『経済経営論集』(桃山学院大学)第26巻第3号、1984年12月発行

  

利潤率低下法則論の形成過程(2)
――草稿「第3章 資本と利潤」を中心にして――

 

松尾 純

 

 

 T.はじめに
 『経済学批判要綱』(以下『要綱』と略記する)から『資本論』にいたるま
でのマルクスによる利潤率低下法則論の形成過程をフォローするために、わ
れわれは、まず前稿1)において、『要綱』に見られる利潤率低下法則論に関
する議論を分析・検討した。その結果、われわれは、『要綱』段階における
利潤率低下法則論を次のように特徴づけることができた。すなわち、そこで
は、マルクスは、すでに労働の生産力が発展すれば剰余価値率が上昇すると
いうことを十分に把握していたにもかかわらず、剰余価値率不変を前提した
うえで、もっぱら資本主義的生産の進展・労働の生産力の発展とともに不変
資本部分に対する可変資本部分の割合が減少するという面から利潤率の低下
を論定しようとしており、労働の生産力の発展に伴なって剰余価値率が上昇
する場合、はたして利潤率が低下するのかどうかという問題を少しも検討し
ていないし、また検討しようとしてもいない、と。
これに対して、以下検討しようとする1861ー63年草稿2)では、 筆者の見る
ところ、マルクスは、剰余価値率不変という条件をはずして、すなわち、資


1)拙稿「利潤率低下法則論の形成過程(1)―資本構成高度化と剰余価値率上昇の対抗を
中心にして―」、『経済経営論集』第25巻第4号、1984年3月。
2)Karl Marx, Zur Kritik der politischen Ökonomie (Manuskript 1861ー63), in:
Karl Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe,Abt.U, Bd. 3, Teil 1, 1976; Teil
2,1977;Teil 3,1978;Teil 4,1979;Teil 5,1980;Teil 6;1982,Dietz Verlag. 以下、
この書からの引用に際しては、引用文直後に引用ページを次のように略記して示す。例、
MEGA、1670)。

ー57ー

本主義的生産の進展・労働の生産力の発展とともに剰余価値率が上昇するが
それにもかかわらず、一方では不変資本部分に対する可変資本部分の割合が
減少するために、利潤率が低下していかざるをえないことを論証しようとし
ている。
そこで、以下、1861ー63年草稿において、マルクスがどのような法則の論
証の試みを行なっているかを詳しく分析し、そこでのマルクスの利潤率低下
法則論の理論的性格を明らかにすることにしよう。

U 草稿「第3章 資本と利潤」全体の概要
本稿ではまず、1861ー63年草稿 ノート ]Y−]Z 記載の草稿「第3章
資本と利潤」および「雑録」におけるマルクスの利潤率低下法則論を詳しく
分析・検討することにしよう。
草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」から検討をはじめるのは、第
一に、1861ー63年草稿中のこの箇所ではじめてマルクスが利潤率低下法則論
についての自説の本格的な展開を試みているからであり、第二に、別稿3)で述
べたように、 1861ー63年草稿 ノートY−]X記載の「5.剰余価値に関す
る諸学説」の執筆に先立って、 草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」
部分が執筆されたと考えられるからである。
まず、草稿「第3章 資本と利潤」全体の概要を見ることにしよう。それ
は、ノート]Yの表紙第2面に見られる次のような内容目次4)――MEGA
編集者はこの内容目次をそのまま実際の本文の各節・各項の表題として採用
している――によって推察しえよう。
 第3章 資本と利潤
1) 剰余価値と利潤
2) 利潤利は剰余価値をつねにより小さく表現する。


3)拙稿「1861ー63年草稿記載の「第3章 資本と利潤」の作成時期について」、『経済経
営論集』、第26巻第1号、1984年6月。
4)MEGA、1543-1544。

