『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第3・4号、1995年3月発行
「資本の絶対的過剰生産」論の復位
――井村喜代子氏の見解の検討を通じて――
松尾 純
T.は じ め に
前稿1)では、エンゲルス編集の現行版『資本論』第3部には存在せず最近
公刊された同書第3部「第1草稿」に存在するところの叙述部分(前稿では
これをマルクスの「注意書き」と呼ぶことにした)を取り上げ、それが「資
本の絶対的過剰生産」命題の意義を検討する上で極めて重要な理論的意義を
有していることを指摘した。問題のマルクスの「注意書き」とは次のような
ものである。「(この相対的過剰人口の減少は、それ自身すでに恐慌の一契機
である。というのは、それは、うえで考察された資本の絶対的過剰生産の場
合に近づくからである 。Die Abnahme dieser relative Surpluspopula-
tion ist selbst schon ein Moment der Crise , indem sie den eben
betrachteten Fall der absoluten Ueberproduction von Capital näher
rückt.)」( Karl Marx, Ökonomische Manuskript 1863-67 , in : Karl
Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe (MEGA), Abt. U, Bd. 4, Teil
2, 1992, Dietz Verlag, S. 329-330)。これによってマルクスが述べようと
していることは、明白であって、急速な資本蓄積に伴って相対的過剰人口が
減少し、その結果「資本の絶対的過剰生産 」が引き起こされる 、それゆえ
「相対的過剰人口の減少」は「恐慌の一契機」をなす、ということである。
「注意書き」でのこのようなマルクスの主張に即して考えれば、旧来の「資
1)拙稿「マルクスの『資本の過剰生産』論――再論・『資本論』第3部「主要草稿」
を踏まえて――」『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第2号、1994年12月。
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本の絶対的過剰生産」命題をめぐる諸見解のうち、宇野弘蔵氏らの見解2)に
批判的な多くの諸見解(残念ながら旧稿3)における筆者を含む)が根本的な
反省を迫られることになる。これが前稿での主張・結論であった。
このような結論を受けて 、われわれが次に果すべきは 、このマルクスの
「資本の絶対的過剰生産」命題や「注意書き」と並んで、『資本論』にはマ
ルクスの「恐慌の究極の根拠」命題が一方で存在するという事実を踏まえて、
マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題の復位の可能性を探るということ
である。このような筆者の観点からすると、宇野弘蔵氏の見解は、「資本の
絶対的過剰生産」命題の意義を全面的に強調されており、その点でたしかに
マルクスの「注意書き」の趣旨に沿った立場ではあろうが、しかし、その反
面、氏の見解は、『資本論』に厳存する「恐慌の究極の根拠」命題を無視な
いし否定されており、その点でマルクスの意に反した立場であると評価せざる
をえないであろう。
このようにマルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題を一方的に強調され
る宇野氏らの見解に対しては、次のような2つの相異なる批判的な諸見解が
存在する。
一つは、逢坂充氏4)による次のような極端な見解――率直に言って、旧稿
2)マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題に関する宇野弘蔵氏の見解は、言うま
でもなく同氏『恐慌論』、岩波書店、1953年に見ることができる。
3)拙稿「マルクスの『資本の過剰生産』規定について――『資本論』第3部第3篇
第15章第3節の分析を中心にして――」、『経済学雑誌』第79巻第4号、1979年
3月。
4)マルクスの「資本の絶対的過剰生産」および「資本の過剰生産」に関する逢坂充
氏の論文・著作については、次のようなものがある。@「過剰資本と利潤率低下
の法則(上)――『資本論』第3部第3篇第15章とは何か――」『経済学研究』(九
州大学)第43巻第3号、1977年8月、A「過剰資本と利潤率低下の法則(中)――
『資本論』第3部第3篇第15章とは何か――」『経済学研究』(九州大学)第44
巻第2号、1978年4月 、B「過剰資本と利潤率低下の法則 (下 )――『資本論』
第3部第3篇第15章とは何か――」『経済学研究』(九州大学)第45巻第4・5
・6号 、1980年3月 、C「商品過剰説と資本過剰説について――過剰資本と利潤
率低下の法則(補論そのT)――」『経済学研究』(九州大学)第46巻1・2号、
1980年6月 、D「商品過剰説と利潤率低下の法則( 上 )――再び井村喜代子氏の
所説に寄せて――過剰資本と利潤率低下の法則(補論そのU)」『経済学研究』
(九州大学)第46巻第4・5号、1980年12月、E「商品過剰説と利潤率低下の法
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での筆者の見解はこれに近いものであった――である。すなわち、「『資本の
絶対的な過剰生産』・・・・この命題の現実性それ自体はなるほどこれを認めう
るにしても、しかし本質的にはそれが一時的性格のもの」でしかなく、した
がって「資本の蓄積や資本主義の・・・・副次的で受動的な事態」(逢坂C128;
J227)であり、したがって「『資本の絶対的過剰生産』の命題は、当然ながら
これを否定せざるをえないのであり、・・・命題の『安楽往生』を宣告」(逢坂
K2)すべきである、と。このように「資本の絶対的過剰生産 」命題の有効
性を完全に否定されたあと、逢坂氏は、もう一方のマルクスの本来の資本過剰
概念・「資本の過剰生産」論(氏によればそれは具体的には資本減価論)を
主張され、それによって恐慌論の体系化を図るべきであると主張される。し
かし、「資本の絶対的過剰生産」命題の限界・誤りだけを指摘する、このよ
うな「資本の絶対的過剰生産」完全否定論は、前稿で指摘したように、明ら
かに、上記のマルクスの「注意書き」の趣旨に反している。したがって、こ
の種の見解は 、宇野氏らとその立場が全く逆ではあるが 、本稿での検討対象
