『経済経営論集』(桃山学院大学)第27巻第2号、1985年10月発行

  

マルクス機械論草稿の執筆時期をめぐって
――執筆中断説と連続執筆説の対立――

 

松尾 純

 

 

 T.はじめに――論争の概観
 1861ー63年草稿(いわゆる23冊のノート)が最近 Karl Marx/Friedrich
Engels Gesamtausgabe( 以下MEGAと略記する )の第2部第3巻の第1
分冊〜第6分冊1)として公刊され、『資本論』成立史研究が大いに進展しつ
つあり、その研究成果が、『資本論』理解とその具体化に生かされることが
大いに期待されている。ところが、研究の出発点ともいえる草稿の執筆順序
・時期について、幾つかの重要部分に関して意見がわかれており、この問題
の決着なしには研究の進展が望めない状況になっている。論争の焦点は、現
在のところ大雑把にいって次の2つである。いずれの問題も、『資本論』成
立史を見るうえで、またそこでの草稿「5. 剰余価値に関する諸学説」(以下
時に「諸学説」と略す)の意義を考えるうえで、最重要問題である。
一つは、草稿「第3章 資本と利潤」(ノート]Y・973ー1021 )および


1)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1861ー63), in :
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt. U, Bd. 3, Teil 1, 1976 ;
Teil 2, 1977; Teil 3, 1978; Teil 4, 1979; Teil 5, 1980; Teil 6, 1982,Dietz
Verlag. 以下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、Teil 1〜5部
分については、とくに断わらないかぎり、資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本
論草稿集』CDEFG、大月書店、1978, 1980, 1981,1982, 1984年に従う。以下こ
の書から引用に際しては、引用文直後にMEGAの引用ページのみを次のように略
記して示す。例(MEGA、1974)。

ー51ー

「雑録」(ノート]Z・1022ー1028)が「諸学説」ノートY―]Xおよびノ
ート]Z・1029―ノート][よりもさきに執筆されたのか、 それとも、 そ
れよりもあとに執筆されたのか、という問題である。この問題は、『資本論』
第3部、とりわけその第1〜3篇の理論的性格および形成史を明らかにする
ために、是非とも前もって検討・解明されるべき問題である。筆者は、すで
に、この問題をめぐる研究状況を概観し、問題に対する筆者の考えを簡単な
がら明らかにしておいた。2)
もう一つの問題は、1861ー63年草稿ノートX・190ー219およびノート]\
・1159-1282記載の「γ 機械。自然諸力と科学との応用(蒸気、電気、機械
的諸作用因と化学諸作用因)」(以下機械論草稿と略記する)が、いつ、どの
ようにして、執筆されたのか、という問題である。論争は大雑把にいって次
の2つの見解に分かれて展開されている。一つの見解は、機械論草稿はノー
トX・190から始まりノートX・211の途中まで執筆され、そこで中断し、次
に ノート Y―]Xおよび ノート ]Z・1029―ノート][において「諸学
説」部分その他が執筆され、 そののち再びノートX・211にもどって機械論
草稿の執筆が再開され、ノートX・211ー219とノート]\・1159ー1282に機
械論の執筆が行なわれたとする見解である。これは、MEGA編集部および
その中心である J・ユングニッケル3) やM・ミュラー4) それに原伸子、5)

2)拙稿「1861ー63年草稿記載の『第3章 資本と利潤』の作成時期について」桃山学院
大学『経済経済論集』第26巻第1号、1984年6月。
3)Jürgen Jungnickel, Zu Inhalt und Bedeutung des Abschnitts,"Maschinerie.Anー
wendung von Naturkraften und Wissenschaft" im Manuskript von 1861-1863.
in:.....unsrer Partei einen Sieg erringen.Studien Zur Entstehungs-und Wirー
kungsgeshichte des "Kapitals" von Karl Marx,Verlag Die Wirtschaft Berlin,
1978.Ders.,Die systematischeAusarbeitung derTheorie des relativenMehrwerts
in:Der zweite Entwurf des >>Kapitals<<, Dietz Verlag, Berlin, 1983. Ders.,
Einige Bemerkungen zur Marxschen Analyse des Unterschieds von Werkzeug und
Maschine. Beiträge Zur Marx-Engles-Forschung. Bd.5, 1979.
4)Manfred Müller,Zur Charakteristik der letzten Arbeitsphase am Manuskript
"Zur Kritik der politischen Ökonomie (1861-1863)" von Karl Marx, Beiträge
Zur Marx-Engels-Forschung, Bd. 5, 1979.
5)原伸子「『資本論』草稿としての「1861ー63年草稿」について(1)――最近の作成時期
をめぐる論争について――」『経済志林』第51巻第4号、1984年3月。

ー52ー

武弘章、6) 内田弘氏7)らの見解であり、執筆中断説と呼ばれている。これに
対して、もう一方の見解は、機械論草稿は、「諸学説」部分その他がノート
Y―]X、 ノート] Z―] [に執筆されたのち、 ノート X・190ー219、
ノート ]\・1159ー1282にわたって連続して執筆されたとする見解である。
これは、吉田文和8) 大村泉、9) (大野節夫10))氏らの見解であり、連続執筆説
と呼ばれている。
機械論草稿の執筆時期をめぐるこの問題は、『資本論』における機械論と
比較しての機械論草稿の理論的性格や、機械論草稿のいわゆる前半部分(ノ
ートX・190ー211)と後半部分(ノートX・211ー219、ノート]\・1159ー
1282)の理論的性格の相違・発展関係を考えるうえで決定的な意味をもつ問
題であると考えられる。
以下、本稿では、この第2の問題をめぐる論争を取り上げる。まず、論争
点を整理することによって、今後解明されるべく残された問題点を明らかに
し、さらに、幾つかの問題点について筆者自身の考えを示すことにしたい。

6)佐武弘章@「『剰余価値学説史』執筆の動機とその『資本論』成立史への影響につい
て」『社会問題研究』第33巻第1号、1983年10月。同A「マルクス機械論に影響を与
えた一匿名書について」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第32巻、1984年。同
B「マルクス機械論の形成――1.形成過程における動揺――」『社会問題研究』第
33巻第2号、1984年1月。同C「マルクス機械論の形成――2.執筆の中断――」
『社会問題研究』第34巻第1号、1984年9月。
7)内田弘「機械論から剰余価値学説史へ――『1861ー63年草稿』機械論草稿「連続執筆」
説批判――」『専修大学社会科学研究所月報』249号、1984年4月20日。
8)吉田文和@「『剰余価値学説史』と「機械論草稿」」『経済』234号、 1983年10月 。同A
「ふたたび『機械論草稿』について」『経済』241号、1984年5月。 Fumikazu Yoshiー
da, Wurden Marx',"Theorien über den Mehrwert" nach der Unterbrechung seiner
Arbeit an dem "Maschinerie-Manuskript" geschrieben ?, Beiträge zur Marxー
EngelsーForschung, Bd. 16, 1984. なお、これに対するコメントとして、同誌掲載の
Jürgen Jungnickel, Bemerkungen zum Arkitel von Fumikazu Yoshida がある。
9)大村泉「生産価格と『資本論』第3部の基本論理(完)」『経済』229号、1983年5月。
10)大野節夫「『1861ー63年草稿』と経済学批判体系プラン(上)」『経済』243号、1984年
7月。大野氏の見解は、吉田・大村両氏のそれとその詳細において異なり、また異な
る根拠にもとづいている。本稿では、論点整理の都合上、その検討を省略する。考証
上のいくつかの問題点について、別の機会に検討してみたい。

ー53ー


U.MEGA編集部の執筆中断説と吉田文和氏の批判(=連続執筆説)
(1)機械論草稿の執筆時期をめぐる論争内容をそれぞれの見解に即して確認
する作業から始めよう。
まず、MEGA編集部の見解から見ることにしよう。
MEGA編集部のいわゆる執筆中断説は、ロシア語版第2版『マルクス・
エンゲルス著作集』第47巻注112にその端緒を見ることができる。「ここでのマ
ルクスによって引用されている 1862年1月26日付のロンドンの新聞『ザ・タ
イムズ』に掲載された一論文から長大な抜粋は、 1861ー63年草稿 のノート
第5冊の後のほうのページ(211ー219ページ、 たぶん210ページの下半も)
が書かれたのは、すくなくとも1862年11月の下旬よりもあと――マルクスが
ノート第6冊―第15冊に含まれている『剰余価値に関する諸学説 』の基本的
なテキストを書きあげたあと――であることを証明している。/ 1863年1月
24日、同28日付のエンゲルスへの手紙の中で、マルクスは、機械に関する篇
の仕事をつづけていることを知らせている。 マルクスは、1月28日にこう書
いている。 『僕は機械に関する篇の中に、2、3のことを書き加えている。
そこには、最初の取り扱いのときには僕が無視していたいくつかの興味深い
問題がある』」。11)
以上の推定のうち、だれもが確認しうるのは次の点だけである。すなわち
ノート X・211ページには1862年1月26日付の 『ザ・タイムズ』からの長大
な抜粋があり、したがってノートのこの部分以降は同日以降に書かれたもの
と考えられるということだけである。しかし、この推定では、ノートX・211
より前の部分(機械論草稿の前半部分 )がいつ執筆されたのか不明である。
この点を補なうかのように、ロシア語版編集者は、1863年1月24日、 同28日

11)К.Мaркc и Ф.Энгельc,Сoчинения,издaние втoрoе,Toм 47,1973,стр.624.中
峯照悦・伊藤龍太郎訳『1861-63年草稿抄 機械についての断章』大月書店、1980年、
5-6ページ。

