『経済経営論集』(桃山学院大学)第28巻第4号、1987年3月発行
生産価格論の形成(4)
――「費用価格」から「生産価格」へ――
松尾 純
T.は じ め に
前三稿1) においてわれわれは次のことを明らかにしてきた。すなわち、ま
ず、1861-63年草稿2)前半期(ノート]Yおよびノート]Z冒頭部分を含む)
におけるマルクスの平均利潤論および「標準価格」・「平均価格」論を詳しく
分析し、次のことを明らかにした。すなわち、この時期マルクスは、 平均利
潤論については、「この点のより詳しい考察は競争の章に属する」が、「きわ
めて重要な一般的なもの」だけは「ここで説明されなければならない」(ME
GA、1623;草稿集G129)としながらも、かなり詳しい立ち入った議論を展
開し、 しかもそれらの問題は「利潤に関する章」=「第3章」に属すると明
言している。それに対して、「標準価格」・「平均価格」論については、のち
の生産価格論に結びつけうる議論をほとんど展開しておらず、 平均利潤論に
関連して僅かにその問題の所在を附随的に指摘しているだけで理論の中味は
1)拙稿「生産価格論の形成」(1)(2)(3)、『経済経営論集』(桃山学院大学)、第28巻第1号、
第2号、第3号、1986年6月、10月、12月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie ( Manuskript1861-63),in:
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtaugabe, Abt. U, Bd. 3, Teil 1,1976;Teil
2, 1977; Teil 3, 1978; Teil 4, 1979;Teil 5, 1980;Teil 6,1982,Dietz Verlag.
以下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、Teil 1〜5部分について
は、資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス氏本論草稿集』(以下草稿集と略記する)
CDEFG、大月書店、1987、1980、1981、1982、1984年に従う。幾つかの個所で訳
文を変更したが、いちいち断わらない。以下この書からの引用に際しては、引用文直
後にMEGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して示す。例(MEG
A、1974;草稿集C234)。
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ほとんど未展開であり、その位置づけも未定・曖昧であり「のちに私が証明
する」(MEGA、386;草稿集D90)と言うだけある。
つづいて、1861ー63年草稿後半期のノート]―ノート]Tにおける議論を分
析し、次のことを明らかにした。すなわち、この時期マルクスは、平均利潤
論については勿論のこと、 「平均価格」(→「費用価格」)論についても本格
的な議論を展開し、問題の基本的な解決を果している。そして、この後半期
での議論の本格的な展開の端緒は、ノート]・445―ノート]T・552における
ロートベルトゥスの「新地代論」批判とそれに伴なうマルクスによる絶対地
代の解明であり、平均利潤論および「平均価格」(→「価格費用」)論はその
理論的基礎として展開されたものである。
さらに、われわれは、「平均価格」という用語が、いつ、どこで、どのよ
うな事情によって「費用価格」という用語に移行していったかを明らかにす
るために、ノート]T―]Uにおけるマルクスの平均利潤論・「平均価格」論=
「費用価格」論を、「h.リカード」部分を中心に詳しく分析した。その結果、
次のようなことが明らかになった。すなわち、「平均価格」という用語から
「費用価格」という用語への移行は、ほぼ、ノート]T・529からノート]Uの冒
頭部分にかけての期間・個所に行なわれたと見ることができる。そして、こ
の用語の移行時期は、ちょうど、マルクスがすでに解明し終えていた地代論
を「価格と費用価格とに関する …… 理論」の「例証」として「挿入された
一章」において「展開」するという構想を固めた時期であり、そのことから
考えると、「平均価格」という用語から「費用価格」という用語への移行は、
絶対地代の問題が一つの理論領域をなす問題として取り上げられ、概念的に
確立し、ついには「資本一般」内の問題として取り扱うという構想が表明さ
れることになっていったことと深く関わっていると言えよう。さらに、「平
均価格」から「費用価格」への移行は、マルクスによる「市場価値」論の成立
に関係があるように思われる。「市場価格」論の本格的な展開はノート]T・
543以下に見られるが、それに先行する個所でマルクスは、ノート]T・485以
下に本格的な言及が見られる差額地代論の展開に並行・附随して、「市場価
ー16ー
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格」という伝来の用語を用いながら彼自身の「市場価格」論を固める努力を
している。したがって、「平均価格」という用語から「費用価格」という用
語への移行は、絶対地代論の成立(理論内容とその位置づけ)と関係がある
だけではなくて、さらに差額地代論の展開とそれに伴なう「市場価格」の成
立とも深く関わっていると見ることができるのである。そして最後に指摘す
べきは、「平均価格」という用語に代って「費用」価格という用語が選ばれ
たのは、これまでに詳しく述べてきたように、絶対地代論・差額地代論の成
立の結果として生じる「生産費」・「費用」概念の変化・展開に起因している
ように思われるということである。
そこで、以下、われわれは、「費用価格」という用語が、いつ、どこで、
どのような事情によって「生産価格」という用語に移行していったのか見る
ことにしよう。
U ノート]X記載の「収入とその諸源泉」部分の概観3)
われわれの見るところ、『資本論』の「生産価格」に相当する概念を表わ
す用語が「費用価格」から「生産価格」へと変更されたのは、ノート]Xの
3)本稿では、取り敢えず、MEGA編集部の区分・編集、すなわちノート]X・891ー
944部分=「収入とその諸源泉」部分、ノート]X・944ー973(ノート]Z・1029ー
1038、ノート][・1075-1084)部分=「商業資本。貨幣取引業に従事する資本」部
分、という区分・編集に従うことにする。
MEGA編集部のこの区分・編集には、大村泉氏によって次のような疑問・批判が
出されている。すなわち、「『商業資本』の考察が『944』ページで開始されるとみる
ことは正しくない。事実、たとえばマルクスは、937ページでルターの著書から引用
をおこなうとともに、これに詳細な評注をくわえ・・・引用文に『商取り引き。(商
業資本)』というト頭注を付しているのである。のみならず、かかる頭注が付された引
用文は、・・・『資本論』第3巻第4篇・・・第20章「商人資本にかんする歴史的考
察」の脚注48においても引用されているのである。/・・・草稿の『商業資本』論・
・・『貨幣取り扱い資本』論の考察は、・・ 『エピソード。収入とその諸源泉』の諸
テーマを深めるなかで、なかんずく、利子資本論の考察をいっそう進化させるなかで
呈示されているといってよく、両者間の関係は、944ページをもってそれ以前は『エピ
ソード』、それ以後は『商業資本』というように、明瞭に区別しうるようなものでは
けっしてない。・・・944ページにおけるデュロ・ド・ラ・マルの著書からの引用・・
・をもふくめた前後の文脈は、利子生み資本の歴史的形態、高利貸し資本の分析とい
うことで共通したテーマを追跡しているのである。/・・・(中略)・・・/・・・
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「収入とその諸源泉」部分においてである。ノート]X・928において、マル
クスは『資本論』の「生産価格」に相当する概念を表わす用語の変更を次の
ように表明している。「{費用と名づけることができるのは、前貸しされたも
の、 したがって資本家にって支払われたものである。 これに応じて、利潤
はこの費用を越える剰余として現われる。・・・こうして、前貸によって規
定された価格を費用価格と呼ぶことができるのである。/生産費と呼ぶこと
ができるのは、・・・前貸資本の価格・プラス・平均利潤、によって規定さ
れる価格である。・・・このような価格が生産価格である。/最後に、商品
『商業資本』・『貨幣取り扱い資本』の考察は、937ページにおけるルターの著書から
の引用文前後から、それまでの『利子生み資本 』にかんする考察をうけるかたちで、
しだいに本格化していくのである。/・・・(中略)・・・/・・・『メガ』第2部
第3巻第5分冊を・・・第4分冊と合冊すべきである」(大村泉「新『メガ』編集者
による編集訂正と『資本論』成立史の新たな時期区分」『経済』259号、1985年11月、
298-300ページ)。