とはなりえない。
もう一つは、マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題に対するいわゆる
実現恐慌論の立場からの見解であり、その典型例が井村喜代子氏の見解(資
本過剰論および恐慌論)5)である。井村氏もまた、マルクスの「資本の絶対
則(下)――再び井村喜代子氏の所説に寄せて――」『経済学研究』(九州大学)
第46巻第6号、1982年1月 、 F「資本の絶対的過剰生産と実現恐慌論(上)――
富塚良三氏の所説に寄せて――」『経済学研究』(九州大学)第47巻第2・3号、
1981年8月 、G「資本の絶対的過剰生産と実現恐慌論( 中 )――富塚良三氏の所
説に寄せて――」『経済学研究』(九州大学)第47巻第5・6号、1982年3月、
H「資本の絶対的過剰生産と実現恐慌論( 下 )――富塚良三氏 の所説 に寄せて
――」『経済学研究』(九州大学)第48巻 第3・4号、1982年10月、I「資本過
剰説と『実現論なき恐慌論』( 上 )――宇野弘蔵氏の所説に寄せて――」『経済
学研究』(九州大学)第49第4・5・6号、1984年3月、これら10篇の論文は、
J『再生産と競争の理論』、梓出版社、1984年に所収されている。K「人口の過
剰と資本の過剰の経済学――競争論の展開のために――」、『経済研究』(一橋
大学)第38巻第1号、1987年1月。以後、これらの文献から引用する場合は、引
用直後に引用箇所を次のように略記して示す。(逢坂@25)。
5)マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題に関する井村氏の主な著作・論文とし
て、次のようなものがある。@「『資本の絶対的過剰生産』をめぐって」、遊部久
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的過剰生産」命題に対して否定的な立場に立ち、宇野弘蔵氏らのいわゆる資
本過剰論に鋭く対立されている。しかし、井村氏は、逢坂氏の場合と違って、
少なくとも言葉の表面的な意味では 、マルクスの「資本の絶対的過剰生産」
命題そのものを否定されはしない。しかし、「資本の絶対的過剰生産」を引
き起こす原因を 、[急速なる資本蓄積の進展→労働力不足→賃金騰貴→利潤
率低下という系列 ]に求めるマルクスおよび宇野氏らの説明方法を強く弾劾
され、「資本の絶対的過剰生産」の発生をそれに代る説明原理によって論証
すべきことを主張される。具体的には、「恐慌の究極の根拠」=<生産と消費
の矛盾>の累積に起因するいわゆる「商品過剰」・商品の「実現」困難によ
って、「資本の絶対的過剰生産」が説明されうると主張されるのである。
だが、井村氏のこのような試みが果たして成功しているであろうか。マル
クスが利用した[ 仮定法 ]以外の説明方法によって井村氏は、「資本の絶対
的過剰生産」を説明=論証することに成功しているであろうか。 本稿では、
いわゆる実現恐慌論の立場からの資本過剰論の典型であるこの井村氏の見解
を代表事例として取り上げ、マルクスが依拠した[ 仮定法 ]以外の説明方法
によって「資本の絶対的過剰生産」を説明=論証することに成功しているの
かどうかという点を確認する作業を通じて、[ 急速なる資本蓄積の進展→労
働力不足→賃金騰貴→利潤率低下という系列 ]によって説明される「資本の
絶対的過剰生産」命題がどのような意義を限界を有しているかを考えるため
蔵編著『「資本論」研究史』、ミネルヴァ書房、1958年の第2章第4節。A「ギル
マン『利潤率の低落』をめぐって」、『三田学会雑誌』第52巻第1号、1959年1
月。B「生産力の発展と資本制生産の『内的諸矛盾の展開』――『資本論』第3
部第3篇第15章をめぐって――」、『三田学会雑誌』第55巻第4号、1962年4月。
C「利潤率の傾向的低落の作用 ―― 第3部第3篇第15章の理解を中心として
――」、『資本論講座』4、青木書店、1964年。D「『商品過剰論』と『資本過剰
論』との区分の誤りについて」、『一橋論叢』第87巻第2号、1982年2月。E『『資
本論』の理論的展開』、有斐閣、1984年。
これらの著作・論文以外に、「資本の絶対的過剰生産」命題そのものに積極的に
関説するものではないが、井村氏自身の積極的な恐慌論体系を展開した著作とし
て、F『恐慌・産業循環の理論』有斐閣、1973年をあげることができる。これら
の文献からの引用する場合は、引用文直後に、文献番号とページ数をたとえば次
のように略記する。(井村D33)。
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の手掛かりを得たいと考える。
U.「資本の絶対的過剰生産」命題に対する井村喜代子氏の基本的立場
「資本の絶対的過剰生産」命題をめぐる井村氏の『資本論』解釈および氏
自身の積極的な見解は次のようなものである。
「第15章が、『資本論』=『資本一般』体系の論理段階に制約されて、資本
の絶対的過剰生産を、急速なる蓄積の発展→労働力不足→賃金騰貴→利潤率
急落、という系列を仮定して説明するにとどまっており、現実に資本の絶対
的過剰の必然化するプロセスを明らかにしていない」(井村C31)。「資本の
絶対的過剰の必然化する過程を 、仮定法によらず 、理論的に解明すること
は、今後の恐慌論研究に課せられた大きな課題である」(井村@ 142-143)。
「第3節では、・・・・有名な『資本の絶対的な過剰生産・・・・』の規定が与えら
れる。/・・・・/右のような労働力不足→賃金(率)上昇→利潤率下落による
『資本の絶対的過剰』の説明があるので、これをもって、現実の『資本の過
剰生産』の説明であると見る見解・・・・が生じているわけであるが、しかし第
3節全体、さらには第15章全体を検討すると、かかる『資本論』解釈はとう
てい容認できない」(井村D127-128)。「第3節においてマルクスがくり返し
強調していることは、資本制生産は剰余価値・利潤を目的とする生産様式で
あるため、利潤率によって生産拡大が制限され、資本が資本として機能でき
ない『資本の過剰生産』が生じるということである。労働力不足→賃金(率)
上昇→利潤率下落→によって説明した事態についても、マルクスが注目して
いるのは、労働力不足→賃金(率)上昇によって利潤率が低下するというこ
とではない」(井村D128)。「『資本論』の当該部分の論理段階では当然のこ
とながら、生産諸力の『無制限的発展』のすすむ過程で、各部門の需給関係、
市場価格、市場利潤率がいかに推移し、いかにして利潤率の『ある程度』以
下への下落が生産拡大を『制約』し、『全生産領域』にわたって『資本の過
