『経済経営論集』(桃山学院大学)第28巻第1号、1986年6月発行

  

生産価格論の形成(1)
――用語の変遷を手掛りとして――

 

松尾 純

   T.は じ め に
  前稿1)においてわれわれは、草稿「第3章 資本と利潤」の執筆時期を確
定するという限定された目的のもとに、「生産価格」概念および「資本の有機
的構成」概念を表わす用語の変遷過程を追跡した。そのため、「標準価格」・
「平均価格」→「費用価格」→「生産価格」という用語の変遷過程の裏に潜
む理論発展の問題にはあまり深く立ち入らなかった。しかし、本稿では、前
稿において明らかにした、草稿「第3章 資本と利潤」は 「5.剰余価値に関
する諸学説」(ノートY―]X部分)に先行して執筆されたという結論を受け
て、この「標準価格」・「平均価格」→「費用価格」→「生産価格」という用
語の変遷過程をより深く立ち入って分析し、その裏に潜む理論発展を闡明す
ることによって、1861ー63年草稿2)における生産価格論の形成過程3)を明ら


1)拙稿「1861-63年草稿記載の『第3章 資本と利潤』の作成時期について」 桃山学院
大学『経済経営論集』第26巻第1号、1984年6月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1861ー63), in :
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd.3,Teil 1,1976;Teil
2,1977;Teil3,1978;Teil 4,1979;Teil 5,1980;Teil 6,1982, Dietz Verlag. 以下
この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、 Teil 1〜5部分については、
資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』(以下草稿集と略記する) CD
EFG、大月書店、1978,1980,1981,1982,1984 年 に従う。 幾つかの個所で訳文を
変更したが、いちいち断わらない。以下この書からかの引用に際しては、引用文直後に
MEGAの引用ページと草稿集のページを次のように略記して示す。例(MEGA
1974;草稿集C234)。
3)MEGA,Abt. Bd. 3 Teil 1〜6 の公刊以後、 幾つかの重要問題について議論さ

ー1ー

かにすることにしたい。

U 分析の基準――「生産費」概念の展開
筆者の見るところ、上記の用語の変遷過程を理解するための重要な手掛り


れつつある。そのうちの一つが、本稿で取り上げる、 1861ー63年草稿における生産価
格論の形成過程である。この問題に関連ある最近の――とりわけ、 関係する草稿部分
がMEGAその他において公刊されて以後の―― 論稿として次のようなものがある。
@大村泉「一般的利潤率・生産価格と剰余価値の利潤への転化 」『北海学園大学経済
論集 』第30巻第3号、1982年12月。A同「生産価格と『 資本論 』第3部の基本論理
(上)(中)(完)」 『経済』227, 228, 229号 、 1983年3, 4, 5月。 B「論文集
『「資本論」第二草稿』(Der zweite Entwurf des《Kapital》)( ベルリン、1983年)
の刊行によせて(上)」『経済』240号、1984年4月。C同「草稿「第3章 資本と利潤 」
=1862年12月作成説にたいして」――同稿は、吉田文和「ふたたび『機械論草稿 』につ
いて」『経済』241号、 1984年5月に「<付記>原伸子氏の批判に接して」の「二 」
として収められているものである。DDers.,Über die Entstehungsphasen des "Dritー
ten Capitel. Capital und Profit" und der "Miscellanea": Dezember 1862 oder
Dezember 1861? Beitraäe Zur Marx Engels‐Forschung. Bd.16,1984. E同「新
『メガ』編集者による編集訂正と『資本論』成立史の新たな時期区分 」『経済』259号
1985年11月。 F大村泉・大野節夫「DDRでの二つのコロキウムに参加して」『経済』
261 号、1986年1月。GW. Focke , Zur Geshichte des Textes, seiner Anordnung
und Datierung,in: Der zweite Entwurf des 》Kapital《 , Dietz verlag, Berlin,
1983. HManfret Müller / Wolfgang Focke, Wann entstand das "3. Capitel: Capー
ital und Profit",das in Marx'Manuskript"Zur Kritik der politischen Ökonomie"
von 1861 bis 1863 enthalten ist?,Beiträge zur Marx‐Engels‐Forschung,Bd.16,
1984.I原伸子「『資本論』草稿としての「1861ー63年草稿」について(1)」『経済志林』
第51巻第4号、1984年3月。J大野節夫「『1861ー63年草稿』と経済学批判体系プラ
ン(上)(下)」『経済』243,244号、1984年7、8月。K同「『経済学批判』から『資
本論』へ――″埋もれたリンク″1862年12月――(上)(下)」『経済』256,257号、
1985年 8, 9月。 L秋田清「ロートベルトゥスの地代論とマルクス――『剰余価値学
説史』におけるマルクスとリカードウ(T)(U)――」九州大学『経済学研究』第
47巻第4号、1982年6月、1985年12月。M鳥居伸好「一般的利潤率の形成と生産価格
――『1861ー63草稿』の検討を中心として―― 」『愛知論叢』35 ・36合併号1984年
3月。 N同「マルクスの『1861ー63年草稿』におけるリカードォ地代論批判」『愛知
論叢』40号、1986年3月。
目下のところ、マルクスが生産価格の問題を基本的に解決したのは、『剰余価値学
説史』におけるでのロートベルトゥスの「新地代論」批判からリカード理論の批判に至る
部分(ノート]ー]V)においてであるのか、それとも、それ以前の時期においてで
あるのか、という点、さらにまた、生産価格および絶対地代の問題の基本的な解決に
よってマルクスは地代論の取扱いについて構想の転換を行なったのかどうか、もし行
なったとすればそれは何時、 どのようにしてかという点をめぐって研究・ 論争が展
開されている。その詳しい論点については、論文EFを参照せよ。

ー2ー

は、マルクスの「生産費」理解が、いつ、どのように、なにゆえに変化した
かという点にもとめることができるように思われる。厳密な時期区分はのち
に述べることにして、マルクスの「生産費」理解は、大雑把に言うと、1861
-63年草稿のノート]Tまでの前半期とノート]T以降の後半期の2つの時期に
分けて見ることができる。前半期から後半期にかけてマルクスの「生産費」
理解が以下述べるように大きく変化しているのである。
前半期でのマルクスの捉え方は次のようなものである。すなわち、ノート
U・88においてマルクスは次のように述べている。「生産費は生産物の生産
に必要な労働時間(労働材料と手段とに含まれている労働時間も、また労働
過程で新たに付加される労働時間も)の総計に…帰着するのである。………
われわれはもっとあとの展開のところではじめて、生産費の定式に立ち入る
機会を得ることになろう。(すなわち、資本と利潤のところで。そこでは次
のことによって一つの二律背反がはいってくる。一方では、生産物の価値は
生産費に、すなわち生産物の生産のために前貸しされた価値に等しい。他方
では、………生産物の価値は、それが剰余価値を含んでいるというかぎりで
は、生産費の価値よりも大きい。これはつまり、次のことを意味している。
生産費は資本家にとっては彼によって前貸しされた諸価値の総計だけであり、
したがって生産物の価値は前貸された資本の価値に等しい。他方、生産物の
現実の生産費は、そのなかに含まれている労働時間の総計に等しい。ところ
が、そのなかに含まれている労働時間の総計は、資本家によって前貸しされ
た、あるいは支払われた労働時間の総計よりも大きいのである。そして、資
本家によって支払われた、あるいは前貸しされた価値を越える、生産物のこ
の剰余価値こそ、まさに剰余価値なのであり、われわれの規定では、利潤が
それから成っているところの絶対的大きさなのである)」(MEGA、145;草稿
C259 ー260)。以上を要約すると、「資本家にとって」の「生産費」は、「彼に
よって前貸しされた総価値の総計 」つまりc+vに等しく、 それに対して
「現実の生産費は、そのなかに含まれている労働時間の総計」つまりc+v+
mに等しい。因に、 このような「生産費」規定は、 前稿1)で指摘したよう
ー3ー

に、『経済学批判要綱』第3編「果実をもたらすものとしての資本」におけ
る「生産費」規定と近似していると言えよう。
「5.剰余価値に関する諸学説」に先行して執筆された草稿「第3章 資本
と利潤」ノート]Y・980―981でもマルクスは同様の規定を与えている。「利
潤は、………生産物の形成にはいり込んだ資本の価値を越える価値超過分に
…等しいのである。このことから、総資本はこの利益のための生産手段とし
て現われるのであり、………前貸資本の総額が商品の生産費として、実際に
は、商品によって得られる利益すなわち利潤の生産費として、現われるので
ある。」「個々の資本家の立場から見た商品の生産費と商品の現実の生産費は
2つの異なるものである。 / 商品それ自身のうちに含まれている生産費は、
商品を生産するのに要する労働時間に等しい。すなわち商品の生産費は、そ
の価値に等しい。………/ 資本家の立場から見た生産費は、彼が前貸しした
貨幣だけからなっている――すなわち商品の生産費のうち彼の支払った部分
だけからなっている。………/ だから、 剰余価値、したがってまた利潤は、
………商品の生産費に入るにもかかわらず、商品を販売する資本家の生産費
には入らない。………利潤とは、まさしく資本家にとっては資本家の生産費
を越える商品価値(価格)の超過分である」(MEGA、1611ー1612;草稿集
G110ー112)。これを要約すると、「生産費」の意味は、一つは、「資本家の立
場から見た生産費」であって、資本家の前貸ししたものc+vであり、もう
一つは「商品の生産費」であって、「商品を生産するのに要する労働時間」
つまりc+v+mに等しい、ということである。
ノートZ・326にも、同様の「生産費」規定が見られる。「{………私が財
貨の生産費を資本家の生産費と区別している………、それは、資本家がこの
生産費の一部分にたいして支払いをしないからである。………}」(MEGA
469;草稿集D219)。ここでも「財貨の生産費」と「資本家の生産費」の区別
(のみ)が存在する。
前半期におけるマルクスの「生産費」規定がこのように二つの意味をもつ
とすれば、ノート]T以降の後半期におけるマルクスの「生産費」規定にはも
ー4ー