ー58ー

    3) 関係は数字上、形態上変更される。
4) 同じ剰余価値は非常にさまざまな利潤率で表現される。同じ利潤率は
非常にさまざまな剰余価値を表現する。
5) 剰余価値と利潤の関係=総資本にたいする可変資本の関係
6) 生産費  a) 利潤は生産費の価値を超える生産物の価値の超過分に
等しい。個別資本の生産費には属さない。b) 利潤は資本主義的生産
一般の生産費に属する。 c) 商品はその価値以下でも利潤をつけて
売ることができる。 d) 剰余価値が与えられている場合利潤の率は
不変資本の価値の減少によって、 不変資本の充用の節約によって上
昇する。 e) 利潤の尺度としての一定量の資本――100。 f) 剰余価
値ではなくて利潤が、 総資本の蓄積率、および諸資本家の現実の利
得率[を規定する――松尾]。 g) 利潤率と利潤量。資本の大きさ
に比例する利潤、すなわち利潤の平均率。 h) 固定資本と労働時間。
7) 資本主義的生産の進展における利潤率低下の一般的法則。
以上が、草稿「第3章 資本と利潤」全体の構成である。本稿での分析対
象は、第7節「資本主義的生産の進展における利潤率低下の一般的法則」で
あるが、この部分の検討に入る前に、参考のために、第1節から第6節まで
の内容をごく簡単にまとめておくことにしよう。
まず第1節〜第6節・項fでは、本草稿でのマルクスの表現を借りれば、
「第一の」・「形式的な」「剰余価値の利潤への転化」、すなわち剰余価値の利
潤への「形態にのみ」かかわる転化が考察されており、その内容は大雑把に
見て、現行『資本論』第3部第1篇「剰余価値の利潤への転化と剰余価値率
の利潤率への転化」のそれに対応する。 また、第6節・項gでは、同様にマルクスの表現を借りれば、さきの「第
一の」・「形式的な」「剰余価値の利潤への転化」と対比させながら「第二
の」・「実質的な」「剰余価値の利潤への転化」、すなわち「形態だけでは
なく実体そのものに関係する、すなわち利潤の絶対的な大きさ――したがっ
て利潤の形態で現象する剰余価値の絶対的大きさを変える」(MEGA、1626)
ー59ー

「剰余価値の利潤への転化」について述べられている。しかし、その内容は
かなり制限されたものになっている。すなわち、この「転化」と密接に関連
する「価値の正常価格への転化」の問題については、「これのさらに詳しい研
究は競争の章に属する」(MEGA、1630)とされ、また、「平均利潤率が問題
になりうるのは、一般に、利潤率が資本のさまざまの生産部門で相異してい
る場合のみである」(MEGA、1623)が、しかし「この問題 Punkt のさら
に詳しい考察は競争の章に属する。 というのは、 ここではともかく確実に
一般的なことがらだけが考察されなければならないからである」(MEGA
1623)と述べられている。が、その内容は、あえて言えば、現行『資本論』
第3部第2篇「利潤の平均利潤への転化」のそれに対応していると見ること
ができよう。
大略、以上のような「剰余価値の利潤への転化」論をふまえて、マルクス
は、以下第7節「資本主義的生産の進展における利潤率低下の一般的法則」
の考察に進んでいる。

V 草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」における
利潤率低下法則論

そこで、以下、この第7節(ノート ]Y・999ー1022)およびそれに続く
ノート ]Z冒頭の「雑録」(ノート ]Z・1022ー1028)に展開されている
マルクスの利潤率低下法則論を詳しく分析・検討することにしよう。
問題のノート ]Y・999ーノート]Z・1028部分は、その内容を大雑把に
整理すると次のようになろう。
第一は、ノート ]Y・999ー1007部分であって、そこでは、マルクス自身
の利潤率低下法則論が展開されている。
第二は、ノート ]Y・1006ー1009、 995ー996部分であって、そこでは、
総資本の増大につれて不変資本に対する可変資本の比率が変化した場合、剰
余価値率と利潤率の関係がどのように変化するかという問題を、いろいろな
ケースを想定して数学的に、考察している。

