『経済経営論集』(桃山学院大学)第30巻第2号、1988年9月発行

  

1861-63年草稿1)における
特別剰余価値論の形成

―マルクス機械論草稿の執筆時期の推定によせて―

 

松尾 純


   T.は じ め に
 前稿2)脱稿直後、筆者は、大野節夫氏の 新稿「ノート・X( 1861--63年草
稿)の執筆過程」3) を入手した。 筆者はこれまで大野氏の旧稿4)における所
説を検討してきたが 、この新稿において大野氏は 、以下のような自己批判を
表明されている。
「これにはあやまりとあいまいさがふくまれており 、再検討され 、払拭さ
れねばならない。 ノート・Xの『 176ページで諸記述をしきる一本の線 』…


1)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1861-63),in
Karl Marx Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd.3, Teil 1,1976;
Teil 2,1977;Teil 3,1978; Teil 4,1979; Teil 5,1980; Teil 6, 1982, Dietz
Verlag. 以下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は,Teil 1〜5
部分については,資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草
稿集と略記する)CDEFG, 大月書店, 1978, 1980, 1981, 1982,1984年に従
う。いくつかの個所で訳文を変更したが,いちいち断らない。 以下この書から
の引用に際しては, 引用文直後にMEGAの引用ページと草稿集のページを次
のように略記して示す。例(MEGA,1974;草稿集C234)。
2)拙稿「ふたたびマルクス機械論草稿の執筆時期について」(上) (下) 『経済経
営論集』(桃山学院大学)第29巻第4号,第30巻第1号,1988年3月, 1988年6
月。
3)大野節夫「ノート・X (1861-63年草稿) の執筆過程」『経済学論叢』(同志社
大学)第39巻第3号,1988年3月。以下, 引用に際しては,これを大野論文Bと
略記する。
4)大野節夫@「『1861-63年草稿』と経済学批判体系プラン」(上) (下)『経済』
243号,244号,1984年7月,8月。 同A「『経済学批判』から『資本論』へ」(上)
(下)『経済』256号,257号,1985年8月,9月。

ー1ー

…が中断箇所であることは 、 そして『これ以後の記述が「5 諸学説」と並
行して 』執筆されたことを認容していることでは訂正の必要はない。しかし、
ノート・X, 176ー189ページ および ノート・V, 124aー124hページ を他の
諸部分〔ノート・X, 190ー211ページ , ノート・V, 89ー93ページ, ノート
・]Z, 1142ー1144ページ― 松尾 〕と成立時期を同一とし, 事実上 『1862
年12月に書かれた』としたことは不正確であり, 訂正を必要とする。従って,
ノート・X,176ー189ページの『b 分業 』の追加的な記述部分(以下,『b 分
業』追加部分とよぶ)が1862年 12月 に執筆されたことを前提にした展開はす
べて再検討されねばならない。 5) 」。「『b 分業』はノート・X,176ページの
区分線でいったん中断され,『5 諸学説 』の『c A.スミス』における『生
産的労働の区別』のノート・[、 358ページ以後 、 おそらくはこの考察ガ終
了するころから、ノート・]で『 g ロートベルトゥス氏』がはじまり, その
469ページにいたるまでに,再開され,『b 分業 』追加部分が執筆されたと結
論することができる 」6)。 それは「1862年5月末から 6月初にかけての一時
期」7)である。「ノートV・124aー124hページ のすべてが 1863年1月に作成
されたとみなすことはきわめて困難」8)である。「『b 分業 』追加部分がノー
ト・\, ] と同時に作成されたことを確認し, 同時に , ノート・V, 124a-
124h がノート・ \, ]と同一種類の用紙から作成された事実にもとづいて,
『b 分業 』追加部分とノート・V, 124aーー124hページ の一部分とが同一の
時期に執筆されたことを明らかにしておきたい」9)。 「1862年4月から6月初
に作成, 執筆された ノート・\, ]とほとんど同時に , …… 『 b 分業』
追加部分が執筆され, また『2 絶対的剰余価値 』の補遺 , ノート ・ V,
124aーー124hも作成された」10)。「124aーー124h ページ は , その124d ページ
に『工場監督報告書, 1861年10月31日 までの半年間 』からの引用文があり,

5)大野論文B,28-29ページ。
6)同,52ページ。
7)同,53ページ。
8)同,56ページ。
9)同,57ページ。
10)同,58ページ。

ー2ー

……『b 分業』追加部分,ノート・ \, ]とほとんど同一の時期に執筆され
たとみなしうるものである。 そして, 124eページ は『ノート・X, 196ペー
ジをみよ』と書かれ, 両者の内容が交叉していることで,『γ 機械』項の執
筆期と同一である。 最後に, 124f―124h ページは, ノート・]Z, 1142―
1144ページに登場するサンージェルマン・ルデュック, チャールズ・バビジ,
ヘンリー・グレイ・マクナブの筆者の引用を共通とし , 両者に否定しがたい
強い相関性があることで , ほとんど同時期に書かれたと し て まち がいな
い」11),と。
大野氏の自己批判の要点は次の点にある。@ノート・X・ 176-189の部分は,
「5 諸学説」のノート[・358からノート]・ 469にいたるまでの間に執筆
された。 それは1862年5月末から6月初にかけての一時期である。 A「ノー
ト[・124a―124h ページ のすべてが 1863年1月に作成された」訳ではない。
124a―124d はノートX ・176ー189, ノート\ ・ ]とほぼ同時期の1862年5
月-6月に執筆され, 124e はノートX ・ 196と同時期の1862年12月ー1863年
1月に執筆され, 124fー124h は ノート][ ・ 1142ー1144と同時期の1862年
12月末に執筆された,と。 要するに, ノートX・ 176ー189部分( および124
aー124d部分 )は, 『学説史』中のノート \ , ]と並行して,おそらく1862
年5月ー6月に執筆されたということである 。 このような 大野氏の自己批判
に基づく新見解は, 直ちに全面的に拒否されるべきものではなく , 受容可能
な論点を含んでいるかもしれないことを率直に認めなければならない。
このような自己批判にもかかわらず , 大野氏は機械論草稿の執筆時期につ
いてはほぼ旧説を固持され,比較的小幅の訂正を認められるのみである。
「『γ 機械』項……はノート・][の… 1097ページから1142ページにいた
るあいだに起筆された」12)。「『γ 機械』項は1862年12月には起筆されていた
ことになる。…『γ 機械』項のノート・Xの部分 … は早ければ12月中に、
遅くとも1863年1月の早いうちに書き終えられたとみることができる」13)

11)同,58-59ページ。
12)同,65-66ページ。
13)同,66ページ。

ー3ー

  大野氏は,機械論草稿は大雑把に見て『学説史』の擱筆前後以降に,その全
体が冒頭から連続して執筆された, と推定される訳である。 したがって, 推
定の変更は小幅なものにすぎず, その大部分が『学説史 』以後に執筆された
という点において, 旧説と同じ機械論 草稿連続執筆説に立たれていると言え
よう。
  問題は, この新稿に提示されている機械論草稿連続執筆説に対する新たな
推定根拠であるが,筆者はこの新たな推定根拠に対しても批判的な立場に立た
ざるをえない。以下,その理由を述べることにしよう。

U. 大野節夫氏による機械論草稿連続執筆説の新たな根拠
 大野氏の旧説の特色は, 機械論草稿の前半部分(ノートX・190ー211 )の
執筆時期を直接推定したものではなくて, 「 ほぼ同一の時期に執筆された 」
と推定する諸部分(ノートX ・ 176ー189, ノートU ・ 89-93, ノートV・
124aー124 h, ノート][ ・ 1142ー1144)の執筆推定時期から間接的に推定
したものである, ということができよう。すなわち, 前稿(上)の整理14)
おける5つの推定根拠のうちの第一根拠は,「引用・利用されたいくつかの共
通な文献の存在から」15), ノート][・1142ー1144=1862年12月執筆 → ノ
ートV ・ 124fー124g = 1862年12月執筆 ――ノートV・124aー124h全体=
1862年12月執筆 → ノートX ・ 176ー189,ノートX・190ー211=『諸学説』
以後執筆=1862年12月 以後執筆, と推定する。 第二根拠は, ノートX・175
と1862年 3月6日付けの手紙との対応状況を示したものである。 第三根拠は,
ノートX・178の記述が, ノートZ・303 や ノート[・358の記述よりも後に
執筆されたという推定から, 間接的に それより後に執筆されたと想定される
機械論草稿の前半部分の執筆時期(=『学説史』以後 )を根拠付けようとし
たものである。第四根拠は, ノートX ・ 178の記述中の「資本と労働にかん
する最終章」という文言は 1862年3月ごろの プランに合致しないで, 1862年


