『経済経営論集』(桃山学院大学)第28巻第3号、1986年12月発行

  

生産価格論の形成(3)
――「平均価格」から「費用価格」へ――

 

松尾 純

   T.は じ め に
  前々稿1)では、われわれは、 1861ー63年草稿2)前半期(ノート]Yおよび
ノート]Z冒頭部分を含む )におけるマルクスの平均利潤論および「標準価
格」・「平均価格 」論を詳しく分析した。その結果、次のことが明らかになっ
た。すなわち、この時期マルクスは、 平均利潤論については、「この点のよ
り詳しい考察は競争の章に属する」が、「きわめて重要な一般的なもの 」だ
けは「ここで説明されなければならない」(MEGA、1623 ; 草稿集G129 )と
しながらも、 かなり詳しい立ち入った議論を展開し、しかもそれらの問題は
「利潤に関する章」=「第3章 」に属すると明言している。それに対して、「標
準価格」・「平均価格」論については、 のちの生産価格論に結びつけうる議論
をほとんど展開しておらず、 平均利潤論に関連して僅かにその問題の所在を
附随的に指摘しているだけで、 肝心の理論の中味は ほとんど未展開であり、


1)拙稿 「生産価格論の形成(1)――用語の変遷を手掛りとして――」『経済経営論集』第
28巻1号、1986年6月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie ( Manuskript 1861-63 ), in :
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd.3,Teil 1,1976; Teil
2,1977; Teil 3, 1978; Teil 4,1979; Teil 5,1980; Teil 6,1982,Dietz Verlag. 以
下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、Teil 1〜5 部分については
資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する) CD
EFG、大月書店、1978,1980,1981,1982,1984年 に従う。 幾つかの個所で訳文を変
更したが、いちいち断わらない。 以下この書からかの引用に際しては、引用文直後に
MEGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して示す。例(MEGA、1974;
草稿集C234)。

ー21ー

その位置づけも未定であり「のちに私が証明する」(MEGA、386;草稿集D90)
と言うだけである。
  つづいて、前稿3)では、われわれは、1861ー63年草稿後半期のノート]〜ノー
ト]Tにおける議論を分析 ・ 検討した。 その結果次のことが明らかになっ
た。すなわち、この時期にはマルクスは、平均利潤論については勿論のこと、
「平均価格」(→「費用価格」)論についても本格的な議論を展開し、問題の基
本的な解決を果していた。そして、 この後半期での議論の本格的な展開の端
緒はノート]・445―ノート]T・552におけるロートベルトゥスの「新地代
論 」批判とそれをきっかけとするマルクスによる絶対地代の解明であり、平
均利潤論および「平均価格」(→「費用価格」)論はその理論的基礎として展
開されたものである。
  そこで、以下、われわれは、「平均価格」という用語が、いつ、どこで、
どのような事情によって「費用価格 」という用語に移行していったのかとい
う問題に焦点をあてつつ、ノート]T―]Uにおけるマルクスの平均利潤論・
「平均価格」=「費用価格」論を、「h.リカード」部分(ノート]T・522〜)
を中心にして、詳しく分析・検討することにすることにしよう。

U.生産価格論に関わる新しい用語の生成――「資本
の有機的構成」・「費用価格」4)

「h.リカード」(ノート]T・522以下)に入ってマルクスは、まず最
初に重農学派以降の地代諸学説を整理・批判し彼自身の地代論をまとめ、 次
いでリカードの自然価格論を検討する予備的考察を行なっている―― すなわ
ち、まずリカードの経済学の方法について批評し(MEGA、816―818;草稿集


3)拙稿「生産価格論の形成(2)――「平均価格」論の成立と絶対的地代の解明――」『経済経
営論集』第28巻2号、1986年10月。
4)この二つの用語の成立過程については、 拙稿「1861ー63年草稿記載の『 第3章 資本
と利潤』の作成時期について」『経済経営論集』第26巻第1号、1984年6月において
すでにその概要を見た。 本稿は、とくに後者の用語の成立過程を詳しく分析し、その
背後に潜む理論発展の意味を解明することを目的する。

ー22ー

E232―236)、さらにリカードの主著『経済学および課税の原理』全体を概観
し(MEGA、818―820;草稿集E236―240)、最後にリカードの「価値」諸規定
を批判している(MEGA、820―825; 草稿集E240―245)然るのちに、マル
クスは、「1 利潤、利潤率、平均価格などに関するリカードの諸説」部分に
おいて、リカードの価値修正論に対して逐条的批判を加えつつ、 自らの平均
利潤論・「平均価格」論を確認し深める作業を行なっている。
  ここでの論述においてわれわれが注目すべきは、まず第1に、マルクスが、
「資本の有機的諸成分の割合」あるいは「資本の有機的構成」という概念を平
均利潤論・「平均価格 」論を展開するためのキー概念として頻繁に使用して
いるということであり、第2に、 これまで愛用されてきた「平均価格」とい
う言葉に代って、マルクスは、 それと同義の「費用価格」という新たな言葉
を使用しはじめている、ということである。
  1)このうちまず、「資本の有機的構成」という用語の生成について見るこ
とにしよう。
  たとえば、マルクスは次のように述べている。すなわち、ノート]T・529
では、「一般的利潤率が存在するということだけで―― まず直接的生産過程
では可変資本と不変資本との区別として現われ、 のちには流通過程から生じ
る区別によってなおいっそう増大させられるような、 資本の有機的諸成分に
相違がある場合には――、 たとえ労賃が不変のままであることが前提されて
いても、価値とは区別される費用価格が生じ、 したがって労賃の騰落にはま
ったくかかわりのない一つの区別と一つの新しい形態規定とが生じる 」(
EGA、827―828;草稿集E249)「彼[リカード]はすでにこの区別[平均価
格と価値との区別]を想定していたのである。というのは、 彼は一般的利潤
率を前提し、したがってまた、 諸資本の有機的諸成分の割合が違うにもかか
わらず、 これらの資本はその大きさに比例した利潤を生むということを前提
していたのだからである」(MEGA、827;草稿集E249)。 「彼は次のような
結論で満足しているのである・・・。すなわち、 商品の費用価格・・・の変
動、といっても、 別々の部面に投下された諸資本の有機的構成が違う場合に
ー23ー

