びつ
いていて、『費用価格の生産価格化』の不要論に一層原理的な論拠を提供する。
というのは、価値・価格の乖離が相殺されるか否かにかかわらず、またたと
え相殺されない場合であっても、個別資本の循環運動の立場からは、費用価
格を所与の価値観として前提しなければならないという事情が明らかになる
からである。これから形成される剰余価値とそれにもとづいていままさに説
明されなければならない利潤・利潤率とにかかわるのは、当該の生産期間の
期首に前貸しされる一定額の資本価値すなわち費用価格だけである。その費
用価格で購入された以前の生産期間の商品の、その生産価格をめぐりかつて
起きたかもしれない価値・価格の乖離は、なんらの現実的意味をもちえない
し、当面する課題にとってどうでもよいことなのである。この取り扱いは、
マルクス生産価格論を通じてつねに堅持される基本的立場である。/このよ
うにマルクスは、市場において生産価格で買い入れられた生産手段が費用価
格にはいりこむ事実を少しも否定しないし、その結果、生産手段の内在的価

11)宮川、同上論文、161―163頁。

ー95ー

値とその買い入れ価格すなわち費用価格とのあいだにギャップが生じうるこ
ともはっきり指摘する。しかし、このことから、転形論者のみるように、価
値の生産価格への転化の手続きが不徹底で、そのために費用価格も生産価格
に転化する必要があると考えるのではけっしてない。反対に、そのような価
値と価格のギャップの問題が存在しようとも、みぎにみた理由によって、そ
れを捨象することができるのであり、また捨象して転化の手続きが損なわれ
ることはなく、むしろ捨象によってこそそれが合理化されるのであり、そし
て総計一致の二命題は妥当するのだと、述べている。」12)
大野節夫氏もまた次のように言われる。「マルクスが問題にしたのは、生産
手段商品にかんしては他人によって生産価格が設定されているから、すでに
修正されており、これを購買した個別資本がこの価額をそのまま価値に等し
いとするならば、誤りが生ずることである。これは他人によっておこなわれ
たその商品の生産価格化のさいの価値からの偏倚であるから、自分の商品の
費用価格にはあたえられたものであり、自分に起因するのでない『この過去
のあやまりはどうでもよい』…として不問にすることである。 … マルクス
が不問にしながらも費用価格を価値と見なしていることから、ほとんどの同
時的転形論者は費用価格が価値のままにのこされているとして資本家が自分
の商品に生産価格を設定するさいには費用価格部分をも生産価格化する、す
なわち価値から偏倚させる必要があるとしてとりあげる。これは『過去のあ
やまり 』を現在において再現し 、将来にまでおよぼすものである。」13)
以上の大村・宮川・大野氏らによる「費用価格の生産価格化」問題の論述
箇所の理解それ自体は率直にいって 、マルクスの論述意図の 理解としては
妥当なものであるように思われる。とりわけ、引用文V後半部分の次の論述
は、このような解釈の有力な根拠となっている。すなわち、「以上に述べたこ
とによって、商品の費用価格の規定については明らかに一つの修正がはいっ

12)宮川、同上論文、164頁
13)大野節夫「置塩理論の価値定義の有効性」『経済学論叢』(同志社大学)第48巻第
4号、1997年3月、24―25頁。

ー96ー

てきている。最初は、商品の費用価格はその商品の生産に消費される諸商品
の価値に等しいと仮定した。商品の生産価格は、費用価格として別の商品の
価格形成にはいるのだから生産価格は商品の価値からはなれ、ある商品の費
用価格も、その商品の総価値のうちその商品にはいる生産手段の価値によっ
て形成される部分よりも大きいかまたは小さいことがありうる 。… われわ
れの当面の研究 にとっては 、この点に これ以上 詳しく 立ち入る 必要は
ない。… たとえ商品の費用価格が どんなにその商品に消費された生産手段
の価値と一致しなかろうとも、資本家にとってはこのような過去の誤りはど
うでもよいことだからである。商品の費用価格は与えられたものであり、こ
の資本家の生産にはかかわりのない前提である」(Kapital, 241―242;MEW,
174―175;訳、275―276)。
たしかに、マルクスが述べているように、個々の資本家にとっては、彼が
購入する費用価格にはいる諸商品、すなわち生産手段および(労働力を介し
て)消費手段からなる諸商品[以下、「費用価格にはいる諸商品」と略記する]
は購入される前に生産価格化されており、購入される時点ではすでにその価
格は価値から乖離しているのであって、それを購入する個別の資本家にとっ
てはその価値と価格が一致しているかどうかに関わりなく、購入するために
支払った価格は彼にとっては与えられた価格をなしている。したがって個々
の資本家たちの観点からは、今期の生産価格を概念規定する際には、費用価
格は与えられたもの、前提として取り扱わなければならないであろう。そう
いう意味で、大村氏らのさきの『資本論』の問題箇所の理解は、それ自体と
しては、このマルクスの論述意図に完全に沿ったものであると言わなければ
ならないであろう。
しかしながら、このようなマルクスの論述によって、彼自身が指摘する「費
用価格の生産価格化」問題が真に解決されることになったのであろうか。こ
のような「解決」に筆者はかならずしも全面的に納得することはできない。
たしかに、今期に視点を限定して生産価格の概念規定を行なう場合、われ
われは、今期の費用価格にははいる諸商品の価格が前期においてどれだけ価値
ー97ー

