『経済経営論集』(桃山学院大学)第28巻第2号、1986年10月発行
生産価格論の形成(2)
――「平均価格」論の成立と絶対地代の解明――
松尾 純
T.は じ め に
前稿1 では、われわれは、1861−63年草稿2) 前半期(ノート]Yおよび
ノート]Z冒頭の草稿「第三章 資本と利潤」および「雑録」を含む)にお
いて、マルクスが、平均利潤および「標準価格」・「平均価格」についてど
のような、あるいは、どの程度の議論を展開していたのかということを詳し
く検討した。その結果明らかになったことは、要するに、平均利潤論につい
ては、かなり詳しい、立ち入った議論が展開されており、しかもそれらの問
題は「利潤に関する章」=「第3章」に属すると明言されているのにたいし
て「標準価格」・「平均価格」論については、のちの生産価格論に結びつけ
られうる議論はほとんど展開されておらず、僅かにその問題の所在が指摘さ
れているだけであり、したがってまた、その位置づけも未定であり「のちに
私が証明する」と言うだけである、ということである。
これに対して、以下検討しようとする1861−63年草稿後半期においては、
1)拙稿「生産価格論の形成 (1)――用語の変遷を手掛りとして――」 『経済経営論集』
第28巻第1号,1986年6月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politishchen Ökonomie (Manuskript 1861-63), in :
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd.3, Teil 1,1976 ; Teil
2,1977;Teil 3,1978;Teil 4,1979; Teil 5, 1980; Teil 6,1982, Dietz Verlag. 以
下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、 Teil 1〜5部分については、
資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する)CDE
FG、大月書店, 1978, 1980, 1981,1982,1984年に従う。いくつかの個所で訳文を変
更したが、いちいち断わらない。 以下この書からの引用に際しては、 引用文直後に
MEGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して示す。例 ( MEGA,
1974;草稿集C234)。
ー39ー
|
平均利潤については勿論のこと、「平均価格」あるいは「費用価格」(さらに
はこれらと同一概念である「生産価格」)についても本格的な議論が展開さ
れ、問題の(マルクスにとっての)基本的な解決が果されている。こうした
後半期での議論の本格的な展開の端緒は、ノート]・445〜ノート]T・522に
おけるロートベルトゥスの「新地代論」の批判をきっかけとするマルクスに
よる平均利潤論や「平均価格」論の展開にある。
そこで、以下、ノート]〜ノート]Uにおけるマルクスの議論を、彼の絶対
地代論、平均利潤論、「平均価格」・「費用価格」論を中心にして、分析・
検討してみよう。
U. ロートベルトゥスの「新地代論」の批判
まず、マルクスが批判の対象としているロートベルトゥスの「新地代論」
の内容を、マルクスが引用するところに従って、ご簡単に見ておこう。[マ
ルクスは、ノート]・465〜470において、ロートベルトゥス『フォン・キル
ヒマンあての社会的書簡。第三書簡、リカードゥ地代論の反駁と新地代論の
基礎づけ』、ベルリン、1851年、から幾つか引用することによって、「ロート
ベルトゥス氏の[地代論の]短い要約」を行っており、そのなかにロートベ
ルトゥスの地代論のエッセンスを読みとることができるように思われる。]
ロートベルトゥスの主張はこうである。
まず「賃料」(マルクスの剰余価値に相当)の発生について。『労働の十分
な生産性と土地および資本の所有』という二つの根拠が存在する。一つは、
労働の十分な生産性によって労働者が労働しない他の人々の生活をも支えう
るほどの剰余生産物を生みだすことができるという経済的根拠であり、もう
一つは、土地所有および資本所有によって労働生産物は労働者の労賃を残し
てすべて土地所有者および資本所有者に強制的に分割されるという法律的根
拠である(MEGA,801;草稿集E211-212)。──このロートベルトゥスの
「賃料」(剰余価値)論についてマルクスは次のようなコメントを付してい
る。 「ロートベルトゥス氏は、…… 賃料(彼が賃料と言っているのは剰余価
ー40ー
|
値全体のことである)は単に不払労働またはそれが表わされる生産物量に等
しい、という正しい結論に到達している。/ …… ロートベルトゥスは単に相
対的剰余価値の増大、つまり、労働の生産性の増大から生ずるかぎりでの剰
余価値の増大をとらえているだけで……ある」(MEGA,673 ; 草稿集E6)。
次に、この「賃料」(=剰余価値)の「資本利得」(=利潤)と「地代」と
への分割について。『原生産物は製造工業の生産物と同様に費用労働に従っ
て交換される。 原生産物の価値はただその費用労働に等しいにすぎない』。
『賃料… が原生産物と製造工業の生産物との価値に比例して分けられ、そし
てこの価値は費用労働(労働時間)によって規定される』。『賃料部分の大き
さは、利得がそれにたいして計算されるところの資本の大きさに規定される
のではなく、直接的労働…… プラス・損耗した道具や機械のために計上され
るべき労働、によって規定される』。「『材料価値(=原料)から成る資本部分』
が賃料部分の大きさに影響を及ぼすことは[けっして]ありえ[ない]」。『原
生産物の価値すなわち材料価値は、資本財産のなかに組み入れられて投資と
しての役割を演ずる。この投資にたいして、その所有者は製造工業の生産物
に割る当てられる賃料部分を利得として計算しなければならない。しかし、
農業資本においては、この資本部分が欠けている。農業は、それに先行する
生産の生産物を材料として必要とすることなく、総じて最初に生産をはじめ
るのである。』。『農業もなるほど。賃料部分の大きさの規定に影響を及ぼす
二つの資本部分を、製造工業と共通にもっている。しかし、 …… [材料価値
から成る資本部分]を共通にもつということはない。この資本部分は、ただ
製造工業資本にのみ見いだされるのである。したがって、たとえ原生産物の
価値と製造工業の生産物の価値とがともに費用労働を基準にするという仮定
に従うとしても、また、賃料はこれらの価値に比例して原生産物と製造工業
の生産物との所有者に分配されるのだから――そのために原生産と製造工業
とにおいて手にはいる賃料部分がそれぞれの生産物の費やした労働量に比例
するとしても、賃料部分が利得としてそれにたいして割り当てられるところ
の農業と製造工業との充用諸資本 ……が、この労働量およびこれによって規
ー41ー
|
定された賃料部分と同じ比例にあるということはないのである。むしろ……
割り当てられる賃料部分が同じ大きさの場合には、 製造工業資本のほうが、
……全材料価値の分だけ農業資本よりも大きい。そして、 この材料価値は、
なるほど手にはいる賃料部分が利得としてそれにたいして計算されるところ
の製造工業資本を増大されるけれども、この利得そのものを増大させること
はなく、したがってまた同時に、農業においても基準となっている資本利得
率を引き下げるのに役だつのだから、こうして必然的にまた、農業で手には
いる賃料部分のうち、この利得率に従った利得計算によって吸収されないと
ころの一部分が残らざるをえない』。(この一部分が地代となるのである。)
『原生産物の価値が費用労働よりも低く下がる場合だけ、農業においても原
生産物に割り当てられる賃料部分が資本の利得計算のうちに吸収されるとい
うことが可能である。……そのときには、この賃料部分が非常に減少するの
で、そのために、たとえ農業資本には材料価値が欠けているにしても、この
賃料部分と農業資本とのあいだには、製造工業の生産物に割り当てられる賃
料部分と製造工業資本……とのあいだに成立するのと同じ割合が生み出され
る……。したがって、そのときにだけ、農業資本においても資本利得のほか
に少しも賃料が残らないということが可能なのである。しかし、少なくとも
現実の取引において、価値は費用労働に等しいという法則への引力が基準を
なしているかぎり、地代もまた基準をなしているのであって、もし地代が少
しも生ぜず資本利得だけが生ずるとすれば、それは、リカードゥが考えてい
るような本源的な状態ではなくて、一つの変則状態にすぎないのである』(以
上『 』内の引用はMEGA,712−721;草稿集E66-81からの孫引きである)
以上がロートベルトゥスの主張である。要約すると次のようになる。工業
生産物も農業生産物も、それらの「費用労働」に従って交換される。それら
の価値は、「費用労働」(=それらの生産に必要な労働時間)に等しい。「賃料
部分」(=剰余価値)は、工業生産物と農業生産物とあいだにそれらの価値
に比例して分割される;「資本利得」(=利潤)は資本の大きさに規定される
が、「賃料部分」の大きさは、ただ直接的労働・プラス・固定資本の損耗に
ー42ー
|
よってだけ規定され、「材料価値」(=原料)部分によっては影響されない。;
工業では、「材料価値(=原料)は」資本の前貸として計上され、したがって
「資本利得率」(=利潤率 )を計算する際の分母のなかにはいる。農業では、
この資本部分が欠けている ; したがって、両方に割り当てられる「賃料部
分」の大きさが同じ場合には、工業資本のほうが農業資本よりも「材料価値」
(=原料)の分だけその額が大きく、したがってこのより大きい工業資本を
分母にして計算された「資本利得率」に従った計算をすれば、農業では、「賃
料部分」のうち「資本利得」に吸収されない─部分が残る。もし農業生産物