剰生産』を惹起していくかを明らかにすることは不可能であったし、また、
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そのような現実的過程の解明は当該部分の対象領域をこえたものであった。
しかし、他面マルクスは、個々の資本や個々の部門の問題ではなく、全般的
に利潤率の制約によって生産拡大が『制約』され、『資本の過剰生産』が生
じることを想定して、そこに含まれている矛盾を基本的に明示する必要があ
ったのである。したがって、マルクスは、その性質上、全般的に生じる賃金
(率)上昇から利潤率の全般的下落を想定したのであろうが、マルクスには、
労働力不足→賃金(率)上昇に現実の『資本の過剰生産』の矛盾の原因をも
とめる視角が、なかったことは明か」(井村D129)である。「『実現』問題
を完全に無視し、賃金率上昇→利潤率下落による『資本の絶対的過剰』を恐
慌の本質とみなす見解は、『資本論』第3部第3篇第15章第3節において、
『資本の絶対的過剰』が、急速な蓄積の進展→労働力不足→賃金率騰貴→利
潤率急落→という系列によって説明されていることを理論的根拠としている
/・・・/しかしながら、『資本論』解釈として、第3部第3篇第15章第3節
における上のような系列による説明を、恐慌の本質・原因の説明とみなすこ
とは大きな誤りである。第3篇第15章では、・・・生産の『無制限的』発展が
好況過程をうみだし、好況過程で<生産と消費の矛盾>がいかに深化し、生
産の条件と『実現』の条件との対立がいかに展開していくかというような問
題は分析対象とはなりえなかった。したがって、<生産と消費の矛盾>の累
積・成熟のもとで、『全生産領域』にわたって『資本の絶対的過剰生産』が
出現してくる過程も原因もなお分析対象とはなりえなかったのである。この
ような論理段階にあって 、マルクスは、生産拡大の制限が 、労働者大衆の
『欲望充足』によってではなくて利潤によって行なわれること、しかもかか
る利潤による制限が『全生産領域』にわたって生じることを明らかにして、
資本の資本としての過剰の本質と矛盾を説明する必要があったのである。そ
のため、一応『全生産領域』にわたって生じるものである賃金率騰貴→利潤
率下落を仮定して、説明を行なったものと推察される。(ただし、かかる仮
定にもとづく説明は誤解をまねく点で適当な説明ではないと思われる。)/さ
らにまた、賃金率上昇→利潤率下落の仮定にもとづく説明は、第15章第3節
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のなかでもごく一部にかぎられているものであって、この第3節でも、『資
本の絶対的過剰生産』の矛盾についてマルクスが再三強調しているのは、上
にみた点にあったのである。/したがって、・・・・賃金騰貴を『資本の絶対的
過剰生産』の原因とみなすことは、第15章第3節の解釈として大きな誤りを
おかすものであって、資本制生産の矛盾に対する認識を基本的に欠落してい
るものといわねばならない。/さらにまた、好況過程における<生産と消費
の矛盾>の累積・成熟の問題、『実現』の問題を全く無視してしまって、賃
金率騰貴による利潤率の下落にのみ着目するならば、この利潤率の下落がな
ぜ単なる拡大率の鈍化ではなく、急激な下降への逆転をうみだしていくのか
という問題は説明することができない」(井村F253-254)。
まず指摘しておかなければならないことは、『資本論』では、たしかにマ
ルクスは多くの紙幅を費やして「資本の絶対的過剰生産」命題を説明してい
るが、しかし良く分析すればそれらの論述の背後にそれとは異なる「資本の
過剰生産」概念=「現実の資本の過剰生産」概念が説明されているというこ
とを井村氏は一切認識しておられない、ということである。旧稿および前稿
における筆者の中心論点は、「資本の絶対的過剰生産」概念とは異なる「資
本の過剰生産」概念が『資本論』に存在するにもかかわらず、それを正当に
認めてこなかった従来の諸見解を批判することにあった。しかし、それを踏
まえたうえで、本稿では、そのなかでも井村氏のような立場からする資本過
剰論および恐慌論の適否を内在的に検討することにしたい。
うえに見た井村氏の主張の核心は次の点にある。
「資本の絶対的過剰生産」→恐慌という論理は、けっして否定されたり拒
否されたりするものではなくて、むしろ「資本の絶対的過剰生産」が必然化
するプロセスを特殊な「仮定法によらず、理論的に解明」しなければ
ならない。なぜなら、「資本の絶対的過剰生産」の説明において「マルクス
が注目しているのは、労働力不足→賃金(率)上昇によって利潤率が低下す
るということではない」(井村D128)からである。『資本論』における「マ
ルクスには、労働力不足→賃金(率)上昇に現実の『資本の過剰生産』の矛
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盾の原因をもとめる視角が、なかったことは明か」(井村 D129 )である。
「賃金率上昇→利潤率下落の仮定にもとづく説明は、第15章第3節のなかで
もごく一部にかぎられている・・・・・・/・・・・賃金騰貴を『資本の絶対的過剰生
産』の原因とみなすことは、第15章第3節の解釈として大きな誤りをおかす
もの」(井村F253-254)である、と。これが 、マルクスの「資本の絶対的
過剰生産」命題に対する井村氏の批判であり、「資本の絶対的過剰生産」論
に関する井村氏の見解である。
このように主張されることによって 、井村氏は 、「資本の絶対的過剰生
産」概念そのものの存在を認めながらも、「急速なる蓄積の進展→労働力不
足→賃金騰貴→利潤率急落、という系列」によって「資本の絶対的過剰の必
然化する過程を、・・・・理論的に解明する」マルクスの方法を拒否・排除され
た訳である。しかしながら、この井村氏の主張・解釈は、すでに見たように、
『資本論』第3部「主要草稿」におけるマルクスの「注意書き」の趣旨に反
するものであり、言い換えれば、それらは明らかにマルクスの「資本の絶対
的過剰生産」論に対する批判である。
さて 、このような『資本論』解釈( =マルクス批判 )に忠実に従って、
「資本の絶対的過剰生産 」を「仮定法によらず、理論的に解明する 」ため
に井村氏が依拠したものこそが、マルクスが「恐慌の究極の根拠」として提
示した「生産と消費の矛盾 」命題である。すなわち 、「好況過程における
<生産と消費の矛盾>の累積・成熟の問題、『実現』の問題を全く無視して
しまって、賃金率騰貴による利潤率の下落にのみ着目するならば、この利潤
率の下落がなぜ単なる拡大率の鈍化ではなく、急激な下降への逆転をうみだ