ー60ー

 第三は、ノート]Y・996ー998、]Y・1009ー1021部分であって、そこで
の中心問題は、機械の充用などによる生産力の増大によって相対的剰余価値
の生産がいかに行なわれるかという問題や、生産力の増大とともに総資本、
不変資本、可変資本がそれぞれ、量的に、あるいは比率的において、どのよう
に変化するかという問題などである。
第四は、 ノート ] Z・1022ー1028における「雑録」部分である。 この
「雑録」は次のような表題をもついくつかの部分(諸問題)から成っている。
@「労働過程と価値増殖過程。使用価値と交換価値」、A「利潤率の減少」、
B「不変資本。資本の絶対量」、C「利潤率の低下」、D「蓄積」、E「不変
資本への支出の削減」。これらの表題から判断するかぎり、そこでは、種々
雑多な問題が論じられているように見えるかもしれないが、しかし、そこで
は、第7節「資本主義的生産の進展における利潤率低下の一般的法則」にお
ける議論――このうちには、第二〜第三部分のような、利潤率低下法則論を
直接扱ったものではないにしても、それに間接的に関係する議論も含まれて
いる――に対する補足的な事柄や結論が述べられている。
以上、われわれは、草稿「第3章 資本と利潤」第7節「資本主義的生産
の進展における利潤率低下の一般的法則」および「雑録」を4つの部分にわ
けて概観したが、われわれが考察対象とすべき利潤率低下法則論に直接関係
ある部分は、第一部分の全部と、「雑録」の表題「利潤率の減少」「利潤率の
低下」部分である。さらにつけ加えるとすれば、利潤率低下法則論に関係あ
りと考えられる叙述部分として、第三部分の若干の個所(MEGA、1660ー1
661、1664-1665)を指摘することができよう。
ところで、これらのうちで中心的な部分は、言うまでもなく第一の部分で
ある。そこでは、現行『資本論』第3部第3篇第13章「法則そのもの」にお
ける利潤率低下法則論に相当する議論が行なわれているし、またその比重が
多少軽いとはいえ、 第14、第15章の叙述内容に相当するものが含まれている。
したがって、以下、われわれは、まず、この第一の部分(ノート ]Y・999
ー1006)におけるマルクスの利潤率低下法則論、とりわけ法則の論証、定式
ー61ー

化を詳しく分析・検討し、さらに、必要に応じて他の部分に存在し、利潤率
低下法則の論証に直接関係あると認められる個所の叙述を詳しく分析・検討
することによって、草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」におけるマ
ルクスの利潤率低下法則論の理論的性格を明らかにすることにしよう。
「第3章」第7節「資本主義的生産の進展における利潤率低下の一般的法
則」の冒頭で、マルクスは、第6節「生産費」・項gで見たこととして、@
個々の資本にとっては、平均利潤(率)と個々の資本が実際に生産する利潤
(率)ととは相異なるということ、A利潤の平均率は、要するに総剰余価値
/総資本にほかならず、この関係は、ちょうど、利潤が個々の資本にたいし
てもつ関係と同じであること、を確認したのち、以下考察しようとする利潤
率低下法則について まず次のような意義づけを行なっている。 すなわち、
「多数の諸資本に立ち入ることなしに、これまでに展開した資本の一般的性
質から一般的法則を直接に導きだすことができる」が、「この法則は――そ
して、それは経済学の最も重要な法則であるが――利潤率が資本主義的生産
の進展につれて低下する傾向があるという法則である」(MEGA、1632)、と。
 法則の論証は、「この一般的利潤率の低下傾向の原因は何だろうか?」(
EGA、1633)というノート]Yー1000での問題提起から始まり同ノート・
1004に終る部分で行なわれている。
ところで、この問題に対して、マルクスは、まず次のように答える。すな
わち、「一般的利潤率が低下しうるのは、ただ、1)剰余価値の絶対的な大き
さが減少する場合だけである。・・・・2)不変資本に対する可変資本の割合が
低下するかである。・・・・・・前貸資本中の可変資本に対する前貸資本の総額の
割合が大きければ大きいほど、不変資本が総資本のうちのより大きな部分を
しめればしめるほど、それだけいっそう同じ剰余価値率が小さな利潤率とし
て表現される」からである(MEGA、1634-1635)、と。
このうち、1)の場合については、「剰余価値の絶対的な大きさは、逆に資
本主義的生産の進展につれて増大する傾向がある」(MEGA、1634)と判断
してか、以下マルクスは、もっぱら、第2の論点から利潤率低下法則を説明
ー62ー