14)前掲拙稿(上),78-81ページ。
15)大野論文A(上),215ページ。

ー4ー

12月のノート [ のプランにのみ合致する という推定から, 間接的に, ノー
トの順序ではそれより後の機械論草稿の前半部分の執筆時期が『学説史 』以
後であるというとを論拠付けしようとしたものである。 第五根拠は, ノート
X・182-183の分業論がノートZ ・ 299〜ノート\ ・ 379における「生産的
労働と不生産的労働との区別 」に立脚した社会的分業論であるという執筆順
序の推定から, それより後に執筆されたと想定する 機械論草稿の前半部分の
執筆時期が『学説史 』以後であるということを論拠付けようとしたものであ
る。 前稿においてわれわれは, これらの根拠にたいして逐一批判を加えそれ
らが成立しえないことを明らかにした。
これに対して, 新稿における推定方法の特色は, 機械論草稿 の前半部分の
執筆時期を直接推定 しようとしている点に求めることができよう。 これは,
旧稿における推定の誤り・ 不充分さを認めたものであると理解することがで
きよう。 しかしそれを表明された大野氏の学問的良心に対して敬意を表さな
ければならない。 だが, 残念にも, 新稿における直接的な推定によって皮肉
にも大野説の誤りがかえって如実になったように思われる。
新稿における大野氏の推定は,以下のごとくである。
まず,機械論草稿の特別剰余価値論について次のようにいわれる。「『γ 
機械 』項は, その冒頭部分に, 特別剰余価値の獲得が相対的剰余価値の生産
に帰結するという考察をもっている。……/…… / ……ここ〔ノートX・190
MEGA, 292 ; C512 )の引用―松尾〕では直接に機械が問題にされている
のではなく,『すべての生産力の発展の場合』が問題にされている……。……
問題としては , 相対的剰余価値の生産一般に属することなのであり, それが
『γ 機械』項で考察されているのである。 生産力の発展が商品価値と価格
とを低下せしめる, これが必要労働時間の短取得剰余労働時間の増大と , し
たがって相対的剰余価値の生産とどのように結合するか , これが問題として
提起されているのである。 /…… / …… 〔 ノートX ・ 190ー191( MEGA,
292ー293 ; 草稿集C 513-514 ― 松尾 〕では,『新しい機械を採用する』と
いうかたちをとった , 個別資本での生産力の増大がその生産物商品の『個別
ー5ー

的価値』を『社会的価値 』以下におしさげ,『社会的価値 』以下で売ること
によって,『正常な剰余価値を越える』『超過分』が生じる,というのであり,
しかもこれは, 『例外的な生産力によって 』『平均労働にくらべてより高い
労働となっている 』『より高い力能にある単純労働』であることによって生
じるとされている。したがって, このような剰余価値も 『必要労働時間の短
縮としたがってまた剰余労働時間の相対的増大から生じる 』, つまり相対的
剰余価値の生産なのである。 / ここでは特別剰余価値の獲得が相対的剰余価
値に帰結することで,両者が結合されている。 …… この結合を可能としたの
は,『例外的な生産力 』をもつ労働を『 平均労働にくらべてより高い労働』
とし、『より高い力能にある単純労働』ととらえることである。 / 特別剰余
価値が相対的剰余価値に結合し , 両者が結合される論理がここにしめされて
いるが,これは実にマルクスの展開のうちではじめてのことである。……〔こ
のような論理が―松尾〕『γ 機械』項の冒頭に記述されていることは『γ
機械 』 項の執筆時にはじめて このような認識が獲得されたことを示唆して
いる」16), と。要するに,機械論草稿冒頭部分では,特別剰余価値が相対的剰
余価値に帰結し,両者が結合される論理がしめされている,というのである。
ところが,ノートVの「3 相対的剰余価値」の冒頭部分や草稿 「第3章
資本と利潤」・「雑録」,それにノート][の 「 m ラムジ 」項では, 特別
剰余価値の獲得は相対的剰余価値とは切断され , 両者は結合して展開されて
いない,と大野氏は分析される。「『3 相対的剰余価値 』の冒頭部分では,
……相対的剰余価値と……〔特別―松尾〕剰余価値とは『二者択一 ……』…
…の関係におかれている。 マルクスは生産力の上昇が生活手段商品の生産で
生じ, 労働力の価値の低下をもたらす場合だけを , 相対的剰余価値の生産と
みとめ , 特別剰余価値の獲得をこれに帰結せしめず, 結合させていないので
ある。第三章『資本と利潤』草稿では , 〔ではどうか。―松尾 〕……〔ノー
ト・]Y , 1013ページ( MEGA, 1663 ; 草稿集 G194)の引用―松尾〕。同
様なことは, …… 次の記述にもみいだせる。 / …… 〔ノート]Z・ 1024,

16)大野論文B,60-62ページ。

ー6ー

1025 ( MEGA , 1677-1678 ; 草稿集G213ー214)の引用―松尾 〕…… / ここ
でも特別剰余価値の獲得は相対的剰余価値とは切断され , 結合させられてい
ない。同様に, 〔 ノート]Y ・ 1010(MEGA , 1660 ; 草稿集G187),ノート
]Y ・ 1020( MEGA , 1671 ; 草稿集G206)の引用―松尾 〕 …… これらは
1861年12月から1862年3月にかけての認識であり , …… 『γ 機械』冒頭部
分とはいちじるしい対比をなす。…… / さらに , ノート・][の『m ラム
ジ』の項…… / …… ここ〔 ノート][ ・1097(MEGA,1794ー1795 ; 草稿集
G422ー423 )の引用―松尾 〕では―― 奢侈品生産の部門での生産性の増大
をとりあげ, これが労働力の価値には入りこまないがゆえに , 相対的剰余価
値を生産することができないとのべられている。 したがってここでも特別剰
余価値の獲得と相対的剰余価値とは結合されていない」17)
以上のような《 機械論草稿冒頭 》と《ノートVの「3 相対的剰余価値」
の冒頭部分,草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」, ノート][の「 m ラ
ムジ」項 》との対比によって , 大野氏はつぎのような推定を導きだされる。
「1862年11月ごろに起筆されたノート・][の『 m ラムジ』に先立って,
『γ 機械 』項が1862 年3月 に書きだされたという見解は背理にひとしい。
『γ 機械』項冒頭部分では , 特別剰余価値の獲得が無限定に相対的剰余価
値の生産になる展開 をしめしていたのにたいして ,『 m ラムジ 』項では,
奢侈品生産の生産性の増大は相対的剰余価値の生産にならないのである 。そ
れゆえ ,『 mラムジ 』項よりも後に『γ 機械 』項は起筆されたのである。
……このような理論的変化は , ノート・][の『 m ラムジ』項からノート
・ Xの再開された『γ 機械 』項冒頭部分へのあいだで生じたのである18)
「ノート・X, 190ページに始る『γ 機械』項はノート・][の『 m ラム
ジ』項の1097ページより後に,起筆された」19)ということができよう。 他方,
ノートX・196 とノートV・124e とが , そしてノートV・124fー124gとノ
ート][・1142ー1144 とがほとんど同時に執筆された推定される以上 ,「ノ

17)同,62-64ページ。
18)同,64ページ。
19)同,65ページ。

ー7ー

ート・][の『 o  R. ジョンズ』の1142ページに入る前に, ノート・X,『γ
 機械』は起筆されたということができる。 『γ 機械』項……はノート・]
[の執筆が1097ページから 1142ページにいたるあいだに起筆されたことが確
実である。/……したがって , 『γ 機械』項は1862年12月には起筆されてい
たことになる。…『γ 機械』項のノート・Xの部分… は早ければ12月中に,
遅くとも1863年1月の早いうちに書き終えられたとみることができる」20)
大野説の主旨は簡単明瞭である。 ノート][の「 m ラムジ」項まで(草
稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」を含む)は,マルクスは労働の生産性の
増大による生活手段の価値低下 → 労働力の価値低下の場合だけを , 相対的
剰余価値の生産をみとめ, 特別剰余価値の獲得をこれに帰結せしめず , 結合
させていない。 それにたいして , 機械論草稿の冒頭部分では,特別剰余価値
が相対的剰余価値に帰結し , 両者が結合される論理がしめされている。機械
によって 生産された商品が 労働者自身の消費に入るかどうかに関わりなく,
機械による個別的価値の低下は相対的剰余価値を生産する , という考え方が
表明されている。したがって , 機械論草稿は早くとも「 m ラムジ」項中の
ノート][・1097以降に書き始められたものと推定される,と。
このような推定に対して , われわれは直ちに次のような疑問をもつ。第一
に, 「ノート・ ][の『 m ラムジ 』項からノート・Xの再開された『γ 
機械』項冒頭部分へのあいだ」に , 「奢侈品生産での生産性の増大は労働能
力の価値低下をもたらさず , 相対的剰余価値を生産することができない」と
いう論理から「 機械によって生産された商品が労働者自身の消費に入るかど
うかに関わりなく , 機械による個別的価値の低下は相対的剰余価値を生産す
る」という論理への理論的変化が生じたのであろうか。 むしろ逆ではなかろ
うか。 第二に,『 m ラムジ』項中ノート][・1097の記述以降にはじめて,
「特別剰余価値が相対的剰余価値に帰結し , 両者が結合される論理」がしめ
されるようになったのであろうか。 機械論草稿前半部分以降の箇所で ― ノ
ートX・211ー219 および ノート]\ 以降の箇所で―このことが確認されう

20)同,65-66ページ。

ー8ー

るのであろうか。筆者の見るところ , それらの箇所ではそのような論理を見
出せない。
結論を 先取りして述べるとすれば,1861ー63年草稿 おける特別剰余価値論
に関連する幾つかの叙述を分析することによって、21) われわれは, 大野氏と
は逆の結論に導かれるように思われる。以下 , その事情を詳しくのべること
にしよう。