が「費用労働」よりも 低く 下がれば、割り当てられる「賃料部分」全部が
農業資本の「利得」計算のうちに吸収されるが、しかし、現実の取引におい
ては、価値は、「費用労働」に等しいという法則への引力が基準をなしている
ため、「賃料部分」のうち「資本利得」に吸収されない─部分(=地代)が残
らざるをえない。――このようなロートベルトゥスの主張を、マルクスは次
のように図式化している。
T.農業
不変資本 可変資本 剰余価値 利潤率
機 械
100 100 50 50/200=1/4
U.工業
不変資本 可変資本 剰余価値 利潤率
原料 機械
x 100 100 50 50/(200+x)
これからわかるように、工業の利潤率は、農業の利潤率=1/4よりも小さ
い、したがって農業に地代が生じるのである。(MEGA,720;草稿集E80)と。
このようなロートベルトゥスの主張にたいして、マルクスは全面的な批判
を加えている。すなわち、
@ロートベルトゥスは「もし工業生産物と農業生産物とが、それらの価値
に従って(すなわち、それらの生産に必要な労働時間に比例して)交換され
ー43ー
|
るとすれば、それらは、その所有者たちに同じ大きさの剰余価値……をもた
らす」と述べているが、しかし、「剰余価値は価値には比例しない」(MEGA,
716;草稿集E74)。というのは、「まず第一に、諸商品の剰余価値は、……
剰余価値率が[違っておれ]ば、諸商品の価値には比例しない」からであり、
「第二に、剰余価値率は同じであると前提すれば、剰余価値は、流通および再
生産過程に関連のある他の諸事情を別にすると、……[諸商品の価値に比例
するのではなく、]労賃に投下された資本部分と不変資本……との割合によ
って定まるのであ」り、「この場合は、価値が等しい諸商品の場合でも、こ
れらの商品が『農業生産物』であろうと『製造工業の生産物 』であろうと、
まったく違うことがありうる」からである(MEGA,713-714 ; 草稿集E
69-70)。
A「ロートベルトゥスはすでに利潤率 (彼が資本ー利得ー率と名づけるもの)
を想定しているのだから、 諸商品が それらの価値に比例して 交換される」
という彼の主張は、「まちがいである。一方の前提は他方の前提を排除する。
一つの利潤率(一般的)が存在するためには諸商品の価値は、すでに平均価
格に修正されているか、またはこの修正の不断の流れのなかにあるか、でな
ければならない。この一般的[利潤]率においては、それぞれの生産部面に
おいて剰余価値と前貸資本との割合によって形成される特殊的利潤率が均等
化されるのである」(MEGA,716;草稿集E74)。「彼は、利潤が均等であると
いうこのことと、各生産部門において賃料が不払労働に等しいということと
がどのように矛盾するか、したがって諸商品の価値と平均価格とはどのよう
に相互に 異ならざるをえないか、 ということには 少しも気づいていない」
(MEGA,712;草稿集E67−68)。
Bロートベルトゥスは「機械などの損耗分……を、可変資本すなわち資本
のうち剰余価値をつくりだし特に剰余価値率を規定するところの部分のなか
に入れて、原料を入れていない」が、これは、「まちがった独断的な前提であ
る」(MEGA,717-718;草稿集E76)。「剰余価値の大きさ[ロートベルトゥ
スの場合には賃料部分である]……は、ただ直接的な労働によってのみ定ま
ー44ー
|
るのであり、固定資本の損耗にも、原料の価値にもかかわりがないのであっ
て、一般に不変資本のどの部分にもかかわりがないのである」(MEGA,714
;草稿集E71)。
Cロートベルトゥスは、農業では「材料価値」(=原料の価値)は少しも
前貸のなかにはいらない、と述べているが、これも「まちがった前提」であ
る。「むしろ農業では種子などの前貸は、不変資本の部分であって、借地農
業者によってそのようなものとして計算されるのである。 農業が単なる一産
業部門になる……のに応じて、農業が市場めあてに生産する……のに応じて、
……農業は、その支出を計算し、そして、この支出のあらゆる項目を、たと
え自分自身……から買うにせよ第三者から買うにせよ、商品とみなすように
なる。生産物が商品になるに応じて、 生産の諸要素もまた当然商品になる。
……/ だから、農業にはいっていかないが工業にはいって行く資本部分が存
在するというのは、まちがいである」(MEGA,716−717;草稿集E74-75)。
こう述べたのち、マルクスは一気に、ロートベルトゥスの「計算まちがい」――
すなわち、割り当てられる「賃料部分」が同じ大きさの場合には、工業資本
のほうが農業資本よりも「材料価値」の分だけその額が大きく、したがって
このより大きい工業資本を分母にして計算された「資本利得率」に従って計
算すれば、農業では、「賃料部分」のうち「資本利得」に吸収されない一部
分(→地代)が残るという計算――を次のように批判する。「かりにロート
ベルトゥスの(まちがった)前提に従って、農業生産物と工業生産物とがもた
らす『賃料部分』… が与えられていて、それらが農業生産物の価値と工業生
産物の価値とに比例するとしても、……農業にはいらないある資本部分が工
業には(原料のために)はいるはずだということによって、したがってたと
えば同じ剰余価値が工業ではこの成分によって増大させられた資本にたいし
て〔計算され利潤率が〕減少させられるはずだということによって、不均衡
が生ずる、ということはけっしてない。なぜなら同じ資本の項目が農業にも
はいるのだからである。したがって残る問題は、ただ、同じ割合においてか
どうか? ということだけであろう。しかし、ここでわれわれが直面するの
ー45ー
|
は確かに単なる量的な相違であるのに、ロートベルトゥス氏は『質的な』相
違を欲するのである。同様な量的な相違は工業のいろいろに違う諸生産部面
にも生ずる。それは一般的利潤率に均等化される。なぜ工業と農業とのあい
だでは均等化されないのか(もしそのような違いがあるとすれば)? ロー
トベルトゥス氏は農業が一般的利潤率にかかわりをもつのを認めるのだから、
なぜ彼は農業がそれの形成にかかわりをもつのを認めようとしないのか?」
(MEGA,717;草稿集E75-76)。
以上が、ロートベルトゥスの「新地代論」の要旨とそれに対するマルクス
の批判的コメントである。議論や批判を構成する諸論点は相互に関連し合っ
ているわけであるが、筆者の見るところ、二つの論点にまとめることができ
るように思われる。一つは、「彼〔ロートベルトゥス〕が諸商品の平均価格を
その価値と混同している」(MEGA,747;草稿集E123)という批判に関わ
る論点(→@A)であり、もう一つは、ドイツの農民の「計算まちがい」あるい
はロートベルトゥス自身の「計算まちがい」に関わる論点(→BC)である。
この二つの論点に即してロートベルトゥスの見解をもう一度まとめてみる
と次のようになろう。まず第一の論点について。もし工業生産物と農業生産
物とがそれらの「費用労働」(それらの生産に必要な労働時間)に等しい価
値に従って交換されたとすれば、――「賃料部分」(=剰余価値)は両生産
物のあいだにそれらの価値に比例して分割されるのであるから――工業生産
物中の「賃料部分」の大きさは農業生産物のそれに等しく、したがって、も
し農業においても、工業と同様に、「材料価値」(=原料)が資本の前貸とし
て「資本利得率」を計算する際の分母に入るとすれば、――「資本利得」は
資本の大きさによって規定されるであるから――農業資本の「資本利得率」
と工業資本の「資本利得率」とは等しくなる。つまり、ロートベルトゥスに
よれば、価値に比例して分割される「賃料」と資本の大きさによって規定さ
れる「資本利得」とが等しい大きさであるということになり、したがって、
この場合資本の大きさが両者等しいのであるから、農業生産物と工業生産物
とは、同じ「費用労働」=同じ価値を含んでおり、しかも同じ大きさの「資
ー46ー
|
本・プラス・資本利得に等しい価格」をもつということになる。つまり、ロ
ートベルトゥスは、同じ価値どうしの交換と同じ平均価格どうしの交換とを
同一視し、「諸商品の平均価格をその価値と混同している。」のである。以上
が価値・価格論に関わるマルクスの批判である。この批判の矢は、ロートベ
ルトゥスだけに留まらず、その背後にあるリカードゥをも突き刺してしまう
批判であるように思われる。
次に、もう一つの論点、ドイツ農民の「計算まちがい」あるいはロートベ
ルトゥス自身の「計算まちがい」について。マルクスは、ノート]・]Tの随
所でロートベルトゥスの「新地代論」を批判せんとしてこの問題を持出して
いる。たとえば、まず、ノート]・447-449で、まず、「ロートベルトゥスの
ところで答えられなければならない問題を一般的に提起すれば、次のとうり
である。/ ……資本の最も完全な形態は、……労働過程の三要素が資本の三
要素としても存在する場合、すなわち、それらの三要素のすべてが商品……
である場合である。……これらの要素のうち一つが欠けていることは、それ
が欠けている産業部門の利潤率(剰余価値率ではない)を増大させることが
できるであろうか? 一般的には、これにたいして次のような定式そのもの
が答えになる。すなわち、/ 利潤率は前貸資本の総額にたいする剰余価値の
比率に等しい、という定式がそれである。……(中略)……剰余価値率=M
/V;利潤率=M/(C+V)……〔剰余価値率およびVが一定・不変とすれば〕
M/(C+V)の大きさが変わりうるのは、C+Vが変わる場合だけである。 そ
して、 …… このC+Vが増減しうるのは、 ただCの増減によってだけであ
る。 …… VとM/Vとが変わらないとすれば、 Cの大きさがどのように構
成されているか、ということはまったくどうでもよい。……なぜならば、利潤
率を規定するのはM / (C+V)という比率であって、 Cを構成しているいろ
いろな生産要素が、価値部分として、C全体にたいしてどんな割合を占める
かは、この場合どうでもよいことだからである」(MEGA,678-679;草稿E