していくのかという問題 [「資本の絶対的過剰生産」――松尾] は説明する
ことができない」(井村F253)。「『実現』問題を完全に無視し、賃金率上昇
→ 利潤率下落による『資本の絶対的過剰 』を恐慌の本質とみなす見解」は
「『資本論』解釈として・・・・・・大きな誤りである」(井村F253、254)、と。しか
し、このような井村氏の『資本論』解釈=マルクス批判は、はたして、井村
恐慌論のなかで成立しているのであろうか。以下 、詳しく検討してみよう。
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V.井村恐慌論の概要とその問題点
井村氏の恐慌論は、筆者の見るところ、マルクスの「生産と消費の矛盾」
命題を「恐慌の究極の根拠」とする典型的ないわゆる商品過剰論に基く恐慌
論であると規定できよう。しかし、井村氏自身はこのような規定・部類分け
を強く拒否されている。というのは、井村氏は、マルクスが説明する「資本
の絶対的過剰生産 」命題を 恐慌論の基本規定とするいわゆる資本過剰論と
「生産と消費の矛盾」命題を「恐慌の究極の根拠」とするいわゆる商品過剰
論との関係について次のような理解を示されているからである 。すなわち、
「『商品過剰論』と『資本過剰論』という規定・分類自体も、きわめて曖昧
なものである」(井村D124)。「『商品の過剰』と『資本の過剰』、『商品過
剰論』と『資本過剰論』という規定・分類自体が誤りである」(井村D124)。
「マルクスにあっては、生産力発展・生産拡大がすすめば<生産と消費の矛
盾>が深化し、その『矛盾に満ちた基礎上で』『資本過剰と人口過剰の増大』
が生じるという第1節の問題と、利潤率下落によって生産拡大が『制限』さ
れ、『資本の過剰生産』が生じるという第3節の問題とは、共通した資本制
生産固有の生産拡大の『制限』・資本の『過剰生産』の問題として――その
共通性において――把握されていた」(井村D130)。「マルクスは第1、(第
2)、第3節で、資本制固有の生産拡大への『制限』・『資本の過剰生産』の
問題を同じ基本的視角から考察しているし、これを生みだす<生産と消費の
矛盾>の深化による『制限』と利潤率の下落による『制限』を、不可分離の
ものとして把握しているのである」(井村D130-131)。「労働力不足→賃金
(率)上昇→利潤率下落という系列で『資本の絶対的過剰生産』を説明した
ところにおいてさえ、マルクスは・・・・『ここで設けた極端な前提のもとでさ
え、資本の絶対的な過剰は、けっして絶対的な過剰生産一般ではなく、けっ
して生産手段の絶対的な過剰生産ではない・・・・』・・・・として資本の過剰生産
を生産手段(内容から見て商品資本)の過剰として把握している」(井村D
133)。「『極端な前提』から離れて、利潤率による『制限』を問題とする第
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3節後半では一層明白になり、『現存の人口と比べて多すぎる生活手段が生
産されるのではない。』『しかし、労働者の搾取手段としてある程度の利潤
率で機能させるには多すぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるので
ある。』・・・・・・として、利潤率の『ある程度』以下への下落によって生じる
『資本の過剰生産』は、労働手段や生活手段の過剰生産という内容のものと
して把握されている」(井村D133)。「<生産と消費の矛盾>を『究極の根
拠』とみなす立場の恐慌論体系は、<生産と消費の矛盾>の累積を明確にし、
その累積のもとで全般的な実現困難の発生を論証していくうえで、『利潤率
のある高さが、生産の拡張や制限を決定する』、『利潤率のある高さ』以下へ
の下落が生産拡大を『制限』し『資本の過剰生産』を生みだすという規定は
充分とり入れていく体系――それをとり入れることなしには成りたちえない
体系――であることはあまりにも明らかである」(井村D136)。
見られるように、井村氏は、マルクスの「資本の過剰生産」命題と「生産
と消費の矛盾」命題とは「共通した資本制生産固有の生産拡大の『制限』・
資本の『過剰生産』の問題」・「資本制固有の生産拡大への『制限』・『資
本の過剰生産』の問題を同じ基本的視角から考案」したのもであるという理
解を表明されている。しかし、注意深くこれらの叙述を見てみると、井村氏
の本意はその点にあるのではない。井村氏の恐慌論においては、「<生産と
消費の矛盾>を『究極の根拠』とみなす立場」・「<生産と消費の矛盾>の累
積・・・・・・のもとで全般的な実現困難の発生を論証」する立場こそが、恐慌論展
開の基本とされるべき立場であって、それに対して、「『利潤率のある高さ』
以下への下落が生産拡大を『制限』し『資本の過剰生産』を生みだす」とい
う「資本の過剰生産」概念は、飽くまでも補足的な規定であるという位置付
けになっているようである。
このような井村氏解釈は筆者の勝手な憶測ではない。同氏著『恐慌・産業
循環の理論』有斐閣、1973年(以下、同書を『理論』と略記する)が、この
ような解釈が成り立ちうることを裏付けてくれている。以下、井村氏が同書
において「商品過剰」即「資本過剰」の発生をいかに「 論証 」し、いかに
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「資本の絶対的過剰生産」を「理論的に解明」しているかを検討することに
しよう。
井村恐慌論を一言で表現するとすれば、それは、再生産表式分析における
「T部門の不均等的拡大 」概念の提示とその具体的展開としての「 商品過
剰」論であると言うことができる。議論の核心部分は、井村氏著『理論』の
第3章「拡大再生産表式分析と<生産と消費の矛盾>――『T部門の不均等
的拡大』を中心として―― 」および第5章「産業循環と <生産と消費の矛
盾>の展開」に見ることができる。井村氏の基本的立場は、うえでも確認し
たように、恐慌の「究極の原因」は<生産と消費の矛盾>であり、産業循環
の過程は<生産と消費の矛盾>の展開(累積・成熟・爆発)過程として捉ら
えなければならないというものである。この基本的立場を具体的に示すもの
が、井村氏独自の「T部門の不均等的拡大」概念とその具体的展開である。
井村氏は、「T部門の不均等的拡大」概念は「T部門の均等的拡大再生産」
や「T部門の優先的発展」概念との対比のなかで理解されなければならない、
と言う。井村氏の説明はこうである。「T部門の均等的拡大再生産」とは、「各
生産部門の拡大率均等=部門構成同一不変のもとで、年々一定の拡大率で拡
大再生産が規則的に進展していく」(井村F67-68)拡大再生産のことであり、