V.ノートV,]Y,]Zにおける特別剰余価値論
まずノートV, ]Y, ]Zにおける特別剰余価値にかんする叙述を分析し,
それらの間にみられる共通した正確を摘出することにしよう。
1)ノートVの「3 相対的剰余価値」には , 相対的剰余価値・特別剰余
価値に関する以下のような叙述が存在する。
〔引用@〕「資本家が, 労働生産性の増大によって , たとえばいままでの
2倍のものを生産するとしよう。この場合には , 剰余価値が増大しうるのは
……ただ, 次の二つのうちのいずれかによるしかない。一つは , 労働の生産
物が一定の比率で労働能力の再生産にはいり , 労働能力がこの比率で安くな
り, それに比例して賃金が下落し , すなわち労働能力の価値が減少し, した
がって, 総労働日のうち , これまでは労働能力の価値というこの部分の再生
産に必要であった部分が減少することによってである。 いま一つは工場主が
商品をその価値よりも高く売る , すなわちあたかも労働の生産性は従来のま
ま変りがないかのように売ることによってである。 彼が自分の商品を価値以


21)1861-63年草稿における特別剰余価値論の形成過程を論じた最近の論文として次
のようなものがある。原伸子「マルクス『経済学手稿 (1861ー63年 )』における
剰余価値論――『マルクス・エンゲルス著作集』ロシア語第2版, 第47巻によせ
て――」『産業労働研究所報』(九州大学) 第70-71合併号, 1978年3月。 佐武弘
章「相対的剰余価値の特殊的生産方法について」『経済学雑誌』(大阪市立大学)
第82巻第2号, 1871年7月。 のちに同氏『『資本の生産過程論』の成立』未来社,
1987年に所収。内田弘「特別剰余価値と相対的剰余価値――『資本論』形成史に
おける両概念」『専修大学社会科学研究所月報』233号,1982年12月。大村泉「相
対的剰余価値と特別剰余価値――利潤率の傾向的低下・市場価値論の成立過程と
の関連において――」『北海学園大学経済論集』第32巻第1号,1984年8月。

ー9ー

上に売り , したがって他のすべての商品を価値以下で買う……のに比例して
彼は新しい剰余価値を生みだすのである。しかし , 労働者はこれまでと同じ
標準的賃金しか受け取らない。したがって,労働の生産性が」向上する以前と
くらべて, 彼が生産物の総価値のうちから受け取る部分は減少する 、 言い換
えれば、 生産物の総価値のうち労働能力の購入に支出される部分は減少する。
……それは , ……労働者の労働の生産性が増大したことによって, 資本家が
新しい価値を受け取るのに比例して労働者は 他のすべての生活手段をそれだ
け安く買うことができるというのと実際的には同じことである。 ……ここで
問題にしているのは次のような場合である。すなわち , 上昇した労働の生産
性がまだその同じ事業部門のなかで一般化しておらず , そのため資本家が彼
の生産物の生産に現実に必要とした労働時間よりも 多くの労働時間を必要と
したかのように売る……という場合である。たとえば , 彼は , 3/4時間の生
産物を1時間の生産物として売る。なぜなら , 彼の競争者の大部分はこの生
産物の生産にいまだに1時間を必要としているからである 。これまで必要労
働日が10時間, 剰余労働が2時間であったとすれば,いまでは労働者は、 10
×3/4時間労働すればよい( というのは , 彼らの労働は平均労働時間よりも
1/4だけ高いのだから),つまり10時間ではなくて71/2時間労働すればよい。
また,かりに剰余価値は相変わらず必要労働時間の3/5…… だとすれば, それ
はいまや , 71/2 時間の , すなわち15/2時間の1/5となるはずであろう。…
…資本家は相変わらず労働者に12時間労働させ, 必要労働時間にたいしては7
1/2時間で支払い , それゆえ41/2 時間を儲けるのである。…… それはあた
かも , 労働者が彼の全生活手段を自分で生産している時に労働生産性の増大
によって , これまで1時間かかって生産していたのと同じだけの生活手段を
3/4で生産できるようになり , したがって10時間かかっていたものが71/2
時間すむようになる , というのとまったく同じである。 …… 労働者の生産
物が彼自身の消費のなかに一定の割合ではいるので労働能力の価値が , した
がってまた必要労働時間が減少し , したがってまたそれに比例して必要労働
時間が減少し , 剰余労働時間したがってまた剰余価値が増大するのであろう
ー10ー

と , あるいは , 労働の生産性が上昇した結果,この特殊な労働部門がその同
じ部門の社会的平均労働者の水準以上に高まり , したがって, たとえば1労
働時間の価値が他のすべての商品にくらべて高くなり , 資本家は, この労働
にたいして支払うときには ――旧来の基準にしたがって――標準的労働とし
て支払うのに,この労働を売るときには標準を越えたものとして売る, という
のであろうと,実際的にはまったく同じ結果になる。 どちらの場合にも , 労
賃を支払うのに , これまでよりも少ない時間数で足りる, すなわち必要労働
時間が減少している。またどちらの場合にも相対的剰余価値は , ……労働の
生産性が増大した結果 , 賃金の再生産に必要な労働時間が減少したことから
生じるのである。……どちらの場合にも , 相対的剰余価値は, 必要労働時間
が短縮されていることから生じるのである。/ いっさいの困難は , 労働の生
産性を高めるさいに個々の資本家が直接に考えているのは 必要労働時間を引
き下げることではなくて , 労働時間をその価値以上に売ること――それを平
均的労働時間以上に高めること――だ , ということから生じる。しかし, こ
の高められた労働時間のうち賃金の補填に必要な部分はその割合が減少する,
すなわち剰余労働時間が―― まわり道をして価値以上の販売によって表され
るのではあるが―増大するのである」(MEGA,215;草稿集C382-387)。
ノートVにおける相対的剰余価値・特別剰余価値論に特徴的なことは , 労
働生産性の増大によって剰余価値が増大するとすれば , それは「二つのうち
のいずれか」の場合であるとして , 相対的剰余価値の場合と特別剰余価値の
場合とが論じられている , ということである。もっと端的に表現すれば, 両
者を――「実際的にはまったく同じ結果になる 」相対的剰余価値の2つの生
産方法として論じている, ということである。というのは , 議論の焦点・重
心が次のような論理に置かれているからである。 「彼が自分の商品を価値以
上に売る……のに比例して彼は新しい剰余価値を生みだすのである。しかし,
労働者はこれまでと同じ標準的賃金しか受け取らない。したがって , 労働の
生産性が向上する以前とくらべて , 彼が生産物の総価値のうちから受け取る
部分は減少する …… 。 …… それは , 労働の生産性が増大したことによっ
ー11ー

て , 資本家が新しい価値を受け取るのに比例して労働者は他のすべての生活
手段をそれだけ 安く買うことができる というのと実際的には 同じことであ
る」。「これまで必要労働日が10時間,剰余労働が2時間であったとすれば,
いまでは労働者は , ……71/2時間労働すればよい。…… 〔ところが〕資本
家は相変わらず労働者に12時間労働させ, 必要労働時間にたいしては71/2
間で支払い , それゆえ 41/2時間を儲けるのである。…… それはあたかも,
労働者が彼の全生活手段を 自分で生産しているときに労働生産性の増大によ
って , これまで1時間かかって生産していたのと同じだけの生活手段を 3/4
時間で生産できるようになり 、 したがって10時間かかっていたものが71/2
時間ですむようになる,というのとまったく同じである」。「〔どちらの場合
であろうと〕 実際的にはまったく同じ結果になる。 どちらの場合にも,……
必要労働時間が減少している 。 またどちらの場合にも相対的剰余価値は,…
…労働の生産性が増大した結果 , 賃金の再生産に必要な労働時間が減少した
ことから生じるのである。…… どちらの場合にも , 相対的剰余価値は,必要
労働時間が短縮されていることから生じるのである」。
見られるように, ノートV・「3 相対的剰余価値」項では , マルクスは
相対的剰余価値と特別剰余価値とを 「実際的にはまったく同じ結果になる」
剰余価値の2つの生産方法として捉えている 。 マルクスは「同じ結果 」と
いう表現をとっているが,「どちらの場合にも , 相対的剰余価値は , 必要労
働時間が短縮されていることから生じる」とされており , それが「直接的で
ある」か否かという違いはあるにせよ , むしろそれらは「同じ原因」=必要
労働時間の短縮によって生じる剰余価値 , ともに相対的剰余価値の生産方法
であるという議論をここで強調しているのである。 したがって , ここでは,
「特別剰余価値が相対的剰余価値に帰結し , 両者が結合される論理がここに
しめされている」22),ということができよう。「どちらの場合にも相対的剰余
価値は,・・・労働の生産性が増大した結果, 賃金の再生産に必要な労働時間
が減少したことから生じるのである」;「どちらの場合にも , 相対的剰余価

22)大野論文B,62ページ。

ー12ー

値は , 必要労働時間が短縮されていることから生じるのである」という表現
によるかぎり , どちらも「相対的剰余価値の生産をみとめ, 特別剰余価値の
獲得をこれ〔相対的剰余価値――松尾 〕に帰結せしめ,結合させてい」23)
と理解しなければならないであろう24)
このような「結合」状況をうみだしたのは , この特別剰余価値論に先行す
る次のような方法的限定によるものと考えられる。「われわれは ――……つ
ねに特定のある領域における, 特定の労働者たちをもった , 特定のある個別
資本をわれわれの心に描くことによってのみ , 過程を考察することができる
のであって――,当然 , 叙述を一般化するために , 労働者は彼自身の生産す
る使用価値で生活しているかのように , 過程を考察してよいのである」(M-