労賃の変化・・・によって生じるかぎりでの変動、 がひとまず認められ考慮
されたとしても―商品の『相対的価値 』が労働時間によって規定されるとい
う法則は依然として正しく、 その変動はこの法則に矛盾するものではない、
というのは、商品の費用価格の変動は、一時的なもの以外はすべて、 依然と
して諸商品のそれぞれの生産に必要な労働時間の変化によってのみ 説明でき
るのだからである、という結論がそれである」(MEGA、828;草稿集E249―
250)。またノート]T・532では、「等しい大きさの諸資本は、その有機的諸部
分の割合またはその流通時間がどうであろうと、 等しい大きさの利潤をもた
らすので、 すなわち諸商品がその価値どうりに売られる等々の場合には不可
能であるものをもたらすので、 この価値とは区別される諸商品の費用価格が
存在するのである」(MEGA、833;草稿集E258)。またノート]T・537では、
「というのは、マルサスは正しく次のように述べているからである。 すなわ
ち、 別々の産業部門における資本の有機的諸成分の差異といろいろな資本の
回転期間とは生産の進歩とあいまって進むのであり、 したがって、労働時間
による価値の規定は、しだいに、 もはや『文明化された』時代には適合しな
くなっているというA・スミスの立場に到達するであろう、と」 (MEGA
841;草稿集E271)。またノート]T・540では、「同じ大きさの諸資本は、それ
らの有機的諸成分の割合が同じであれば、・・・ 等しい価値をもった諸商品
を生産する。この場合、それらの商品には、・・・ 同じ労働量つまり等しい
価値が体化されている。これに反して、 諸資本の有機的構成が違っている場
合には、 特に固定資本として存在する部分と労賃に投下された部分との割合
が非常に違っているばあいには、 同じ大きさの諸資本が非常に不等な価値を
もった諸商品を生産する。第一に、 固定資本は、その一部分が価値成分とし
て商品のうちにはいるにすぎない。 したがって、すでにこれによって価値の
大きさは、 その商品の生産に固定資本が多く使用されるか少なく使用される
かに応じて、非常に違うことになる。第二に、 労賃に投下される部分は――
同じ大きさの資本量について100 当たりで計算すれば、[有機的構成の高い資
本におけるほうが]はるかに小さい。したがってまた、 商品に[新たに]体
ー24ー

化される総労働も、 したがって、{等しい長さの労働日が与えられている場
合には}、剰余価値を構成する剰余労働も、 はるかに小さい。だから、これ
らの同じ大きさの資本、すなわち、その商品が不等な価値をもち、 その不等
な価値のうちに不等な剰余価値が、 したがってまた不等な利潤がはいりこん
でいるところの、 このような諸資本が――もし同じ大きさであるために――
等しい利潤を生むためには、 財貨の価格は・・・財貨の価値とは非常に違わ
ざるをえない。このことから当然出てくる結論は、 価値がその性質を変えた
ということではなく、価格と価値とは違うということである」(MEGA、847;
草稿集E281ー281)。またノート]T・541では、「いろいろな有機的諸成分が平
均的な割合ではいっているという構成をもつ商品・・・ その流通時間と再生
産時間とが平均的である諸商品・・・これらの商品については、 費用価格と
価値とは一致する。というのは、それらの商品の場合には、平均利潤が、 そ
れらの商品の現実の剰余価値と一致するからである」(MEGA、848;草稿集
E283)これ以後は、まずノート]T・558(草稿集E334)に一度「資本の有機的
構成」という語が登場し、さらに「リカードの地代論」(ノート]T・560―ノ
ート]U・618―MEGA、880―968;草稿集E337―475)部分で「資本の有機
的構成」という用語が頻出する。
  これらの引用からわかることは、第一に、マルクスが「平均価格」論およ
び地代論の展開にとって「資本の有機的構成 」概念がいかに重要な役割を演
じるものと考えているかということであり、 しかも第二に、ちょうどこの時
期に、より正確に言うと、ノート]T・540をほぼ境にして、これまで使用さ
れてきた「資本の有機的諸成分の割合 」という用語から 「 資本の有機的構
成」という用語――この用語は、以後概念内容の変化・精密化を受けながら、
『資本論』にいたるまで愛用されることになるが―― への移行が見られると
いうこと、である。
  「1 利潤、利潤率、平均価格などに関するリカードの諸説」部分や「リカ
ードの地代論」部分では、これらの用語が使われているか、 使われていない
かに関係なく、 可変資本の不変資本にたいする割合が諸資本間で相違すると
ー25ー

いう事情が、「平均価格」・「費用価格」をめぐる議論(リカードの価値修正論
批判およびマルクス自身の「平均価格」=「費用価格」論の展開)にとって決
定的な意義をもつものと考えられ、議論の展開軸をなしている。 このように
「資本の有機的構成」概念が「平均価格」論・「費用価格」論にとって重要な
意義をもつようになったのは、すでに見たところからわかるように、 農工間
の資本の有機的構成の相違という事情が 絶対地代の解明のための重要な条件
として登場してきたことに その起点を もとめることができるように 思われ
る。5)
  2)次に、第二の点、すなわち「平均価格」という用語から「費用価格」
という用語への移行について見ることにしょう。
 『資本論』の「生産価格」に相当する概念を表わすために、ノート]T・529
に至るまでマルクスはもっぱら「標準価格 」あるいは「平均価格」という言
葉を使用してきたが、ノート]T・529に至ってこの用語に加えて、それとま
ったくと同義の「費用価格 」という用語が登場し、以後しだいにこの言葉が
単独で使用されるようになる。そしてノート]X・927に至るまでこの用語
が愛用されることになる。
  すなわち、ノート]T・529では、「この区別は、価値自体にはなんの関係も
ないが、別々の部面の利潤にたいしては違った影響を及ぼすために、 価値そ
のものとは違う平均価格――または、 われわれが言いたいように言えば費用
価格――をもたらすのであり、 この価格は直接に商品の価値によって規定さ
れるものではなく、 その商品に前貸しされた資本・プラス・平均利潤によっ
て規定されるものである・・・。・・・ この平均的な費用価格は商品の価値
とは違う」(MEGA、827;草稿集E248)。さらにたとえば、ノート]T・532
では、「{こうして、平均利潤――リカードウによって前提された一般的利潤
率――の結果として、 商品の価値とは区別される平均価格または費用価格が
成立する}」(MEGA、832ー833;草稿集E257)。さらに、ノート]T・533で

