『経済経営論集』(桃山学院大学)第35巻第3号、1993年12月発行

  

『資本論』第3部「第1草稿」における利潤率低下法則論の形成

 

松尾 純

 

T.は じ め に

 かつて1)、われわれは、1857ー58年草稿2) および 1861ー63年草稿3)におけ
るマルクスの利潤率低下法則論をめぐる議論、 とりわけ彼による法則の論証
と定式化を詳しく分析・検討することによって、以下のことを明らかにした。
まず、 1857ー58年草稿では、 労働の生産力の発展につれて剰余価値率がい
かに上昇するかという法則を詳しく考察し、その法則の意義・内容を十分把
握することができたいてにもかかわらず、マルクスは、剰余価値率一定・不
変を前提したうえで、もっぱら、労働の生産力の発展につれて「生きた労働

1)拙稿「利潤率低下法則論の形成過程」(1)(2)(3) 、『経済学論集』(桃山学院大学 )第
25巻4号、第26巻第3号、第4号、1984年3月、12月、1985年3月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie ( Manuskript 1857/58 ),
in : Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe ( MEGA ), Abt.U, Bd. 1,
Teil 1,1976; Teil 2,1981, Dietz Verlag. 引用に際しての訳文は 、資本論草稿
集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する )@A 、大月
書店 、1981, 1993 年 に従う 。引用に際しては 、引用 箇所を 、引用文 直後に
MEGA の引用ページ と 草稿集の引用ページを 次のように略記して示す。 例、
(Manuskript1857/58,1974;草稿集@234)。
3)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie ( Manuskript 1861-63 ),
in : Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe ( MEGA ), Abt. U, Bd.3,
Teil 1, 1976; Teil 2,1977 ; Teil 3,1978; Teil 4,1979; Teil 5,1980; Teil 6,
1982, Dietz Verlag. 以下この書をMEGAと略記する 。引用に際しての訳文は、
Teil 1〜5 部分については 、資本論 草稿集 翻訳委員会訳『 マルクス資本論草稿
集』CDEFG、大月書店、1978,1980,1981,1982,1984年 に従う。 引用に際しては、
MEGA,Abt.U, Bd.3,Teil 1-5 については、引用箇所を、引用文直後にMEGA
の引用ページと草稿集 の引用ページを次のように略記して示す。例 、( MEGA,
1974;草稿集C234)。

ー5ー

と交換される資本〔部分〕の、不変価値として存在する資本部分にたいする
比率」(Manuskript 1857/58, 621;草稿集A555)が減少するという側面だ
けから利潤率の低下を論証しようとしているだけであって、 剰余価値率が上
昇する場合に利潤率がはたして低下するのかどうかという点については少し
も検討を加えていない。
また、1861ー-63年草稿中の草稿「第3章 資本と利潤」では 、労働の生産
力の発展に伴う剰余価値率の上昇という要因を法則の論証過程に直接取入れ
たうえで問題の考察を行っている。すなわち、労働の生産力の発展に伴って
不変資本に対する可変資本の割合が減少すれば、たとえ同時に剰余価値率が
上昇しても、利潤率が低下せざるをえないということを論証しようとしてい
る。ただし、そこでの論証方法を詳しく見てみると、次の2つの方法が採ら
れている。すなわち、第1の方法は、われわれが旧稿において「限界」論と
名づけた方法であって、生産力の発展とともに剰余価値率が上昇すれば「一
定の限界内においてだけ」(MEGA,1638;草稿集G155)利潤率の低下が阻
止されうるが、しかし生産力の発展の結果不変資本に対する可変資本の割合
がその「限界」を越えて減少すれば、剰余価値率の上昇による利潤率低下阻
止がやがて不可能になる、したがって利潤率が低下せざるをえないというこ
とをもって法則を論証しようとする方法である。これに対して、第2の方法
は、われわれが旧稿において「不均等発展」論と名づけた方法であって、生
産力の発展は労働者の消費する生産物を直接・間接に生産するいろいろな生
産部門の間で不均等に発展するという事実認識から、剰余価値率の上昇率が
不変資本に対する可変資本の割合の低下率に及ばないということを明らかに
し、それを根拠にして利潤率の低下を論定しようとする方法である。この方
法は、剰余価値率の上昇率と不変資本に対する可変資本の割合の低下率とを
直接対比・対決させ、前者が後者に及ばないということを明らかにするもの
であって、第1の方法で利潤率が上昇しうる余地を残した「限界」内におい
てさえ利潤率が低下せざるをえないことを論定しようとする方法である。
これら2つの方法は 、1861ーー63年草稿中の草稿「第3章 資本と利潤」部
ー6ー

分にはじめて登場して以後、1861-63年草稿中の「5.剰余価値に関する諸学
説」( 以下「諸学説」と略記する)部分の随所に登場し 、漸次彫琢されてい
くことになる。 この「諸学説 」部分におけるマルクスの利潤率低下法則を
詳しく分析・ 検討した結果 、次ような事実を指摘することができる。すな
わち 、2つの論証方法のうち 、マルクスが主として依拠していたのは「限
界」論であって、もう一方の方法である「不均等発展」論は前者の方法を補
強・補完するものであるということである。というのはこうである。「諸学
説」では、多くの箇所で利潤率低下法則に関する議論が展開されているが、
そのうち比較的纏まった、本格的な議論が展開されているのは、次の2箇所
である。第1の部分は 、「h.リカ−ド」中の「剰余価値に関するリカ−ド
の理論」と題する部分( 1861-ー63年草稿 ノ−ト]U・ 636〜 ノ−ト]V・
694 ペ−ジ)、とりわけ「利潤率の低下に関する法則」と題する部分(同ノ−
ト]V・673-694ペ−ジ)を中心とする部分であって 、そこには、いわゆる
「限界」論が殆ど存在せず「不均等発展」論(に通ずる論述)のみがわずか
に存在する。それに対して、第2の部分は、「1. 経済学者に対する反対論
(リカ−ドの理論を基礎とする)」中の「4.トマス・ホジスキン『民衆経済
学。ロンドン職工学校における4つの講義』、ロンドン、1827年」と題する
部分の後半(同ノ−ト]X・879-889ペ−ジ)であって、そこでは、マルクス
は、ホジスキンの所説の中に「限界」論を想起させる論理を見つけ出し、そ
れを自説に引き付けて読取る努力を行っており 、その結果 、草稿「第3章
 資本と利潤」と較べてかなり詳細な、そして『資本論』の論証により近い
「限界」論を展開しており、しかもその議論の合間にそれを補強・補完する
かのように「 不均等発展 」論を展開している。もちろん 、後者の議論は、
「剰余価値に関するリカ−ドの理論」と題する部分におけるそれと較べてよ
り立ち入った・より詳しい説明と論理の補強が行なわれている。このように、
草稿「第3章 資本と利潤」にはじめて登場した「 不均等発展 」論および
「限界」論は、その後、「諸学説」の「剰余価値に関するリカ−ドの理論」
部分へ、さらに「4.トマス・ホジスキン… 」部分の後半へと進むにつれて
ー7ー

彫琢され、より詳細な・より立ち入った論証方法へと発展させられていく。
かくして、われわれが次に果たすべき課題は、『資本論』第3部「第1草
稿」4)においてマルクスが利潤率低下法則をどのように論証しようとしてい
るのかを分析・検討することにある。とりわけ、旧稿において分析・検討さ
れた「限界」論および「不均等発展」論が、『資本論』第3部「第1草稿」
のなかでどのような彫琢を受け、どのような運命をたどることになったのか
ということを確認することが中心課題となろう。

