『経済経営論集』(桃山学院大学)第36巻第2号、1994年12月発行

  

マルクスの「資本の過剰生産」論
――再論:『資本論』第3部「主要草稿」を踏まえて――

 

松尾 純

 

T.は じ め に
 現行版『資本論』第3部第3篇 「利潤率の傾向的低下の法則」第15章「法
則の内的諸矛盾の展開」は、『資本論』の他の諸篇(第1部第7篇および第
2部第3篇)とともに、『資本論』を基礎にしてマルクスの方法に従って恐
慌論を構築しようとする論者にとって最重要視されてきた箇所である 。とこ
ろが、この第15章は、上記の他の重要箇所と違って、 議論が多岐多様にわた
りその論旨の明確な把握が極めて困難な箇所であり、『資本論』中最も難解
な箇所の1つである。そのため、この第15章にはマルクスの方法に沿って恐
慌論を展開する際の重要な手掛かりとなる諸命題が多数散りばめられている
にもかかわらず、それらのどの命題を、どのように、恐慌論の構築に生かす
べきか、いまなお多数の論者の間で議論と論争が繰り返されている。
 それらの論争問題のうちで、その理解の仕方において最も鋭く対立してい
る問題は、第15章第3節のほぼ全紙幅を費やして展開されているマルクスの
「資本の過剰生産」論である。筆者は、かつて、『資本論』第3部「主要草
稿( Hauptmanuskript)」の筆写ノ−ト1)を利用する機会を得て、マルクス

1)この筆写ノ−トは 、アムステルダムの社会史国際研究所蔵の『資本論 』第3部
「主要草稿」を故佐藤金三郎教授がヨ−ロッパ留学中に同研究所に立寄られて筆
写されたものである。筆者は、同筆写ノ−トを具に拝見する機会を得ただけでは
なくて、旧稿を執筆するに際して、同教授の利用に先駆けて(本稿脚注 [34]を見
よ)、同草稿の現行版第15章第3節相当部分を訳出・引用することを許された。
 なお、『資本論』第3部「主要草稿」全体の佐藤教授による紹介は、「『資本論』
第三部原稿について(1)(2)(3)」、『思想』562号、 564号、 580号、1971年4月、6月、

ー7ー

の方法による恐慌論構築にとって最も重要な手掛かりとなるこの問題につい
て叙述部分を詳細に分析し、筆者独自の理解を示すとともに、従来の諸理解
の再検討を行なった2)。しかし、旧稿から10数年経った1993年になってはじ
めて、『資本論 』第3部「 主要草稿 」が、Karl Marx / Friedrich Engels
Gesamtausgabe( 以下MEGA と略記する ), Abt.U, Bd.4, Teil 23)とし
て公刊され、現行『資本論』第3部での問題箇所がはじめてオリジナルに近
い形で分析・検討できるようになった。その結果 、今日の時点から見ると、
旧稿での分析は、未発表草稿の筆写ノ−トを利用したために4)、そしてそれ

1972年10月を参照せよ。
2)拙稿「マルクスの『資本の過剰生産』規定について−『 資本論 』第3部第3篇
第15章第3節の分析を中心にして−」、『経済学雑誌 』第79巻第4号、1979年3
月。
3)Karl Marx , Ökonomische Manuskript 1863- 67, in : Karl Marx / Friedrich
Engels Gesamtausgabe ( MEGA ) , Abt. U, Bd. 4, Teil 2, 1992 [ 実際には
周知のように1993年],Dietz Verlag. 以下この書をKapitalと略記する。 引用に
際しては,引用箇所を,引用文直後にKapital の引用ページと,それに対応する
MEW『資本論』((Karl Marx,Das Kapital,MEW,Bd.25,
Dietz Verlag, Berlin, 1964)およびその邦訳( 岡崎次郎訳『資本論 』大月書
店,国民文庫版(6) )の引用ページを次のように略記して示す。例,( Kapital,
221; MEW, 1974; 訳,234 )。なお、訳文については 、現行版と「 主要草稿」
との異同が理解しやすいように、現行版『資本論』の訳文をベ−スにして、原文
が異なる場合だけ新たな訳文を当てた。
4)故佐藤教授は、当時、日本における『資本論』草稿の最も有能な解読者ではあっ
たが、しかし、氏の筆写ノ−トにも幾つかの解読上の不備が見られた。たとえば、
旧稿において理論的に注目すべき叙述箇所として引用した「現実の資本の過剰生
産は、ここで考察されたものとはけっして同じものではなく、それと比べてみれ
ば 、相対的なものにすぎない 。 D. wirkliche Ueberproduction v. Capital
[?] ist nie identisch mit der hier betrachteten,sondern ist sie betraー
chtet nur eine relativen」という文章においても、 ? 部分は解読不可能の
ままにされていたし、文章末尾の「relativen」も「relative」となるべきものが
筆写ノ−トでは「relativen 」となっていたりした。これ以外にも、重要な叙述
部分でありながら解読上問題があると判断されたたため、旧稿では引用・利用しな
かった部分が存在した。それは、「(この相対的過剰人口の減少は、それ自身すで
に恐慌の一契機である。というのは、それは、うえで考察された資本の絶対的過
剰生産の場合に近づくからである。Die Abnahme dieser relative Surpluspoー
pulation ist selbst schon ein Moment der Crise, indem sie den eben betー
rachteten Fall der absoluten Ueberproduction von Capital näher rückt. )」
という叙述部分であり 、佐藤教授の筆写ノ−トでは末尾部分が rückt と推定さ
れていたが、解読に確信が持てないと言われていた。後で述べるように、この部
分の解読・確認が、今回旧稿の再検討を必要ならしめた大きな理由の一つである。

ー8ー

にもまして筆者の性急な理解に起因して、不十分・不適切な点を含んでいる
ことが明らかになった。
 そこで、本稿では 、MEGA に発表されはじめて一般に参照する機会を
得た『資本論』第3部の「主要草稿」を利用して、同草稿・第3章「資本主
義的生産の進展につれての一般的利潤率の傾向的低下の法則」の 221〜242ペ
−ジ部分(現行版の第15章に対応する部分)、とりわけ231〜237ペ−ジ部分
(第15章第3節の対応する部分)におけるマルクスの「資本の過剰生産」論
を再度詳しく分析・検討し、併せて旧稿での不十分・不適切な点をできうる
限り補足・訂正したいと考える。
ところで、本稿において同じ問題を再度論じる意義を明らかにするために
は、旧稿での筆者の初発の問題意識を再確認しておいたほうが良いであろう。
以下、少しばかり紙幅をとって旧稿での論述を振り返り、そこでの分析・理
解の限界点を明らかにしたうえで、本稿で得た新たな視角での議論へと進ん
でいくことにしよう。

U.問題の所在
 旧稿での筆者の問題意識は、現行版『資本論』第3部第3篇第15章第3節
におけるマルクスの「資本の絶対的過剰生産」論をめぐる相対立する諸見解
が共有する或る重要な『資本論』理解に対する根本的な疑問に発していた。
その事情を以下詳しく述べることにしよう。
マルクスの「資本の絶対的過剰生産」論に関する有力な見解として、宇野
弘蔵氏を中心とする人々の次のような見解を挙げることができよう5)。すな
わち、「資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには資
本の絶対的過剰生産があるわけであろう。しかし、資本主義的生産の目的は
資本の増殖である。……だから、労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、


5)このような立場からの恐慌論に関する主要な著作として、次のようなものがある。
宇野弘蔵『恐慌論』、岩波書店、1953年、大内力『農業恐慌論』、有斐閣、1954年、
大内秀明『景気と恐慌』、紀伊国屋書店、1966年、伊藤誠『信用と恐慌』、東京大
学出版会、1973年。

ー9ー

この人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余労働時間も
拡張できないようになれば、……つまり増大した資本が、増大する前と同じ
かまたはそれより少ない剰余価値量しか生産しなくなれば、そこには資本の
絶対的過剰生産が生じるわけであろう」(MEW,261-262; 訳, 410-411)6)
『資本論』に見られるこのような論述から、宇野氏らは、〔急速な資本蓄積
→ 労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤率低下 → 追加資本を 投下しても利潤
量は増加しないか減少する → 資本過剰]という「恐慌論の基本的規定」7)
を引出し、この命題を中軸にして「恐慌の必然性」を規定し恐慌論の体系化
を行なおうとされた。
 この宇野氏らの見解に対しては、まず次のような異論が展開された。すな
わち、マルクスの「資本の絶対的過剰生産」の説明は、仮定法で行なわれて
おり、「資本の絶対的過剰生産」が現実に生じてくるプロセスを説明したも
のではないという見解8)である。
 たとえば、古川哲氏は次ぎのように言う。「資本の絶対的過剰生産」の説明
においてマルクスは「労賃のみをとり出しそれ以外の条件を一切捨象すると
いう、そのままでは現実には決してありえないような極端な抽象をあえて行
なった」9)。マルクスは「短期的現象としてのそれと長期的傾向現象として