ー54ー

付のマルクスの手紙を引用する。これは、おそらく、手紙を次のように理解
してのことであろう。@1863年1月ごろマルクスは機械論の仕事をしていた。
A機械に関する「最初の取り扱い 」とは、ノートX・211での中断前の機械
論草稿の前半部分のことである。B「いくつかの興味深い問題」とは機械論
草稿の後半部分の主として技術的な問題である。
しかし、このような1863年1月24日付、 同28日付の手紙を利用しての推定
に対しては、当然、 手紙に対する異なる解釈にもとづく推定が可能であり、
したがって、機械論草稿の前半部分の執筆時期は不明のままであると言わざる
をえない。
ロシア語版編集者の推定のこのような不備を補なうかのように、新MEG
A編集者は、『1861ー63年草稿』の「成立と来歴」において次のような考証・
推定を行なっている。「マルクスが最初の2冊のノート・・・・に『1 貨幣の
資本への転化』の項を書いたのは、 1861年の8月から9月にかけてであった。
・・・・・/ノート第2冊の最後の諸ページ(89-94ページ)をマルクスをはじめ
空白にしておき、ノート第3冊・・・で『2 絶対的剰余価値』を書き始めた。
さらに同じノートの125ページでマルクスは『3 相対的剰余価値 』を書き
始め、ノート第4冊・・・・・およびノート第5冊・・・で続けた。この項を書いて
いるときに、何回かの中断が生じた。・・・・・1862年3月、マルクスは第3項の
ところで自分自身の理論を述べることを中断した。 彼はさしあたり、 ノート
第5冊の中の211ー219ページを空白にしておき、ノート第6冊で、『5 剰
余価値に関する諸学説』の項を書き始めた。/以前には、マルクスは1861年
12月までに相対的剰余価値についての項目の仕事を終え、 1862年1月に『剰
余価値に関する諸学説』に向かった、と考えられていた。けれども、彼は18
62年3月まではノート第5冊を書いていたのであり、 またこの月になっては
じめて『剰余価値に関する諸学説』を書き始めたのである。このことは、と
りわけ マルクスの1862年3月6日付 エンゲルスあての手紙を見れば明らかで
あって、マルクスはこの手紙のなかで、『マニュファクチュアの基礎をなし
またA・スミスによって描かれているような分業は、機械制作業場には存在
ー55ー

しない、ということ――この命題そのものはすでにユアによって詳述されて
いる――を示すための』実例がほしいとエンゲルスに頼んでいる。マルクス
はここでは、彼の草稿の191ページにある表現によっているのである。/草稿
の209ページでの、『ベンガル・フルカル』と『ボンベイ商業会議所報告』と
からの引用は、 1862年3月以前には採り入れることが 不可能なものである。
それらは抜粋ノート第7冊の208ページから採られたのであるが、 このノー
トの193ー208ページは 1862年2月25日以降になってから書かれたものなので
ある。というのは、 193ページに同日付の『スタンダード』からの引用があ
るからである」。12)
「『剰余価値に関する諸学説』は、ノート第6冊(220-272ページ)で始ま
っている。マルクス自信は日付は記していないけれども、彼の起筆が1862年
3月中旬であり、また、 彼がマンチェスターのエンゲルスのところへ旅立つ
3月30日以前に、 この第6冊がだいたいのところ書き終えられていた、と考
えることができる。 草稿の235ページで、マルクスはリカードゥの『経済学
原理』から採った、スミスを論難している一つの引用を使っているが、この
引用は、彼が抜粋ノート第7冊、ロンドン、1859ー1862年、から採ったもの
である。このノート――その209ページでは、 この引用は、 1862年3月13日
付、『タイムズ』からの一つの引用のあと、余白となっていたところに補遺
として書き込まれている。このことから、 草稿のこの部分の書きはじめは、
どんなに早くても3月中旬であることがわかるのである。ノート第7冊・・・・・
は、マルクスが1862年4月にマンチェスターで書き始めたものである」。13)
さらに、MEGA編集部は、執筆中断箇所と考えるノートX・211への注で
次のような推定を行なっている。「1862年3月、 マルクスはノート第5冊へ
の執筆を中断し、彼がとりわけ絶対的剰余価値と相対的剰余価値とを両者を

12)Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U,Bd. 3,Apparat・Teil 1,
S.11.資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』C、大月書店、1978年、
46*-47*ページ。
13)ibid., S. 12. 同上、48*-49*ページ。

ー56ー

結合において論じるつもりであった第4項(285ページを見よ)をとばして、
『5 剰余価値に関する諸学説』をノート第6冊に書き始めった。1863年1月
になって、彼はやっとノート第5冊を全部書き終え、ノート第19冊に執筆を
続けていった。 右の中断がなされた場所を厳密に特定することはできない。
それは遅くとも、 211ページの、1862年11月26日付の『ザ・タイムズ』が引
用されているところのまえでなされた。この場所で中断されたと見ることに
ついては、ここでもっと詳しくプルードンに立ち入るというマルクスの意図
を彼が実現しなかったということも、それを立証している」。14)
また、MEGA編集部は、吉田文和氏の批判に対して次のような反論・推
定を行なっている。「吉田氏の研究結果については、・・・・マルクスのつぎの
発言の検討をおねがいします。・・・・・マルクスは1863年1月28日にエンゲルス
にあてて、つぎのように書きました。『私は機械についての章に、2つ3つ
のことを書きいれている。そこには、最初の取りあつかいのさいに無視して
いた興味深い問題がある・・・・・・』・・・・。これだけでなく、理論史的およびテ
クスト史的にも、時間的に別々に存在する取りあつかいの2つの局面が、こ
れまで十分に根拠づけられていると私たちには思われます。この手紙によれ
ば、第1の取りあつかいがあったこと、ついで『興味深い問題』の解決がな
された第2の取りあつかいがあったこともまた、まったく明らかです」。15)
以上が、MEGA編集部の推定である。要約すると、 1861年9月にマルク
スはノートVで「2 絶対的剰余価値」を書きはじめ、さらにノートV・12
5で第3項目「相対的剰余価値」を書きはじめ、ノートX・211あたりまで書
きすすんだところで 1862年3月、 第3項目の執筆を中断し (次の第4項目
[絶対的剰余価値と相対的剰余価値とを両者の結合において論じる[)をとば
して、「5 剰余価値に関する諸学説」を書きはじめた、ということである。
ところで、この推定の根拠は何か。 それは次の5点につきると言えよう。

14)ibid., S. 149. 同上、557-558ページ。
15)吉田論文A、269-270ページ。

ー57ー

  @ノート X・211でマルクスは1862年11月26日付の『ザ・タイムズ』紙掲
載の一論文から長大な抜粋を行なっているが、このことは、ノート X・211
のこの引用箇所以降が書かれたのは少なくとも1862年11月26日よりもあと―
―したがってノート Y―]Xの「5 剰余価値に関する諸学説 」よりもあ
と――であることを示している。
A1863年1月24日付、 1月28日付のエンゲルスあての手紙で、 マルクスは
機械に関する篇の仕事をしていることを知らせている。とくに、 彼は、1月
28日付の手紙で、「僕は機械に関する篇に 2、3のことを書き加えている。
そこには、最初の取り扱いのときには僕が無視していたいくつかの興味深い
問題がある」と述べているが、文中の「最初の取り扱い」とは、機械論草稿の
いわゆる前半部分の仕事――すなわち「理論史的およびテクスト的にも、時
間的に別々に存在する取りあつかいの2つの局面」のうちの第1の局面――
のことであり、また、「興味深い問題」とは、ノートXの執筆中断以降の、
第2の局面で取り扱われている技術的問題のことであろう。
B1862年3月6日付の手紙のなかで、 マルクスは、 「マニュファクチュア
の基礎をなしまたA・スミスによって描かれているような分業は、機械制作
業場には存在しない、ということ――この命題そのものはすでにユアによっ
て詳述されている――を示すための」実例がほしいとエンゲルスに頼んでい
るが、マルクスはここでは、ノートX・191にある表現に依っている。つまり、
このころマルクスが機械論草稿を執筆していたということをこの手紙は示し
ている。
CノートX・209に『ベンガル・フルカル』と『ボンベイ商業会議所報告』
からの引用があるが、 それは、ノート第7冊抜粋部分の208ページから採ら
れたものである。ところが、このノート第7冊抜粋部分の193ー208ページは
1862年2月25日以降のものである。 というのは、 193ページに 1862年2月25
日付の『スタンダード』からの引用があるからである。したがって、ノート
X・209の引用は、1862年2月25日以降のものである。
Dノート X・211で1862年11月26日付の『ザ・タイムズ』が引用されてい
ー58ー

るが、その直前の箇所で、マルクスは、もっと詳しくプルードンに立ち入る
という意図を表面しているが、彼はその意図を実現していない。したがって
おそらく、『ザ・タイムズ』の引用とプルードンの箇所との間に執筆の中断
が生じ、そして、 おそらくその中断期間に「5 剰余価値に関する諸学説」
が書かれたのであろう。
以上がMEGA編集部の推定とその根拠である。
(2)以上のMEGA編集部の推定に対しては、大村泉、吉田文和両氏から、
機械論草稿は 1863年1月以降中断なく執筆されたとする異論が提起された。
そこで、以下、両氏のいわゆる機械論草稿連続執筆説を詳しく見ることにし
よう。
吉田氏の推定の根拠はこうである。
第1の根拠。「『剰余価値学説史』が『機械論草稿』全体に先行することを
しめすもっとも決定的な論拠は、『機械論草稿』冒頭ノートX・192における
ポッペ『テヒノロギーの歴史』の利用である。それはつぎの部分である。/
『…{ついでに述べると、フランス人が18世紀をつうじて水を水平に活動させ、
ドイツ人がつねに水を人工的にさえぎったことは、きわめて特徴的である}、
・・・・・・』。/この{ }内に記述は、あとから書きくわえられたのではなく、
『注解』が指摘するように、ポッペ『テヒノロギーの歴史』第1巻163ページ
以下の記述をもとにしている。/『・・・・・人工の勾配は、あまり幅の広くない
川の場合に利用された。水は、それだけ速く流れるように、水車に近いとこ
ろでは比較的狭い水路に流しこまれた。そのためにもうけられた設備が水車
溝である。ドイツでは昔から、水は多かれ少なかれ傾斜した水車溝をとおし
て上から水車に注がれるのがふつうだった。しかし、フランスでは、製粉業
者は、たいていは水平な水車溝を、つまり生きた勾配をもたない、すなわち
斜面から水平面までの垂直高のまったくない水車溝を使用していた。 18世紀
のなかばまでは、水車溝についての固有の理論は存在しなかった』。/マル
クスは、1851年の『テヒノロギー史抜粋ノート』13ページにこの部分を抜粋
している。そして、この抜粋を読みかえしたのは、 1863年1月28日付の手紙
ー59ー