から乖離していようが、その価格は与えられたもの、前提として取り扱わざる
をえない。しかし、そのように理解するということは 、実は 、今期購入さ
れ費用価格にはいる諸諸品は、今期以前にその価格が価値から乖離している
という事実を公然と認めることを意味する。しかし、それは、マルクスの労
働価値論の展開にとって重大な理論的意味を持つことになる。
この問題に関するマルクスの論理は、恐らくこうである。すなわち、費用
価格にはいる諸商品は今期に購入される以前に価値から乖離しているのであ
るから、たとえ平均利潤については総平均利潤=総剰余価値が成立している
としても、費用価格+平均利潤の総計としては価値から乖離しているであろ
う。ところが、この費用価格にはいる諸商品部分の価値からの乖離について
言えば、たしかに、その価格は費用価格にはいる諸商品として購入される以
前に前期において価値から乖離してはいるが、しかしそれらを含む前期に生
産された諸商品全体については、 価値からの上方及び下方への乖離が相互に
相殺されるのであるから、先の平均利潤と同様に総費用価格=総価値が成立
しているであろう、と。
しかし、この問題を考える場合、次のような事実関係を考慮しなければな
るまい。すなわち、前期の生産物がすべて費用価格にはいる諸商品として今
期の生産にはいっていくとは限らない。前期に生産された総生産物のうち、
一部の諸商品は購入されて今期の生産に入っていき、その価値・価格は今期
の生産物の費用価格となるが、資本家用消費手段は資本家によって消費され
てしまい、その価値・価格は今期の生産物に移転ないし再生産されない。ま
た、前期に同時に生産された生産物の一部が、今期の費用価格にはいる諸商
品として購入されたとしても、直ちにそれらすべてが生産過程に実際に投入
されて、同時に今期の生産物の費用価格を構成するとは考えられない。実際
には、ある年度に生産された生産物はさまざまな使用価値を持ち、さまざま
な生産価格に投入されるために購入されたのであって、それらが購入されて
実際に生産過程に投入されるまでの時間はさまざまである。したがって、生
産されたのは同時期であっても、消費はさまざまな時期に分かれて行われる
ー98ー

と考えるべきである。ある時に同時に生産された生産物が、生産価格化され
ることによって生じる個々の生産物についての価格と価値の乖離が生産物総
体としては相殺されるとしても、次期の生産物の費用価格を構成すべく次期
の生産過程に入り込んでいったそれら生産物の個々の部分のあいだではもは
やそれらの価値と価格の乖離は相殺されるはずがないであろう。さらに、拡
大再生産を考えると、前期の生産物がすべて費用価格にはいる諸商品として
今期の生産にはいってくるとは限らないという事情が加わる。前期の総生産
物は、すべてがすべて費用価格に入り込むわけではなく、その一部分だけは
蓄積ファンドとして今期への繰り越し分になる。したがって、費用価格の生
産価格化によって生じる 価値と価格の乖離が 全体として相互に相殺される
としても、前期の総生産物がすべて費用価格にはいる諸商品として今期の生
産過程に入ってくるとは限らないのである。今期の費用価格にはいる諸商品
が前期にその価値を生産価格化する際に生じた価値からの乖離は 、前期の総
生産物の間で相互に相殺されるとしても、今期の費用価格にはいる諸商品は
前期の生産物全体ではないので、今期の費用価格にはいる諸商品の価格と価
値の乖離は、それらの相互の間では完全に相殺され得ないであろう。
以上の事情を踏まえて考えると、たしかに、今期に視点を限定して生産価
格を概念規定する場合、今期に費用価格にはいる諸商品として購入されて費
用価格を構成する商品の価格が前期においてすでにいかに価値から乖離して
いようが、その費用価格は与えられたもの、前提として取り扱わざるをえな
いが、そしてまた、たしかに、今期に費用価格にはいる諸商品として購入さ
れる商品は前期に生産された諸商品全体との間で相互に価格と価値の乖離が
相殺されるけれども、しかし、今期に費用価格にはいる諸商品だけの間では
それらの価格と価値の乖離が相互に丁度うまい具合に相殺されるとは限らな
いであろう。したがって、今期の生産物の生産価格は、その総体をとってみ
れば、その価値からはどうしても乖離せざるをえないではなかろうか。
とすれば、たとえば宮川氏の次のような理解は、問題の解決どころではな
く、労働価値論の展開にとって重大な結果を齋らすことになるのではなかろ
ー99ー