う一つの意味がつけ加えられている。
たとえば、 ノート]W・787―790ではマルクスは次のように述べている。
「生産費の概念の二重性は資本主義的生産そのものの性質から出てくる。/
第一に。………商品の資本家にとっての費用というのは、当然、その商品が
彼に費やさせるものである。その商品が彼に費やさせるもの………は、前貸
資本の価値以外にはなにもない。………/ ………どの資本家も、利潤の率が
どうであろうと利潤を計算する場合には、生産費を、このような意味に解し
ているのである。/ ………これは、マルサスが買い手の価格と対立させて生
産価格[producing price]と呼んでいるものである。………/第二に。・・
・商品そのものの生産費は、その生産過程で消費される資本の価値すなわち
商品のなかにはいる対象化された労働の量・プラス・その商品に支出される
直接的労働の量から成っている。………このような意味からすれば、商品の
生産費はその価値に等しい。 ………/ 第三に。 ……… 社会的資本が1000で、
一特殊生産部門の資本が100であるならば、 また、 剰余価値の……… 総量が
200つまり20%であるならば、特殊な生産部門の資本100は、その商品を120
の価格で売ることになるであろう。………/これは費用価格であり、 そして、
本来の意味(経済的な、資本主義的な)での生産費が問題とされるとすれば、
それは、前貸の価値・プラス・平均利潤の価値のことである 」(MEGA
1272―1274;草稿集F112―115)。「利潤は、商品の生産費のなかにはいり、A.
スミスによって正当に商品の『自然価格』のなかに要素として算入されてい
る。というのは、資本主義的生産の基礎のうえでは、商品はそれが前貸の価
値・プラス・平均利潤の価値に等しい費用価格を生まないならば、――長い
目で見れば平均して――市場へはもたらされないからである 」(MEGA
1275;草稿集F117)。以上を要約すると、「生産費」は、 三つの意味をもち、
第一の意味は、「商品の資本家にとっての費用」であり、それは「前貸資本の
価値」に等しく、第二の意味は「商品そのものの生産費」・「商品の内在的な
生産費」であり、「商品の価値」に等しく、そして第三の意味は「本来の意
味………での生産費」であり、それは「前貸の価値・プラス・平均利潤の価
ー5ー

値」に等しく、「費用価格」と同義である、ということである。
さらに、たとえば、ノート]X・928では次のような「生産費」理解を示し
ている。「{費用と名ずけることができるのは、前貸しされたもの、したがっ
て資本家によって支払われたものである。これに応じて、利潤はこの費用を
越える剰余として現われる。………こうして、前貸によって規定された価格
を費用価格と呼ぶことができるのである。/ 生産費と呼ぶことができるのは、
平均利潤、したがってまた前貸資本の価格・プラス・平均利潤、にとって規
定される価格である。……… このような価格が生産価格である。/ 最後に、
商品の生産に必要な労働(対象化された労働および直接的労働)の現実の量
は、商品の価値である。この価値は、商品そのものにとっても現実の生産費
をなしている。この価値に対応する価格は、価値が貨幣で表現されたものに
ほかならない。『生産費』という名は、時に応じてこの3つのうちのどれか
を意味する。}」(MEGA、1510;草稿集F496―497)。以上を要約すると、こ
こでも「生産費」という用語は3つの意味をもつ、第一は、「前貸しされた
もの」「資本家によって支払われたもの」を意味し、これによって規定され
た価格は「費用価格」と呼ばれ、第二は、「前貸資本の価格・プラス・平均
利潤」を意味し、これによって規定された価格が「生産価格」である、そし
て、第三は、「商品の生産に必要な労働………の現実の量」に規定される「商
品の価値」を意味する、ということである。
以上、前半期のマルクスの「生産費」理解と後半期のそれとを比較してた
だちに解ることは、第一に、前者では「生産費」は「前貸資本の価格・プラ
ス・平均利潤」という意味をもたない、ということである。さらにノート]W
・787―790とノート]X・928の比較から解ることは、 前半期にはなかった
「生産費」の第三規定の別名として、前者では「費用価格」があてられてい
るが、後者では「生産価格」があてられている、ということである。あとで
詳しく述べるように、第一の点は勿論、この第二の点も、実は、「生産費」
概念の展開と大きくかかわっているのである。4)

4)論点を先取りして述べておくと、この第2の点はマルクスの次のような「生産費」「費

ー6ー

  あとの議論との関係で、「生産費」という用語が「前貸資本の価格・プラ
ス・平均利潤」という意味をもつようになった時期が重要になってくるわけ
であるが、筆者が見るところ、最大限遡っても、おそらく、それは、ノート
]T・514以降であろうと思われる。その理論的な含意はあとで見るとして、
こう推定するのは次のような事情があるからである。
すなわち、ノート]T・514以前では、マルクスは、のちの「生産価格」概
念を表わす用語である「平均価格」を次のように説明している。ノート]・
450では、「均等化の諸期間のうちの一期間中における諸商品の平均価格とい
うのは、この価格がどの部面においても商品生産者たちに同じ利潤率、たと
えば10%をもたらすという価格である。これはなおほかになにを意味する
か?各商品の価格は、その商品が資本家に費やさせた生産費、すなわち資本
家がその商品を生産するために支出した生産費の価格よりも1/10高い、と
いうことである。このことは、………各商品の価格は、 商品に前貸しされ、
消費され、または表わされた資本価値よりも 10分の1だけ高いということを
意味するだけである」(MEGA、684;草稿集E24―25)。ノート]・451では、
「ある商品の平均価格は、その商品に含まれている支払労働………の量・プ
ラス・不払労働の平均的分けまえに等しい」(MEGA、686;草稿集E27)。
ノート]・456では、「平均利潤を越える剰余価値の超過分というのは、ある
商品……に、平均利潤を形成する不払労働量、つまりその商品の平均価格のな
かで その商品の価格を越えるその商品価格の超過分を形成する不払労働量、
よりも大きな不払労働量が含まれていることを意味する。生産費は、各個の商
品においては前貸資本を表わしており、この生産費を越える超過分は、前貸
資本が支配する不払労働をあらわしている」(MEGA、694ー695;草稿集E42)
ノート]・473では、「ある商品の平均価格は、その商品の生産費(………そ

用」論と深い関係があると筆者は考える。すなわち、「剰余価値の諸部分――利子と
地代――はここでは搾取を行なう資本家の費用として、彼の前貸として、現われるの
である。/………しかし、平均利潤は、生産価格そのものと同様に、むしろ観念的に
規定されており、また同時に、前貸を越える剰余としても、本来の費用価格とは違っ
た価格としても現われる」(MEGA、1509ー1510;草稿集496)。

ー7ー

れに前貸しされた資本)・プラス・平均利潤に等しい」(MEGA、728;草稿
集E89)。ノート]・484では、「原生産物がその価値どうりに売られるとすれ
ば、その価値は、他の諸商品の平均価格よりも高い、またはそれ自身の平均
価格よりも高い、すなわち、生産費・プラス・平均利潤よりも大きいのであ
って、したがってそれは地代を形成する超過利潤を残すのである」(MEGA
747;草稿集E123)。ノート]T・504では、「商品の平均価格とはなにか?そ
の商品の生産に投下された総資本………プラス・たとえば10%の平均利潤
に含まれている労働時間である」(MEGA、780;草稿集E179)。ノート]T・
513では、「平均価格――すなわち生産費・プラス・平均利潤によって〔形成
された〕価格」(MEGA、798草稿集E206)。これらによってわかるように、
マルクスは、「平均価格」という言葉を第一に「生産費・プラス・平均利潤」
という意味で、第二に「前貸資本・プラス・平均利潤」という意味で使用し
ている。この二つは、これらの個所では、マルクスにとっては同じである。
というのは、彼は、これらの個所では、「生産費」と「前貸資本」とを等置
していた、すなわち「生産費」はc+vに等しいものという意味でもっぱら
使っていると思われるからである。たとえばこうである。「生産費すなわち
不変資本と労賃にたいする支出」(MEGA、710;草稿集E64)。ノート]・
483(MEGA、746;草稿集E120 )での「生産費」の使用方法。
ところが、この一方の「平均価格」=「生産費+平均利潤」という規定は、
筆者の調べたかぎりでは、ノート]・514以降ではまったく見られなくなる。
これ以降は、「平均価格」あるいは「費用価格」(後者はノート]T・529以降
登場することになる)=「前貸(又は前貸資本)+平均利潤」という規定の
みが一貫して使用されている。
たとえば次のような例が見られる。すなわち、ノート]T・523では、「リカ
ードは、地代の価格はその価値に等しい、というのは、それは平均価格すな
わち前貸・プラス・平均利潤に等しいからだ、と仮定している」(MEGA、815;
草稿集E231)。 ノート・529では、 「価値そのものとは違う平均価格――
または、われわれが 言いたいように 言えば費用価格………この価格は直接
ー8ー