5)機会を得次第、別稿にて、いま指摘した論点をも含めて、「資本の有機的構成」概念・
用語の成立過程について立ち入った分析を加えてみたいと考えている。

ー26ー

は、「商品の費用価格は、 それが商品に含まれている前貸の価値・プラス・
同じ年利潤率によって規定されるかぎり、 商品の価値とは違っているという
こと、そしてこの相違が生じるのは、 諸商品が前貸資本にたいして同じ利潤
率を生むような価格で売られることによるのだということ、 要するに、費用
価格と価値とのこの相違は一般的利潤率ということと同じなのだということ、
である」(MEGA、833―834;草稿集E259)。「投下資本の大きさが等しい場
合でも、 可変資本と不変資本との割合がどうであるかによって、価値の大き
さの不等な諸商品、 したがってまた利潤の違う諸商品が生みだされざるをえ
ないということ、したがって、 これらの利潤の均等化は諸商品の価値とは違
う費用価格を生みだすにちがいないということである」(MEGA、835;草稿
集E261)。さらに、ノート]T・536では、「すべての商品のこれらの費用価格
を合計すれば、 その合計はそれらの商品の価値に等しいであろう。同じよう
に、総利潤は、 これらの資本の合計がたとえば一年間に生みだす総剰余価値
に等しいであろう。 もしわれわれが価値規定を基礎とするのでなければ、平
均利潤、したがってまた費用価格は、 単に想像上の、根拠のないものにすぎ
ないであろう」(MEGA、840;草稿集E270)。さらに、ノート]T・537では、
「この例証・・・ は、 本質的な問題すなわち価値の費用価格への転化とは、
ないの関係もない」(MEGA、842;草稿集E273)さらに、ノート]T・547
では、 「競争がいろいろな産業部門の市場価格を強制して回転運動をさせる
中心は、商品の価値ではなく、 その費用価格、すなわち商品に含まれている
経費・プラス・一般的利潤率である」(MEGA、859; 草稿集E300―301)。
  ところで、問題は、「平均価格」という用語に代ってそれと同義の「費用
価格」という用語が使用されるようになったのは、いつごろ、 どのような理
由・事情によってか、ということである。以下、 この問題を考えることにし
ょう。

V.「平均価格」から「費用価格」への移行の時期・個所
  まず、「平均価格」から「費用価格」への移行が、いつごろ、そして、草

ー27ー

稿のどのあたりで行なわれたのか、という問題から 考えることにしょう。
  「費用価格 」という用語が最初に登場するのは、――ノートY ・264
(MEGA、387;草稿集D91) やノート]・470(MEGA、721;草稿集E82)
でのように、「費用価格」が商品の価値C+V+Mに等しいものという意味
をもっている場合を除けば――ノート]T・529である。ところが、それにた
いして、「平均価格」という言葉は、ノート]T・529以後ただちに消滅した訳
ではなくて、その後も幾度か使用されており、「費用価格」と「平均価格」と
の併用期間がしばらく続く。しかし、 「平均価格」という用語はしだいに使
用されなくなっていく。
  すなわち、たとえば、ノート]T・532では、「{こうして、平均利潤――リ
カードウによって前提された一般的利潤率――の結果として、商品の価値とは
区別される平均価格または費用価格が成立する}」(MEGA、832―833;草稿
集E257)。「{・・・この両方の連中がともに、・・・自分たちの商品は、そ
れぞれの価値がどうであろうと、 そのそれぞれに同じ利潤率を与える平均価
格で売られなければならない、という固定観念をもっている・・・。}」(
EGA、833;草稿集E258)。また、ノート]T・543冒頭では、「平均価格また
は費用価格と市場価格」という表題が見られる(MEGA、851;草稿集E288)。
ノート]T・545では、「むしろ彼がここで論じているのは、単に、別々の生産
部面の価格が費用価格または平均価格に還元されるということ、 したがって
別々の生産部面の市場価値の相互の関係についてだけであって、 各特殊な部
面における市場価値の形成についてではない」(MEGA、855;草稿集E293)。
ノート]T・562では、「これが解決されれば、問題は、絶対地代は存在するか
どうか?ということに帰着する。・・・/ ところで、リカードウが、諸商品
の価値と平均価格とは 同じだというまちがった前提から出発してしまったか
らには、 当然この問いにたいして否と答えるということは、 明らかである」
(MEGA、885;草稿集E345)。ノート]U・594では、「いま農業に投下されて
いる100ポンドの場合に、構成がC60V40だと仮定しよう・・・。そうすれば、
価値は120である。しかし、これは工業の費用価格に等しいであろう。それ
ー28ー

ゆえ、  上述の場合において、 資本100についての平均価格は110ポンドだ、と
仮定しよう。そうすると、われわれは、 もし農業生産物が価値どおりに売ら
れるならば、その価値はその費用価格よりも10ポンド高い、と言う。その場
合には、農業生産物は10%の地代をもたらすのであって、このことを、 われ
われは、・・・農業生産物が・・ 土地所有があるために、その費用価格ででは
なくその価値どおりに売られるところの、 正常な事態とみなすのである。」
(MEGA、931ー932;草稿集E415)。ノート]U・596では、「われわれは、まさ
に絶対地代の形成を、 農業における土地所有が諸商品の価値の平均価格への
資本主義的均等化に対抗して遂行するところの抵抗から、 説明する・・・ 」
(MEGA、934;草稿集E420ー421)。ノート]U・619では、「競争によって決定
される諸商品の平均価格または費用価格」(MEGA、969;草稿集E477ー 478)。
ノート]U・624では、「十分な価格とは、実際には生産価格すなわち費用価格
なのであって、 これは、 リカードウが A・スミスから取ってきたものであ
り、また、実際に資本主義的生産の立場からそう見えるとうりのもの、言い換
えれば、資本家の前貸のほかに通常利潤をも支払うところの価格、 資本のい
ろいろな充用部面で資本家間の競争が 生みだすような平均価格なのである」
MEGA、979;草稿集E490)。等々。[以後「平均価格」という用語はわず
かばかりの例外――たとえばノート]X・973(MEGA、1596;草稿集G83)、
ノート]Z・1030(MEGA、1686;草稿集G225)、ノート][・1088
(MEGA、1780;草稿集G394)――を、残して、ほとんど登場しなくなる。]こ
れらの使用例と違って、 マルクスが意識的に「平均価格」という用語を採ら
ずに「費用価格」という用語を選んだ例が存在する。すなわち、ノート]T・
551では、「しかし、結論としては、諸商品の価値・・・が、その商品の費用
価格を変動させるということは変わらないのである」(MEGA、866;草稿集
E313)と、また、ノート]T・566では、「だから、この場合に商品がその価
値どうりに売られるならば、この商品の価値は、 その費用価格、すなわち道
具の損耗分と労賃と平均利潤とを越えている。だから、 この超過分を地代と
して森林や採石場や炭鉱の所有者に支払うことができるのである」(MEGA
ー29ー