筆者は、大村氏の、「944ページをもって・・・明瞭に区別しうるようなものではけ
っしてない。・・・前後の文脈は、利子生み資本の歴史的形態、高利貸し資本の分析
ということで共通したテーマを追跡している」という把え方に同意することができる
が、しかしこれとは別の次のような主張を受け入れることはできない。「『商業資本』
の考察が『944ページ』で開始されるとみることは正しくない。・・・マルクスは、937
ページ でルターの著書から引用をおこなうとともに、 これに詳細な評注をくわえ・
・・引用文に『商取り引き。(商業資本)』という頭注を付している」、「『商業資本』・
『貨幣取り扱い資本』の考察は、937ページにおけるルターの著書からの引用文前後から、
それまでの『利子生み資本』にかんする考察をうけるかたちで、しだいに本格化して
いく」、 したがって「『メガ』第2部第3巻第5分冊を・・・第4分冊と合冊すべきで
ある」。たしかに、944ページ以降をもってそれ以前は『エピソード』、それ以降は『商
業資本』という区分が、――MEGA編集者のいう「商業資本」部分の冒頭部分の内
容を見るかぎり――最適の・正しい区分とはけっして言えないが、 しかし、937ペー
ジ以降「商業資本」の考察がしだいに本格化していくと見ることもできないであろう。
というのは、――紙幅の都合でいちいち引用・ 指摘することはできないが――937ペ
ージ以降も、マルクスは、高利資本・利子生み資本を飽くまでも主たるテーマにして
叙述を進めており、しかも、944ページ以降もそれを継続していると見ることができる
からである。また、 944ページをもって明確に区別できないから第5分冊と第4分冊
を合冊すべきであるというのも、すこし乱暴であるように思われる。冒頭部分(944-
955b )ではたしかに利子生み資本と高利資本とが共に考察されているが、 950b以下
では、あるいはもっと厳格に判断しても955ページ以下では、 商業資本論が本格的に
展開されているのであるから、 944ページかあるいはどこか別の個所をもってそれ以
前は「エピソード」、それ以降は「商業資本」と厳密に区分できないという理由でそ
れらを合体してしまうのではなく、 取り敢えず便宜上944ページをもって一応の編集
上の区分を行なうことが許されるのではなかろうか。
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の生産に必要な労働・・・の現実の量は、 商品の価値である。この価値は、
商品そのものにとっての現実の生産費をなしている。この価値に対応する価
格は、価値が貨幣で表現されたものにはほかならない。『生産費』という名は、
時に応じてこの三つのうちのどれかを意味する。}」(MEGA、1510;草稿集
F496-497)。見られるように、ここでは「生産費」という用語は三つの意味
をもつとされている。第一は、「前貸しされたもの」「資本家によって支払わ
れたもの」を意味し、第二は、「前貸資本の価格・プラス・平均利潤」を意味
し、そして、第三は、「商品の生産に必要な労働・・・の現実の量」に規定
される「商品の価値」を意味する。そして、第一の「生産費」概念には「費
用価格」という用語があてられ、第二の「生産費」概念には「生産価格」と
いう用語があてられている。
このような用語法は、ノート]Wまでのそれとはまったく異なっている。
というのは、 たとえばノート ]W・787ー790では次のように述べられてい
るからである。「生産費の概念の二重性は資本主義的生産そのものの性質か
ら出てくる。/第一に。・・・商品の資本家にとっての費用というのは、当
然、その商品が彼に費やさせるものである。その商品が彼に費やさせるもの
・・・は前貸資本の価値以外にはなにもない。・・・/・・・(中略)・・
・/第二に。・・・商品そのものの生産費は、その生産過程で消費される資
本の価値すなわち商品のなかにはいる対象化された労働の量・プラス・その
商品に支出される直接的労働の量から成っている。・・・このような意味か
らすれば、商品の生産費は商品の価値に等しい。・・・/第三に。・・・社
会的資本が1000で、一特殊生産部門の資本が100であるならば、また、 剰余
価値の・・・総量が200つまり20%であるならば、特殊な生産部門の資本100
は、その商品を120の価値で売ることになるであろう。・・・/ これは費用
価格であり、そして、本来の意味(経済的な、資本主義的な)での生産費が
問題とされるとすれば、それは、前貸の価値・プラス・平均利潤の価値のこ
とである」(MEGA、1272-1274;草稿集F112-115)。見られるように、ここ
では、ノート]X・928と同様に「生産費」は三つの意味をもつが、 しかし、
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ノート]X・928とちがって第三の「生産費」概念=「前貸の価値・プラス・
平均利潤の価値」を表わす用語として、「生産価格」ではなく「費用価格」
という用語があてられている。
ところで、うえでも述べたように、『資本論』の「生産価格」に相当する
概念を表わす用語のこのような変更はノート ]Xの 「収入とその諸源泉」
(=編集者表題――ノート]X・ 819〜944)部分にはじまるわけであるが、
このような「費用価格」から「生産価格」への変更がどのような事情のもと
に行なわれたのであろうか。以下、その事情を知るために、まず「収入とそ
の諸源泉」部分の内容を概観してみよう。
筆者の見るところ、「収入とその諸源泉」部分の内容は、大略、@利子生
み資本論、A三位一体定式批判、B俗流経済学批判、から構成されているよ
うに思われる。これは、ちょうど、ノート][・1139(MEGA、1861;草
稿集G541)の「第三篇『資本と利潤』」に関するプランの<・・・8、産業
利潤と利子とへの利潤の分裂。 ・・・9、収入とその諸源泉。・・・11、俗
流経済学。・・・>部分に相当すると見ることができるように思われる。論
点を先取りして述べると、 実は、 @の利子生み資本論部分においてマルク
スの「生産費」・「費用」概念の変更・展開が生じ、その結果として「費用価
格」から「生産価格」への用語の変更が行なわれることになる。そこで、以
下、@の利子生み資本論を中心にしながら、「収入とその諸源泉」部分の内容
を詳しく見ることにしよう。
1)冒頭マルクスは、「収入と形態と収入の諸源泉とは、資本主義的生産の
諸関係を最も呪物的な形態で表わしている。・・・/・・・すべてこれらの
形態のうちで最も完全な呪物は利子生み資本である。」(MEGA、1452-1453;
草稿集F404)という命題を提示し、以下、この《 利子生み資本=最も完全
な呪物的な形態》という命題を基軸にして議論を展開していく。
すなわち、「地代の・・・源泉としての土地または自然は、十分に呪物的
である。しかし、使用価値と交換価値との愉快な混同によって普通の概念に
はまだ自然そのものの生産力という逃げ場が残っている・・・。/ 労賃の・
ー20ー
|
・・源泉としての労働、・・・これもまた十分にみごとである。しかし、・
・・労働はそれ自身でその報酬を創造するという一事は良識にとってはやは
り明らかであるというかぎりでは、ここでも事実そのものと一致しているの
である。」(MEGA、1453;草稿集F405)。「生産過程のなかで考察されるか
ぎりでの資本については、それは他人の労働を採取するための用具であると
いう概念がやはり多かれ少なかれ残っている。・・・ここでは労働者にたい
する資本家の関係が前提されており、基礎として考えられている。/資本が
流通過程で現われるかぎりでは、・・・利潤は一般的な詐取という漠然とし
た概念をいくらかを伴っている。 ・・利潤はこの場合には交換から説明され
る。つまり、社会関係からであって、物からではない。/これに反して、利
子生み資本では呪物は完成されている。これこそは、できあがった資本・・
・であり、したがって一定の期間に一定の利潤をもたらすのである。利子生
み資本という形態には、ただこの規定が、生産過程および流通過程という媒
介なしに、残っているだけである。・・・/利子生み資本ではこの自動的な
呪物、自分自身を価値増殖する価値、貨幣をつくる貨幣は完成されていて、
それはもはやその発生の痕跡をとどめてはいない。社会的な関係は、物(貨
幣、商品)のそれ自身にたいする関係として完成されている。 」(MEGA、
1453-1454;草稿集F405-407)。
途中議論が中断し、利子生み資本の特徴的な運動様式の説明が行なわれる
が、しかし、それは、《利子生み資本=最も完全な呪物的な形態》という命
題を説明するための伏線であろう。「資本主義的生産の基礎の上では、貨幣
または商品で表わされた一定の価値観・・・は、・・・一定の剰余価値・・
・を取得する力を与えるのだから――貨幣そのものが資本として、といって
も独特な種類の商品として、売られるということ・・・は、 明らかである。
/・・・それらは一定期間ののちには売り手のもとに還流し、彼はけっして
それらを商品のように手放してしまわない・・・。・・・この売りは、この
