『経済経営論集』(桃山学院大学)第26巻第4号、1985年3月発行

  

利潤率低下法則論の形成過程(3)
――『剰余価値学説史』を中心として――

 

松尾 純

 

 

 T.はじめに
  前二稿1)において、われわれは、1857―58年草稿、2)および1861―63年草
稿3)中の「第3章 資本と利潤」・「雑録」、におけるマルクスの利潤率低下
法則をめぐる議論、とりわけ彼による法則の論証と定式化を詳しく分析・検
討した。その結果、次のことが明らかになった。すなわち、『経済学批判要
綱』では、労働の生産力が発展すれば剰余価値率が上昇するということを詳
しく考察し、そのことを十分に把握していたにもかかわらず、マルクスは、
剰余価値率不変を前提したうえで、もっぱら、労働の生産力の発展につれて
「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生きた労働と交換される
資本の比率」4)が減少するという事情だけから利潤率の低下を論停しようと
しており、剰余価値率が上昇する場合にも利潤率が低下するのかどうかとい


1)拙稿「利潤率低下法則論の形成過程」(1)(2)、『経済経営論集』第25巻第4号、第26巻
第3号、1984年3月、12月。
2)Karl Marx, Ökonomishe Manuskripte 1857 / 58 , in ; Karl Marx / Friedrich
Engels Gesamtausgabe, Abt. U, Bd. 1, 1976 ; Teil 2, 1980, Dietz Verlag.
3)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1861‐63) ,in :
Karl Marx / Friedrich Engels Gesamtausgabe , Abt.U, Bd.3, Teil 1, 1976 ;
Teil 2, 1977; Teil 3,1978; Teil 4,1979; Teil 5,1980; Teil 6,1982,Dietz Verー
lag.以下この書をMEGAと略記する。引用に際しての訳文は、Teil 1〜5部分につ
いては、とくに断らないかぎり、 資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿
集』CDEFG、大月書店、1978、1980,1981,1982,1984年に従う。以下、この書
から引用に際しては、 引用文直後に MEGA の引用ページのみを次のように略記
して示す。例、(MEGA、1974)。
4)Marx,op.cit.,S.621.

ー17ー

う問題を少しも検討していない。それに対して、草稿「第3章 資本と利潤」
では、労働の生産力の発展による剰余価値率の上昇という要因を考慮に入れ
たうえで法則の論証を行なおうといている、すなわち労働の生産力の発展に
よって、剰余価値率が上昇するにもかかわらず、他方で同時に不変資本に対
する可変資本の割合が減少し、その結果利潤率が低下するという命題を論証
しようとしている。その際マルクスが採用した論証方法は、前稿で指摘した
ように次の2つである。すなわち、一つは、われわれが「限界」論と呼ぶ方
法であって、それは、生産力の発展とともに剰余価値率が上昇すれば、「一定の
限界内において」利潤率の低下が阻止されうるが、しかしその「限界」を越
えて不変資本に対する可変資本の割合が減少すれば、剰余価値率の上昇(と
それに伴う剰余価値量の増大 )のよる阻止が不可能になるということから、
利潤率の低下法則を論証しようとする方法である。もう一つは、われわれが
「不均等発展」論と呼ぶ方法であって、それは、生産力の発展は労働者の消
費する生産物を直接または間接的に生産するいろいろな生産部門のあいだで
不均等であるという事実認識から、剰余価値率の上昇率は不変資本に対する
可変資本の割合の減少率に及ばないという命題を引き出し、それを根拠にし
て利潤率の低下を論定しようとする方法である。この方法の特徴は、剰余価
値率の上昇率と不変資本に対する可変資本の割合の減少率とを直接対比させ、
後者が前者に勝ることを明らかにすることによって、第一の方法で見た「限
界」内においてさえ利潤率が低下することを論証しようとする点にある。
ところで、これら2つの方法は、草稿「第3章 資本と利潤」においては
じめて登場し、以後、1861―63年草稿のそれに続く箇所、とりわけ「5.剰
余価値に関する諸学説」部分(以下「諸学説」と略記する)において練り上
げられていく。そこで、以下、本稿では、法則の論証のためにマルクスが用
いた2つの方法の「諸学説」における彫琢過程をフォローし、この2つの論
証方法のもつ理論的性格を明らかにすることにしよう。また、そのことによ
って、マルクスによる法則の論証が理論的に妥当なものであるかどうかとい
う問題に接近することにしよう。
ー18ー


U「諸学説」における利潤率低下法則論の形成
  (その1)――リカード理論との対決を通じて

以下検討しようとする「諸学説」では、多くの箇所でマルクスは利潤率低
下法則に関接しているが、そのうちで比較的まとまった議論が展開されてい
るのは、筆者の見るところ、次の2箇所である。一つは、「諸学説」の「h.
リカード」中の「剰余価値に関するリカードの理論」と題する部分(1861―
63年草稿ノート]U・636―ノート]V・694ページ。以下、「……リカード
の理論」と略記する)――とりわけ「利潤率の低下に関する法則」と題する部
分(ノート]V・673―694ページ)を中心とする箇所――であり、もう一つ
は、「諸学説」の「1.経済学者たちにたいする反対論(リカードの理論を基
礎とする)」中の「4.トマス・ホジスキン『民衆経済学。ロンドン職工学校に
おける4つの講義』、ロンドン、1827年」と題する部分の後半(ノート]X
・879―889ページ。 以下、この部分を「4.トマス・ホジスキン……」と略
記する)である。したがって、以下、本稿では、この2つの箇所を中心にし
てマルクスの利潤率低下法則論とそれに関わる議論を詳しく見ることにする。
まず第一の部分から見ることにしよう。
マルクスは、リカードの剰余価値=利潤論批判中の「利潤率の低下に関す
る法則」と題する部分において、次のようにリカードの利潤率低下法則論を
批判し、それに対峙する形で自己の利潤率低下法則論を定式化している。
「彼〔リカード――松尾〕にとっては、利潤率と剰余価値……の率とは同
じだから、利潤の永続的な低下または利潤の低下傾向は、ただ、剰余価値率
の……永続的な低下または低下傾向の条件となるであろう諸原因と同じ諸原
因からしか説明されえない。だが、このような条件は、どんなものであるの
か? 労働日を与えられたものとして前提すれば、 そのうち労働者が資本家
のために無償で労働する部分は、ただ、彼が自分のために労働する部分が増
大する場合にだけ、低下し、減少しうるにすぎない。そして、このことが可
能なのは(労働の価値……が支払われることを前提すれば)、ただ、彼の労賃が
ー19ー

投ぜられる必需品すなわち生活手段の価値が増加する場合だけである。とこ
ろが、工業製品の価値は、労働の生産力の発展の結果として絶えず減って行
く。したがって、〔利潤率の低下という〕この問題は、生活手段の主要成分
――食料――の価値が絶えず増大するということによってのみ説明すること
ができる。このことは、農業が絶えずますます不生産的になって行くという
ことから生じる。この前提は、リカードの説明によれば、地代、その存在お
よびその増大を明らかにする前提と同じものである。それゆえ、利潤の不断
の低下は地代率の不断の上昇と結びつけられる。私はすでにリカードの地代
把握がまちがっていることを示した。したがって、これによって〔利潤率の
低下に関する〕彼の説明の基礎の一つは崩壊する。しかし、第二に、それは、
剰余価値率と利潤率とが同じである、というまちがった前提に基づいている。
つまり、利潤率の低下と、実際にはリカード的なやり方でしか説明すること
ができないような剰余価値率の低下とが、同じである、というまちがった前
提に基づいている。これによって彼の理論は片づいたのである。5)利潤率が
下がるのは――たとえ剰余価値率が同じままであるか、または上がるにして
も――、労働の生産力の発展とともに可変資本が不変資本に比べて減って行
くからである。つまり、利潤率が下がるのは、労働がますます不生産的にな
るからではなく、ますます生産的になるからである。絶対的剰余時間が増大
するにせよ、または、国家がこれを阻止するようになれば資本主義的生産と、
労働の相対的剰余価値とが、それゆえにまた相対的剰余時間の増大とが一致
するにせよ、〔利潤率が下がるのは、〕労働者がより少なく搾取されるからで
はなく、より多く搾取されるからである。こういうわけで、リカードの理論
は次の2つのまちがった前提に基づいているのである。 / 1.地代の存在と
増大とは農業の生産性の現象を条件とする、というまちがった前提。/2.利
潤率は相対的剰余価値率に等しいのであって、それはただ労賃の騰落に反比
例してのみ騰落しうる、というまちがった前提」(MEGA、1063―1064)。
「彼〔リカード――松尾〕が剰余価値率と利潤率とを同一視するとすれば