U.『資本論』第3部「第1草稿」における法則の論証(1)
――剰余価値率一定・不変の場合――
『資本論』第3部「第1草稿」における利潤率低下法則そのものの論証内
容を分析・検討するまえに、まず現行版『資本論』第3部第3篇第13章に相
当する叙述部分の全体構造を整理しておこう。
『資本論』第3部「第1草稿」のうち、エンゲルス編集によって現行版『資本
論』第3部第3篇第13章に配置された部分は、内容的に見て、大きく3つの
部分に別れている。 第一部分は第3部「第1草稿」第3章の203-207ペ−ジ
Kapital,285-291;MEW,221-226;訳,347-356)、第二部分は第3部「第1
草稿」第3章の207-214ペ−ジ( Kapital,291-301; MEW,226-235; 訳,356
-370)、第三部分は第3部「第1草稿」第3章の225-228ペ−ジ( Kapital,
316-321;MEW,236-241;訳,371-380)である。
第一部分では、 利潤率の低下法則そのものの論証が行われているが 、と
くにその前半部分 、すなわち第3部「第1草稿」第3章の 203-204 ペ−ジ
Kapital,285-287;MEW,221-222;訳,347-359)では、剰余価値率一定・不変


4)Karl Marx, Ökonomische Manuskripte 1863-67 , in : Karl Marx / Friedrich
Engels Gesamtausgabe ( MEGA ), Abt.U, Bd.4, Teil 2, 1992, Dietz Verlag
Berlin. 以下この書を Kapital と略記する。 引用に際しては 、引用箇所を、引
用文直後にKapital の引用ページと 、それに対応するMEW版『資本論』(Karl
Marx, Das Kapital, MEW, Bd.25, Dietz Verlag, Berlin,1964)およびその邦
訳(岡崎次郎訳『資本論』大月書店、国民文庫版(6))の引用ページを次のように
略記して示す。例、(Kapital,221;MEW,1974;訳,234)。

ー8ー

を仮定して、資本主義的生産様式の発展とともに資本の有機的構成が高度化
すれば、利潤率が低下せざるをえないという法則の論証が行われている。第
一部分の後半、すなわち第3部「第1草稿」第3章の204-214ペ−ジ(Kapital,
287-291; MEW,223-226; 訳,350-356)では、剰余価値率が上昇する場合で
さえ、資本主義的生産様式の発展とともに資本の有機的構成が高度化すれば、
利潤率が低下せざるをえないという法則の論証が行われている。
以上の法則の論証部分に続いて、第二部分では、利潤率低下法則を生みだ
す生産力の発展の二面的作用について説明されている。この部分における典
型的な叙述は、こうである。「生産・蓄積過程の進展につれて、……社会資
本によって取得される利潤の絶対量は増大しなければならないのである。し
かし、この同じ蓄積および生産の法則は、不変資本の量とともにその価値を、
可変資本部分、すなわち生きている労働に転換され交換される資本部分の価
値よりもますます急速に増大させる。こうして、同じ諸法則が、社会資本が
取得する増大する絶対的利潤量 と 低下する利潤率とを生み出すのである」
Kapital,293; MEW,229; 訳,359――引用文中の傍点は原文におけるイタ
リック体を表わす。以下同じ)。「労働の社会的生産力の同じ発展は、資本主
義的生産様式が進むにつれて、利潤率の進行的低下への傾向に表わされると
ともに、取得される剰余価値あるいは利潤の絶対量の不断の増大に表わされ
る」(Kapital,213;MEW,233;訳,366)。「一般的利潤率の傾向的低下を生み
だすその同じ原因が 、…… 資本が取得する剰余労働-剰余価値-利潤の絶対
量……の増大をひき起こすのである」(Kapital,300; MEW,235; 訳,369)。
第三部分は、第二部分の議論に対する付論的部分であるが、その主たる内
容は、「生産力の発展によってひき起こされる利潤率の低下には利潤量の増
加が伴うという法則」(Kapital,316; MEW,236; 訳,371)が個々の商品価
格に関してどのように現われるかという問題の考察である。この部分は 、マ
ルクスの原稿では現行版『資本論』第3部第3篇第15章の第1節の末尾に当
る箇所に存在するが、エンゲルスの編集によって第13章の末尾に移されたも
のである。原稿での本来の位置からいって、またその内容から考えて、この
ー9ー

部分は本稿での分析対象からとりあえず除外することができるであろう。
以上の概観から、本稿で中心的な分析対象とされるべきは第一部分の「法
則そのもの」の論証部分であるということが確認されよう。
ところで、この第一部分の前半部分( Kapital,285 ; Mew,221-226 ; 訳,
347-356 )において、マルクスは、 「法則そのもの」を次のように説明してい
る。
「剰余価値率……は、 不変資本(c)の価値の大きさ 、したがってまた総資
本Cの価値の大きさが増大するにしたがって、 非常に違った利潤率に表わさ
れるであろう。なぜならば利潤率=m/Cだからである 」( Kapital,285;
MEW,221;訳,347)。いま剰余価値率が100%で一定・ 不変とすれば 、@不
変資本c=50、可変資本v=100ならば、利潤率p′=100/150=662/3%、A不
変資本c=100、可変資本v=100ならば、利潤率p′=100/200=50%、B不変
資本c=200、可変資本v=100ならば、利潤率p'=100/300=331/3%、C不変
資本c=300、可変資本v=100ならば、利潤率p′=100/400=25%、D不変
資本c=400、可変資本v=100ならば、利潤率p'=100/500=20%、E不変資
本c=500、可変資本v=100ならば、利潤率p'=100/600=162/3%。「このよう
に、同じ剰余価値率が、……だんだん低くなる利潤率で表わされることにな
るであろう。それは、不変資本の物量が増大するにつれて、……不変資本の
価値量も、したがって総資本の価値量も増大した結果である」(Kapital,286;
MEW,221-222; 訳,348)。「このような資本構成の漸次的変化が、……社会
的資本の有機的平均構成の変化を含んでいるということを仮定すれば、その
必然的結果は、剰余価値率……が変らないかぎり、必ず一般的利潤率の漸次
的低下ということになろう」(Kapital,286; MEW,222; 訳,348。下線は引
用者のもの。以下同じ)。
このように述べた後、第一部分の後半でマルクスは、突然――というのは、
それまで剰余価値率が一定・ 不変という前提のもとでのみ問題を考察してき
ただけで、剰余価値率が上昇する場合の問題の考察を全く行っていないのに
――、次のような結論を下してしまっている。すなわち、「資本主義的生産
ー10ー

は、不変資本に比べての可変資本の相対的減少の進展につれて、総資本のた
えず高くなる有機的構成を生みだすのであって、その直接の結果は、労働の
搾取度が変らない場合には、またそれが高くなる場合にさえも、剰余価値率
は、絶えず下がってゆく一般的利潤率に表わされるということである」(Kaー
pital,287;MEW,223;訳,350)。
これは、マルクスが利潤率低下法則を定式化した文章であるが、下線部分
の「 またそれ[労働の搾取度――松尾 ]が高くなる場合にさえも」という文
言は、ここに至る文脈――剰余価値率が一定・不変という前提のもとでの考
察――だけから判断すれば、突然何の説明や考察もなく挿入されたものであ
り、なぜこの文言をマルクスがここに挿入することができるのかまったく不
明である。そのような文言の挿入、言い換えれば、そのような前提条件の変
更を行いうる理由をマルクスがいまだ正面切って説明することができなかっ
たがゆえに、法則の論証を密かに補強するかのようにこの文言を「密輸入」
したのではないかとさえ邪推されうるのである。
しかし、この文言の有・無は、利潤率低下法則の定立にとって最も肝要な
論点である。なぜマルクスが、このような文言を挿入することができたのか、
そしてまたなぜ正面切って問題提起することなしに突然この文言を挿入した
のか、以下その事情を考えてみよう。