資本を生産的資本として使用する第三者が、自分がただこの資本によっての
みあげる利潤のうちから一定の部分をこの資本の所有者に支払わなければな
ー21ー
|
らない、ということにおいて成り立つのである。・・・/・・・(中略)・
・・/・・・Aは彼の貨幣を支出するが、貨幣としてではなく、資本として
である。・・・この貨幣の資本への現実の転化はBの手のなかではじめて行
なわれる。しかし、Aにとっては、それは、Aの手からBの手への貨幣の移
行によって、資本になっている。生産過程および流通過程からのこの資本の
現実の復帰は、Bにとって行なわれる。しかし、Aにとっては回収は譲渡と
同じ仕方で行なわれる。・・・/・・・(中略)・・・/・・・ここでは資
本家は二重に存在する。すなわち、資本の所有者と、現実に貨幣を資本に転
化させる産業資本家とである。・・・法律的にと経済的にとである。・・・
所有物としての資本は法律上の資本家の手に・・・帰ってくる。・・・資本
の復帰は、確かに資本家第二号にとっては媒介されているが、しかし資本家
第一号におっては媒介されてはいない。したがってまた、復帰はここでは一
連の経済的過程の帰結および成果として現われないで、買い手と売り手との
あいだの特殊な法律上の取引、すなわち、それが売られないで貸し付けられ、
したがってただ一時的に譲渡されるにすぎないという取引の結果として現わ
れるのである。」(MEGA、1454-1457;草稿集F407-412)。このような利子
生み資本の特徴的な運動様式の説明を受けて、《利子生み資本=最も完全な
呪物的な形態》という命題が再認識されている。「利子においては剰余価値
は利潤におけるよりもさらにはるかに識別できなくなっているのである。・
・・/・・・労働にたいするこれらの条件 [労働条件――松尾]の対立的な
定在が、これらの条件の所有者を資本家となし、そして彼の所有するこれら
の条件を資本となすのである。ところが、貨幣資本家Aの手のなかでは、資
本は、それを資本となすところのこのような対立的な性格をもってはいない
・・・。・・・実際、貨幣の貸し手が産業資本家に売るもの・・・は、ただ、
前者が後者に特定の期間を限って貨幣の所有に引を渡すということだけであ
る。・・・それだから、彼の貨幣は、それが手放されるまえに、資本として
現われるのであり、貨幣または商品の単なる所有が――資本主義的生産から
分離されて――資本として現われるのである。・・・それらが『生産的』資
ー22ー
|
本に転化する前に――資本なのである。・・・利子を生む物として、貨幣の
貸し手は彼の貨幣を産業資本家に売るのである。・・・それが年々一定の剰
余価値、利子を創造するので、またはむしろどの期間にもそれには価値が生
えるので、産業資本家もこの剰余価値を年々またはその他契約によって定め
られた各期間に貸し手に支払うことができるのである。・・・利子はただ利
潤のうちの特別な名称のもとに固定された一部分にすぎないのであるが、こ
の利子が、ここでは、生産過程から切り離された資本そのものに、したがっ
て資本の単なる所有に、貨幣および商品の所有に[ 起因するもの ]として
現われる・・・。・・・/ ・・・この形態では、 いっさい媒介は消え去っ
ており、 そして資本の呪物姿勢は資本呪物の観念とともに完成している。」
(MEGA、1458-1460;草稿集F413-416)。
これに続いて、マルクスは、一般的利潤率は変動極まりなく不確定なもの
であるに対して一般的利潤率は固定的で人々にとって確定した事実として現
われるという議論を展開しているが、これも、《利子生み資本=最も完成し
た呪物的な形態》という命題を説明するための議論である。と同時に、それ
は、次の《利潤の利子と産業利潤とへの分裂論》への伏線をなしている。す
なわち、「一般的利潤率は、簡単明瞭な確定した事実として現われることが、
利子率よりもはるかにより少ない・・・。平均利潤はけっして直接に与えら
れたものとして現われるのではなく、ただ相反する諸振動の平均結果として
現われるだけである。・・・利子率はその一般性において毎日確定される事
実であり、しかも産業資本家にとっては彼の諸操作において前提および一勘
定項目として役だつ事実である。・・・/・・・(中略)・・・/一般的利
潤率のより捕捉しにくい形態との対比および相違においての、貸付可能な資
本にたいする利子率のこのようなより大きい固定性と一様性とは、いったい
どこから生じるのか・・・。・・・利潤率の振動は・・・各部面のなかで市
場価格のそのつどの高さと費用価格を中心とする市場価格の振動とによって
左右される・・・。別々の諸部面における諸利潤率の相違は、ただ、種々な
部面の、したがってまた種々な商品の、市場価格を、種々な商品の費用価格
ー23ー
|
と比較することによってのみ、認識することができる。・・・/これに反し
て、貨幣資本の場合には――貨幣市場では――ただ買い手と売り手という、
需要と供給という、二つの種類のものが相対しているだけである。・・・資
本が投下されている生産部面または流通部面の特殊性に応じて資本がとると
ころの特殊な姿は、すべてここでは消え去っている。・・・/・・・利子率
もその大きさから見れば変動するにはちがいないが、それは、利子率がすべて
の借り手にとって一様に変動し、したがって彼らにたいしてはつねに固定的
なもの、与えられたものとして相対する」(MEGA、1461-1464;草稿集F
417ー421)。 この利潤率の変動性・利子率の固定性論のあと、マルクスは、
《利子生み資本=資本の純粋な呪物形態》という命題を次のように再確認し
ている。すなわち、「だから、利子生み資本として、しかも利子生み貨幣資
本というその直接的形態において・・・、資本はその純粋な呪物形態を受け
取ったのである。・・・自分を価値増殖する価値の、または貨幣を創造する
貨幣の、まったく明白な形態である。同時に、まったく無思想な形態、不可
解な、神秘化された形態である。」(MEGA、1464;草稿集F422-423)。
以上の利子生み資本論(その中心論点は、利子生み資本=資本の純粋な呪
物形態)に続いて、俗流経済学者の利子生み資本論に対する批判(MEGA、
1464-1465;草稿集F423-425)、商業資本・利子生み資本に関する歴史的考
察(MEGA、1465-1467;草稿集F426-429)が行なわれ、さらに「資本のさ
まざまな形態」という論述(MEGA、1468-1469;草稿集F430-433)が続く。
2)これらのあと、《利潤と利子と産業利潤とへの分裂論》の本格的な考察
が始まる。(この問題についてはすでにMEGA、1458-1460;草稿集F413ー
416においても言及されていた)。
「利潤の分割のいっそうの『骨化』または独立化が顕著になってくると、そ
のために各資本の利潤は――したがってまた諸資本相互間の均等化に基づく
平均利潤も――二つの互いに従属しない、または互いに独立に相対する成分
に――利子と産業利潤とに、分裂する。・・・もし利潤率(平均利潤)は15
%で利子率・・・は 5%・・・だとすれば、資本家は、たとえ彼が資本の所
ー24ー
|
有者で少しも資本を借りて・・・なくても、これを次のように見る。すなわ
ち、この15%のうち5%は彼の資本の利子を表わしており、これにたいして、
10%だけが、彼の資本の生産的充用によってあげた利潤を表わしているのだ、
と。 この5%の利子を『産業資本家』としての彼は資本の『所有者』として
の自分自身に借りている。それは彼の資本それ自体に帰属し、したがってま
た資本それ自体の所有者・・・としての彼に帰属し、 機能しつつある資本、
過程進行中の資本からも、この機能しつつある、『労働しつつある』資本の代
表者としての『産業資本家』からも区別された、生産過程から抽象された資
本に帰属する。『利子』は、資本が『労働』せず、機能していないかぎりで、
資本の果実であり、利潤は、『労働しつつある』、機能しつつある資本の果実
である。」(MEGA、1471-1472;草稿集F436-437)。
「何人かの資本家が同じ資本にたいする別々の法的請求権をもっていて、
あれこれの形で同じ資本の共同所有者である場合に、彼らのあいだへの単な
る利潤分割は、けっしてこれらの部分について別々の範疇を立てはしない」
のに、「資本の貸し手と資本の借り手とのあいだへの偶然的な分割は、なぜ
それを立てるのか?」(MEGA、1472;草稿集F438)。「[産業]利潤と利子
とへの利潤の分割が、偶然的な分割としては現われないで、・・・たとえ彼
がただ自己資本だけで生産するとしても、どんな事情のもとでも彼は資本の
単なる所有者と資本の充用者とに、生産過程外にある資本と生産過程内にあ
る資本とに、それ自体で利子を生む資本と過程進行中のものとして利潤を生
む資本とに、分裂するということは、いったいどうして起こるのか?」(M
EGA、1472-1473;草稿集F438)。
「貨幣が・・過程のなかで剰余価値をわがものとするのは、・・・それが
すでに 生産過程よりも前に資本として前提されているからにほかならない。
・・・すでに過程より前に――ひとたび資本主義的生産様式が与えられてい
る・・・場合には―― それは資本それ自体として・・・存在するのである。