5)訳文に変更を加えた。

ー20ー

――また同時に、彼が仮定しているように労働日の長さを与えられているも
のと仮定するとすれば――、利潤率の低下傾向は、剰余価値率を低下させる
諸原因からのみ説明されうることになる。しかし、剰余価値率の低下は――
労働日の長さが与えられている場合には――、賃金率が永続的に上がるとき
にのみ可能である。このことは、必需品の価値が永続的に上がるときにのみ
可能である。しかし、これは、農業が不断に劣悪化するときにのみ、すなわ
ちリカードの地代論が仮定されるときにのみ可能である」(MEGA、1085)。
「A・スミスは、 資本の蓄積につれて 利潤率は諸資本の競争の増大のため
に下がる、と言うのであるが、リカードは、農業の劣悪化の増大(必需品の
騰貴)のために下がる、と言うのである。われわれはこのリカードの見解を
反駁しておいたが、この見解は、剰余価値率と利潤率とが同じである場合に
だけ、したがって(労働日を同じままだと前提して)賃金率が上がらなければ
利潤率が下がりえない場合にだけ、正しいであろう」(MEGA、1089)。等々。
以上の引用から、リカードの利潤率低下法則論は、マルクスの理解すると
ころによると、次のようなものであることがわかる。すなわち、リカードに
とっては、利潤率と剰余価値とが同じであり、利潤率の低下と剰余価値率
の低下とが同じである。したがって、利潤率の低下傾向は、剰余価値率の低
下傾向の諸原因と同じ原因からのみ説明されうる。剰余価値率の低下は、―
―労働日の長さが与えられている場合には――賃金率が永続的に上がるとき
にのみ可能であり、それは、必需品すなわち生活手段の価値が永続的に上が
るときにのみ可能である。ところで、工業製品の価値は、労働の生産力の発
展とともに絶えず低下していくのに対して、生活手段の主要成分である食料
の価値は――リカードの地代論によれば、資本の蓄積につれて農業がますま
す不生産的になっていく(農業の劣悪化の増大 )ため――絶えず上昇する。
したがって、資本の蓄積につれて利潤率は絶えず低下せざるをえない。
ということであるから、マルクスの理解によれば、リカードの利潤率低下
法則論は次の2つのまちがった前提に立脚していることになる。 すなわち、
リカードは、第一に、利潤率と剰余価値率とを同一視している。第二に、彼
ー21ー

は、資本の蓄積につれて農業の生産性が絶対的に減少し、その結果地代は増
大し生活手段の主要成分である食料の価値が絶えず上昇すると考えている。
リカードのこの第一の前提に対しては、前稿で見たように、6)マルクスは
すでに『要綱』において、利潤率と剰余価値率とは同じものではなく、両者
を同一視してはならないことをくり返し指摘している。また、そもそも、「諸
学説」の中心テーマは――その冒頭でマルクスが「すべての経済学者が共通
にもっている欠陥は、彼らが剰余価値を純粋に剰余価値そのものとしてでは
なく、利潤および地代という特殊な諸形態において考察している、というこ
と」である(MEGA、333)、 と述べているところからわかるように――利潤
(率)と剰余価値(率)の形態上の相違を明らかにし、両者を区別しない経
済学者たちの誤りや混乱を批判することにある。したがって、リカードの利
潤論および利潤率低下法則論を検討する際にも、マルクスは、利潤(率)と
剰余価値(率)の相違という論点をもちだし、リカードが両者を同一視して
いることをきびしく批判するのである。たとえば、すでに引用した箇所以外
でも、マルクスは次のように言う。「剰余価値が与えられている場合でも、い
ろいろな原因が利潤を引き上げたり押し下げたりしうるということ…… を、
リカードは見逃している。彼は、 剰余価値を利潤と同一視しているために、
一貫していまや、利潤率の騰落はただ剰余価値率を騰落させる諸事情だけを
条件とする、ということを証明しようとする」(MEGA、1004)。
マルクスの批判の要点は、リカードは「利潤率の騰落はただ剰余価値率を
騰落させる諸事情だけ」から、つまり賃金率の騰落だけから説明しうると考
えているが、しかし「剰余価値率が与えられている場合でも、いろいろな原
因が利潤を引き上げたり押し上げたりしうる」、端的に言うと、可変資本に
対する不変資本の割合の増減が利潤率の変動にとって決定的な作用を及ぼす、
と考えるべきである、という点にある。
リカードの第1前提に対するマルクスの批判が以上のようであるとすれば、

6)前掲拙稿(1)、161―167ページ。

ー22ー

マルクスが、なんらかの事情で(リカードの言う事情に限るわけではないと
いう意味)剰余価値率が低下する場合、他の事情に変化なければ利潤率は低
下するということを論証したところでリカードの利潤率低下法則論を批判し
たことには決してならないのであって、剰余価値率が同じままである場合に
も、また剰余価値率が上昇する場合にさえ、利潤率が低下するということを
マルクスが論証してはじめて、彼はリカードの利潤率低下法則論に対する有
効な批判をなしえたと言うことができよう。
問題は、マルクスがこの命題をどのように論証しているかということであ
るが、それはのちに検討することにして、その前に、リカードの利潤率低下
法則論を支える第2の前提を見ておこう。
うえに見たように、リカードは、利潤率の低下の原因は唯一剰余価値率の
低下、つまりは賃金の上昇にあると考える。したがって、彼は、利潤率の永
続的な低下または利潤率の低下傾向を導き出すために、どうしても、資本の
蓄積とともに賃金が不断に上昇するということを示さなければならない。そ
こで、第2の前提としてリカードの地代論が登場することになる。リカード
の地代論によれば、社会の進歩・資本蓄積とともに、農業が絶えずますます
不生産的になっていき、その結果地代は増大し、生活手段の主要成分(食料)
の価値が絶えず増大する、ということになる。シェーマ化して示すと次のよ
うになる。社会の進歩・資本と蓄積→優等地から劣等地への耕作の進展・農
業の生産性の不断の減少―→地代の不断の増大・食料価値の不断の上昇―→
賃金の不断の上昇〔=剰余価値率の不断の低下〕。
ところで、リカード理論の第1前提のほうは、すでに述べたように、『要
綱』以来たえずマルクスが批判してきた論点であるのに対して、リカードの
第2の前提つまり彼の地代論に対する批判は、1861―63年草稿においてはじ
めてマルクスによって本格的に7)行なわれている。リカードの地代論、とい

7)というのは、マルクスは、1850年代はじめにすでに収穫逓減の法則に基づくリカード
の差額地代論を批判しえていたからである。 1851年1月7日付マルクスのエンゲルス
宛手紙、『資本論書簡』@岡崎次郎訳、国民文庫、77―81ページ参照。 1861―63年草
稿においてはじめてマルクスは、剰余価値がいかなる中間項をへて必然的に利潤、利