『テヒノロギー史抜粋を読み返してみて、僕は次のような見解に到達した』
という内容からみて、手紙が書かれた直前と推察される。マルクスは1857ー58
年の『経済学批判要綱』でポッペ『テヒノロギーの歴史』から一個所を利用
しているが、これは別の部分であり、この段階での読みかえしは部分的であ
った。 したがって、 マルクスが1851年に抜粋した内容を、数字をふくめて
そのまま暗記していたという、おおよそありえないことを想定しないかぎり、
ノートXの『機械論草稿』冒頭は、 1863年1月28日前後に書かれたというこ
とになる。/新メガは、 いわゆる『中断』個所以降のノートXは1863年1月
に書きおえたとのべているのであるから、『機械論草稿』は、冒頭から連続
して、1863年1月末に書きはじめられたのである。 そうなれば、 1862年3月
から1862年12月にかけて大部分執筆された『剰余価値学説史』完了後に『機
械論草稿』にとりかかったということは明白である」。16)
第2の根拠。「『機械論草稿』は『剰余価値学説史』によって『中断』され
たのではなく、『剰余価値学説史』完了後に連続的に執筆されたということ
は、ノートXとノート]\、]]の内容的連続性によくしめされている。こ
の点をノートXで8点にわたって整理されている項目を中心に検討したい」
――[吉田氏による8点についての内容的連続性の検討]――「以上のように、
ノートXで8点にわたって提起された論点は、 ノート]\、 ]]において
ひきつづいて深められていくことを確認することができる。しかも、その深
められ方は、たとえば、『労働の濃縮』という論点では、ノートX−201とノ
ートX−217にわたって連続的に検討されており、その間に約9ヶ月にもわた
る『中断』があったとするのはいかにも不自然である」。17)
吉田氏は、 以上2つの根拠――ノートX・192でのポッペ『テヒノロギー
の歴史』の利用と、ノートXとノート]\、]]の(「機械導入の動機と諸
結果」にかんする8項目についての)内容的連続性から、「『機械論草稿』は

16)吉田論文@、181-182ページ。
17)同上、182-183ページ。

ー60ー

『剰余価値学説史』によって『中断』されたのではなく、『剰余価値学説史』
完了後に、連続的に執筆されたことは明らかである」18)という推定を行なう
のである。
次に、MEGA編集部の執筆中断説に対する吉田氏の批判を見ることにし
よう。
執筆中断説の根拠@に対する吉田氏の批判はこうである。すなわち、「ノ
ートX−211に引用されている『ザ・タイムズ』の日付が、ただその部分以降
が、1862年11月26日以降に書かれたことをしめすだけで、それ以上のもので
はない」。19) 吉田氏のこの批判は正当であろう。ノートX・190-211の執筆時
期については、根拠@だけでは不明であると言わざるをえない。
執筆中断説の根拠Aに対する吉田氏の批判・主張はこうである。「『興味
深い問題』とは・・・1863年1月24日のエンゲルスあて手紙にみられる自動紡績
機による紡績労働の変化などの問題をさし、『最初の取り扱い』とは、これ
らの技術学的分析をふまえていなかった『経済学批判要綱』における機械の
取り扱いをさしているとみるべきである」。20)「『第1の取りあつかい』が『経
済学批判要綱』における取りあつかいではない可能性もありえよう。たとえば、
1863年1月になって、『機械論草稿』を書きはじめるにあたり、 当初構想し
ていたもので、『テヒノロギー史抜粋ノート』を読みかえし、ウィリスの機
械学講義にかようまえに手をつけたものを『第1の取りあつかい』とするこ
ともできよう。・・・・・・いずれにしても『第1の取りあつかい』の存在をもっ
てマルクスが1862年3月に 『機械論草稿』冒頭部分を執筆したということの
論証にはなりえない」。21) たしかに、吉田氏の言われるように、「第1の取り
扱い」・「興味深い問題」という文言を根拠にして、そこからただちに、マル
クスが 1862年3月に機械論草稿の前半部分を執筆したという推定をくだすわ

18)同上、183ページ。
19)同上、184ページ。
20)同上、184-185ページ。
21)吉田論文A、270ページ。

ー61ー

けにはいかない。しかしながら、のちに見るように、そうであるからといっ
て、逆に吉田氏の文言解釈が正しいわけでもかならずしもない。この文言に
ついてはさまざまな解釈が可能であって、したがってその解釈の仕方は、い
まのところ、問題解決のための「決定的な論拠」には少なくともなりえない
のではないかと思われる。
MEGA編集部が主張する執筆中断説の根拠Bに対する吉田氏の批判・主
張は次のとおりである。すなわち、「1862年3月6日付の手紙・・・・・・の質問・・
・・・・内容は、『1861ー63年草稿』『b、分業』ノートW−166ページ、ノートX
−175ページに対応している・・・。ここで上記手紙は、ユアとともにA・スミ
スに言及している点に注目されたい。 そして上記ノートW−166ページ、ノ
ートX−175ページには、ユアとともにA・スミスに言及した記述がみられる
のである。・・・・/これにたいして、新『メガ』編集部が、唯一、手紙を根拠
として草稿の作成日付を推定している、ノートX−191ページでは、スミスへ
の言及はなく、ユアの記述・・・・・・が引用されているのみである。/したがっ
て、 スミスとユアをともに叙述した 1862年 3月 6日付の手紙は、同じスミ
スとユアをともに叙述した部分が2ヶ所ある、『b、分業』の、ノートW−
166ページ、ノートX−175ページに対応しているといわなければならないの
である」。22)
吉田氏の批判・主張のポイントは、 1862年 3月6日付の手紙ではユアとA
・スミスにともに言及しているが、手紙に対する草稿箇所( ノートW・166
ノートX・175)でもA・スミスとユアをともに叙述している、 という点に
あるが、これは、「考証上の面に限定して」23)のこととはいえ、まったく検討
にも値いしない「論証」であると考える。たんに、ユアとA・スミスの両方
に言及しているということから、どうして、手紙と草稿の対応関係を主張す
ることができるのか、筆者には理解しかねるのである。 といっても、逆に、

22)同上、267-268ページ。
23)同上、266ページ。

ー62ー

MEGA編集部の手紙の取り扱いがただちに正当なものであるということに
もならない。手紙と草稿の対応関係を確定するためには、少なくとも両者の
叙述内容を詳しく比較・検討する必要があろう。あとで見る佐武弘章氏の研
究は、そうした接近方法を試みたものとして評価しえよう。
MEGA編集部の示す根拠Cに対する吉田氏の批判はこうである。「抜粋ノ
ート第7冊の208ページ の『ベンガル・フルカル』と『ボンベイ商業会議所
報告』の引用が、 1862年2月25日から 3月13日のあいだにおこなわれたこと
はほぼ確実であるとしても、そのことと、『1861ー63年草稿』への書き込みの
時期は別に考えなければならない・・・・」。24) 「抜粋ノート第7冊の183-209ペ
ージは、その一部が、『ディ・プレッセ』の記事に使われる一方で、『1861ー
63年草稿』のノートTからX、]Yに部分的に利用され、また『剰余価値学
説史』(ノートY、][)にも利用されているのである。したがって抜粋ノ
ート第7冊の内容は、『1861ー63年草稿』にたいしては、時間的に異なる時点
で各々の個所をくりかえし利用されている・・・・・・。それゆえ、抜粋ノート第7
冊の抜粋内容と順序を根拠として、『1861ー63年草稿』の各ページの執筆時期
を推定する場合・・・・には、草稿執筆時期の『上限』は確定しえても『下限』
は確定しえないのである」。25)
この吉田氏の批判は、筆者の見るところ、正当なものであり、したがって
MEGA編集部の主張する根拠Cは、執筆中断説の根拠にはなりえないと言
えよう。したがって、ノートX・208、ノートX・209の引用に関する原伸子
氏の推定――「『第7冊の抜粋ノート』における194ページと208ページの抜粋
が作成された時期・・・・・・は、・・・・おそらく、1862年2月下旬から3月中旬まで
の期間・・・であろう」、26);「『1861ー63年草稿』と『第7冊の抜粋ノート』の
183ページ以降とが同時並行的に執筆された」27);「『γ機械』の『前半』部分

24)同上、271ページ。
25)同上、272ページ。
26)原、前掲論文、160ページ。
27)同上、163ページ。

ー63ー

は、そこにおける『第7冊の抜粋ノート』の利用の仕方から判断して、1862
年2月下旬から3月中旬にかけて作成されたものである」28) という推定――
に対しても、まったく同じ批判が加えられねばならないであろう。実際、吉
田氏はそうしている。 「たとえば1862年3月に作成されたと推定される抜粋
ノート第7冊209ページの、 1862年3月13日付『ザ・タイムズ 』からの抜粋
は、『1861ー63年草稿』では1862年12月あるいは 1863年1月執筆ノート]X
V−1142ページに利用されている。したがって、この一件をみても、当該抜
粋ノート第7冊と『1861ー63年草稿』執筆が『同時並行的に執筆された』と
はいえない」、29)と。
最後に、MEGA編集部執筆中断説の根拠Dに対する吉田氏の批判・主張
を見ることにしよう。氏は次のように言う。「『剰余価値学説史』執筆後に
『機械論草稿』をはじめから書きはじめたと考えれば、以下の当該部分の記
述をより合理的に説明しうる。/@{商品の価格と労賃。プルードンのたわ
ごとについては別のところで述べることにする}の『述べることにする』の
部部は、『異文』によれば、『あとから書き加えられている』。/A『剰余価
値学説史』の[年々の利潤と賃金とが、利潤と賃金とのほかに不変資本をも
含む年々の商品を買うということは、どうして可能であるか、の研究]にお
いて、『あとから鉛筆で書き加えられている』として、(フォルカード、プル
ードン)が記入されている。/Bさらに、『剰余価値学説史』全体からみると、
プルードンの利子論、地代論、所有論の批判がちりばめられている。 /以上
のことから、つぎのように推論できる。まず、ノートV−99・・・・・・において、
『次の諸点を剰余価値のところで考察しなければならない』として、その第
4項に、『労働者は自分自身の生産物を買いもどすことができない、という
プルードン氏の命題、あるいは生産物部分の価格等』と課題を覚え書きして
いる。『剰余価値学説史』に移って、〔年々の利潤と賃金とが・・・・の研究]に

28)同上、163ページ。
29)吉田論文A、277ページ。

ー64ー

おいて、この問題に関係する領域を検討し、さらにその他の部分で、プルー
ドンの利子論、地代論、所有論を考察した。つぎに、『機械論草稿』になっ
て、 さきの課題を念頭において、 『商品の価値と労賃。プルードンのたわご
とについては別のところ』とはじめに書いたのである。この記述は、プルー
ドンについてはすでに『剰余価値学説史』で言及したとみることができる。
しかし、プルードンへのフォルカードの批判については言及しておかなけれ
ばならないと考えて、それをおこない、のちに『述べることにする』とつけ
くわえたと考えられる。そして、当該の『剰余価値学説史』の部分へ、(プ
ルードン、フォルカード)と『あとから鉛筆で書き加え』をおこなったと推
定される。『われわれはこの場所で、すぐに、プルードンの全汚物をまとめ
ておくことにしよう』というのは、すでに『剰余価値学説史』において、プ
ルードンの学説をこの他の利子論、 地代論、 所有論にわって検討している
ことを前提にした記述である。 そしてここで『まとめ 』が実際におこなわ
れず、『機械論草稿』をすすめていったのは、別の箇所でプルードン批判を
おこなうことを構想しはじめていたからであると考えられる」。30)
吉田氏の以上の推定は、与えられた事実@ABから考えれば、十分に成り
立ちうる推定であると言えよう。しかし、与えられたこの同じ事実からは、
それ以外のさまざまな推定が可能であり、氏の推定はそれらのうちの一つに
すぎないと言える。同じ与えられた事実から、MEGA編集部はまったく異
なる推定しているわけであるが、吉田氏は、このMEGA編集部の推定がけ
っして成り立ちえないということを証明せず、ただ、それと並んで成り立ち
うる別様の推定を示してみせたにすぎないと言えるのではなかろうか。とこ
ろで、この吉田氏の推定に対しては、内田弘氏による積極的な内容をそなえ
た批判が展開されている。
この問題を検討するには十分な紙幅を必要とするので、 本稿では問題の本格
的な検討は省略するが、筆者の見るところ、少なくともこの「{商品の価格と
労賃。プルードンのたわごとについては別のところで述べることにする…」