V.『資本論』第3部「第1草稿」における法則の論証(2)
――剰余価値率が上昇する場合を含むーー
(1)剰余価値率が上昇する場合を含めた利潤率低下法則の論証として、われ
われは、まず次のような叙述を『資本論』中に発見する。 引用文@=「充用される生きている労働の量が、それによって動かされる
対象化された労働の量すなわち生産的に消費される労働手段の量に比べてま
すます減っていくのだから、この生きている労働のうち支払われないで剰余
価値に現われる部分も充用総資本の価値量にたいしてますます小さい割合に
ならざるをえないのである。ところが、この、充用総資本の価値にたいする

ー11ー

剰余価値量の割合が利潤率なのであり、したがって利潤率はたえず低下せざ
るをえないのである」(Kapital,287;MEW,223;訳,350)。
この引用文を パラフレ−ズしてみると 、次のようになろう。 すなわち、
「充用される生きている労働の量」とはv+mのことであり、「それによっ
て動かされる対象化された労働の量」とはcのことである。また「生きてい
る労働のうち支払われないで剰余価値に現われる部分」とはmのことである。
そこで、生産力の発展とともに、(v+m)/cが「ますます減って行く」とす
れば、「生きている労働のうち支払われないで剰余価値に現われる部分」の
「充用総資本の価値量」に対する割合〔m/(c+v)〕もますます小さくなっ
ていく。なぜならば、m/(c+v)は明らかに(v+m)/cより小さいからで
あるーーただし、マルクスはこのような推論の理由を述べている訳ではない
ことに留意しなければならない。ところが、このm/(c+v)こそ利潤率な
のである。したがって、資本主義的生産様式の進展・生産力の発展とともに
「利潤率はたえず低下せざるをえない」ということになる、と。これをシェ
−マ化すれば、資本主義的生産の進展→(v+m)/cの低下→m/(c+v)
の低下=p′の低下、ということである。したがって、ここでの論証の特徴
は、「労働の搾取度……が高くなる場合にさえも」という前提条件が論証過
程において一切言及されることなしに、 「 利潤率はたえず低下せざるをえな
い」という結論が導き出されている点にある。1861-63年草稿では、 資本の
有機的構成の高度化と剰余価値率の上昇との直接的な対比・対決という問題
設定のなかでーーすなわち、後者の剰余価値率の上昇が論証過程そのものに
おいて重要な要因として取上げられ分析されることによってーー利潤率低下
問題が解かれていたのであるが、『資本論』からの引用文@では、後者の剰
余価値率の上昇という要因が論証過程で直接取上げられることなしに問題が
解かれている。
この引用文@と同主旨の論証方法をしめす叙述が他にも存在する。
 引用文A=「低下する利潤率に同じ剰余価値率が表わされ、または上昇す
る剰余価値率さえが表わされるという法則は、別の言葉で言えば、ある一定
ー12ー

量の社会的平均資本……をとってみたとき、そのうちの労働手段で表わされ
る部分がますます大きくなって行き、生きている労働で表わされる部分がま
すます小さくなって行くということである。だから、生きている追加労働の
総量がこの生産手段の価値に比べて減って行くのだから、不払部分もそれを
表わす価値部分も前貸総資本の価値に比べて減ってゆくのである 」(Kapiー
tal,290;MEW,225-226;訳,354-355)。
この引用文Aをパラフレ−ズすると、次のようになろう。すなわち、「あ
る一定量の社会的平均資本」のうち「労働手段で表わされる部分」とはcの
ことであり 、「生きている労働で表わされる部分 」とはv+mのことであ
る。そして資本主義的生産の進展ととも、前者がますます大きくなって行き、
後者はますます小さくなって行くとすれば、資本主義の進展とともに「不払
部分もそれを表わす価値部分も前貸総資本の価値に比べて減ってゆく」、つ
まり利潤率m/(c+v)が低下してゆく、と。ここでも、剰余価値率の上昇
という要因が論証過程で直接取上げられることなしに、資本主義的生産の進
展に伴う(v+m)/cの低下から、m/(c+v)の低下を導き出し、そして最
後に利潤率の低下を導き出す、という論証方法が採用されている。
 以上要するに、引用文@およびAでは、資本主義的生産様式の発展ととも
に、(v+m)/cが減少して行くが、それに伴ってm/(c+v)も減少して行
くことになり、したがって利潤率m/(c+v)が低下せざるをえない、とい
う論証方法が述べられている。生産力の発展につれて、m/(c+v)より大
きい(v+m)/cが減少するのであるから、暗に想定される剰余価値率の上
昇による利潤率m/(c+v)の低下阻止作用にはいずれ突当らざるをえない
「天井」・「限界」がある、という訳である。
ところで、剰余価値率の上昇と資本構成の高度化とを直接対比・対決させ
たうえで、前者の要因は後者の要因に及ばない、したがって剰余価値率上昇
の場合でさえも利潤率は低下するという結論を引出す方法は 、1861-63年草
稿で採られていた方法であり、法則の論証それ自体としては厳密な方法であ
ると評価することができるが 、しかし1861ー63年草稿に見られたこの方法は
ー13ー

『資本論』の引用文@Aでは採用されていない。『資本論』では、剰余価値
率の上昇を論証過程において他方の資本構成の高度化と対比・対決させると
いう厳密な方法を採っていないがゆえに、結果として「限界」内において利
潤率が上昇しうる局面・余地があることをを事実上認めるものになっており、
その意味で、『資本論』で採用された方法は、「洗練」されてはいるが、や
や厳密性を欠く論証方法となっていると言えよう。
 なお、現行版『資本論』第3部第3篇第13章に相当する叙述箇所の第一
部分以外の箇所にも、『資本論』第3部「第1草稿」には、引用文@Aと同
主旨の叙述部分が存在する。
 引用文B=「生産力の発展とそれに対応する資本構成の高度化」によって
「個々の商品の価格は下がる。個々の商品に含まれている利潤量は、絶対的
または相対的剰余価値の率が上がれば、増加することがありうる。個々の商
品に含まれている新たにつけ加えられた労働はより少なくなるが 、しかし、
この労働の不払部分は支払部分に比べて増大する。とはいえ、これはただ一
定の限界のなかだけでのことであり、個々の商品のなかの新たにつけ加えら
れる生きている労働の総量の絶対的減少が生産の発展途上で非常に進むのに
つれて、この労働の不払部分の絶対量、すなわち個々の商品のなかに含まれ
ている剰余労働も、たとえ相対的には 、つまり労働の支払部分と比べては、
どんなに増大するとしても、減少するであろう。商品一個当たりの利潤量は、
労働の生産力の発展につれて、非常に減少するであろうし、また同様に剰余
価値率の増大にもかかわらず、利潤率も低下するであろう」( Kapital,316;
MEW,236;訳,371-372)。
 引用文C=「剰余価値率が高くなっても、利潤率は下がるであろう。なぜ
ならば、(1)新たにつけ加えられるより小さい労働の総量のより大きい不払部
分でも、新たにつけ加えられるより大きい労働の総量のより小さい可除不払
部分に比べれば、より小さいからであり、(2)資本構成の高度化は、個々の商
品では、 その商品の価値のうち、すべての新たにつけ加えられた労働を表わ
す部分が原料や補助原料や固定資本損耗部分で表わされる価値部分に比べて
ー14ー