ー23ー

ってもうえの議論との関連で言うと、彼の差額地代論に対するマルクスの批
判の中心は、社会の進歩・資本蓄積につれて耕作が優等地から劣等地へと進
行していくために農業がより不生産的になるというリカードの発想〔収穫逓
減の法則の仮定〕を批判することにある。マルクスはこのリカードの仮定を
鋭く批判する。彼の批判・主張はこうである。
「より不生産的な土地への〔耕作の〕進行は、必ずしも農業がより不生産
的になったことを示すものではない。逆に、それは、農業がより生産的にな
ったということ、農業生産物の価格が投下資本を補填するのに足りるほど十
分に高く上がったために豊度の低い土地が耕作されるという[だけ]ではなく、
逆に、生産手段が非常に発達したので不生産的な土地が『生産的』になり通
常の利潤だけでなく地代をも支払うことができるようになったということを
も、示すことがありうる」(MEGA、677)。「〔差額〕地代は、優等地から劣
等地に進む場合にも劣等地から優等地に進み場合にも可能だ……。……差額
地代は、けっして農業の累進的な劣悪化を前提するのではなく、それの累進
的な改良からも同じように発生しうるのである。それが劣等な土地種類への
下降を前提する場合でさえも、第一に、この下降は農業の生産諸力の改良の
おかげであることがありうる。というのは、ただより高い生産地だけが、需
要の許す価格で劣等地の耕作を可能にするからである。第二に、より劣等な
土地が改良されることがありうる」(MEGA、884)。「リカードは差額地代を、
農業の生産性の絶対的な減退から説明したが、それはけっして差額地代の前
提をなすものではない」(MEGA、886)。「差額地代が、豊度のより高い炭鉱
または土地から豊度のより低いそれへの移行、労働の生産性の逓減を条件と
する、というリカードの見解がまちがいである……。差額地代は、これとは
逆の進行とも、つまり労働の生産性の逓増とも、まったく同様に結びつきう
るのである。どちらの進行が行なわれるかは、差額地代の本質や存在とはな

子、地代の分肢諸形態に転化するかということを解明することによって、絶対地代の
存在を否定するリカード地代論の「ごまかし」を発見し、絶対地代の解明をはたすと
ともに、以前から疑問としてきたリカードの差額地代論に対して本格的な批判を展開
しえたのである。

ー24ー

んの関係もないのであって、一つの歴史的な問題である。現実には上昇線と
下降線とが交錯するであろうし、追加的需要が、あるときは豊度のより大き
い土地種類や炭鉱や自然要因への移行によってみたされ、あるときは豊度の
より低いそれらへの移行によってみたされる」 (MEGA、910―911)。「彼
〔リカード〕が{もちろんすでに一般的利潤率の低下傾向の解明を眼中にお
いて}この移行を前提しているのは、そうしなければ彼は差額地代を説明す
ることができないからであるが、実は、この差額地代は、TからU、V、W
へと移行するか、それともWからV、U、Tへと移行するかという事情には
まったくかかわりがない」(MEGA、945)。等々。
以上の引用からわかるように、リカードは、地代論において、社会の進歩
につれて耕作が最優等地から段階的に劣等な土地に進行し〔下降線のみの前
提〕、したがって農業の生産性が絶対的に減退していく〔農業の生産性の減
少の前提〕、と考えるのに対して、マルクスは次のように主張・批判するの
である。すなわち、優等地から劣等地への耕作の進行は必ずしも農業の生産
性が絶対的に減退したことを示すわけではなく、逆に農業の生産性が増大し
たことを示すことがありうる――というのは、農業の改良のおかげで劣等地
が「生産的」になり通常の利潤のほかに地代をも払うことができるようにな
る場合があるからである;差額地代は、優等地から劣等地に進む場合にも劣
等地から優等地に進む場合にも発生する;差額地代は、労働の生産性の逓減
とも、また労働の生産性の逓増とも結びつきうる;したがって、差額地代の
発生を説明するために耕作の進展として下降線のみを前提し、そこから社会
の進歩につれてひたすら農業の生産性が減退すると考えるのはまちがいであ
る、と。
以上が、リカードに対するマルクスの批判であるが、これによってマルク
スは、「私はすでに、リカードの地代の把握がまちがっていることを示した。
したがってこれによって〔利潤率の低下に関する〕彼の説明の基礎の一つは
崩壊」した(MEGA、1064)と言うのである。というのは、先に示したり
カードのシェーマがその出発点においてすでに成立しえなくなるからである。
ー25ー

  リカードの利潤率低下法則論のもう一つの前提(リカードのよる剰余価値
率と利潤率との同一視)については、さきに見たように、『要綱』以来マル
クスによってくり返しその誤りが指摘されてきた。そして、いまやリカード
のシェーマがそもそもその出発点において成立しえなくなったわけであるか
ら、リカードの利潤率低下法則論は、あらゆる点で成立しえないことがマル
クスにとって判明したことになる。かくて、マルクスはさきの引用文につづ
けて次のように言う。「しかし、第二に、それは、剰余価値率と利潤率とが
同じである、というまちがった前提に基づいている。つまり、利潤率の低下
と、実際にはリカード的なやり方でしか説明することができないような剰余
価値率の低下とが、同じである、というまちがった前提に基づいている。こ
れによって彼の理論は片づいた」(MEGA、1064)、と。
しかし、これでマルクスにとって問題が片づいたわけではけっしてない。
というのは、リカードの利潤率低下法則論を支える2つの前提を批判するこ
とによって、マルクスは次の問題を抱え込むことになったからである。
すなわち、まずリカードの第2前提に対する批判から言うと、リカードの
考えるように、社会の進歩につれて優等地から劣等地への耕作の拡張―→農
業の生産性の不断の減退・穀物(主要生活手段)の価値の不断の上昇―→賃
金の不断の上昇―→剰余価値率の不断の低下ということが言えないのである
から、マルクスとしては、賃金の不断の上昇―→剰余価値率の不断の低下を
前提しない場合にさえ利潤率は低下するものであるということを示すことが
できなければならない。また、リカード理論の第1前提に対する批判から言
うと、リカードは利潤率と剰余価値率とを同一視しているため利潤率の不断
の低下の原因をもっぱら剰余価値率の不断の低下にもとめているが、このリ
カードの考え方を批判して「利潤率は剰余価値率と同じ法則によって直接に
支配されない」(MEGA、1049)という立場を確実なものにするためには、
マルクスとしては、@剰余価値率が低下する場合は勿論のこと、A剰余価値
率が同じままの場合にも、B剰余価値率が上昇する場合にさえ、利潤率は低
下するということを論証することができなければならない。要するに、リカ
ー26ー

ード批判を行なうためには、いずれにせよ、マルクスは、《剰余価値率が上
昇する場合にさえ、利潤率は低下せざるをえない》という命題を証明せざる
をえない羽目に陥ったわけである。
ところで、ここで少し振り返ってみよう。『要綱』では、マルクスは、剰
余価値率が低下すれば利潤率が低下するという両者の並行関係を主張するリ
カードに対して、剰余価値率と利潤率との非並行関係――すなわち、@剰余
価値率が同じままでも「不変の価値として存在する資本部分にたいする、生
きた労働と交換される資本の比率」(以下「比率」と略す)の変化しだいで、
利潤率は変動しうる;A剰余価値率が上昇しても、「比率」の変化しだいで
は利潤率は低下しうる;B逆に剰余価値率が低下しても、 「比率」の変化し
だいでは利潤率は上昇しうるという関係を、説く。そして、利潤率の不断の
低下をもっぱら「比率」の減少という側面から導出しようとし、剰余価値率
が上昇する場合、「比率」の変化と相俟って利潤率がどのように変化するの
かという問題を少しも検討していない。8)
これに対して、草稿「第3章 資本と利潤」では、マルクスは、労働の生
産力の発展は、一方では不変資本に対する可変資本の割合の減少を齎し、同
時に他方では剰余価値率の上昇を齎すという2面的作用を確認し、この両作
用を考慮に入れて利潤率の低下を論証しようとしている、すなわち、労働の
生産力の発展につれて 不変資本に対する可変資本の割合が減少してゆけば、
剰余価値率が低下したり変わらない場合は勿論のこと、それが上昇する場合
にさえも、利潤率が低下するという命題の論証に取り組んでいる。草稿「第
3章 資本と利潤」での議論は『要綱』でのそれと比較して、 剰余価値率不
変という前提をはずしたという点で 大きく前進したものであると言えよう。
ところで、このような前提の変更を齎した原因は何か。それは、マルクスが、
労働の生産力の発展が二重の作用をもち、しかもそれらが利潤率の変動に反
対方向に働くということを十分にふまえたうえで、それらをここではじめて
総動員して――というのは、一つ一つの論点は、すでに『要綱』や草稿「第