している。すなわち、「資本主義的生産の発展は、まさに可変資本・・・・ が、
資本の不変的構成部分・・・・にたいする割合においてたえず減少するという点
にある」(MEGA、1635)。「資本の総量に対する可変資本の割合が変化する
ことによって、利潤率は低下する、すなわち、資本の可変部分[ロシア語版
第2版『マルクス・エンゲルス著作集』第48巻、1980年では、資本総量とな
っている――松尾]に対する剰余価値の割合は、不変資本に対する可変資本
の割合が小さくなればなるほど、それだけいっそう小さいものとして表現さ
れる」(MEGA、1635)。「したがって、一般的利潤率の低下傾向は、資本の
生産力の発展、すなわち対象化された労働と生きた労働とが交換される割合
の上昇と同様である」(MEGA、1636)。
以上見るかぎりでは、マルクスは、もっぱら、生産力の発展のもつ諸作用
のうちの一つ、すなわち生産力の発展によって不変資本に対する可変資本の
割合が減少するという側面だけに注目して、この作用の結果として利潤率が
低下するという結論を導き出していると言えよう。したがって、マルクスの
念頭には、おそらく、次のような等式が存在していたと言えよう。資本主義
的生産の発展=生産力の発展=不変資本に対する可変資本の割合の減少=一
般的利潤率の低下傾向。
しかしながら、この草稿「第3章 資本と利潤」ではもはや、マルクスは、
かつての『要綱』でのように、生産力の発展のもつ他の重要な側面、すなわ
ち生産力の発展によって剰余価値率が上昇する という側面を完全に無視して、
生産力の発展につれて資本の有機的構成が高度化するという側面だけから利
潤率の低下法則を導き出し、それで法則の論証が完了したと考えている訳で
はない。というのは、マルクスは、生産力の発展のもつ重要な2つの側面―
―すなわち第一の、生産力の発展とともに不変資本に対する可変資本の割合
が減少するという側面と、第二の、生産力の発展によって剰余価値率が上昇
するという側面――を指摘し、この2つの要因をふまえたうえで、利潤率低
下法則を論定しようとしているからである。すなわち、マルクスは、まず、
生産力の発展のもつこの2つの作用とその相互関係について次のように述べ
ー63ー

ている。「生産力の発展は二重に現われる。剰余労働の増大に、すなわち必要
労働時間の短縮に、――そして、生きた労働と交換される資本の構成部分が
資本の総量、すなわち生産に入っていく資本の総価値と対比して減少するこ
とに、現われる。・・・・あるいは別の言い方をすると、次のようになる。すな
わち、充用される生きた労働の搾取の増大に、・・・・そして、一般に充用され
る生きた労働時間の相対量――すなわち生きた労働時間を動かす資本と対比
しての生きた労働時間の量――が減少することに、現われる。 両方の運動は、
ただ[いっしょに]進行するだけではない。それらは互いに制約し合ってお
り、同じ法則がそこに表題される異なった形態・現象にすぎない。とはいえ、
それらは、利潤率が考察されるかぎりでは、反対の方向に作用する。・・・・一
方では、剰余価値率が上昇し、他方では、この率に掛けられる因数が(比率
的に)減少する。生産力の発展が充用労働の必要(支払)部分を減らすかぎ
りでは、それは剰余価値率を高くするので、あるいはそれはパーセントで表
現される剰余価値を増大させるので、剰余価値を増大させる。しかし、生産力
の発展は、それが与えられた一資本によって充用される労働の総量を減少さ
せるかぎりでは、剰余価値率に掛ける因数を、つまり剰余価値の量を減少さ
せる」(MEGA、1637)。5)
ここでのマルクスの議論の主旨はこうである。すなわち、生産力の発展は、