この場合には「たんに『均衡』が維持されているというだけではなく、あら
ゆる部門の生産が消費に結実していくという関係がつらぬかれ、生産と消費
が『照応』している状態にある」(井村F72)。他方、「T部門の優先的発展」
とは、「ある『均等的拡大再生産』の進行途上において、有機的構成の高度
化が生じるとすると、全体のΔΚ/Κを同一に維持するためには、T部門・・・
がU部門を上回る率で拡大し、これらの部門の比重の上昇をはかる必要があ
る」(井村F138)ような拡大再生産のことであり、この場合には「有機的構
成の高度化のもとで、それに対応するかぎりで、T部門がU部門を上回る率
で拡大 」するのであって 、「新しい有機的構成のもとでの生産と消費との
『照応』関係を創出するために、そのかぎりでT部門が不均等に拡大してい
るのである」(井村F138)。これに対して、「T部門の不均等的拡大」とは、
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社会的な総投下資本拡大率である「ΔΚ/Κの上昇を起動力として惹起され、
T部門の不変資本の流通の特殊性を基礎として維持されていく、T部門の不
均等な拡大」(井村F98)であり、この場合には「T部門の生産の拡大は、消
費との『照応』関係を破って、消費との関連においては『過度』に拡大」(井
村F105)し、「<生産と消費の矛盾>が深化している」(井村F107)、と。
このように、<生産と消費の矛盾>の展開(累積・成熟・爆発)過程を捉
えるための理論装置として「T部門の生産の拡大 」概念を設定したうえで、
井村氏は次のように言われる。「『 T部門の生産の拡大 』の進展を通じて
『余剰生産手段』が厖大化していった基礎上において、T部門のΔΚ/Κの低
下が生じるとすれば、生産手段を中心に生産物の過剰化の急速な加速度的波
及が生じる」(井村F109)、と。これが井村恐慌論の核心であり軸点であっ
て、その具体的な展開は同氏著『 理論 』第5章に見ることができる。ただ
し、『資本論』の「資本の絶対的過剰生産」について、「労働力不足→賃金
(率)上昇→利潤率下落という系列」を仮定したマルクスの説明を拒否され
た井村氏が、同氏著『理論』において、いかに「資本の絶対的過剰の必然化
する過程を 、[『資本論』でマルクスが依拠したような――松尾 ]仮定法に
よらずに、理論的に解明する」ことができているかどうかを確認するのが本
稿の目的であり、この目的に即して、その限りで同氏著『理論』第5章の展
開内容を見ることにしよう。
井村恐慌論の核心が、いま述べたように、「『T部門の生産の拡大』の進展
を通じて『余剰生産手段 』が厖大化していった基礎上において 、T部門の
ΔΚ/Κの低下が生じるとすれば、生産手段を中心に生産物の過剰化の急速な
加速度的波及が生じる」(井村F109)という点にあるとすれば、本稿におい
てわれわれが注目すべき問題は、なにゆえに、どのようにして、「T部門の
ΔΚ/Κの低下が生じる」のかという問題であろう。井村氏が約束されたよう
ー154ー
|
に、果たして、この問題が「仮定法によらずに、理論的に解明する」ことが
できているであろうか。これが、本稿の課題である。
ところが、われわれの期待に反して、「産業循環の運動の考察」に入る前
に早くも井村氏は次のような保留条件を表明されている。「ΔΚ/Κの上昇は、
T部門の不均等な拡大を惹起する」が、この「ΔΚ/Κの上昇が、市場拡大率の
上昇に先行して、なぜ、いかにして生じるかということはここでの課題では
ない」(井村F88)。「ここでの考察は、・・・・新投資や更新投資の運動が市
場価格・市場利潤率の動きと関連しつついかに展開していくかという点の考
察を欠いているので、T部門のΔΚ/Κの低下が何故に生じるのかということ
の解明はここではできない」(井村F109) 、と。このような分析の限界の率
直な表明に従えば、「T部門のΔΚ/Κの低下が何故に生じるのかということ
の解明」を井村氏に期待できそうもない。<生産と消費の矛盾>の潜在的な
累積からその成熟への過程は「T部門の不均等的拡大」の展開過程によって
何程か解明しえても、<生産と消費の矛盾>の潜在的成熟過程からその顕在
化=爆発の解明までもが解明されることを氏の恐慌論に期待できそうもない
と覚悟しなければならない。とはいえ、井村氏は「資本の絶対的過剰の必然
化する過程を、[『資本論 』でマルクスが依拠したような――松尾 ]仮定法
によらず、理論的に解明する」と宣言されているのであるから、いま暫くそ
の約束が 果されているかど うかを 見るために 、氏の産業循環分析を追う
ことにしよう。
井村氏は、景気が回復局面から好況局面へと至る過程について次のように
説明されている。「回復過程では生産拡大がもっぱら既存の固定設備の基礎
上での拡大としてのみ行われ、新投資(固定資本新投資ふくむ)は例外的・
非連続的」(井村F208 )である。 回復過程における「(A)『改良・更新投
資』の集中的展開 、(B)『 新生産部門投資 』の群生 、(C)『単なる更新投
ー155ー
|
資』の群生によって創出される投資需要の社会全体の総和が・・・ ある規模と
持続性とをもって拡大していくならば、既存の固定設備の基礎上での生産拡
大がしだいに多くの生産部門に浸透していき、やがては新投資の展開が開始
し、好況への転換が実現する」(井村F198)。しかし、その「初期段階では、
(GF+mFG)のうちでしめるGFの比重は高く、更新投資需要がいぜん高水
準をつづけることが、労働手段需要総額(GF+mFG)の増加傾向を支えるう
えで不可欠である。ここでは大体のところ 、f<GFの状態が持続されてい
る」(井村F210――なお、GF=労働手段の現物更新需要、mFG=蓄積基金
による労働手段へ新投資需要、f=労働手段の価値移転部分)。この段階では
「更新投資需要が高水準を続けることに支えられて、IF部門に対する需要
総額 ・・・ の増加率がIF部門の供給額の増加率を上回る状態が持続し、IF
部門の市場価格・ 市場利潤率の上昇傾向がもたらされ 、これを槓杆として、
IF部門、T(I)R部門における新投資の活発化が促されていく」(井村F210)。
このように好況局面では、「新投資、とくにT部門の新投資によって主導さ
れて『T部門の不均等的拡大』が急速に進展する」(井村F208)。「新投資
の活発な展開によって、T部門の内部転態部分の相互促進的拡大・T部門、
とくにI(I)部門の急速な拡大がおしすすめられていくが、かかる急速な『T
部門の不均等的拡大』は、再生産拡大のための『物質的基礎』である『余剰
生産手段』の増大・『余剰率』の上昇を促し、ヨリ一層急速な拡大を可能と