8)前掲拙稿、174―175ページ参照。

ー27ー

3章  資本と利潤」に先行する1861―63年草稿の諸ノートにおいて明らかに
されているからである――法則の論証と定式化を行なおうとした結果である
と思われる。したがって、《剰余価値率が上昇する場合にさえ、利潤率は低
下せざるをえない》という命題の論証問題は、この草稿「第3章 資本と利
潤」では、マルクスにとって自説の積極的な展開の都合上内発的に生じてき
た問題であると言えよう。
これに対して、この「……リカードの理論」を中心とする部分では、マル
クスは、すでに見たように、リカードの利潤率低下法則論を批判しようとし
た結果、逆に、《剰余価値率が上昇する場合にさえ、利潤率が低下せざるを
えない》という命題を論証せざるをえなくなったと言うことができる。とい
うのは、こうである。すなわち、マルクスは、リカードの〔賃金の上昇―→
剰余価値率の低下―→利潤率の低下〕というシェーマに対して、たんに〔剰
余価値率不変のもとで不変資本に対する可変資本の割合の減少―→利潤率の
低下〕というシェーマを対置するだけではもはや不十分であり、また批判と
しては擦れ違いの観を免れえないのであって、リカード理論を完膚なきまで
に批判し、自己の理論の優位性を主張するためには、剰余価値率が低下する
場合は勿論のこと、それが同じままである場合にも、さらに、それが上昇す
る場合にさえ利潤率が低下するということを論証しなければならない状況に
追い込まれたと言えよう。
さて、もとに戻って、問題は、マルクスがどのような法則の論証を行なっ
ているかにある。しかし、残念ながら、肝心の「……リカードの理論」部分
には、剰余価値率が上昇する場合にさえ利潤率は低下するという観点からリ
カードを批判する論述は多く見られるが、この命題を論証する直接の論述が
存在しない。リカード理論に対抗しながら、マルクスは次のように主張する
だけである。「リカードは、たとえば貨幣価値の変動のような、資本のあら
ゆる部分に一様に作用するような商品価値の変動によっては、利潤率は影響
を受けない、ということを見抜いている。それゆえ、彼は次のように結論し
なければならなかったはずである。すなわち、利潤率は、資本のあらゆる部
ー28ー

分に一様に作用しないような商品価値の変動によっては影響を受けるのであ
り、したがって、利潤率は、労働の価値が同じままである場合でも変更しう
るし、また労働の価値の変動と反対の方向にさえも変動しうる、と」(MEGA
1050)。「利潤率が下がるのは――たとえ剰余価値率が同じままであるか、ま
たは上がるにしたも――、労働の生産力の発展とともに可変資本が不変資本
に比べて減って行くからである。つまり、利潤率が下がるのは、労働がます
ます不生産的になるからではなく、ますます生産的になるからである。絶対
的剰余時間が増大するにせよ、または、国家がこれを阻止するようになれば
資本主義的生産と、労働の相対的価値の低下とが、それゆえにまた相対的剰
余時間の増大とが一致するにせよ、〔利潤率が下がるのは、〕労働者がより少
なく搾取されるからではなく、より多く採取されるからである」(MEGA
1064)。
このように、マルクスは、リカードに対抗して、剰余価値率が上がる場合
にさえ利潤率は下がると主張するだけで、どうしてそういうことが言えるの
か、少しもまとまった形での説明を与えていない。
とはいえ、ノート]以降、地代論を研究するなかで、マルクスはリカード
の利潤率低下法則論に対する批判をくり返し行なっており、そのなかには、
法則の論証にとって有益な論述がいくつか存在する。以下、それを見ておこ
う。
たとえば、ノート]で地代論の研究に入るやいなや、マルクスは次のよう
に述べている。「この歴史的現象というのは、農業との対立における製造工
業(本来のブルジョア的産業部門)の相対的に急速な発展のことである。農
業はより生産的になったといっても、工業がより生産的になったような割合
においてではない。……それは、農業が相対的により不生産的になり、した
がって工業生産物に比較して農業生産物の価値が上昇し、それとともに地代
も上昇するという命題の正しさを妨げるものではない。……ところで、この
ことからは、確かに、リカードが考えているような結論、すなわち利潤率が
低下したのは農業生産物の相対的な騰貴の結果として労賃が上がったからで
ー29ー

あるという結論は、 けっして出てこない。というのは、平均労賃は、そのな
かにはいる生産物の相対的価値によって規定されるのではなく、絶対的価値
によって規定されるのだからである。しかしながら、そのことから当然に次
のような結論が出てくる。すなわち、利潤率(本来は剰余価値率)は、製造
工業の生産力が上昇するのに比例して、しかも農業……の不生産性の相対的
な増大の結果として製造工業の生産力が上昇するのに比例して、上昇するこ
とはなかった、という結論がそれである」(MEGA、676―677)。
ここでのマルクスの主張はこうである。すなわち、農工間不均等発展とい
う「歴史的現象」から、リカードは、農業の不生産性の増大―→農産物の価
値上昇―→労賃の上昇〔―→剰余価値率の低下〕―→利潤率の低下という推
論をしているが、それは誤りである。この同じ「歴史的現象」から、われわ
れは、剰余価値率は、工業の生産力が上昇するにつれて上昇するが、農業の
不生産性が相対的に増大するために、工業の生産力が上昇するのに比例して
は上昇しないという結論を引き出すべきである。というのは、農業での生産
力の発展が工業でのそれに比べて遅いため、農業での生産力の発展―→農産
物の価値低下によって、労賃の低下・剰余価値率の上昇がひき起こされるに
しても、その程度・割合は、 工業での生産力の発展に及ばないからである、
と。このように、マルクスは、リカードと同じ「歴史的現象」である農工間
不均等発展から出発しながら、工業での生産力の上昇率は剰余価値率の上昇
率よりも大となるという結論を引き出すわけである。
ところで、 ここではマルクスは、リカードの利潤率低下法則論を批判し、
利潤率の低下に対して彼なりの説明を与えようとしていると考えられる。と
すれば、工業での生産力の上昇率は剰余価値率の上昇率よりも大であるとい
うさきの結論は、マルクスにとっては、利潤率の低下と同義でなければなら
ない。しかし、そのためには、工業での生産力の発展に平行・比例して不変
資本に対する可変資本の割合が減少するということをマルクスがここで想定
しているものと考えなければならない。とすれば、結局、ここでのマルクス
の論理は次のようなものであると言えよう。すなわち、農業での生産力の発
ー30ー

展は歴史的に見て工業での生産力の発展に及ばない。したがって、農業での
生産力の発展によって、生活手段の主要成分である農産物の価値の低下―→
労賃の低下―→剰余価値率の上昇がひき起こされるが、その程度・割合は、
工業での生産力の発展とそれに並行・比例して進行する不変資本に対する可
変資本の割合の減少に及ばない。したがって利潤率は低下するのである、と。
このように見てくると、ここでのマルクスの論理は、前稿においてわれわ
れが法則の論証方法の一つとして指摘した「不均等発展」論と同じものであ
るということができよう。〔念のために付言しておくと、「……リカードの理
論」およびそれに先行する(ノート]以降の)部分には、筆者の知るかぎり、
法則のもう一つの論証方法である「限界」論が見あたらない。 したがって、
この「……リカードの理論」には、法則の論証方法としては、「不均等発展」
論のみがわずかに見られるということができる。〕
以上、われわれは、1861―63年草稿ノート]―]V部分におけるマルクス
の利潤率低下法則論(といっても、そのほとんどがリカード批判であり、自
説の開陳はわずかである)を分析・検討することによって、マルクスが《剰
余価値率が上昇する場合にさえ利潤率が低下せざるをえない》という命題を
証明せざるをえなくなった事情を明らかにすることができた。また、このリ
カード批判部分には、 うえの需要命題に対する論証らしい論証が存在せず、
わずかにうえに見たような示唆的な論述が見られるだけであるということが
わかった。したがって、法則の論証としては、ここでは、マルクスは、草稿
「第3章 資本と利潤」における法則の論証を前提にして、 リカード批判を
行っていると考えることができよう。