6)因みに、この部分は、『資本論』第3部「主要草稿」では、次のようになってい
る。「資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには資本の絶
対的過剰生産があるわけであろう。しかし、資本主義的生産の目的は資本の価値
増殖である。……だから、労働者人口に比べて増大した資本が増大しすぎて、こ
の人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余時間も拡張できな
いようになれば、……つまり増大した資本が、増大する前の資本と同じかまたそ
れより少ない剰余価値ーーわれわれはここで言っているのは、利潤の絶対的な量
についてであって、利潤の率についてではないーーしか生産しなくなれば、そこ
には資本の絶対的過剰生産が生じるわけであろう」( Kapital, 325-326 ; MEW,
261-262 ; 訳, 410-411−ー引用文中の傍点はMEGAではイタリック体を示す。
以下同じ)。
7)宇野弘蔵、前掲書、189ペ−ジ。
8)宇野氏らのいわゆる資本過剰論に基づく恐慌論に批判的な論者の多くは、これま
で、マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題に対してこのような解釈を下すと
ともに、第15章第1節の「恐慌の究極の根拠」規定にほとんどもっぱら依拠して、
いわゆる商品過剰論の立場に立って恐慌論研究を行なってきた。

ー10ー

のそれとに区別したうえで、短期的現象としてとくにとり上げ、それに『絶
対的』なる限定を付したうえで、労賃−利潤関係以外のすべての要因を捨象
し、そのような特殊な抽象方法によって、資本に特有な資本としての制限に
もとづくあらゆる産業部面全体を包括するところの急激な膨張と突然の収縮
の運動機構のメカニズムの特殊性とその数量条件を純粋・典型的に示し、そ
のことによって、きわめて複雑なる資本過剰化問題解明の、最も簡単で明確
な出発点」10)を与えようとした。「この特殊な目的をもたされた想定は、決
して資本一般の論理中にマルクスが偶然持ちこんだ現実分析の一断片のごと
く受けとられてはならず、この想定のみを取り出して、そこから直接にマル
クスの資本の蓄積過程にたいする現実分析の基本視角などを推論」11)しては
ならない。「資本蓄積→労賃騰貴なる関係以外のすべての要因を捨象したう
えで、『資本過剰化』現象の極限的条件とその運動機構を確定して見せたか
れは、それに続く記述のなかで、一転して労賃騰貴−利潤率低落なる従来の
命題にたいして資本過剰と人口過剰の共存なる命題を鮮やかな対照において
うちたてる」ことによって、「短期的現象としてのそれと長期的現象として
のそれとの質的相違を明らかにした」のが、この「資本の絶対的過剰生産」
なる命題である12)。また、井村喜代子氏は次のように主張された13)。「第
15章が、『資本論』=『資本一般』体系の論理段階に制約されて、資本の絶

9)古川哲「資本の絶対的過剰生産について」、『経済志林』第24巻4号、1956年10
月、91ペ−ジ。
10)同上、94ペ−ジ。
11)同上、94ペ−ジ。
12)同上、98ペ−ジ。
13)マルクスの「資本の絶対的過剰生産」命題に関する井村氏の主な著作・論文と
して、次のようなものがある。@「『資本の絶対的過剰生産』をめぐって」、遊部
久蔵編著『「資本論」研究史』、ミネルヴァ書房、1958年の第2章第4節。A「ギル
マン『利潤率の低落』をめぐって」、『三田学会雑誌』第52巻第1号、1959年1月。
B「生産力の発展と資本制生産の『内的諸矛盾の展開』−『資本論』第3部第3
篇第15章をめぐって−」、『三田学会雑誌』第55巻第4号、1962年4月。C「利
潤率の傾向的低落の作用−第3部第3篇第15章の理解を中心として−」、『資
本論講座』4、青木書店、1964年。D「『商品過剰論』と『資本過剰論』との区
分の誤りについて」、『一橋論叢』第87巻第2号、1982年2月。E『『資本論』の
理論的展開』、有斐閣、1984年。

ー11ー

対的過剰生産を、急速なる蓄積の進展 → 労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤
率急落、という系列を仮定して説明するにとどまっており、現実に資本の絶
対的過剰の必然化するプロセスを明らかにしていない」14)。「資本の絶対的過
剰の必然化する過程を、仮定法によらずに、理論的に解明することは、今後の
恐慌論研究に課せられた大きな課題である 」15)。以上の古川 ・ 井村両氏
の批判は、第15章では他の諸要因をすべて捨象して、急速なる蓄積の進展→
労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤率急落という要因のみによって「資本の絶
対的過剰生産」の生じてくるプロセスが説明されているが、そのためその説
明は非現実的なものになっている、したがって「資本の絶対的過剰生産」が
生じてくるプロセスをこのような極端な「仮定」・「極端な抽象」によらずに
―― [賃金騰貴 → 利潤率急落 ] という要因以外の 現実的な要因によって
―― 理論的に解明することが今後の課題である 、というものである。
 宇野氏の見解に対する第2の異論は、富塚良三氏のそれである16)。「搾取
度低落による資本過剰については、従来、『実現』の問題に関する基本命題に
のみ依拠してそれを事実上全く無視する伝統的思考と、逆にそれのみによっ
て恐慌の必然性の論定がなされうるとする『実現』の理論を欠如した見解と
の、対極をなす二様の見解がおこなわれてきたのであるが、それらはいずれ

14) 井村論文B、31ペ−ジ。 15) 井村論文@、142-143ペ−ジ。 16)『資本論』第3部第3篇第15章の恐慌論に関連する諸命題をめぐる富塚氏の主要
な著作・論文として、次のようなものがある。 @「 再生産論と恐慌論−恐慌論
ノ−ト−」、『商学論集 』(福島大学)第20巻第4号 、1952年3月。A「利潤率
の傾向的低下の法則と恐慌の必然性に関する一試論」、『商学論集』(福島大学)第
22巻第5号、194年2月。B「資本蓄積と『利潤率の傾向的低落 』 − 『法則 』の
論証、意義、その作用形態−」、『経済評論』1960年6月。後に『恐慌論研究』、
未来社、1962年に所収。C「『利潤率の傾向的低下法則』と恐慌の必然性」、経済
理論学会編『労賃と利潤率』、青木書店、1961年。これは、@に幾つかの加筆・修
正を加えたものに、「利潤率の傾向的低落過程と『内在的矛盾の開展』」(経済理
論学会第2回大会、1960年5月の報告要旨を加えたもの。後に『 蓄積論研究 』、
未来社 、1965年に所収。 D『恐慌論研究』、未来社、1962年E「資本制生産の
内的諸矛盾の開展」、『資本論講座』4、青木書店、1964年。F「恐慌論体系の構
成――諸説の批判的検討を通じて――」、吉原泰助編『講座資本論の研究 』第3
巻、青木書店、1982年。

ー12ー

も一面的であり、マルクスの本来の論旨に即したものとはいえない」17)。第
15章「第3節の論述のすべてを、特殊的局面を設定してのたんなる『例解』
にすぎぬとし、もって資本の資本としての過剰の契機を無視ないしは否定す
るのは、マルクスの本来の論旨に即した読解ではない」18)。「資本の絶対的過
剰生産」は「『資本の過剰生産=過剰蓄積』の云わば極限として設定」19)
れたものであって、それは、「資本制蓄積にとって極限状況であるとしても、
必ずしも仮想的な局面ではない」20)。「『資本の絶対的過剰生産』だけから、
恐慌の必然性を導き出すことはできないようにおもわれる。……『実現』の
問題側面を全く捨象して論ずるならば、賃金の資本制的限界をこえての昂騰
による・『資本の絶対的過剰生産』が帰着するのは、実は、『蓄積(=新投資)
の衰退』ないしは『停頓』であってそれ以上のものではない」21)。したがっ
て、「資本の絶対的過剰生産」の命題のみによって「恐慌の必然性」を論定
することはできないのであって、「恐慌の究極の根拠」と「資本の絶対的過
剰生産」、この両者は「資本制的生産の内的矛盾がとる二様の対極的表現・
同じ矛盾の楯の両面」22)であり、この両者に立脚してはじめて「恐慌の必然
性の基礎的論定があたえられる」23)、と。 以上見られるように、 富塚氏は、
宇野氏の言う[急速な資本蓄積 → 労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤率低下
→ 資本過剰 ]というプロセスによって「資本の絶対的過剰生産」が生じる
ということ、「資本の絶対的過剰生産」は「仮想的な局面」ではなく「資本
の過剰生産」の「極限状況」として現実に発生する事態であるということを
認めると同時に、しかし「資本の絶対的過剰生産」だけに依拠して「恐慌の
必然性」を論定することができないことを主張されたのである。
以上が、宇野氏らのいわゆる資本過剰論と、それに対する代表的な論者に