していく」(井村F214)。しかもこの「T部門の急速な発展は、労働者の雇
用増大・消費総額の増大、資本家の消費総額の増大を通じてU部門の市場を
拡大ていく」(井村F214)。「U部門の新投資の展開は 、それはそれでまた
T(I)部門にむけての市場の加速度的拡大を促し、ヨリ一層の『T部門の不均
等的拡大』を促すよう作用・・・していく」(井村F214)。「T部門の新投資
の活発化に主導されて急速な『T部門の不均等的拡大 』が進展していくと、
『余剰生産手段』の累増が生じるとともに」、「f>GFの深化=GF/fの低下
が一貫してすすむことは必然的である」(井村F224)。
以上の好況局面に至る循環過程の分析に続いて、「好況の終焉」の説明へ
ー156ー
|
と進むことになる。井村恐慌論のエッセンスを示す核心的な叙述部分だけを
引用しておこう。
「好況局面では、新投資の活発な展開のもとで、・・・・急速な『T部門の不
均等的拡大 』が進展」するが 、「この過程で必然化した f>GF の深化は、
各部門の労働手段需要総額のうち更新需要のしめる比重の低下・新投資需要
のしめる比重の上昇を促すことを通じて、新投資固有の需要創出作用を減殺
する・・・ 。U部門では、それは、消費市場による新投資の制約に加えて、U
部門の労働手段需要総額を抑制し、U部門用労働手段の『実現』条件の悪化
を促した。また・・・T部門では、急増していったT部門内転態部分について、
一定の労働手段需要総額のもとでのT部門むけの生産手段の供給増大率を急
速に高め、労働手段需要総額の増大のもとでのT部門むけ生産手段の供給増
大率の上昇を加速していったのである。/こうした関係のもとでは、IF部
門に対する需要総額の増加率がIF部門の供給総額の増加率を下回り、市場
価格の上昇率の低下( 絶対的低下ふくむ)の傾向が生じることは明らかであ
る。・・・ T部門で吸引・利用すべき『余剰労働手段』『余剰原材料』が累増
している状態のもとでこうしたことが生ずれば、それはIF部門の『実現』
条件の悪化・新投資の鈍化を倍加し、それを通じてIR部門の『実現』の悪
化・新投資の鈍化を惹起することは明らかである。こうして、・・・・下降への
逆転がはじまる」(井村F234-235)。「下降への逆転の開始のためには、T
部門の新投資が絶対的に減少することや、まして新投資が一挙に姿を消すと
いうようなことは決して必要ではない。新投資がなお従来通り高水準である
としても、たとえ絶対的に増大すらしたとしても 、それが、T部門で吸引・
利用すべき『余剰労働手段』の加速度的増大との相対関係において、(労働
手段の市場価格上昇率のある程度の低下をもたらすくらい)不充分であれば、
ここから 新投資の鈍化と『実現』条件の悪化との相互促進的過程がすすみ、
それを中軸として生産物の過剰の急速な 全般化がすすんでいくからである」
(井村F236)。「下方への逆転についてとくに注目しなければならないのは、
かかる下方への逆転が、好況における『T部門の不均等的拡大』の急速な進
ー157ー
|
展を通じて厖大な『余剰生産手段』が生みだされるようになったもとで、さ
らにそれを加えて、f>GFが深化し 、U部門労働手段の『実現』条件の悪
化が生じ、T部門によって吸引・利用されるべき『余剰労働手段』が累積的
に増大していっているという関係の基盤の上において生じるということであ
る。累積的に増大していく『余剰生産手段』、とくに『余剰労働手段』にお
いて、U部門によって吸引・利用される部分はすでに限界に達し、『実現』
条件の悪化が生じ、ますます多くの部分がT部門によって吸引・利用されて
いかねばならないという関係が基礎にあるからこそ、T部門の新投資が、た
とえ高水準であったとしても、増大さえしたとしても、累増する『余剰労働
手段』との関係では不充分であり、市場価格の上昇率の低下が生じることに
なるのである。・・・・・市場価格の上昇率の低下が新投資の鈍化を促せば、『実
現』条件の一層の悪化がすすみ、新投資の鈍化と『実現』条件の悪化とが相
互促進的に進展していく」(井村F236-237)。
以上が、井村氏による「好況の終焉」=「下降への逆転」が開始される局
面の説明である。これらの叙述によって、はたして、「資本の絶対的過剰の
必然化する過程を、[『 資本論 』でマルクスが依拠したような――松尾]仮
定法によらずに 、[ 井村氏が考えるような意味で――松尾]理論的に解明す
る」ことができているであろうか、言い換えれば、「下降への逆転」開始が
解明されているであろうか。
この点を判断するために、同氏著『理論』の論述中に見られる次のような
件にわれわれは特に注目すべきである。すなわち、累増する「余剰労働手段」
のうち「U部門によって吸引・利用される部分はすでに限界に達し、『実現』
条件の悪化が生じ、ますます多くの部分がT部門によって吸引・利用されて
いかねばならないという関係が基礎にあるからこそ、T部門の新投資が、た
とえ高水準であったとしても、増大さえしたとしても、累増する『余剰労働
手段』との関係では不充分であり、市場価格の上昇率の低下が生じることに
なるのである」。
ここで井村氏は、下線部分の結論(=「T部門の新投資が、たとえ高水準
ー158ー
|
であったとしても、増大さえしたとしても、累増する『余剰労働手段』との
関係では不充分であり、市場価格の上昇率の低下が生じることになるのであ
る」)を引出すために、その実現条件として、傍点部分(累増する「余剰労
働手段」のうち「U部門によって吸引・利用される部分はすでに限界に達し、
『実現』条件の悪化が生じ、ますます多くの部分がT部門によって吸引・利
用されていかねばならないという関係が基礎にある」ということ)を持ち出
しているのである。要するに、「下降への逆転」開始のためには、累増する
「余剰労働手段」のうち「U部門によって吸引・利用される部分はすでに限
界に達し、[U部門における――松尾]『実現』条件の悪化が生じ」ていなけ
ればならない、と主張されているのである。
この理論を補強するために、井村氏は、U部門の実現条件の特殊性(狭溢
性・困難性)を主張される。すなわち、「U部門は、・・・・消費市場に直結し
ており、その新投資の推移が消費需要の動向によって直接規制される関係あ
る」(井村F228)、と。このようなU部門の実現条件の特殊性(狭溢性・困難
性)を前提にして、井村氏は次のように議論を展開される。「U部門におい
て、好況局面における消費需要の増大傾向にもとづいて活発な新投資が展開
し、Fの増大・fの増加と更新集中の減退とがすすみ、f>GFの深化= GF/f
の低下が現われるならば、U.f−GFが急増をしめし、 U.(f+mFs)=U.