・・・それゆえ、 貨幣と諸商品は、それ自体で潜在的な資本・・・である。
・・・それが過程にはいって過程がはじめてその内在的な性格を展開するよ
ー25ー
|
うになる前に、 なにがそれを資本となすのであろうか? それがそこでとっ
ている社会的規定がそうするのである。すなわち、生きている労働にたいし
て過去の労働が、・・・労働にたいして労働自身の対象的諸条件が、・・・
他人の所有として、対立する・・・。・・・生産の前提としての資本・・・
は、労働が他人の労働として資本に対立し、資本そのものが他人の所有とし
て労働に対立するという、その対立である。この資本では対立的な社会的規
定が表現されているのであり、この規定が、過程そのものから切り離されて、
資本所有そのものにおいて表わされるのである。/・・・この契機が今や資
本主義的生産そのものから切り離されて、次のことのうちに表わされるので
ある。すなわち、貨幣や商品がそれ自体で潜在的に資本だということ、それ
らが資本として売られうるということ、そしてそれらがこの形態において表
わしているのは資本の単なる所有であり、その資本家的機能から切り離され
た単なる所有者としての資本家であるということ・・・がそれである。/そ
れだから、利子は、資本としての資本から、単なる資本所有から生じる剰余
価値として現われるのであり、・・・だから、この剰余価値は、生産過程の
なかではじめて実証されるとはいえ生産過程にかかわりなしに、資本として
の資本に帰属するのであり、したがってまた、資本は資本としてすでに潜在
的にこの剰余価値をそれ自身のうちに含んでいるのである。 これに反して、
産業利潤は、剰余価値のうちの、資本の所有者としてではなく機能しつつあ
る所有者としての資本家に帰属する部分として、すなわち機能しつつある資
本に帰属する部分として[現われる]。・・・利潤のうちの、[利子という]
特殊な項目のもとに区分される部分が、むしろ、最も固有に資本に属する生
産物として現われ、産業利潤はただその上につぎ足されたにすぎない付加物
として現われるのである。/貨幣資本家は、生産過程そのものの外にありな
がら、事実上ただ資本の所有者としての剰余価値の分けまえを取るのだから、
また、資本の価格・・・は、・・・貨幣市場で利子率として定められている
のだから、したがって、資本それ自体すなわち資本の単なる所有が与える剰
余価値の分けまえは与えられた大きさであるから――他方、利潤率は動揺し、
ー26ー
|
部面が違えばいつでも違っており、それぞれの部面のなかではまた個々の資
本家のあいだで違っている・・・――それだから、 資本家たちにとっては、
彼らが過程進行中の資本の所有者であろうと非所有者であろうと、当然のこ
ととして、利子は、資本としての資本から生じるもの、資本の所有から生じ
るもの、資本の所有者が彼らであろうと第三者であろうとこの所有者のおか
げで生じるものとして現われ、これに反して産業利潤は彼らの労働の所産と
して現われるのである。確かに、彼らは機能しつつある資本家・・・として、
資本の単なる無為な定在としての自分自身または第三者に対立するのであり、
したがって労働者として、・・・自分または他者に対立するのである。」(M
EGA、1473-1475;草稿集F439-433)。
以上の議論を要約すると次のようになる。すなわち、 利子と産業利潤は、
どちらも生産過程で 生みだされた剰余価値の一部分であるにもかかわらず、
利潤の分割のいっそうの「骨化」または独立化が顕著になっていくると、一方
の利子は、生産過程外にある資本が「労働」せず、機能しないにもかかわら
ずもたらす資本の果実として、つまり単なる資本所有から生じる剰余価値と
して、すなわち生産過程にかかわりなしに、資本としての資本に帰属する剰
余価値の部分として現われるのにたいして、他方の産業利潤は、生産過程内
にある機能しつつある資本によって生み出された利潤として、さらに資本家
たちの「監督労働の賃金」として現われるようになる、と。
3)以上の《利潤と利子と産業利潤への分裂論》(ノート ]X・902-906
[MEGA、1469-1475;草稿集F433-444])を受けて、マルクスは、ノート
]X・906-907(MEGA、1476-1477;草稿集F444-447)において利子の「費
用」化・産業利潤の「労賃」化論を展開している。【利子の「費用」化論は、
ノート]X・925-930(MEGA、1506-1514;草稿集F491-503)においても
《利潤の利子と産業利潤への分裂論》(ノート]X・913-919[MEGA、1487
ー1497;草稿集F459ー474])を受けて再度展開されている】。のちに詳しく
分析するのでここでは引用を省略するが、要約するとそれは次のような議論
である。すなわち、たとえば1000ポンドの資本は、「生産過程のなかではじ
ー27ー
|
めて資本になるのではなく、資本として生産過程の前提をなしており、した
がって単なる資本としてのそれに帰属する剰余価値をすでに体内にもってい
る」。したがって「借り入れた資本で仕事をする産業資本家にとっては、利
子・・・は彼の費用のなかにはい」り、「彼の前貸に属し、商品を生産する
ために彼が行った支出に属するのである」。また「自分の資本で仕事をする
産業資本家はどうかと言えば、彼は資本にたいする利子を自分自身に支払わ
なければならないのであって、これを前貸しされたものとみなすのである」。
これに反して、「産業資本家は・・・剰余価値のこの部分(=平均利潤――
松尾)を・・・彼の費用を越える超過分とみなし、・・・彼の前貸に属する
ものとはみなさないのである」、と。
これに続くノート]X・907-913(MEGA、1477-1478;草稿集F447-459)
では議論が中断されている。すなわち、まずノート ]X・907-910(MEG
A、1477-1481;草稿集F447-452)では『資本論』第2部第1篇における資
本の循環諸形態の考察に相当する議論が展開されており、さらにノート]X
・910-913(MEGA、1481-1487;草稿集F452-459 )では、「われわれは、
資本が 利子生み資本という形態で 現われるより前に通る道を考察しよう」
(MEGA、1481;草稿集F452)として、剰余価値の生産から始まって超過利
潤の地代への転化に至るまでの剰余価値の個々の部分の特殊化の過程が展開
されている。その内容は、剰余価値の生産――流通期間による剰余価値量の
規定――剰余価値の利潤への転化――利潤の平均利潤への転化、一般的利潤
率の形成、価値の費用価格への転化――超過利潤の地代への転化――三位一
体定式(利潤―資本、地代―土地、労賃―労働)の成立、と要約されよう。そ
れは、ちょうど、この時点にマルクスが構想していた「第3章 資本一般」
の(利子生み資本論に先行する部分の)要約になっているように思われる。
以上の中断ののち、マルクスは、ノート]X・913-919(MEGA、1487-
1497;草稿集F459-474)において、再度 《利潤の利子と産業利潤への分裂
論》を展開している。すなわち、「利子生み資本では資本の絶対的な形態、G
−G´、自分を価値増殖する価値が表現されている。・・・利潤は、過程進行
ー28ー
|
中の資本にたいする関係を、剰余価値・・・が生産される過程にたいする関
係を、やはりまだ含んでいる。利子生み資本では、・・・剰余価値の姿は疎外
されて異種的になっており、直接にその単純な姿を、したがってまたその実
体と発生原因とを認識させなくなっている。・・・利子生み資本では労働に
たいする資本の関係は消し去られている。・・・利子は明瞭に資本の所産と
して、分離されて、独立に、資本主義的生産そのものの外に、定立されている。
・・・資本は利子を生産過程から取り出すのではなくて、それをそのなかに
持ちこむのである。 利潤のうち利子を越える超過分・・・は、それだから、
・・・ 利子とは対比的に、 産業利潤・・・として特殊な姿を受け取るので
ある。・・・利子に対立する産業利潤は、過程外の資本に対立する過程内の
資本を、 所有としての資本に対立する過程としての資本を、表わしており、
したがってまた、資本の単なる人格化としての、資本の単なる所有者として
の資本家に対立する機能資本家としての、稼動中の資本の代表者としての資
本家を表わしている。こうして、彼は、資本家としての自分自身にたいして、
労働する資本家として現われ、したがってまたさらに、単なる所有者として
の自分自身にたいして、労働者として現われる。・・・産業利潤は労働に分
解されるとはいえ、他人の、支払われない労働にではなく、賃労働に・・・
分解されるのであって、これによって資本家は賃金労働者といっしょに一つ
の範疇に属するのである・・・。/・・・(中略)・・・/この基礎[資本
主義的生産の条件――松尾]の上では、たとえば貨幣は即時的に資本である。
・・・そこで資本もまたこのような属性をもつ商品として売られることがで
きる。・・・。/しかし、こうして資本および資本主義的生産の独自に社会
的な規定の契機・・・が固定され、したがって利子が、過程一般の規定とし