に商品に価値によって規定されるものではなく、その商品に前貸しされた資
本 ・ プラス ・ 平均利潤によって規定されるものである」(MEGA、827;
草稿集E248)。ノート]T・533では、「商品の費用価格は、それが商品に含ま
れている前貸の価値・プラス・同じ年利潤率によって規定されるかぎり、商
品の価値とは違っている」(MEGA、833;草稿集E259)。ノート]T・563で
は、「費用価格は、前貸・プラス・平均利潤に等しい」(MEGA、885;草稿集
E345)。ノート]U・614では、「なぜ価格は費用価格に、すなわち、前貸・プ
ラス・平均利潤に、等しい高さでなければならないのか?」(MEGA、959;
草稿集E461)。ノート]U・619では、「資本の立場からすれば………費用価格
が必要とするのは、ただ、生産物が前貸のほかに平均利潤をも支払うという
ことだけである」(MEGA、969;草稿集E477)。ノート]U・624では、「十分
な価格とは、実際には生産価格すなわち費用価格なのであって、これは、……
資本家の前貸のほかに通常利潤をも支払うところの価格……… なのである」
(MEGA、979;草稿集E490)。ノート]V・671では、「費用価格………それは
つねに、消費された資本・プラス………・前貸資本にたいする平均利潤、に
等しい」(MEGA、1058;草稿集E614)。ノート]W・784では、「商品の費用
価格は前貸資本の価格・プラス・平均利潤に等しい」(MEGA、1265;草稿集
F102)。すでに見たノート]W・789でも、「費用価格…本来の意味…での生産
費…それは、前貸の価値・プラス・平均利潤の価値のことである」(MEGA
1274;草稿集F115)。ノート]W・790では、「資本主義的生産の基礎のうえで
は、商品は、それが前貸の価値・プラス・平均利潤に等しい費用価格を生ま
ないならば、 ――長い目で見れば平均して―― 市場へはもたらされない」
(MEGA、1275;草稿集F117)。ノート]W・800では、「この費用価格――前
貸資本の価値・プラス・平均利潤――は、 農業が工業から受けいれる前提で
ある」(MEGA、1289;草稿集F145)。ノート]X・928では、すでに見たよ
うに、「生産費と呼ぶことができるのは、…前貸資本の価格・プラス・平均利
潤、によって規定される価格である。…このような価格が生産価格である」
(MEGA、1510;草稿集F496ー497)。ノート]X・929では、「費用価格は、諸
ー9ー

前貸資本の価値・プラス・それらによって生産された剰余価値が特殊な諸部
面のあいだにそれらの部面が総資本のなかで占める割合に応じて配分される
もの、にほかならない」(MEGA、1513;草稿集F500)。[あとで詳しく見る
ように、ノート]X・928ではじめて明確な概念規定を受けた「生産価格」と
いう用語がノート]X・934 あたり以後からそれまでの「費用価格」にとっ
て代わり、それにともなって、「費用価格」=「前貸資本の価値」=「費用」と
いう意味になり、「生産価格」=「費用価格」(または「費用」)+「平均利潤」、
という捉え方がなされるようになる。したがって、 たとえばノート]X・934
では、「前貸資本の価値、費用・プラス・平均利潤、つまりK+A.Pを生
産価格とみなすならば、商品の価値がどんなに変動しようとも、生産価格が
同じままでありうるということは明らかである」(MEGA、1521; F513)。
ノート]X・957では、「費用価格つまり生産価格を規定する彼の生産の費用
と、利潤とが、彼にとっては、 生産価格のなかにはいってゆく要素として、
…現われるのである」(MEGA、1570;草稿集G48)。]
ノート]・514以降での「平均価格」=「生産費+平均利潤」という規定の消
滅するのに対応するかのように、ノート]W・787ー790での「生産費」規定
に先行して、「生産費」は「前貸(資本)+平均利潤」に等しいもの、すな
わち「平均価格」あるいは「費用価格」と同義のもの、とされるようになっ
たようである。この「生産費」規定の変換の端緒は、ノート]T・513の「諸
費用(生産費・プラス・平均利潤)」(MEGA、798;草稿集E206)という規
定から次ページの「諸費用(前貸・プラス・平均利潤)」(MEGA、799;草稿
集E208)という規定への移行に求めることができるよう5)。以下、次のよう
な例を見ることができる。ノート]T・551では、「商品の生産費すなわち商品
の費用価格」(MEGA、865;草稿集E311)。ノート]U・591での「生産費」
の使用方法。ノート]U・647では、「… 生産価格(または費用 )が前貸資本・

5)「生産費」規定に関わるこのような変換は、あとで詳しく見ろように、マルクスがア
ンダソン理論を評価・検討した際、『劣等な部類の若干の土地を耕作する費用がその
全生産物の価値に等しい』(MEGA、798;草稿集E206)というアンダソンの「費用」
規定に接したことに起因しているように思われる。

ー10ー

プラス・平均利潤に等しいかぎりでは、事情がまさに逆になる。…したがっ
て、この意味での費用――リカードウは生産費について論じている他のとこ
ろではこの意味での費用を考えている――が増大するために、地代は減るこ
とになる」(MEGA、1018;草稿集E557―558)。ノート]V・671では、「与
えられた大きさたとえば100 の一資本が一定の期間たとえば一年間に手に入
れる剰余価値の分けまえが、平均利潤または一般的利潤率を形成するのであ
り、それが各産業部門の生産費のなかにはいるのである。この分けまえが15
だとすれば、通常利潤は15%であり、費用価格は115である」(MEGA、1058;
草稿集E614)。
なお念のために確認しておくと、これらの文中の「費用」という言葉は、
マルクスにとって、「生産費」と同義であったように思われる。というのは、
たとえばノート[・337でマルクスは次のように述べている。「利潤の生産
費は減っているであろう。 というのは、剰余価値を生産するための前貸資本
の全体すなわちその総額は減っているであろうからである。剰余価値の費用
は、資本のうち賃金に投下されている部分の費用よりけっして大きくはない。
利潤の費用は、これに反して、この剰余価値をつくりだすために 前貸しされ
た資本の総費用に等しい。したがって、利潤の費用は、賃金に投下されて剰
余価値をつくりだす資本成分の価値によってだけではなく、生きている労働
と交換されるこの一資本成分を活動させうるために必要な諸資本成分の価値
によっても規定されているのである。ミル氏は、利潤の生産費を剰余価値の
生産費と混同しているのである」(MEGA、490―491;草稿集D257)。さら
に、たとえば、ノート]T・541での「このようにリカードウは、商品の費用
と価値との相違、費用価格と価値との相違を、たとえそれを展開し理解して
いないとはいえ…」(MEGA、847;草稿集E282)という表現やノート]X・
957での「費用価格つまり生産価格を規定する彼の生産の費用と、 利潤とが
…」(MEGA、1570;草稿集G48)という表現によってわかるように、マルク
スにとっては、「費用価格」という言葉は「費用」と同義であったように思わ
れる。したがって、マルクスの頭のなかには、「生産費」=「費用」=「費用
ー11ー

価格 」という等式が存在していたようである。 とすれば、 ノートW・264
にすでに見られる、商品の「内在的生産費」(c+v+m)を意味する次の「商
品の費用価格」という表現を了解することができるのである。「商品の費用
価格(すなわち売り手によって提供される商品の価値)」(MEGA387; 草
稿集D91)。また、ノート]・470での「この例は農業にたいしてはまちがい
であるが、たとえ正しいとしても、その場合には、原生産物の価値が『費用
価格よりも低く』下がるという状態が平均価格の法則にまったく一致すると
いうだけのことであろう」(MEGA、721;E82)という文中の「費用価格」
という言葉は、――マルクスによる「費用労働」の書き誤りと理解すること
もできようが、――ここでも商品の「内在的生産費」(c+v+m)を意味す
る「費用価格」という言葉をマルクスが使っていると理解することもできる
のである。
以上の考察からわかるように、問題は、これらの言葉(「生産費」・「費用」
・「費用価格」)がもつ「本来」の意味・内容ではなく、マルクスが1861-63
年草稿のそれぞれの段階においてそれらにたいしてどのような概念規定・内
容を与えていたのかということである。この問題(すなわち1861ー63年草稿
でのマルクスの「生産費」・「費用」概念の展開という問題)は、冒頭でも述
べたように、「標準価格」・「平均価格」→「費用価格」→「生産価格」と
いう用語の変遷過程と深く関わりあっているのである。この両者の関連、す
なわち「生産費」・「費用」概念の展開と「平均価格」から「生産価格」への
用語の変遷との関わりを明らかにすることによって、生産価格論の形成過程
や 地代論の成立過程のより深る解明することが可能になるものと思われる。
以下、まず、「標準価格」・「平均価格」から「費用価格」への、次に、「費
用価格」から「生産価格」への用語の変遷過程を、「生産費」・「費用」概念
の展開にかかわらしめながら、詳しく見ることにしよう。