(GF+cF+mFG)のためには、急増するf−GFとmFsとの合計にあたる新
固定資本投下cF+mFGが要請される状態になるのであるが、消費需要によ
って規制されているU部門の新投資による新固定資本投下の増加がそれにお
よばず、IF部門に対する(消費手段の)総供給f+mFsの増加率よりも、
IF部門に対する(労働手段の)総需要GF+cF+mFGの増加率が下回り、
f+mFs>F+cF+mFGの状態が支配するにいたる傾向がきわめて強い。」
(井村F228)。「U部門では、 市場を上回って新投資がすすむことによって
自部門の市場が一層拡大する可能性は、T部門に比してはるかに狭い限界内
に制約されている」ので、新投資が市場拡大率をこえてすすむことによって、
ー159ー
|
f>GFのもとでも、労働手段への需要の高い増加率が維持され 、一時的に
は、U部門用労働手段の『実現』条件の悪化という事態の出現が回避される
ことになろうが、しかしながら、いずれ消費市場における『実現』条件の悪
化を通じて、新投資への抑制力が生じることは明らかである」(井村F230)。
これらの論述によって分かるように、井村氏は、「U部門は、・・・消費市場
に直結しており、その新投資の推移が消費需要の動向によって直接規制され
る関係」があるからこそ、たとえT部門で「実現」条件の悪化が生じなくて
も、「U部門において、・・・f>GFの深化= GF/fの低下が現われ・・・急増
する・・・ 新固定資本投下cF+mFGが要請される状態」になれば、「消費需
要によって規制されているU部門の新投資による新固定資本投下の増加がそ
れにおよばず 、IF部門に対する(消費手段の)総供給f+mFsの増加率
よりも、IF部門に対する(労働手段の)総需要GF+cF+mFGの増加率が
下回・・・・・・る傾向がきわめて強い」、そのためT部門で「下降への逆転」が開
始されるのである、と説明されるのである。
しかし、このような説明に満足することができるであろうか。f>GFの深
化=GF/fの低下のこれは<生産と消費の矛盾>の潜在的累積・成熟を意味す
るのであるが、その潜在的に累積された<生産と消費の矛盾>が現実に「下
降への逆転」=「好況の終焉」に転化するのはなぜか、すなわち<生産と消
費の矛盾>が顕在化するのはなぜか。この点を説明するための根拠を、井村
氏は、結局のところ、「U部門は、・・・ 消費市場に直結しており、その新投
資の推移が消費需要の動向によって直接規制される関係」にあるということ
に求められている。すなわち、U部門は「消費市場に直結しており、その新
投資の推移が消費需要の動向によって直接規制される関係」あるからこそ、
たとえT部門で「実現」条件の悪化が生じなくても、U部門のおいてf>GF
の深化=GF/fが低下し、新固定資本投下の要請が急増すれば、「消費需要に
よって規制されているU部門」では「新投資による新固定資本投下の増加」
ー160ー
|
がその要請に応えることが出来ず、「下降への逆転」がはじまる。これが井
村氏の論理である。しかし、これは、どう見ても循環論法ではなかろうか。
T部門の実現条件の悪化の原因を、U部門の実現条件の悪化に求めているだ
けであって、後者のU部門の実現条件の悪化それ自体がいったいどのように
して起こるのかは論証されずに、ただ、「U部門は、・・・ 消費市場に直結し
ており、その新投資の推移が消費需要の動向によって直接規制される関係」
が存在するというだけである。恐慌論の展開が最終的にこのような論理に依
拠するのであれば、「恐慌の究極の根拠」とされる<生産と消費の矛盾>に
依拠するいわゆる商品過剰論による恐慌論の体系化は至極簡単であり、最初
から回答が与えられているとさえ言うことが出来よう。問題は、<生産と消
費の矛盾>の潜在的累積が進んで 、それがどのようにして顕在化するのか、
その際「狭溢な消費制限」という契機がどのような作用をするのかというこ
とを事態に即して解明することにあったはずである。しかし、それが肝心の
ところで果されていないのである。
以上、井村氏の恐慌論を出来る限り内在的に追ってきた。井村氏は、「資
本の絶対的過剰」の必然化する過程を、マルクスのような「仮定法」によら
ずに、すなわち[ 急速な蓄積の進展→労働力不足→賃金(率)騰貴→利潤率
低下という系列 ]によって 説明するのではなくて 、好況過程における<生
産と消費の矛盾>の累積・成熟過程を分析にすることによって「理論的に解
明することが今後の恐慌論研究に課せられた大きな課題である」、という立
場を採ってきた。 <生産と消費の矛盾> の累積・ 成熟過程の延長線上に、
<生産と消費の矛盾>の爆発としての「資本の絶対的過剰生産」が発生する
ことを論証する。これが、井村氏の課題であったはずである。しかし、「T部
門の不均等的拡大」が、究極的に、いかに<生産と消費の矛盾>によって「限
界」づけられているかという肝心の問題は、井村氏によって、結局、「U部門
は、・・・・・・消費市場に直結」しているからこそ「T部門の不均等的拡大」は無
限ではないという形で説明されるだけであるように思われる。U部門が「消
費市場に直結しており、その新投資の推移が消費需要の動向によって直接規
ー161ー
|
制される関係」にあるということがどのような消費制限の問題となって現わ
れるのかという具体的な内容を分析して見せるべきである。U部門が「消費
市場に直結しており、その新投資の推移が消費需要の動向によって直接規制
される関係」にあるから、U部門において、f>GFの深化=GF/fの低下が
進行していった場合、どのような事態が発生するのかということを詳しく解
き明かす努力をすべきである。でなければ、結局、<生産と消費の矛盾>が
累積・成熟する過程、すなわち実現条件が潜在的に悪化する過程がいくら解
明されたとしても、――実際、井村恐慌論はこの問題の解明に大いに寄与し
たのであるが、――肝心の<生産と消費の矛盾>の顕在化の過程・爆発の瞬間、
すなわち実現困難の発生がいかに生じたのかは相変わらず不明なままである。
井村氏は 、実現困難の発生の論証問題に真の回答を与えることができずに、
潜在的に悪化した実現条件をもってただちに恐慌を説明しているだけである。
一方で、「T部門の ΔΚ/ Κの低下が生じるとすれば、・・・生産物の過剰化
の急速な加速度的波及が生じる」(井村F109 )と言いながら、他方では、
不思議にも、「生産物過剰が ΔΚ/ Κの低下を惹起するためには、 ある程度の
生産物過剰が出現することを要する」(井村F109)と述べているが 、これは、
要するに、「T部門の ΔΚ/ Κの低下→ 生産物の過剰化」の過程を解明したい
のに、「T部門の ΔΚ/ Κの低下がなぜ生じるのかということは解明は・・・ で
きない」ので、「[U部門での――松尾]ある程度の生産物過剰→ ΔΚ/ Κの低
下を惹起する」という契機を「要する」とでも言いたいでのあろうか 。しか
し、それでは全くの循環論法である。
議論の出発点においてそもそも、井村氏は、「T部門の不均等的拡大 」過
程における<生産と消費の矛盾>の累積・ 成熟がただちに実現不可能を意味
するものではないことを強調されてきた。「『T部門の不均等的拡大 』が、
ー162ー
|
生産物過剰を伴うことなく進展していきうるということは 、この『 T部門
の不均等的拡大』のもとで、ある期間にわたって生産が狭溢な『消費制限』
のもとでも『自立的』・『無制限的』拡大をつづけていきうること、いいか
えれば、<生産と消費の矛盾>は、この『T部門の不均等的拡大』において、
『実現』困難として顕在化することなしに累積されていくことを意味してい
るのである。つまり、『T部門の不均等的拡大』こそは、<生産と消費の矛
盾>の潜在的累積機構であるといえる」(井村F107-108)。これらによって、
明らかなように、井村氏は、「T部門の不均等的拡大」が<生産と消費の矛
盾>の潜在的累積機構であると明言していたのである 。ところが 、同氏著