5)この引用文とほぼ同じ叙述が現行『資本論』第3部第3篇 第15章 第2節 に見られる。
すなわち、「充用される労働力に関しても生産力の発展はやはり二重に現われる。第一
には、剰余労働の増大に、すなわち労働力の再生産に必要な必要労働時間の短縮に、現
われる。第二には、与えられた資本を動かすためには一般に充用される労働力の量(労
働者数)の減少に現われる。/両方の運動は、ただいっしょに進行するだけではなく、
互いに制約し合っており、同じ法則がそこに表現される二つの現象である。とはいえ、
それらは利潤にたいしては反対の方向に作用する。・・・・・一方では、一方の要因、剰余
価値率が上昇し、他方では、他方の要因、 労働者数が(相対的または絶対的に)減少す
る。生産力の発展が充用労働の支払部分を減らすかぎりでは、それは剰余価値率を高く
するので剰余価値を増大させる。しかし、生産力の発展は、それが与えられた一資本に
よって充用される労働の総量を減少させるかぎりでは、剰余価値量を算出するために
剰余価値率に掛ける因数を小さくする」 (Karl Marx, Das Kapital, Bd.3, MEW, 25,
Dietz Verlag,1964,S.257. 岡崎次郎訳『資本論』 E、 大月書店、 1972年、 404ペー
ジ)。

ー64ー

一方では剰余価値率を高めるが、他方では不変資本に対する可変資本の割合
を減少させる、そして、この2つの作用は、互いに制約し合いながらいっし
ょに進行し、利潤率の変動に対して反対の方向に作用する、ということである。
このように、利潤率の変動に対立的に作用する生産力の発展の2要因を指
摘したうえで、マルクスはひきつづいて、生産力の発展に伴なう剰余価値率
の上昇による利潤率低下の阻止には限界があり、したがって生産力の発展に
よる不変資本に対する可変資本の割合の減少とともに利潤率は低下せざるを
えないことを論定しようとしている。すなわち、「利潤率が同じままである
ためには、労働に投下される資本の大きさ、つまり可変資本の大きさが比率
的に減少するのと同じ割合でか、あるいは不変資本の大きさが比率的に増大
するのと同じ割合で剰余価値率(あるいは労働が搾取される率)が増大しな
ければならない。・・・・・それが可能なのは一定の限界内においてだけであり、
むしろ逆に、利潤の低下傾向――あるいは剰余価値率の増大と並行しての剰
余価値額の比率的な低下――が優勢であるにちがいないのであって、それは
経験によっても確認されている」(MEGA、1638)、と。
見られるように、マルクスは、剰余価値率上昇による利潤率低下阻止には
「一定の限界」があり、いずれ利潤率は低下せざるをえないと主張している
わけであるが、問題はその論拠である。マルクスは、さしあたり次のような
論拠を与えている。すなわち、「資本が新たに再生産し、そして生産した価
値部分は、資本によってその生産物中に直接吸収された生きた労働時間に等
しい。この労働時間の一部分は、労賃に対象化された労働時間を補填し、他
の部分はそれをこえると不払の超過分、剰余労働時間である。しかし、両者を
合計すると、生産された価値の全体を形成し、そして、この充用された労働
の一部分だけが剰余価値を形成する。標準日が12時間とすれば、単純労働を
する2人の労働者はけっして24時間以上を付加しえず、・・・・この24時間のう
ちの特定の部分が彼らの賃金を補填する。彼らが生産する剰余価値はあらゆ
る事情のもとで24時間の一可除部分でありうるにすぎない。24人の労働者の
かわりにたった2人が与えられた資本量で雇用される・・・ならば、すなわち、
ー65ー