ー12ー


V 1861-63年草稿前半期における「標準価格」6)論・
「平均価格」論

ここでの考察範囲は、 ノートTからノート]・444にかけての部分と、 ノ
ート ]Yおよびノート ]Z冒頭に記載の草稿「第三章 資本と利潤」および
「雑録」部分とである。
(1)まず、ノート T〜X部分について見ておこう。 生産価格論に関連が
ありそうな叙述として、 すでに引用したノートU・88以外に、 次のようなも
のがある。 すなわち、 ノートT・22――「労働の価値の水準でさえも、同一
の国におけるブルジョア的時代のさまざまな時期を比較すれば、上下してい
る。だが最後に、労働能力の市場価格は、あるときはその価値の水準以上に
上がり、あるときはそれ以下に下がる。これは他のすべての商品について言
えるのと同じことであって、ここでは、すなわち諸商品が等価物として交換
される、あるいはそれらの価値を流通で実現する、という前提からわれわれ
が出発するここでは、どうでもよい事情である。(この、諸商品一般の価値
は、労働能力の価値とまったく同様に、現実には、騰落する市場価格を相殺
したときに得られるそれらの平均価格として表わされるのであり、これによ
って諸商品の価値が市場価格のこれらの変動そのもののなかで実現され、実
証されるのである。)」(MEGA、39;草稿集C64ー65)。ここでの「平均価格」
という用語は、ノート]・]Tにおいて頻繁に使用されている「平均価格」と
は違うものであるといわなければならない。ここでの「平均価格」は、「騰
落する市場価格を相殺したときに得られる」価格、価値を中心にして変動す
る市場価格を「平均」した価格であるということを意味する。だから、それ
は、たんに変動する市場価格の「平均的な」・価格を意味するにすぎない没概

6)前稿では筆者は、この「標準価格die Normalpreisse」という語を、 「正常利潤または
平均利潤Normalprofit,oder Durchschnittsprofit」(MEGA、681ー682;草稿集E21)
という訳語との統一を考えて「正常価格」という訳語を付したが、本稿では、 この言
葉のもつ意味・ 内容をより適切に表現しうると考えられる「標準価格」という訳語を
当てることにした。

ー13ー

念的な用語であるといわなければならない。しかも、「これによって諸商品
の価値が市場価格のこれらの変動そのもののなかで実現され、実証されるの
である」という表現からわかるように、この「平均価格」は「価値」と一致
するものと考えられているようである。とすれば、これは、古典派のスミス
やリカードの「自然価格」の考え方につうじるものであると言えよう。した
がって、この段階ではまだ、のちの生産価格論につうじる議論が十分に用意
されていなかったし、またそうした問題意識さえここでは稀薄であったと言
うことができよう。
(2)次に、 草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」部分を見ること
にしよう。ここでは、平均利潤論がかなり詳しく展開されているので、理解
を助けるためにまずそれを簡単にまとめておこう。
草稿「第3章 資本と利潤」は、3つの部分からなっている。第一の部分
は、 ノート・973ー979 (1[剰余価値と利潤]〜 5[剰余価値と利潤との
関係は、可変資本の総資本にたいする関係に等しい]――(MEGA、1598ー
1609;草稿集G87ー106)の部分であって、ここでは、まず第1に、「剰余価値の
利潤への転化」について論じられている 、すなわち、「利潤は、実体から見
れば、まったく剰余価値そのものにほかならない。したがってまた、利潤は、
その絶対量から見ても、資本が一定の回転期間のなかで生みだす剰余価値と
は区別されない。………剰余価値は、その性質からすれば、前貸資本のうち、
それとの交換によって剰余価値が生成する部分…にたいする割合として計算
される。… これに反し、利潤としては、剰余価値は… 前貸資本の総額…に
よって計られる」。かくて、「剰余価値は、…利潤では、一つの新しい、自分
の元来の姿態とは数的に違った表現を受け取るのである」。「[利潤は]剰余
価値の転化形態[であり]、その形態にあっては剰余価値は第一にその数的
関係を変更し、第二にその概念規定を変更する」(MEGA、1607;草稿集G
103)。「資本の可変部分にたいする剰余価値の関係は、…一つの有機的な関
係である。…利潤と資本の関係では、このような有機的な関係は消し去られ
ている。剰余価値は、その源泉の秘密がもはやなんの痕跡も残していない一
ー14ー

つの形態を受け取る。資本のあらゆる部分が一様に新たに生みだされる価値
の根拠として現われるために、資本関係は完全に不可解なものになる」。つ
まり「資本は、…一つの物になる」。「実際、資本家自身は、資本を、自ら働
く自動装置とみなしているのであって、この自動装置は、…その素材的定在
のままでそれ自身自己増殖し利得をもたらすという属性をもつのである 」。
流通過程のなかでは、「剰余価値の元来の性質への思い出は完全に消滅して
しまい」、「この意識は本来の流通過程の諸転化や諸変形によって完成される
のである」。さらに、「現実の流通過程では、…これらの諸転化が現実の競争
すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での売買と同時に行なわれるので、
…資本家たちにとっては、…利益は、…労働の搾取度によって定まるのでは
なく、彼らどうしのごまかし合い…によって定まるように見える」。「事実、
資本家が関心をもつ唯一のもの、また、資本の現実の運動すなわち競争を規
制する唯一のものは、剰余価値ではなく利潤だけであ」る。(以上引用は、
一部を除き、MEGA、1598―1605;草稿集G87―99)。第一部分の第二の問
題は、利潤と剰余価値の、いわば数的関係の分析である。
第二の部分は、ノート]W・979ー987(「6生産費」――MEGA、1609ー1632;
草稿集G107―143)の部分であって、ここでは、まず、(a)項で生産費の概念
規定が行なわれ、つづく(b)〜(d)項で生産費に関わる諸問題(b)項の利潤が生
産費に入りこむかどうかの論争、c)項の価値以下・生産費以上の販売による
利潤の発生、d)項の不変資本の低廉化と充用上の節約による生産費の低減・
利潤率の上昇の)が論じられ、さらに、e)項では利潤の尺度基準としての一定
量の資本という問題、 f)項では利潤率が現実の蓄積率を規定するという問題
が論じられている、そしてさらに、g)項では一般的利潤率・平均利潤率が取
扱われ、そして最後に、h)項で固定資本の発展による労働日延長問題が取り
扱われている。
第三の部分は、ノート]W・999―]Z・1028(7[資本主義的生産の進行
に伴う利潤率の低下に関する一般的法則]――MEGA、1632ー1682;草稿集
G143ー221)の部分である。
ー15ー

  以上の整理を強いて『資本論』第3部の側から再整理してみると、第一部
分と第二部分のa)項からf)項までの部分は、内容的にいって、第3部第1編
「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率の利潤率への転化」に対応し、そこ
では、本草稿での表現を借りれば、「第一の」・「形式的な」「剰余価値の利潤
への転化」、すなわち剰余価値の利潤への「形態にのみ」かかわる転化が考
察されており、それに対して、第二部分のg項は、 第3部第2編「利潤の平
均利潤への転化」に対応し、そこでは、マルクスの表現を借りれば、「第二
の」・「実質的な」「剰余価値の利潤への転化」、すなわち「形態だけではなく、
形態とともに実体そのものに関係する…換言すれば利潤の絶対的量…………
が変わる」(MEGA、1624;草稿集G133)「剰余価値の利潤への転化」につ
いて述べられている。最後に、言うまでもなく、第三の部分は、第3部第3
編「利潤率の傾向的低下法則」に対応する部分である。
以上の整理からわかるように、 草稿「第3章 資本と利潤」の平均利潤論
は、第二部分のg)項(ノート]Y・987ー999――MEGA、1620ー1632;草稿集G
124ー142)に見られる。まずマルクスは、「この編のなかで最も重要な――資
本主義的生産の進行に伴う利潤率の低下という――問題を解決してゆく前で
あっても、答えられる」・「生産費と関連のある二つの問題」(MEGA、1620;
草稿集G125 )を提起している。一つは、「利潤量が利潤率にたいしてどのよ
うな関係にあるのか?」という問題であり、もう一つは、「資本の大きさだけ
によって定まる一般的利潤率は……どのようにして生ずるのか ? 」という
問題である。
前者の問題にたいする答えは、こうである。「同じ剰余価値でも、可変資
本の総資本にたいする割合に応じて、まったくいろいろに違った利潤率とな
って現われることができる」(MEGA、1622;草稿集G128 )。
ノート]Y・989以下、 第二の問題が考察されている。まず冒頭でマルク
スは、「資本の生産部門が違えば利潤率も違っているという」ことを前提に
してはじめて、「平均利潤率を問題にすることができる」(MEGA、1623;草
稿集G129 )、しかし「この点のより詳しい考察は競争の章に属する」とは
ー16ー