23)大野論文B,63ページ。
24)このノートVの「3 相対的剰余価値」における特別剰余価値論に関して次のよ
うな解釈の相違が存在する。原伸子氏は次のように言われる。「『資本一般』の方
法論的視角の制約は,相対的剰余価値と『特別剰余価値論』を全く同一次元の問題
として取り扱うという論理をもたらしている。…… マルクスは次のように説明す
る。ある生産部門で労働生産性が2倍に上昇した場合 , 資本家は次の『2通の方
法によって』……,剰余価値――利潤を増大する」(原論文 , 32ページ )。「マル
クスは結局 , 相対的剰余価値と『特別剰余価値』の両者の同一性の側面に力点を
おくことになっているようである」(同 , 33ページ)。 また , 内田弘氏は次のよ
うに言われる。 「ここではマルクスは通常われわれのいう相対的剰余価値と特別
剰余価値を一括して,相対的剰余価値とみなしている。…… 『草稿』で , はじめ
は相対的剰余価値の2つの形態とみた特別剰余価値と相対的剰余価値とを , 相対
的剰余価値の発生過程の 説明様式 のなかにたくみに繰りこみ 両者を関連づけて
『資本論』における両者の関連付けの基本的枠組みを定めたのである。…… のち
に『資本論』になると , …… 両者の並列的把握のあいまいさを克服する 」( 内
田論文 , 14ー15ページ)。このような両氏の解釈に対して , 大村泉氏は次のよう
に批判される。「原伸子 , 内田弘両氏によれば , ここで Marx は 両形態の剰余
価値を『並列的』……な関係にある剰余価値として , あるいは相対的剰余価値の
『「2通りの方法」』……として捉えている,とのことである。だが……両氏のよ
うな解釈が成立する余地はない , と思われる」(大村論文 , 37ページ )。「Marx
は , 草稿『3 相対的剰余価値 』では , 両形態の剰余価値相互の関連性を不問
に付している, というだけではなく , 両者を二者択一的な関係にあるものとして
考察をすすめているのである」(同 , 37ページ)。 しかし , 本稿での分析に従え
ば,われわれはこの大村氏の批判を受け入れることができない。マルクスは ,ここ
で論じられている剰余価値の両形態を「二者択一的な関係にあるものとして 」捉
えているのではなくて , 相対的剰余価値の「並列的」な関係にある「2通りの方
法」として捉えている,と解釈すべきであろう。

ー13ー

EGA, 215 ; 草稿集 C380 )。 マルクスが1861ー63年草稿を書き始めたときの
最初の方法的限定(「資本一般」)を念頭において,相対的剰余価値を説明し
ようとすれば , 引用文にあるように「特定のある領域における、 特定の労働
者たちをもった、特定の個別資本を……心に描くことによってのみ」,「労働
者は彼自身の生産する使用価値で生活しているかのように , 過程を考察」し
なければならない。そしてこのような想定の両形態は,「どちらの場合にも…
… 必要労働時間が減少している。 またどちらの場合にも相対的剰余価値は,
……労働の生産性が増大した結果 , 賃金の再生産に必要な労働時間が減少し
たことから生じるのである。……どちらの場合にも , 相対的剰余価値は ,必
要労働時間が短縮されていることから生じる 」という結論に導かれてもなん
ら不思議ではないであろう。
2)次に , ノート]Y, ]Zにおける相対的剰余価値・特別剰余価値に関
する議論を見ることにしよう。
「諸商品が価値どうりに売られると前提すれば , 生産力の上昇が……剰余
価値を生みだすのは,…… ただ , 商品の低廉化が労働能力の生産費を安価に
し, それゆえ必要労働時間を短縮し , したがって剰余労働時間を延長させる
かぎりでだけである 」(MEGA , 1663 ; 草稿集G194 )。 「相対的剰余価値が
生産されるのは , ただ, 労働者の消費用物品の生産に直接間接に関係する産
業部門においてのみ 」 生じる生産力 の上昇の 結果である( MEGA , 1660 ;
草稿集G 187 )。「その生産物が労働者の消費に全然はいって行かず、したが
って生産力の発展が 相対的剰余価値を すこしも創造する ことが できない」
(MEGA,1671;草稿集G206)。
これらの箇所において述べられていることは , 生産力の上昇 → 商品の低
廉化 → 労働力の生産費の低下 → 必要労働時間の短縮によってのみ , 相対
的剰余価値が生産されるということである。 これらの叙述がこのように解釈
されうるとしても, 大野氏の推定を少しも根拠づけてはいない。というのは,
ノートVにおいても , 同主旨の叙述が見られるからである。「いったいどう
ー14ー

すれば剰余価値を さらに増大させることができるのであろうか ? 必要労働
時間の短縮によってである…… / ……/ …… / ……必要労働時間の短縮は,
すべて労働の生産性を増大させることによってのみ…… 可能になる。/ ……
/ ……労働の生産力の増大が労働者たちの労働能力の価値…… を減少させる
ことができるのは, ただ, これらの労働の生産物が , あるいは直接に彼らの
消費のなかに入っていく…… か, あるいはこれらの生産物の生産に必要な不
変資本 …… のなかにはいっていく , そのかぎりでのことである。」(MEGA,
211-214 ; 草稿集C375-379)。 問題は, 相対的剰余価値がどのように捉らえ
られているかということにあるのではなくて , 特別剰余価値と相対的剰余価
値との関連がどのように捉えられているか , それが ノートVとノート]Y,
]Zとで違っているのかどうかということにあるといえよう。
〔引用A〕「商品の価値は それを生産するために社会的に必要な労働時間
によって規定されるという法則は , 個々の資本家が自分の商品をその商品の
社会的価値よりも高く売ることができるように , 彼を駆り立てて, 彼につい
ては例外的に必要労働時間を , 分業や機会の充用等によって――またその生
産物が直接間接に 労働者の消費にも彼の消費物品の生産諸条件にもはいって
ゆかない生産諸部面でも…… 短縮させようとする……。これらの商品をより
やすく生産することができるということが現実に立証されるようになれば,古
い生産諸条件のもとで 仕事している資本家たちは その商品を 価値よりも安
く売らなければならない。…… これは競争の作用として現れ――彼らもやは
りまた総前貸資本額にたいする 可変資本の割合が下がった新たな生産方法を
採用しなければならないのである。 したがって, この場合には, 相対的剰余
価値をなんらかの方法で増大させることなしに , 諸商品の価値の減少と搾取
される労働者数の減少とが起る 」( MEGA, 1677-1678 ; 草稿集G 213-214)。
要約すると次のようになろう 。「 その生産物が直接間接に 労働者の消費に
も彼の消費物品の生産諸条件にもはいってゆかない生産諸部面」でも , 労働
の生産性が増大すれば , 個々の資本家が自分の商品より安く生産することが
できる , そして「その商品をその商品の社会的価値〔個別的価値, と表現す
ー15ー

べきかもしれない――松尾〕 よりも高く売ることができるように 」なるが,
しかしそのことが「現実に立証されるようになれば , 古い生産諸条件のもと
で仕事をしている資本家たちはその商品を価値よりも安く売」るか , それと
も「 彼らもやはりまた総前貸資本額にたいする可変資本の割合が下がった新
たな生産方法を採用しなければならな」くなる。したがって「この場合には,
相対的剰余価値をなんらかの方法で増大させることなしに , 諸商品の価値の
減少と搾取される労働者数の減少とが起る」 , と。 したがって, ここでは,
特別剰余価値の獲得を可能にする新たな生産方法の導入によっては,「相対的
剰余価値 」は増大しないということがはっきりと指摘されている。 これは,
ノートV における特別剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産との「結合」
理論とは明らかに異なる。したがって , 大野氏の次の解釈は妥当なものであ
るということになるのであろうか。 「ここでも特別剰余価値の獲得は相対的
剰余価値とは切断され,結合させられていない」25), と。 しかし, われわれ
は, このような解釈がノート・]Y , ]Zにおける特別剰余価値と相対的剰
余価値との関係全体を正しく把握しているとは思わない 。 というのは , 大
野氏がなぜか引用しない箇所で マルクスは以下で見るような議論を展開して
いるからである。
 〔引用B〕「通常……機械は , ただ , 必要労働時間の短縮によって,……
相対的剰余価値をつくりだすにすぎない。このような結果は , 労働者の消費
に直接間接にはいってゆく諸商品の低廉化によってひき起こされている 。 /
……(中略) …… / ところで , 一般的な法則としてまったく自明であるよう
に,機械使用の進歩につれて〔〔労働者の〕〕数は… 減少するにちがいない。
……数の減少 (資本の一定の大きさにくらべての) ……が , それに対応する
剰余価値率の増大によって,……絶えず埋め合わせがつけられる, ということ
はありえない。/ ……生産力の発展につれて…… 剰余価値率の増大にもかか
わらず,剰余価値は減少するのである。…… / …… / ……/ 変化した生産条
件のもとで生産される商品量は…… 安価になることができるであろう。……