うか。
「費用価格にはいる諸商品は 、生産手段からも 、また ―― 労働力を介
して――消費手段からもなりたっていることから、社会的生産物全体の分布
に近似した構成をもつと考えられよう。… それゆえ 、これら諸商品の生産
価格について起こりえた 価値からの上方または下方へのそれぞれの離反は、
プラスとマイナスがほぼバランスをとって相殺されることになる。すなわち、
商品の費用価格… はその価値と対応するとみなして差し支えないのである。
これが費用価格の価値からの離反の問題を度外視することが許される理由の
一つである。/ … 今期に費用価格に繰り込まれてくるもの(生産財と消費
財の総集計)は、前期の所産全体として、価値と価格との一致およびそこに
含まれた剰余価値と利潤との一致を想定しなければならない…。前期におい
て総計一致の二命題が成立していたのであれば 、 その生産物を受け入れる
今期において、もし一方で一郡の商品の生産価格を価値から離反すると想定
する場合には、他方において、対極にある別の一群の商品の反対方向への離
反の想定を組み合わせなければならないだろう。これが費用価格部分につい
て価値からの離反の問題を 度外視することが許される もう一つの理由であ
る。」。14)
見られるように、宮川氏は、生産価格を構成する費用価格部分の価値と価
格の乖離問題を度外視することが許される理由を次のように説明している。
「費用価格にはいる諸商品 … これら諸商品の生産価格について起こりえた
価値からの上方または下方へのそれぞれの離反は、プラスとマイナスがほぼ
バランスをとって相殺されることになる」、「今期に費用価格に繰り込まれて
くるもの(生産財と消費財の総集計)は、前期の所産全体として、価値と価
格との一致およびそこに含まれた剰余価値と利潤との一致を想定しなければ
ならない」、「前期において総計一致の二命題が成立していたのであれば、そ
の生産物を受け入れる今期において、もし一方で一群の商品の生産価格を価

14)宮川、同上論文、161―163頁。下線は筆者。

ー96ー

値から離反すると想定する場合には、他方において、対極にある別の一群の
商品の反対方向への 離反の想定を 組み合わせなければならないだろう 」。
しかし、うえで指摘したように、たとえ、費用価格にはいる諸商品を含む
前期の社会的総生産物が、生産価格に転化した際生じるそれらの価格と価値
の上方または下方への乖離を社会的総生産物相互の間で相殺しうるとしても、
前期の社会的総生産物のうち今期の費用価格にはいる諸商品だけを取り出し
て見た場合には、それらの価格と価値の乖離はそれら相互の間だけでは相殺
されえないのである。したがって、大村泉氏のように、「今期に費用価格に繰
り込まれてくるもの(生産財と消費財の総集計)は、前期の所産全体として、
価値と価格との一致およびそこに含まれた剰余価値と利潤との一致を想定し
なければならない」、ということはできない。費用価格として今期の生産過程
に入ってくる諸商品が、前期において生じた価値と価格の乖離をそれらの間
だけでは相互の相殺する ことができていないにもかかわらず 、相殺されて
いると「想定」して、それを理由にして「費用価格の価値からの離反の問題を
度外視すること」ができると主張することはできないであろう。
したがって、われわれは、次のように言わなければならないであろう。す
なわち、生産価格を概念規定するという「当面の研究にとっては、この点〔す
なわち今期の費用価格にはいる 諸商品の価値は 前期において生産価格化し
た結果すでに価値から乖離しているという問題――松尾〕にこれ以上詳しく
立ち入る必要はない」というマルクスの問題処理は、まったく妥当なもので
ある。しかし、だからといって、「前期[の総生産物]において総計一致の二
命題が成立していたのであれば」、その生産物のうちの一部、すなわち費用価
格にはいる諸商品を受け入れる今期においても総計一致の二命題が、それら
の諸商品について、および、今期の総生産物について、必ず成立するはずで
あるとまでは言うことはできないであろう。たしかに、マルクスの言うよう
に、今期の生産のために購入され費用価格にはいる諸商品について、その価
格と価値との間にどれほどの乖離が存在しようとも、その価格を費用価格と
して前提し生産価格を費用価格+平均利潤として規定しようとする目的のた
ー101ー