いえ 「きわめて重要な一般的なものは ここで説明されなければならない」
(MEGA、1623;草稿集G129)と述べて、以下「一般的利潤率」とはなにか
ということを考察されている。すなわち、まず第一に、「共通の利潤率または
一般的利潤率」とは「非常に違ったいろいろな利潤率の平均」のことであり、
そして、この「平均利潤率」とは「資本の利潤が[それ]を中心として増減
する」・「標準的利潤率」のことである(MEGA、1623;草稿集G129)と説明
する。しかし、 これでは、マルクスも言うように「依然として決定的な点に
は到達していない」(MEGA、1623;草稿集G129)したがってマルクスは、
さらに、「一般的利潤率」とはなにかということを考察してゆく。そして次
のように言う。「一般的利潤率が10%に等しいということは、資本がどんな
部門で充用されるかにかかわりなく、1/10を利潤として返還するということ、
すなわち、………利潤量はまったく前貸資本の大きさによって[定まり]ー
―― 資本の大きさに直接比例するということのほかには、 およそなにも意
味しない。…資本の現実の回転期間にも左右されないし…生産期間にたいす
るそれの流通期間の割合にも左右されず、…資本のいろいろな諸成分の有機
的な割合にも、したがって現実の剰余価値にも、…その量にも、左右されな
いのである」(MEGA、1624―1625;草稿集G131)、と。以下、これを受けて、
「剰余価値の利潤への転化」と対比させながら、「一般的利潤率」・「利潤の平
均利潤への転化」の意味が考察される。すなわち、「剰余価値の利潤への転
化は、数的割合を――あるいはむしろ数的割合の表現を変えるだけではなく、
およそ形態をも変える」(MEGA、1625;草稿集G132)。「剰余価値の利潤へ
の転化」の場合には、「剰余価値は絶対量としては相変わらず利潤と同じまま
である。…ただ違ったように計算されるだけである。…それ自体しては相違
は依然としてただ形式的なそれにすぎない。…特殊な諸資本投下による剰余
価値の相違は相変わらずまだ利潤の相違として示されるであろう 」 (MEGA
1625;草稿集G132―133 )。しかし、「一般的利潤率」の場合には、「利潤率が
すべてに資本について同じである」;「利潤量の比は直接かつ精確に諸資本の
大きさの比に等しい」(MEGA、1625ー1626;草稿集G133)。前者の場合には、
ー17ー

「剰余価値の(剰余価値率の)…相違が存在しており、また…いろいろに違
った剰余価値率または剰余価値の相違は、…いろいろに違った利潤率という
変更された形態で…存在している。…それらは均等化され、…この平均的な
大きさが…現実の(標準的な)利潤率なのである」(MEGA、1626;草稿集G
133)。したがって、「第一の転化の基礎の上で第二の転化が起こるのであり、
この第二の転化は、もはや形態だけではなく、形態とともに実体そのものに
関係するのであり、換言すれば利潤の絶対量…が変わるのである」(MEGA
1626;草稿集G133)。
ところで、以上の、生産諸部門間の利潤率の相違―→(均等化)―→平均
利潤率という推論方法とは違って、マルクスは、ノート]Y・992以下では、
総資本の総利潤―→(諸資本の大きさに比例した分配)―→平均利潤という推
論方法によって、 平均利潤とはなにかということを 説明し、 そのうえで、
「利潤の平均利潤への転化」の意味を考察している。すなわち、「平均利潤
というのは、 … 総利潤を … 総資本が直接にこの総利潤の生産にたいして
もつ割合によってではなく、…諸資本の大きさに比例する相違に従って、そ
れぞれの特殊な生産部面の個々の資本へ分配するということのほかのもので
はありえない」(MEGA、1627ー1628;草稿集G136)。したがって、「第一の
転化ではただ形式的にすぎなかったものが…ここ[第二の転化]では実質的
な相違となる。…第一の転化で剰余価値が形式的に生産物の価値のうち前貸
資本の価値を越える超過分として決定されるのと同じように、ここ[第二の
転化]では、実質的に、資本全体の総生産物のうち前貸資本の総価値を越え
る価値超過分にたいする前貸資本の分けまえが、この前貸資本の価値に比例
して、決定されるのである。剰余価値が利潤すなわち前貸資本を越える超過
分として転化させられた瞬間から、第二の実際上の結果、すなわち、一定の
超過分が…前貸資本に割り当たる剰余価値を形成し、それが前貸資本の大き
さに――生産費の大きさに――比例し、そしてこの生産費が前貸資本の価値
に解消される、という結果が出てくるのである」(MEGA、1628;草稿集G
136ー137)。
ー18ー

  かくて議論のまとめがなされる。「利潤………は、それを自分の所産とす
る総資本の一つ一つに比例する剰余価値を表わしており、――この資本のさ
まざまな成分が自分の剰余価値の産出にたいしてもつ有機的割合を顧慮する
ことなしに、この総資本のすべての部分を平等なものとして総資本の全体に
たいし一様な価値額として関係させられている。/………平均利潤も、同じ
転化を、同じ過程を表わしている、というのは、………平均利潤は 、………
[社会の]総資本の個々の成分が、……総[剰余]価値の生産に直接に参加
した有機的割合を顧慮することなしに、社会のこの総資本に利潤として関係
するのだからである」(MEGA、1629;草稿集G137ー138)。第一の転化では
「転化は形式的であり、第二の場合には同時に実質的でもある。というのは、
今では個々の資本に割り当たる利潤は、その資本によって生産された剰余価
値とは事実上違った大きさである………からである。最初の場合には剰余価
値が、この特定の剰余価値を生産する資本の有機的な諸成分を顧慮すること
なしに、ただ資本の大きさにしたがってだけ計算される。 第二の場合には、
個々の独立した資本に割り当たる総剰余価値中の取り分の分けまえが、この
総剰余価値の生産にたいするの個々の独立した資本の機能的な割合を顧慮す
ることなしに、ただその資本の大きさに従ってだけ計算される。/こういう
わけで、第二の場合には、利潤と剰余価値とのあいだに、………実質的な相
違が現われる」(MEGA、1630;草稿集G139)。
以上が、草稿「第3章 資本と利潤」の平均利潤論の内容である。 冒頭で
のマルクスの、「この点のより詳しい考察は競争の章に属する」; ここでは
「きわめて重要な一般的なもの」だけを説明する、という限定にもかかわら
ず、かなり立ち入った議論が展開されているといえよう。
ところが、これに対して、のちの生産価格論に相当する議論はまったく未
展開であり、平均価格論が述べられている個所で僅かに附随的に言及・暗示
されているにすぎないといえよう。
議論に関連ありと思われる個所は、次の3個所である。
@「競争関係がここで (その展開そのものに属するものとしてではなく)
ー19ー

例証のために考察されたかぎりでは、その競争関係は、個々の資本家の得る
剰余価値が実際には決定的なものではない、ということを必然的に伴ってい
る。なぜならば、平均利潤が形成されるから………である。………そのため
に、商品の現実の価格は、――市場価格の変動を別として――本質的に修正
され、商品の価値とは相違することになる。それゆえ、個々の資本家は、彼
自身によって生みだされた剰余価値が彼の得る利潤のなかにどれくらいはい
っているのか、はいっていないのか、また、資本家階級によって生みだされ
剰余価値の一部分が彼の商品の価格のなかにどれくらいはいっているのか、
ということを云々することはできないし、また知らないのである」(MEGA
1605―1606;草稿集G99)。
A「資本家が商品をその価値よりも安く売るにもかかわらず利潤を得るこ
とができるというこの法則は、競争の幾つかの 現象の解明に非常に重要であ
る。/ といっても、とりわけ、のちになおもっと詳細に論及する主要現象、
すなわち一般的利潤率、すなわち諸資本が資本の生産した総剰余価値を相互
に計算し合う方法は、ちっとも解明できないであろう。このような一般的利
潤率が可能なのは、ただ、いくらかの商品はその価値よりも高く売られその
他は安く売られるということ、または、個々の資本が実現する剰余価値はそ
の資本自身が生産する剰余価値によってではなく資本家階級全体が生産する
平均的剰余価値によって定まるということによってだけである」 (MEGA
1613―1614;草稿集G114)。
B「こういうわけで、第二の場合には、利潤と剰余価値とのあいだに、そ
れと同時に商品の価格と価値とのあいだに、本質的な相違が現われる。その
ことから、諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、それらの
価値と相違するということが生ずる。このことをもっと詳しく研究すること
は、競争の章に属するが、そこではまた、商品の価値の変革が、諸商品の標
準価格とそれらの価値とのこのような差異とは別に、商品の価格をどのよう
に修正するかということを証明しておくべきである。/ しかし、最初からわ
かっていることは、 経験的な利潤と剰余価値との混同によって どのような
ー20ー