25)同,63ページ。

ー16ー

/ ……商品が安価になることは , それが労働者の消費にはいって行くかぎり
では , 労働者の再生産に必要な労働の減少およびそれと同時に剰余労働時間
の延長をもひき起こすであろう。……/ …… (中略) …… / ……剰余価値そ
のものは …… , たとえば剰余価値が上昇し , しかもいちじるしく上昇して
も , 減少することがありうる。それどころか , 剰余価値の……絶対量は,剰
余価値率のどのような上昇にもかかわりなく , ……機械によって……駆逐さ
れる労働者の剰余時間が取り替えられる 労働者の総労働時間よりも大きくな
るときには, 減少するにちがいないのである。」( MEGA , 1651-1658 ; 草稿
集G172-184)。
ここでは , @「労働者の消費に直接間接にはいってゆく諸商品」を生産す
る生産諸部門における 機械の導入による商品の低廉化 → 「労働の生産費の
低廉化」 → 相対的剰余価値の生産ということをメイン ・ テーマとしつつ,
A機械導入による 剰余価値率の上昇要因によって埋め合わせることができな
いほど労働者数の減少(資本の一定量に対する ) が生じる場合には , 相対的
剰余価値が増大するどころか , 同じままかあるいは減少する場合さえあるこ
とが指摘されている。 このような分析を受けて特別剰余価値の考察が行なわ
れていることに注意する必要がある。というのは , このような状況があるに
もかかわらず個別資本の観点からは , 利潤・剰余価値の増大が機械の導入に
よってもたらされるという問題が考察されているからである。
〔引用C〕「……このことは , 生産物が労働し自身の消費にはいって行か
ない産業部門で〔起る 〕。 この場合には利潤は純粋に次のことから生じる。
すなわち , 必要労働時間が, 一定の平均期間中は, 新しい機械を採用する資
本家たちの必要とする 労働時間を上回っており , したがって , 彼らは諸商
品を売る代価は, 諸商品が彼らに費やさせる価値よりも高いが , 機械の一般
的な採用よりも前に諸商品が社会に費やさせる価値よりも安い。 彼らは自分
たちの〔労働者の〕労働〔を〕,より高級な労働〔として〕売り, それをこれ
まで〔どおりの賃金で〕買うのである。…… {後者の場合に彼が個々の商品
ー17ー

をその平均価値よりも安く売るのは , その商品をまだ一般的に存続している
生産費よりも安く生産することができるときであるが , しかし, 彼自身がそ
の商品をその平均価値よりも安く 生産するのに比例してより安く売るわけで
はない。1時間または1日に生産される諸商品の総額を…… 彼はその価値よ
りも高く, 商品に含まれている1時間または1日の労働時間よりも高く , 売
るのである。…… では, この場合, 彼の労働者との関係はどのようになって
いるのだろうか?労働者は相変わらず同じ賃金を受け取るとすれば , 彼らも
また自分たちの賃金と引換えに諸商品を … 手に入れるであろう。…… これ
らの労働者はだれでも , 彼らの賃金のうち この独自な商品 に対して支出さ
れる可除部分でもって より多くの商品量を買うことができるであろう。/ だ
が,資本家は3/5……の剰余利潤を得るであろう。 彼は労働者に商品を1/5 安
価に売るが, しかし, 商品に含まれる労働を , 平均労働よりも3/5 高価に売
り,したがって平均労働を3/5 上回って売る。…… 彼は , この剰余労働を自
分のポケットに入れるのであり , この剰余労働は,労働者が , 自分たちの労
働を何乗か高めることによって 彼に提供してきたものである。/ 必要労働時
間は10だと仮定しよう。そうすれば,労働者は以前の関係のもとでは〔12労
働時間の〕生産物のうち10を…… 手に入れるであろう。以前の関係では1労
働時間は1〔労働〕日の生産物の1/12を生産し, したがって,10〔時間〕で
は,たとえば10/12 ターレル〔 の生産物 〕が生産される。 第二の関係では,
1労働時間に生産されるのは 16/124/3=11/3〔ターレル〕である。 3時
間で4ターレル, 6時間で8ターレル生産される。したがって , 彼らが労働
する6時間分が剰余労働である。 以前は2時間でしかなかった。 }」( MEGA,
1659-1660;草稿集G184-186)。
ここでは , マルクスは, 相対的剰余価値と特別剰余価値とをはっきり区別
しているにもかかわらず , 剰余価値の源泉について次のような共通した論理
が作用していることを強調 ・ 指摘している。すなわち, 「資本家は3/5……
の剰余利潤を得るであろう。彼は労働者に商品を1/5安価に売るが , しかし,
商品に含まれる労働を , 平均労働よりも3/5高価に売り , したがって平均労
ー18ー

働を3/5上回って売る。 ……彼は , この労働を自分のポケットに入れるので
あり, この剰余労働は , 労働者が, 自分たちの労働を何乗か高めることによ
って彼〔資本家〕に提供してきたものである。/必要労働時間は10だと仮定
しよう。そうすれば,労働者は以前の関係のもとでは〔12労働時間の〕生産
物のうち10を……手に入れるであろう。 以前の関係では1労働時間は1〔労
働〕日の生産物の1/12を生産し , したがって, 10〔時間〕では, たとえば
10/12ターレル〔の生産物〕が生産される。 第二の関係では , 1労働時間に
生産されるのは 16/124/3=11/3〔ターレル〕である。 3時間で4ターレ
ル,6時間で8ターレル生産される。 したがって , 彼らが労働する6時間分
が剰余労働である。以前は2時間でしかなかった」。マルクスは , 特別剰余
価値=「剰余利潤」の実体は「剰余労働」であり, 「この剰余労働は , 労働
者が , 自分たちの労働を何乗か高めることによって」資本家に提供したもの
である , 言い換えれば, それは必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の延長
によってもたらされるものである , ということを強調している。特別剰余価
値の発生源を , たんに商品の「平均価値 」と「価値 」との差額に求めるだけ
でなく、さらにその差額の――価値次元での――源泉を , 機械導入による必
要労働の短縮 → 剰余労働の延長にもとづく「剰余労働」にまで求めている,
という点に注目しなければならないであろう。 こうした論点が強調されてい
ることに , 1861ー63年草稿前半部における特別剰余価値論の共通した性格が
あるのではなかろうか。
ノート]YとノートVとを比較すると, ノートVでは,特別剰余価値の生産
方法は相対的剰余価値の生産方法の一つとして説明されており , 両生産方法
の共通性が強調されている。ところが, ノート]Yでは,「労働者の消費に直
接間接にはいってゆく諸商品 」を生産する生産諸部門における機械の導入に
よる商品の低廉化 → 「労働の生産費の低廉化 」によって生じる相対的剰余
価値の生産と , 特定の個別資本による機械の導入の結果生じるたんなる商品
の「平均価値」と「価値」との差額としての特別剰余価値とを明確に区別しつ
つも, 他方において , 特別剰余価値の場合にも, 相対的剰余価値においてと
ー19ー

同様に , 機械導入による必要労働の短縮 → 剰余労働の延長というメカニズ
ムの作用によって 剰余価値が発生するという共通した性格が存在することが
強調されている。
3)この共通した性格は , ノート]Y,]Zのみならず , 機械論冒頭部分
における特別剰余価値論の性格をも特徴づけている。
〔引用D〕「機械の目的は, まったく一般的に述べるならば , 商品の価値
を , …… 減少させること…… 商品の生産に必要な労働時間を短縮すること
である……。実際 , 問題なのは, 労働日を短縮することではなく, 資本主義
的基礎の上でのすべての生産力の発展の場合と同様に , 労働者が自分の労働
能力の再生産に…… 必要とする労働時間を短縮すること, したがって労働日
のうち彼が自分自身のために労働する部分 , すなわち自分の労働時間のうち
の支払部分を短縮し , そしてこの部分の短縮によって労働日のうち彼が資本
のために無償で労働する , もう一つの部分, すなわち労働日のうちの不払部
分,彼の剰余労働時間を延長することである」(MEGA,292;草稿集C512)。
ここで強調されていることは, 機械の目的は , 「一商品の生産に必要な労
働時間を短縮すること 」によって「資本主義的基礎の上でのすべての生産力
の発展の場合と同様に, 労働者が…… 自分の労働時間のうちの支払部分を短
縮し, …… 労働日のうちの不払部分, 彼の剰余労働時間を延長すること」に
あるということである。 要するに, 機械の導入 → 商品の低廉化 → 必要労
働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大 = 剰余価値の増大ということが強調・
指摘されている。したがって, ここでは , 一個別資本の機械導入による特別
剰余価値の獲得と相対的剰余価値の生産との区別よりも , むしろその共通性
が強調されている。
「機械の目的は,まったく一般的に述べるならば , ……」・「問題なのは,
……資本主義的基礎の上でのすべての生産力の発展の場合と同様に , ……」
という言葉のなかに , われわれはマルクスの問題意識を窺い知ることができ
るように思われる。
〔引用E〕「新しい機械を採用する場合 , 生産の大量がまだ旧生産手段の
ー20ー

基礎の上で続けられているあいだは , 資本家は商品をその社会的価値以下で
売ることができる。といっても , 彼は商品をそれの個別的価値以上に, ……
売るのではあるが。 したがって, この場合には, 剰余価値は資本家にとって
は販売……から生じるように見えるのであって , 必要労働時間の減少と剰余
労働時間の延長とから生じるようには見えないのである。とはいえ , これも
また単なる外観にすぎない。 労働はこの場合同じ事業部門の平均労働とは違
って例外的に〔高い〕生産力を得ている結果 , この労働は平均労働に比べて
……より高い力能にある単純労働なのである。だが資本家は , この労働にた
いして,平均労働に支払うのと同じように支払う。…… しかもこれを ……よ
り高い労働……として売るのである。したがって労働者はこの場合 , 前提に
したがえば, 同じ価値を生産するのに平均労働者よりも少ない時間 , 労働し
さえすればよいのである。 したがって彼は , じっさい , 自分の労賃の等価
…… を生産するために――平均労働者よりも――少ない労働時間, 労働する
のである。したがって , 彼は資本家に剰余労働としてより多くの労働時間数
を与えるのであって , まさにこの相対的剰余労働こそが販売のさいに資本家
に商品の価格のうちのその価値を越える超過分を 提供するものにほかならな
い。だから, 資本家はこの剰余労働時間…… , この剰余価値をただ販売でだ
け実現するのであるが , しかしこの剰余価値は 販売から生じるのではなく,
必要労働時間の短縮と , したがってまた剰余労働時間の相対的増大とから生
じるのである。 新しい機械を採用する資本家が平均賃金よりも高い労賃を支
払った場合でさえ , 正常な剰余価値を越える……超過分……は, この労働が
平均労働を上まわるのと同じ割合では労賃が高められないことから , したが
っていつでも剰余労働時間の相対的増大が生じることから発生するのである。
したがって, このケースもまた , 剰余価値は剰余労働に等しいという一般的
法則のなかに含まれるのである」(MEGA,292-293;草稿集C513-515)。
ここでは 次のことが 述べられている。 新しい機械を 採用した資本家は,
「生産の大量がまだ旧生産手段の基礎の上で続けられているあいだは」,「商
品をその社会的価値以下」・「それの個別的価値以上」で売り , 「正常な剰
ー21ー