14-16)と述べ、 これに続けて農民の「計算まちがい」にたいする批判が述
べられる。「本来の農業に関して、『原料』――しかも商品としての原料が農
ー47ー
|
業においてそれ自身再生産されようと商品として購入され外部から得られよ
うと、少しも農業のうちにはいらないなどと言うのは、笑うべきことであろ
う。……/……ドイツの一農民は、貨幣支出(生産そのものにたいする)を、
彼のほんのわずかな農具や労賃にたいしてなすにすぎない。彼が投下するも
の全部の価値は100であるとしよう。 彼は〔生産物の〕半分を現物で消費す
る(生産費)。他の半分を彼は売って、たとえば100を得る。その場合彼の総
収入は100である。そして、 彼がこれを50の資本にたいして計算すれば、そ
れは100%〔の利潤〕である。いま、50の1/3を地代として、また1/3を租税と
して……引き渡すとすれば、彼の手に残るのは162/3で、これは50にたいして
331/3%である。ところが実際には、彼は〔投下した100の]162/3%を得たに
すぎない。この農民は、単にまちがった計算をして自分自身を欺いたにすぎ
ない。このような計算の誤りは、資本家的借地農業者の場合には生じない」
(MEGA,681;草稿集E18-19)。
さらに、ノート]・458-459でも、 原料部分に関わる農民の「計算まちが
い」あるいはロートベルトゥス自身の「計算まちがい」を批判し、この問題
との関わりで、 さらにノート]・460-464では、不変資本の生産とその使用
とが一人の資本家の手のなかで結合した場合の利潤率の外観上の上昇あるい
は 不変資本の自己生産による 利潤の現象的な 増大問題が論じられている。
「ロートベルトゥスによれば、農業では原料は計算にはいらない。というのは、
ドイツの農民は、……種子や飼料などを自分では支出とみなさず、これらの
生産量を計算には入れないからである。つまり、まちがった計算をしている
からである。それに従うとすれば、 借地農業者がすでに150年以上も前から
正しい計算をしてきているイギリスにおいて、地代は少しも存在しないとい
うことにならなければならないであろう。したがって、結論は、ロートベル
トゥスが引きだしているように借地農業者が地代を支払うのは、彼の利潤率
が製造工業におけるよりも高いからだということではなく、彼がまちがった
計算の結果として、より低い利潤率で満足しているからだということになる
であろう。……/……だから、彼が資本家的に計算することを学べばすぐに、
ー48ー
|
彼は、自分の利潤率と通常の利潤率との差額に等しいだけの地代を支払うこ
とをやめるであろう。……このような計算まちがい(ドイツの農民の多くは
おかすかもしれないが、資本主義的借地農業者はおかすことのないもの)が
なければ、ロートベルトゥスの地代は不可能であろう。……その地代が可能
なのは、原料が〔生産のなかに〕はいりながら、しかも計算されない場合だ
けのことである。ところが、原料が〔生産のなかに〕はいらない場合には、
たとえロートベルトゥス氏が地代を計算まちがいからではなく前貸の実際の
品目の欠如から導き出そうと欲しても、その地代は不可能である」(MEGA,
701-702;草稿集E49-52)。
ところで、この第二の論点は、単に、ドイツの農民の「計算まちがい」=
ロートベルトゥス自身の「計算まちがい」として片付けられるべき問題では
なく、筆者が考えるに、工業部門にたいする農業部門の超過利潤――「計算
まちがい」によってこの超過利潤を説明した点は批判されるべきであるが―
―によって地代を説明しようとするロートベルトゥスの「新地代論」の核心
に接することによって、マルクスは彼の絶対地代論の着想を得ることになっ
た論点であるように思われる。というのは、マルクスは、ドイツ農民の「計
算まちがい」に依らずに工業にたいする農業の超過利潤を説明し、 そしてこ
の農業の超過利潤、 しかもその固定化した超過利潤によって 「純粋な地代」
(MEGA,751;草稿集E130)=「絶対地代」(MEGA,754;草稿集E136)
を説明するという着想を得たのではないかと思われるからである。もしそう
であるとすれば、このロートベルトゥスの「計算まちがい」はマルクスの絶
対地代論の成立にとって非常に重要な意味をもっていたということになるで
あろう。
しかし、問題は、いかに、「計算まちがい」に依らずに、工業にたいする
農業の超過利潤を、しかもその固定化した超過利潤を説明しうるか、という
ことである。
マルクスは、 かってノート]Y・草稿「第3章 資本と利潤」で平均利潤
率について論じた際、超過利潤は取り扱わないとしていた。「剰余利潤、ある
ー49ー
|
いは、個々の資本家が資本投下の特殊な部門(地域)で受ける利潤からのマ
イナス、はまったくこの考察には属さない」(MEGA,1624;草稿集G130)。
また草稿「第3章 資本と利潤」では、「こういうわけで、第二の場合 〔=
利潤の平均利潤への転化 〕には、利潤と剰余価値とのあいだに、それと同時
に商品の価格と価値とのあいだに、本質的な相違が現われる。そのことから、
諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、それらの価値と相違
するということが生じる。このことをもっと詳しく研究することは、競争の
章に属する」(MEGA,1630;草稿集G139)と述べるだけで、その内容の立
ち入った分析が行われなかった。
しかし、いまや、マルクスは、ロートベルトゥスの「新地代論」を真に批
判・排除するために は、ロートベルトゥスの「計算まちがい」を単に批判
するだけではなく、それに代わる説明原理を農業において固定化される超過
利潤に与えなければならなくなったのである。「計算まちがい」に依らずに、
そして資本家どうしの「ごまかし合い」(MEGA、 1605、 1631 ; 草稿集G
98、 141)によらずに――というのは、 農業において固定化される超過利潤
が問題であるのであるから――、この問題を解決するためには、剰余価値と
平均利潤とのあいだの、 そして価値と 平均価格とのあいだの「本質的な相
違」について「もっと詳しく研究する」ことが、マルクスにとって是非とも
必要になってきたわけである。かくて、この問題にマルクスはノート]以下
で本格的に取り組むことになる。ところが、この問題は、実はロートベルト
ゥスは「諸商品の平均価格をそれの価値と混同している」という問題である。
次に、この問題についてマルクスの議論を見ることにしよう。
V. マルクスによる「平均価格」論・平均利潤論の展開と
絶代地代の解明
マルクスは、ノート]・449・450以下ではじめて、――「A・スミスの考
えであり、それ以上にリカードゥの考え」であり「ロートベルトゥス氏もま
ー50ー
|
た彼らからその考えを採りいれている」(MEGA,683−684;草稿集E24)と
マルクスが見る――古典派経済学流の平均利潤論・「平均価格」論を批判・
清算し、本格的に事故の平均利潤論・「平均価格」論を展開し、さらにそれ
を受けて絶対地代の解明を果たそうとしている。
1)ところで、ノート]・445〜447でもすでに、マルクスは、――「平均
価格」や平均利潤の問題にまったく関説することなく――農業における超過
利潤を説き、そこから絶対地代を説明しようとしている。たとえば、「農業
のいくつかの部門、たとえば牧畜や牧羊場などのような、住民が絶対的に駆
逐される部門を除けば――最も進歩した大農業においてさえも――充用不変
資本に比べて充用者数の割合は、工業に比べて、少なくとも支配的な工業部
門に比べて、やはりはるかに大きい。だから、この側面からすれば、たとえ
先にあげた諸理由から剰余価値量が工業で同じ数の人間を充用した場合より
も相対的に小さいとしても……利潤率は工業におけるよりも大きいというこ
とがありうる。しかし、利潤率を(工業に比べて一時的にではなく平均的に)
高めるようななんらかの理由が農業に存在するとすれば(われわれは、上述
のことを指摘するにとどめるが)、単に地主が存在するというだけのことに伴
って、この超過利潤は――一般的利潤率の均等化のうちにはいらないで――
固定化して地主の手にはいる、 ということが起こるであろう」(MEGA,
679;草稿集E13)。3)これは、マルクスがはじめて絶対地代についての彼の
3)これ以外にもノート]・445-447においてすでに、マルクスは――「平均価格」や平均
利潤の問題にまったく関説することなく――農業における超過利潤を説き、そこから
地代を説明しようとしている。
@「地代一般――つまり土地所有の近代的形態――それの単なる存在は、土地の豊
度による地代の差額を度外視しても、確かにありうるであろう――なぜならば、農業
労働者の平均賃金は製造工業の労働者のそれよりも低いからである。… こうして、こ
こではすでに、農業労働者の賃金が現実に平均賃金に等しくないということから、地
代の可能性が存在するであろう。地代のこの可能性は、生産物の価格がその価値に等
しいということには、まったくかかわりがないであろう」(MEGA,674-675;草稿集
E8)。A「地代そのものがどのように説明されようとも、超過剰余価値が生じるの
は工業ではますます安価になる生産によってであるのに、農業ではますます高価にな
る生産によってである……。 地代そのものではなく――ただ地代の差額だけが――
土地の豊度の相違から説明されるということを認めるとしても、次のような法則は残
ー51ー
|
構想を示したものとして注目されるが、しかし、ここでは、工業と比較して
農業資本の有機的構成が低いと言うことから、直ちに、農業利潤率>工業利
潤率、すなわち農業の超過利潤を導き出し、そこから地代を説明しているに
過ぎない。なぜ、工業に比べて農業の有機的構成が低いことから農業の超過
利潤の発生を説明しうるのかという肝心の点がまったく明らかにされていな
い。この点をあきらかにするためには、やはり、平均利潤及び「平均価格」