17)富塚論文E、272ペ−ジ。
18)同上 。
19)富塚論文@、81ペ−ジ。
20)富塚、前掲書D、146ペ−ジ。
21)同上、156ペ−ジ。
22)同上、151ペ−ジ。
23)同上、152ペ−ジ。

ー13ー

よる異論・見解である。これらの「資本の絶対的過剰生産」論をめぐる諸見
24)は、――マルクスの「資本の絶対的過剰生産」」論を 、現実に生じうる事
態の説明であると見るのか、それとも、現実には決して生じ得ない「仮想的
な局面」の説明であると見るのかという解釈の違いがあるにせよ――筆者の
見るところ、重要な或る一点で共通する『資本論』理解を前提にしているよ
うに思われる。それはこうである。現行版『資本論』第3部第3篇第15章第
3節の叙述全体を通してマルクスが主題としたものは、のちに詳しく分析す
るように「現実の資本の過剰生産」論であるにもかかわらず、論者の多くは、
この肝心のマルクスが主題としている「 現実の資本の過剰生産 Die wirkー
liche Ueberproduction von Capital 」25)論を不思議にも事実上無視して、

24)「資本の絶対的過剰生産」命題に関説した文献で、旧稿(「マルクスの『資本の
過剰生産』規定について」)以後の主要なものとして、次のものがある。逢坂充
『再生産と競争の理論』、梓出版社、1984年所収の9論文。同「人口の過剰と資本
の過剰の経済学−競争論の展開のために−」 、 『経済研究』(一橋大学)第38
巻第1号、 1987年1月。大野和「『商品過剰論』と『資本過剰論』の『統合』問題
について」、『金融経済』221号、1987年4月。玉垣良典「商品の過剰と資本の過
剰」、金子ハルオ他編『経済学における理論・歴史・政策』、有斐閣、1978年。同
「『商品の過剰と資本の過剰』再論−富塚良三氏の所説を中心に−」、『専修経
済学論集 』第13巻第2号 、1979年3月。岡田裕之「 恐慌の複合モデル−資本過
剰と商品過剰−(上)(中)(下)」、『経営志林』第16巻第2号、第3号、第4号、
1979年7月、 1979年11月 、1980年3月。濱内繁義「『実現』問題と資本の絶対的
過剰生産」、『佐賀大学経済論集』第12巻第2号、1979年11月。姫野教善「『資本
論』第3巻第3篇第15章を論拠とした対立的恐慌論の問題について」『商経論集』
(北九州大学 )第15巻第1号、1979年8月。同「資本の絶対的過剰生産と資本の
過剰生産」、同上誌第21巻第4号、1986年3月。同「資本の過剰と人口の過剰」、
同上誌第24巻第2号、1988年10月。同「商品の過剰と資本の過剰 」、同上誌第24
巻第4号、1989年3月。同「二種類の資本過剰論と恐慌 」、同上誌第26巻 第1 ・
2号、1990年10月。渡辺廣二「人口の過剰に伴う資本の過剰」、『経済科学 』(名
古屋大学)第28巻第1号、1980年9号。中野元「 資本の絶対的過剰生産規定の意
義と限界」、『経済論究』(九州大学) 54号、1982年4月 。高木彰「資本の過剰と
資本の価値破壊」、『経済学会雑誌 』第14巻第3・4号 、1983年2月 。藤井速実
「資本の絶対的過剰生産の成立機構 」、『東京経大学会誌』134号、1983年12月。
小松善雄「 資本の過剰生産と恐慌の現実性(上)、(下)−『61ー63年草稿』「資
本と利潤」の章第7節を中心に−」、『 立教経済学研究』第40巻第2号、第3号、
1986年9月、1987年1月。
25)この用語は、現行版『資本論』第3部第3篇第15章第3節の第14パ ラグラフと第
15パラグラフの間に存在しながら、エンゲルス編集によって省略された文書中
に存在する用語である。「さて 、 現実の資本の過剰生産Die wirkliche Ueberー

ー14ー

第15章第3節の内容全体をもっぱら「資本の絶対的過剰生産」論だけもっ
て語り、この「資本の絶対的過剰生産」論の「利用価値」の有無や恐慌論へ
の具体化の方法を問うという議論を展開してきたのである。その結果、論者の
間で見解が分かれるのは 、「 資本の絶対的過剰生産 」命題の完全無視か、
部分「利用」か、それとも全面「利用」かという点だけであり、また、「資
本の絶対的過剰生産」発生のプロセスを説明する際の条件(マルクスの場合
は[急速な資本蓄積 → 労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤率低下 → 資本過
剰])を修正するのか、修正しないのかという点だけであったように思われる。
旧稿では筆者は 、このような問題状況を打破するために 、現行版『資本
論』第3部第3篇第15章第3節の内容を、草稿筆写ノ−トを利用しつつ、詳
しく検討し 、マルクスがそこで全体として明らかにしようとたものは「 資
本の絶対的過剰生産」ではけっしてなくて、「現実の資本の過剰生産」なる
概念であって、その概念がどのような規定内容をもった概念であるのかとい
うことを草稿の叙述の即して分析・解明しようとした。さらにその分析結果
を踏まえて、「恐慌の究極の根拠」命題がマルクスの方法に沿った恐慌論を
構築する際の最重要命題であることを是認・前提したうえで、そうした命題
と対立しないマルクスの資本過剰概念としての「現実の資本の過剰生産」論
を、「資本の絶対的過剰生産」論との対比で浮き上がらせ、析出しようとし
た。しかもそれら全体を通じて、現行版『資本論』第15章全体の主題が何か
ということを明らかにしようとした。

V.『資本論』第3部第3章における2つの資本過剰論
『資本論』第3部「主要草稿」の第3章末尾の叙述に即して見る限りかぎり、
マルクスは、明らかに、2つの、明確に区別されるべき資本過剰概念(「資
本の絶対的過剰生産」および「資本の過剰生産」[ 正確には「現実の資本の


production von Capital は、ここで考察された ものとけっして同じものではな
く、それと比べてみれば、相対的なものにすぎない」(Kapital,329)。旧稿での
主張は、後で詳しく見るように、エンゲルス版『資本論』で省略されたこの記述
に強く依拠して展開された。

ー15ー

過剰生産」])を説明しているということ、本稿における筆者の基本的な考え方
である。以下、『資本論』第3部「主要草稿」の叙述に即して、この2つの
資本過剰概念の内容を明らかにすることにしよう。
(1)まず、「資本の絶対的過剰生産」を見ることにしよう。
『資本論』第3部「主要草稿」第3章においてマルクスは、「資本の絶対
的過剰生産」なる概念を次ぎのように説明している。
@「個々の商品の過剰生産ではなく資本の過剰生産(=資本の過多)(と
いっても資本の過剰生産はつねに商品の過剰生産を含んでいるのだが)の意
味するものは、資本の過剰蓄積以外のなにものでもないのである。この過剰
生産がなんであるを理解するためには 〔 それについてのもっと詳しい研究
は、利子資本等々、信用等々がさらに展開される資本の現象的運動の考察に
属する〕、それを絶対的なものと仮定してみさえすればよい。どんな場合に
資本の過剰生産は絶対的なのだろうか? しかも 、あれこれの生産領域とか
二つ三つの重要な生産領域とかに及ぶのではなくその範囲そのものにおいて
絶対的であるような、したがってすべての生産領域を包括するような、過剰
生産は?/資本主義的生産を目的とする追加資本がゼロになれば、そこには
資本の絶対的過剰生産があるわけであろう。しかし、資本主義的生産の目的
は資本の価値増殖である。すなわち、剰余価値、利潤の生産であり、剰余労
働の取得である。だから、労働者人口に比べて増大した資本が増大しすぎて、
この人口が供給する絶対的労働時間も延長できないし相対的剰余時間も拡張
できないようになれば(相対的剰余時間の拡張は、労働に対する需要が大き
くて、したがって賃金の上昇傾向が大きいような場合にはどのみち不可能で
あろうが)、つまり増大した資本が、増大する前の資本と同じかまたはそれ
より少ない剰余価値――われわれはここで言っているのは、利潤の絶対的な
量についてであって、利潤の率についてではない――しか生産しなくなれば、
そこには資本の絶対的過剰生産が生じるわけであろう 。すなわち 、もとの
C+ΔC が P(もしこれがCによて生産された利潤の総計とすれば)だけ
か、または、P −хしか生産しないであろう。どちらの場合にも一般的利潤