てのこの規定からは分離されたこの規定において資本が生み出す剰余価値部
分として現われるということによって、 明らかに、剰余価値の他方の部分、
・・・産業利潤は、資本としての資本からではなく生産過程から生じる価値
として現われるのである・・・。だが、資本から分離されれば、生産過程は
労働過程一般である。・・・資本の所有者としての自分とは区別された産業
ー29ー
|
家は・・・、したがって労働過程一般の単純な担い手、すなわち労働者であ
る。そうなれば、産業利潤はうまく労賃に変えられて、普通の労賃と一致す
ることにな[る]・・・。/・・・(中略)・・・/利子が表わしているの
は、剰余価値の一部分である。・・・資本の単なる所有者のものになる、彼
によってつかまえられる分けまえである。ところが、この単に量的な分割は、
・・・質的な分割に一変し、この姿にあっては両部分の元来の本質はもはや
脈打ってはいないように見える。この外観は、まず第一に次のことにおいて
固定する。・・・産業家が自分の資本で仕事をする場合にも、彼の利潤は利
子と産業利潤とに分かれるのであり、これによって単なる量的な分割はすで
に質的な分割として、すなわち、産業家が彼の資本の所有者であるか非所有
者であるかという偶然的な事情にかかわりなしに資本および資本主義的生産
そのものの本性から生じる質的な分割として、固定されるのである。単に利
潤のうちの別々の人々に分配される二つの割当てではなく、利潤の二つの特
殊な範疇が、資本にたいして違った関係をなし、したがって資本の違った規
定にたいして関係をもつのである。」(MEGA、1487-1493;草稿集F459-468)
この《利潤の利子と産業利潤とへの分裂論》の末尾でマルクスは、利潤=
監督労働の賃金であるとする弁護論を批判し(MEGA、1495-1497;草稿集
F471-474)、さらに三位一体定式批判へと議論を広げていく(MEGA、1497
-1498;草稿集F474-476)。さらに、続くノート]X・920-925(MEGA、
1498-1506;草稿集F477-490)では、利子生み資本論(利潤の利子と産業利
潤とへの分裂論)に関わる古典派経済学や俗流経済学の諸学説の批判が展開
されている。
以上の《利潤と利子と産業利潤とへの分裂論》とその末尾での学説史的余
論ののち、マルクスは再び、ノート]X・925-930(MEGA、1506-1514;草
稿集F491-503)において、利子の「費用」化論を展開している。 のちに詳
論するので引用は省略するが、要するに次のような議論である。 すなわち、
利子率は、貨幣市場で買い手と売り手との競争によって、需要供給によって、
決定される。しかし、この、貨幣資本家と産業資本家との争いは、現象から
ー30ー
|
見れば、資本の価格=利子を、資本が再生産にはいる前に、本来の生産過程
の外で、生産過程にはかかわりのない事情によって、決定する。だから、こ
の争いは、利潤のうちの利子部分を、結果として生産過程から出てこさせる
のではなく、むしろ前提として、資本の価格として、生産過程にはいって行
かせるように見えるのである。だから、利潤のうち、資本の価格として過程
にはいる部分は、前貸費用に算入されるのである、と。利子の「費用」化論
と並行して、地代もまた同じように「費用」化する事情が明らかにされてい
る。本稿が主題とする、「費用価格」と「生産価格」の概念的な区別は、こ
の利子の「費用」化論の叙述途上、しかもその末尾において行なわれている。
その詳しい分析はあとに譲ることにする。
以上の利子の「費用」化論を受けて、マルクスは、ノート]X・931-932、
937(MEGA、1515-1518、1525;草稿集F504-508、522)において、三位一
体定式批判を展開し、さらに俗流経済学を批判している。この三位一体定式
批判→俗流経済学批判は、先行する個所(ノート]X・919-922)でも、 利
子生み資本論(利子生み資本=呪物性の完成論、利潤の利子と産業利潤への
分裂論→利子の「費用」化論)の展開を受けて行なわれていた。この三位一
体定式批判→俗流経済学批判に続いて、マルクスは、ノート ]X・933-935
(MEGA、1518-1522;草稿集F508-514)において利子生み資本について再論
し、次いでノート]X・935-937(MEGA、1522-1525;草稿集F515-520)
においてプルードンの利子生み資本論を批判し、さらにノート ]X・937ー
943(MEGA、1526-1537;草稿集F522-537)においてルターの商業資本論
および高利資本論に引用・批評している。ルターのこの「商取引。(商業資
本。)」・「高利。利子生み資本。」に関する議論への参照をきっかけにして、
マルクスは、ノート ]X・941(MEGA1533-1534;草稿集F532-533)お
よびノート]X・943(MEGA、1537;草稿集F537)以下において、古代か
ら近代にかけての高利資本をめぐる議論をまとめている。
以上、われわれは、ノート]X・891−944記載の「収入とその諸源泉」部
分全体の議論の流れを概観してきたが、その結果、その部分の内容を次のよ
ー31ー
|
うに整理することができよう。すなわち、まず、その主内容は――「収入と
その諸源泉」という編集者に付した表題にもかかわらず――利子生み資本論
であり、それを受けて附随的に三位一体的式批判および俗流経済学批判が展
開されている。主題とされている利子生み資本論は、何度か議論の前進と後
退を繰り返しながらも、また、幾つかの中断をはさみながらも、全体として
見ると、次のようにその議論の展開を整理することができるように思われる。
すなわち、1)「収入の形態と収入の諸源泉[地代―土地、利子―資本、労賃
―労働――松尾]とは、資本主義的生産の諸関係を最も呪物的な形態で表わ
している」(MEGA、1453;草稿集F404)が、「これらの形態のうちで最も
完全な呪物は利子生み資本である」(ibid.;同上)という議論、すなわち完
成した呪物としての利子生み資本―→2)《利潤の利子と産業利潤とへの分裂
論》―→3)利子の「費用」化論・(産業)利潤の「労賃」化論、という内容構
成をとっていると見ることができよう。しかも、このような内容構成は、す
でに指摘したように、 ノート ][・1139 記載の「第3篇『資本と利潤』」
に関する篇別プランの「8. 産業利潤と利子とへの利潤の分裂。・・・9. 収
入とその諸源泉。・・・11.俗流経済学。」(MEGA、1861; 草稿集F541)
という構成に照応しているように思われる。
かくて、われわれは次のように言うことができよう。すなわち「費用価格」
と「生産価格」との概念的な区別とその結果としての『資本論』の生産価格
概念を表わす用語の変更(「費用価格」から「生産価格」への移行)は、利
子生み資本論の末尾の、利子の「費用」化論を受けて展開されている;マル
クスの「費用」・「生産費」概念の展開に関連して、「費用価格」と「生産価
格」との概念区別・用語の変更が行なわれたのである、と。 そこで、以下、
その事情をより詳しく分析することにしよう。
V 「費用価格」から「生産価格」へ
「費用価格」と「生産価格」の概念的な区別は、ノート]X・928において
はじめて行なわれている。そこで、以下、われわれは、区別が行なわれるに
ー32ー
|
至った状況を明らかにするために、それに先行する利子の「費用」化論を詳
しく見ておくことにしよう。
用語の変更をもたらした利子の「費用」化論(ノート ]X・925-930)と
は次のような議論である。すなわち、「資本は、 その代価が支払われる前に、
買われる(すなわち利子つきで借りられている)。・・・それだから、資本
の価格――利子――は産業家の前貸のなかにはいる・・・。・・・貨幣・・
・の市場価格は、・・・貨幣市場で買い手と売り手との競争によって、需要
供給によって、決定される。・・・しかし、形態から見れば、また現象から
見れば、この争いは資本の価格(利子)を資本が再生産にはいる前に決定す
る。しかも、この決定は本来の生産過程の外で行なわれ、生産過程にかかわ
りのない事情によって決定される・・・。だから、この争いは、単に将来の
利潤の一定の部分にたいする所有権を確定するだけではなく、この部分その
ものを、結果として生産過程から出てこさせるのではなく、むしろ前提とし
て、 資本の価格として、生産過程にはいって行かせるように見えるのである。
・・・だから、利潤のうちの、資本の価格として過程にはいる部分は、前貸
費用に算入され、したがって・・・過程の生産物から過程の与えられた諸前
提の一つとなり、生産条件となって、独立な形態にある生産条件として過程
にはいり、過程の結果を規定するのである。・・・こうして、・・・利子は、
過程にはいって行く資本の市場価格として現われ、したがって剰余価値とし
てではなく生産条件として現われる。・・・/・・・・利子と地代は産業資
本家や農業者の前貸の一部分をなしている。・・・それらは、労働者にとっ
ては剰余労働であるが、それらの支払を受けとるべき資本家や土地所有者に
とっては等価なのである。だから、それれは・・・『資本』や『土地』とい