与えられた資本量に対して旧い生産方法では24人の労働者が必要であったが、
新しい生産方法では2人の労働者が必要であるならば、旧い生産方法では剰
余労働が総労働日の 1/12すなわち1時間だったとすれば、生産力の増大は
――それがいかに剰余労働時間の率を上昇させようとも――2人の労働者が
旧い生産方法のもとで24人の労働者が提供したのと同じ剰余価値量を提供す
るようにはけっして作用しない」(MEGA、1638)、と。マルクスがここで述べ
ていることは、新生産方法の導入によって、同量の資本で雇用されるが労働
者が24人から2人に減少すれば、いかに剰余価値率が上昇しようとも、同じ
労働日であるかぎり、2人の労働者の生みだす剰余価値は旧い生産方法での
24人のそれ以上にけっしてなりえない、ということである。
したがって、ここでのマルクスの論証方法はこういうことであろう。すな
わち、「労働に投下された資本の大きさ、つまり可変資本の大きさが比率的
に減少する・・・・のと同じ割合で」剰余価値率が増大すれば、利潤率を同じ水
準に維持することができるが、しかしそれは「一定の限界内においてだけで
ある」、というのは、ある限界以上に「可変資本の大きさが比率的に減少」
すれば、剰余価値率の上昇によって剰余価値量を維持・増大させることが不
可能になるからである。
ところで、この種の論拠は、けっしてここだけのものではなくて、法則の
論証に際して、1861ー63年草稿でも『資本論』でも、マルクスがたえず持ち
出してくる論理である。6)
以上のような論証につづいて、マルクスは、利潤率低下法則について次の
ような定式化を行なっている。「したがって、一般に、平均利潤の率の低下
は次のことを表現している。すなわち労働あるいは資本の生産力の増大を、
それと同時に、一方では充用される生きた労働の搾取の増大と[他方では]
充用される生きた労働の量の相対的な減少を表現している」 ( MEGA, 1639)。
 以上の法則の論証と定式化につづいて、マルクスは、利潤率の低下にとも

6)続稿において詳しく検討する予定である。

ー66ー

なってはたして 利潤量がどのように変化するかという問題を検討している。
この問題に対するマルクスの考え方は、おおむね、『要綱』におけるそれと
同じであると言えよう。7) すなわち、「リカードはすでに、利潤率の低下に
伴なう利潤量の増大は絶対的ではなく、もしかすると資本の増大にもかかわ
らず利潤量が減少することさえありうることに気づいていた。奇妙にも彼は
それを一般的に把握せずに、ただ一つの例を与えただけである」(MEGA
1640)。「一般的に、利潤率が資本が増大するよりもゆるやかに低下するかぎ
り、利潤量は増大する・・・・。もし利潤が資本が増大するのと同じ割合で低下
すれば、資本の増大にもかかわらず利潤量は同じままであろう・・・・。最後に
もし利潤率が資本が増大するよりも大きな割合で低下すれば、利潤率ととも
に利潤量もまた・・・・・・減少するであろう・・・・・」(MEGA、1640)。
見られるように、 利潤率の低下の度合と資本蓄積の関係いかんによって、
利潤率の低下に伴なって利潤量が増大する場合もあれば、減少する場合もあ
り、また同じままである場合もあるということが、「一般的」な法則とされ
ているわけである。このような見地は、『資本論』第3部第3篇「利潤率の
傾向的低下の法則」の第13章「法則そのもの」での見地とは明らかにその基
調を異にしている。というのは、『資本論』では、利潤率の低下に伴なって
利潤量が増大することが「できる」というだけではなく、増大し「なければな
らない」ということが法則として定式化されているからである。 すなわち、
「利潤の絶対量は、利潤率の進行的低下にもかかわらず、増大することがで
きるし、またますます増大して行くことができるのである。ただそれができ
るだけではない。資本主義的生産の基礎上では――一時的な変動を別とすれ
ば――そうならなければならないのである」。8) 「生産・蓄積過程の進展につ
れて・・・・社会的資本によって取得される利潤の絶対量は増大しなければなら
ないのである。・・・・こうして、同じ諸法則が社会的資本にとっては、増大す