ー16ー

率のひどい突然の低下が起きるであろうが、今度は、この低下をひき起こす
資本構成の変動は、生産力の発展によるものではなく、可変資本の貨幣価値
の増大と、これに対応する可変資本に対象化されている労働にたいする剰余
労働の割合の減少とによるものであろう」( Kapital, 325-326; MEW,261-
262;訳,410-411。引用文中の/印は改行を表わす。以下同じ)。
A「ここで設けた極端な前提のもとでさえ、資本の絶対的過剰生産は、け
っして絶対的な過剰生産ではなく、けっして生産手段の絶対的な過剰生産で
はないのである。それが生産手段の過剰生産であるとはいって、ただ、生産
手段が資本として機能しなければならず、したがってまた生産手段がその量
の膨張につれて膨張した価値に比例してこの価値の追加的な増殖を含んでい
なければならず、生みださなければならないような生産手段の過剰生産であ
るにすぎない。/それは過剰生産であろう。なぜならば、資本は、資本主義
的生産過程の『健全な』、『正常な』発展が必要とするような搾取度、すなわ
ち少なくとも充用資本量の増大につれて利潤量を増加させるような搾取度で、
したがって資本の増大に比例する利潤率の低下 (C+ΔC−P+0)または資
本の増大よりも急速でさえある利潤率の低下(C+ΔC26)−P−х)を排除す
るような搾取度で、労働を搾取することはできないからである」(Kapital,
329;MEW,265-266;訳,417)。
 以上@Aの引用文から、われわれは、「資本の絶対的過剰生産」概念を次
のようなものであると考えることができよう。
 第1に、「資本の絶対的過剰生産」は、「あれこれの生産領域とか二つ三つ
の重要な生産領域とかに及ぶのではなくその範囲そのものにおいて絶対的で
あるような、したがってすべての生産領域を包括するような、過剰生産」で
ある。ここで言う「絶対的過剰生産」とは、「すべての生産領域を包括する
ような、過剰生産」という意味である。
 第2に、「資本の絶対的過剰生産」は、「資本主義的生産を目的とする追加

26)旧稿で紹介した際は、佐藤教授の筆写ノ−トに忠実に従って「ΔD」としたが、
今回公刊された草稿では「ΔC」となっている。

ー17ー

資本がゼロ」なるような事態である。第1の要件を加味すると、「すべての
生産領域」において「追加資本がゼロになる」(資本蓄積がストップする)
ということである。
第3に、「資本の絶対的過剰生産」は、「労働者人口に比べて増大した資本
が増大しすぎて……」発生する。したがって、「資本の絶対的過剰生産」は、
あとで見る人口過剰を伴う「現実の資本の過剰生産」の場合と違って、資本
蓄積に比べて労働者人口が 不足することによって生じるということである。
第4に、「資本の絶対的過剰生産」は、「増大した資本が、増大する前の資
本と同じかまたはそれより少ない剰余価値――われわれはここで言っている
のは、利潤の絶対的な量についてであって、利潤の率についてではない――
しか生産しなくなれば」に発生する。生産力の発展→資本の有機的構成の高
度化によって引き起こされる一般的利潤率の低下論(現行版13章が主題とす
る一般的利潤率の低下論)では、「利潤率の低下には利潤量の増加が伴うと
いう法則」(Kapital, 316; MEW,236; 訳, 371)が強調されているが、そ
れに対して、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、一般的利潤率の低下に
伴って社会全体の利潤量が減少することが強調されている。すなわち、「わ
れわれはここで言っているのは、利潤の絶対的な量についてであって、利潤
の率についてではない 」と。これに第1、第2の要件を加味して考えると、
「資本の絶対的過剰生産」においては、「すべての生産領域」において利潤
率が低下し利潤量が減少するのであって、その結果「すべての生産領域」に
おいて追加資本がゼロになるということである。
第5に、「資本の絶対的過剰生産」は「一般的利潤率のひどい突然の低下」
によって引き起こされるが、その低下の原因は、労働の生産力の発展 → 資
本の有機的構成の高度化ではなくて、「可変資本の貨幣価値の増大と、これ
に対応する可変資本に対象化されている労働にたいする剰余労働の割合の減
少」すなわち賃金騰貴にある。「資本の絶対的過剰生産」をひき起こす一般
的利潤率の低下は、生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化に伴う一般
的利潤率の傾向的低下ではなくて、それ以外の原因(賃金騰貴)による「ひ
ー18ー

どい突然の低下」である。ここでは賃金騰貴が「一般的利潤率のひどい突然
の低下」の原因とされているが、それは、資本蓄積に比べて労働者人口が不
足した結果、「資本の絶対的過剰生産」が生じるとされていることと照応す
る。
以上が「資本の絶対的過剰生産」概念の内容である。「資本の絶対的過剰
生産」については 、多くの論者がそれを現行版『資本論 』第3部第3篇第15
章第3節の唯一の「主題」であるかのように取扱ってきたが、さきに述べた
ように、われわれは「資本の絶対的過剰生産」を同節の唯一の「主題」であ
るとは考えない。たしかに、マルクスは同節の多くの紙幅を費やして「資本
の絶対的過剰生産」を説明しているが、しかし、それは、「資本の絶対的過
剰生産 」を説くことだけを本来の目的にしていたものではない 。それは、
「極端な前提」のもとにこの概念を説明することによって、対比的に、それ
とは異なる概念内容をもった「資本の過剰生産」すなわち「現実の資本の過
剰生産」を『資本論』の論理次元が許す範囲内で――「資本の一般的分析」
たる『資本論』の論理段階で与えることができるのは一般的・抽象的規定に
すぎず、「もっと詳しい研究は、……資本の現象的運動の考察に属する」も
の(Kapital,325; MEW,261 ; 訳, 410)とマルクスは考えていた――明ら
かにしようとする目的をもっていたと考える。このようなわれわれの解釈は、
本稿の引用文Dの「現実の資本の過剰生産は、ここで考察されたものとけっ
して 同じものではなく 、それと比べてみれば 、相対的なものにすぎない。
( Die wirkliche Ueberproductionvon Capital nun ist nie identisch
mit der hier betrachteten, sondern ist gegen sie betrachtet nur
eine relative.)」(Kapital,329)という叙述に、その根拠の一つを求める
ことができよう。ところが、この文章は、不思議なことに、エンゲルス編集
の現行版『資本論』では完全に削除されている。この削除行為はエンゲルス
編集の最大の謎の1つであると言っても過言ではなかろう。
(2)そこで、以下、この「現実の資本の過剰生産Die wirkliche Ueberー
production von Capitalは、ここで考察されたものとけっして同じもので
ー19ー

はなく、それと比べてみれば、相対的なものにすぎない」という叙述を手掛
りにして 、マルクスのもう一つの「資本の過剰生産」概念 、すなわち「現実
の資本の過剰生産 」なる概念を草稿の叙述の即して析出することにしよう。
問題に関係していると思われる叙述を少し広く採って、概念内容の分析をす
ることにしよう。
B「生産力が発展すればするほど、ますますそれは消費関係が立脚する狭
い基礎と矛盾してくる。このような矛盾に満ちた基礎のうえでは、資本の過
剰が相対的過剰人口の増大と結びついているということは、けっして矛盾で
はない。なぜなら、両者をいっしょにすれば、生産される剰余価値の量は増
大するであろうとはいえ、まさにそれとともに、この剰余価値が生産される
諸条件とそれが実現される諸条件とのあいだの矛盾が増大するからである」
Kapital,313;MEW,255;訳,401)。
C「このような資本の過多は、相対的過剰人口を刺激するのと同じ事情か
ら生じるものであり、したがって相対的過剰人口を補足する現象である。と
いっても、この2つのものは互いに反対の極に立つのであって、一方には遊
休資本が立ち、他方には遊休労働者人口が立つのであるが」(Kapital,325;
MEW,261;訳,410)。
D「さて、現実の資本の過剰生産 Die wirkliche Ueberproduction von
Capitalは、ここで考察されたものとけっして同じものではなく、それと比
べてみれば、相対的なものにすぎない。/資本の過剰生産は、資本として機
能できる、すなわち与えられた搾取度での労働の搾取に充用されうる生産手
段――労働手段および生活手段――の過剰生産以外のなにものでもない。与
えられた搾取度でというのは、この搾取度の一定の点以下への低下が、資本
主義的生産過程の撹乱と停滞 、恐慌と資本の破壊をひき起こすからである。
このような資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うというこ
とは、けっして矛盾ではない。(この相対的過剰人口の減少は、それ自身す
でに恐慌の一契機である。というのは、それは、うえで考察された資本の絶
対的過剰生産の場合に近づくからである。)労働の生産力を高くし、生産物
ー20ー