う商品の価格として現われるのである。・・・したがって、これらの価格は
総価格の諸構成部分をなすのである。このことは産業資本家にとってはただ
そう見えるだけではない、彼にとってはそれらは現実に彼の前貸の部分を構
成する・・・。・・・/剰余労働、不払労働が、支払労働と同様に不可欠に
資本主義的生産にはいるということが、 ここでは、 労働とは別の生産要素
ー33ー
|
――土地や資本――の代価が支払われなければならないというようにか、ま
たは、前貸しされる商品の価格や労賃とは別な費用が価格にはいるというよ
うに、現われるのである。剰余価値の諸部分――利子と地代――はここでは
・・・資本家の費用として、彼の前貸として、現われるのである。/・・・
利子や地代では、剰余価値諸部分が個々別々に、まったく確定された形態で、
個々の生産価格にとって前提として現われるのであり、前貸という形態で先
取りされているのである。」(MEGA、1506-1510;草稿集F491-496)。
ノート]X・906-907でも同様の利子・地代の「費用」化論が 、《利潤の
利子と産業利潤とへの分裂論》を受けて展開されていた。ただし、そこでは
「費用価格」と「生産価格」との概念的な区別へと議論が展開されてはいな
い。すなわち、「貨幣を借りた産業資本家にとっては利子は費用のなかには
いる・・・。・・・たとえば1000ポンドの資本は、1000ポンドの価値の商品
としてではなく、資本として彼の生産にはいる。だから、・・・それは1100
の価値として年生産物のなかにはいる。だから、・・・この価値額・・・は
生産過程のなかではじめて資本になるのではなく、資本として生産過程の前
提をなしており、したがって単なる資本としてのそれに帰属する剰余価値を
すでに体内にもっているのである。借り入れた資本で仕事をする産業資本家
にとっては、利子または資本としての資本は彼の費用のなかにはいる・・・。
・・・自分の資本で仕事をする産業資本家はどうかと言えば、彼は資本にた
いする利子を自分自身に支払わなければならないのであって、これを前貸し
されたものとみなすのである。・・・農業生産にあっても、・・・地代がそ
ういうものとして現われる。・・・/こうして、ここでは剰余価値の二つの
形態――利子と地代――資本主義的生産の諸結果――が諸前提として、前貸
として、資本主義的生産にはいる」(MEGA、1476-1477;草稿集F444-446)。
以上見られるように、マルクスは、利子や地代が産業資本家や農業者にと
って前貸・費用の一部分をなすものとして現われるということを明らかにし
ているが、このように利子や地代が「費用」化する根拠を、彼は、貨幣の市
場価格(利子率)が、貨幣資本家と産業資本家との争いによって、「資本が
ー34ー
|
再生産にはいる前に」「本来の生産過程の外で・・・生産過程にかかわりの
ない事情によって」決定され、過程の前提として生産過程のなかにはいって
行く、ということに求めている。
こうした利子や地代の「費用」化と対比して、マルクスは、平均利潤は産
業資本家にとっては「前貸を越える剰余(MEGA、1510;草稿集F496)と
して現われると言う。すなわち、「産業資本家は当然のこととしてこの剰余
を、剰余価値のこの部分を・・・それ自体特に、彼の費用を越える超過分と
みなし、利子や地代のように彼の前貸に属するものとはみなさないのである」
(MEGA、1477;草稿集F477)。「平均利潤は、生産価格そのものと同様に、
むしろ観念的に規定されており、また同時に、前貸を越える剰余としても、
本来の費用価格とは違った価格としても現われる。」(MEGA、1509-1510;草
稿集F496)、と。見られるように、マルクスはここで、「産業資本家は・・・
剰余価値のこの部分[ 平均利潤――松尾 ]を・・・彼の費用を越える超過
分とみな」す=「平均利潤は、・・・観念的に規定されており、・・・前貸
を越える剰余として・・・現われる」と述べている。これまでマルクスは、
平均利潤は「費用」価格の一要素をなすものと把えてきた、すなわち費用価
格=生産費=前貸資本+平均利潤と把えてきたが、いまや《利潤の利子と産
業利潤とへの分裂論》―→利子の「費用」化論に即して考えてみると、平均
利潤は「前貸を越える剰余」として現われるものと把えざるをえない、とい
うわけである。つまり、ここでマルクスは、彼の「生産費」・「費用」概念を、
利子生み資本論の展開を踏まえて再度変更し、その結果「費用価格」と「生
産価格」の概念的区別を始めることになったのである。
ところで、このようにマルクスが平均利潤を「費用」ではなく「前貸を越
える剰余」であると把えなければならない根拠はなにか。それをマルクスは
次のように説明している。「平均利潤は、生産価格そのものと同様に、むし
ろ観念的に規定されており」、「それがあるかどうか、市場価格におけるより
も――つまり過程の直接的結果におけるよりも――より多く出てくるか、よ
り少なく出てくるかは、再生産によって、またはむしろ再生産の規模によっ
ー35ー
|
て、定まる。あれこれのどの部面の現存の諸資本からより多く引き出される
か、または与えられるか、同様に、どんな割合でこれらの特殊な部面に新た
に蓄積された諸資本が流入するか、最後に、どんな度合いでこれらの特殊な
部面が貨幣市場で買い手として現われるか。」(MEGA、1510;草稿集F496)、
と。つまり、平均利潤は、生産価格と同様に、観念的に規定されたものであ
り、「それがあるかどうか、・・・過程の直接的結果におけるよりも――よ
り多く出てくるか、より少なく出てくるかは、再生産によって、またむしろ
再生産の規模によって、定まる」のであり、したがって平均利潤は「確定さ
れた形態」・確定された大きさで、生産過程にとって前提として現われはし
ないのにたいして、「利子や地代では、剰余価値の諸部分が個々別々に、ま
ったく確定された形態で、個々の生産価格[生産過程の解読誤りではないか
と思われる――松尾 ]にとって前提として現われる」、ということである。
ここでの論述は簡明にすぎる。しかし、このような利潤の不確実性・変動性
の問題は、実は、すでにマルクスによって、一般的利潤率の非固定性・非一
様性に対する一般的利子率の固定性・一様性という形で詳細に説かれている
(MEGA、1461-1464;草稿集F417-422)。したがって、われわれはそれを
想起することによってマルクスの推論を十分了解することができる。
ところで、これまでの議論の流れを要約すると次のようになろう。すなわ
ち、利潤率は変動極まりなく諸資本間に種々の格差が存在するが、利子率は
固定的でありすべての資本において一様に変動し、したがって資本にとって
与件として現われるという議論―→これを受けて《利潤の利子と産業利潤へ
の分裂論》―→これを受けての利子の「前貸」・「費用」化論(「借り入れた資
本で仕事をする産業資本家にとっては、利子または資本としての資本は彼の
費用のなかにはいる」し、また「自分の資本で仕事をする産業資本家」にと
っても利子は「前貸しされたもの」として現われるという議論、資本は生産
過程にかかわりなしに、潜在的に自分自身のうちに剰余価値の一部分を利子
として宿しており、 したがって資本は生産過程にはいる前から、 前提とし
て・前貸として利子を含んでいるという議論)―→以上の議論の総括として
ー36ー
|
「生産費」・「費用」概念の変更・展開―→それらの議論の結果として、平均
利潤は、観念的に規定されたものであり「本来の費用価格」から排除される
のに対して、利子・地代は、生産過程にとって前提されたもの、費用価格の
一構成部分であるということになる。
かくて、マルクスは次のように言う。「剰余価値の諸部分――利子と地代
――はここでは搾取を行なう資本家の費用として、彼の前貸として、現われ
るのである。/・・・平均利潤は、生産価格そのものと同様に、むしろ観念
的に規定されており、また同時に、前貸を越える剰余としても、本来の費用
価格とは違った価格としても現われる。・・・これに反して、利子や地代で
は、剰余価値の諸部分の個々別々に、まったく確定された形態で、個々の生
産価格にとって前提として現われるのであり、前貸という形態で先取りされ
ているのである。/{費用と名づけることができるのは、前貸しされたもの、
したがって資本家にとって支払われたものである。これに応じて、利潤はこ
の費用を越える剰余として現われる。・・・こうして、前貸によって規定さ
れた価格を費用価格と呼ぶことができるのである。/生産費と呼ぶことがで
きるのは、・・・前貸資本の価格・プラス・平均利潤、によって規定される
価格である。・・・このような価格が生産価格である。/最後に、商品の生
産に必要な労働・・・の現実の量は、商品の価値である。 この価値は、 商
品そのものにとっての現実の生産費をなしている。・・・『生産費』という
名は、時に応じてこの三つのうちのどれかを意味する}」(MEGA、1509-
1510;草稿集F496-497)。要約すると次のようになる。すなわち、利子や地
代は資本家の費用として、前貸として現われるのにたいして、 平均利潤は、
生産価格と同様に観念的に規定されており、前貸を越える剰余として現われ、