についての立ち入った分析が必要である。この時点では、マルクスは、まだ
「平均価格」について十分な分析を果たしていなかったので、引用文に見られ
るように、絶対地代について荒削りな構想を提示するだけに留めざるをえな
かったのであろうと思われる。
2)ノート]・449(MEGA、681)以下において、マルクスは、はじめ
て本格的に平均利潤および「平均価格」についての立ち入った研究を開始し
ている。まず、マルクスはA・スミス、リカードゥ、ロートベルトゥスに共
通な「平均価格」論を批判することからはじめている。
「ロートベルトゥス氏は、総じて、競争による標準利潤または平均利潤ま
たは一般的利潤率の規制を、競争が諸商品をそれらの現実の価値に帰着させ
るというふうに考えているように思われる。……たとえば、商品Aの価格が
その価値よりも高く上がって、しかも、しばらくのあいだはその価格がこの
る。すなわち、 平均的に工業では生産物の低廉化によって超過利潤が生じるのに、農
業では地代の相対的な大きさが、 相対的な値上げ(豊度の高い土地の生産物の価格が
その価値よりも高く引き上げられること) から生じるだけでなく、より安価な生産物
をそれよりも高価な生産物の費用で売ることからも生じるという法則がそれである」
(MEGA,675-676;草稿集E9-10)。B「この歴史的現象……農業との対立におけ
る製造工業 …… の相対的な急速な発展 ……。 農業はより生産的になったといって
も、 工業がより生産的になったような割合においてではない。…… それは、農業が
相対的に不生産的になり、したがって工業生産物に比較して農業生産物の価値が上昇
し、それとともに地代も上昇するという命題の正しさを妨げるものではない」(MEG
A,676;草稿集E10)。
しかし、これらのうち、引用文@は、超過利潤(=超過剰余価値)の転化形態とし
て地代を説明するものとしては不適切であるし、引用文ABは、差額地代について説
明したものであり、しかも地代の説明としては不正確、不十分な論述であると言わな
ければならない。
ー52ー
|
高さに固定されているか、あるいはまた持続的に上がって行く。Aの利潤は、
それとともに平均利潤よりも高く上昇する。……このことは、……いずれか
の生産部面における利潤の低下によって相殺されなければならない。……諸
資本は、利潤率がその水準よりも低く下がったB、Cなどから去って、すな
わちそれ自身の生産部面から去って、生産部面Aに移るであろう。……こう
したことの結果として物品Aの価格は、しばらくたつと、その価値よりも低
く下がるであろう。……B、Cなどの諸部面では逆の現象が生じるであろう。
……(中略)・・・上述の運動の結果は次のとうりである。商品の価格がその
価値よりも高く上がったり、 それよりも低く下がったりする平均をとれば、
または、 上下の均等化した期間 …… をとれば、平均価格は価値に等しい、
したがってまたある一定の部面の平均利潤は一般的利潤率に等しい。なぜな
らば、たとえ、この部面では価格の騰落につれて――あるいはまた価格が変
わらないままの場合には生産費の増減につれて――利潤がその元の率よりも
高く上がったりそれよりも低く下がったりしたとはいえ、その期間の平均に
おいては商品はその価値どうりに販売されたものであり、したがって、得られ
た利潤は一般的利潤率に等しいのだからである」(MEGA,681-683;草稿集
H21-24)。
以上のロートベルトゥスの考えにたいしてマルクスは、次のような批判を
加える。「これはA・スミスの考えであり、それ以上にリカードゥの考えな
のである。……ロートベルトゥス氏もまた彼からからその考えを採り入れて
いる。だがそれにしても、こうした考えはまちがいである」(MEGA,683-
684;草稿集E24),と。A・スミスらに共通の考えとは、「上下の均等化し
た期間……をとれば、平均価格は価値に等しい」という「平均価格」の考え
方である。こうした考え方は、かってマルクスがノートT・22において示し
ていた「平均価格」論を批判・清算しようとしているのである。
ノート]・450以下において、マルクスは、 まず本格的に自己の「平均価
格」論を展開し、さらにそれを受けて絶対地代の解明に大きく一歩踏み込ん
ー53ー
|
だのち、最後に一気にリカードゥの地代論の批判をも行っている。
まず、マルクスの「平均価格」論を見ることにしよう。「諸資本の競争が
引き起こすものはなにか?均等化の諸期間のうち一期間中における諸商品の
平均価格というのは、この価格がどの部面においても商品生産者たちに同じ
利潤率、たとえば10%をもたらすという価格である。……各商品の価格は、
その商品が資本家に費やさせた生産費、すなわち資本家がその商品を生産す
るために支出した生産費の価格よりも1/10高い、 ということである。この
ことは、一般的に表現すれば、同じ大きさの諸資本は等しい利潤を提供する
ということ、各商品の価格は、商品に前貸しされ、消費され、または表わさ
れた資本の価格よりも 10分の1 だけ高いということを意味するだけである。
……〔剰余価値率が同じだとしても〕等しい大きさの諸資本においては……
それらが生産する剰余価値の量は、第一に、それらの有機的諸成分の割合、
すなわち可変資本と不変資本との割合に応じて相異なり、第二に、固定資本
と流動資本との割合によって、さらに……諸資本の回転期間に応じて違って
いる。第三に、……生産期間と流通期間の本質的な差異をも定立するもの、
の割合によって〔違っている〕。……したがって、もし諸商品がその価値ど
うりに売られるとすれば、または諸商品の平均価格がその価値に等しいとす
れば、違った諸部面の利潤率はまったく異ならざるをえないであろう。……
したがって、諸資本の競争がいろいろな利潤率を均等化しうるのは、その競
争が、たとえば・・・いろいろな利潤率を部面A、B、C において等しく……
することによるよりほかはない。Aはその商品をその価値よりも……安く売
り、またCはその価値よりも……高く売ることになるであろう。平均価格は、
Aでは商品Aの価値よりも低く、Cでは商品Cの価値よりも高いであろう。
Bの場合が示すように、もちろん、ある商品の平均価格と価値とが一致する
ということは生じうる。……こうして、諸資本の競争は、各資本を総資本の
部分として取り扱い、それに従って、剰余価値にたいする各資本の取り分と
したがってまた利潤とを規制しようとする。多かれ少なかれ競争がこうした
ことを成就するのは、その均等化によってである。(なぜ競争が個々の部面
ー54ー
|
では 特殊な障害に突きあたるかという諸原因は、 ここで研究すべきではな
い。)……競争がこの均等化を遂行するのは、平均価格の規制を通じてであ
る。ところが、この平均価格をそのものにおいては、ある商品が他の商品より
も大きな利潤率をもたらすということのないように、商品はその価値よりも
高く〔引き上げられたり〕、その価値よりも低く押し下げられたりするので
ある。……競争は、諸商品の価値を平均価格に転化させることによって、一
般的利潤率を生みだすのであり、この平均価格においてはある商品の剰余価
値の一部分が他の商品に移転させられているのである等々。ある商品の価値
は、その商品に含まれている支払労働・プラス・不払労働……の量・プラス・
不払労働の平均的わけまえに等しい」(MEGA,684-686;草稿集E24-27)。
以上を要約すると、「平均価格」とは、どの部面にも同じ利潤率をもたら
す価格であり、資本家の支出する生産費・プラス・平均利潤に等しい価格で
ある;同じ大きさの諸資本は、可変資本と不変資本との割合などに応じて相
異なる剰余価値を生産するため、もし商品が価値どうりに売られ、「平均価
格 」=価値とすれば、 違った諸部面の利潤率はまったく異ならざるをえな
い;諸資本の競争はこのいろいろな利潤率を均等化し、各資本に同じ利潤=
平均利潤をもたらす;この競争による利潤率の均等化は、競争が諸商品の価
値を「平均価格」に転化させることを通じて、遂行されるのである;かくて、
「平均価格」が成立する──すなわち、商品の価値=その商品に含まれてい
る支払労働・プラス・不払労働、であるのに対して、商品の「平均価格」=
その商品に含まれている支払労働・プラス・不払労働の平均的分けまえ、と
なる。
以上の平均利潤論・「平均価格」論を踏まえて、マルクスは、絶対地代を
解明しようとしている。「なぜ競争が個々の部面では特殊な障害に突きあた
るかという諸原因は、ここで研究すべきではない」とか、あるいは、「特定
の生産部面は、その価値が前述の意味での平均価格への還元に従わないよう
な諸事情のもとで仕事をしており──こうした勝利を競争に許さない!よう
ー55ー
|
な諸事情のもとで仕事をしているということは、ありうる──私はそれをこ
の本の対象には」属しないのちの研究に譲る──」(MEGA,686;草稿集E
27)と言いながらも、マルクスは、地代の問題に深く立ち入っていく。すな
わち、「こうしたことが、たとえば農業地代または鉱山地代の場合に起こる
とすれば……そのことから当然の結果として、 あらゆる工業資本の生産物は
平均価格にまで引き上げられたり引き下げられたりするのに、 農業の生産物
は平均価格よりも高いところにあるはずのその価値に等しい、ということに
なるであろう。農業には障害があって、そのために、この生産部面で生みだ
された剰余価値のうち、その部面自身の所有として取得されるものが、競争
の法則によってそうであるべきものよりも、すなわち、この産業部門に投下
された資本の持ち分に比例してそうであるべきものよりも、多くなるのであ
ろうか?かりに、一時的にではなく、他と比較したその生産部面の性質上他
の生産部面の等しい大きさの産業資本よりも10%か20%か30%だけ剰余価値
をより多く生産するところの産業資本があるとすれば、しかも、その資本は、
競争に抗してこの超過剰余価値を固辞し、一般的利潤率を規制する一般的な
計算(分配 )にそれがはいるのを阻止することが可能だと言えるとすれば,