V「諸学説」における利潤率低下法則論の形成
  (その2)――ホジスキンの所説の検討を通じて

「諸学説」においてマルクスが利潤率低下法則論において論じている第2
の中心部分は、すでに指摘したように、「4.トマス・ホジスキン……」部分
である。以下、この部分を詳しく見ることにしよう。

ー31ー

  この「4.トマス・ホジキンス……」において、マルクスは、ホジキンスの
所説を分析・検討することを通じて、利潤率低下法則論(とくに法則の論証)
について自分の考えをまとめ、それを提示しようとしている。
マルクスが以下で行なう議論の素材として引用しているホジスキンの見解
とは、次のようなものである。すなわち、『次のようなことは、だれでもち
ょっと見ただけで納得するにちがいない。すなわち、単純な利潤は社会の進
歩につれて減少するのではなく増加するのだということ…… がそれである。
……とはいえ、明らかに、どんな労働も、どんな生産力も、どんな明敏さも、
どんな技術も、複利の圧倒的な要求に応ずることはできない。しかし、いっ
さいの節約は資本家の収入のうちから(つまり単純な利潤のうちから)なさ
れており、したがって、実際にはこれらの要求は絶えずなされているのであ
るが、同様に絶えず労働の生産力はこれらの要求を満たすことを拒んでいる
のである。 それゆえ、 一種の差引勘定が絶えずなされているわけである』
MEGA、1434にあるホジスキンの著書からのマルクスの引用〕。このホジ
スキンの所説をマルクスは次のような問題を明らかにしたものであると評価
・理解する。すなわち、「たとえば、100という資本は、10%では、利潤が絶
えず繰り返し蓄積されるとすれば、20年間には673以上になるであろうが、
……これを700としよう。そうすれば、この資本は20年間で7倍になるであ
ろう。……他方、マルサスの『極端な』想定に従っても、人口はやっと25
年で2倍になりうるにすぎない。だが、ここでは、人口は20年間で2倍になり、
したがってまた労働者人口もそうなる、としよう。20年間を平均すれば、1
年の利子は30%に、すなわち〔仮定した〕実際の利子の3倍になるはずであ
ろう。ところが、搾取率は同じであるとすれば、2倍になった人口は20年間
に……以前のたった2倍の労働を、したがってまたたった2倍の剰余労働を、
供給することができるだけで」ある(MEGA、1434―1435)。ここから出発
にして、マルクスは、最終的に、ホジスキンは「利潤の低下を、生きている労
働が『複利』の要求に応ずることができないということから説明することに
よって、たとえ……このことをそれ以上は分析していないにしても、スミス
ー32ー

やリカードよりもはるかに真実に近づいている」 (MEGA、1448)という評
価を与えるのである。以下、マルクスがホジスキンの所説をどのように分析
・検討していくかを見よう。
マルクスは、まず利潤率低下法則に関する自節の確認から始めている。す
なわち、彼は次のように述べている。
「利潤率は・・・次のものによって規定されている。
1. 不変な搾取率を前提すれば、……充用される労働者の絶対数によって、
したがってまた人口の増加によって。この数は増加するにもかかわらず、充
用される資本総額にたいするその割合は、資本の蓄積と産業の発展とにつれ
て、減少する(したがって不変な搾取率のもとでの利潤率は[低下する])。……
2. 標準労働日の絶対的な大きさ〔によって〕。すなわち剰余価値率の増
大によって。つまり、利潤率は、標準労働日を越えての労働時間の延長によ
って増大しうるのである。とはいえ、これにはその肉体的な限界があり、ま
た――やがては――その社会的な限界がある。……
3. 標準労働日が同じままであるならば、剰余労働は、労働の生産力の発
展に比例して必要労働時間が短縮され、労働者の消費にはいる生活手段が安
くされることによって、 相対的に増大させられることができる。ところが、
この同じ生産力の発展が可変資本を不変資本にたいする割合において減少さ
せるのである。たとえば2人の剰余労働時間が、絶対的または相対的〔剰余〕
労働時間を20人のそれに等しくするような延長によって、20人のそれにとっ
て代わるということは、肉体的に不可能である。20人が1日にたった2時間
しか剰余労働をしないとしても、彼らは40剰余労働時間を提供するのである
が、他方、2人の生活時間の全体でも1日にたった48時間にしかならないの
である」(MEGA、1435―1436)。
以上の引用文におけるマルクスの考えを要約するとこうなる。 すなわち、
@剰余価値率不変とすれば、資本の蓄積につれて不変資本に対する可変資本
の割合が減少してゆき、その結果、利潤率は低下する。A標準労働日の延長
つまり剰余価値率の増大によって利潤率は増大しうるが、しかし、標準労働
ー33ー

日の延長には「肉体的な限界」・「社会的な限界」がある。B標準労働日一定
とすれば、労働の生産力の発展によって、一方では剰余価値率が上昇するが、
同時に他方で不変資本に対する可変資本の割合が減少する。後者による利潤
率の低下は、前者すなわち剰余価値率の上昇によって補償することができる
が、それには「限界」がある。というのは、たとえば、2人の労働者が2時
間しか剰余労働をしない20人の労働者にとって代わることは、 ほぼ「肉体的
に不可能」であるからである。
以上の3つの論点のうち、@は、マルクスが『要綱』においてもっぱら依拠
していた論点である。すなわち、剰余価値率不変のもとで、不変資本に対す
る可変資本の割合の減少―→利潤率の低下を導き出す論理である。Aは、標
準労働日の延長による利潤率の増大には、 肉体的・社会的な限界があるとい
うことを指摘しているにすぎず、ここで特に取上げて問題にすべき論点では
ない。注目すべきはBであり、これは、『要綱』には見られなかった論点で
あり、1861―63年草稿になってはじめて登場してきた議論である。われわれ
は、さきに、これを「限界」論と名づけた。
「4.トマス・ホジスキン……」では、マルクスは、主としてこの「限界」
論の立場からホジスキンの所説を分析・検討し、 またそれを評価している。
以下、その内容を詳しく見ることにしよう。
「剰余価値率が同じままでも、またそれが高くなってさえも、利潤率が低
下することを、私は次のことから説明した。すなわち、可変資本が不変資本
にたいしてもつ割合が減少することから、すなわち、生きている現在の労働
が充用され再生産される過去の労働にたいしても 割合が減少することから、
説明した。ホジスキンや、『国民的苦難の根源と救済策』を書いた人は、こ
のような利潤率の低下を、労働者が複利=資本の蓄積に対応することができ
ないということから、説明している」(MEGA、1437)。「普通の考え方から
すると、それは同じことになるであろう。私は、蓄積の進行につれて利潤率
が低下するのは、不変資本が可変資本にたいする割合において増大するから
である、と言うとき、その意味は、資本の特定の諸部分の特定の形態を別に
ー34ー