(商品)の量を増やし、市場を拡大し、資本の蓄積(それの素材の大きさか
ら見ても価値の大きさから見ても)促進し、利潤率を低下させた事情、その
同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしてい
るのであって、それが過剰資本によって充用されないのは、それが労働の低
い搾取度でしか充用できないからであり、または少なくとも、与えられた搾
取度のもとでそれが充用されるであろう利潤率が低いからである」(Kapital,
329-330;MEW,266;訳,417-418)。
E「資本が外国に送られるとすれば、それは、資本が国内で絶対に使えな
いからである。それは、資本が外国ではより高い利潤率で使えるからである。
しかし、この資本は、就業労働者人口にとっても、またその国一般にとって
も、絶対的な過剰資本である。この資本は、そのようなものとして、過剰人
口と並んで存在する。そして、これは、この両者が相並んで存在し互いに制
約し合っている一つの例にすぎない」(Kapital,330; MEW,266; 訳,418)。
F「他方、蓄積に結びついた利潤率の低下は必然的に競争戦を呼び起こす。
利潤量によって利潤率の低下を 埋め合せるということは 、ただ社会の総資
本について、また確立した大資本家についてだけ存在するのである。新たな
独立して機能する追加資本 にとってはこのような 補償は与えられていない
…… 。…… 利潤率の低下が諸資本間の競争戦をひき起こすのであて、その
逆ではない。もちろん、この競争戦は労賃の一時的な上昇を伴い、またこの
事情のためにさらにいっそう利潤率が 一時的に低下することを伴っている」
(Kapital,330;MEW,266-267;訳,418)。
G「現存の人口と比べて多すぎる生活手段が生産されるのではない。逆で
ある。住民大衆に十分な人間的な満足を与えるにはあまりにも少なく生産さ
れるのである。/人口中の労働能力のある部分を就業させるには多すぎる生
産手段が生産されるのではない。その逆である。」(Kapital,331;MEW,
268;訳,420)。
H「労働者の搾取手段としてある特定の利潤率で機能させるには多すぎる
労働手段や生活手段が周期的に生産されるのである。商品に含まれている価
ー21ー

値+剰余価値を資本主義的生産によって与えられた分配条件と消費関係との
もとで実現して新たな資本に再転化させることができるためには、すなわ
ち、この過程を絶えず爆発なしに遂行するには、多すぎる商品が生産される
のである。/多すぎる富が生産されるのではない。しかし、資本主義的な対
立的な諸形態にある富としては多すぎる富が周期的に生産されるのである」
Kapital,332;MEW,268;訳,421)。
I「利潤率、すなわち増加の割合は、すべての新たな独立して群をなす資
本の若枝にとって重要である 。そして利潤の量によって率を埋め合わせるこ
とができる小数の既成の大資本の手中でしか資本形成が行なわれなくなれば、
およそ資本形成を活気づける火が消えてしまうであろう」 ( Kapital , 332-
333;MEW,269;訳,422)。
以上が、「現実の資本の過剰生産」に関連すると筆者が考える『資本論』
の叙述箇所である 。これらを踏まえながら 、マルクスの説明しようとした
「現実の・相対的な資本の過剰生産」なる概念の内容を推定する作業を行な
うことにしよう。
まず第1に、「現実の資本の過剰生産は……相対的なものにすぎない」と
述べているが、その意味は、「現実の資本の過剰生産」とは、「すべての生
産領域を包括するような過剰生産」ではなくて、その範囲そのものにおいて
「相対的」であるような「資本の過剰生産」であるという意味であろう。マ
ルクスが「資本の絶対的過剰生産」とは「あれこれの生産領域とか二つ三つ
の重要な生産領域とかに及ぶのではなくその範囲そのものにおいて絶対的で
あるような、したがってすべての生産領域を包括するような、過剰生産」で
あると説明しているのであるから、彼の言う「絶対的」とは「すべての生産
領域を包括する」という意味であり、これと対比的に考えるならば、ここで
言う「相対的」とは、すべての生産領域を包括する「過剰生産」ではなくて、
その範囲そのものにおいて「相対的」であるような「過剰生産」という意味
でなければならない。
第2に、「現実の資本の過剰生産」は、「資本の絶対的過剰生産」とは逆
ー22ー

に、「労働者人口に比べて増大した資本が増大しすぎて」発生するのではな
くて、人口過剰のもとで・人口過剰を伴って生じるのである。このような概
念規定は、引用文Bの「資本の過剰が相対的過剰人口の増大と結びついてい
るということは、けっして矛盾ではない」という叙述や、引用文Cの「資本
の過多は 、相対的過剰人口を刺激するのと同じ事情から生じるものであり、
したがって相対的過剰人口を補足する現象である」という叙述や、引用文D
の「 資本の過剰生産が多少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、
けっして矛盾ではない」という叙述や、引用文Eの「この資本〔絶対的な過
剰資本――松尾〕は、そのようなものとして 、過剰人口と並んで存在する」
という叙述によって明らかである。
 第3に、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、「労働者人口に比べて……
資本が増大しすぎて」資本過剰が発生するため利潤率の低下・利潤量の減少
の原因は賃金騰貴にあるとされているが、これと対比的に「現実の資本の過
剰生産」の場合には、「資本の過剰が相対的過剰人口の増大と結びついてい
る」状況のもとに発生するのであるから、利潤率低下の主因は理論的には賃
金騰貴にあるはずがない。マルクスは、「資本の過剰生産が多少とも大きな
相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。……労働の生
産力を高くし、生産物(商品)の量を増やし、市場を拡大し、資本の蓄積を
(それの素材の大きさから見ても価値の大きさから見ても)促進し、利潤率
を低下させた事情 、その同じ事情が相対的過剰人口を生みだしたのであり、
また絶えず生みだしている」と説明しており、この説明から容易に次ぎのよう
な推定をすることができよう。すなわち、「現実の資本の過剰生産」の議論
で想定されている利潤率の低下は、究極的には、相対的過剰人口を生みだし
たのと同じ事情(労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化)に起
因していると推論することができよう。しかし、『資本論』第3部「主要草
稿 」の第3章では 、労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化に
起因する利潤率の低下は 、「一般的利潤率の傾向的低下の法則 Gesetz des
tendentiellen Falls der Allegemeinen Profitrate」として論じられてい
ー23ー

るだけであって、資本蓄積の一局面・「資本の現象的運動」の問題としては
論じられてはいない。したがって、この両者の関係をどう考えるのかが、わ
れわれに残された課題である。「現実の資本の過剰生産」発生の究極的な原
因として「一般的利潤率の傾向的低下の法則」が考えられているにもかかわ
らず、この「法則」がどのように現象・作用し、この「法則」が当の「現実
の資本の過剰生産」の発生にどのように関与しているのかが、なお不明なの
である。マルクスは、「それについてのもっと詳しい研究は、……資本の現
象的運動の考察に属する」と簡単に言ってのけて呉れてはいるが。
第4に、「資本の絶対的過剰生産」は「すべての生産領域を包括するよう
な過剰生産」であり、「すべての生産領域」・社会的総資本において追加資本
がストップするとされている。しかし、「現実の資本の過剰生産」とは、「す
べての生産領域を包括するような過剰生産 」ではなくてその範囲が「 相対
的」であるような過剰生産であり、「すべての生産領域」において追加資本
がストップする訳ではない。このことはマルクスの次の叙述からも明らかで
ある。「いわゆる資本の過多はつねに本質的には、利潤率の低下が利潤の量
によって償われない資本(そして新たに形成される資本の若枝はつねにこれ
である)に過多に、または、このようにそれ自身で自立する能力ない資本の
扱いを大きな事業部門の指導者たちに(信用の形で)任せる過多に、関連し
ている」(Kapital,325; MEW,261; 訳,410)、「利潤量によって利潤率の
低下を埋め合せるということは 、ただ社会の総資本についてだけ 、また確
立した大資本家についてだけ存在する」( Kapital, 330; MEW, 266; 訳,
418)、「新たな独立して機能する追加資本にとってはこのような補償は与え
られていない」(Kapital,332-333; MEW,269; 訳,422)、「利潤の量によ
って率を埋め合わせることができる小数の既成の大資本の手中でしか資本形
成が行なわれなくなれば、およそ資本形成を活気づける火が消えてしまうで
あろう」(Kapital,332-333;MEW,269;訳,422)。
「利潤量によって利潤率の低下を埋め合わせる」ことができるのは、「社
会の総資本」と「確立した大資本」・「小数の既成の大資本」だけである。そ
ー24ー