小さくなるということに表わされるからである」( Kapital,317; MEW,236
-237;訳,372-373)。5)
 冗長を避けるためにいちいち分析を加えることは省略するが、これらの箇
所では、明らかに『資本論』特有の法則の論証方法、すなわち引用文@Aと
同種の法則の論証が繰り返されていると言えよう。
 以上の分析によって、『資本論』にも一種の「限界」論が存在することが
明らかになったと言えよう。しかし、少し立ち入ってみれば、それは、草稿
「第3章 資本と利潤」や「諸学説」における「限界」論とはいささかその
論法が違っていた。草稿「第3章 資本と利潤」や「諸学説」では、資本主
義的生産の発展・生産力の発展とともに資本構成が高度化してもそれ以上に
剰余価値率が上昇すれば、利潤率の低下が阻止されうるが、しかしそれが可
能なのは「一定の限度内においてだけであり」、資本構成がその「限度」を
越えて高度化すれば剰余価値率の上昇(とそれに伴う剰余価値量の増大)に
よる利潤率低下阻止が不可能になるということを根拠にして、利潤率の低下
法則を論証しようとしていた。したがって、この方法は、剰余価値率の上昇
による利潤率の低下阻止の作用には「限界」があることを根拠とする方法で
あり、剰余価値率の上昇が論証過程そのものに重要な要因として登場すると
いうことを特徴としている。ところが、さきに見た『資本論』の引用文@A
では、生産力の発展に伴う剰余価値率の上昇という要因が一切論証過程では
直接問題とされずに、生産力の発展に伴う(v+m)/cの減少から、ひとまず
m/(c+v)の減少を導きだしそのうえで、利潤率の低下を論定しようとして
いるのである。したがって、同じ「限界」論とはいっても、その論証のプロ

5)引用文BCには「剰余価値率が高くなっても」とか「剰余価値率の増大にもかか
わらず」という文言が見られるが、そこで示されている法則の論証方法にとって
はこれらの文言は不必要・無関係であるはずである。それにもかかわらず、これ
らの文言が引用文中に存在するのは次のような事情による。すなわち、引用文の
前後でマルクスが論じていることは、労働の生産力が発展すれば、一面では個々
の商品価格は下がり商品一個当たりの利潤量が減少し利潤率は下がるが、他面で
は剰余価値率が上昇するため商品総量にたいする利潤量は増大するという問題で
ある。したがって、マルクスがさきの文言を引用文中に挿入したとしても、それ
はこうした問題関心からいえば当然のことである。

ー15ー

セスはまったく違っていると言えよう。
ところで、『資本論』特有の「限界」論にとって、その萌芽とも思われる
叙述を、われわれは、すでに1861-63年草稿にも見出すことができる。
引用文D=「剰余価値率が同じままでも、またそれが高くなってさえも、
利潤率が低下することを、私は次のことから説明した。すなわち、可変資本
が不変資本にたいしてもつ割合が減少することから、すなわち、生きている
現在の労働が充用され再生産される過去の労働にたいしてもつ割合が減少す
ることから、説明した。……/……私が、蓄積の進行につれて利潤率が低下
するのは、不変資本が可変資本にたいする割合において増大するからである、
というとき、その意味は、資本の諸部分の特定の形態を別にすれば、充用資本
が充用労働にたいする割合において増大するということである。利潤率が下
がるのは、労働者がより少なく搾取されるからではなく、充用資本一般にたい
する割合においてより少なく労働が充用されるからである」(MEGA,1437;
草稿集F381-382――引用文中の/印は段落の切れ目を表わす。 以下同じ)。
引用文E=「[ホジスキンのいう ] 同じ労働者により多くの資本が割り当
たるということは、ただ次のような場合だけ可能である。/第一に。それが
可能なのは、労働の生産力が同じままならば、ただ、労働者が彼の絶対的労
働時間を延長して……労働する場合か、または彼が強度を高めて……労働を
行う場合だけである」(MEGA,1443-1444;草稿集F391)。「第二に。…
労働者の数が同じままでより多くの資本が彼に割り当てられ、したがってよ
り多くの資本が同数の労働者の搾取の増大のために利用され支出されうると
いう場合は、労働の生産性の増大であり、生産方法の変化である。これは不
変資本と可変資本との有機的な割合の変化を条件とする。言い換えれば、労
働に比べての資本の増加は、この場合には、可変資本にたいする関係におい
ての、そして一般に、可変資本によって充用される生きている労働の量にた
いする関係においての、不変資本の増加と同じなのである。/だから、この
場合にはH〔ホジスキン〕の見解は、私が展開した一般的な法則に帰着する
のである。剰余価値、労働者の搾取は、増大するが、同時に利潤率は低下す
ー16ー

る。なぜならば、可変資本が不変資本に比べて減少するからである。つまり、
生きている労働一般の量が、それを動かす資本にたいして相対的に減少する
からである」(MEGA,1446-1447;草稿集F396)。
 これら引用文DEでマルクスが主張していることは、次のようなことであ
る。すなわち、蓄積の進行につれて、「剰余価値率が同じままでも、またそ
れが高くなってさえも、利潤率が低下する」。なぜなら、「生きている現在
の労働が充用され再生産される過去の労働にたいしてもつ割合が減少する」
からである;「充用資本が充用労働にたいする割合において増大する」から
である;「生きている労働一般の量が、それを動かす資本にたいして相対的
に減少するからである」、と。このようにマルクスは、蓄積の進行につれて、
「生きている現在の労働」に対する「充用され再生産される過去の労働」の
割合が増大することから、利潤率の低下を導き出しているが、この種の説明
は、明らかに『資本論』の引用文@Aと同じである。
 ただし、『資本論』の引用文@では、「充用される生きている労働の量」
(=v+m)が「生産的に消費される生産手段の量」(=c)に比べてますます
減っていくということから、直接利潤率の低下を導き出すのではなくて、ひ
とまず「生きている労働のうち支払われないで剰余価値に現われる部分も充
用総資本の価値量にたいしてますます小さい割合にならざるをえない」とい
うこと、すなわちm/(c+v)の低下を導き出し、そのうえで「この、充用
総資本の価値にたいする剰余価値量の割合」こそ利潤率であることを改めて
指摘し、そこから「したがって利潤率はしだいに低下せざるをえないのであ
る」という最終結論を導き出すという手順を採っているが、これに対して、
1861-63年草稿の同主旨の議論( 引用文DE )では 、蓄積の進行につれて
「生きている現在の労働」に対する「充用され再生産される過去の労働」の
割合が増大するということ、すなわち(v+m)/cが低下するということか
ら、いきなり、利潤率は低下せざるをえないという最終結論を導き出すとい
う手順を採っている。要するに、『資本論』では、(v+m)/cの低下から、
一旦それより小さいm/(c+v)を導き出すという回り道をして、そのうえ
ー17ー

で、導き出されたこのm/(c+v)こそが利潤率であることを指摘した後、
したがって利潤率が低下せざるをえないという最終結論を導き出すという論
理の運びになっているのに対して、1861-63年草稿では、(v+m)/cから、
直ちに、利潤率の低下という最終的な結論を導き出すという論理の運びにな
っているのである。6)
 ともあれ、1861―63年草稿の引用文DEの叙述には 、 萌芽的な形であれ、
『資本論』の引用文@Aの論証方法の先取り的議論が展開されていることだ
けは確かなようである。
 一方、逆に、『資本論』には 、1861-63年草稿における論証方法の基調を
なしていた「限界」論の痕跡を示す次のような叙述が存在する。
 引用文F=「充用される生きている労働に関しても生産力の発展はやはり
二重に現われる。/剰余労働の増大に……現われる。第二には、与えられた
資本を動かすために一般に充用される労働力……の減少に現われる。/……
それらは利潤率に対しては反対の方向に作用する。……生産力の発展が充用
労働の支払部分を減らすかぎりでは、それは剰余価値率を高くするので剰余
価値を増大させる。しかし、その発展が、与えられた一資本によって充用さ
れる労働の総量を減らすかぎりでは、それは、……剰余価値率に掛ける因数