[混乱が生ずる]かということである………(それに対応する、諸商品の標
準価格とそれらの価値との相違そのものの混同によって[生ずる混乱]もま
ったく同じである)」(MEGA、1630;草稿集G139)。
まず、引用文@を分析してみよう。冒頭でマルクスは「競争関係がここで
………例証のために考察された」と述べているが、草稿中のその内容に該当
する先行個所は、筆者の見るところ、次の部分しか見当たらない。すなわち、
「現実の流通過程では、これまでに考察してきたような………諸転化が行な
われるだけではなく、これらの転化が現実の競争すなわち価値よりも高いか
または低い価格での売買と同時に行なわれるので、そのために、資本家たち
にとっては、……… 利益は、 剰余価値として現われるのではなく、………
彼らどうしのごまかし合い………によって定まるように見える」(MEGA
1604ー1605 ;草稿集G97ー98)。マルクスはここで、「現実の流通過程」での
「現実の競争」として「価値よりも高いかまたは低い価格での売買」・「資本
家どうしのごまかし合い」を指摘している。したがって、引用文@の冒頭の
「競争関係」とは「価値よりも高いかまたは低い価格での売買」・「資本家ど
うしのごまかし合い」のことであると見ることができるであろう。実際、「現
実の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での売買」のため「資本
家たちにとっては、………利益は、剰余価値として現われるのではなく、彼
らどうしのごまかし合い………によって定まるように見える」という叙述と
引用文@の「競争関係は、個々の資本家の得る剰余価値が実際には決定的な
ものではない、ということを必然的にともなっている」という叙述は、内容
的に一致しており、了解しうる。ところが、これに続けてマルクスは「なぜ
ならば、平均利潤が形成されるから………である」と述べているが、これは
少し問題である。というのは、「現実の競争」として挙げている「資本家ど
うしのごまかし合い」と平均利潤の形成とは、理論領域・次元を異にする事
柄である、と考えられるからである。ここでは、マルクスは、両者を十分に
区別していない、あるいは、区別を十分に認識していないようである。とい
うのは、さらに続けてマルクスは次のように言うからである。「そのために、
ー21ー

商品の現実の価格は、………本質的に修正され、商品の価値とは相違するこ
とになる」、と。ここで、「商品の価値とは相違する」ものとして挙げられて
いるのは、「標準価格」ではなく、「商品の現実の価格」である。その原因は、
うえで指摘したように、「資本家どうしのごまかし合い」と平均利潤の形成
とを同じ「競争関係」の問題としてマルクスが取扱っているからであると思
われる。ともあれ、ここでマルクスは<平均利潤の形成―→「商品の現実の
価格」と「商品の価値」の相違>という問題を指摘しているが、この「商品
の現実の価格」論を直ちにのちの生産価格と結びつける訳にはいかないであ
ろう。この「商品の現実の価格」と「商品の価値」の相違のなかには、平均
利潤の形成に関連する価値と価格の相違と、「資本家どうしのごまかし合い」
に関連する価値と価格の相違、が含まれていると見ることができよう。した
がって、ここではまだマルクスは、のちの生産価格論に相当する問題を独自
の理論領域として明確な形で取り出してはいないといえよう。
次に、引用文Aを見ることにしよう。ここでは、一般的利潤率の法則とは
「いくらかの商品はその価値よりも高く売られその他は安く売られるという
こと」であるということが述べられ、価値と価格の相違が指摘されているが、
しかし、その相違がどのようなものであり、またなにゆえに生じるのかとい
うことが明らかにされていない。このように価値と価格の相違の内容が明確
に規定されていないからこそ、引用文@で見たような<平均利潤の形成―→
「商品の現実の価格」と「商品の価値」の相違>という推論が行なわれること
になったのであると思われる。
最後に、引用文Bを見ることにしよう。ここでは、先行個所での平均利潤
論の考察を 踏まえてか、 若干の認識の進展が見受けられる。 というのは、
「第二の場合[利潤の平均利潤への転化]では、利潤と剰余価値とのあいだ
に、それと同時に商品の価格と価値とのあいだに、本質的な相違が現われる。
そのことから、諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、それ
らの価値と相違するということが生じる」;「経験的な利潤と剰余価値との混
同………(それに対応する、諸商品の標準価格とそれらの価値との相違その
ー22ー

ものの混同」というような表現からわかるように、マルクスは、一応、平均
利潤と剰余価値の相違に対応する「標準価格」と「価値」の相違と「諸商品
の現実の価格」と「価値」の相違と、を区別しているからである。実際、こ
の2つの相違の違いについて、マルクスは次のように説明している。「誰も
が自分の生産費に10%を付加するとすれば、それは、ある人が現実にこの生
産費を越えて創造するよりもいくらか多くを自分の生産費に付加し、他の人
はそれだけ少なく付加する、ということのほかにはなにも意味しない。/あ
る点では、資本家の個人個人が………ごまかし合いによって販売する場合と
同じことである。一方の人は自分が創造した剰余価値よりも多くを実現し、
他方の人はよりわずかしか実現しない。………自分たちの資本が創造した総
剰余価値を、不等に、自分たちのあいだで分け合うのである。同じことが平
均利潤の場合にも………行なわれるのであるが、ただし、資本家たちのあい
だでの個人的な詐取にはまったくかかわりのない一般的法則として、という
よりは資本家達 に対立し彼らのうちで自己を貫徹させる一般的法則として、
行なわれるのである」(MEGA、1631;草稿集G140―141)。見られるように、
ここでは、「誰もが自分の生産費に10%[の平均利潤]を付加する」という
ことによって生じる価値と価格の相違と、「資本家どうしのごまかし合い」
によって生じる価値と価格の相違とが対比・区別されている。 マルクスは、
明確に、前者は「資本家たちに対立し彼らのうちで自己を貫徹させる一般的
法則」であり、後者は「資本家たちのあいだでの個人的な詐取」である、と
して区別している。
このように、平均利潤の形成による「標準価格」と価値の相違という問題
と「資本家たちのごまかし合い」による価格と価値との相違という問題とを
マルクスは区別しているにもかかわらず、前者の相違について、マルクスは
不十分な内容・規定しか与えていない。「標準価格」あるいは「商品の現実
の価格」について、マルクスはただ次のように述べているにすぎない。「商
品の現実の価格は、………本質的に修正され、商品の価値とは相違すること
になる」(MEGA、1606;草稿集G99);「いくらかの商品はその価値よりも
ー23ー

高く売られその他は安く売られる」(MEGA、1614;草稿集G114);この場
合には、「利潤と剰余価値とのあいだに、それと同時に商品の価格と価値と
のあいだに、本質的な相違が現われる。そのことから、諸商品の現実の価格
が――それらの標準価格さえもが、それらの価値と相違するということが生
じる」(MEGA、1630;草稿集G139)、と。これらの説明によってわかるこ
とは、「標準価格」は価値と本質的に相違する、ということだけであり、こ
の本質的な相違ノ内容が平均利潤論の場合のように詳細に展開されていない。
これらに比べて少し内容のある説明として次のものがある。「誰もが自分
の生産費に10%を付加するとすれば、それは、ある人が現実にこの生産費を
越えて創造するよりもいくらか多くを自分の生産費に付加し、他の人はそれ
だけ少なくする、ということのほかにはなにも意味しない。/ある点では、
資本家の個人個人が[自分たちの商品を]それらの価値よりも上げたり下げ
たりする………場合と同じことである」(MEGA、1631;草稿集G140ー141)。
ここでは、「利潤の平均利潤への転化」によって「誰もが自分の生産費に10
%[の平均利潤]を付加」した価格で、つまり商品の内在的な価値と相違す
る価格で商品を販売するようになる、ということが事実上述べられている訳
であり、これをもって、のちに見るような、「標準価格」=生産費+平均利潤
という定式がここで事実上与えられていると見ることもできよう。
とはいうものの、 草稿「第3章 資本と利潤」の「標準価格」論は、そこ
での平均利潤論に比べてあまりにも未展開であると言わざるをえない。「商
品の現実の価格は………本質的に修正され、商品の価値とは相違することに
なる」・「商品の価格と価値とのあいだに、本質的な相違が現われる。そのこ
とから、諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、それらの価
値と相違するということが生じる」・「誰もが自分の生産費に10%を付加する
……… 。/ ある点では、………ごまかし合い………と同じことである」と
いうような表現に見られるように、「商品の現実の価格」と「標準価格」と
の区分がまだこの段階では不十分であり、(したがって)また、この両者の
区分のもつ重要な意味がマルクスによって十分に認識されていなかったので
ー24ー