めには、費用価格の価値からの過去における乖離にまで遡って追跡すること
は、無用であり誤っていると言わなければならない。しかし、だからといっ
て、そこから、今期に購入され費用価格にはいる諸商品の価値と価格の乖離
も、前期の社会的総生産物と同様に、それら相互の間で相殺されているとい
うこと、したがって費用価格についても総価値=総価格が成り立ち、したが
って――今期の総剰余価格=総利潤を前提すれば――今期の総生産物につい
ても総価値=総生産価格が成立するはずであるという結論を導きだすことは
できないのではなかろうか。
以上のように言うことができるとすれば、生産価格=費用価格+平均利潤
と規定されるマルクスの生産価格概念は、結局、内包する価値量とは如何な
る論理的な関連も持たない価格、労働という価値実体から論理的に遊離した
価格であるということになるのではなかろうか。たしかに、平均利潤部分に
ついて言えば、それは、総剰余価値を社会の諸資本にその大きさに応じて配
分したものであり、総剰余価値=総平均利潤であるということが言えるかも
しれないが、しかし、他方の費用価格について言えば、それは、過去に生産
過程において費やされた労働量からはもはや論理的に見て完全に遊離してお
り 、 したがって費用価格にはいる諸商品が内包している価値量からも乖離・
遊離している。したがって、費用価格+平均利潤の全体についても、過去お
よび現在の生産過程において費やされた労働量(およびそれを実体とする価
値量)からは論理的に見て完全に乖離・遊離せざるをえないのである。
したがって、今期購入されて費用価格にはいる諸商品が前期にいかに価値
から離反したかという問題は、今期の生産価格を概念規定するという問題関
心からすれば、差し当たりは、「資本家にとってはこのような過去の誤りはど
うでもよい」、「商品の費用価格は与えられたものであり、この資本家の生産
にはかかわりのない前提である」(Kapital, 241―242; MEW,174―175; 訳,
275―276)という問題処理によって、避けて通ることができるとしても、それ
によって、マルクス自身がさきの論述中にその存在を認めた問題そのものを
解決・解消したことにはならない。今期の費用価格部分について過去に生じ
ー102ー

た価格と価値の乖離が、費用価格にはいる諸商品の購入を通じて今期の生産
価格のなかに入り込んでくる結果、今期の生産価格はどうしても価値から乖
離せざるを得ないである。その結果として生産価格に生じた価値と価格の乖
離を、労働をその実体する価値概念という観点からどのように理解すること
ができるのかという問題が残されているのである。
マルクスは、この問題の存在を指摘してはいるが、生産価格の概念規定に
考察課題を限定することによって、この問題の核心・本質に触れる点――今
期の生産手段等の諸商品の価値と価格の乖離に起因する今期の生産価格の価
値と価格の乖離を労働価値論の問題としてどう考えるべきかという問題――
の検討を一切行っていない。しかし、この問題を解決しなければ、労働を価
値実体とする価値概念を起点にして価値・価格の概念を積み重ねてきたマル
クスが、生産価格概念の規定に際して価格と価値の理論的な関連の切断を認
め、出発点とした労働を実体とした価値概念を放棄したことになるのである。
『資本論』第3部の冒頭で「全体として見た資本の運動過程から出てくる具
体的な諸形態を見出して叙述」し、「社会の表面でいろいろな資本の相互作用
としての競争のなかに現われ生産当事者自身の日常の意識に現れるときの資
本の形態に、一歩ごとに近づいていく」と宣言したマルクスが、その出発点
ともいうべき生産価格概念の展開の端緒において、これまでに展開してきた
価値論の基本(労働を実体とする価値概念)から外れて、生産価格なるもの
を概念規定せざるを得ないということ、生産価格を価値概念から遊離し切り
離されたものとして規定せるを得ないということは、『資本論』の論理展開
上由々しき問題であるはずである。筆者の率直な考えを述べれば、この問題
をマルクスのように「資本家にとっては…過去の誤り」であると言うだけで
は 、問題の真相を曖昧化するだけである。いまや 、われわれは、価値と生
産価格の理論的切断を認めざるを得ない縁に立たされているのであろうか。

(まつお じゅん/経済学部教授/1998年5月8日受理)

ー103ー