6)引用文Dの「私が、蓄積の進行につれて利潤率が低下するのは、不変資本が可変
資本にたいする割合において増大するからである、というとき、その意味は、資
本の諸部分の特定の形態を別にすれば、充用資本が充用労働にたいする割合にお
いて 増大するということである」という叙述部分は、明らかに、「剰余価値率が
同じままでも、またそれが高くなってさえも」という前提条件のもとでの論述で
あるが、しかし、不思議なことに、これに続く叙述では剰余価値率の上昇という
条件は考慮されていない。すなわち、「可変資本と不変資本との割合が一対一だ
と仮定しよう。そうすれば、総資本が1000ならば、cは500でvも500である。剰
余価値率が50%ならば 、500にたいする 50%は50×5=250である。したがって、
1000にたいする利潤率は、利潤が250だから、250/1000=25/100=1/4=25%とな
る。/もし総資本は1000、cは750、vは250ならば、50% [の剰余価値率]では、
250は125を与える。 ところが、 125/1000=25/200=5/40=1/8=121/2 である」
(MEGA,1437-1438;草稿集F382)。 見られるように、資本構成が変化すれば、
利潤率が25%から12.5%へと低下することが説明されているが、剰余価値率が50
%で一定とされている。この説明だけから判断すると、ここでマルクスの念頭に
あったものは、剰余価値率が一定・不変とすれば、資本蓄積に伴う資本構成の高
度化によって、利潤率が低下するという問題である、ということになる。

ー18ー

を小さくする。…… 労働者数[の減少――松尾 ]を労働者の搾取度の増大に
よって埋め合わせることには、ある越えられない限界があるのである。 それ
ゆえ、このような埋め合わせは、利潤率の低下を妨げたり、遅らせたりするこ
とはできるが、しかし、それを解消することはできないのである」(Kapital,
321-322;MEW,257-258;訳,404-405)7)
 ここでは、生産力の発展に伴う剰余価値率の上昇と「与えられた資本を動

7)この引用文Fとほとんど同じ主旨の論述が、すでに草稿「第3章 資本と利潤」
にも見られる。
 「生産力の発展は 二重に現われる。〔第一には〕剰余労働の増大に 、すなわち
必 要労働時間の短縮に、−そして〔第二には〕、資本のうち生きている労働と
交換される成分が、……資本のうち生産にはいってゆく総価値に比べて、減少す
るということに〔現われる〕。……それらは、利潤率が考察されるかぎりでは、
反対の方向に作用する。……生産力の発展が充用労働の必要(支払)部分を減ら
すかぎりでは、それは、剰余価値率を高くするので、……剰余価値を増大させる。
しかし、その発展が、与えられた一資本によって充用される労働の総量を減らす
かぎりでは、それは、剰余価値率に掛ける因数を、したがって剰余価値量を、小
さくする。/……(中 略)……/利潤率が同じままであるためには、…可変資
本の大きさが相対的に減少したり不変資本の大きさが相対的に増加したりするの
と同じ割合で、剰余価値率 ……が増加しなければならないであろう。…このよ
うなことはただ一定の限度ま でしか起こりえないことであって、むしろ反対に、
利潤の低下の傾向は…たとえ経験がこのことをどのように確証しようと、 支配的
になるにちがいないのである。価値のうち資本が新たに再生産しかつ生産してい
る部分は、資本によってその生産物中に直接に吸収される生きている労働時間に
等しい。 この労働時間のうち一方の部分は 労賃に対象化される労働時間を補填
し、もう一方の部分はそれを越える不払超過分、剰余労働時間である。……標準
〔労働〕日は12時間だとすれば、単純労働を行なう2人の労働者はけっして24時
間より多くをつけ加えることはできない……のである。……彼らが生産する剰余
価値はただ24時間のうち一可除部分でしかありえない。……ある与えられた資本
量に比例して古い生産方法では24人の労働者が必要な場合に新たな生産方法では
2人の労働者が必要であるとすれば、また古い生産方法での剰余労働は総労働日
の1/12すなわち1時間に等しいとすれば、生産力の 増進によって−たとえ剰余
労働時間の率がどのように高められるとしても−古い 生産方法で24人の労働者
が生みだしていたのと同じ量の剰余価値を2人の労働者が生みだすということは
起こらない」(MEGA,1637-1639;草稿集G152-155)。
  ここで述べられていることはこうである。すなわち、生産力の発展は、一方で
は、剰余価値率を高めるが、他方では、資本構成を高度化させる。この2つの作
用は、利潤率の変動に対して反対の方向に作用する。しかし剰余価値率の上昇が
利潤率の低下を阻止するにしても「一定の限界」内でのことであり、いずれは利
潤率は低下せざるをえない。というのは、資本構成の高度化と同じ割合で剰余価
値率が上昇すれば、利潤率は同じ水準を維持することができるが、しかしある→

ー19ー

かすために一般に充用される労働力の量……の減少」とを直接対比・対決さ
せたうえで、前者の要因の作用には「ある越えられない限界がある」がゆえ
に、利潤率が低下せざるをえないということが述べられている。したがって、
ここでは、引用文@Aの「限界」論と違って、剰余価値率の上昇と資本構成
の高度化とを直接対比・対抗させたうえで、前者の作用(剰余価値の増大→
利潤率低下阻止)の「限界」を論じるという論法が採られている。
 これとよく似た叙述は他にも存在する。
 引用文G=「利潤率は、資本蓄積とこれに対応する社会的労働の生産力と
に比例して低下し、この生産力は、まさに不変資本に比べて可変資本の相対
的減少の進展に表わされる。もし1人の労働者が以前の10倍の資本を動かす
とすれば、同じ利潤率をあげるためには剰余価値も10倍にならなければなら
ないであろう。そして、やがては、全労働時間が、じつに1日24時間が全部
資本のものにされても、まだそれに足りなくなるであろう。……/剰余価値
と剰余労働との同一性によって、資本の蓄積には一つの質的な限界がおかれ
ている。すなわち、総労働日がそれであり、生産諸力と人口とのそのときどき
の発展がそれであって、この人口は同じときに搾取することのできる労働日
の数の限界となるのである」(Kapital,468;MEW,411-412;訳(7),147-148)。
 ここで論じられていることは、剰余価値率の上昇による剰余価値量の維持
・増大には 、人間の全労働時間が1日 24時間であるという超えことができ
ない「限界」があり、したがって剰余価値率上昇→剰余価値量の増大→資本
蓄積の増進には「一つの質的な限界」がある、という問題である。したがっ
て、ここでは、引用文Fと違って、剰余価値率上昇のもつ作用の「限界」を、
剰余価値・資本蓄積の増進の限界論として論じているのであって、利潤率の
低下問題として論じている訳ではけっしてないのである。
 以上ともかく、われわれは、『資本論 』にも一種の「限界 」論が存在す

→「限度」以上に資本構成が高度化すれば、 剰余価値率の上昇によって剰余価値量
を維持・ 増大させることができなくなるからである 、ということが述べられてい
る。したがって 、ここで述べられていることは 、ほとんどそのまま引用文Fに再
現・コピ−されていると言ってもよいであろう。

ー20ー

ることだけは確認することができたようである。『資本論』の「限界」論は、
剰余価値率の上昇問題を直接論証過程で取上げることなしに利潤率の低下を
導き出すという独特な論述スタイルを採っている。その点で、論理の運びが
「整序」・「改善」されているとも言うことができるが、しかし論理の運びの
「整序」・「改善」が、はたして直ちに論証方法の「改善」あるいは「前進」
となっているかと言えば、必ずしもそうではない。剰余価値率の上昇要因を
論証過程において直接取扱わない方法を採ったがゆえに、のちに触れるよう
に、かえって論証方法の「後退」を引起こすことになったのではなかろうか。