30)吉田論文@、187-188ページ。

ー65ー

(MEGA、317)からはじまり「われわれはこの場所で、すぐに、プルードン
の全汚物をまとめておくことにしよう}」(MEGA、318 )に終わる箇所は、
「5 剰余価値に関する諸学説」執筆以後に書かれたのではないかと思われ
る。というのは、この箇所でマルクスは次のような命題を提示しているから
である。「不変資本の価値について言えば、この価値は、それ自身によって、
現物で補填されるかまたは不変資本の他の諸形態との交換によって補填され
るかするのである」(MEGA、318)。ここでマルクスは不変資本の現物補填、
不変資本と不変資本の交換による補填について説明しているが、これらの論
点は、 再生産論の形成に関する諸研究において 一般に指摘されているよう
に、31) 「5 剰余価値に関する諸学説」の[年々の利潤と賃金とが、利潤と
賃金とのほかに不変資本をも含む年々の商品を買うということは、どうして
可能であるか、の研究](ノートY・272ー ノートZ・299 )においてはじめ
て本格的に掴みだされ、さらにそれを起点とする一連の再生産論研究をつう
じて深められていく論点である。これらの諸点が、ノートX・210ー211部分
で、了解ずみの論点であるかのように要約的に指摘されている以上、少なく
ともノートX・210ー211部分については、「諸学説」執筆以後に書かれたも
のと理解したほうが自然であると筆者には思える。
以上が、機械論草稿に先行して「5 剰余価値に関する諸学説」が執筆さ
れたとする吉田文和氏の推定(およびその根拠)と、MEGA編集部のいわ
ゆる執筆中断説に対する氏の批判である。
吉田氏は、この立場(推定)をヨリ確固としたものにするために、さらに、
「『剰余価値学説史』から『機械論草稿』への発展」32)関係を7つの理論領域
について確認する作業をしている33)が、本稿では、それらの本格的な検討は
省略し、以下必要なかぎりでのみ言及する。この作業は、吉田氏にとっては、
推定とその根拠をふまえたうえで、「『剰余価値学説史』の成果が『機械論草

31)とりあえず、次のものを参照せよ。水谷謙治『再生産論』、有斐閣、1985年、第5章。
32)吉田論文@、190ページ。
33)同上、190-198ページ。

ー66ー

稿』全体にどのように生かされているかを確認する」34)作業にすぎないので
ある。

V.吉田説(=連続執筆説)に対する諸批判
以上の吉田氏の批判・主張に対しては、それが提起する問題の重大さから
当然のごとく、多くの批判、疑問が寄せられている。その代表的な論者は、
原伸子、佐武弘章、内田弘氏らである。そこで、以下、これらの人々による
連続執筆説批判=執筆中断説擁護を見ることにしよう。
(1)MEGA編集部の側に立って、ただちに、批判を展開されたのは、原伸
子氏である。氏は、「『γ.機械』の草稿は、X−211の1862年11月26日付『タ
イムズ』の引用前で中断されたとするMEGA編集部説が合理的である」35)
とされている。
吉田氏の連続執筆説の第1の根拠に対する原氏の批判・主張はこうである。
「『手紙』[1863年1月28日付――松尾]とノートX−192ページにおけるポッ
ペの利用との関係について、筆者は・・・・・・1862年2月下旬から3月中旬にかけ
て、マルクスが『技術史抜粋ノート』を読み返した可能性は否定できない、
と考える」36)「『手紙』[1862年3月6日付マルクスからエンゲルスあて――
松尾]に見られるように、機械の『ドイツ語翻訳と、マニュファクチュアにお
ける分業が機械制工場には存在しないことの『実例』を望んでいるという事
実、 また後者の内容と『機械』の『前半』のノートX−191の内容的対応関
係は、後段で論じるポッペの利用とともに、マルクスが当時、『γ.機械』の執
筆にさいして、『技術史抜粋ノート』を読み返したであろう、という推定の
積極的根拠となりうる」。37)「マルクスが当時、『γ機械』の執筆にさいして、
本格的でもなくても、『技術史抜粋ノート』を読み返したり、あるいはX−


34)同上、190ページ。
35)原、前掲論文、157ページ。
36)同上、177ページ。
37)同上、173ページ。

ー67ー

192の指示が付随的なものにとどまっており、 また量も少ないことから、マ
ルクス自身、その内容を覚えていたと考えても、おかしくないであろう」。38)
以上要するに、1862年 2〜 3月ごろ、マルクスが、『テヒノロギー史抜粋ノ
ート』の内容を「覚えていた」か、あるいは、『テヒノロギー史抜粋ノート』
を「読み返した」可能性がある、と主張するのである。
同じく、「MEGAU.3の『成立と来歴』による推定・・・をかなりの確から
しさをもつもの」39)と考える佐武弘章氏は次のように主張される。 「ポッペ
『技術学史』にもとづく追加的な叙述の挿入は、マルクスが同書からの引用
として取扱っているわけでなく、したがって1863年 1月に技術学の歴史の抜
粋を読みかえしてから執筆した証拠としては説得力が弱い。また、1861ー63
年草稿の執筆前にマルクスはロンドン抜粋ノートなどを整理して『引用ノー
ト』を作成しているのであるから――ただしポッペの同書が抜粋されている
ノート]Xは『引用ノート』には収録されていない――、この時期に同書か
らの抜粋を再読していないとはいえない」。40) 見られるように、佐武氏は、ポ
ッペ『技術学史』の抜粋ノート(ロンドン抜粋ノート)をマルクスが再読し
たのは、1863年1月ではなく、「1861-63年草稿の執筆前に・・・・・・ロンドン抜
粋ノートなどを整理して『引用ノート』を作成している時期」である可能性
である、と言われたのである。
さらに、同じく、「・・・『a 農業』―→『b 分業』―→『第3章 資本
と利潤』・・・―→『雑録』・・・―→『γ 機械。・・・・』(ノートX190-211ペー
ジ)―→『5 剰余価値に関する諸学説』―→『γ 機械。・・・ 』・・・という
執筆順序を推定し、主張する」41)内田弘氏は、吉田説に対して次のような批
判を展開される。「第1に、マルクスが『全部読み返した』テヒノロギーに
関する抜粋ノートには、ポッペの『テヒノロギーの歴史』だけでなく、 J・

38)同上、212ページ。
39)佐武論文B、15ページ。
40)佐武論文C、45ページ。
41)内田、前掲論文、1-2ページ。内田『中期マルクスの経済学批判』有斐閣、1985年、
330、335ページでは、「第3章 資本と利潤」の執筆順序の推定が「訂正」されている
が、機械論に関しては中断説であることには変更はない。

ー68ー

ベックマン『発明史論稿』、ユアの『技術辞典』などがふくまれている。/し
かも第2に、・・・・・・[1863年1月28日付のマルクスのエンゲルスあての手紙―
―松尾]でいう nachlesenとは、落穂拾い(Nachlese)を連想させる動詞で
ある。すなわちマルクスはこの手紙を書いた時・・・ よりも前にすでに、テヒ
ノロギーの抜粋ノートを必要に応じて読み取り草稿作成に利用してきたが、
いま改めてその残りを全部読み返したことを、その語法(ganz nachlesen)
は示唆しているのである。/・・・・・マルクスは、・・・すでに分業論を書いてい
る時[1862年3月――松尾]に、1845年のユアの抜粋ノートを読みかえしてい
る。それだけでなく、[ユアの――松尾]『製造業の原理』(パリ版)の原書
そのものを読み返して、1845年の『ブリュッセル・ノート』にはない文を原
書から分業論に引用している」。42)とすれば「そのときポッペの『テヒノロギ
ー史抜粋ノート』も読み返している可能性は絶無とはいえない」。43)「この文
献史の事実は、・・・機械論草稿の冒頭(ノートX192ページの)ポッペへの言
及を一義的に無条件にエンゲルスあての手紙の日付1863年 1月28日に直結で
きないことを示しているのである」。44) 「1・・・手紙を書いた1863年1月28日
以前に、ポッペの『テヒノロギーの歴史』の抜粋ノートを読みかえして、そ
の要旨を書いた。あるいは、/2・・・この内容を『ロンドン・ノート』(]Z)
に書くときに非常に関心をもって読み、 記憶していてノートX・192ページ
を執筆しているとき、それを思い出した。/・・・・第1の可能性は、すでにユ
ア、バビジの抜粋ノートおよび原書が分業論から機械論にかけて多く引用さ
れている事実がある以上、十分考えうるものである。第2の可能性について、
吉田氏は頭から否定されるが、その内容自体水力の利用の仕方の独仏のちが
いという ユニークなものであり、 記憶しにくいと吉田氏が主張する数字は
『18世紀』であって、こまかな桁の長い数字ではない。ポッペへの[ ]の
中の言及の仕方もその要旨であって、ポッペの文そのものではないのである。