7)拙稿「『経済学批判要綱』における利潤率低下法則と恐慌」、『山形大学紀要(社会科
学)』第12巻第1号、1981年7月を見よ。
8)Marx,op. cit., S, 228. 訳、358ページ。

ー67ー

る絶対的利潤量と低下する利潤率とを生みだすのである」、9)と。
さらに、草稿「第3章 資本と利潤」では、この利潤率の低下に伴なって
利潤量がいかに変化するかという問題に関連して、「付随的に」(MEGA
1640)、マルクスは、「いわゆる資本の過多」・週期的に生じる「過剰生産」・
「資本の週期的過剰生産」・「資本の週期的過多」の問題や、利潤率低下に対
するイギリスの経済学者たちの不安に言及している(MEGA、1640-41)。10)
以上、草稿「第3章 資本と利潤」第7節「資本主義的生産の進展におけ

9)ibid., S, 229. 359ページ。
10)ここには、 のちに『資本論』第3部第3篇第15章第3節該当部分においてほぼそのまま
利用されることになったと思われる次のような叙述が存在する。すなわち、「このような
利潤率の低下につれて、 資本の最小限―あるいは資本家の手中への生産手段の集積の
必要とされる高さ―が増大する。 この最小限は、一般に、労働を生産的に充用するた
めに、すなわち労働を搾取するためにも、ある生産物の生産のために社会的に必要とさ
れる必要労働時間を充用するためにも、必要である。それと同時に蓄積すなわち集積も
増大する。なぜならば、利潤率の低い大資本のほうが、高い利潤率の小資本よりも速く
蓄積するからである。この集積の増大は、それ自身また、ある高さに達すれば、利潤率
の新たな低下をひき起こす。それゆえ、分裂した小資本の大群は冒険にのりだす。ここ
から恐慌が生じる。いわゆる資本の過多は、つねに利潤率の低下が利潤の量によって償
われない資本の過多にのみ関連する。(フラートンを見よ。)」(MEGA、1640――Vgl.
ibid., S.261, 訳、409-410ページ)。「利潤率は、資本主義的生産では推進力であって、
ただ利潤をともなって生産されうるものだけが、ただそういうものであるかぎリでのみ、
生産されるのである。それゆえ、イギリスの経済学者たちは利潤率の低下を心配するの
である」(MEGA、1640);「この単なる可能性がリカードに(マルサスやリカード派に
も)不安を感じさせるということは、まさに資本主義的生産の諸条件にたいする彼の深
い理解を示すものである。リカードが非難される点すなわち、彼が「人間」を顧慮しな
いで資本主義的生産の考察ではただ生産力の発展だけを―それがどのような犠牲をも
ってつねにあがなわれようとも―分配とそれゆえ消費を気にすることなしに――眼中
におくということ、まさにこれこそは彼の説の重要点なのである。社会的労働の生産力
の発展は、資本の歴史的な任務であり、弁明理由である。まさにそれによって資本は無
意識のうちにより高度な生産形態の物質的諸条件をつくりだすのである。リカードに不
安を感じさせるのは、資本主義生産の刺激であリ蓄積の条件でもあれば推進力でもある
利潤率が生産それ自身の発展によって脅かされるということである。そして、ここでは
量的関係がすべてである。/じつはなにかもっと深いものが根底にあるのであるが、彼
はそれをただ予感するだけである。ここでは、資本主義的生産の制限――その相対性、
すなわち、それが、けっして絶対的な生産様式ではなくて、ただ物質的な生産条件のあ
る局限された発展期に対応する一つの歴史的な生産様式でしかないということが、純粋
に経済学的な仕方で、すなわち資本主義的生産そのものの 立場から、 示されている」
(MEGA、1641―Vgl. ibid., S, 269 f. 訳422-423ページ)。