891 ; 草稿集E355)。編集者の[異文]紹介によると、文中の「費用価格」
は、前者の場合には「平[均価格]Durchsch[nittspreisse]」、後者の場合に
は「平均価[格]Durchschnittsp[reiß]」となっており、それらはおそらく、
マルクスは最初「平均価格」と書き、 のちに「平均価格」を消して本文のよ
うに書き換えたものである(MEGA、 U / 3. 3, Apparat,1978,S.47;草稿
集E313,355)。
これらの個所のうち、 「平均価格」という用語がまったく単独で登場する
のは、筆者の調べたかぎりでは、 このあたりではノート]T・532、 562、 ノー
ト]U・596ぐらいであり、他はすべて「平均価格」と「費用価格」とが同義
であることがわかるように並記されている。したがって、 「平均価格」とい
う用語から「費用価格」という用語への移行は、ほぼ、ノート]T・529から
ノート]U(581ー669)の冒頭部分にかけての期間・個所に行なわれたと見るこ
とができるであろう。
この期間の確定のために、マルクスの1862年 8月2日付けのエンゲルス宛
手紙が幾分か役立ちそうである。というのは、 手紙には次のような表現が見
られるからである。 すなわち、「・・・いま僕がもくろんでいるのは、すぐ
にこの巻のなかで地代論を、 挿入された一章として、すなわち以前に立てた
一つの命題の『例解』として、 取りこむ、ということだ。・・・(中略)・
・・競争(一部門から他部門への資本の移転または資本の撤退)は、 別々の
諸部門にある等額の諸資本は それらの有機的構成の相違にもかかわらず同じ
平均利潤率をもたらす、 ということを成就するのだ。・・・(中略)・・・
このように調整された価格、 すなわち、支出資本・プラス・平均利潤・・・
は、 スミスが自然価格とか費用価格などと呼んでいるものでだ。この平均価
格に、 別々の部門のあいだの競争が(資本の移転または資本の撤退をつうじ
て)別々の部門の価格を帰着させるのだ。 だから、競争は諸商品をそれらの
価値にではなく費用価格に帰着させるのであって、 この費用価格は諸資本の
有機的構成に応じて商品の価値より高いことも低いこともあり、 また価値に
等しいこともあるのだ。 / リカードウは価値と費用価格とを混同している。
ー30ー

だから、彼は、もし絶対地代というもの(すなわち、 いろいろな土地種類の
豊度の相違には係わりのない地代)が存在するとすれば、農業生産物などは、
費用価格(前貸資本・プラス・平均利潤 )よりも高く売られるのだから、つ
ねに価値よりも高く売られることになるだろう、と考えるのだ」。6)
手紙で使用されている用語について、 次のようなことを指摘することがで
きる。すなわち、 @「平均価格」という言葉と「費用価格」という言葉とが
併存しているということ、Aノート]T・529ではじめて登場しノート]T・540
以降専用されることになる「資本の有機的構成 」という用語がここに登場し
ているということ、Bノート]・489におそらくはじめて登場したと思われ
る「絶対地代 」という用語がここに登場しているということ、である。これ
らの用語上の特徴から見て、この手紙はおそらくノート]T・540(MEGA
847;草稿集E281)以降に書かれたものであると思われる。
ところで、手紙のなかでマルクスは、「地代論を、挿入された一章として、
すなわち以前に立てた一つに命題の『例証』として、取りこむ 」ことを「い
ま僕はもくろんでいる○○○」(〇〇は松尾) とだけ述べているのに対して、ノ
ート]T・578―579ではマルクスは次のように述べている。「ここで問題である
のは、ただ、 価値と費用価格とに関する私の理論の例証として地代の一般法
則を展開することだけであり、他方、 地代の詳細な説明は、私が特に意図し
て土地所有を論じることになったときにはじめて与えられるであろう―― だ
から、 私は事柄を複雑にするような事情はすべて避けてきたのである。・・
・これらはすべて、ここには属さない」(MEGA、907; 草稿集E381―382)。
すなわち、ここではマルクスは、 「地代の詳細な説明」は「特に意図して土
地所有を論じる」ときに行ない、「地代の一般的法則」は「価値と費用価格と
に関する・・・理論の例証として・・・展開する」、 という構想を表明して
いる。とすれば、18622年8月2日のマルクスの手紙は、ノート]T・578―579
以前に書かれたものと見ることができよう。 これを逆に言うと、次のような

6)岡崎次郎訳『資本論書簡』@、国民文庫、1971年、310―313ページ。

ー31ー

ことがわかる。すなわち、ノート]T・491で「これをもって地代論は本質的
にかたづいている」(MEGA、758;草稿集E144)と述べ、1862年6月 18日
のエンゲルス 宛 手紙で「今ではついに地代の問題も片づいた」が、 しかし
「この部分ではそれをただ暗示しようとさえも思ってはいない」7)と決め込ん
でいたマルクスが、地代論を「価値と費用価格とに関する私の理論」=「以前
に立てた一つの命題」の「例証」として「展開 」するということを「もくろ
み」、されにその構想を固めたのは、ノート]T・540から同578―579にかけて
の時期であろうということになる、ということである。
とすれば、「平均価格」から「費用価格」への用語の移行時期は、ちょうど、
マルクスが地代論を「価値と費用価格とに関する・・・理論 」の「例証」と
して「挿入された一章」において「展開 」するという構想を固めた時期でも
あると言うことができよう。
  ところで、以上の事情を考えてみたとき、われわれは、「平均価格」から
「費用価格」への用語の移行問題を、 単なる言葉の変更問題とはせずに、そ
の移行の経緯・ 事情をより立ち入って考察することによって、その背後に潜
む理論発展を明らかにしなければならない、ということになろう。
  以下、この問題を考察しょう。
W「平均価格」から「費用価格」への移行をもたらした事情
1)まず第一に、「平均価格」から「費用価格」への移行は、アンダソンの
地代論を検討する過程において、 マルクスの「費用」概念に変化が生じたこ
とと深く関わっているように思われる。「平均価格」=「前貸資本・プラス・
平均利潤」という把え方とともに「平均価格」=「生産費+平均利潤」という
把え方をしていたマルクスが、 「いわゆるリカードウの法則の発見の歴史に
関する覚え書き」(ノート]T・495―515)におけるアンダソンの地代論の検討
過程において、後者の「平均価格」=「生産費+平均利潤」という把え方を捨