すれば、充用資本が充用労働にたいする割合において増大する、ということ
である」(MEGA、1437)。「ここで述べられる定式は、蓄積の進行につれて
同量の資本にたいしてより少ない労働者が当たるということの、または、同
じことであるが、同じ、労働にたいしてより大きな量の資本が割りあたるとい
うことの、新たな根拠を含んである。…… / ……このあとのほうの定式が、
H〔ホジスキン〕やその他の人々が用いているものである。蓄積とは一般に
――彼らによれば――複利を要求するということである――すなわち、同じ
労働者により多くの資本が割り当たって、今や、彼に割り当たるであろう資
本の大きさに比例して彼はより多くの剰余労働を提供するはずだ、というこ
とである。彼に割り当たる資本は複利に比例してふえて行くが、彼の労働時
間のほうは、非常に確定的な限界があって、相対的にも『どんな生産力』に
よってもこの複利の要求に応じて短縮されえ『ない』のだから、『一種の差引
勘定が絶えずなされている』のである」(MEGA、1438)。
マルクスが述べようとしていることは、次のようなことである。すなわち、
剰余価値率が同じままでも、また高くなってさえも、利潤率が低下すること
を、自分は、可変資本が不変資本にたいしてもつ割合が減少することから説
明したのに対して、ホジスキンは、労働者が複利=資本の蓄積に対応するこ
とができないということから説明しているが、「それは同じこと」(MEGA
1437)である。 自分が、蓄積の進行とともに利潤率が低下するのは、不変資
本が可変資本にたいする割合において増大するからであると言うとき、その
意味は、 充用資本が充用労働にたいする割合において増大するからである、
ということであり、また、同じことであるが、同じ労働にたいしてより大き
な量の資本が割り当たるからである、ということである。このような定式こ
そ、ホジスキンが用いているものである。ホジスキンは、蓄積とは、同じ労
働者により多くの資本が割り当たって、その資本の大きさに比例して労働者
はより多くの剰余労働を要求される、ということであり、労働者に割り当た
る資本は複利に比例してふえていくが、彼の労働時間のほうは、非常に確定
的な限界があって、この複利の要求に応じきれなくなる、と考えるのである。
ー35ー

  したがって、ここではマルクスは次のように考えているのである。蓄積の
進行とともに、充用資本にたいする割合においてより少ない労働が充用され
るようになり、その結果、極端な場合には充用労働の全労働時間が剰余労働
となっても、剰余労働/充用資本が、つまり利潤率が低下することを免れえ
ない、と。
このことをマルクスは、「ホジスキンの考え」を解説するという形で、次
のように説明する。「H〔ホジスキン〕の考えはこうである。最初にたとえば
労働者1人にたいして資本50ポンドの割合であって、これに基づいて彼はた
とえば25の利潤を提供する。のちには、〔資本の蓄積によって――松尾〕……
労働者1人にたいして資本200ポンドという割合になる。 ……労働者は……
今では200の資本について100〔の利潤〕を、……提供するはずだ、というこ
とになる。だが、これは不可能である。そのためには、……もとは1日に12
時間労働していたとすれば、1日に48時間労働しなければならないか、また
は、労働の生産力の発展によって労働の価値が4分の1に下がるかしなけれ
ばならないであろう」(MEGA、1438―1439)。 マルクスの理解する「ホジス
キンの考え」とは、要するにこうである。いま、労働者1人(労働日=12時
間、労賃=25ポンド)にたいして資本50ポンドの割合で、彼は25の利潤を提
供するとしよう。資本の蓄積によって、 労働者1人にたいして資本200ポン
ドという割合になったとすれば、 労働者は100の利潤を提供するはずである
が、これは不可能である。というのは、これが可能であるためには、労働者
は4倍の時間労働しなければならないが、しかし彼の全生活時間を労働時間
にまわしても24時間にしかならないからである。
以上が、ホジスキンの定式――すなわち、「蓄積とは一般に……複利を要
求することである――すなわち、同じ労働者により多くの資本が割り当たっ
て、今や、彼に割り当たるであろう資本の大きさに比例して彼はより多くの
剰余労働を提供」しなければならないが、しかし「彼の労働時間のほうは非
常に確定的な限界があって……この複利の要求に」応じられないという定式
――の内容である。したがって、「ホジスキンの考え」は、マルクスの「限
ー36ー

界」論での考え方と同じものであると言えよう。
ところで、さらにマルクスは、このような「ホジスキンの把握」がどのよ
うな理論的意味をもつかを詳しく検討している。すなわち、
「H〔ホジスキン〕の把握がある意味をもつのは、ただ、資本が人口より
も、すなわち労働者人口よりも、急速に増大するということが想定される場
合だけである」(MEGA、1442)。「それゆえ、H〔ホジスキン〕の命題が意
味をもつのは、ただ、より多くの資本が――蓄積の過程を通じて――同じ労
働者によって動かされるか、または資本が労働と同じ割合で増大するかする
場合だけである」(MEGA、1443)。
しかし、ホジスキンの言う「同じ労働者により多くの資本が割り当たると
いうこと」が可能なのは、次のような場合だけである。
「第一に。……労働の生産力が同じままならば、ただ、労働者が彼の絶対
的労働時間を延長……する場合か、または彼が強度を高めて……労働を行な
う場合だけである」が、「どちらにも……非常に確定的な、肉体的な限界が
あるのであって、この限界に達すれば、複利……はなくなるのである」(ME
GA、1443―1444)。「第二に。そのほかの唯一の場合……は、労働の生産性
の増大であり、生産方法の変化である。これは不変資本と可変資本との有機
的な割合の変化を条件とする。言い換えれば、労働に比べての資本の増加は
この場合には、可変資本にたいする関係においての、そして一般に、可変資
本によって充用される生きている労働の量にたいする関係においての、不変
資本の増加と同じなのである。/ だから、この場合にはH〔ホジスキン〕の
見解は、私が展開した一般的な法則に帰着するのである。剰余価値、労働者
の搾取は、増大するが、同時に利潤率は低下する。なぜなら、可変資本が不
変資本に比べて減少するからである。つまり、生きている労働一般の量がそ
れを動かす資本にたいして相対的に減少するからである」 (MEGA、1446―
1446)。以上要するに、ホジスキンの把握が意味をもつのは、 ただ、資本が
労働者人口よりも 急速に増大するということが想定される場合だけであり、
ただ、より多くの資本が同じ労働者によって動かされる場合だけである。と
ー37ー

ころが、それは、次のような場合にだけ可能である。第一に、労働の生産力
が同じままならば、労働時間を延長するか、あるいは労働の強度を増大させ
るかする場合。しかし、これには「非常に確定的な、肉体的な限界」がある。
第二に可能なのは、生産方法が変化し、労働の生産性が増大する場合である。
この場合には、「可変資本にたいする関係においての、そして一般に、可変
資本によって充用される生きている労働の量にたいする関係においての、不
変資本の増加」が生じる。だが、この場合にはホジスキンの見解は私(マル
クス)の考え方と同じことになる。私の考え方とは、労働者の搾取が増大す
るにもかかわらず、利潤率が低下するのは、不変資本に対する可変資本の割
合が減少するからであり、生きている労働一般の量が、それを動かす資本に
たいして相対的に減少するからである、というものである。
ところで、以上の議論のうち、第一の場合は、資本の蓄積につれて生じる
利潤率の低下は労働日の延長や労働の強化によって阻止されるが、しかしそ
れには「非常に確定的な限界」があるということであり、したがって、これ
は、MEGA、1435―1436に見られるマルクスの自己了解の第2論点に相当
するものであると言えよう。また、第二の場合、すなわち生産方法が変化し
不変資本に対する可変資本の割合が減少することによって、「より多くの資
本が同数の労働者の搾取の増大のために利用され」うるという場合は、「私
〔マルクス――松尾〕が展開した一般的法則」に帰着する。したがって、こ
れは、MEGA、1435―1436に見られるマルクスの自己了解の第3論点に相
当するものであると言えよう。
いずれにせよ、このように見てくると、マルクスは、 「4.トマス・ホジ
スキン……」部分では、「限界」論の立場に立って、ホジスキンの所説を検
討・評価しており、 それが全体をとおして基調であるということがわかる。
だが、マルクスは、 この「4.トマス・ホジスキン……」部分でも、法則
の別様の論証を提示しようとしている。われわれが「不均等発展」論と呼ぶ
議論がそれである。
「利潤率は……次のものによって規定されている。/1.不変な搾取率を前
ー38ー