この場合には、この資本の生産部面において二とうりの収入取得者が区別さ
れうるであろう。一人は一般的利潤率を得る者で、もう一人はもっぱらこの
部面に固有な超過分を得る物である」(MEGA,686-687;草稿集E27-28)。
以上要約するとこうなる。生産物の価値が「平均価格」への還元に従わな
いような諸事情のもとで農業が仕事をしているとすれば、農業生産物の価格
は、工業生産物と違って、「平均価格」よりも高いはずのその価値に等しい
であろう; 農業には、競争に抗してその作用を阻止せんとする障害があり,
そのために、この部面で生産される剰余価値は、他の生産部面の等しい大き
さの資本が平均的に取得しうる剰余価値部分だけでなく、さらにそれを越え
る「超過剰余価値」をも含んでおり、それらは二人の収入取得者〔一般的利
潤率を得る者とこの部面に固有な超過分を得る者〕によって取得されるであ
ろう。見られるように、ここでは、第一に、「その価値が……平均価格への
ー56ー
|
還元に従わないような諸事情のもとで仕事をして」いる「特定の生産部面」と
は農業のことであるとはただちに特定せずに、もしそれが農業であるとすれ
ばそこで絶対地代が発生するための条件──すなわち農業には競争に抗して
その作用を阻止しようとする障害があるのではないかという問題──を指摘
している。第二に、いま「特定の生産部面」が農業部面のことであるとして
も、なぜ農業資本が「他の生産部面の等しい大きさの産業資本よりも……剰
余価値をより多く生産する」のかという問題──絶対地代が成立するための
もう一つの条件──を一切説いていない。したがって、ここではまだマルク
スは、絶対地代を本格的に解明しようとは考えていなかったようである。こ
こではまだ、この問題は「この本の対象には属しないのちの研究に譲」らな
ければならないと考えていたために、マルクスは、ロートベルトゥスらの平
均利潤論・「平均価格」論に対峙して彼の平均利潤論・「平均価格」論を展
開し、そこから直ちに──すなわち、農業部面において競争に抗してその作
用を阻止しようとする障害・事情とは何か、また、農業資本が「他の生産部
面の等しい大きさの産業資本よりも……剰余価値をより多く生産する」のは
なぜか、ということを明らかにすることなしに──絶対地代を解明しうる可
能性を探ろうとしたものと思われる。したがって、それは「のちの研究に譲
る」という言葉は、そのまま鵜呑みにしてもよいであろう。
ともあれ、このように、自らの平均利潤論・「平均価格」論に立脚して絶
対地代を解明しうる地平を開きえたマルクスは、一気にリカードゥをも含む
地代諸学説の批判に向う(MEGA,687-690;草稿集E28-35)。
3)リカードゥ理論以外の諸学説、たとえば、土地になにか不思議な力が
あるとする地代説、「地代とは、以前に土地に合体された資本にたいする利
子に過ぎない」とする説、「地代の存在を単に独占の結果……価値を越える
単なる追加にすぎない 」とする説などを次々と批判したのち、マルクスは、
再び、自らの「平均価格」論を提示し、地代についてより立ち入った議論を
展開している(MEGA,690-701;草稿集E35-49)。
まず、「平均価格」についてマルクスは次のように述べている。「私が証明
ー57ー
|
するのは商品の価値が労働時間によって規定されるからこそ、諸商品の価格
は……けっしてそれの価値に等しくはありえない、ということである。とい
っても平均価格のこの規定は、労働時間による規定を基礎とする価値からの
み導きだされるのであるが。このことからまず第一に出てくるのは、諸商品
は、たとえその平均価格が(不変資本価値を無視すれば)労賃と利潤とだけ
に分解し、したがって労賃も利潤もともにその正常な率で平均労賃と平均利
潤であるとしても、それ自身の価値よりも高く、またはそれよりも安く売ら
れることがありうる、ということである。したがって、ある商品の剰余価値
が単に標準利潤の部類でのみ現われるという事情は、商品が価値どうりに売
られるということを証明しない」(MEGA,690;草稿集E35)。ここでは、
価値と「平均価格」の関係が的確に述べられている。すなわち、価値は労働
時間によって規定されるからこそ、「平均価格」はその価値に等しくない;
とはいっても、平均価格の規定は労働時間による規定を基礎とする価値から
のみ導き出しうる;「平均価格」が平均労賃と平均利潤のみを含むとしても、
その商品の価格はそれ自身の価値よりも高い場合もあれば低い場合もある;
つまり、ある商品が平均利潤だけを含む場合でも、その商品はその価値どう
りに売られるとはかぎらない、 と。 さきの「平均価格」規定の場合には、
<競争による利潤率の均等化 → 平均価格の成立>という推論・枠組のなかで
「平均価格」が規定されている。そのため、「平均価格」とは、生産費(=前
貸資本)に平均利潤をプラスしたもの、どの部面にも同じ利潤率をもたらす
価格である、という規定がなされている。それに対して、ここでは、それと
は少し違った角度から、すなわち価値規定との関係を中心にして「平均価格」
を規定しようとしているということができよう。
このように「平均価格」を規定したのち、マルクスは直ちに絶対地代の解
明に向う。すなわち、「この商品〔農業生産物──松尾〕が他の商品から区
別されるのは、次のようなことによってであろう。〔他の諸商品のうち、一
部分の商品は平均価格>内在的価値であり、もう一部分の商品は平均価格<
内在的価値であり、さらに第三の部分は平均価格=内在的価値である。──
ー58ー
|
松尾による内容要約〕……地代を生む商品は、これら三つの場合のすべてか
ら区別される。どんな事情のもとでも、この商品が売られる価格は、平均利
潤……よりも多くを生みだす価格なのである。……この場合は、諸商品の第
二の場合、すなわちその内在的剰余価値が、その平均価格で実現される剰余
価値よりも大きい場合に類似している。……しかしながら、商品に内在する
剰余価値のうちこの利潤を越える超過分は、 第二の場合の商品とは違って、
この例外的商品においてもまた実現されるけれども、しかし資本の所有者で
はなく別の所有者の手に、すなわち土地や自然力や鉱山などの所有者の手に、
はいるのである」(MEGA,690-691;草稿集E35-36)。
以上要約するとこうなる。農業生産物は内在的価値どうりに実現されるが、
その内在的価値はその平均価格よりも高く、その内在的剰余価値はその平均
価格で実現される剰余価値=平均利潤よりも大きい、したがって内在的剰余
価値のうち利潤を越える超過分は土地や自然力や鉱山などの所有者、すなわ
ち地主の手にはいるのである。つまり、ここでは、地代が発生するメカニズ
ムが明確に説明されているが、しかし、注意すべきは、マルクスも言うよう
に、「なぜこのようなことが他の生産部門とは区別されるある特殊な生産部
面〔農業部面──松尾〕において生じるかということ」が説明されずに残っ
ている。さきに述べたように、問題は二つあって、一つは、なぜ農業生産物
の内在的価値がその「平均価格」よりも高いのか、あるいは、なぜ農業生産
物の内在的剰余価値がその「平均価格」で実現される剰余価値=平均利潤よ
りも大きいのか、ということであり、もう一つは、なぜ農業生産物の内在的
剰余価値のうち平均利潤を越える超過分が、他の諸商品と違って、競争に抗
して一般的利潤率の形成に参加しないで 地主の手にはいることになるのか、
ということとである。 これらの問題の解明がマルクスの以後の課題になる。
まず、マルクスは、後者の問題に次のような解答を与えている。「したがっ
て、次のような仮定をすることだけしか残っていない。すなわち、この特殊
な生産部面〔農業部面──松尾〕には特殊な事情が存在し、その影響によっ
て商品の価格はその内在的剰余価値をその価格で実現するのだ、と。……/
ー59ー
|
これによって問題はすでに非常に簡単にされている。…… 問題になるのは、
この商品は、……それ自身の剰余価値のうちで平均利潤を超える超過分を形
成する部分をも実現するということがどのようして起こるのか? というこ
とを説明することである。……こうした形においては、問題の単なる定式化
がすでにそれ自身の解決を伴っている。/このような特殊な生産部面の諸商
品……に含まれている剰余価値のうち利潤(平均利潤、一般的利潤率によっ
て規定された利潤率)を超える超過分を、横取りし、奪い取り、閉じこめて、
一般的利潤率が形成される一般的過程にはいらないように阻止することを可
能にしているのは、まったく土地や鉱山や水利などにたいする特定の人々の
私的所有である」(MEGA,691-692;草稿集38-39)。ここでは要するに、
《なぜ農業生産物は、その内在的剰余価値をその価格で実現しうるのか、つ
まりなぜ農業生産物はそれ自身の剰余価値のうちで平均利潤を越える超過分
を形成する部分をも実現しうるのか》という問題に対して、マルクスは、そ
の原因は「土地や鉱山や水利などにたいする特定の人々の私的所有にある」、
と答えている訳である。ただし、土地などにたいする私的所有は地代成立の
一つの条件ではあるが唯一の条件ではないことを、マルクスは次のように指
摘している。「もし最劣等の耕作地でつくられる諸商品……の平均価格がそ
の価値に等しいとすれば、すなわち、それはただ通常利潤しかもたらさない
ために、その全内在的剰余価値をその価格で実現するとすれば、この土地は
少しも地代を払わないであろうし、 そして土地所有は ここでは各目的にす
ぎないであろう」(MEGA,692;草稿集E39)。商品の平均価格=価値、全
内在的剰余価値=平均利潤であれば、たとえ土地の私的所有が存在していて
も、地代は支払われない、ということである。
かくて、マルクスは、地主が地代を要求しうる根拠、つまり土地などの私
的所有が競争による利潤率の均等化(=超過利潤の共同計算への投入)作用
をどのように阻止するか、を次のように説明している。「それがなくてはこ
の生産部面の商品が生産されえないような特定の慈善的生産条件が……資本