7)同、308―309ページ。

ー32ー

てることになる。 その結果として、「前貸資本+平均利潤」に等しいものと
しての「費用価格」という概念 ・用語が登場するようになる。つまり、アン
ダソンからの引用とそれにたいする批評を通じて、マルクスは自己の「費用」
概念の転換を果し、「費用」=「前貸資本+平均利潤」という「費用」概念をも
つことになるのである。
「『・・・豊度の最も低い土地の耕作費用は、豊度の最も高い土地のそれと
同じ大きさであるか、またはそれよりも大きいのだから、 そのことから必然
的に次のようなことになる。すなわち、 もしそれぞれの土地の生産物である
等量の穀物が同じ価格で販売されうるとすれば、 豊度に最も高い土地の耕作
から得られる利潤は、 その他の土地の耕作から得られる利潤よりもはるかに
大きくなければならない。{ すなわち、支出額または前貸資本の価格を越え
る価格の超過分}そして、これ{すなわち利潤}は、 豊度の低さが大きくな
るのに応じて、絶えず減少するのだから、ついには、 劣等な部類の若干の土
地を耕作する費用が その全生産物の価値に等しいということが起こるにちが
いない。』・・・ アンダソンがここで『 全生産物の価値 』と呼んでいるの
は、彼の考えにおいては明らかに、 市場価格 ・・・・ にほかならない。そ
れにとっては、平均価格――すなわち生産費 ・ プラス・ 平均利潤によって
[形成された ]価格――が、その生産物の市場価格と一致するのであって、
したがって、 地代を構成しうるだけの超過利潤を与えることはない。・・・
彼はただ、次のように言うだけである。 すなわち、もし諸費用(生産費・プ
ラス・平均利潤 )が大きいために生産物の市場価格とその平均価格との差額
がなくなるということが『起こる 』とすれば、地代もまたなくなる、と。・
・・(中略)・・・ その生産物にとって平均価格と市場価格とが一致すると
ころの土地は、 少しも地代を支払うことができないということを、アンダソ
ンははっきりと次のように述べている。/ 『二つの土地があって、その生産
物はおおよそ先に示したとおり、 すなわち一方は諸費用を補う12ブッシェル、
他方は20ブッシェルであって、 両方の土地改良のために直接の支出は少しも
必要でないところでは、借地農業者は、 あとのほうの土地についてはたとえ
ー33ー

ば6ブッシェルよりも多くの地代さえも支払うのであろうが、 一方、他の土
地については少しも地代を支払わないであろう。12ブッシェルがちょうど耕
作費用に足りる額であるとすれば、12ブッシェルしか生みださない耕作地に
ついてはほんの少しの地代も与えることができないのである。 』・・・(中
略)・・・したがって、最優等耕作地の生産物は、 1エーカー当たりたとえ
ば20ブッシェルで、そのうち12ブッシェルが前提によれば諸費用(前貸・プ
ラス・平均利潤)だとすれば、その場合には、 彼は8ブッシェルを地代とし
て支払うことができる。 1ブッシェルは5シリングであると仮定すれば、・
・・20ブッシェルは5ポンドである・・・。この5ポンドのうち、諸費用は
12ブッシェルすなわち・・・3ポンドである。そうすれば、彼が支払う地代
は2ポンド・・・である。利潤率を10%とすれば、諸費用の3ポンドのうち、
投下額は54 6/11シリングであり、利潤は5 5/11シリングである。いま借地農業
者が、20ブッシェルを生む土地が最初にそうであったのとちょうど同じ豊度
の未耕地において、 その土地を一般的な農業の状態に適合するような耕作状
態にするために、 あらゆる種類の改良を取り入れなければならないと仮定し
ょう。このことは彼に54 6/11シリングに投下額のほかに、または、もしわれ
われが利潤をその諸費用に入れていっしょに計算するとすれば、60シリング
にほかに、なお36 4/11シリングの投下額を費やさせるであろう。」(MEGA
797―799;草稿集E206―209)。
これらの引用によってわかるように、「費用」=「前貸+平均利潤」という
アンダソンの「費用」の概念に接することによって、「平均価格」=「生産費
+平均利潤」、「平均価格」=「前貸資本+平均利潤」という把え方をしていた
マルクスが、「諸費用(生産費・プラス・平均利潤)」:「諸費用(前貸・プラ
ス・平均利潤)」という等式をもつようになっている。ところが、 「平均価
格」の場合には、「平均価格」=「前貸+平均利潤」という把え方をしようと、
「平均価格」=「生産費+平均利潤」という把え方をしようと、差し当りどち
らでもかまわなかった訳であるが、 新たに登場した「諸費用die expenses」
の場合には、「諸費用」=「生産費[die Productionskosten]+平均利潤」とい
ー34ー

うのは、言葉の使い方として問題があるといわなければならない。おそらく、
この不都合を免れるために、マルクスは、この後者の、「諸費用」=「生産費
+平均利潤 」という等式を捨てることになったものと思われる。 そのため、
これに対応して以後、「平均価格」・「費用価格」=「生産費+平均利潤」とい
う規定が見られなくなったと考えられる。 つまり、マルクスはここで、「費
用」=「前貸資本+平均利潤」という規定を獲得し、この「費用」を越える超
過利潤が 地代であるという問題枠組をもつようになったのである。 そして、
この新たな把え方(「費用」概念)に対応して、おそらく、「平均価格」=「前
貸資本+平均利潤」という等式が後退・ 消滅し、それに代わって新たな「費
用( →費用価格)」=「前貸資本+平均利潤」という等式が登場し、専用され
るようになっていったものと思われる。
ところで、マルクスがこのように「費用 」概念を転換することになったの
は、単にアンダソンの地代論での「費用」=「前貸+平均利潤」という把え方
に接したからであるという偶然的な要因 にだけ帰するべきではない。 実は、
より根本的には、それを受けとるマルクスの側でも機が熟していた、 理論的
準備ができていたからであると思われる。すなわち、 マルクスによる絶対地
代の解明とその理論的基礎としての 平均利潤論および平均価格論の生成とい
う事情があったからである。
絶対地代の解明が開始されるまでは、つまりノート]・445までは、マル
クスの主要関心は、前々稿にすでに指摘したように、 《剰余価値→利潤→平均
利潤》という転化問題にあり、この問題に関連して、《剰余価値と「剰余価値
の生産費」》すなわち《「剰余価値と可変資本」》という対応関係から、《利潤
・平均利潤と「利潤の生産費」》すなわち《「利潤と前貸資本」「平均利潤と前
貸資本」》という対応関係への転化を軸にして議論を展開していた。したがっ
て、これに対応して、絶対地代の解明までのマルクスの「生産費」「費用」概念
は次の三つの意味をもっていた。すなわち、@「生産費」=前貸資本c+v。
これは「資本家の立場から見た生産費」・「資本家の生産費」であり、マルク
スはこれに「利潤の生産費」・「利潤の費用」という表現を与えている。 A
ー35ー