 (2)ところで、1861-63年草稿における論証方法のもう一方の軸をなしてい
た「不均等発展」論については、なぜか『資本論』ではその存在をはっきり
確認することができない。しかし、その痕跡がまったく消滅した訳ではなく、
たとえば 、 それを想起させる次のような叙述を見出すことができる。
 引用文H=「労働の生産力の発展はいろいろな産業部門の間で不等であり、
そしてただ程度から見て不等であるだけではなく、しばしば反対の方向に進
む――というのは、労働の生産力は同じく自然条件とも結びついていて、こ
の自然条件が 、労働の社会的生産性が増大するのと同時に 、生産性が減少
することもありうるからである{ 自然条件が 、社会的生産性の発展とは独
立に 、しばしばこの発展とは対立して 、どの程度労働の社会的生産力に影
響を及ぼすかの全研究は、地代の考察に属する }のだから 、平均利潤(=
剰余価値)は、最も進んだ産業部門での生産諸力の発展から推測することが
できる高さよりもずっと低くならなければならないということになる。いろ
いろな産業部門での生産力の発展がそれぞれ非常に違った割合で進むだけで
はなく、しばしば反対の方向をとるということは、単に競争の無政府性やブ
ルジョア的生産様式の特性だけから生ずるのではない。労働の生産性は自然
条件に結びついているが、この自然条件は、生産性――社会的諸条件によっ
て定まるかぎりでの――が増大するのと同じ割合で生産的でなくなってゆく
こともよくある。そのために、これらのいろいろな部面で反対の運動が起き、
ー21ー

したがって、労働の生産性は、ある部面では増大するが、同時に他の部面で
は減少するのである。」(Kapital,333-334;MEW,270;訳,423-424)。
 すでに旧稿でも指摘したように8) 、そしてまた今回の『資本論 』第3部
「第1草稿」の公刊によって明白になったように、この引用文Hは、明らかに
草稿「第3章 資本と利潤」部分に見られる以下の2つの文章IJからーーす
なわち9行目の「… ということになる。」までは引用文I 、そして9行目
の「いろいろな産業部門……」以下は引用文Jからーー合成されたものであ
ると推定することができる。
 引用文I=「平均剰余価値……は、生きている労働に投ぜられる総資本に
ついて考察された、すべての特殊な生産部門における剰余価値の総額である。
ところで、生産力の発展はいろいろな産業部門……の間で非常に不等であり、
ただ程度から見て不等であるだけではなく、しばしば反対の方向に進む――
というのは、労働の生産性は同じく自然条件とも結びついていて、この自然
条件が、労働の生産性が増大するのと同時に、生産性が減少することもあり
うるからである{自然条件が、社会的な生産性の発展とは独立に、しばしば
この発展とは対立して、どの程度労働の生産性に影響を及ぼすかの全研究は、
地代の考察に属する}――のだから、この平均剰余価値は、個々の産業部門
(きわめて重要な)における生産力の発展から推測することができる高さよ
りもずっと低くならなければならないということになる。 こうしたことは、
また、なぜ、剰余価値率が増大するにもかかわらず、その剰余価値率は可変
資本が総資本に比べて減少するのと同じ割合では増大しないのか、というこ
との主要な理由でもある。このようなことが起こるのは、……ただ、可変資
本が固定資本などに比べて最も大きく減少するようなこれらの産業部門によ
って、それらの部門の生産物が同じ割合で労働者の消費にはいるようにされ
る場合だけであろう」(MEGA,1660-1661;草稿集G188-189)。
 引用文J=「生産力が、労働者の消費用の生産物を直接または間接につく

8)拙稿「利潤率低下法則論の形成過程」(2)、『経済学論集』(桃山学院大学)第26
巻第3号、1984年12月、71-72ペ−ジ。

ー22ー

るすべての産業部門で均等に増進するとすれば、ただその場合にだけ、剰余
価値の増大する割合と生産力の増進する割合とは一致することができるであ
ろう。しかし、このようなことはけっして起こらない。生産力は、これらの
いろいろな部門で、非常に違った割合で増進する。これらのいろいろな部面
では反対の運動さえもしばしば起こるのであり――(それは、一部は、競争
の無政府性とブルジョア的生産様式の独自性とから生じ――一部は、労働の
生産力が自然条件に結びついていることから生じるのであって、この自然条
件は、生産性が社会的諸条件によって定まるかぎり、この生産性が増大する
のと同じ割合で生産的でなくなってゆくことがよくある−)、したがって、
労働の生産性は、ある部面では増大するが、同時に、他の部面では減少する
のである。……それだから、全体の平均的な生産性の増大は、こうした増大
がいくつかの特殊な部面で現われるのに比べれば、また、こうした増大が今
まで、その生産物が労働者の消費にはってゆく主要な産業部門の一つ……農
業で現われていたのに比べれば、無条件にいつでもずっと小さい。他面では、
数多くの産業部門における生産力の発展は、労働能力の生産に、したがって
相対的剰余価値の生産に、直接にも間接にも影響を及ぼさない。……/それ
だから、剰余価値の増大は、〔第一に〕特殊な諸部門における生産力の増大
にはけっして比例しないし、第二にまた、いつでも、あらゆる産業部門(し
たがってまた、その生産物が直接にも間接にも労働能力の生産にはいってゆ
かない諸部門)における資本の生産力の増大よりも小さいのである」(MEー
GA,1664-1665;草稿集G195-196)。
 最初の引用文Hで述べられていることは、労働の生産力の発展が産業諸部
門間で不均等に進むし、また自然条件が労働の生産性の発展の足をひっぱる
ことがよくあるので、「平均利潤(=剰余価値)」――これは、引用文Iの冒
頭における「平均剰余価値」の説明を参考にすると、社会的・平均的な剰余
価値率を意味する――は、生産力の発展の最もめざましい産業部門での生産
力の発展から推測されるような高さよりもずっと低くなる、ということであ
る。したがって、ここには、利潤率低下法則の2つの論証方法のうちの「不
ー23ー

均等発展」論で示された議論の一部が述べられていることが分る。ところが、
この引用文Hとその原型となった1861ー63年草稿の叙述(引用文I J)との
間には重大な内容上の相違が存在する。引用文Iには「こうしたことは、ま
た、なぜ、剰余価値率が増大するにもかかわらず、その剰余価値率は可変資
本が総資本に比べて減少するのと同じ割合では増大しないのか、ということ
の主要な理由でもある」という叙述が存在するし、また引用文Jにも「それ
だから、剰余価値の増大は、〔第一に〕特殊な諸部門における生産力の増大
にはけっして比例しないし、第二にまた、いつでも、あらゆる産業部門(し
たがってまた、その生産物が直接にも間接にも労働能力の生産にはいってゆか
ない諸部門)における資本の生産力の増大よりも小さいのである」という叙
述が存在するのに対して、奇妙なことに、引用文Hには同種の叙述が存在し
ない。なにゆえに、利潤率の低下法則論にとって極めて重要な意味をもつこ
の種の叙述が『資本論』に存在しないのか。引用文IやJでは、労働の生産
力の発展が産業諸部門間で不均等に進むし、また自然条件が労働の生産性の
発展の足をひっぱることがよくあるので、社会的・ 平均的な剰余価値率は、
生産力の発展の最もめざましい産業部門での生産力の発展から推測されるよ
うな高さよりもずっと低くなるという命題から、「剰余価値率が増大するに
もかかわらず、その剰余価値率は可変資本が総資本に比べて減少するのと同
じ割合では増大しない」という結論を導き出している。これに対して、引用
文Hでは、最後の結論部分が欠けているのである。なぜ、『資本論』にはこ
の結論部分が欠落しているのか。その原因は、筆者が推測するに、引用文I
Jの執筆後マルクスは、そこでの推論が理論的に見て妥当なものではないと
判断するようになったからであろう。マルクスがそう判断したと推定する理
由はこうである。すなわち、「平均剰余価値は[社会的・平均的な剰余価値率
――松尾]は、個々の産業部門(きわめて重要な )における生産力の発展か
ら推測することができる高さよりもずっと低くならなければならない」とい
う命題から、最後の「剰余価値率が増大するにもかかわらず、その剰余価値
率は可変資本が総資本に比べて減少するのと同じ割合では増大しない」とい
ー24ー