42)同上、4-5ページ。
43)同上、5ページ。
44)同上、6ページ。

ー69ー

しかも注目すべきことに、 マルクスはノートX192ページでは『18世紀をつ
うじて・・・・・・』と書いているがもともと『テヒノロギー史抜粋ノート』では
『18世紀のなかばまで・・・・』となっているのである。これを機械論草稿『後
半』のノート]\1166ページ・・・・には『18世紀なかばまで・・・・・・』と、強調
部分まで正しく写している。・・・・『テヒノロギー史抜粋ノート』を読んだあ
とすぐにノートX192ページの[  ]の中の文を書いたのではなく、むしろ
マルクスがその[ ]の中の文を記憶を頼りに書いたことを示唆しているの
である。この不正確さは『第1の可能性』より『第2の可能性』の方があり
うることを示唆しているのである」。45) 以上要するに、内田氏は、1862年3月
ごろ分業論を書いたあとで、ポッペの『テヒノロギー史抜粋ノート』を「読
みかえし」その要旨を機械論草稿冒頭(ノートX・192ページ)に書いたか、
あるいは、かつて「ロンドン・ノート ]Z 」作成したときに非常に関心を
もち、「記憶していて」その要旨をノートX・192に書いたかである、おそら
く後者の可能性が大である、と推定されるわけである。
以上、要するに、機械論草稿冒頭におけるポッペの要旨言及に関しては、
次の3つの推定が存在するわけである。一つは、 1863年1月28日付の手紙の
直前に、『テヒノロギー史抜粋ノート』を読みかえした;ノートXの機械論
草稿冒頭におけるポッペへの言及は1863年1月28日前後に書かれた、 という
推定である。もう一つは、1851年の『テヒノロギー史抜粋ノート』の内容を
覚えていて、1862年3月ごろノート Xの機械論草稿冒頭を書いているときに
思い出して言及した、という推定である。吉田氏はこれはおよそありえない
ことであると言うが、内田氏が指摘する諸事情を考慮すると、ありえないこ
とではないと思われるのである。さらにもう一つは、「5 剰余価値に関す
る諸学説」を書く前の、「分業論が書かれた時期(1862年3月)に近い、その
あとの時期」、あるいは、「1861ー63年草稿の執筆前に、・・・ロンドン抜粋ノ
ートなどを整理して『引用ノート』を作成している」時期に、『テヒノロギ
ー史抜粋ノート』をマルクスが読みかえしたうえで、機械論草稿冒頭を書い

45)同上、8-9ページ。

ー70ー

た、という推定である。
吉田氏は、第1の推定をもって自説=連続執筆説の「決定的な論拠」であ
るとしているが、しかし、それはけっして「決定的な論拠」にはなりえない
のではなかろう。吉田氏が主張する第1の推定は、与えられた諸資料から引
き出しうる諸推定の一つにすぎないのであって、それは、他の第2、第3の
推定が成立しうる可能性をけっして排除しえていない。原氏や内田氏が主張
される、1851年の『テヒノロギー史抜粋ノート』の内容をマルクスが「覚え
ていた」という第2の推定は、いまのところ、なにびとも、けっして否定し
えないであろう。内田氏が指摘されるように、「記憶」しておくべき「内容
自体・・・・・・ユニークなものであり、・・・数字は・・・こまかな桁の長い数字では
ない」46)という点や、「ポッペへの・・・言及の仕方もその要旨であって」、47)
しかも「不正確」48)であるという点を考慮すると、読み返した直後にその内
容をノートX・192に書き写したというよりは、「記憶していて」その要旨を
ノートX・192に書いたと考えることが十分可能であると言えよう。また、 原
氏や佐武氏、それに内田氏が主張される、1862年3月ごろ、あるいは、 1861
ー63年草稿の執筆前に、マルクスが1851年の『テヒノロギー史抜粋ノート』
を「読みかえした」のではないかという第3の推定も、諸氏が指摘される諸
事情から見て、けっして否定しえないのである。少なくとも、この可能性を
否定しうる証拠・資料をわれわれはいまのところ知らない。
吉田氏が主張する第1の推定は、1863年1月28日付のマルクスのエンゲルス
あての手紙にある「それ[ 興味深い問題 ]を解決するために技術学にかん
する僕のノート(書き抜き)を全部読み返した」という文面に大きく依拠し
ているが、しかし筆者が考えるに、 1863年1月28日付の手紙の文面にあまり
大きく依拠して問題を考えるのは少し危険ではないかと思われる事情がある。
というのは、 1863年2月17日付のエンゲルスあての手紙のなかでマルクスは
次のような告白をしているからである。「君の沈黙はじっさい僕を不安にす

46) 47)同上、8ページ。
48)同上、9ページ。

ー71ー

る。・・・・・・僕がまたもや、僕の意に反して、君を怒らせたのでなければよいが、
と思う。 僕が100ポンドの受領を知らせた手紙 [1863年1月28日のそれ――
松尾]のなかで機械などについて語ったのは、じつは、君の気分をまぎらせ、
君を心痛からそらせるためだったのだ」。49) このころ マルクス は幾度かエンゲ
ルスへの手紙のなかで機械論に関する仕事がすすんでいることを知らせている
が――その真偽のほどはわからないが――、 それは、 じつは、エンゲルス
の「気分をまぎらせ」るためであったというわけである。この事情を十分に
考慮に入れるとすれば、1863年1月28日の手紙を書く直前に、 「興味深い問
題」を解決するためにはじめて『テヒノロギー史抜粋ノート』を「読み返し」、
そして、その結果機械論の仕事が順調に進みつつあるという知らせは、エン
ゲルスの「気分をまぎらせ」るためのマルクスの方便であると理解するのが
至当かもしれない。もしこのような理解が正しいとすれば、さらに、マルク
スが『テヒノロギー史抜粋ノート』を「読み返した」のは、そして、機械論
の仕事に着手したのは、 1863年1月28日の手紙を書くよりもずっと以前であ
ったかもしれないという推定が可能になってくるのではなかろうか。1863年
1月28日付の手紙の、 問題となっている文面を真面目に理解する必要がない
のかもしれないのである。
いずれにせよ、上記の3つの推定のうちどれが正しい推定かということは、
現在のところ不明であり断定しえないと言えよう。
(2)次に、吉田氏の連続執筆説の第2の根拠――「ノートXとノート]\、
]]の内容的連続性」50)――に対する諸批判を見ることにしよう。
まず、原氏の批判・主張はこうである。「『γ 機械』の『前半』では、特
別剰余価値の原型が登場してきているとはいえ、道具と機械との区別が理論
的に不明瞭であり、さらに、生産力の発展に伴う資本構成の高度化の定義も
曖昧である」。51) この「理論的限界性は、『諸学説』の『シェルビュリエ』の

49)Karl Marx-Friedrich Engels:Werke,Bd.30,Dietz Verlag,1964,S.326.『マル
クス=エンゲルス全集』第30巻、大月書店、1972年、262ページ。
50)吉田論文@、182ページ。
51)原、前掲論文、148ページ。

ー72ー

項で・・・・・・克服されてくるのである。この克服過程は、同時に、『諸学説』の
リカード地代論の検討における有機的構成概念の登場と、この有機的構成概
念に生産力の発展を内在化させることによって論証が試みられる利潤率低下
論の成立過程に対応している」。52) 「『γ機械』の『後半』部分では、『諸学
説』内部への有機的構成概念の導入に対応して、不変資本の考察の重要性が
強く認識された」。53)…「『γ 後半』においては、 生産力発展に伴う資本構成
高度化が次第に明確にな」54)る。 「両者のあいだには、『諸学説』における、
リカード地代論の批判・克服そしてそこでの有機的構成概念の導入の過程が
必須だったのである」。55) 両者の「間には、理論的に質的な発展があると言わ
ざるをえないのである」。56) 以上要するに、原氏は、機械論草稿の前半部分で
は、生産力発展に伴う資本の有機的構成高度化の概念規定が不明確であるの
に対して、その後半部分では、それが明確にされている、したがって理論的
に質的な発展関係が両者の間にみられる、と主張されるのである。
同じく執筆中断説を主張される佐武氏は、機械論草稿の前半と後半の理論
的性格の相違について次のように言われる。 「執筆の中断以前には、マルクス
は機会の採用の結果[について――松尾]・・・基本的には・・・・ 『就業労働者
をより生産的にするという積極面 』に重点をおいて把えていたとみられる。
しかし、・・・ このような積極面だけではない。それは労働者の排除をはじめ
とする否定面をもつ」。57)「『諸学説』の検討後草稿後半においてしだいに機
械の採用のいわば否定面に重点をおくようになっていく」。58) 「マルクスは、
1861ー63年草稿前半において機械の採用を規定する諸要因を分析した後、執
筆の中断と『諸学説』の検討を通じて長考した末、同草稿後半において一歩

52)同上、149-150ページ。
53)同上、156ページ。
54)同上、156ページ。
55)同上、156ページ。
56)同上、147ページ。
57)佐武論文B、17-18ページ。
58)同上、22ページ。

ー73ー

ふみ込んで機械の技術学的分析に入ったことになる。 ・・・ 同草稿前半の機械
論は・・・・・機械の技術学的分析を当初は予定していなかったようである」。59)
「1861ー63年草稿前半における機械論の引用文献は、その大半が・・・・『引用
ノート』に収録されているが、 同草稿後半の機械論で使用されている主要文
献、J.H.M.ポッペ『技術学史』、匿名書『諸国民の産業』、A.ユア『工場
の哲学』はこの『引用ノート』には収録されていない。・・・/・・・・ 『引用ノ
ート』S.23およびS.68には『機械』という見出しがつけられ・・・ D.リカー
ド『経済学原理』をはじめとする経済学者の機械論が収録されている。・・・・
/・・・・・・同草稿後半の機械論・・・・では、・・・技術学史が展開されているが、そ
の要旨は1863年1月28日付エンゲルス宛の手紙でも述べられている。しかも、
この手紙にいう。『技術学の歴史の抜粋を読みかえしてみて、私は次のよう
な見解に到達した。・・・・・』・・・。したがって、同草稿後半の機械そのものの
技術学的分析は1863年1月になって初めて構想されたものであ」60)る。 「1861
ー63年草稿前半の『資本の生産過程』論では、可変資本と・・・ 剰余価値の生
産との関係をもっぱら分析し、『剰余価値の不変資本に対する割合の考察』
は除外していた」61)が、 同時に、「不変資本の分析の除外に対して疑問を提示
している。・・・・/このような疑問を提示したままで、マルクスはその後機械
の採用を規定する八つの要因を指摘していき、その第8の要因として機械に
よる『労働の代替』をあげているが、そこでも・・・ 疑問を提示している。労
働の生産性の上昇は・・・・一定の商品量を生産するに必要な労働者数を減少さ
せるが、『機械の採用の場合、この減少はただ程度の相違でしかないのであ
ろうか、それとも何か独自のことが付け加わるのであろうか』(S.316)。つ
まり、この・・・・機械による『労働の代替』とは不変資本による可変資本の代
替に他ならない」。62) 「かようにして、同草稿後半では『不変資本に対して特