れに対して、「新たに形成される資本の若枝」や「新たな独立して機能する
追加資本」は 、必ずしもこの「埋め合わせ」は保障されている訳ではない。
この「埋め合わせ」が「小数の既成の大資本」においてしか行なわれなくな
れば、「資本形成を活気づける火が消えてしまう」と述べているところから
分るように、「小数の既成の大資本の手中」においてだけ追加資本が行なわ
れうる状況――つまり「すべての生産領域」において追加資本がストップし
てしまっている訳ではない状況――になれば、社会全体として「資本形成を
活気づける火が消えてしまう」のである。したがってこれを逆に考えれば、
「現実の資本の過剰生産」の状況下でも、一方では、「埋め合わせ」が可能
な「確立した大資本」・「小数の既成の大資本」が存在し、そこでは追加資
本投資・資本蓄積が行なわれるが、他方では、そのような「埋め合わせ」が
保障されていない「新たな独立して機能する ・ 新たに形成される資本の若
枝」が存在し、そこでは追加資本投資・資本蓄積がストップしているという
状況が存在するのである。したがって、現状が「資本の過剰生産」の状況に
あるとしても、直ちに全資本において追加資本がストップするという訳では
なくて、少なくとも前者の契機が勝っているあいだは、「資本形成を活気づ
ける火が消えてしまう」といえる状況にはなく、事態が進行して後者の契機
が勝るようになった結果、社会の総資本の「小数の既成の大資本」のもとだ
けで資本形成が行なわれるようになれば 、そこではじめて 社会全体として
「資本形成を活気づける火が消えてしまう」といえる状況になるという訳で
ある。これが、マルクスの「現実の資本の過剰生産」認識である。
第5に、「資本の絶対的過剰生産」の場合には、利潤率が低下するだけで
はなくて、利潤の絶対量も減少するとされている。これに対して、「現実の
資本の過剰生産」の場合には、利潤率が低下するが利潤量は増大し、全体と
して後者が前者を「埋め合わせる」とされている。マルクスが「利潤量によ
って利潤率の低下を埋め合せるということは 、ただ社会の総資本について、
また確立した大資本家についてだけ存在する」と述べているところから分る
ように、彼は「現実の資本の過剰生産」のもとでは社会全体として「利潤量
ー25ー

によって利潤率の低下を埋め合せる」ことが可能であると見ているのである。
また、そもそも「現実の資本の過剰生産」に関与する利潤率の低下は、究極的に
は、労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化に起因するとマルク
スは考えているのであるが、このような一般的利潤率の傾向的低下に伴って
「社会資本によって取得される利潤の絶対量は増大しなければならない」と
いう「蓄積および生産の法則」( Kapital,293; MEW,229; 訳,359 )が存
在する 、というのがマルクスの基本的な立場である。この立場から考える限
り、「現実の資本の過剰生産」の状況下では、利潤率の低下に伴って利潤量
は増加するのである。
とはいえ、「現実の資本の過剰生産」論においてマルクスにとって最も重
要な問題は 、利潤率の低下に際して利潤量は増大するということではない。
マルクスが「現実の資本の過剰生産」とは何かということを説明する際最も
重視していることは、利潤の量が増大することではない。その証拠に、「現
実の資本の過剰生産」概念を説明する際、マルクスが、利潤率や労働の搾取
度について幾度も言及しながらも 、利潤量の増減問題には一切触れていない
のである。
「資本の過剰生産は、資本として機能できる、すなわち与えられた搾取度
での(zu einem gegebnen Exploitationsgrad)労働の搾取に充用されうる
生産手段――労働手段および生活手段――の過剰生産以外のなにものでもな
い。与えられた搾取度でというのは、この搾取度の一定の点以下への低下が、
資本主義的生産過程の撹乱と停滞、恐慌と資本の破壊をひき起こすからであ
る。……それ〔相対的過剰人口――松尾〕が過剰資本によって充用されない
のは、それが労働の低い搾取度でしか充用できないからであり、または少な
くとも、与えられた搾取度のもとでそれが充用されるであろう利潤率が低い
からである」(Kapital,330; MEW,266; 訳,417-418)。「資本が外国に送
られるとすれば、それは、資本が国内で絶対に使えないからである。それは、
資本が外国ではより高い利潤率で使えるからである。しかし、この資本は、
就業労働者人口にとっても、またその国一般にとっても、絶対的な過剰資本
ー26ー

である」(Kapital,330; MEW,266; 訳,418)。「労働者の搾取手段として
ある特定の利潤率で( zu einer gewissen Rate des Profits )機能させる
には多すぎる労働手段や生活手段が周期的に生産されるのである」(Kapital,
332;MEW,268;訳,421)。
これらの叙述によって分るように、マルクスは、「現実の資本の過剰生産」
とは、ある時点において「与えられた搾取度」や「特定の利潤率」で充用す
るには多すぎる生産手段が生産されることであり、搾取度や利潤率が「一定
の点以下」へ低下すれば資本主義的生産の撹乱や恐慌が起こる、ということ
を力説しているのである。その際、利潤量が減少するのではなくて社会全体
としてはむしろ増加するという問題に、「資本の絶対的過剰生産」の時ほど
読者の眼を引こうとはしていない。これは、明らかに「資本の絶対的過剰生
産」の説明とまったく異なっていると言えよう。言い換えれば、「資本の絶
対的過剰生産」の場合には、利潤率の低下に伴って利潤量が減少するという
ことが規定の最重要な問題になっていたのに、「現実の資本の過剰生産」の場
合には、その逆に利潤量が増大するにしても、それは概念規定の中心的な契
機ではなくて、あくまでも利潤率が低下するということが概念規定の中心を
なしており、利潤率が「一定の点以下」へ低下すれば「撹乱と停滞、恐慌と
資本の破壊」が引き起こされるということが、マルクスにとって最も重要な
論点をなしているのである。
第6に、すでに、「現実の資本の過剰生産」論で想定されている利潤率低
下は究極的には労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化に起因す
るものであるということを指摘したが、しかし、だからと言って、「現実の
資本の過剰生産」が、労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化に
起因する利潤率の低下と同じように「傾向的法則」として現象するというこ
とを意味する訳ではない。「現実の資本の過剰生産」は、たしかに「主要草
稿」第3章「資本主義的生産の進展につれての一般的利潤率の傾向的低下の
法則」という大テ−マのもとに論じられてはいるが 、しかし、マルクスは、
「現実の資本の過剰生産」を長期的・傾向的現象と考えていた訳ではけっし
ー27ー

てない。その証拠に、「現実の資本の過剰生産」概念を説明する文章中に次
のような文言が見られる。すなわち「労働者の搾取手段としてある特定の利
潤率で( zu einer gewissen Rate des Profits )機能させるには多すぎる労
働手段や生活手段が周期的に生産されるのである。 …… /多すぎる富が生
産されるのではない。しかし、資本主義的な対立的な諸形態にある富として
は多すぎる富が周期的に生産されるのである」( Kapital, 332; MEW,268;
訳,421。下線は引用者によるもので、以下同じ )。マルクスは「現実の資本
の過剰生産」 が゙「周期的に」発生するものとして説明しているのは 、明白で
ある27)。だが、「現実の資本の過剰生産」が第3章「資本主義的生産の進展
につれての一般的利潤率の傾向的低下の法則」という大テ−マのもとに論じ
られていたということと、マルクスが「現実の資本の過剰生産」を長期的・
傾向的現象と考えていた訳ではけっしてないということ、この両者の関係を
どのように考えれば良いのかという問題が残るのである。
第7に、引用文Bは現行版『資本論』第3部の第15章第1節の「恐慌の究
極の根拠」規定末尾の叙述であるが、ここでマルクスが述べようとしている
ことは、「恐慌の究極の根拠」とされるいわゆる「生産と消費の矛盾」の展
開過程において、「相対的過剰人口の増大」を伴う「資本の過剰」化が進展
する、ということである。同主旨の表現が第15章第3節でも見られる。 「労
働者の搾取手段としてある特定の利潤率で機能させるには多すぎる労働手段
や生活手段が周期的に生産されるのである。商品に含まれている価値+剰余
価値を資本主義的生産によって与えられた分配条件と消費関係とのもとで実
現して新たな資本に再転化させることができるためには、すなわち、この過
程を絶えず爆発なしに遂行するには、多すぎる商品が生産されるのである」
Kapital,332 ; MEW,268; 訳,421 )。ここでは、第1文章で「現実の資

27)古川哲氏は、「資本の絶対的過剰生産」を「短期的な資本の過剰現象」(古川、
前掲論文、85ペ−ジ)であり、「絶対的なものと仮定」されない「資本の過剰生
産」−マルクスの言う「現実の資本の過剰生産」−を「長期的現象としての資
本過剰」(同上、99ペ−ジ)であるという区別をされているが、しかし、そのよ
うな理解は、『資本論』の叙述による限り、正しくないと言わざるをえない。