う結論を導き出す推論には以下のような理論次元のズレが存在するからである。
すなわち、問題の「剰余価値率が増大するにもかかわらず、その剰余価値率
は可変資本が総資本に比べて減少するのと同じ割合では増大しない」という
結論部分では、社会全体の剰余価値率の上昇率と社会全体の資本構成の高度
化率とが対比させられ、前者が後者より大であることが述べられている。と
ころが、これに対して、この結論を導き出すための肝心の、「平均剰余価値
は[ 社会的・平均的な剰余価値率――松尾 ]は、個々の産業部門(きわめて
重要な)における生産力の発展から推測することができる高さよりもずっと
低くならなければならない」という部分では、社会全体の剰余価値率と最も
生産力の発展がめざましいある特定の生産部門での剰余価値率とが対比させ
られ、前者が後者よりもずっと低いという命題が述べられているのである。
つまり、問題の結論部分とそれを導き出すための論述部分との間には明らか
に論理次元のズレが存在するのである。このような事情を踏まえれば、引用
文IJには存在した結論部分が、『資本論』の引用文Hには存在しない理由
が差し当たって了解されえよう。おそらく、このような推論上の難点に気付
いたがゆえにか、マルクスは『資本論』ではもはやこの種の議論をする場合
には最後の結論部分を意識的に省いたのではなかろうか。結論を先取りして
言えば、論証方法に関してマルクスはいわゆる「不均等発展」論を放棄した
ということになるのである。もっと端的に言えば、『資本論』において、利
潤率低下法則の論証にマルクスが一部「失敗」したことを、引用文Hにおけ
る「結論部分」の欠落が示しているのである。
 少し結論を先走ったようである。ともかくここで確認できることは、『資
本論』にはいわゆる「不均等発展」論と看做しうる論理が存在しないという
ことである。たとえそれを想起させる議論が展開されているとしても、そこ
から肝心の結論、剰余価値率の上昇率が資本構成の高度化率に及ばないとい
う結論が導き出されておらず、したがってそれは、「不均等発展」論として
は不完全な議論であると言わなければならない。
ー25ー


  W 『資本論』第3部「第1草稿」における論証の「後退」

1861―63年草稿において「限界」論の不備を補完・補強する役割を果たし
てきた「不均等発展 」論の事実上の消滅に関連してか 、マルクスは『資本
論』第3部「第1草稿」において利潤率の低下法則論の定式化を大幅に「後
退」させているように思われる。
 というのは、たとえば、『資本論』第3部「第1草稿」中の現行版第14章
「反対に作用する諸原因」に相当する箇所には次のような叙述を見つけるこ
とができるからである。
 引用文K=「与えられた大きさの一資本が生産する剰余価値量は、2つの
因子によって、すなわち剰余価値率に与えられた率で働かされる労働者数を
掛けたものによって規定されているのである。だから、それは、……可変資
本の絶対量と剰余価値率……との複合率によって定まる。ところで、……相
対的剰余価値の率を高める同じ諸原因は平均的には充用労働力の量を減少さ
せる。しかし、この反対運動がどんな特定の割合で起こるかにしたがってこ
こに[与えられた大きさの一資本が生産する剰余価値量の ]増減が生ずるein
Mehr oder Minder hier eintritt ということは明らかである」( Kapital,
303;MEW,244;訳,383-384。[ ]内は引用者による補足)。
 引用文L=「剰余価値率を高くするその同じ原因が……、与えられた一資
本の充用する労働力を減少させる方向に作用するのだから、この同じ原因は
また利潤率を低下させる方向に作用すると同時にこの低下の運動を緩慢にす
る方向に作用するのである。もしも1人に合理的には2人でなければできな
い労働が押しつけられるならば、そしてこの1人が3人のかわりをするよう
な事情のもとでそれが押しつけられるならば、この1人は以前の2人分の剰
余労働を提供するであろう。その点では剰余価値率は2倍になったのである。
しかし、彼は以前の3人分は提供しないであろう。したがって、剰余価値量
は減少したのである。しかし、剰余価値量の減少は、剰余価値率の増大によっ
て埋め合わされるかまたは制限されている kompensirt, oder beschränkt。

ー26ー

全労働者数が増大した剰余価値率で働かされるとすれば、人口は同じでも剰
余価値量は増大する。 人口が増大すれば 、もっと増大する。そして、この
ことは 、充用総資本に比べて 労働力の相対的減少と結びついているとはい
え、 この減少は剰余価値率の増大によって 緩和されるかまたは阻止される
gemässigt oder aufgehaltenのである」(Kapital,304 ; MEW, 244-245;
訳,385)。
 まず、引用文Kをパラフレ−ズしてみると、次のようになろう。すなわち、
「与えられた大きさの一資本が生産する剰余価値量」は、「可変資本の絶対
量と剰余価値率……との複合率によって定まる」。ところが、労働の生産力
の発展は、一方では剰余価値率を高め、他方では「可変資本の絶対量」を減
少させる。「この反対運動がどんな特定の割合で起こるかにしたがってここ
に [ 与えられた大きさの一資本が生産する剰余価値量の ] 増減が生ずる」、
すなわち「与えられた大きさの一資本」によってより多くの剰余価値が生産
されるかまたはより少ない剰余価値が生産される、したがって利潤率が上昇
するかあるいは低下する、と。もしこのような理解が許されるとすれば、マ
ルクスは、生産力の発展に伴う剰余価値率の上昇と資本構成の高度化とを対
比・ 対決させたうえで、そのどちらが結局勝っているかという問題に明確な
回答を与えることを避けていると言わざるをえない。
 引用文Lについても同じである。マルクスは次のように述べている。すな
わち、「剰余価値率を高くするその同じ原因」である労働の生産力の発展は、
他方では「 与えられた一資本の充用する労働力を 減少させる方向に作用す
る」、それゆえ「充用総資本に比べて労働力の相対的減少と結びついている
とはいえ、この減少は剰余価値率の増大によって緩和されるかまたは阻止さ
れるのである」、と。ここでも、 生産力の発展に伴う資本構成の高度化は、
それと同時に生ずる剰余価値率の上昇によって、「緩和」されるだけなのか
「阻止」されることになるのか、あるいは、「制限」されるだけなのか「埋
め合わされる」ことになるのか、という問題にマルクスは明確な回答を与え
ていないと言わざるをえない。
ー27ー

 以上のような解釈が許されるとすれば、引用文KおよびLの中に、われわ
れは、マルクスの利潤率低下法則論として、いわゆる「不確定」論を確認するこ
とができるであろう。というのは、これらの箇所で、マルクスは、剰余価値
率の上昇と資本構成の高度化とを対比・対抗させたうえで、前者が後者に及
ばないという結論を 導き出すのではなくて 、両者のどちらが優勢になるか
「不確定」であるという答えを事実上導き出しているからである。
 本稿前節において、『資本論』第3部「 第1草稿 」における「不均等発
展」論の事実上の消滅を確認したとすれば、いまや、われわれは、マルクス
が『資本論』第3部「第1草稿」において利潤率の低下法則の厳密な論証を
一部放棄し、いわゆる「不確定」論9)の立場に事実上立とうとしているとい
う事実を確認しなければならないのである。
 このようなマルクスの「不確定」論への傾斜が『資本論』の叙述の中に存
在することを考えれば 、『資本論 』の利潤率低下法則論は要するに「不確
定」論であるとする批評・批判が生じたとしても、それはまったく根拠のな
いことではないと言わざるをえない。
 いやそれどころか、すでに指摘したように、『資本論』では「限界」論に
おいてすらすでに論証を「後退 」させていたのである。 1861―63年草稿の
「限界」論では、生産力の発展とともに資本構成が高度化してもそれ以上に
他方で剰余価値率が上昇すれば、利潤率の低下が阻止されうるが、しかしそ