はないかと思われるのである。
「標準価格」論の未展開の主たる原因は、筆者が考えるに、次のような事
情にあるように思われる。すなわち、それは、草稿「第3章 資本と利潤」
におけるマルクスの主要関心事が、<剰余価値―→利潤―→平均利潤>とい
う転化にあり、これに伴なう価値から平均価格への転化にたいしては問題関
心が稀薄であり、利潤の平均価格への転化が論じられる際に附随的に言及・
暗示しさえすれば議論の枠組からして十分であり、それ以上立ち入って考察
する必要性を感じなかったものと思われる。
このような議論の枠組は、この頃のマルクスにおける「生産費」に関する
議論のなかに読み取ることができる。「利潤は、………生産物の形成にはい
り込んだ資本の価値を越える価値超過分に………等しいのである。このこと
から、総資本は、この利益のための生産手段として現われるのであり、………
…前貸資本の総額が………利益すなわち利潤の生産費として、現われるので
ある」(MEGA、1611;草稿集G110)。「剰余価値の利潤への転化に伴って前
貸資本の価値は個々の資本家たちの生産費に転化するのであり、こうしてこ
のような生産費のその大きさは前貸資本の大きさに転化するのであって、そ
うなれば、個々の資本家たちは、………資本の本来の生産物は利潤であるが
――それをこのような生産費に比例して自分たちの勘定に導入するというこ
とが可能になるのであり、 それとともに、 個々の資本家たちが経験的な利
潤の形で現に手に入れているような総剰余価値の分配が生じる」 (MEGA
1631;草稿集G142)。「利潤の生産費は減っているであろう。というのは、
剰余価値を生産するための前貸資本の全体すなわちその総額は減っているで
あろうからである。剰余価値の費用は、資本のうち賃金に投下されている部
分の費用よりけっして大きくはない。利潤の費用は、これに反して、この剰
余価値をつくりだすために前貸しされた資本の総費用に等しい。したがって、
利潤の費用は、賃金に投下されて剰余価値をつくりだす資本成分の価値によ
ってだけではなく、生きている労働と交換されるこの一資本成分を活動させ
うるために必要な諸資本成分の価値によっても規定されているのである。ミ
ー25ー

ル氏は、利潤の生産費を剰余価値の生産費と混同しているのである」(MEG
、490ー491;草稿集D257)。マルクスの主要関心は[剰余価値―→利潤―→
平均利潤]という転化にあることはすでに述べたが、いまに引用した叙述から
もわかるように、この問題に関連して、マルクスはこの頃、可変資本は剰余
価値を生みだすための費用(「剰余価値の生産費」・「剰余価値の費用」)であ
り、前貸資本の総額は利潤・平均利潤を生みだすための費用(「利潤の生産
費)であるという捉え方、すなわち、剰余価値と「剰余価値の生産費」、利
潤・平均利潤と「利潤の生産費」という対応関係を軸にして議論を展開して
いたように思われるのである。つまり、関心の的は、あくまでも、「剰余価
値と可変資本」=「剰余価値とその生産費」という対応関係から「利潤と前貸
資本」=「利潤とその生産費」あるいは「平均利潤と前貸資本」=「平均利潤と
その生産費」という対応関係への転化にあり、 商品の価値・価格の問題は、
草稿「第3章」では第2次的な問題であり、附随的にしか言及されなかった
ものと思われる。草稿「第3章」が「資本と利潤」というタイトルをもって
いるのは、このことと関連があるのである。
なお、最後に、「標準価格」という用語について一つの推論を加えておき
たい。この「標準価格die Normalpreisse 」という用語は、おそらく、草稿
「第3章 資本と利潤」において登場する「標準的利潤率 die normale Proー
fitrate」に対応して使用された用語であると思われる。
「標準的normal」という言葉の意味を知るために、まず、「標準的利潤率」
に関する叙述を見ることにしよう。「まず第一に共通の利潤率または一般的
利潤率の性質のうちには 、この利潤率が平均利潤であるということ、すなわ
ち非常に違ったいろいろな 利潤率の平均であるということが含まれている。
/さらに平均利潤率は次のことを前提にしている。すなわち、ある特定の資
本が特定の投下によって利潤をもたらし、この利潤がある決まった点を越え
て増加したり減少したりすれば、この資本の利潤は標準的利潤率を中心とし
て増減するのだから、この利潤率はまさしく前述の計量点が指し示す高さに
よって規定されている、というのがそれである。この高さで利潤率は標準と
ー26ー

みなされ、資本そのものにとって一般に当然とみなされる」(MEGA、1623;
草稿集G129)。 「いろいろに違った利潤率………それらは均等化され、それ
らの平均的大きさに還元されるのであり、その場合、この平均的大きさが資
本のすべての部面における ……… 現実の(標準的な)利潤率なのである」
(MEGA、1626;草稿集G133)。最初の引用文で述べられていることは、「共
通の利潤率または一般的利潤率」とは「非常に違ったいろいろな利潤率の平
均」であり、そして、この「平均利潤率」とは、「利潤がある決まった点を越
えて増加したり減少したりす」るのであるが、「この資本の利潤が[それ]を
中心として増減する」・「標準的利潤率」である、ということである。したが
って、ここで言われる「標準的利潤率」とは、現実の利潤率が上下に変動す
る際の中心・標準としての利潤率であるという意味合もっているものと考え
られる。つまり、マルクスは、「一般的利潤率」とは、第一に「非常に違っ
たいろいろな利潤率の平均」=「平均的利潤率」を意味し、第二に現実の利潤
率が変動する際の標準としての利潤率=「標準的利潤率」を意味する、と述
べているわけである。このように理解してはじめて、第二の引用文中にある
「現実の(標準的な)利潤率」という表現を了解することができるのではなか
ろうか。つまり、「標準的な利潤率」というのは、理論的に把握された抽象的
な概念ではなく「現実の利潤率」である、と理解することができるのである。
「標準的利潤率」がこのような意味合をもっているとすれば、「標準価格」
もまた同じような意味合をもっているものと推論してもよいであろう。つま
り、「標準価格」もまた、理論的に把握された抽象概念というよりは、「諸商
品の現実の価格」がそれを中心として変動する標準としての価格であるとい
う意味合をもっている言葉であると考えることができるであろう。言い換え
れば、この頃のマルクスにおいては、「諸商品の現実の価格」と「標準価格」
とは認識論的に同じ次元上の概念であり、それほど厳しく理論的に峻別され
てはいなかったと理解することができるであろう。だからこそ、「商品の現
実の価格は … 本質的に修正され、商品の価値とは相違することになる」;
「諸商品の現実の価格が――それらの標準価格さえもが、それらの価値と相
ー27ー

違するということが生じる」という叙述では、「諸商品の現実の価格」と「商
品の価値」との相違が商品の価格と価値の「本質的な相違」の主内容として
まず述べられ、次いでそれに附随するかのように「それらの標準価格さえも
が、それらの価値と相違する」とつけ加えられているのであると見ることが
できよう。
したがって、草稿「第3章 資本と利潤」の「標準価格」という概念は、
それが登場する背景(すなわち、そこでの平均利潤論)を強引にそのなかに
読み込んで理解すればノート]以降の「平均価格」や「費用価格」、さらに
は「生産価格」に結びつけうる概念であるかもしれないが、しかし、その反
面、「標準価格」を上述したように理解すれば、それは、すでに見たノート
U・22における「平均価格」と同じような意味合をさえもつ概念であると言
わざるをえないのである。
かくして、次のように言うことができるであろう。すなわち、草稿「第3
章 資本と利潤」においては、すでに見たように平均利潤論はかなり詳論さ
れているが、「標準価格」論の方は、事実上ほとんど未展開であり、それが
附随的に言及されている場合でも、のちの生産価格と直ちに結びつけられう
るものではない、と。
ところで、このような「標準価格」論の未展開という状況は、この時期の
マルクスの「生産費」概念にまさしく照応している。というのは、すでに見
たように、この頃マルクスは「生産費」について次のような理解を示してい
たからである。「生産費」は二つの意味をもっている、一つは、「資本家の立
場から見た生産費」・「資本家の生産費」であり、資本家の前貸ししたもの
c+vに等しく、もう一つは、「商品を生産するのに要する労働時間」・「商品
そのものに含まれている生産費」であり、c+v+mに等しい。これは要す
るに、@「生産費」=前貸資本c+v、A「生産費」=商品の内在的な価値=
c+v+m、ということである。これを別様に整理すると、@には「利潤の生
産費」・「利潤の費用」という表現を、Aには「商品の生産費」という表現が
与えられる。ノート[・337ではさらに 「剰余価値の生産費」 ・「剰余価値の
ー28ー

費用」(=可変資本)という概念が見出される。したがって、この時期のマル
クスは、「生産費」という言葉を三様に使用している。一つは「剰余価値の
生産費」(=v)であり、もう一つは「利潤の生産費」(=c+v)であり、さ
らにもう一つは「商品の生産費」(=c+v+m)である。このように見てく
るとわかるように、この時期の「生産費」概念のなかには、ノート]T以降に
登場するもう一つの意味、すなわち「生産費」=「前貸資本・プラス・平均利
潤」という意味は含まれていないのである。これは、この当時マルクスの念
頭には、剰余価値とそれを生みだすための生産費(=可変資本)、[平均]利
潤とそれを生みだすための生産費、 商品とそれを生産するための生産費、と
いう問題意識しかなかったということ、を意味する。言い換えれば、「生産
費」=「前貸資本・プラス・平均利潤」という第四の概念規定を持出してくる
必要がなかったこと、を意味するものと考えられる。
論点を先取りして言えば、このような「生産費」の第四規定は、《平均利
潤を越える超過利潤=地代とそれを除いたうえでの「商品の生産費」》とい
うことが問題になったときにはじめて、登場することになる規定であると考
えられる。「前貸資本・プラス・平均利潤」を越える超過利潤が農業部面に
おいて地代に転化するということが、一つの理論領域をなす問題として取り
上げられるようになり、概念的に確立するようになるにつれて、《地代とそ
れを除いたうえでの「商品の生産費」》という対抗関係が問題になるように
なる。かくして、地代を除いたうえでの「商品の生産費」(=「前貸資本・プ
ラス・平均利潤」)が第四の規定として登場し、その中味が詳しく検討され
るようになり、それにともなって、この詳しく検討された第四の意味をもつ
「生産費」が、おそらく他の「生産費」規定と区別するために、「費用価格」
(この言葉自身は、すでに見たように、1861-63年草稿の先行する箇所でも、
商品の内在的な価値c+v+m に等しいものという意味で使用されている)
と呼ばれるようになったのである。ノート]および]Tにおいて使用されてい
た「平均価格」という用語が「費用価格」という用語に取って代わるように
なったのは 以上のような事情によるのではないかと考えられうるのである。
ー29ー