提すれば、……/ 2.標準労働日の絶対的な大きさ〔によって〕。……/ 3.
標準労働日が同じままであるならば、剰余労働は、労働の生産力の発展に比
例して必要労働時間が短縮され、労働者の消費にはいる生活手段が安くされ
ることによって、相対的に増大させられることができる。ところが、この同
じ生産力の発展が可変資本を不変資本にたいする割合において減少させるの
である。たとえば2人の剰余労働時間が、絶対的または相対的〔剰余〕労働
時間を20人のそれに等しくするような延長によって、20人のそれにとって代
わるということは、肉体的に不可能である。……。
労働能力の価値は、労働者〔Marx Engels Werke, Bd.26, Teil 3, 1968
では、労働、となっている――松尾〕または資本の生産力が高くなるのと同
じ割合では下がらない。@この生産力上昇は、生活必需品を(直接または間
接に )生産しないすべての部門でも可変資本にたいする不変資本の割合を、
労働の価値になんらかの変化をひき起こることなしに、増大させる。 A生産
力の発展は一様ではない。農業よりも工業をより急速に発展させるというこ
とは、資本主義的生産の性質上当然なのである。このことは、土地の性質か
ら生じるのではなくて、土地が真にその性質に適合して利用されるためには
別の社会的諸関係が必要である、ということから生じるのである。……Bそ
のうえ、農業生産物は、――他の諸商品と比べて――、土地所有があるため
により、より高価に支払われる。というのは、その価値どおりに売られて、費用
価格まで押し下げられないからである。ところが、農業生産物は生活必需品
の主要な構成成分をなしている。Cさらに加えて、法則の、競争の結果、も
し土地の1/10がより効果に利用されることになれば、残る9/10もやはり『人
為的に』この相対的不毛性をくっつけられるのである」(MEGA、1436。@
ABCは引用のもの)〔引用文(A)〕。
「労働量の減少(比率的なそれ)が労働の生産性の増大によって同じ度合
いでは埋め合わされないということ、または、投下〔可変――松尾〕資本に
たいする剰余労働の割合が充用労働量の比率的な減少と同じ割合では高くな
らないということになるのは、@一部には、労働の生産性の発展がただ資本
ー39ー

の特定の諸部面においてのみ労働の価値を、必要労働を、減少させるからで
あり、Aまた、それらの部面においてさえも労働の生産性は一様には発展し
ないし、Bそれを無効にする諸原因が現われるからである。たとえば、労働
者たち自身は賃金の引下げ(価値から見ての)を阻止することはできないと
はいえ、絶対的には最低限度まで押し下げられるものではなく、むしろ量的
には 一般的な富の増大のなかの いくらかの取り分を強要するのだからであ
る」(MEGA、1447―1448.@ABは引用者のもの)〔引用文(B)〕。
引用文(A)の分析から始めることにしよう。
引用文冒頭でマルクスは、労働の生産力の発展につれて剰余価値率が上昇
する;ところが、この同じ生産力の発展が不変資本に対する可変資本の割合
を減少させる;〔その結果、利潤率が低下する――松尾〕、と述べている。こ
れにつづけて――筆者の理解するところによれば――この命題をマルクスは
大別して2つの論拠によって説明しようとしている。一つはこうである。「た
とえば、2人の剰余労働時間が、絶対的または相対的〔剰余〕労働時間を20
人のそれに等しくするような延長によって、20人のそれによって代わるとい
うことは、肉体的に不可能である。云々」。これは、すでに考察したように、
「限界」論である。もう一つはこうである。「労働能力の価値は、労働者また
は資本の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない」。―― 〔ここで、
「労働能力の価値」の低下は、「標準労働日が同じままであるならば」、剰余
価値率の上昇と同義であると理解しうる。また、マルクスは、利潤率低下法
則を論証する際、1861―63年草稿ではたいていの場合、労働の生産力が発展
すれば、それと並行・比例するように不変資本に対する可変資本の割合が減
少するものと想定しているということから考えて、ここで「労働者または資
本の生産力が高くなる」というのは、不変資本に対する可変資本の割合の減
少のことであると考えてよかろう。とすれば〕、―― 「労働能力の価値は、
労働者または資本の生産力が高くなると同じ割合では下がらない」という冒
頭の文章は《剰余価値率は、不変資本に対する可変資本の割合の減少と同じ
割合では上昇しない》という文意に理解することができる。また、そう理解
ー40ー

してはじめて、ここからマルクスは利潤率の低下を結論することができると
判断していたと見ることができるわけである。
ところで、問題は、なぜ、「労働能力の価値は、労働者または資本の生産
力が高くなるのと同じ割合では下がらない」ということが言えるのかという
ことである。これに対するマルクスの説明はこうである。まず、@「生産力
上昇は、生活必需品を(直接または間接に)生産しないすべての部門でも可
変資本にたいする不変資本の割合を、 労働の価値になんらかの変化をひき起
こすことなしに、増大させる」。文意はこうである。すなわち、生活必需品を
(直接にも間接にも)生産しない部門では、生産力が上昇しても、その部門
の可変資本に対する不変資本の割合が増大するだけで、労働能力の価値は少
しも低下しない。したがって、この場合には、「労働能力の価値は、労働者
または資本の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない」どころか、少
しも下がらないということができよう。マルクスの第2の説明はこうである。
A「生産力の発展は一様ではない。農業よりも工業をより急速に発展させる
ということは、資本主義的生産の性質上当然なのである」。ここでのマルク
スの考え方は、前後の文脈から考えて次のようなことであると思われる。す
なわち、生産力の発展は一様ではない。たとえば、それは、農業においてよ
りも工業においてより急速である。したがって、生産力の発展によって、た
しかに、 工業でも農業でも不変資本に対する可変資本の割合が減少するが、
しかしその程度・速さは農業よりも工業のほうが大である。生活必需品の主
要な構成部分をなす農業生産物の価値は、農業での生産力の発展によって低
下するにしても、その程度・速さは、工業での、したがってまた社会全体と
しての、生産力の発展に及ばないし、またそこでの不変資本に対する可変資
本の割合の減少の程度・速さに及ばない。したがって、「労働能力の価値は、
労働者または資本の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない」のであ
る、と。〔マルクスは、以上の論拠のほかに、BやCを指摘しているが、本
稿ではその分析を省略する。Aの論拠を補強するものであると理解しておけ
ばよいであろう〕。
ー41ー

  かくして、われわれは、引用文(A)の後半(「労働能力の価値……」以下の
部分)を次のように理解することができよう。すなわち、労働能力の価値は、
労働または資本の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない。言い換え
れば、剰余価値率は、不変資本に対する可変資本の割合が減少するのと同じ
割合では上昇しない。というのは、まず第一に、生活必需品を(直接または
間接に )生産するすべての部門で生産力が上昇しなくても、 生活必需品を
(直接または間接に)生産しないすべての部門で生産力が上昇すれば、この
部門の不変資本に対する可変資本の割合が減少し、したがって社会全体とし
てのそれも減少することになるが、しかし、労働能力の価値は少しも低下し
ないであろうからである。第二に、生産力がすべての生産部門において上昇
するとしても、一様にではない。たとえば、農業と工業とでは生産力の発展
は不均等であり、農業でのそれは工業でのそれに及ばない。そのため、農業
において生産力が上昇し、農業生産物の価値が低下し、その結果、剰余価値
率が上昇するにしても、それは、工業における生産力の発展およびそれに並
行して生じる不変資本に対する可変資本の割合の減少に及ばないからである。
以上2つの理由から、マルクスは、「労働能力の価値は、労働者または資本
の生産力が高くなるのと同じ割合では下がらない 」という命題を引き出し、
そして、さらにそこから利潤率の低下という結論を導き出そうとするわけで
ある。
次に、引用文(B)を見ることにしよう。
引用文(B)をパラレーズすると、次のようになろう。すなわち、冒頭マルク
スは、「労働量の減少(比較的なそれ)が労働の生産性の増大によって同じ度
合では埋め合わされないということ、すなわち投下〔可変――松尾〕資本に
たいする剰余労働の割合が充用労働量の比率的減少と同じ割合では高くなら
ない」と述べ、その原因として@ABの事情を指摘する。@ABにおけるマ
ルクスの考えはこうである。まず@について言うと、これは、生活必需品を
(直接または間接に)生産する部門において労働の生産力の発展が生じた場
合にのみ、またそのかぎりでのみ、労働力の価値が低下し、したがって剰余
ー42ー