余価値を越える…… 超過分」を手にする。この剰余価値は販売から生じるよ
うに見えるが, それは「単なる外観にすぎない」。彼のもとで働く労働者は,
「同じ事業部門の平均労働とは違って例外的に〔高い 〕生産力を得ている結
果, この労働は平均労働に比べてより高い労働になっている」のに , 「資本
家は , この労働に対に平均労働として支払い, しかもこれを, ……より高い
労働……として売る」。したがって, 労働者は , 「自分の労賃の等価……を
生産するために――平均労働者よりも――少ない労働時間 , 労働」し「資本
家に剰余労働としてより多くの労働時間数を与える」。したがって , 資本家
が手にする超過的な剰余価値は必要労働時間の短縮・ 剰余労働時間の相対的
増大とから生じるのである, と。「このケースもまた , 剰余価値は剰余労働
に等しいという一般的法則のなかに含まれるのである 」という言葉のなかに
マルクスのこの問題にたいする考え方が示されている。
ここでもまた, マルクスは , 相対的剰余価値と特別剰余価値の違いを指摘
するのではなくて , 両者の共通した性格, すなわち両者とも必要労働時間の
短縮 → 剰余労働時間の延長によって生じるのであって , どちらの場合にも
「剰余価値は剰余労働に等しいという一般的法則 」が成立つという点を, 強
調・指摘しようとしている,と言えよう。
〔引用F〕「機械は , それが新たに採用されている作業場での必要労働時
間を相対的に短縮する。 もし手織工の2労働時間が力織機の採用ののちには
もはや社会的必要労働の1時間に等しいだけだとすれば , いまでは力織機工
の1労働時間は , 力織機が一般的にこの種の織物業に採用されないうちは ,
必要労働の1時間よりも大きい。…… それはあたかも, 単純労働がより高い
力能にあるのと……同じである。つまり , 力織機を利用する資本家が1時間
の生産物を, ……それの従来の社会的必要価値以下で売るが , しかしその個
別的価値以上に…… 売る, という範囲では , そういうことになるのである。
したがって , 労働者は自分の賃金を再生産するためにはより少ない時間労働
すればよいのであり , 彼の必要労働時間は, 彼の労働が同じ部門でより高い
労働になっているのと同じ割合で短縮されているのである。…… この場合に
ー22ー

は , 標準〔労働〕日が変わらない……とすれば, 必要労働時間が短縮されて
いるので,剰余労働時間が増大する。…… もちろん , 必要労働時間のこの短
縮は一時的であって, それは , 機械がこの部門で一般的に採用されて商品の
価値がふたたびそれに含まれている労働時間にまで引き下げられてしまえば,
消えてしまう。 とはいえ , これは同時に , 資本家にとって,たえず新たな,
小さな諸改良を採用することによって , 彼が充用する労働時間を同じ生産部
面において一般的な必要労働時間の水準以上に高める刺激なのである。 この
ことは , 機械がどの生産部門に充用されるのであろうと , 言えることであ」
る(MEGA,302-303;草稿集C527-528)。
ここでも, マルクスは , 機械を他に先駆けて導入した個別資本家にたいし
て彼の商品の個別的価値と社会的価値との差額として 特別剰余価値が発生す
るという問題をたしかに指摘しているが , しかしその論点を強調して相対的
剰余価値との違いを明確するのではなくて , 機械の導入によって生じる特別
剰余価値の源泉を , 機械を導入した資本家のもとでの労働者の「より高い力
能」・「より高い労働」 → 同じ時間に「より高い価値 」の生産 → 必要労
働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大というメカニズムに求め , それを強調
している。たしかに, 相対的剰余価値との相違点として , たとえば「必要労
働時間のこの短縮は一時的」であり , 「このことは, 機械がどの生産部門に
充用されるのであろうと, 言えることであ」るということを指摘しているが,
しかし論述の重点は あくまでも 機械を導入した 資本家のもとでの労働者の
「より高い力脳 」・「より高い労働」 → 「より高い価値」の生産 → 必要
労働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大 → 特別剰余価値の発生 というメカ
ニズムの説明にある。こうしたことを強調することの目的は , 特別剰余価値
もまた , 相対的剰余価値と同様に生産力の発展によって必要労働時間の短縮
→ 剰余労働時間の増大によって 生じるものであることを 確認しようとした
点にあると思われる。 特別剰余価値の問題を 「T 資本の生産過程」「3 
相対的剰余価値」において論じることの意味・ 理由を明らかにしようとした
ことにその原因を求めることができよう。
ー23ー

  4)以上のように , ノートV , ]Y, ]Z (1022ー1028部分) , X(190-
211 部分) では , 相対的剰余価値の生産と特別剰余価値の生産とを区別する
ことにではなく , 両者の共通した性格を摘出することに力点がおかれている
ということができよう。とすれば , われわれは, 大野氏とは異なる次のよう
な結論に達する。
まずノートVでは , マルクスは , 相対的剰余価値と特別剰余価値とを,
「実際的にはまったく同じ結果になる 」剰余価値の2つの生産方法として捉
らえ両者の共通性を強調している。 さらに , ノート]Y, ]Z(1022-1028)
では , 「労働者の消費に直接間接にはいってゆく諸商品」を生産する生産諸
部門における機械の導入 → 商品の低廉化 → 「労働の生産費の低廉化 」に
よる相対的剰余価値の生産と , 個別資本による機械の導入の結果生じる商品
の「平均価値」と「価値 」との差額としての特別剰余価値とを明確に区別し
つつ,他方において , 特別剰余価値の生産の場合にも , 相対的剰余価値と同
様に , 機械導入による必要労働の短縮 → 剰余労働の延長というメカニズム
が作用して剰余価値が発生するという性格が 存在するということを強調して
いる。同様の性格は , 機械論草稿前半部分における特別剰余価値論について
も指摘することができる。 そこでは , 特別剰余価値は,機械を導入した資本
家が商品をその社会的価値以下で , しかしその個別的価値以上で売ることに
よって生じるので ,「剰余価値は資本家にとっては販売…… から生じるよう
に見え…… , 必要労働時間の減少と剰余労働時間の延長とから生じるように
は見えない」という「外観」をもつが , しかしこの剰余価値は, この資本家
のもとにある労働者の労働が 「同じ事業部門の平均労働とは違って例外的に
高い生産力 」をもつ「平均労働に比べてより高い労働」として作用するにも
かかわらず「資本家はこの労働に平均労働として支払い」 , したがって労働
者は「自分の労賃の等価…… を生産するために…… 少ない労働時間,労働」
し「資本家に剰余労働としてより多くの労働時間数を与える 」ことによって
生じる , したがって機械の導入 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の
延長という相対的剰余価値の場合と共通した メカニズムによって生じること
ー24ー

が力説されている。
ところで , このような特別剰余価値論の性格は以後どのような運命をたど
ったのであろうか,とくに『学説史』の執筆の進行とともにどのような取扱い
を受けるようになったであろうか。以下検討して見よう。

W.ノート][以降における特別剰余価値論
1)まず , ノート][の「 m ラムジ」項における特別剰余価値論の記述
を検討することにしよう。
〔引用G〕「いま機械…… によって奢侈品の生産期間が短縮されると仮定
しよう。……労働能力の価値には , このことはすこしも影響を及ぼすことは
できない。……それは剰余価値率にはすこしも影響…… しない。…… {……
奢侈品産業での生産性は労働能力の価値を下げることはできず , 相対的剰余
価値を生産することはできず , およそ, 産業の生産性の増大そのものに起因
するような剰余価値形態を生みだすことはできない……。} …… 奢侈品産業
での生産性の増大が , 一定部分の資本が雇用する労働者の数を減らすかぎり
では,それは剰余価値の量を減らすのである。 …… / …… / {……奢侈品産
業は , その生産性が増大する場合には , ただ人数だけに作用する。だから,
必然的な帰結は , かりに不変資本は増大しないとしても, 剰余価値量の減少
……である。だが , こうして, 減少した剰余価値が増大した総資本に対して
計算されるわけである。」(MEGA,1974-1975;草稿集G422-424)。
ここでは, 奢侈品産業での生産性の増大は , 「労働能力の価値を下げるこ
とはできず」,「相対的剰余価値を生産することはできない」,それどころか,
「奢侈品産業での生産性の増大が 一定部分の資本が雇用する労働者の数を減
らすかぎりでは , それは剰余価値の量を減らす」と述べられている。したが
って , ここでは , 奢侈品産業の場合には,特定の個別資本による生産性の増
大によって ,〔 他のすべての生産部門の場合と同様に特別剰余価値が発生す
るが 〕相対的剰余価値は生産されることはなく, むしろ剰余価値の量が減少
する , ということが指摘されている。したがって , ここでは少なくとも,機