つまり、「費用価格」というのは、実は、この言葉が使用されはじめた当初
においては、地代を生みだすための「費用」という意味が込められていたの
ではなかろうか。
(3)以上、草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」部分を検討した
ので、次に、ノートW〜ノート]・444部分を見ておこう。 まず、この部分
で平均利潤論および生産価格論に関係あリと思われる叙述を列挙しておこう。
@ノートY・220――「すべての経済学者が共通にもっている欠陥は、彼ら
が剰余価値を純粋に剰余価値そのものとしてではなく、利潤および地代とい
う特殊な諸形態において考察している、ということである。このことからど
んな必然的な理論上の誤りが生じざるをえなかったかは、第三章で剰余価値
が利潤としてとる非常に変化した形態を分析するところで、さらに明らかに
なるであろう」(MEGA、333 ;草稿集D5)。
AノートY・259――「直接には、資本のうち、賃金を構成しそれに投下さ
れる部分だけから、剰余価値が生じるのである。………これに反し、利潤に
おいては、剰余価値が前貸資本の総額にたいして計算されるのであり、しか
もこの修正のほかに、なお、資本のいろいろな生産部面における諸利潤の均
等化によって新しい修正がつけ加わる。アダムは、剰余価値を、なるほど事
実としては説いているが、しかし、その特殊な諸形態から区別された一定の
範疇の形態ではっきりと説いていないために、すぐあとで、彼は、剰余価値
を、利潤というさらに発展した形態と直接に混同してしまう。 この誤りは、
リカードウやそのすべての後継者においても、そのままである。このことか
ら………一連の前後撞着、解決されない矛盾と無思想ぶりが出てくる。これ
をリカードウ学派の人たちは(のちにわれわれが利潤に関する章において見
るように)ものの言いまわしによってスコラ哲学的に解決しようとするので
ある」(MEGA、380―381;草稿集D81―82)。
BノートY・264――「(商品の市場価格はもちろんその価値よりも高いか
低いかである。確かに、のちに私が証明するように、商品の平均価格でさえ、
つねにその価値とは相違する。ところが、A・スミスは、自然価格に関する
ー30ー

考察において、このことにはなんら触れていない。つけ加えておけば、価値
の性質にたいする洞察が基礎になければ、諸商品の市場価格も、またいわん
や諸所品の平均価格の動揺も理解されえないのである。)」(MEGA、386;草
稿集D90)。
利潤論に直接言及している引用文@とAから見ることにしよう。
まず、引用文@について。これは「5、剰余価値に関する諸学説」冒頭の
文章であるが、ここでマルクスは、「剰余価値そのもの」と「利潤および地
代という[剰余価値の]特殊な諸形態」とを区別しない経済学者たちを批判
し、彼らの誤りは「剰余価値が利潤としてとる非常に変化した形態die sehr
verwandelte Form を分析する」・「第3章で………さらに明らかになるであ
ろう」と述べているところから見て、すでにこの頃マルクスは、「剰余価値
の利潤への転化 Verwandlung 」という問題意識をはっきりともち、そして、
その問題を「諸学説」項でまず考察し、「さらに」「第3章」で考察するとい
う構想をもっていたことがわかる。このようなはっきりした問題意識と構想
をもちえたのは、 先行して執筆された草稿「第3章 資本と利潤」において
「剰余価値の利潤への転化」・「利潤の平均利潤への転化」論が多少なりとも
詳しく展開されていたからであるといえよう。
次に、引用文Aについて。ここでは、マルクスは、剰余価値と利潤とのあ
いだの2つの「修正」を指摘している。一つは、「資本のうち、賃金を構成
しそれに投下される部分だけから、剰余価値が生じる」のにたいして、「利
潤においては、 剰余価値が前貸資本の総額にたいして計算される 」という
「修正」であり、もう一つは、「資本のいろいろな生産部面における諸利潤の
均等化」という「修正」である。さらにマルクスは、剰余価値と利潤を混同
する経済学者たちの誤りを指摘し、これらの問題を「利潤に関する章におい
て見る」と述べているのである。ここでいう二つの「修正」とは、明らかに
草稿「第3章 資本と利潤」における二つの転化のことであり、この問題を
「利潤に関する章」で論じることをはっきりと表明しているのである。ここ
でのこうした叙述もまた、草稿「第3章 資本と利潤」でのあの詳細な二つ
ー31ー

の転化論を念頭においたうえでのものであるといえよう。
ところで、引用文@およびAについて留意すべきは、 どちらにおいても、
剰余価値―→利潤―→平均利潤という二つの転化を指摘し、それらが「利潤
に関する第3章」に属するということは、はっきりと述べられているが、し
かし、価値と相違する「標準価格」・「平均価格」についてはなんら触れられ
ていない、ということである。したがって、ノートY・220、259では、「商
品価値とこの『平均価格』とは直接的には一致しない、そうした『平均価格
でさえ、常にその価値から乖離する』とされ、その根拠は、正当にも利潤率
の均等化をめざす異部門間競争にある」7)というようなことは論じられてい
ないし、ましてや、そのような問題の「詳細は、『第3章』(=『資本と利潤』
=『資本一般』)において取り扱われるべき課題である」8)というような指摘
もいっさい行なわれてはいないと言えよう。この点は、草稿「第3章 資本
と利潤」と――平均利潤論は詳しく展開されているが、「標準価格」論につ
いてはほとんど未展開であるという点で――同じ状況にあるといえよう。概
して、研究の進展状況は草稿「第3章」と同じ水準にあるといえよう。
最後に、引用文Bについて。ここでは、マルクスは、「商品の平均価格で
さえ、つねにその価値とは相違する」という問題は「のちに私が証明する」、
と述べている。引用文@Aでは(平均)利潤論の問題は「利潤に関する章」
=「第3章」に属すると明言されていたのにたいして、ここ引用文Bでは「平
均価格」論は「のちに私が証明する」とだけ言われているが、この違いは偶然
のことではないように筆者には思われる。というのは、すでに述べてきたと
ころからわかるように、この頃マルクスは、平均利潤の問題は「第3章 資
本と利潤」で論じることははっきりしていたが、「標準価格」・「平均価格」
については、前者の問題に関連して附随的に言及し、そうした問題領域が存
在することを示唆するだけに終っており、その問題をどこで論じればよいか
未定であったからである。さらに、ここでは確かに、「商品の平均価格」は

7),8)大村・大野論文F315ページ。

ー32ー

「その価値とは相違する」と述べられているが、しかし、なぜそのような相
違が生じるのか、またその相違の内容はどういうものなのかという点につい
ては、なんら明らかにされてはいない。おそらく、それらの問題は、マルク
スにとってはまだ十分に解明されていなかったのではなかろうかと思われる。
「商品の市場価格」が「その価値よりも高いか低いかである」という問題に
関連させて「平均価格」と価値の相違の問題が持ち出されてくるが、これは
両者の問題が独自の理論領域をなすものとしてまだ十分に峻別されていない
かもしれないことを意味するのであろう。

* * * * * * * * * * * * * * *
以上、われわれは、1861ー63年草稿のノートTからノート]前半にかけての
部分およびノート]Yから]Z冒頭にかけての部分において、マルクスは平
均利潤や「標準価格」・「平均価格」についてどのような議論を展開している
かということを検討してきた。その結果次のようなに言うことができよう。す
なわち、平均利潤論については、マルクスは、「この点のより詳しい考察は
競争の章に属する」が、「きわめて重要な一般的なもの」だけは「ここで説
明されなければならない」として、かなり立ち入った考察を加え、しかもそ
れらの問題は「利潤に関する章」=「第3章」に属すると明言している。それ
に対して、「標準価格」・「平均価格」については、平均利潤論に関連してそ
の問題を附随的に言及・指摘するだけで、肝心の理論の中味についてはほと
んど未展開であり、したがってまた、その位置づけも未定であり「のちに私
が証明する」と言うだけである、という言わざるをえない。したがって、「ノー
トYにおける『平均価格』のとらえ方・位置付けは、この時点ですでにマル
クスが価値―生産価格の問題を基本的に解決しているということをしめして
いるのではないか」9)と見るのは、やや早計にすぎはしないかと思われる。
次に、われわれは、 ノート]・445以下における絶対地代論の解明と、そ
の結果としての「平均価格」・「費用価格」論の展開を詳しく分析することに
しよう。 (まつお じゅん/経済学部助教授/1986.4.8受理)

9)同上。

ー33ー