価値率が上昇する; したがって剰余価値率は、社会全体としての生産力の発
展と同じ割合では上昇しない、ということである。A似ついて言うと、これ
は、さきに見た引用文(A)の論拠Aと同じことであると思われる。すなわち、
こうである。生活必需品を(直接または間接に)生産する部門のあいだでも
生産力の発展は一様ではなく不均等であり、たとえば、農業での生産力の発
展は工業での生産力の発展よりもおそく、したがって社会全体の生産力の発
展(およびそれと平行・比例して進む不変資本に対する可変資本の割合の減
少)は、農業での生産力の発展―→生活必需品の価値低下―→労働力の価値
低下―→剰余価値率の上昇よりも急速に進行する。Bについて言うと、これ
はAを補強する事情であると理解できる。農業での生産力の発展によって農
業生産物の価値が低下し、その結果、労働力の価値が低下したとしても、「そ
れを無効にする諸原則」、たとえば、労働者たちによる(低下した価値どおり
への)賃金引下げに対する反抗のために、農業での生産力の発展による農業
生産物の価値低下が、 労賃の引下げ―→所余暇地率の上昇にそのままつなが
って行かないという事情がある、ということである。
以上、われわれは、引用文(A)および引用文(B)を分析し、そこでのマルクス
による利潤率低下法則の論証内容を詳しく検討した。その結果、そこでのマ
ルクスの論証方法は、要するに「不均等発展」論であると言えよう。共通す
る基本的な論理はこうである。すなわち、生活必需品を(直接または間接に)
生産する生産諸部門における生産力の発展は不均等である。とりわけ農業で
の生産力の発展は工業でのそれに及ばない。したがって、たとえば農業での
生産力の発展とともに生活必需品の価値の低下―→労働力の価値低下―→剰
余価値率の上昇が生じるとしても、その程度・速さは、それと同時に生じる
工業での生産力の発展およびそれと並行・比例して進行する不変資本に対す
る可変資本の割合の減少に及ばない。したがって、 社会全体として見ると、
剰余価値率が上昇するにしても、その程度・割合は、地方で進行する不変資
本に対する可変資本の割合の減少に及ばない。かくて、利潤率は低下せざる
をえない。
ー43ー

  以上の基本論理、すなわち「不均等発展」論は、すでに見た草稿「第3章
資本と利潤」におけるそれと同じものであると言えよう。また、「……リカ
ードの理論」に先行する(ノート]以降の)部分におけるそれと同じもので
あると言えよう。ただ、引用文(A)および引用文(B)では後二者と比べてこの基
本論理=「不均等発展」論がより一層の彫琢を受けるとともに、さらにそれ
を補強する論理(引用文(A)では@BC、引用文(B)では@B)が提示されてい
る。
以上、われわれは、「4.トマス・ホジスキン……」におけるマルクスの利
潤率低下法則論を、法則の論証と定式化という論点に絞って詳しく見てきた
が、その結果、ここでのマルクスの論証方法についてわれわれは次のような
まとめをすることができよう。すなわち、第一に、ここでの論争方法の中心
は、あくまでも「限界」論である。「4.トマス・ホジスキン……」全体を通
じて、マルクスは、ホジスキンの所説のなかにある「限界」論的な、あるい
はそれに通じる論理を見つけ、それを自説に引付けて読み取って行こうとし
ている。「……リカードの理論 」およびそれに先行する(ノート]以降の)
部分では、「限界」論と見なすべき議論がほとんど見あたらず、「不均等発展」
論(に通じる論述)のみがわずかに見られただけであった。 それに対して、
この「4.トマス・ホジスキン……」では、まず「限界」論については、 草
稿「第3章 資本と利潤」と比べて、かなり詳細な、 『資本論』でのそれに
より近い、議論の展開が見られるし、 また、「不均等発展」論についても、
――「……リカードの理論」と比べても――より立ち入った、詳しい説明(基
本理論の)補強論理の提示とが行なわれている、 と言うことができる。 さ
らに言えば、草稿「第3章 資本と利潤」における「不均等発展」論は、マ
ルクスによって、法則の論証をはたすものであるという明確な問題意識をも
って展開された議論であるというよりは、むしろ、生産力の発展と剰余価値
(率)の増大の関係を問う文脈のなかで生じた論理であり、それを法則の論証
にとって有意義なものとしてわれわれが拾い上げることができるというほど
のものである。また、「4.トマス・ホジスキン……」における「不均等発展」
ー44ー

論は、「……リカードの理論」に先行する部分における「不均等発展」論――
といっても、後者も、マルクスによって、はっきりと、法則の論証という問
題意識をもって述べられたものであるとはかならずしも言えない――をより
立ち入って、しかも法則の論証という問題意識をより明確にもって展開され
たものであると言うことができるであろう。

以上、われわれは、1861―63年草稿中の「諸学説」部分におけるマルクスの
利潤率低下法則論を詳しく分析・検討してきた9)が、ここでは、マルクスは
次の2つの方法(論理 )に依って法則の論証を行おうとしていると言える。
一つは「限界」論であり、もう一つは「不均等発展」論である。これらの2つ
の方法のうち、 マルクスがまず第1に、 そして主として依拠しているのは
「限界」論であり、もう一方の「不均等発展」論はそれを補強・補完するもの
であると見ることができるように思われる。というのは、「4.トマス・ホジ
スキン……」において見たように、議論(論証)は、まずもって「限界」論
を中心にして展開されており、その議論の合い間に「限界」論を補強するか
のように「不均等発展」論と見なしうる論述が存在するからである。このこ
とは、草稿「第3章 資本と利潤 」でも基本的に同様である。というのは、
そこでも、利潤率低下法則に対するマルクスの論証は「限界」論によってま
ず行なわれ、そして、われわれがその存在を指摘した「不均等発展」論はマ
ルクスにとっては法則を論証するという明確な意図をもって展開された議論
ではなくむしろ生産力の発展と剰余価値(率)の増大との関係を分析する文
脈に登場してきた議論である(そして、それをわれわれが法則の論証にとっ
て重要な意味をもつ論点として摘出した )と見ることができるからである。
とはいえこの「不均等発展」論は、すでに見たように、「限界」論と同様に、
草稿「第3章 資本と利潤」から、「……リカードの理論 」およびそれに先
行する部分へ、そしてさらに 「4.トマス・ホジスキン……」部分へと進む


9)「諸学説」では、マルクスは、 本稿で分析、検討した2箇所のほかに、 「n[シェルビ
ュリエ]」(ノート][・1102―1121ページ)においても、利潤率低下法則に関する議

ー45ー

にしたがってマルクスによる彫琢を受け、より詳細な、そして、より立ち入
った議論へと発展していったということができるであろう。
かくて、1861―63年草稿でのマルクスの利潤率低下法則の論証について次
のような総括をすることができるであろう。すなわち、マルクスにとって法
則の論証の中心・基本はあくまでも「限界」論であり、そして、それを補完
するものとして――というのは、「限界」論では、「一定の限界内において」
利潤率の低下は生産力の発展による剰余価値率の上昇によって阻止されうる
ことを認める議論になっているため、その「限界内」においても剰余価値率
の上昇が不変資本に対する可変資本の割合の減少に及ばないことを論証する
必要があるからである――「不均等発展 」論がマルクスによって着想され、
それによる法則の論証が工夫されたのである、と。
次に、稿を改めて、『資本論』(第3部)におけるマルクスの利潤率低下法
則論を、これらの2つの論証方法がどのような彫琢を受け、どのような運命を
たどるかという問題を中心にして、見ることにしよう。
(まつお じゅん/経済学部助教授/1985.1.11受理)


論を展開しているが、その内容の分析・検討は、論点整理の都合上別稿において行な
う予定である。法則の論証という問題関心からその内容を要約するとすれば、そこで
は、資本の有機的構成概念が詳しく検討され、この資本の有機的構成が生産力の発展
とともに高度化するということからただちに利潤率の低下という結論が引き出されて
おり、生産力の発展 →剰余価値率の上昇という面にはほとんど注意がはらわれてい
ない、ということができる。

ー46ー