59)佐武論文C、54ページ。
60)同上、54-55ページ。
61)同上、56ページ。
62)同上、57ページ。

ー74ー

別に考慮を払わないわけにはいかない』と考えるに至ったとみられる」。63)
上要するに、佐武氏は、機械論草稿前半では、機械の採用を規定する諸要因
の経済学的分析が行なわれ、それに対して、機械論草稿後半では、いわば経
済学の範囲を越えて機械の技術学的分析が中心をなしている、そして、こう
した相違が生じた原因は、機械論草稿前半では可変資本と剰余価値の関係を
もっぱら分析し「剰余価値の不変資本に対する割合の考察」は除外されてい
たのに対して、同草稿後半では「機械の考察では不変資本に対して特別に考
慮を払わないわけにはいかない」と述べられており、こうした「資本の生産
過程」論での不変資本の取扱いにかかわって、機械の技術学的分析に深入り
することとなったということにある、と言われるのである。したがって、佐
武氏は、吉田氏の言う「ノートXとノート]\、]]の内容的連続性」を否
定し、両者の内容上の相違に注目し、機械論草稿の前半と後半の間に横たわ
る機械論研究におけるマルクスの苦闘を読みとろうとされるわけである。
さらに、内田氏も、吉田氏の「内容的連続性」説に対して次のような批判
を加えられた。「以上の8点が機械論草稿の『前半』・・・・・で挙げられ、『後
半』・・・・で引き続き考察されていることは、なんら時間的中断を排除しない。
吉田氏は『前半』と『後半』との間に『約9ヶ月にもわたる「中断」があっ
たとするのはいかにも不自然である』といっているが、なぜ『不自然』なの
だろうか。時間的中断は、内容的連続性・・・を、なぜさまたげるのだろうか。
この点吉田氏はなんの説明も行なっていない」。64)要するに、「内容的連続性」
がたとえ見られるとしても、それはただちにノートXとノート]\、]]と
が連続的に執筆されたことの「論拠」とはなりえない、と言うのである。問
題は、時間的中断なき内容的連続性か、それとも、時間的中断と両立しうる
内容的連続性か、ということである。とすれば、この問題を解決するために
は、機械論草稿の前半との間に、内容上の質的な発展関係があるのかどうか
ということが検討されねばならないと言えよう。吉田氏はこの点の立入った

63)同上、58ページ。
64)内田、前掲論文、10-11ページ。

ー75ー

検討を行なっていないとする内田氏の批判は、正当なものであると言えよう。
 この点に関連した内田氏の批判はさらにつづく。「吉田氏は上記の8点を
『学説史』をくぐりぬけることによってはじめて獲得した論点であるかのご
とくみなしているが、そうではない」。65) 「『1861ー63年草稿』機械論草稿に
かかげられた8つの論点のうちいくつかはすでに『経済学批判要綱』で把握
された論点を整理した『1859年プラン草案』『γ機械』に掲げられている」、66)
「8つの論点のうちのほとんどは『草稿』以前にすでに把握されていたので
あり、またその一部もその機械論草稿以前で把握されていたのである。した
がって、この8つの論点は、『剰余価値学説史』の機械論草稿にたいする先
行性をなんら示さないのである」。67) 以上のように、内田氏は、機械論草稿前
半に提示された「8点を含む、機械論草稿における論点が『学説史』におけ
るリカード研究によってはじめて獲得したもの」68)ではけっしてない、と主
張されるのである。
さらに、内田氏は、吉田氏が『学説史』から機械論草稿全体へ、という執
筆順序を立証するものとして、7つの点――1.機械による労働日の延長、
2.機械と商品価値、 3.特別剰余価値、 4.自然力と機械、5.資本の支配力、
6.機械による単純協業の置き換え、7.労働の置き換え――を挙げているが、
その一つ一つの点について検討し、吉田氏の言う執筆順序を立証するものに
はなっていないことを明らかにされている。69)――内田氏によるそれらの批
判内容については、紙幅の制約からできるかぎり分権考証上の面から問題を
論じようとする本稿では、省略する。――以上の内田氏の批判によって少な
くともわかることは、問題の8つの論点のどれ一つをとってみても、それが
「諸学説」をくぐりぬけることによってはじめて獲得された論点であると断
言しうるものではないということ、 「諸学説」から機械論草稿全体へ、という

65)同上、11ページ。
66)同上、11ページ。
67)同上、12ページ。
68)同上、12ページ。
69)同上、12-18ページ。

ー76ー

順序を立証するものとされる7つの点についても、そうであるということで、
ある。 内田氏と吉田氏のどちらが正しいのか。 その最終的判断は、機械論
草稿の前半と後半との、さらにはそれらの「諸学説」との理論内容のより詳
細な比較検討をまたなければならない。
ところで、最後に、吉田氏の言う「内容的連続性」に対する、筆者自身の
疑問を述べておこう。吉田氏は、8つの論点についてノートXとノート]\、
]]との内容的連続性を次のように主張される。すなわち、第1論点は、ノ
ート]]・1246、1267において、第2論点はノート]\、]]の技術学的分
析において、第3論点はノートX・217において、第4論点はノート ]]・
1251において、第5論点は ノート]]・1263、1264、1265、1266において、
第6論点はノート]]・1266において、第7論点はノート]]・1202におい
て、第8論点はノート]]・1251において、論じられている、70)と。 いまか
りに、吉田氏の言うように「ノートXで8点にわたって提起された論点はノ
ート]\、]]においてひきつづいて深められていくことを確認することが
できる」71) としても、それは、けっして、「『機械論草稿』は『剰余価値学説
史』によって『中断』されたのではなく、『剰余価値学説史』完了後に、連
続的に執筆された」72)という推定の論拠にはなりえないのではなかろうか。
というのは、吉田氏の言うようにノートXで8点にわたって提起した論点を
マルクスが時間的に中断なくひきつづいてノート]\、]]において深めて
いったのであれば、なにゆえに、第1論点―→第2論点―→第3論点・・・・・・―
→第8論点という順序で機械論草稿後半において論じられていないのか;時
間的に連続して執筆されたとするならば、第1論点にはじまって第8論点に
終る順序どおりに機械論草稿の後半において連続的に検討されるのが自然で
あるのに、どうしてそうなっていないのか、という疑問がどうしても生じて
くるからである。ノートXで提起された第1から第8までの諸論点が、ノー

70)吉田論文@、182-183ページ。
71)同上、183ページ。
72)同上、183ページ。

ー77ー

ト]\、]]のあちらこちらで、順序どおりに、あるいは順序が逆になった
りして、論じられ深められているということだけでは、時間的中断なき連続
的執筆の論拠にはなりえないと言えよう。この事実から見ると、むしろ、ノ
ートXとノート]\、]]との間に時間的中断が存在すると見るほうが自然
であると言えよう。
以上、われわれは、吉田氏のいわゆる連続執筆説とそれに対する原、佐武、
内田氏らの批判を見てきたが、その結果、少なくとも次のようなことが言え
るのではなかろうか。すなわち、機械論草稿全体に対する「諸学説」先行の
論拠して吉田氏が挙げられる2つの「論拠」――一つは、機械論草稿冒頭ノ
ートX・192におけるポッペ『 テヒノロギーの歴史 』の利用と1863年1月28
日付マルクスのエンゲルス宛手紙内容との対応関係、もう一つは、ノートX
に挙げられた8点にわたる論点が、ノート]\、]]においてひきつづき深
められているという、機械論草稿の前半と後半との「内容的連続性」――は、
いまのところ、どちらも、それをもってただちに無条件に「諸学説」先行を
断言しうるほどの「決定的な論拠」とするわけにはいかない、ということで
ある。
(3)かくて、吉田氏の連続執筆説はその「決定的な論拠」をうしなったわけ
であるが、われわれは、さらに念のために、吉田氏のMEGA編集部中断説
批判におけるいくつかの重要な論点をめぐる議論を見ておくことにしよう。
まず、MEGA編集部の執筆中断説の根拠Aに対する吉田氏の批判につい
ては、原、佐武、内田各氏による次のような反論が存在する。すなわち、原
氏は次のように言う。「『手紙』に言われる『最初の編成・・・・・・』とは、・・・
『γ 機械』の『前半』を指示している、と考える。その根拠の一つは、・・・
『γ 機械』の『前半』は、そこに利用されている『第7冊の抜粋ノート』の
引用の仕方から見て、 『諸学説』より前に、 1862年2月下旬から3月中旬に
かけて作成されたとしか考えられないということ・・・・であり、もう一つの根

73)原、前掲論文、176ページ。

ー78ー

拠は、吉田氏が言われる『経済学批判要綱』における機械論の性格規定につ
いてである。・・・・『要綱』におけるそれは、理論的に機械論として性格規定
できるものではない、と考えている」。73)「『手紙』で『興味深い問題』とし
ていることの内容は明らかであろう。この問題はマルクスが『なにによって
機械は道具から区別されるのか、ということについての激しい論争』にかか
わるものであり、この問題は、とりわけ、シェルビュリエやジョーンズの検
討にさいして、有機的構成の高度化とそれが利潤率に与える影響について論
じるさいに、折にふれて強調される問題であり、事実『γ 機械』の『後半』
では、この問題の純粋な技術学的分析のために、ノートがぼう大になってい
くのである」。74) 以上要するに、原氏は、「最初の編成」とは機械論草稿の前
半部分のことであり、「興味深い問題」とは機械の技術学的分析にかかわる
問題である、と考えるのである。
さらに佐武氏も次のように言う。「機械の項にはマルクスが『最初の取扱
いのときに無視していた』すなわち草稿前半ノートXの機械論において無視
していた『いくつかの奇妙な問題』があり、それ故『機械にかんする篇には
二、三のことを書き加える』というのである」。75) 吉田氏は「『最初取扱い
・・・・・』という一句を『要綱』における機械論と解釈されているが、『要綱』
機械論は1861ー63年草稿とは構想も資料も異なっており、この解釈には無理
がある」。76) 「手紙の文言より、まず機械論が『最初の取扱い』と再度の執筆
に二分して展開されたことは明らかであり、かつとすればこの『最初の取扱
い』とは草稿ノートXの中断以前の展開をさすことを容易に推察することが
できる。そして、このノートXの中断以前の機械論には無視していた『いく
つかの奇妙な問題』があり、それゆえ中断以降には『若干のことを書き加え
る』という」。77) 見られるように、佐武氏もまた、「最初の取扱い」とは機械