9)「不確定」論は、かつてツガン=バラノフスキ−やP・M・スウィ−ジ−らによ
ってマルクス批判として展開された議論である。すなわち、労働の社会的生産力
の発展は、たしかに資本の有機的構成を高度化させるが、しかし他方ではそれは
剰余価値率をも上昇させる、したがって「もしも資本の有機的構成と剰余価値率
とがともに変化すると仮定するならば……利潤率の変動する方向は不確定なもの
となる」( Sweezy, P. M. , The Theory of Capitalist Development, 1942,
p.102;都留重人訳『資本主義発展の理論』新評論、1967年、124ペ−ジ)、と。
Тугaн-Бaрaнoвcкий,Пpoмышлeнныe кpизисы в coврeменнoй Англии,1894.
(ドイツ語版 : Studien zur Theorie und Geschichte der Handelskrisen in
England, 1901. 救仁郷繁訳『英国恐慌史論』ぺりかん社、1972年)。スウィ−ジ
−らの批判は、その後の論争においてつねに取上げられることになった。この批
判にどのように答えるかが論争の真の焦点である。そういう意味で、マルクス自
身が「不確定」論へ傾斜してるのではないかと思わせる叙述をしていることの意
味は重大である。

ー28ー

れが可能なのは「一定の限度内においてだけであり」、資本構成がその「限
度 」を越えて減少すれば剰余価値率の上昇( とそれに伴う剰余価値量の増
大)による阻止がやがて不可能になるということを根拠にして、低下法則を
ある意味で厳密な形で論証しようとしていた。この方法は、剰余価値率の上
昇が利潤率の低下を阻止するその作用には「限界」があることに根拠を求め
る方法であり、剰余価値率の上昇という要因を論証過程で直接取扱うことを
特徴としていた。ところが、『資本論』では、生産力の発展に伴う剰余価値率
の上昇要因を直接論証過程に持込まずに、生産力の発展に伴う(v+m)/c
の減少からまず一旦それより数学的に小さいm/(c+v)の減少を導きだし、
そのうえで、それと同値のものとして利潤率m/(c+v)の低下を論定しよ
うとしている。しかし、この方法は、1861ー 63年草稿とはその論証のプロセ
スはまったく違っており、論証過程に剰余価値率の上昇要因を直接持込まず
に、剰余価値率の不変・上昇にかかわらず究極的に(v+m)/cが低下せざ
るをえないことを明らかにし、そのうえで、m/(c+v)は低下しつつある
(v+m)/cを「天井」とするがゆえに一時的に上昇することはあってもやが
ては低下せざるをえないということ、したがって利潤率m/(c+v)が結局
はいずれ低下せざるをえないことを 導き出そうとする方法である。 『資本
論』に固有なこの方法は、剰余価値率の上昇率にかかわらず、利潤率は「究
極的」に、そして、いずれは、低下せざるをえないことをより一般化した形
で論証しようとしたものであると言えよう。しかし、それは、1861ー 63年草
稿の厳密な方法に比べてある意味で――すなわち、「限界」・「天井」に至る
までの途中、利潤率の上昇する局面がありうるということを認めているとい
う意味で―― rough な形での論証であると言えよう。というのは 、この種
の議論に対しては、法則の論証をめぐる論争において早くから佐藤金三郎氏
によって次のような疑問が投げかけられてきたからである。すなわち、この
ような法則の論証では、「資本構成の高度化は利潤率を究極的に低下させる
であろう」10)ことを論証しているのすぎず、「この限界に達するまでは、利
潤率の上昇しうる可能性をけっして排除するものではないし、また始めに与
ー29ー

えられた剰余価値率が低ければ低いほど、限界点への到達は無限の将来へと
延期されうるであろう」10)ことを事実上認めているという点において、利潤
率低下法則の論証としては 成功しているとは言い難い 、と。『資本論』の
「限界」論は、この種の批判・疑問に答え得ないものになっており、その意
味で、1861- 63年草稿における「限界」論から大きく「後退」したものにな
っている。
 このような論証の「後退」と照応してか、『資本論』第3部「第1草稿」
では、ごく簡単に――というのは、第3篇「資本主義的生産の進歩につれて
の一般的利潤率の傾向的低下の法則」の冒頭数ペ−ジ( Kapital, 285-291;
MEW,221-226)を費やして――「限界 」論によって「法則そのもの」・「一
般的法則」の論証が行われているだけで、あとは、全紙幅( Kapital, 291-
301; MEW,226-241)を費やして、生産力の発展の二面的作用と、 その結果
としての利潤率低下法則の複雑な(=ジグザグな)実現プロセスやその経済
的諸現象を詳しく分析することに専心している。1861- 63年草稿では、マル
クスは生産力の二重作用を指摘しつつも、剰余価値率の上昇にもかかわらず
利潤率が低下せざるをえないという「一般的法則」の論証に力点が置いてい
たが、今や『資本論』第3部「第1草稿」では、同じように、生産力の発展
の二面的作用を指摘するものの、二面的作用のどちらが優勢であるかを直ち
に論証するということに力点を置くのではなくて、むしろ、二面的作用が複
雑なプロセスを経てどのような具体的な諸現象を生みだしていくかを詳細に
分析し確認することに力点が置かれている 。このことは 、すでに指摘した
『資本論』第3部「第1草稿」における「限界」論の「後退」や「不均等発
展」論の事実上の消滅という事態に照応しているように思われる。
 かくして、マルクスは、1861-63年草稿において、生産力の発展は 、一面
では資本構成の高度化を通じて利潤率の低下をひき起こす傾向があるとすれ
ば、他面では剰余価値率の上昇を通じて利潤率の低下を阻止・緩和する傾向

10)佐藤金三郎「利潤率の傾向的低下の法則」、大阪市立大学編『経済学辞典』岩波書
店、1965年、1155ペ−ジ。

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があるということを確認しつつも、結局は両者のうち後者は前者に及ばない
という結論を引きだすことによって、利潤率の低下法則を論証しょうとした
し、また、生産力の発展は労働者の消費する生産物を直接・間接に生産する
いろいろな生産部門の間で不均等に発展するという事実認識から、剰余価値
率の上昇率が資本構成の高度化率に及ばないという命題を導き出し、それを
根拠にして利潤率の低下を論定しようとしていた。しかし、これまでの分析
によって明らかになったように、前者の「限界」論も、後者の「不均等発展」
論も、「法則そのもの」の論証に十分成功しているとは言い難い。筆者の見
るところ、このことをマルクス自らが鋭く感じ取ったがゆえに、『資本論』
第3部「第1草稿」ではもはや、後者の方法すなわち「不均等発展」論は事
実上消滅し、前者の「限界」論は大幅に論証内容を「後退」させ、論証
の厳密さに難点をもつことになったのである。
 最後に、もし以上のような変更(論証の「後退」・「消滅」)が『資本論』
に存在するとすれば、現行版『資本論』第3部の第14章 、第15章における議
論の基本的性格を理解するためには、本稿で見た法則の論証の「後退」の含
意を十分踏まえられなければならないであろう。しかし、こうした理解に即し
たこれらの章の分析は、もはや次稿に譲るほかないであろう。
(まつお・じゅん/経済学部教授/1993.10.13受理)

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