「生産費」=商品の内在的な価値c+v+m。これは「商品を生産するのに要す
る労働時間」・「商品そのものに含まれている生産費」であり、マルクスはこ
れに「商品の生産費」という表現を与えている。 Bさらにノート[・337に
は 「剰余価値の生産費 」・「剰余価値の費用 」という概念が見出される。
ところが、ノート]・445以下において「前貸資本+平均利潤」を越える
超過利潤が農業部面において地代に転化するということが、 一つの理論領域
をなす問題として取り上げられ、概念的に確立するようになるにつれて、《地
代(=平均利潤を越える超過利潤)とそれを除いた「商品の生産費・費用」》
という対抗関係が問題になるようになる。かくして、 地代を除く「商品の生
産費・費用」(=「前貸資本+平均利潤」)が「生産費」・「費用」の第四の意
味として成立・登場することになる。おそらく、それにともなって、 この第
四の意味をもつ「生産費」・「費用」が、他の「生産費」・「費用」規定と区別
されるために、「費用価格」という新たな呼称(この言葉自身は1861ー63年草
稿の先行する個所でも使用されているが、 商品の内在的な価値c+v+mに
等しいものという意味で使用されている)8)のもとに登場し、「平均価格」と
いう用語にとって代わることになったものと思われる。
2)「平均価格」から「費用価格」への移行は、 第二に、マルクスによる
「市場価値」論の成立に関係があるように思われる。
「市場価値」論の本格的な展開は、ノート]T・543以下に見られるが、それ
に先行する個所でもすでに、 マルクスは「市場価格」という伝来の用語を用
いながらも彼独自の「市場価値」論に接近しつつある。ノート]T・485以下

8)たとえば、ノートY・264では、「商品の費用価格(すなわち売り手によって供給され
る商品の価値」(MEGA、387;草稿集D91) という表現が見られるが、 この「商品の
費用価格」は明らかに「商品の価値」と同義である。また、ノート]・470 では、「こ
の例は農業にたいしてまちがいであろうが、たとえ正しいとしても、その場合には、
原生産物の価値が『費用価格よりも低く』下がるという状態が平均価格の法則にまっ
たく一致するというだけのことであろう」(MEGA、721;草稿集E82)という叙述が
見られるが、ここでの「費用価格」という言葉も、――マルクスによる「費用労働」
の書き誤りと理解することもできるが―明らかに商品の「内在的生産費」(c+v+m)
を意味するもの理解しなければならない。

ー36ー

においてはじめて マルクスによる差額地代への本格的な言及が 見られるが、
マルクスの「市場価格(=市場価値 )」規定は、この差額地代論の展開に並
行・附随して行なわれている。
たとえば、次のような規定が行なわれている。まずノート]T・486では、
「地代(超過利潤)の差額が多かれ少なかれ固定されるということは、 農業
を工業から区別する。しかし、 いろいろな生産条件の平均が市場価格を規定
し、 したがってこの平均よりも低い生産物の価格を、 その価格よりも高く、
またその価値よりも高くにさえも、引き上げるということは、 けっして土地
からではなく、競争から、資本主義的生産から、生じるのである」(MEGA、
750;草稿集E127)。またノート]T489では、「不変資本にたいする可変資本
の割合が、 工業の特殊な生産部面のそれではなく工業の平均的なそれよりも
大きいということ・・・。 この一般的な相違の大きさが、第T号地における
・・・絶対地代・・・の、大きさとその存在とを規定するのである。しかし、
少しも地代を生まない新しい耕作地T1の小麦の価格は、T1 自身の生産物の
価値によって規定されるのではなく、・・・ T、U、V、Wによって供給さ
れる小麦の平均的な市場価格によって規定されるのである」(MEGA、754;
草稿集E136)。またノート]T・502では、「{競争においては均等化の二重の
運動を区別するべきである。同じ生産部面内部の諸資本は、 この部面の内部
で生産された諸商品の価格を同じ市場価格に均等化するのであって、それは、
これらの商品の価値がこの価格とどのような関係にあるかを問わない。 かり
に別々の生産部面のあいだの均等化がないとすれば、 平均的な市場価格は商
品の価値に等しくなければならないであろう。 これらの別々の部面のあいだ
では、 諸資本相互の活動が第三の要素――土地所有など――によって妨げら
れ乱されないかぎり、 競争が諸価値を平均価格に均等化するのである。}」
(MEGA、777;草稿集E175)。またノート]T・513では、「アンダソンがこ
こで『全生産物の価値』と呼んでいるのは、・・・市場価格、 すなわち優等
地で栽培されようと劣等地で栽培されようと 生産物がそれで売られるところ
の市場価格、にほかならない。・・・アンダソンは、 有利さの違う生産条件
ー37ー

のもとで生みだされる等量の生産物についての一定の等しい市場価格が、 こ
の地代形成のための前提である、と明確に述べている。・・・ つまり一般的
な市場価格が前提されているとすれば、そうであると言うのである」(MEG
、798;草稿集E206―207)。またノート]T・523では、「・・・一般に地代
が存在するかぎり、それが存在するのは、 農業生産物の価格がその価値を越
える超過分によってである。この場合、 価値を越える価格のこの超過分が一
般的な価値論と矛盾しないのは・・・、 それぞれの生産部面の内部において
それに属する諸商品の価値が その商品の個別的価値によって規定されるので
はなく、 それらの商品がその部面の一般的な生産条件のもとでもっているそ
の価値によって規定されるからにすぎない」(MEGA、814;草稿集E230)。
またノート]T・538では、 「費用価格は、市場価格とは区別されるべきである。
費用価格は、 種々の産業部門の諸商品の平均的市場価格である。市場価格そ
のものは、同じ部面の諸商品が、 この部面の中立的生産条件のもとで生産さ
れる商品の価格によって 規定されるというかぎりでの平均をすでに含んでい
る。」(MEGA、843;草稿集E276)。
これらの叙述から「市場価値 」規定のとくに関連する文言部分だけを引き
出して示すと、次のようになる。すなわち、 「いろいろな生産条件の平均が
市場価格を規定」する ;「T、U、V、Wによって供給される小麦の平均的
な市場価格」;「競争」によって「同じ生産部面内部の諸資本は、この部面の
内部で生産された諸商品の価格を同じ市場価格に均等化する」;「市場価格、
すなわち優等地で栽培されようと 劣等地で栽培されようと生産物がそれで売
られるところの市場価格」;「有利さの違う生産条件のもとで生みだされる等
量の生産物についての一定の等しい市場価格」;「それぞれの生産部面の内部
においてそれに属する諸商品の価値が・・・ それらの商品がその部面の一般
的な生産条件のもとでもっているその価値によって規定される」。
これらによってわかるように、マルクスは、 同じ生産部面内部の諸資本間
の競争によって当該部面内部で生産された諸商品の価格が均等化され、 そこ
に「平均的な市場価格」・「同じ市場価格」・「一定の等しい市場価格」が成立
ー38ー