本来の費用価格にははいらない。したがって、まず第一に費用と呼ぶことが
できるのは、「前貸しされたもの」=「資本家によって支払われたもの」で
あり、これによって規定された価格が「費用価格」であり、第二に生産費と
呼ぶことができるのは、平均利潤をも含む価格、すなわち前貸資本の価格・
プラス・平均利潤によって規定される価格であり、この価格が生産価格であ
ー37ー
|
り、生産費の第三概念は、周知の「商品の生産に必要な労働・・・の現実の
量」に等しい「商品そのものにとっての現実の生産費」である、と。
ここでの「 生産費 」規定に関して、次のような点を指摘しておかねばな
らない。すなわち、「生産費 」の三様の概念規定は、このノート]X・928
(MEGA、1510;草稿集F496-497)においてはじめて行なわれたものでは
なく、すでにノート ]W・787ー790(MEGA、1272-1274;草稿集F112-
115)において行なわれていた。しかし、 後者においては、「費用価格」と
「 生産価格 」という用語が 同一の意味をもつ言葉として使用されていた。
それに対して、ノート]X・928では、「生産費」の三様の概念規定が行なわ
れると同時に、それまでほぼ同意義に使用されてきた「費用価格」と「生産
価格」とが異なる概念を表わす用語として区別されている。このような区別
が行なわれることになった原因は、明らかに、利子・地代の「費用」化の結
果として、これまで「生産費」の一構成部分として取扱われてきた平均利潤
が、ここに至って、「前貸を越える剰余」であると規定されることになったた
めである。そして、このように平均利潤が規定されるようになったのは、す
でに見てきたように、利子生み資本論における一連の議論、とりわけ利子の
「費用」化論に起因すると見ることができる。したがって、ノート]X・928
における「生産費」規定、「生産価格」と「費用価格」の区別および両者の
概念規定は、マルクスの思い付きによって偶然的に行なわれたものではけっ
してなく、ノート ]Xの「収入とその諸源泉 」部分における利子生み資本
論の展開の必然的結果として行なわれたものであると言わなければならない。
W 「費用価格」と「生産価格」の概念的区別の定着
ノート]X・928以降ただちに、『資本論』の「生産価格」に相当する概念
を表わす用語が「費用価格」から「生産価格 」へと移行したわけではない。
ノート]X・928以降『資本論』の「生産価格 」に相当する概念を表わす用
語として「生産価格」という用語がしだいに多用されるようになっていくが、
暫くの間は「費用価格」が幾度か使用されている。すなわち、たとえば、ノ
ー38ー
|
ート]X・929では、「費用価格は、諸前貸資本の価値・プラス・それらによ
って生産された剰余価値が特殊な諸部面のあいだにそれらの部面が総資本の
なかで占める割合に応じて配分されるもの、にほかならない。こうして、費
用価格は、個々の部面でなく総資本を考察すれば、 価値に帰着する。他方、
それぞれの部面における市場価格は、いろいろな部面の諸資本の競争によっ
て、絶えず費用価格に還元される。それぞれの特殊な部面で行なわれる資本
家たちの競争は、商品の市場価格をその市場価値に還元しようとする。いろ
いろな部面の資本家たちの競争は、諸市場価値を共通な諸費用価格に還元す
る。」(MEGA、1513;草稿集F500)。また、ノート]X・930では、「諸価値
の費用価格への均等化は、ただ次のことによってのみ行なわれる。すなわち、
・・・」(MEGA、1515;草稿集F503)。
「費用価格」と「生産価格」の併用はノート ]X・928以下に固有なこと
ではない。実は、ノート ]X・529において「平均価格」という用語に加え
て「費用価格」という用語が登場して以後、しだいに「費用価格」という用
語が愛用されるようになるが、しかしその合い間合い間に、幾度か「生産価
格」という用語が登場する。たとえば、ノート ]X・548では、「このあと
のほうの場合に生産価格または費用価格が変動しうるのは、・・・」(MEG
A、861;草稿集E303)。また、ノート]U・624では「十分な価格というのは、
商品が市場へ出てくるのに必要な、つまり、 それが生産されるのに必要な、
価格のことであり、したがって商品の生産価格のことである。・・・(中略)
・・・十分な価格とは、実際には生産価格すなわち費用価格なのであって・
・・資本家の前貸のほかに通常利潤をも支払うというところの価格、資本の
いろいろな充用部面で 資本家間の競争が 生みだすような平均価格なのであ
る。」(MEGA、978-979;草稿集E489-490)。また、ノート]U・647では、「絶
対地代は、 農業生産物の価値のうちの その生産価格を超える超過分に等し
い・・・。生産価格が支払われた費用から成っているかぎりでは、生産価格
の低下は、価値の低下と一致し、それとともに進む。しかし、生産価格(ま
たは費用)が前貸資本・プラス・平均利潤に等しいかぎりでは、事情はまさ
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に逆になる。・・・」(MEGA、1018;草稿集E557)。また、ノート]W
・833では、「さらに、価値の生産価格への転化を別にすれば――単に価値だ
けを考察するならば・・・」(MEGA、1340;草稿集F233)。
したがって、ノート]X・928以降に特徴的なことは、「費用価格」と「生
産価格」とが異なる概念を表わす用語としていったん規定されながら、それ
以後も両者が同じ概念を表わす用語として併用されているということである。
しかし、こうしたことはマルクスにおいては奇妙なことではないらしい。と
いうのは、「平均価格」から「費用価格」への以降の際にも、新しい「費用
価格」という用語が登場したあと、両者はしばらく併用されていたという前
例があるからである。
『資本論』の「生産価格」に相当する概念を表わす用語としての「費用価
格」と「生産価格」の併用は、ノート]X後半の「商業資本。貨幣取引業に従
事する資本」部分(ノート]X・944-973)において漸く解消されたようであ
る。より正確に言うと、この「商業資本。・・・」部分における商業利潤の
考察過程(ノート]X・955以降)において、はじめて解消されたようである。
「商業資本・・・」部分は、その冒頭からただちに本格的な商業資本・商
業利潤論を展開しているわけではない。まず冒頭部分ノート ]X・944-950
b(MEGA、1545-1558;草稿集G5-28)では利子生み資本(高利資本)・商
業資本の歴史的形態の考察とそれらの諸学説の分析が行なわれ、さらにノー
ト]X・950b-956(MEGA、1558-1569;草稿集G29-46)では「労働の生産
性が増大すれば、個々の商品の価格は下がり、商品の数は増加し、どんな事
情のもとでも商品一個当たりの利潤量は減少し、利潤率は同じままか上がる
か下がるかするが、しかし、商品の総数にたいする利潤量は同じままである
か増加する」という現象(MEGA、1568;草稿集G45)について種々の分析
が加えられ、しかるのちに、ノート]X・955(MEGA、1569;草稿集G46)
以下、マルクスは、本格的に商業資本・商業利潤論を展開している。問題の
「費用価格」と「生産価格」との概念的な区別は、それらの叙述中に商業利
潤の発生メカニズムを解明する必要から行なわれている。以下、幾つか引用
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してみよう。
「生産資本の生産価格は、商業資本にたいしては費用価格として現われる。
ところが産業資本は購買し、市場で自分の諸要素を、・・・補填するのだか
ら・・・そして、これらの要素は商人の手から産業資本家の手へ渡るのだか
ら、・・・一商品の生産価格だけが他の商品の費用価格のなかへ移ってゆく
のではなく、産業の生産価格は、一商品のこの価格に商業がつけ加えるもの
[といっしょに]他の商品の費用価格の要素として現われる・・・。/商品
の産業的生産価格は、商人の介入なしに産業資本家たちが直接に交換する場
合でも、つねに他の商品の費用価格にはいってゆく。・・・したがって、個
々の資本家の観点からすれば剰余価値そのものが彼の前貸のなかに、彼の商
品の費用価格のなかに、利子の形態ではいるというだけではない。そうでは
なく、このようなことは、彼の不変資本のあらゆる要素について起こるし、
労働能力の価値が労働者の消費手段の生産価格によって規定されるときには、
そのかぎりで労働(可変資本)についても起こる。/彼にとっては利潤は、
彼自身の商品に関してだけは、費用価格を越える超過分――それゆえにまた
生産価格と費用価格との差額――として現われる。それだから、彼自身の商
品の生産価格にはいってゆく他のあらゆる商品に関しては、費用価格つまり
生産価格を規定する彼の生産の費用と、利潤とが、彼にとっては、生産価格
のなかにはいってゆく要素として、その要素から出てくる結果としてではな
く、現われるのである。/このことが妥当するのは、生産価格が商人資本の