家以外の人々によって所有されているような 生産部面が存在するとすれば、
ー60ー
|
生産条件のこうした第二の種類の所有者たちは次のように言うであろう。も
し私がこれらの生産条件の使用をあなたに任せるとすれば、あなたは、自分
の平均利潤を得るでしょう……。しかし、あなたの生産は、その利潤率を越
える剰余価値の……超過分をもたらす。……共同計算に投入しないで、それ
は私が取得するのです。……この取引は、あなたにとっては正当なはずです。
なぜなら、あなたの資本はこの生産部面であなたのために他のあらゆる生産
部面におけると同じだけのものをもたらし、おまけに、この生産部門は非常
に堅実だからです。あなたの資本はここではあなたのために、平均利潤を形
成する10%の不払労働の他に、なお20%の超過不払労働をもたらします。
……あなたが労働条件……を所有していることが、労働者から一定量の不払
労働を取得することを、あなたに可能にさせるように、私が他の生産条件す
なわち土地などを所有していることが、 あなたおよび資本家階級全体から、
あなたの平均利潤を越える余分な不払労働部分を奪い取ることを、私の可能
にさせるのです。あなたがたの法則は、正常な事情のもとでは等しい大きさ
の資本が等しい大きさの不払労働を取得することを望んでいます。……私は、
この法則を、まさにあなたにたいして適用しましょう。あなたは、あなたの
労働者の不払労働のうちから、あなたが同じ資本を喪って他のどの生産部面
で取得しうるよりも多くを取得してはならないのです。しかも、その法則は、
不払労働のうちあなたがそれの正常な量を越えて『生産する』」超過分には少
しも関係がありません。その『超過分』を私が取得するのを、だれが妨げよ
うとするでしょうか?……もしあなたが、あなたによって得られた超過時間
と資本の法則に従ってあなたの手にはいる超過労働の分けまえとの差額より
も少ない超過利潤を、私に支払う場合には、あなたの仲間の資本家が現われ
て、彼らの競争によって、私があなたから絞り出すことのできる金額を私に
きちんと支払うようにあなたを強制するでしょう」(MEGA,695-696;草
稿集E43-45)。ここには、農業資本家が平均利潤を越える超過利潤を自分た
ちの共同計算に投入することができずに、それを地主に支払わざるをえない
根拠が明確に説明されている。
ー61ー
|
ところで、この地代成立の根拠としての土地所有の意義を説明する論脈中
に次のような叙述が存在する。「ところで、次のことを説明するべきであろ
う。一、封建的土地所有から、他の、商業的な、資本主義的生産によって規
制させている地代への移行、または、他方ではこの封建的土地所有の自由な
農民的土地所有への移行。二、合衆国のように、土地が最初は所有されてい
ないで、少なくとも形式的にははじめからブルジョア的生産様式が支配して
いる国々では、どのようにして地代が発生するのか。三、いまでも存在する
土地所有のアジア的な形態。こうしたことはすべて、ここで論じるのは適切
でない」(MEGA,696;草稿集E45)。最後の所でマルクスは「こうしたこ
とはすべて、ここで論じるのは適切でない」と述べているが、このことは逆
に言うと、これら以外の問題はここで論じることができるとマルクスが考え
ていると解釈することもできよう。
ともあれ、以下ノート]・458(MEGA, 701)に至るまで、地代成立の
根拠としての土地、水、鉱山などの私的所有の意義についての論述がつづけ
られている。たとえば、(MEGA,696-699;草稿集E45-46)を見よ。
以上のように、ロートベルトゥスの「新地代論」の一つの核心をなす彼の
「平均価格」=価値論を批判しそれに対峙して自らの「平均価格」論を展開し、
さらにそれに立脚して 独自の絶対地代を解明しうる確信を得たマルクスは、
「さてロートベルトゥス氏に立ち返ることにしよう」(MEGA, 701-712; 草稿集
E49)と述べて、以下ノート]・458-464(MEGA,701-712;草稿集E49-
66)において、 ロートベルトゥスの「新地代論」のもう一つの核心をなす、
「材料価値」(=原料)に関するドイツ農民およびロートベルトゥス自身の
「計算まちがい」問題を、再度(一度目はノート]・447-449;MEGA,678
-681)取り上げている。〔ここでのマルクスの批判・主張はすでに見たので
省略する。〕
4)これに引き続いて、以下ノート]・465-484(MEGA, 712-747)に
おいて、マルクスは、ロートベルトゥスの議論を引用・要約し、それに逐一
批判を加える作業を行っているが、それらの詳しい内容分析はここでは省略
ー62ー
|
する。以下では、この部分におけるマルクスによる「平均価格」・絶対地代
に関する積極的な議論を見ることにしよう。
まず、「平均価格」論について次のような例解が見られる。「ロートベルト
ゥスよりもはるかに重要なものであるこの法則〔平均価格の法則──松尾〕
を明らかにするために、5つの例をとってみることにしよう。剰余価値率は
すべてについて同じだと仮定する。」「ここでは、われわれは、T、U、V、
WおよびXの部類 …… において、 それぞれの価値が、1000, 1200, 1300,
1150および1250ポンドである諸商品をもつ。……そのすべてにおいて前貸資
本は同じ大きさすなわち1000ポンドである。これらの商品が価値どうりに交
換されるとすれば、利潤率は、Tにおいては10%にすぎず、Uにおいては2
倍の大きさの20%、Vにおいては30%、Wにおいては15%、Xにおいては25
%であろう。これらの特殊な利潤率をとってみれば、それらの合計は10%+
20%+30%+15%+25%であり、したがって100%に等しい。/ …… 全部の
資本があげる平均は、5つの部分が与える平均に等しい。そして、 これは、
……20%である。/ 実際にわれわれは、5部面の5000の前貸資本が、 100+
200+300+150+250=1000の利潤をあげるということを見いだす。 つまり、
5000にたいする1000は1/5すなわち20%である。同じく、総生産物の価値を
計算すれば、それは6000であり、そして、5000の前貸資本にとっての超過分
は1000であって、これは前貸資本との関係においては20%、総生産物の1/6
すなわち162/3%である。……ところが、これと同時にいまや実際にT、U、
Vなどの前貸資本のそれぞれ……は、総資本に帰属する剰余価値の分けまえ
にあずかるのであって、諸資本のそれぞれにはただ20%の利潤しか割り当た
ることが許されない。……ところが、このことを可能にするためには、いろ
いろな部面の諸生産物は、あるいはその価値よりも高く、あるいは多少とも
その価値よりも安く売られなければならない。すなわち総剰余価値は、それ
が特殊な生産部面で生み出されるのに比例してではなく、等しく、前貸しさ
れた諸資本の大きさに比例して、それらに分配されなければならない。生産
物の価値のうち前貸資本を越える超過分が前貸資本の5分の1すなわち20%
ー63ー
|
であるように、すべてがその生産物を 1200ポンド で売られなければならな
い。」「Uの場合にだけ平均価格と商品価値とが等しい ……。というのは、
ここでは剰余価値がたまたま200という正常な平均利潤に等しいからである。
他のすべての場合には、剰余価値の、あるいはより多くが、あるいはより少
しが、一方から取り去られて他方に与えられるのである。」(以上、MEGA,
722-724;草稿集E82-87から)。
以上の例解を受けて、マルクスは「平均価格」について次のように述べて
いる。「したがって、競争が諸商品の価値を絶えずそれに帰着させようとし
ている平均価格においては、…… 一方の生産部面の生産物への価値追加と、
他方の生産部面の生産物からの価値控除とが絶えず行なわれ、こうして一般
的利潤率が現われてくる。……前貸資本の総額にたいする可変資本の割合が
社会的資本の平均割合に 一致するような特殊な生産部面の商品の場合には、
価値は平均価格に等しく、したがって、価値追加も価値控除も行なわれない。
……/ ある商品の平均価格はその商品の生産費( 労賃であれ、原料であれ、
機械であれ、またはたとえどんなものであれ、それに前貸しされた資本)・
プラス・平均利潤に等しい。したがって、上記の場合におけると同様、平均
利潤は20%すなわち1/5であるとすれば、各商品の平均価格も、C(前貸資
本)・プラス・P/C、平均利潤である。C+P/Cがこの商品の価値に等しい
とすれば、その商品価値はそれの平均価格に等しい。C+P/Cが商品の価
値よりも小されとすれば、つまり、この部面で生みだされた剰余価値MがP
よりも大きいとすれば、その商品の価値はそれの平均価格にまで引き下げら
れ、 その剰余価値の一部分は他の商品の価値に付加される。 最後に、C+
P/Cが商品の価値よりも大きいとすれば、 つまり、Mよりも小さいとすれ
ば、その商品の価値はそれの平均価格にまで引き上げられ、他の生産部面で
生みだされた剰余価値がそれに付加される」(MEGA,727-728;草稿集E
88-89)。見られるように、ここでは、「平均価格」論は、平均利潤論に結び
つけられた形で詳しく説明されていることがわかる。
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以上の「平均価格」論の展開をふまえて、マルクスは、絶対地代について
次のように述べている。「しかし、ここで論じるべきではない特殊な事情の
結果として、特定の生産部面の内部では、一時的ではなく平均的に商品の価
値が──平均価格を越えているにもかかわらず、──少しの控除も受けるに
は及ばないとすれば、このように特殊な生産部面に全剰余価値が固定するこ
とは──たとえそのことが商品の価値を平均価格よりも高く引き上げて、そ
れゆえ平均利潤よりも大きな〔利潤率〕を生むにしても ──、 このような
生産部面の特権として考察するべきである。この場合には、その商品の平均