『理論』において議論を進展していくうちに、何時のまにか、ここから「下
降への逆転」すなわち恐慌=生産物過剰の発生が論証されているのである。
何時の間に、<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構である「T部門の不均
等的拡大」が、<生産と消費の矛盾>の顕在化機構に「転化」したのであろ
うか。<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構が、何時 、どのようにして、
またどの程度潜在的に累積すれば 、<生産と消費の矛盾 >の顕在化機構に
「転化」するのか。この問題に 、井村氏は一切答えることができていないよ
うに思われる。
しかし、この井村氏の約束違反は起こるべくして起こったのであり、当然
の結果であると言わなければならない。というのは、井村恐慌論のキー・概
念をなす「T部門の不均等的拡大」が展開される再生産表式分析は、井村氏
自身も指摘されるように、基本的に次のような性格をもっているからである。
すなわち、「『資本論』第2部第3篇の再生産表式分析は、商品資本の循環
W´・・・W´を基準として、社会的総資本の生産物W´の価値的・素材的補填
によって社会的総資本の再生産がいかに行なわれるかということを解明しよ
うとしたものである」(井村F31)。「再生産表式分析は、需給一致=価値どお
りに交換を前提としたうえで、社会的総生産物の価値的・素材的補填の諸関
係を解明することによって、流通における『均衡・・・』=価値どおりの交換、
『再生産の正常的経過・・・ 』のためには種々の諸条件が必要であることをし
ー163ー
|
めすとともに、それらの諸条件のみたされないところでは、『均衡』の破壊=
『不均衡』、再生産の『異常な経過・・・・』が生じることをしめしたのである」
(井村F32)。井村氏自身も認めているように、再生産表式はこのような基本
的性格・目的を持っているのである。したがって、再生産表式をいかに分析
・展開したところで、われわれは、けっして、潜在的に累積された<生産と
消費の矛盾>が顕在化し爆発するメカニズムを再生産表式分析(その具体的
な分析装置である「T部門の不均等的拡大」)によっては明らかにすること
はできないのであって、それは当然の結果である。
しかし、このような結論が引出されたからといって、同氏著『理論』が何
ら積極的な意義を有しなかったと評価することは誤りである。 というのは、
井村氏は、「『資本論』の再生産表式論で残された問題」(井村F59)である
<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構を詳細かつ厳密に解明して見せてい
ると評価することができるからである。
井村氏は、「『資本論』の再生産表式論で残された問題」(井村F59)=
<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構を解明することを同氏著『理論』の
中心的課題としているが、その問題とは、もう少し具体的にいうとこうであ
る。「T部門とU部門の総投下資本拡大率 ΔΚ/Κ に焦点をおきつつ、拡大再
生産におけるT・U部門の関連、生産と消費との関連を考察し、この考察を
通じて、生産が消費から『自立的』に発展していくという『自立』性のゆえ
んを確定するとともに、生産が『自立的』に発展していき、<生産と消費の
矛盾>が潜在的に累積していく拡大再生産の基本構造を明らかにすることで
ある」(井村 F59)。そして 、この課題のために使用された理論装置こそ
「T部門の不均等的拡大」であって、それは次のように規定されている。
「『T部門の不均等的拡大』が、生産物過剰を伴うことなく進展していき
うるということは、この『T部門の不均等的拡大』のもとで、ある期間にわ
たって生産が狭溢な『消費制限』のもとでも『自立的』・『無制限的』拡大
をつづけていきうること 、いいかえれば 、<生産と消費の矛盾>は、この
ー164ー
|
『T部門の不均等的拡大』において、『実現』困難として顕在化することな
しに累積されていくことを意味しているのである。つまり、『T部門の不均
等的拡大』こそは、<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構であるといえる」
(井村F107-108)。このような自らに与えた課題とそのための理論装置がも
つ性格から判断するならば、井村恐慌論はその目的を充分に達成していると
いう評価さえ与えることができるであろう。
しかし、このように井村氏は、「T部門の不均等的拡大」=<生産と消費
の矛盾> の潜在的累積機構 =「生産物過剰を伴うことなく進展していきう
る」ものという規定を与えた直後に、自らの恐慌論の限界を表明しているの
である。すなわち、「『T部門の生産の拡大』の進展を通じて『余剰生産手
段』が厖大化していった基礎上において、I部門の ΔΚ/Κ の低下が生じると
すれば、生産手段を中心に生産物の過剰化の急速な加速度的波及が生じる」
(井村F109)と述べることによって、以後の展開の基軸を示して見せている
が、肝心の「生産物の過剰化の急速な加速度的波及 」が開始するための必須
条件たる「T部門の ΔΚ/Κ の低下 」という事態の発生については、「新投資
や更新投資の運動が市場価格・市場利潤率の動きと関連しつついかに展開し
ていくかという点の考察を欠いている」(井村F109)かぎり、「解明・・・で
きない」(井村F109)と述べるだけである。しかし、この問題が「解明・・・
できない」のは、たんに同氏著『理論』第3章においてだけではない。おそ
らく、氏の意に反して、「産業循環の変動過程=<生産と消費の矛盾>の展
開過程を考察する」同書第5章においてもそうである。というのは、同氏著
『理論』全体を通じて井村氏は、筆者の見るところ、一度も本格的に「新投
資や更新投資の運動」を「市場価格・市場利潤率の動きと関連」させつつ分
析してはいないからである。これは、おそらく井村氏が、「市場価格・市場
利潤率の動き」は、すべて実現条件――おそらく、その具体的内容は再生産
表式上の<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構として展開されていると井
村氏は考えている― によって規定されていると想定しているからであろう。
ー165ー
|
しかし、もしそのような想定がなされているとすれば、それは「市場価格・
市場利潤率の動き」に対する全く一面的な把握の仕方であると言わざるをえ
ないであろうし、井村氏の「産業循環の変動過程=<生産と消費の矛盾>の
展開過程」の考察内容がいかに循環論法的であるかということを如実に示し
ているように思われる。
このように見てくると、井村氏が分析しえたのは、まさに自らに課題とし
て課した問題(厳密・詳細な<生産と消費の矛盾>の潜在的累積機構)の解
明であって、それ以上のものではなかったのである。もしこれ以上の次元の
分析へと進もうとするのであれば、井村氏は、再生産表式分析(「T部門の
不均等的拡大」分析)での研究成果を踏まえつつ、――しかし再生産表式分
析は<矛盾>の潜在的累積機構しか分析できないのであるから、――その論
理次元を乗り越えて、それ以外の有力な分析ツールとしてマルクスが提示し
た資本過剰概念(「資本の絶対的過剰生産」および「資本の過剰生産」)へと
「産業循環の変動過程」を考察する舞台を進めるべきではなかろうか。マル
クスの「資本の絶対的過剰生産」命題をその説明方法(特殊な「仮定法」)
をも含めて一旦受容することによって――そしてその命題を表式分析以外の
側面・論理から考察することによって――、はじめて「新投資や更新投資の
運動」を「市場価格・市場利潤率の動きと関連」させつつ本格的に分析する
道が拓けるのではなかろうか。
(まつお・じゅん/経済学部教授/1995.1.10受理)
ー103ー
|