ー28ー

本の過剰生産」が説明されたあと、何の注釈もなく、続く第2文章でさきの
「恐慌の究極の根拠」規定と同じ内容のことが述べられている。これらの論
述から、「相対的過剰人口の増大」を伴う「資本の過剰生産」は、「恐慌の究
極の根拠」規定と対立的な規定であるどころか、両者は、マルクスにとって、
同じ「資本主義的生産様式の矛盾」を規定したものであるということが分る。
マルクスは、『資本論』第3部第3章末尾(現行版第15章部分 )において、
資本蓄積の進行・労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化 → 一
般的利潤率の傾向的低下の進展過程において種々の諸現象(「資本主義的生産
過程の撹乱と停滞、恐慌と資本の破壊」)の根拠をなす「恐慌の究極の根拠」
や「現実の資本の過剰生産」などの問題を順次論じることによって 、「資本
主義的生産様式の矛盾」の本質を明らかにしようとしたのである。
(3)以上が、旧稿においてわれわれが析出した、マルクスの「資本の絶対的過
剰生産」概念および「現実の資本の過剰生産」概念である。これらの分析結
果を踏まえて、旧稿おいて筆者は、冒頭で見た従来の諸見解に共通する問題
点を指摘するために次のような批評を加えた。
「『資本の絶対的過剰生産』の叙述をめぐる… 議論においては、『絶対的
なものと仮定して』考察された『資本の過剰生産」、すなわち『資本の絶対的
過剰生産』、の叙述のみを取り出して、それをどのように解釈し評価するか
ということに問題の焦点がおかれ、もっぱらこの点をめぐって多くの議論が
行なわれてきた。そのため、第15章第3節全体でもてマルクスが明らかに
しようとした肝腎の概念、すなわち『絶対的なものと仮定』されない『資本
の過剰生産』−マルクスによれば、この『相対的な』『資本の過剰生産』こ
そが『現実の資本の過剰生産』である――が、これまでの議論においては、
無視ないしは軽視されるか、あるいは、誤った捉え方をされるかしてきたよ
うに思われる」28)。『資本論』第3部第3篇第15章第3節の内容を検討するこ
とによって、われわれは、「『恐慌の究極の根拠』規定と対立しない資本過剰
概念」29)をそこに見出すことができるのである。「第一に,『資本の過剰生産』

28)松尾、前掲論文、36ペ−ジ。

ー29ー

と 、『恐慌の究極の根拠』規定とは 、 どちらも,『資本主義的生産様式の制
限』あるいは『資本主義的生産様式の矛盾 』を捉らえようとしたものあり、
第二に、恐慌論の体系化を行なおうとする場合、『恐慌の究極の根拠』規定
だけに依拠して、『資本の過剰生産』規定を無視ないしは軽視することも許
されないし、また、それとは逆に、後者だけに依拠して、前者の規定を無視
ないしは排除することも許されないであろう」30)。「われわれのこのような主
張は、富塚氏のそれとまったく違うものである。われわれの場合には、『現
実の』,『相対的な』「資本の過剰生産』規定と『恐慌の究極の根拠』規定と
の両方に依拠して、恐慌論の体系化が行なわれるべきであると考えられてい
る。これに対して、富塚氏の場合には、――『現実の』、『相対的な』『資本の
過剰生産』の概念内容を明らかにするためにマルクスが『極端な前提』をお
いて想定したにすぎない――『資本の絶対的過剰生産』規定と『恐慌の究極
の根拠』規定との両方に依拠して、恐慌論の体系化が行なわれるべきである
とされているのである」31)
旧稿における以上の主張は、『資本論』第3部「主要草稿」の第3章にお
けるマルクスの主題は、「資本の絶対的過剰生産」という概念ではなく、そ
れとは明確に区別されるべき「現実の資本の過剰生産」という概念であると
いうことを、確認しようとしたものであり、『資本論』第3部「主要草稿」
におけるマルクスの本意を明らかにするうえで一定の意義を持ち得たと考え
る。それゆえ、逢坂充氏からも、旧稿での分析・主張に対して、直ちに次の
ような望外の評価を得た。「松尾純氏は、従来の『過剰資本』論がマルクス
の『資本の絶対的過剰』の規定にもっぱら拘泥しすぎた嫌いがあることに疑
問を投げかけ、マルクス自身が自ら提示した仮定的規定とは別個に、それと
は違った内容を持つ『過剰資本』を『資本の絶対的過剰生産』概念として構
想していたことを示唆されて、『過剰資本』論の真の問題を次のように指摘

29)同上、36ペ−ジ。
30)同上、49ペ−ジ。
31)同上、49ペ−ジ。

ー30ー

されている。/……/氏の論稿は、マルクスの『資本の絶対的過剰』の論理
と性格を丹念に検討しながら、それとは異なる本来の『過剰資本』論の所在
に理論的展望を拓いた点で、従来の『過剰資本』論の枠を超克しようとする
野心的労作である」32)。「われわれは、まず氏が本来の『過剰資本』概念を、
『労働の生産力の発展 → 資本の有機的構成の高度化』という論理線上に沿
って把握されようとする着想には賛意を表したい」33)
しかしながら、旧稿での筆者は、率直に言って極端な考え方に立っていた。
すなわち、それは、「資本の絶対的過剰生産」との対比分析によって漸く摘
出された「現実の資本の過剰生産」に依拠してこそ恐慌論の体系化が可能で
あって、けっして「資本の絶対的過剰生産」規定に依拠して恐慌論の体系化
を行なうべきではない、という考えである。言い換えれば、『資本論』第3
部「主要草稿」第3章ではせっかく2つの資本過剰概念が対比的・対立的に
説明されているにもかかわらず、恐慌論の体系化を行なう場合、一方の「資
本の絶対的過剰生産」論を排除して、他方の「現実の資本の過剰生産」論に
依拠して議論の展開を図るべきであると主張していたのである 。 ところが、
このような筆者の考え方は、『資本論』第3部「主要草稿」でのマルクスの叙
述に忠実に沿って考える限り、一部修正されなければならないようである。
草稿分析から析出されたマルクスの「現実の資本の過剰生産」概念は、恐慌
論の体系化において十分な意義を有しているし、また、恐慌論の展開に際し
てより一層の展開が行なわれなければならない概念であることは確かである
が、しかし、他方の、筆者が旧稿で最終的に葬り去ろうとした「資本の絶対
的過剰生産」概念も、マルクスの叙述に忠実に従う限り、恐慌論の体系化に
おいて無視されるべき概念ではなくて、「現実の資本の過剰生産」論との関
連をも含めて、その意義が十分再検討されるべき概念であることが、今回の
『資本論』第3部「主要草稿」の公刊によって判明したのである。以下、そ

32)逢坂充「過剰資本と利潤率低下の法則(下)――『資本論』第3部第3篇第15章と
何か――」、『経済学研究』( 九州大学 )第45巻第4・5・6号 、1980年7月(の
ちに逢坂、前掲書に所収される)、219ペ−ジ。逢坂,前掲書、217ペ−ジ。
33)同上論文、225ペ−ジ。同上書、219ペ−ジ。

ー31ー

の事情を見ることにしよう。

W.マルクスにおける「資本の絶対的過剰生産」論の意義
旧稿執筆に際して筆者は、実は、佐藤金三郎教授の『資本論』草稿第3部
「主要草稿」筆写ノ−トによって今回問題とするマルクスの叙述(「マルクス
の注意書き 」)の存在を不完全な形ではあるがすでに知っていたが 、今回
公刊された『資本論』第3部「主要草稿」によってはじめてその「正確な」
内容を改めて確認することができた34)。その結果、うえで述べたように、旧
稿での見解に一定の修正を加えなければならないことが判明したのである。
そうした判断を促した最大の原因は、草稿中のマルクスの次のような「注
意書き」である。それは、引用文Dの「現実の資本の過剰生産」説明文中に
存在するにもかかわらず、エンゲルスによって省略された文章(下線〜〜を
付した箇所)である。「さて、現実の資本の過剰生産は、ここで考察された


34)筆者は、旧稿執筆中、『資本論』第3部「主要草稿」の重要部分(その中心は引
用文Dの冒頭文章)を佐藤教授の筆写ノ−トから引用する許可を得るために、同
教授に引用箇所およびその主旨について説明したが、その際、同教授は今回問題
とする「(この相対的過剰人口の減少は、それ自身すでに恐慌の一契機である。
というのは、それは、うえで考察された資本の絶対的過剰生産の場合に近づくか
らである。 Die Abnahme dieser relative Surpluspopulation ist selbst schon
ein Moment der Crise ,indem sie den eben betrachteten Fall der absoluten
Ueberproduction von Capital näher rückt. ) 」という叙述の存在を指摘し、
「この文章をいかに理解するのか」と詰問された。しかし、その当時、筆写ノ−
トでは上述のように文章末尾の「 rückt 」が未解読のまま残されていたため、ま
た、筆者の「資本の絶対的過剰生産」排除説的な考え方が災いして同教授の忠告
を受入れる余裕がなかった。 以来気掛かりになってはいたが、 問題の叙述の意義
を十分検討せずにいた。
  ところが、この文章は同教授にとってその後気掛かりであったようである。と
いうのは、佐藤教授の遺著『「資本論」研究序説』(伊東光晴編集)岩波書店、
1992年のための自筆執筆プランや、書店編集部との相談の上作成された同著書執
筆最終プランには、生前中の既発表論文や報告テ−マに関連する項目と並んで、
「資本の絶対的過剰論について」という項目が見られるからである(同書 、vi,
viii)。残念ながら、生前中に佐藤教授はこの項目に係わる論文発表や研究報告を
行なっていないので、遺著『「資本論」研究序説』の内容目次では一切登場しな
い。しかしながら、教授は生前『資本論』草稿中の問題の記述を指差しながら筆
者にマルクスの「資本の絶対的過剰生産」論について熱心に語られてたことがある
という事実だけは、ここに紹介しておきたい。