ー25ー

械その他の導入による 生産性の増大 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時
間の増大という , 相対的剰余価値の場合とも共通するあの論理は議論の対象
にされていない。 この点は『学説史』以前の草稿諸部分における特別剰余価
値論と大きな違いである。 ノートV, ]Y, ]Z(1022ー1028部分), X(190
ー211部分 )では , 相対的剰余価値と特別剰余価値との違いを 指摘したうえ
で , これら両者に共通する論理――すなわち特別剰余価値の場合にも, 相対
的剰余価値の場合にも , 機械導入による生産性の増大 → 必要労働剰余時間
の短縮 → 剰余労働時間の延長という共通したメカニズムの作用 によって剰
余価値が発生するということを指摘・強調していた。 しかし, ここでは, む
しろ 機械その他の導入 による 生産性の増大 → 剰余価値の減少という論理
( この論理自体は『学説史 』以前にも指摘されていた。たとえば, 本稿引用
文B〕を見よ。)が,利潤率との関係で前面にだされている。
2)次に , 機械論草稿後半部分における特別剰余価値・相対的剰余価値論
を見ることにしよう。
まず , ノート]]・1251以下の「機械による労働の代替」中の次の叙述を
見よう。
〔引用H〕「機械は , それによって商品の価格が下げられるならば, いつ
でも , ……労働者にとってかわることができる。……/ しかし, ……機械に
よってひき起こされる商品の低廉化は , それ自身では一文の剰余価値も生ま
ない。…… 所与の大きさの資本によって動員される労働者の数が……減少し
ているので , したがって同じ資本によって流動させられる生きた労働の総量
〔もはやり減少している〕。したがって , 剰余価値が以前と同じであるため
には, それは相対的に増加しなければならない。…… 剰余労働が減少した労
働総量のうちのより大きな割合を占めるということは , まさに, 必要労働が
…… 減らされている , ということを意味している。 ここから賃金 〔 低下
が生じる〕。…… 機械の充用が, 所与の資本にたいしてより大きな剰余価値
を資本家にもたらすためには, …… より少数の労働者が, 以前に多数〔の労
働者〕が行なったのと同じだけの剰余労働を行うだけでなく , より多くの剰
ー26ー

余労働を行なわなければならないであろう。/ ……/ …… 機械による労賃の
この引き下げは機会の導入と同時的に起こるのではなく , 徐々にのみ生じる
……。しかし , 機械によって生産された商品の価値が全般的に低下するやい
なや , 剰余価値は , 労働能力の価値の一要素が全般的に低下したのだから,
機械を導入した部門でだけ増えるのではなく , すべての生産部門において増
えるのである。…… 第二に , 機械は,ある特定の生産部門でその特定の生産
物のみを低廉にするのである。しかし , その生産物は, ……その品目が労働
者の生活諸手段の要素として占めるその割合におうじてのみ , 労働能力の価
値を引きさげるのである。 したがって、そこから生じる労働能力の減価 ……
は, 機械が労働の生産力を大きくする割合とは …… まったく釣り合わない。
しかし , 第三に明らかなことは , 機械を導入した結果……,より少数の労働
者の提供する剰余労働は , 絶対的に増大することがありうる , あるいは,機
械導入以前のより多数の労働者が提供した 剰余労働にちょうど等しくなるこ
とさえありうるが , それはただある一定の限度までのことである。……機械
が , 所与の資本によって動員される労働者の数を減らす割合が大きければ大
きいほど , 残された数の労働者が駆逐された労働者よりも多量の, あるいは
それと同量の剰余労働を提供することは , ――彼らのはたらく相対的剰余労
働時間がどんなに増大するとしても―― ますます不可能になる。/ ……機械
を特定の生産諸部門にはじめて導入する資本家たちは , 商品を社会的に必要
な労働時間よりも少ない労働時間で生産する。それゆえ , 彼らの商品の個別
的価値はその商品の社会的価値以下である。 それゆえ, 彼らは――機械がこ
の生産部門を全般的に支配するようになるまでは―― , それらの商品をその
個別的価値以上で売ることができる、 また、 たとえ彼らが同じ商品を社会的
価値以下でうる場合でさえ , その個別的価値以上で売ることができるのであ
る。言い換えれば , 彼らの労働者の労働は , そのあいだは,平均労働を越え
た , より高度な労働として現れ,それゆえ , その生産物はより高い価値をも
つのである。だから実際に , 機械を導入する資本家たちにとっては, より少
数の労働者が , より多数の労働者が生産したのよりも高い剰余価値を生産す
ー27ー

るのである。2人の労働者が12人の労働者にとってかわったとしよう。この
ふたりは12人の労働者と同じだけのものを生産する。12人はそれぞれ,1時
間の剰余労働をしたのだとしよう。……個々の商品の価格はいちじるしく下
がっている。…… 彼は24時間から12時間の剰余価値をたたき出すのである。
言い換えれば , 2人の労働者はおのおの , 以前に6人の労働者〔が提供し
た〕のと同じだけの剰余〔 価値 〕を彼に提供するのである。 このことは,
ちょうど , 彼が必要労働時間を6時間に縮小して , 労働日の半分の生産物
の価値でもって まるまる1労働日を買った , というのと同じことである 」
(MEGA, 2048ー2051 ; マルクス著 / 中峯照悦 ・ 伊藤龍太郎訳『1861-63年
草稿抄 機械についての断章』大月書店,1980年,243-248ページ)。
以上要約すると, まず引用文前半では, 機械の導入などによって, 商品の
低廉化 → 労働力の価値低下 → 必要労働時間の短縮・剰余労働時間の増大
→ 剰余価値の増大が生じるが , しかし一定量の資本にたいする剰余価値の
大きさは, 労働者の相対的剰余労働時間の相当の増大がないかぎり減少しさ
えする, 一定量の「資本によって動員される労働者の数を減らす割合が大き
ければ大きいほど , 残された数の労働者が駆逐された労働者よりも多量の,
あるいはそれと同量の剰余労働を提供することは …… ますます不可能にな
る」, という問題が指摘されており, 続いて引用文後半では, 機械を自分の
生産部門にはじめて導入した資本家たちの商品の個別的価値はその商品の社
会的価値以下になる ,「それらの商品をその個別的価値以上で売ることがで
きる」, 彼らの労働者の労働は, 「そのあいだは, 平均労働を越えた, より
高度な労働として現れ」「その生産物はより高い価値をもつ」, したがって
これらの「資本家にとっては, より少数の労働者が, より多数の労働者が生
産したのよりも高い剰余価値を生産する」ということになる,「このことは,
ちょうど、 彼が必要労働時間を縮小して、労働日の半分の生産物の価値でも
ってまるまる1労働日を買った, というのと同じことである」, という問題
が指摘されている。要するに, 相対的剰余価値の場合には, 一定量の資本が
獲得する剰余価値量が機械の導入にともなう労働者数の相対的減少によって
ー28ー

減少する可能性さえあるのにたいして, 特別剰余価値について言うと, 機械
を導入した (一定量の) 個別資本が獲得する剰余価値はつねに増大する, と
いう対比が行なわれているのである。 このような対比は,おそらく機械の導
入にともなって利潤率がどのように変化するのかという問題, 言い換えれば
個々の資本家たちが機械を導入する際の動機 (利潤率の上昇がもたらされる
という結果・予想) が存在するのかどうかという問題を念頭において行なわ
れたものと思われる。
このような対比に重心がおかれているためか, ここでは, 特別剰余価値論
において強調されていたあの論理 ( 機械その他の導入による 生産性の増大
→ 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大という , 相対的剰余価値の
場合とも共通する論理 ) が議論の表舞台から退いて,引用文の末尾において
漸く登場するにすぎない。 ノートV, ]Y, ]Z,Xにおいてつねに強調さ
れ, 機械と剰余価値の生産をめぐる議論の中心をなしてきたこの論理が, ノ
ート]\においては(何故か) そのような役割をはたしていないし , またそ
れほど強調されてもいないということに, われわれは注目せざるをえない。
〔引用I〕「実際に剰余価値が増えるのは, ただ, 機械によって生産され
た諸商品が生活手段として労働の消費に入ってゆく……かぎりにおいてであ
る。しかしながら, 機械が全般的に導入される〔までのあいだ〕, 機械によ
って生産された諸商品の個別的価値がその社会的価値から十分にはなれ, 個
々の資本家がその差額をポケットに入れるかぎりは, 資本主義的生産の一般
的傾向は, すべての生産分野において人間の労働を機械によって取りかえる
〔ところにある〕」(MEGA,2053;同上訳書,251-252ページ)。
ここでは, 機械によって生産された商品が労働者の消費に入って行き労働
力の価値を低下させる場合にはじめて剰余価値が増大するということがまず
説明され、次にそれと対比的に 、 機械が全般的に導入されるまでのあいだ、
機械によって生産された商品は, その個別的価値が社会的価値以下であるか
ぎりその差額を手にすることができる。だからこそ「すべての生産分野にお
いて機械導入の動機が存在する , ということが述べられている。ここでは,
ー29ー

機械の導入 → 商品の低廉化 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の延
長 → 特別剰余価値の発生という論理を見出すことができない。剰余価値生
産の両形態に共通するあの論理――機械の導入→商品の低廉化→必要労働時
間の短縮→剰余労働時間の延長→剰余価値の発生というメカニズム―― は,
叙述の表舞台から完全に姿を消している。