する、そして、 こうして成立した「市場価格」はちょうど「その部面の一般
的な生産条件」・「いろいろな生産条件の平均 」のもとで生産された商品の
「価値」に等しい、と説明しているのである。 これは要するに、同じ生産部
面内部の諸商品の価格の《平均的な価格》が「市場価格(=市場価値)」であ
る、という規定である。
とすれば、この「市場価格 」を意味する《平均的な価格》と「費用価格」
あるいは「生産価格」と同義の「平均価格 」――この後者は異なる部門間の
諸資本の競争による均等化作用によってもたらされる「平均価格 」である―
―とを区別しなければならないであろう。つまり、 部門内部の諸資本の競争
による均等化作用 によってもたらされる《 平均的な価格 》と異部門間の諸
資本の競争による均等化作用によってもたらされる「平均価格 」とが区別さ
れなければならない。というのは、同じように《平均的な価格》といっても、
どちらのほうの《平均的な価格 》であるかによってまったくその意味すると
ころが異なるはずであり、 概念的には勿論のこと用語上も明確に区別されな
ければならないはずであるからである。 実際、 こうした事情を考慮してか、
マルクスは、この頃から「二つの異なる競争」を区別しはじめている。 すな
わち、「競争においては均等化の二重の運動を区別するべきである。 同じ生
産部面内部の諸資本は、 この部面の内部で生産された諸商品の価格を同じ市
場価格に均等化するのであって、 それは、これらの商品の価値がこの価格と
どのような関係にあるのかを問わない。 かりに別々の生産部面のあいだの均
等化がないとすれば、 平均的な市場価格は商品の価値に等しくなければなら
ないであろう。 これらの別々の部面のあいだでは、諸資本相互の活動が第三
の要素――土地所有など―― によって妨げられ乱されないかぎり、競争が諸
価値を平均価格に均等化するのである」(MEGA、777;草稿集E175 )、と。
二つの「平均価格」概念をめぐる無用の混乱を避けるためには、 この二つ
の「平均価格 」に別々の用語を充てることによって両者を区別しておかざる
をえないはずである。 でなければ、われわれは、用語上の混乱に陥ることに
なろう。
ー39ー

  たとえば、ノート]T・502の次のような叙述を見るとき、そこには用語上
の混乱が存在するかのように思われるのである。 「・・・その場合には地代
は、・・・ ただこの生産物の一般的な平均価格がこの生産物自身の平均価格
を越える超過分からのみ成り立つことができるのである。 ・・・ホプキンズ
氏は彼の『地代』に関する本のなかで、 ランカシャーでは落流は地代を支払
うだけでなく、 それらの自然的落下力の程度に応じて差額地代をも支払う、
と述べている。この場合には、 地代は、生産物の平均的な市場価格がその生
産物の個別的な平均価格を越える超過分にほかならない」(MEGA、777;草
稿集E174)。文中には「生産物の一般的な平均価格」=「生産物の平均的な市
場価格」という用語が見られる。この「平均的な市場価格 」というのは、お
そらく、のちのノート]U・606に見られる「市場費用価格」(MEGA、950;
草稿集E444 )――編集者注解によれば、「ある一定の生産部面における諸商
品の市場価格を規制する一般的な費用価格 」を意味するもの――のことであ
るが、しかし、言葉それ自体は、うえで見た「市場価値 」を意味する「平均
的な市場価格」(MEGA、843;草稿集E176)と容易に混同されるであろう。
このような例から見ても、没概念的な「平均価格 」という用語は捨て去られ
なければならない運命にあったのである。
それだけではない。ノート]T・543以下においてマルクスが「市場価値」規
定を行なうに際して、 「市場価値」と同義の「平均価値」という言葉を幾度
か使用するに至っては、 「平均価格」という用語は、異部門間の諸資本の競
争による均等化作用によってもたらされる「平均価格 」であって、「前貸・
プラス・平均利潤」に等しい価格であるという意味以外に、この「市場価値」
と同義の「 平均価値 」の貨幣的表現であるという意味をも持つことになり、
もはや「平均価格」という言葉は注釈なしには使用することができなくなる。
「たとえば綿布製造業における個々の 資本家がそのもとで生産を行なうと
ころの特殊な諸条件は、必然的に三つの部類に分かれる。 一つの部類は、中
位の条件のもとで生産する。すなわち、 彼らがそのもとで生産するところの
個別的生産条件は、その部面の一般的な生産条件と一致する。・・・ 彼らの
ー40ー

商品の個別的価値は、 この生産部面の商品の一般的価値と一致する。彼らが
たとえば綿布・・・を・・・ 平均価値で――売るとすれば、彼らはそれを、
・・・価値どうりに売るのである。 もう一つの部類は、平均的条件よりも良
い条件で生産する。彼らの商品の個別的価値は、 同じ商品の一般的価値より
も低い。・・・最後に、第三の部類は、 平均的生産条件よりもわるい条件の
もとで生産する。・・・ どの部類が平均価値を確定するのに決定的であった
かということは、 主としてこれらの部類の数的関係または比率的数量関係に
よって定まるのであろう。・・・/ ・・・一般的結論は次のとうりである。
この部類の諸生産物がもつ一般的価値は、・・・ すべての商品について同じ
である。この共通な価値こそ、これらの商品の市場価値・・・ である。この
市場価値の貨幣での表現が市場価格・・・である。・・・ 現実の市場価格の
平均が市場価値を表わす市場価格である。」(MEGA、852―853;草稿集E289
―291)。
見られるように、ここではマルクスは、「一般的価値」=「平均価値」=「共
通な価値」こそ、「市場価値」である、と規定している。 したがって、ここ
では、彼がこれまで問題にしてきた「平均的な市場価格 」というのは実は、
引用の最後に登場する「現実の市場価格の平均 」のことであるということに
なってくるのである。したがって、ノート]T・485以下に差額地代論との関
係で問題にされてきた「平均的な市場価格 」規定は少しばかり厳密性を書い
た「市場価値」規定であったと言えよう。 こうした事情からも、「平均的な
・・・価格」という表現はもはや捨てさらねばならなかった訳である。
3)「平均価格」から「費用価格」への移行は、 マルクスが「地代の一般
的法則」を「価値と費用価格とに関する・・・理論の例証 」として「この巻
の・・・挿入された一章」において「展開 」するという構想を固めたことに
よって最終段階をむかえることになる。
ノート]T・578―579( 草稿集E381 )でこの構想を表明したすぐあとで、地
代と「費用価格」との関係をマルクスは次のように把えている。 「地代も利
潤も労賃も商品の価値の構成部分をなしてはいない。・・・ これに反して自
ー41ー