ー32ー

ものとけっして同じものではなく、それと比べてみれば、相対的なものにす
ぎない。/資本の過剰生産は、資本として機能できる、すなわち与えられた
搾取度での労働の搾取に充用されうる生産手段――労働手段および生活手段
――の過剰生産以外のなにものでもない。与えられた搾取度でというのは、
この搾取度の一定の点以下への低下が、資本主義的生産過程の撹乱と停滞、
恐慌と資本の破壊をひき起こすからである。このような資本の過剰生産が多
少とも大きな相対的過剰人口を伴うということは、けっして矛盾ではない。
この相対的過剰人口の減少は、それ自身すでに恐慌の一契機である。とい
うのは、それは、うえで考察された資本の絶対的過剰生産の場合に近づくか
らである。Die Abnahme dieser relative Surpluspopulation ist selbst
schon ein Moment der Crise, indem sie den eben betrachteten Fall
der absoluten Ueberproduction von Capital näher rückt.)労働の生
産力を高くし、……利潤率を低下させた事情、その同じ事情が相対的過剰人
口を生みだしたのであり、また絶えず生みだしている」(Kapital,329-330;
MEW,266;訳, 417-418)。
引用文中のマルクスの「注意書き」を読んで直ちに分ることは、「相対的過
剰人口の減少」は「恐慌の一契機」であり、それは即ち「資本の絶対的過剰
生産」である、ということである。旧稿での主張は、宇野氏に代表される見
解――すなわち「資本の絶対的過剰生産」の論述から[ 急速な資本蓄積 →
労働力不足 → 賃金騰貴 → 利潤率低下 → 追加資本を投下しても利潤量は
増加しないか減少する → 資本過剰]という「恐慌論の基本的規定」7)を引
出し、この命題を中軸にして「恐慌の必然性」を規定しようとする見解――
を事実上拒否するものであった。ところが、いわゆる「商品過剰説」に立つ
論者の多くが共有しているこのような主張は、うえに引用したマルクスの「注
意書き」に忠実である限り明確に反駁されているように思われる。マルクス
は、「相対的過剰人口の減少」を伴った資本蓄積によって「資本の絶対的過
剰生産」が引き起こされることを、現実に生じる事柄として認めているので
あって、だからこそ「相対的過剰人口の減少」はそれ自体「恐慌の一契機」
ー33ー

をなす、と述べているのである。しかも、そのような事態こそ「うえで考察
された資本の絶対的過剰生産の場合」であると言明しているのである。マル
クスの「注意書き」をこのように解釈せざるをえないとすれば、このような
マルクスの「注意書き」の存在は、旧稿での筆者の見解に対して根本的な再
検討を迫るだけではなくて、従来の「資本の絶対的過剰生産」命題をめぐる
諸見解に対しても、根本的な再検討を迫っているのではなかろうか。という
のは、旧稿における筆者も含めて、従来論者の多くは、以下に見るような主
張を行なってきたからである。すなわち、
たとえば、井村氏の主張はこうである。「資本の絶対的過剰の必然化する
過程を、仮定法によらずに、理論的に解明することは、今後の恐慌論研究に
課せられた大きな課題である」35)、と。要するに、マルクスの「資本の絶対
的過剰生産」論は「仮定法」によらないで「理論的に解明」されなければ恐
慌論の展開にとって意味がないということである。古川氏も次のように主張
された。「労賃のみをとり出してそれ以外の条件を一切捨象するという、そ
のままでは現実には決してありえないような極端な抽象」36)、「この特殊な目
的をもたされた想定は、決して……現実分析の一断片のごとく受けとられて
はならず、この想定のみを取り出して、そこから直接にマルクスの資本の蓄
積過程にたいする現実分析の基本視角などを推論」37)してはならない。逢坂
充氏はもっと極端に次のように主張された。「 われわれの見解からすれば、
……『資本の絶対的過剰生産』の命題は 、当然ながらこれを否定せざるをえ
ないのであり、… この命題の『安楽往生』を宣告」38)しなければならない
と。姫野教善氏も次のように主張された。「恐慌の必然的・ 理論的導出は、
『資本の絶対的過剰生産』要因によっては断じて不可能であり、それは、ま
さに『資本の過剰生産』によってのみ可能である」39)、と。

35)井村論文@、142-143ペ−ジ。
36)古川論文、91ペ−ジ。
37)同上、94ペ−ジ。
38)逢坂「人口の過剰と資本の過剰の経済学−競争論の展開のために−」、2ペ
−ジ。

ー34ー

  これらの見解(残念ながら、旧稿での筆者もこれらの中に含まれる)の本
格的な再検討は紙幅の関係で次稿に譲らざるをえないが、その作業と並行し
て次稿以後において考察されるべき、「資本の絶対的過剰生産」に関するより
本質的な問題を指摘して、本稿を閉じることにしよう。
本稿での分析によって分ったことは、マルクスの記述に忠実に沿って恐慌
論の体系化を図るとすれば、マルクスの2つの資本過剰概念のうち、どちら
かを採用して、どちらかを排除するという訳にはいかない。一方の「現実の
資本の過剰生産」概念は、『資本論』第3部「主要草稿」第3章後半の「主
題」であり、他方の「資本の絶対的過剰生産」概念は、本来の「資本の過剰
生産」を説明するために「極端な前提」のもとに説明された「仮想的な状況」
ではなくて「恐慌の一契機」をなしうる「現実的な状況」であると、 いうこ
とが判明したのである。これまで相互排他的概念と考えられてきたこれら2
つの概念(「現実の資本の過剰生産」と「資本の絶対的過剰生産」)は、いま
や、その両者の関連が明らかにされ、マルクスの恐慌論体系に展開に際して
ともに活かされるべき概念であるということである。とはいえ、 両者の概念
規定のなかには、明らかに相互排除的な関係しか持ち得ない規定が一部含ま

39)姫野「資本の絶対的過剰生産と資本の過剰生産」、44ペ−ジ。筆者には、姫野氏
の議論には相矛盾する2つの見解が存在するように思われる。最近稿の「 二種類
の資本過剰論と恐慌」1990年10月 では次のように述べている。「商品の過剰生産
そのものは 、その原因としての生産資本の過剰生産の必然的な産物にほかならな
い」(同稿、10ペ−ジ)。「『資本の過剰生産』が、このようにして商品の過剰生産
と相対的過剰人口の生産とを惹起せしめ、そして、遂には 、それが恐慌を必然化
せしめる」(同稿、10-11ペ−ジ)。これより10年前の論稿「商品過剰論と資本
過剰論 」1976年8月 では次のように述べていた。「商品過剰に先行する資本過剰
をもって恐慌の必然性の根拠とみなし 、そして、商品過剰はその資本過剰のある
いは恐慌の必然的結果としての全面的現象にすぎないという…… 論理展開を、到
底、容認しえない」(同稿、15ペ−ジ)。「商品の過剰が、資本過剰のあるいは恐慌
の必然的結果ではなくして、まさにそれは逆の関係でなければならない」(同稿、
15ペ−ジ)。「商品の過剰が資本の過剰に先き立って必然的に惹起され、資本の過
剰は 、むしろその商品の過剰という事態 によって露呈される といわざるをえな
い」(同稿、19ペ−ジ)。姫野氏は 、はたして、商品過剰 → 資本過剰という論
理を主張されているのか、それとも、資本過剰 →商品過剰という論理を主張され
ているのか 、筆者には判断がつき難い。 氏がその両方であるというのであれば、
両者の関連を明確にされなければならないはずである。

ー35ー

れているように思われる。「資本の絶対的過剰生産 」は[ 急速な資本蓄積
→ 労働力不足 → 賃金騰貴 ]から導き出されるのに対して、「 現実の資本
の過剰生産」の方は[資本蓄積 → 相対的過剰人の累進的生産]を伴いつつ
発生するとされており、両者は概念的に対立せざるを得ないのである。この
ように、2つの概念には相互排除的な規定も一部含まれてはいるが、『資本
論』草稿執筆時のマルクスの意に忠実に沿って考えれば、恐慌論の体系化に
際して両者はどうにかしてともに活かされるべき概念である。とすれば、両
概念は、相互にどのような内容と関連を持つ概念として規定されなければな
らないのか、いまや再検討にされなければならない。稿を改めて、これらの
問題を考えなければならない。
(まつお じゅん/経済学部教授/1994年9月9日受理)

ー36ー

[要約]→[『資本論』第3部第3篇第15章第3節の論述に関しては、従来
もっぱら「資本の絶対的過剰生産」論のみが取上げられ議論されて
きたが、そこでの主題は「現実の資本の過剰生産」論であると旧稿
では主張したが、その後『資本論』第3部「主要原稿 」全文が公刊
され、「資本の絶対的過剰生産」は現実に生じうる事態であり「恐慌
の一契機」をなすとマルクスは考えていたことが判明した。]