X. む す び
以上, われわれは, 1861ー63年草稿における相対的剰余価値と特別剰余価
値をめぐる議論を分析してきたが, その結果を次のように整理することがで
きよう。
@ノートV ・ 「3 相対的剰余価値」項では、相対的剰余価値と特別剰余
価値とを、 労働生産性の増大による剰余価値生産の2つの生産方法として捉
らえている。「どちらの場合にも, 相対的剰余価値は, 必要労働時間が短縮
されていることから生じる」とされており, それが「同じ原理」=必要労働
時間の短縮によって生じる剰余価値, ともに相対的剰余価値の生産方法であ
るという議論を展開している。このような理論状況をわれわれは, 「特別剰
余価値が相対的剰余価値に帰結し, 両者が結合される論理がここにしめされ
ている」26)と表現することができよう。「どちらの場合にも相対的剰余価値は
……労働の生産性が増大した結果、 賃金の再生産に必要な労働時間が減少し
たことから生じるのである」; 「どちらの場合にも、相対的剰余価値は、必
要労働時間が短縮されていることから生じるのである」という表現によるか
ぎり, そのように理解するのが自然である。1861ー63年草稿起筆当初の方法
的限定(「資本一般」)を念頭において, 相対的剰余価値・特別剰余価値を考
察したとすれば, 剰余価値の両形態は, 「どちらの場合にも相対的剰余価値
は,……労働の生産性が増大した結果、 賃金の再生産に必要な労働時間が減
少したことから生じるのである。……どちらの場合にも,相対的剰余価値は,
必要労働時間が短縮されていることから生じる」と考えてもなんら不思議で


26)同,62ページ。

ー30ー

はない。
Aノート]Y, ]Z(1022ー1028部分)においてはどうか。 ここには , た
しかに, 生産力の上昇 → 商品の低廉化 → 労働力の生産費の低下 → 必要
労働時間の短縮によってのみ相対的剰余価値が生産されるという叙述が存在
し、また、特別剰余価値と相対的剰余価値との違いをもはっきりと指摘して
いるが、しかし, 剰余価値の源泉については共通した論理が存在することを
強調・指摘している。すなわち,特別剰余価値の実体は「剰余労働」であり,
「この剰余労働は , 労働者が , 自分たちの労働を何乗か高めることによっ
て」資本家に提供したものであり, 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の
延長によってもたらされるのである , という把握の仕方がしめされている。
したがって, ノート]Y, ]Z(1022ー1028部分 )では , 相対的剰余価値の
生産と特別剰余価値とを明確に区別してはいるが, 他方では特別剰余価値の
場合にも, 機械導入による必要労働の短縮 → 剰余労働の延長という, 相対
的剰余価値と共通したメカニズムの作用によって剰余価値が発生するという
論理が摘出・強調されている。
BノートXの機械論草稿前半部分ではどうか。まず冒頭部分では, 相対的
剰余価値と特別剰余価値とを区別することなく, 機械の導入 → 商品の低廉
化 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大=剰余価値の増大という
ことが指摘されている。さらに, 別の箇所では, 新しい機械を採用した資本
家は, 「商品をその社会的価値以下 」・「それの個別的価値以上 」で売り
「正常な剰余価値を越える……超過分」を手にする;この剰余価値は販売か
ら生じるように見えるが, それは「単なる外観にすぎない」;この超過的な
剰余価値は, 「必要労働時間の短縮と, したがってまた剰余労働時間の相対
的増大とから生じるのである」,という議論が展開されている。したがって,
ここでもまたマルクスは, 相対的剰余価値と特別剰余価値の違いを指摘・強
調するのではなくて, 両者の共通した性格を強調・指摘しようとしているの
である。
かくて , ノートV , ]Y , ]Z(1022ー1028部分) , ](190ー211部分)
ー31ー

では, 相対的剰余価値の生産と特別剰余価値の生産とを区別することにでは
なく, 両者の共通した性格を摘出することに力点がおかれているということ
ができよう。
これらに対して, Cノート][ではどうか。ここでは, 機械その他の導入
による生産性の増大 → 必要労働時間の短縮 →剰余労働時間の増大という,
相対的剰余価値の場合とも共通するかの論理は指摘されていない。かの共通
したメカニズムを指摘することに議論の力点がおかれるのではなくて, 機械
その他の導入による生産性の増大 → 剰余価値の減少という論理が産業の生
産性の増大と利潤率変動との関係を考察するために議論の前面に押出されて
いる。
さらに, D機械論草稿の後半部分ではどうか。ここでは, 相対的剰余価値
の場合には, 一定量の資本が獲得する剰余価値量が機械の導入にともなう労
働者数の相対的減少によっ て減少しさえするのに対して , 特別剰余価値の
場合には , 機械を導入した(一定量の) 資本が獲得する剰余価値はつねに増
大する, という対比が行なわれている。ここでは, 機械その他の導入による
生産性の増大 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大という, 相対
的剰余価値の場合とも共通する論理が議論の表舞台から退いて, 議論の末尾
において漸く登場するにすぎない。
以上のように1861ー63年草稿における相対的剰余価値 ・ 特別剰余価値を
めぐる議論を整理することができるとすれば, われわれの結論は, 大野氏の
それとはまさに逆にならざるをえないのである。
大野氏は次のように推定される。「『γ 機械』項冒頭部分では,特別剰余価
値の獲得が無限定に相対的剰余価値の生産になる展開をしめしていたのにたい
して,『 m ラムジ』項では , 奢侈品生産の生産性の増大は相対的剰余価値
の生産にならないのである。それゆえ, 『 m ラムジ』項よりも後に『γ 
機械』項は起筆されたのである。……このような理論的変化は, ノート・]
[の『 m ラムジ』項から……『γ 機械』項冒頭部分へのあいだで生じた
のである」27)。したがって「『γ 機械』項はノート・][の『m ラムジ』項
ー32ー

の1097ページより後に,起筆された」28)ということになる,と。大野氏の主
張は簡単明瞭である。ノート][の「m ラムジ」項までは , 労働の生産性
の増大による生活手段の価値低下 → 労働力の価値低下の場合だけを, 相対
的剰余価値の生産とみとめ, 特別剰余価値の獲得をこれに帰結せしめず, 結
合させていない, 特別剰余価値の獲得は相対的剰余価値とは切断され, 結合
させられていない。それにたいして, 機械論草稿の冒頭部分では, 特別剰余
価値が相対的剰余価値に帰結し , 両者が結合される論理がしめされている、
機械によって生産された商品が労働者自身の消費に入るかどうかに関わりな
く, 機械による個別的価値の低下は相対的剰余価値を生産する, という考え
方が表明されている。したがって, 機械論草稿は早くとも「 m ラムジ」項
中のノート][・1097以降に書き始められたものと推定される,と。
われわれの分析結果は,これとはまさに逆である。繰り返すと,
 まず, ノートVでは, 相対的剰余価値と特別剰余価値とを労働生産性の増
大による剰余価値生産の2つの生産方法として捉らえている。したがってこ
こでは, 「特別剰余価値が相対的剰余価値に帰結し, 両者が結合される論理
がここにしめされている」。また, ノート]Y, ]Zでは, 相対的剰余価値
と特別剰余価値とをはっきり区別しているにもかかわらず, 剰余価値の源泉
については共通した論理が存在することを指摘している。 特別剰余価値 =
「剰余価値」の実体は「剰余労働」であり , 「この剰余労働は, 労働者が,
自分たちの労働を何乗か高めることによって」資本家に提供したものである,
それは必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の延長によってもたらされるも
のである。 これらに対して, ノート][では , 機械その他の導入による生
産性の増大 → 必要労働時間の短縮 → 剰余労働時間の増大という, 相対的
剰余価値の場合とも共通するかの論理は指摘されていない。機械その他の導
入による生産性の増大 → 剰余価値の減少という論理が産業の生産性の増大
と利潤率変動との関係を考察するために議論の前面に押出されている。さら

27)同,64ページ。
28)同,65ページ。

ー30ー

に, 機械論草稿の後半部分では, 相対的剰余価値の場合には, 一定量の資本
が獲得する剰余価値量が機械の導入にともなう労働者数の相対的減少によっ
て減少しさえするのにたいして, 特別剰余価値の場合には, 機械を導入した
(一定量の) 資本が獲得する剰余価値はつねに増大する , という対比が行な
われているが, 機械その他の導入による生産性の増大 → 必要労働時間の短
縮 → 剰余労働時間の増大という, 相対的剰余価値の場合とも共通する論理
が議論の表舞台から退いている。
では, 問題の機械論草稿の前半部分は以上2つの草稿グループのどちらに
属するであろうか。機械論草稿前半部分では, 特別剰余価値の場合, 剰余価
値は販売から生じるように見えるが, それは 「単なる外観にすぎない」 , こ
の超過的な剰余価値は, 「販売から生じるのではなく, 必要労働時間の短縮
・剰余労働時間の相対的増大から生じるのである」と述べられ, 相対的剰余
価値と特別剰余価値の共通した性格, すなわち両者とも必要労働時間の短縮
→剰余労働時間の延長によって生じるという論理が強調・ 指摘されている。
とすれば,機械論草稿前半部分の執筆時期は ノートV, ノート]Y, ]Z
と同様に,『剰余価値学説史』以前に属することはもはや明白である。

(まつお じゅん/経済学部教授/1988年8月2日受理)

ー34ー