然価格または費用価格に関しては、スミスは、 その諸構成部分を所与の諸前
提として云々することができる。・・・/・・・ 資本家は彼の商品の価格の
決定にさいして2つのことをしなければならない。 すなわち、労賃の価格を
つけ加えることであり、 この労賃も彼にとっては(ある限界のなかでは)与
えられたものとして現われる。・・・ 一般的利潤率もまた、単に個々の資本
家にとってだけではなく、 それぞれの特殊な生産部面における資本にとって
も、外的に与えられたものとして現われる。 そこで彼は、生産物に含まれて
いる原料などへの前貸の価格と、賃金の自然価格とに、たとえば10%の一般
的利潤をつけ加えなければならない。・・・ 価値とは区別されたものとして
の費用価格のなかにはただ賃金と利潤がはいるだけで、 地代は、ただ、それ
がすでに 原料や機械などの 前貸の価格のなかにはいっているかぎりでのみ、
この費用価格のなかにはいる。・・・/ 地代は費用価格のなかに構成部分と
してはいらない。・・・しかし、 その地代は借地農業者にとっては、利潤が
工業家にとって所与のものとして現われたのと同じように、 所与のものとし
て現われる。・・・ 借地農業者も資本家とまったく同じように計算する。す
なわち、第一に前貸、第二に労賃、第三に平均利潤――最後に地代であって、
地代は彼にとってやはり 所与のものとして現われる。 これが彼にとっては、
たとえば小麦の、自然価格なのである。・・・/ 費用価格と価値との相違が
適切に固持されるならば、 地代はけっして費用価格のなかに構成部分として
はいることはできない。」(MEGA、948―950;草稿集E442―444)。
見られるように、ここでは、 「費用価格のなかにはただ賃金と[平均]利
潤がはいるだけで」、「地代は費用価格のなかに構成部分としてはいらない」、
という「費用」概念が述べられている。 このような「費用」=「前貸資本+
平均利潤」という把え方は、すでに指摘したように、マルクスがノート]T・
4 9 1において「これをもって地代論は本質的にはかたづいている」(MEGA
758;草稿集E144)という判断を下したのちのノート]T・514以降登場して
きたものであるが、マルクスはここ(ノート]U・605―606)に至ってはじめ
て、「前貸資本+平均利潤」に等しい「費用価格 」とそれを越える超過分と
ー42ー

しての地代、 という関係を「定式化」するに至った訳である。前貸資本と平
均利潤は 個々の資本家やそれぞれの特殊な生産部面 における資本にとって、
彼の商品の価格の決定にさいして「外的に与えられたもの 」つまり商品を生
産するための「費用」として現われる、それにたいして、 地代は「借地農業
者にとっては、 利潤が工業化にとって所与のものとして現われるのと同じよ
うに、所与のものとして現われる 」が、しかしそれは個々の資本家やそれぞ
れの生産部面における資本にとってはそのようなものとしては現われない、と
いうのがこの「定式化」を行なう際のマルクスの考えである。 ところが、こ
のように、地代に対して前貸資本と平均利潤のみが「費用 」の構成部分をな
すという把え方が有効な理論装置として機能するためには、その前提として、
「地代が費用価格のなかに構成部分としてはいらない」理由、 すなわち「費
用価格と価値との相違 」としての超過利潤が農業部面の特殊事情(=土地所
有の存在 )によって地代に転化するということが一定程度展開されていなけ
ればならない。 つまり、このような「費用価格」概念が成立するためにはそ
れに先立ってか、あるいは、 予定される別の個所において――いずれにして
も「この巻〔「資本一般」――松尾〕の・・・挿入された一章」において――
「価値と費用価格とに関する・・・理論の例証として地代の一般的法則 」が
展開されていなければならないであろう。つまり、「平均価格 」という用語
から「費用価格」という用語への移行は、マルクスの次のような構想、 すな
わち「地代の詳細な説明」は「土地所有」の篇に譲り、「地代の一般的法則」
は「この巻の・・・挿入された一章 」において「価値と費用価格とに関する
・・・理論の例証として・・・展開 」するという構想の確立と関連している
と考えられるのである。
1862年8月2日付けのエンゲルス宛の手紙においてマルクスは、「すぐに
この巻のなかで地代論を、 挿入された一章として、すなわち以前に立てた一
つの命題[価値と費用価格とに関する私の理論 ]の『例解』として、取りこ
む」ことを「いま僕はもくろんでいる」と述べている、 そしてこの手紙のな
かには、「平均価格」という用語と「費用価格」という用語が併存している。
ー43ー

ところが、「費用価格」と「平均価格」との併存状態が――ノート]T・551、
566において「平均価格」から「費用価格」へとマルクスによる意識的な書
き換えを経て――ほぼ終熄した時点・ノート]T・578―579においてマルクス
は、もはや「地代の詳細な説明 」は「土地所有」の篇に譲り「地代の一般的
法則」は「価値と費用価格とに関する・・・理論の例証として・・・ 展開す
る」という構想を確定しているのである。したがって、「平均価格」から「費
用価格 」への用語の変遷は、 マルクスにおける 地代論の取扱いの変更――
「暗示さえしない」(1862年6月18日付けエンゲルス宛手紙)→「もくろんでい
る」という段階から一歩踏み込んで「挿入する 」という構想を固めるに至っ
たこと――と大いに関連しているものと考えることができるのである。9)
以上、 われわれは、 マルクスによる 絶対地代の解明を通じての「平均価
格」論の成立・展開、「平均価格」から「費用価格」への用語の移行(その原
因・事情)について見てきたが、次に、稿を改めて、この「費用価格 」とい
う用語が、いつ、どこで、どのような事情によって「生産価格 」という用語
に移行していくことになったのかを見ることにしょう。
(まつお じゅん/経済学部助教授/1986.6.12受理)


9)マルクスによる地代論の取扱いのこのような変更は、彼の次のような認識の変化とな
って現われているように思われる。すなわち、ノート]・473では、「なぜその商品
〔農業生産物――松尾〕が他の商品とは違ってその価値どおりに平均価格よりも高く
売られるのかということを、独自性、例外として、取り扱い、説明するべきである」
(MEGA、728;草稿集E89)とされていたのに対して、ノート]U・594では、「もし
農業生産物が価値どおりに売られるならば、その価値はその費用価格よりも・・ 高い
・・。・・このことをわれわれは資本主義的生産における正常な事態・・とみなすの
である」(MEGA、931―932;草稿集E415)とされている。つまり農業生産物の価値
>費用価格という事態が、「例外」事態という認識から「正常な事態」という認識へ
と変化しているのである。

ー79ー