74)同上、177ページ。
75)佐武論文@、7ページ。
76)同上、42ページ。
77)佐武論文C、47-48ページ。

ー79ー

論草稿の前半部分のことであり、「興味深い問題」とは機械の技術学的分析
に関わる問題である、と考えられるのである。
さらに、内田氏も次のように言われる。「『学説史』における、上に引用さ
れた文言[MEGAU-3・3、S.1143――松尾]、すなわち、すでに生産過程
論において、 労働生産力の3つの契機として、 協業、分業、機械の充用を
考察したことの文言は、やはり、『1861ー63年草稿』『3 相対的剰余価値』
における、『a 協業』―→『d 分業』( ―→『第3章 資本と利潤』―→『雑
録』)―→『γ 機械。・・・』(ノートX190-211ページ)という考察を指して
いると理解するほかないのである。 したがって 1863年 1月28日付エンゲル
スの手紙にいう『機械に関する編』の『最初の取扱い』とは、『1861ー63年
草稿』の『γ 機械。・・・・』の『前半』・・・の叙述を指すと考えるのがもっと
も合理的であり、自然である」。78) 以上のように、内田氏は、「最初の取扱い」
とは機械論草稿の前半部分のことである、と断言されているのである。
以上、1863年1月28日付の手紙、 とりわけ「最初の取扱い」という文言の
解釈をめぐる議論を概観したが、その結果次のようなことが言えよう。すな
わち、まず、「興味深い問題」とは大雑把にいって技術学的分析に関わる問
題であるという点で各論者の理解は一致しているようである。しかし、他方
の肝心の「最初の取扱い」については、さまざまな解釈が可能なようである。
機械論草稿の前半部分のことであるという解釈、『要綱』での機械論のこと
であるという解釈、さらには「諸学説」執筆後「『機械論草稿』を書きはじ
めるにあたり、当初構想していたもの」79)――筆者には意味不明である――
であるという解釈がなされている。吉田氏自身でさえ、「『最初の取り扱い』
とは、これらの技術学的分析をふまえていなかった『経済学批判要綱』にお
ける機械の取り扱い」80)のことであるという解釈から、「1863年1月になって、
『機械論草稿』を書きはじめるにあたり、当初構想していたもので、『テヒノ

78)内田、前掲論文、8ページ。
79)吉田論文A、270ページ。
80)吉田論文@、184-185ページ。

ー80ー

ロギー史抜粋ノート』を読みかえし、ウイリスの機械学講義にかようまえに
手をつけたもの」81)であるという解釈へと動揺しているぐらいである。手紙
の文言それ自体をいくら詳しく検討してみたところで、そこから出てくる一
つの可能な解釈をもって、連続執筆説の「決定的な論拠」とするわけにはけ
っしていかないのである。一つの解釈だけが絶対正しく、他の解釈をまった
く排除しうるわけではないようであるからである。
次に、MEGA編集部中断説の根拠Bに対する吉田氏の批判とそれに対す
る反論を見ることにしよう。すでに引用して見たように、吉田氏の批判・主
張はこうである。すなわち、 1862年 3月 6日付 の手紙に 対応する個所は、
MEGA編集部の言うように 1861ー63年草稿のノートX・191つまり機械論
草稿の冒頭部分ではなくて、1861ー63年草稿、「b 分業」ノートW・166、
ノートX・175である;というのは、ノートX・191では、スミスへの言及は
なく、 ユアの記述のみが引用されているのに対して、 1862年3月6日付の手
紙、ノートW・166、ノートX・175では、スミスとユアをともに言及してい
るからである、と。 吉田氏は、ノートX・191には、スミスへの言及はなく
ユアの記述のみがみられるのに、 1862年3月 6日付 手紙、 ノートW・166、
ノート X・175には、 スミスとユアをともに言及しているということから、
ただちに、手紙に対応するのはノートW・166、ノートX・175である、と主
張されるわけであるが、しかし、このような氏の推定は、いかにも根拠薄弱
と言わざるをえない。問題は、たんにスミスにも言及しているかどうかでは
なく、手紙とそれぞれの草稿個所の叙述内容の対応関係であると考えるべき
であろう。実際、原、佐武、内田氏らは、この点を指摘し吉田氏を批判され
ている。
すなわち、原氏は次のような言われる。「『γ 機械』の『前半』のノート
X−191と、『β分業』のノートW−166およびノートX−175との関係につい
てであるが、それらは、マニュファクチュアにおける分業と機械制作業場に

81)吉田論文A、270ページ。

ー81ー

おける分業との関係を ユアからの引用とともに 論じている点において共通
であると言えるのであるが、後者では、・・・・・論題の中心は、・・・もっぱら分
業の原理そのもの・・・・・・にあるのである。それに対して、前者・・・では、・・・
『機械制作業場の主要原理』そのものが、マニュファクチュアにおける分業
と対比して詳論されているのである。さらに、ここにおけるユアからの引用
は、『β 分業』のノートW−166と175におけるそれとは異なって、具体的
『実例』部分が抜粋されているのである。それに対して、ノートW・166と175
におけるユアの引用は、・・・マニュファクチュアにおける分業と機械制作業場
における分業との区別の『命題そのもの』・・・・・が述べられているのである。
/以上のことから、われわれは、マルクスが、 『γ 機械』の『前半』のノー
トX−191の執筆にさいして、前掲の『手紙』に見られるような『実例』を望
んでいたこと、すなわち両者の内容的な対応関係を読み取ることができるの
である」。82)
また、佐武氏は次のように言われる。1862年 3月6日付 手紙の「ユアの命
題とは機械制作業場の労働課程の分割にかんするものであり、これがA・ス
ミスの問題としたマニュファクチュア分業のそれとは本質的に異なるという
命題の実例が求められている。/このユアの命題に言及し引用している個所
は、・・・・・・草稿ノートX191ページにあるが、吉田氏の指摘するようにノート
W166ページにもある。なお、ノートX175ページの引用は、スミスとユアと
に言及しているとはいえ、機械制作業場の分割原理についてではなく、マニ
ュファクチュアの主観的な分割原理と賃金の等級制 についてのものであり、
内容上同一視できない。このかぎり、執筆時期の考証としてはこの手紙の文
言が草稿ノートX191ページとW166ページのいずれに対応するかは断定でき
ないが、しかし手紙と両者はいずれも、マニュファクチュア分業を問題にし
ているのではなく、機械制作業場の分割原理を問題にしていると理解される。
また、そうでなければエンゲルスの工場に実例が 求めても意味がなかろう。

82)原、前掲論文、172-173ページ。

ー82ー

したがって、・・・・・・1862年3月当時のマルクスの問題関心が機械制作業場にあ
ったことは明らかであろう」。83)
さらに、内田氏も次のように言われる。「マルクスは機械論草稿を書く以
前に、すでに分業論を書いている時に1845年のユアの抜粋ノートを読みかえ
している。・・・・・・『製造業の原理』(パリ版) の原書そのものを読み返して、
1845年の『ブリュッセル・ノート』にはない文を原書から分業論に引用して
いるのである。・・・・・・分業論を執筆しているとき(1862年3月)、すでにユア
の原書を読みかえしていることが確実である以上、そのときポッペの『テヒ
ノロギー史抜粋ノート』も読み返している可能性は絶無とはいえないのであ
る。/その可能性があるにもかかわらず吉田氏は・・・・・ 1862年3月6日付のエ
ンゲルスあてのマルクスの手紙を分業論のみに直結している。・・・/ なるほ
ど分業論には・・・・2番目のユアの引用[ノート・166の引用――松尾]・・・が
ある。これは自動式の作業場においては、スミスがえがく分業論が存在しな
いことを示す。 また分業論が書かれているノートX175ページ(3番目のユ
アの引用)には・・・上記の手紙と同旨の引用文がある。ところが同趣旨の、 次
のようなユアからの引用文(ノートX191ページ)が機械論にある・・・ / 吉
田氏はこの文には A・スミスの名がないことをもって、上記の1862年 3月6
日付のエンゲルスあての手紙との結びつきを否定するが、それだけでは論拠
薄弱といわざるをえない。 その手紙は機械論ノートX191ページのユアと十
分に結びつきうるのである」。84)
以上3氏が指摘するように、 1862年3月6日付の手紙の内容が 1861ー63年
草稿のどの箇所に対応するのかという問題は、吉田氏のようにスミスとユア
の両方に言及しているかどうかといったことによって答えられるべきではな
くて、草稿の各当該箇所の内容と手紙の内容とが対応するものであるのかど
うかということによって答えられるべきであると言えよう。 吉田氏の推論は
文言上、表面的な対比にもとづく対応関係の推定であり、「論拠薄弱」と言

83)佐武論文C、46-47ページ。
84)内田、前掲論文、5-6ページ。

ー83ー

わざるをえない。吉田氏による内容的な対応関係の指摘がない以上、手紙と
ノート X・191とが対応関係にある可能性は否定しえないと言えよう。
次に、MEGA編集部の中断説の根拠Dに対する 吉田氏の批判であるが、
これについては積極的な反論が 内田氏からなされている。内田氏の反論は、
「『1861ー63年草稿』における生産過程の結果論」の内容を詳細に分析(その
結果については、内田論文、27ページを見よ)したうえでの反論である。で
きるかぎり文献考証上の面から問題を論じようとする本稿では、その検討は
省略する。
(4)最後に、機械論草稿の前半部分と後半部分とが「諸学説」執筆後連続的
に執筆されたのかどうかを決する論点として、機械論草稿の前半部分に見ら
れる「第3章」という指示文言をめぐる論争を見ておこう。
草稿中の指示文言とは次のようなものである。「なぜ、機械の採用につれ
て、いたるところで、他人の労働時間の吸収にたいする渇望が増大するのか、
またなぜ、労働日が・・・・・短縮される代わりに、逆にそれの自然的限界を越え
て延長されるのか、したがって相対的剰余労働時間だけでなく、総労働時間
も延長されるのか――この現象は、第3章で考察する」(MEGA、292)。「一
般に経験からわかるように、機械が資本主義的に充用されるようになれば・・・
・・、機械が資本の一形態として労働者にたいして自立化されるようになれば、
絶対的労働時間――総労働日――は短縮されないで、延長される。このケー
スについての考察は第3章に属する」(MEGA、303)。
ここに見られる「第3章」とは何か。 MEGA編集部の考えはこうである。
「マルクスがここで『第3章』と言っているのは、『資本一般』の研究の第3
の部分である『資本と利潤』のことである」。85) MEGA編集部のこの推定
は、機械論草稿の前半部分は 1861ー63年草稿の ノート ] [作成 以前に、
そして、 おそらく種々の事情から考えておそらく「諸学説」執筆以前に書か

85)Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.U, Bd.3, Apparat,Teil 1,
S.145.資本論草稿翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』C、大月書店、1978年、
513ページ。