価格がその価値よりも低く引き下げられる──これは一般的現象であり均等
化の必然的前提である──ということではなく、なぜその商品が他の商品と
違ってその価値どうりに平均価格よりも高く売られるのかということを、独
自性、例外として、取り扱い、説明すべきである」(MEGA,727-728;草
稿集E89)。「最後に、その価値はC+P/Cよりも大きいにもかかわらず、その
価値どうりに売られるとか、または、その価値が少なくともそれの正常な平
均価格C+P/Cの水準まで引き下げられないとかいうような商品が存在する
とすれば、この商品にある例外的立場を与える事情が、そうした結果をひき
起こしているにちがいない。この場合には、この生産部面において実現され
る利潤は、一般的利潤率よりも高い。もしここで資本化が一般的利潤率を受
け取るとすれば、 地主は超過利潤を地代の形態で手に入れることができる」
(MEGA,728;草稿集E90)。これは要するに、「この商品にある例外的立場
を与える事情」・「ここで論じるべきではない特殊な事情の結果として」、 一時
的はなく平均的に、商品の価値>「平均価格」となり、また商品の内在的剰余
価値>平均利潤となるとすれば、この場合には、この商品を生産する生産部面
すなわち農業部面の利潤は一般的利潤率よりも高くなり、その結果このよう
な生産部面に発生する超過利潤は地代の形態で地主の手に入るのである、と。
先行する個所では、ここで言われる「このような生産部面の特権」は「そ
れがなくてはこの生産部面の商品が生産されえないような特定の自然的生産
条件、たとえば農耕地、炭田、鉄鉱山、落流等々が、……資本家以外の人々
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によって所有されている」こと(MEGA, 695; 草稿集E43)、すなわち土
地の私的所有に起因することが詳しく説明され、地代論に関する議論をマル
クスが大きく前進させ、「……こうしたことはすべて、ここで論じるのは適
切でない〔逆に言えば、こうしたこと以外の土地所有の問題はここで論じて
もよい、──松尾」(MEGA,696;草稿集E45)と述べるまでに至っていた。
それに対して、ここでは、マルクスは、「ここで論じるべきではない特殊な
事情の結果として、……」・「なぜその商品が他の商品とは違ってその価値ど
うりに平均価格よりも高く売られるのかということを、独自性、例外として、
取り扱い、説明するべきである」と述べることによって、彼は、再びもとの
立場──すなわち、「なぜ競争が個々の部面では特殊な障害に突き当たるか
という諸原因は、ここでは研究すべきではない」(MEGA,685;草稿集E
27)「特定の生産部面は、その価値が前述の意味での平均価格への還元に従
わないような諸事情のもとで仕事をしており──こうした勝利を競争に許さ
ない!ような諸事情のもとで仕事をしているということは、ありうる──私
はそれをこの本の対象には属しないのち研究に譲る」(MEGA,686;草稿
集E27)という立場に立ち返っている。
以上、ノート]・458ー484においてロートベルトゥスの「新地代論」にた
いする逐条的批判を終えたマルクスは、以下ノート]・484-]T・491におい
て自らの積極的な地代論〔絶対地代論および差額地代論〕の展開を試みてい
る。その結果、この個所に至ってはじめて、「差額地代」(MEGA,749;草
稿集E125)という用語とともに、「絶対地代」(MEGA,754;草稿集E136)
という用語が登場するようになる。ノート ]・485以下においてはじめてマ
ルクスは、差額地代について本格的に言及している。
差額地代についての議論はここでは措くとして、ここでのマルクスによる
絶対地代論を見ておこう。
「原生産物がその価値どうりに売られるとすれば、その価値は、他の諸商
品の平均価格よりも高い、またはそれ自身の平均価格よりも高い、すなわち
生産費・プラス・平均利潤よりも大きいのであって、したがってそれは地代
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をを形成する超過利潤を残すのである。これは、さらに言えば、可変資本が
(剰余価値の率を同じと前提すれば)不変資本に比べて、原生産では、工業
に属する諸生産部面の平均よりも大きいことを意味する……。あるいはなお、
より一般的に言えば、農業は、工業の生産部面のうち、不変資本にたいする
可変資本の割合が工業部面の平均よりも高い部類に属する。だから、農業の
剰余価値をその生産費にたいして計算すれば、工業部面の平均より高くなら
ざるをえない。これはまた、農業の特殊的利潤率が、平均利潤率または一般
的利潤率よりも高いことを意味する。これはまた、生産の各部面における特
殊的利潤率は、剰余価値率が等しくまた剰余価値そのものが与えられていれ
ば、特殊的部面における可変資本の不変資本にたいする割合によって定まる
、ということを意味する。/ したがって、このことは、私によって展開され
た一般的な法則を、ただ、ある特殊な農業部門において、言い表わしただけ
であろう」(MEGA,747-748;草稿集E123-124)。
要約するとこうなる。すなわち、原生産物が価値どうりに売られれば、そ
の価値は、他の諸商品の平均価格またはそれ自身の平均価格よりも高い、言
い換えれば、生産費+平均利潤よりも大きい、したがって原生産において超
過利潤が発生しそれが地代を形成するのである。どうしてこういうことが生
じるのか。それは、原生産における可変資本の不変資本にたいする割合が他
の生産部面すなわち工業部面におけるそれよりも大きいことに関係する。と
いうのは、各生産部面の特殊的利潤率は、剰余価値率が等しく剰余価値その
ものが与えられていれば、その部面における可変資本の不変資本にたいする
割合によって定まるのであって、もし原生産と工業部面とのあいだに上記の
ような条件が存在するとすれば、原生産の特殊的利潤率>平均利潤率(ある
いは一般的利潤率)となり、超過利潤が発生するからである、と。
マルクスは、ここに至って漸く、これまで地代の発生を説明する際暗黙の
うちに前提してきた問題──すなわち、なぜ農業生産物の価値はそれ自身の
平均価格よりも高く、したがってまた、なぜ農業部面の特殊的利潤率は平均
利潤率も高いのか、という問題──に明快な説明を与えている。
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実を言うと、 この論点はすでにノート]・447において指摘されていた。
すなわち、「農業のいくつかの部門、 たとえば牧畜や牧羊場などのような、
住民が絶対的に駆逐される部門を除けば──最も進歩した大農業においてさ
えも──充用不変資本に比べての充用者数の割合は、工業に比べて、少なく
とも支配的な工業部門に比べて、やはりはるかに大きい。だから、この側面
からすれば、……利潤率は工業におけるよりも大きいということがありうる。
しかし、利潤率を(工業に比べて一時的にではなく平均的に)高めるような
んらかの理由が農業に存在するとすれば(われわれは、上述のことを指摘す
るにとどめるが)、単に地主が存在するというだけのことに伴って、この超
過利潤は──一般的利潤率の均等化のうちにはいらないで──固定化して地
主の手にはいる、ということが起こるであろう」(MEGA,678;草稿集E13)。
見られるように、農業部門における可変資本の不変資本に対する割合が工業
部面に比べて大きいため、農業部門の利潤率が工業部門の利潤率よりも高く
なり、農業部門において超過利潤が発生するということが「指摘」されてい
る。しかし、すでに述べたように、ここでは、この《農業部門のV/C>農業
部門の V/C → 農業部門の利潤率>工業部門の利潤率 → 農業部門におけ
る超過利潤》という推論が、平均利潤論や平均価格論と切り離されて論じら
れている。そのため、ここではまだ、なぜ《農業部門の V/C>工業部門の
V/C》から 《農業部門の利潤率>工業部門の利潤率》という結論を導き出
すことができるのか、ということが十分に解明されていなかったと言うこと
ができる。
したがって、 ノート]・447において与えられていた着想(絶対地代成立
の二つの要件)が、このノート]・484に至って漸く、平均利潤論および「平
均価格」論と理論的に完全に結びつけられ、またそれらの理論を基礎にして
説明されるようになったのである。実際マルクスは、ここでの超過利潤論は、
平均利潤論や「平均価格」 論をその理論的基礎とし、 それらの理論的延長
である、と考えている。というのは、マルクスは引用文の最後で次のように
述べているからである。「したがって、このことは、私によって展開された
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一般的な法則を、ただ、ある特殊な産業部門において、言い表わしただけで
あろう」(MEGA,748;草稿集E124)。ここで言う「私によって展開され
た一般的な法則」とは、明らかに、ノート]・445ー484においてわれわれが
見てきた平均利潤の法則および「平均価格の法則」(MEGA,721;草稿集
E82)のことであると考えられる。4)したがって、ここでは、マルクスは、
この法則が「ある特殊な産業部門」においてどのように作用するかを自分は
いま説明したと述べている、と理解することができよう。
かくて、マルクスは、ロートベルトゥスの「新地代論」およびリカードゥ
の絶対地代否定論に対する彼独自の絶対地代論を次のように纏めている。「1,
……農業は、その商品価値がその平均価格よりも高い特殊な生産部面に属し、
したがって、その利潤は、農業がそれをみずから取得して一般的利潤率の均
等化に委ねないとすれば、平均利潤よりも高く、したがって、この平均的利
潤のほかになお超過利潤をもたらす、……。この第一の点は、平均的な農業
については確実であるように見える。というのは、農業では相対的に手仕事