介入とはまったく独立に考察される場合である。では、この商人資本はどう
なっているのであろうか?商人資本の行なう追加は、価値を越える価格の単
なる名目的な引上げとみなすことができるのかどうか、または、どのように
してなのか?前のほうのことが平均して起こるとすれば・・・すべての商品
はその価値よりも高く売られる。・・・生産価格を高くする一要素がつけ加
わるならば、総商品の価格はその価値よりも大きくなり、個々の商品の価格
は、その生産価格よりも、換言すればまさしく、総商品の価値によって規定
されるその価格よりも、大きくなる。だが、このようなことは商業資本につ
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いて起こっていることのように思われる。」(MEGA、1569-1570;草稿集G
47-49)。
「どのようにして商業資本は、自分のものになる剰余価値率または利潤率
を自分のほうに引き寄せるのか?・・・はっきりしている現象は、商業資本
が商品の価格のうえに平均利潤率をつけ加える、ということである。すでに
見たように、一つ一つの商品の生産価格、または商品の価値のそれぞれ特殊
な生産部面の全資本にとっての生産価格は、いろいろに違っており、同じで
あることも、より大きいことも、より小さいこともありうる。しかし、諸商
品の生産価格の総計は、それらの価値の総計に等しい。したがって、それぞ
れの産業資本家が商人に売る平均価格が産業資本家の商品の生産価格に等し
いとすれば、商業資本が支払う商品価格の総計は価値の総計に等しい。そし
て、商業資本の全体をとってみれば、諸商品の価値が費用価格または購買価
格を形成するであろう。そして、彼の利潤は購買価格と販売価格との差額に
等しいのだから、彼は、すべての商品をその商品の価値よりも高く売ること
になろう。各個の商品にとっては、その商品の生産価格が費用価格であるこ
とになり、 彼はそれらの商品をその生産価格よりも高く売ることになろう。
全商品にとっては、これは、彼がそれらの商品をその価値よりも高く売った
ということと同じであろう。彼の利潤は――全体をとってみれば――彼が諸
商品をその価値どうりに買ってその価値よりも高く売るということから出て
くることになろう。この操作によって、剰余価値(または利潤 )の一部分、
すなわち商品のうち剰余価値を表わす一部分は、彼の手にはいっていること
になろう。・・・これは、剰余価値の分けまえにあずかる一つの回り道であ
る。そうでないとすると産業資本が商品を売るときの生産価格は、商品の現
実の生産価格と等しいものではなく、この現実の生産価格から商人の手に落
ちる利潤部分を差し引いたものに等しいのである。この場合には商品の生産
価格は、その商品の費用価格・プラス・産業利潤(利子を含む)・プラス・
商業利潤に等しい。産業資本が流通においては、すでに剰余価値として諸商
品のなかに含まれている利潤を実現するだけである・・・ のと同じように、
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この場合、商業資本はただ利潤を実現するだけであろう。というのは、産業
資本によって実現された商品価格では、剰余価値全体はまだ実現されていな
いからである。商業資本の販売価格が購買価格よりも高いのは、[その販売
価格が]諸商品全体の価値よりも高い[から]ではなく、商業資本の購買価
格では価値が実現されており、[――つまり]剰余価値[のなかに]――商
人は帰属する部分[が含まれている]からである。」(MEGA、1596-1597;
草稿集G83-84)。
以上要約すると次のようになろう。すなわち、商業利潤はどのように発生
するか?答えは二つである。一つは、商人がすべての商品をその商品の価値よ
りも高く、その生産価格よりも高く売ることによって、利潤を得ることがで
きるという答え。もう一つの考え方はこうである。すなわち、「産業資本が
商品を売るときの生産価格は、商品の現実の生産価格と等しいものではなく、
この現実の生産価格から商人の手に落ちる利潤部分を差し引いたものに等し
」く、「商品の生産価格は、 その商品の費用価格 ・プラス・産業利潤(利
子を含む)・プラス・商業利潤に等しい」、したがって「産業資本によって
実現された商品価格では、剰余価値全体はまだ実現されていない」、商人は
商品の現実の生産価格で商品を売ることによって剰余価値中の商人に帰属す
る残りの部分を商業利潤として実現するのである、と。
「ノート]X冊からの続き」であるノート]Z・1029において、マルクス
は次のような確認をする。すなわち、「こうして、商業資本は剰余価値の平均
利潤への均等化にはいって行くのであり・・・、それゆえまた平均利潤率を
含んでおり、 すでに剰余価値のうち商業資本に帰属する控除分を、 つまり
生産資本の利潤からの商業上の控除分を含んでいるのである。」(MEGA、
1684;草稿集G222)。これによってわかるように、マルクスは、ノート]X
において商業利潤の発生メカニズムを解明しえたものと判断したようである。
マルクスの判断の当否はともかくとして、重要なことは、商業利潤の考察
過程においてマルクスが「生産価格」と「費用価格」の二つの用語を概念的
に明確に区別するようになったということである。マルクスは、ここで二つ
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の用語を次のような意味で使用している。すなわち、 商業資本にとっては、
「費用価格」=「購買価格」であり、「生産価格」=「販売価格」=「費用価格・プ
ラス・産業利潤(利子を含む)・プラス・商業利潤」である、と。ここでは、
商業資本にとっての「費用価格」と「生産価格」の概念上の区別が行なわれて
いるにすぎないが、重要なことは、筆者の調べたかぎりでは、以後マルクス
はこの二つの用語を明確に区別して使用するようになったということである。
以上、われわれは、『資本論』における「生産価格」に相当する概念を表
わす用語が、いつ、どこで、どのような事情によって「費用価格」から「生
産価格」へ変更されたかを明らかにした。最後に、われわれは、この用語の
変更が『資本論』形成史においてどのような意味をもっているかを簡単に指
摘しておこう。
まず指摘すべきは、『資本論』における「生産価格」に相当する概念を表
わす用語が、ノート ]X・928において新たな「生産費」概念が成立した結
果として、「費用価格」から「生産価格」へと変更されることになったとい
うことである。つまり、「費用価格」から「生産価格」への移行の意味を考
える場合、われわれは、まずそれに先行する「生産費」概念の変更・展開の
もつ意味を考える必要があるということである。ノート]Xにおける「生産
費」概念の変更・展開は、すでに見たように、ノート]X中の「収入とその
諸源泉」における利子生み資本論の展開、とりわけ《利潤の利子と産業利潤
とへの分裂論》―→利子の「費用」化論の展開を受けて行なわれたものであ
り、したがって、われわれは、この「費用価格」の「生産価格」への用語の
移行問題を単なる言葉の変更と見るのではなく、この用語の変更――より正
確に言えば両者の概念的な区別――をもたらした「生産費」概念の変更・展
開の意味、さらには新たな「生産費」概念をもたらしたマルクスの経済学研
究の進展(利子生み資本論の展開)、その結果としての新たな叙述プランの
生成を読みとるべきであろう。
ノート ]X・928において「費用価格」から「生産価格」への用語の変更
が利子生み資本論、とりわけ利潤の利子と産業利潤とへの分裂一利子の「費
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用」化論の展開の結果として行なわれたということは、この用語の変更は、
利子生み資本論(その内容として利潤の利子と産業利潤とへの分裂論、利子
の「費用」化論)がいまや生産価格論の前提理論として「資本と利潤」篇の
どこかの個所で考察されるというプランが生成しつつあることを意味してい
ると見るべきであろう。つまり、「生産価格」という用語を使用するかぎり、
その概念の前提理論として地代論、利子生み資本論の同時的な展開を必然な
らしめるということである。
「費用価格」から「生産価格」への用語の移行の意味はそれだけではない。
さらに、「費用価格」という用語と「生産価格」という用語の併用がノート
]X・944以下の「商業資本・・・」論部分において解消されたという事情を
考えなければならない。商業資本論、とりわけ商業利潤論の展開過程におい
てはじめて「費用価格」と「生産価格」とが二つの異なる概念を表わす用語
として明確に区別され使用されるようになったのは、商業資本論が「資本と
利潤」篇のどこかの個所でその前提議論として展開されるということを念頭
において商業利潤の発生メカニズムの立ち入った分析が行なわれた結果であ
るという事情を考えなければならないであろう。 <終了>
(まつお じゅん/経済学部助教授/1986.10.30受理)
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