ー84ー

れたという推定にもとづくものである。というのは、いわゆる1863年 1月の
プラン草案が作成されたのちは、第1の部分「資本の生産過程」、第2の部
分「資本の流通過程」につづく第3の部分である「資本と利潤」は、もはや
「第3章」ではなく、「第3篇」と呼ばれることになるはずであるからである。
これに対する吉田氏の主張はこうである。「ここで第3章というのは、大
村論文が指摘しているように、『1862年12月〜1863年1月のプラン』の第3章
『絶対的剰余価値』中の『d.標準労働日のための闘争』をさしている」。86)
文中にある大村論文の指摘とはこうである。「『第3章』は、どのように理解
すればよいであろうか。編集部は、 これをノート]Y記載の『第3章』『資
本と利潤 』をさすものと理解しているが、 筆者は、む しろ、 ノート][、
1140ページに記載された『第1編、資本の生産過程』のプラン草案における、
『3.絶対的剰余価値。・・・・・(d)標準労働日をめぐる闘争・・・ 』を念頭にお
いて記されていると理解したい。なんとなれば、筆者の場合には、ノートX.
190ページにはじまる『γ 機械。・・・・・』が、ノート]\以降のそれと同様、
1863年 1月 に作成されたものと推定している以上、 かかる『第3章 』は、
1861年12月〜1862年1月に 作成されたことが確実な草稿同章よりも、むしろ、
1862年12月〜1863年1月に 作成と推定することが可能な、そうしたプラン草
案と対応させて理解する方がはるかに合理的だからである」。87) この大村氏
の理解は、引用文にも指摘されているように、 機械論草稿が「諸学説」作成
以降に連続して執筆されたという推定の論拠とされている。
しかし、 これに対しては、 原氏によって次のような 批判が加えられた。
「この『第3章』を、MEGA、U/3の編集部と同様に、『第3章 資本と利潤』
を指示するものであると理解する。その第一の理由は、マルクスが、『1861
ー63年草稿』の全体を通して、機械の導入が労働日の延長をもたらすという
ことを、利潤論との関わりで、すなわち利潤率減少を阻止する手段として重
視していたからである。このことに関する叙述は、草稿の随所に見られる・・・

86)吉田論文@、192ページ。
87)大村、前掲論文、323ページ。

ー85ー

・・・」。88) 「第2の理由は、以下のとおりである。すなわち1863年1月のプラン
作成後、 相対的剰余価値は、『3 相対的剰余価値』として執筆され始めた
のであるから、 大村氏の言われるようにこの『3 相対的剰余価値』のなか
で『第3章』として、『3.絶対的剰余価値』を指示するということ自体不
可能なのである」。89) 「さらに重要であるのは、マルクスが、この『V 資本
と利潤』という論題を取り扱う部分を『第3章』とよぶのは、 厳密に、1863
年1月より前の時期に限定されている、という事実である」。90) 「マルクスは、
『1861ー63年草稿』全体を通じて、 機械採用のもとでの絶対的剰余労働の増
大――労働日の延長を、不変資本充用上の節約という点において、利潤論し
たがって『第3章 資本と利潤』の主要論題に設定していた」。91) 「ノートX
−190における『なぜ 』機械の採用に伴って労働日が延長されるのかの『現
象』の問題、そして、ノートX−199における労働日延長の『ケースについて
の考察』とは、労働日延長の2つの『動機』のうち、 第2の『動機』、すな
わち、『資本家とその代弁者によって直接に意識されている 』動機を考察す
るものであることを、 明白に読みとることができるであろう。したがって、
ここで指示されている『第3章』とは、 明らかに利潤論すなわち『第3章
資本と利潤』のことなのである。/しかも、・・・・・・1863年1月の『『資本論』
第3部または第3篇のプラン』が作成された後は、マルクスは、 『資本と利
潤』を取り扱う部分を『第3章』とよぶことはなかったのである」。92) 以上
要するに、原氏の見解は、ノートX・190と199における「第3章 」を指示す
る内容は、 マルクスにとって 利潤論に属する論題であり、しかもいわゆる
1863年 1月プラン作成後に利潤論を「第3章」として指示することはありえ
ない、したがって、 機械論草稿が全面的に「諸学説」のあとに作成されたの
であり、機械論草稿前半のノート X・190、199における「第3章」とは、い

88)原、前掲論文、151-152ページ。
89)同上、153ページ。文中の「3.相対的剰余価値」は「4.相対的剰余価値」の誤りで
あろう、とも言えよう。
90)同上、163ページ。
91)同上、166ページ。
92)同上、167ページ。

ー86ー

わゆる1863年 1月プランの 「3 絶対的剰余価値」であるとする大村・吉田
両氏の見解は成立しえない、というものである。
このような原氏の批判に対する吉田氏の反論はこうである。「マルクスは
1863年1月プラン以降、 それまで『第3章 資本と利潤』と呼んでいたもの
を、利潤論などの別の呼び方をするようになっている。したがって、1863年
1月のプラン以降にその冒頭から『機械論草稿 』が執筆されたと理解する大
村氏と筆者にとっては、『1861ー63年草稿』中の『剰余価値学説史』部分に
おける第3章は『資本と利潤』ではあっても、『機械論草稿』における第3
章は、その冒頭から『資本と利潤』をしめすものではなく、1863年 1月プラ
ンの第3章[絶対的剰余価値――松尾]をさすものであることは、われわれの
論文に明らかであると思う。93)これにたいして原氏は、第3章への指示が草
稿では『3.相対的剰余価値』の『γ 機械』であたえられていること・・・・や
『1861ー63年草稿』中の、1863年1月のプランに先行して書かれた『剰余価値
学説史』部分や、『第3章、資本と利潤』からの『第3章 』をあげられるの
である・・・・・・。当否は明らかであると思われる」。94)
「当否は明らかである」と吉田氏は言われるが、筆者にはそうは思われな
い。というのはこうである。「1863年 1月プラン以降にその冒頭から『機械
論草稿 』が執筆されたと理解する」大村、吉田両氏にとっては、たしかに、
「『機械論草稿』における第3章は、その冒頭から『資本と利潤』をしめすも
のではなく、1863年1月プランの第3章をさすものであることは・・・・・・明らか
である」が、しかし、 「諸学説」執筆以前に、 つまり1863年1月プラン以前
に機械論草稿が作成されたと理解する原氏にとっては、 逆に、機械論草稿に
おける第3章は「資本と利潤」をしめすものであることが明らかであるとい
うことになるからである。
ところで、この問題を考えるために、われわれは、さらに、以上3氏が指
摘しない マルクスの 次の指示文言を 指摘しなければならない。すなわち、

93)とすれば、ノート]]Uにおける「4)剰余価値の資本への再転化」(傍点は引用者)
というタイトルは、どのように理解すればよいのであろうか。
94)吉田論文A、277ページ。

ー87ー

「この章では、われわれはもっぱら可変資本とそれを再生産して含んでいる
価値量との割合を考察する――換言すれば、ある生産部面で充用される必要
労働の剰余労働にたいする割合を考察するのであり、それゆえ、剰余価値の
不変資本にたいする、および前貸総資本総額にたいする割合の考察はわざと
除外する――のであるが、機械の充用は、労賃に投下される資本部分のほか
に、別のもろもろの資本部分をも考察することを要求している 」(MEGA
295)。ここで述べられていることは、こうである。「この章」ではもっぱら
可変資本と剰余価値との割合を考察するが、しかし、機械の考察においては
可変資本以外の資本部分つまり不変資本をも考察せざるをえなくなる、と。
ここで言う「この章」とは何か。大村・吉田両氏のように 「1863年1月プ
ラン以降にその冒頭から『機械論草稿』が執筆されたと理解する」とすれば、
「この章」とは1863年1月プランの第1篇「資本の生産過程」の「4.相対的
剰余価値」のことであるということになろう。というのは、この章の下位項
目に「(c)機械」が見られるからである。しかし、両氏の言うとおりだとすれ
ば、次のような問題が生じてこよう。すなわち、もっぱら剰余価値と可変資
本の割合を取扱うのは、「この章」すなわち第4章であって、「第3章」では
ないということになるが、しかしそれはどう考えてもおかしい。 なぜなら、
「この章」=第4章だけでなく、第3章でも第5章でも、剰余価値と可変資本
の割合をもっぱら取扱い、そして剰余価値と不変資本、あるいは剰余価値と
前貸資本との割合を本格的に取扱うのは「第3篇 資本と利潤」であるとい
うのが、1863年1月プランでのマルクスの構想であるはずであるからである。
これに対して、「第3章」とは「第3章 資本と利潤」のことであるという
理解に立てば、次のようになろう。すなわち、もっぱら剰余価値と可変資本
の割合を考察するのは、「この章」すなわち「第1章 資本と生産過程」に
おいてである。ところが、機械の充用は可変資本のほかに不変資本をも考察
することを要求する、つまり剰余価値の不変資本にたいする、あるいは前貸
資本総額にたいする割合の考察――これは「この章」=「第1章 資本の生産
過程」では「わざと除外」されていた――を要求する。したがって、たとえ
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ば「なぜ、機械の採用につれて、・・・・ 労働日が・・・短縮される代わりに、逆
にそれの自然的限界を越えて延長されるのか、したがって相対的剰余労働時
間だけではなく、総労働時間も延長されるのか」という問題――これは要す
るに不変資本と剰余価値との関わりを問題としたものであると思われる――
は、「この章」=「第1章」ではなく、「第3章」すなわち「第3章 資本と利
潤」において考察されざるをえない、ということになる。
このように見てくるとわかるように、「第3章」指示についての大村・吉
田両氏の理解はいかにも不自然である。「第3章」=「第3章 資本と利潤」
と理解した方が、「この章」指示の理解において無理がないということがで
きるように思われる。したがって、機械論草稿の前半部分における「第3章」
指示は、機械論草稿が「諸学説」執筆以後にその冒頭から連続して執筆され
たとする確かな根拠にはなりえず、むしろ「第3章」は「第3章 資本と利
潤」であり、機械論草稿の執筆は「諸学説」の執筆によって中断され、その
前半部分は「諸学説」以前に執筆されたと見るほうが合理的であると思われ
るのである。
×    ×    ×
以上、われわれは、機械論草稿は「諸学説」執筆以後にその冒頭から連続
して執筆されたとする大村・吉田両氏のいわゆる連続執筆説を検討してきた
が、その結果、少なくとも次のように言うことができるであろう。すなわち、
連続執筆説において吉田氏が指摘する2つの積極的論拠は、けっして「決定
的な論拠」ではありえず、また、「決定的な論拠」を補足するためにもちだ
された他のいくつかの論拠や、いわゆる執筆中断説に対する批判も、どれ一
つとして、連続執筆説を積極的に論拠づけるものとは言えない。むしろ、す
でに筆者が指摘した諸事情から考えて、機械論草稿が「諸学説」執筆の以前
と以後との2度にわたって執筆されたと見るほうが自然ではないかと思われ
る。
(まつお じゅん/経済学部助教授/1985.7.11受理)

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