がなお重きをなしており、また農業よりも製造工業を急速に発展させること
がブルジョア的生産様式に特有なものだからである。……これは歴史的な相
違であって、消滅しうるものであろう。同時に、 それが意味するところは、
総じて工業から農業に供給される生産手段の価値は下がるのに農業から工業
に供給される原料の価値は総じて上昇し、そのために、製造工業の大部分で
4)このように、筆者は、 「私によって展開された一般的な法則」とはノート]・445-484
においてマルクスが展開してきた平均利潤の法則および「平均価格 」の法則のことで
ある、と理解する。 また、1862年8月2日付のマルクスのエンゲルス宛の手紙におけ
る「以前に立てた命題」という文言についても同じように解釈すべきであると考える。
すなわち、「以前に立てた命題 」とはこの手紙を書く以前に――ノート]・445ーノー
ト\・528において―― マルクスによって展開された「価値と費用価格に関する命題」
のことであると理解すべきであると考える。
このような筆者の解釈は、 大村泉氏の次のような解釈・主張と対立する。すなわち、
「1862年8月2日付のエンゲルスあてへの手紙におけるつぎの言及 、すなわち、『私は、
この巻に挿入された一章として、すなわち、 以前に立てた命題の「例解」として地代
論を取り込もうと考えたところだ』、を評してここに『含意されているのは、価値ー生
産価格の解決である』と理解するのは誤りである。 この留保文言は、むしろ率直につ
ぎのように理解すべきであろう。すなわち、マルクスは、 この1862年夏という時期よ
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は不変資本の価値が農業〔で〕よりも相対的により大きい、ということであ
る。…… / 2,……なぜ原生産においては──例外的に、また、工業生産物
のうちで価値が同じようにそれの平均価格よりも高い部類とは違って──価
値が平均価格にまで引げげられないで、したがってまた超過利潤を別の言葉
で言えば地代を、もたらすのか……。このことは、単に土地所有からのみ説
明される。均等化はただ資本対資本についてのみ行なわれる。……土地所有
の独占は、……土地所有者をして資本家から、恒常的超過利潤を形成するは
ずの剰余労働部分を搾取することを可能にさせるのである。……それは、そ
の商品の平均価格を越えるその価値の維持を、商品のその価値よりも高くで
の販売ではなくその価値どうりでの販売を、可能にするのである」(MEGA,
748-749;草稿集E124-125)。
ここで述べられていることは要するに次の2点である。@農業部面におけ
る可変資本の不変資本にたいする割合が工業部面におけるそれよりも大きく、
しかも農業よりも工業のほうが急速に発展するため、農業生産物の価値はそ
りも約半年前に、 『価値―生産価格』の問題の『解決』を基本的に完了しており、 そ
のときすでに『価値は競争の諸条件もとでは修正された姿態で現象する、 すなわち、
直接的には生産価格として現象する』ということに『気づいていた』。1862年の夏に、
マルクスは、こうした『以前 』に確立していた認識を基礎に、ロートベルトゥスとリ
カードゥの地代論を批判的に解明し、あわせて、そうした時期にはじめて、この『以
前』に確立していた基本的な認識を評論するなかで、『地代』論、とりわけ『絶対地
代』論を『価値と生産価格との相違の例解』として『第3章(編)資本と利潤』=『資
本一般』のなかに取り込もうと考えることになったのである、と」(大村泉「新『メ
ガ』編集者による編集訂正と『資本論』成立史の新たな時期区分 」『経済』259号、
1985年11月,319ページ)。「ミュラー氏は、『学説史』のリカードゥ批判における絶対
地代の発見と価値――生産価格問題の同時的解決という基本線をゆずらず、草稿同章
〔草稿「第3章 資本と利潤」――松尾〕の基本的性格を『経済学批判要綱』の延長線
上でとらえ、マルクスが『資本一般』の枠組みの内部に生産価格の諸規定を編入した
のは、従来説同様『学説史』におけるリカードゥ批判においてであると主張した」が、
しかし「この『編入』の時期は『学説史』の起筆以前であって、マルクスにおける価
値―生産価格問題の基本的な解決は『学説史』のリカードゥ批判に先行すると考えな
ければならない、少なくとも草稿同章の作成時期が変更された以上、このように考え
る必要がある… 。……マルクスのエンゲルスにあてた1862年8月2日付の手紙における
つぎの言及、すなわち『たった今私は、以前に立てた命題の「例証」として、地代を
この巻に挿入された一章として取り入れること決意した』……ミュラー、フォッケ両
氏はこの一節を有力な典拠に、絶対地代の発見と価値ー生産価格問題の『同時的解決』
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平均価格よりも高く、またその内在的剰余価値・利潤は一般的利潤よりも高
い、したがって農業生産物がもしその価値どうりに実現されるとすれば、そ
れは、平均利潤のほかに超過利潤をもたらすであろうということ。A土地所
有の独占のため、農業部面においては、例外的に、価値が平均価格にまで引
き下げられない、つまり価値の平均価格への還元が生じない、その結果農業
部面に超過利潤=地代が発生することになる、ということ。この2点は、言
うまでもなく、マルクスの絶対地代論を構成する2本の柱であり、したがっ
て、ここにマルクスの絶対地代論の基本・原型が成立したことをわれわれは
確認しなければならないと言えよう。以下マルクスは、具体的な数字例を用
いて絶対地代論を展開しながら、その合間合間にこの基本原理の確認を行な
っている。たとえば、(MEGA,753-754;草稿集E135)を見よ。
以上の考察を終えたと思われる所で、マルクスは、「これをもって地代論
は本質的にはかたずいている」(MEGA,758;E144)という判断を下し、ロー
トベルトゥスの「新地代論」に対する彼自身の地代論の総括的掲示を行なっ
ている。「ロートベルトゥス氏の場合には地代は、彼の『材料価値』のゆえに、
永久的な自然から、少なくとも資本主義的生産の永久的な自然から、生じて
いる。われわれの場合には、資本の有機的な諸成分の歴史的な差異から、…
…──生じるのである」(MEGA,758;草稿集E144)。これは要するに、ロ
ートベルトゥスが、農業では「材料価値」(=原料)が前貸資本のなかに算入
されないとする「計算まちがい」によって農業部面における超過利潤の発生
を説かれているが、ここで言及されている『命題』が『価値と生産価格との相違』に
関する『命題』以外のなにものでもなく、しかもマルクスはそうした『命題』を『以
前に立てた(fruher aufgestellten)』『命題』と呼んでいるのであるから、 ミ ュ ラー説
の当否は明白と思う」(大村泉・大野節夫「DDR での二つのコロキウムに参加して」
『経済』261号,1986年1月)。大村氏の解釈は、要するに、 手紙をおいて「以前に立
てた命題」と言う場合の「以前」とは、「『学説史』の起筆以前であって、……『学説史』
のリカードゥ批判に先行する」時期、もっと直截に言えば「1862年夏という時期より
も約半年前」のことであり、しがたって「以前に立てた命題」とは、1862年夏よりも
約半年前に「草稿『第3章 資本と利潤 』の作成過程をつうじて」「基本的な認識を
確立」していた(大村、前掲論文319ページ)、「価値と生産価格との相違」に関する
「命題」のことである、というものである。
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を説き、そこから地代の発生を説くのにたいして、自分マルクスは、「資本
の有機的な諸成分の歴史的な差異」──すなわち農業部面における可変資本
の不変資本にたいする割合が工業部面におけるそれよりも大きいという事情
──から農業部面にける超過利潤の発生を説き、そこから地代の発生を説か
なければならないと考える、ということである。したがって、ここには、ロ
ートベルトゥスやリカードゥの地代論に対するマルクスの絶対地代論の精髄
が述べられているということができよう。
このように地代論にたいする自己の立場を確立したマルクスは、ノート]T
・492〜ノート]T・522において、まずリカードゥ地代論に関わる地代諸学説
の歴史を整理・批評し、さらにロートベルトゥスの議論に再度立ち返り「(い
わゆるリカードゥの法則の発見の歴史に関する覚え書き」;「次に最終的に、
これを最後としてのロートベルトゥスへの回顧」)、そして最後にマルクスは
「これでかたづいた」(MEGA,813;草稿集E227)と述べている。これは、
のちに地代論を本格的に論じる際に地代学説史として利用しようとして書き
記されたものであると見ることができよう。と同時に、この頃すでにマルク
スは、地代の問題は「ここで研究すべきではない」・「私はそれをこの本の対
象には属しないのちの研究に譲る」とした当初の立場を変更しようと考えは
じめていたのではないかと思われるのである。
* * * * *
以上、われわれは、ノート]・445-ノート]T・522におけるマルクスによ
るロートベルトゥスの「新地代論」批判、 それに対峙する形で掲示されたマ
ルクスの絶対地代論、 さらにその理論的基礎として展開されることになった
「平均価格」論を見てきた。次に、縞を改めてわれわれは、この「平均価格」
という用語が、いつ、どこで、 どのような事情によって「費用価格」という
用語に移行していったのかという問題に焦点をあてつつ、ノート]Tー]Uにお
けるマルクスの平均利潤論・「平均価格」・「費用価格」論に関わる論述を、
とくに「h・リカード」部分を中心にして、分析・検討することにしよう。
(まつお じゅん/経済学部助教授/1986.6.9受理)
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