ー68ー

る利潤率低下の一般的法則」の第1部分(ノート ]Y・999ー1006)を概観
したが、その結果、われわれは、この部分におけるマルクスの利潤率の低下
法則、とりわけ法則の論証について次のようなことが言えよう。すなわちま
ず第一に、すでに見たように、『要綱』では、マルクスは、生産力の発展と
ともに剰余価値率が上昇するということを十分承知していながら、剰余価値
率不変を前提したうえで、生産力の発展とともに不変資本部分に対する可変
資本部分の割合が減少するという側面だけから利潤率低下法則を論定しよう
としていたのに対して、この「草稿」では、生産力の発展につれて、一方で
は不変資本に対する可変資本の割合が減少するとともに、 他方では剰余価値
率が上昇するということ、そして、これらの両要因が利潤率の変動に対して反
対方向に作用することを確認したうえで、両作用の対抗運動のなかで利潤率
低下法則を論定しようとしているということ。第二に、問題は論証の仕方で
あるが、すでに見たように、草稿「第3章 資本と利潤」第7節の第1部分
では、次のような論証が行なわれている。すなわち、生産力の発展につれて
不変資本に対する可変資本の比率が減少していくとしても、不変資本に対す
る可変資本の比率が減少するのと同じ割合で、あるいは、それ以上の割合で、
剰余価値率が上昇するかぎり、利潤率は同じままであるか、あるいは上昇し
さえする。しかし、このように剰余価値率が上昇による利潤率低下の阻止が
可能なのは、「一定の限界内においてだけであり」、不変資本に対する可変資本
の割合がある限度以上に減少すれば、もはや剰余価値率がいかに上昇しよう
とも利潤率の低下を阻止しえない。たとえば、新しい生産方法の導入によっ
て、「与えられた資本量」で雇用されている労働者が24人から2人に減少す
れば、しかも標準労働日が12時間のままであり、旧い生産方法のもとでの剰
余労働が労働日の1/12であったとすれば、新しい生産方法において剰余価値
率がいかに上昇しようとも、「与えられた資本量」に対する剰余価値量の減
少は必至であり、したがってもはや剰余価値率が上昇によって利潤率の低下
を阻止することは不可能である。
以上が、生産力の発展による剰余価値率の上昇という要因をふまえたうえ
ー69ー

での、最初の、しかも『資本論』においても採用されている論証方法である
が、それは、要するに、「一定の限界」に達するまでは剰余価値率の上昇に
よる利潤率の低下阻止が可能であり、「一定の限界」に達してはじめて利潤
率が低下しはじめることを示したものである。つまり、それは、生産力の発
展につれて不変資本に対する可変資本の割合が減少してゆけば、途中剰余価
値率の上昇によって利潤率が多少上昇したり同じ水準にとどまったりするこ
とはあっても、必ずや究極的に利潤率は剰余価値率の上昇にもかかわらず低
下せざるをえなくなることを示したものであると言えよう。
ところで、草稿「第3章 資本と利潤」および「雑録」では、マルクスは
以上のような論証方法、すなわち剰余価値率の上昇による利潤率低下の阻止
はある程度可能かもしれないが、いずれは「限界」に達するという論法(以
下「限界」論と呼ぶ)だけに依拠して利潤率低下法則を論証しようとしてい
たわけではない。マルクスは、以上見た第一部分以外の随所において、より
積極的に、生産力の発展に伴なう不変資本に対する可変資本の割合が減少の
仕方・度合と剰余価値率の上昇率とを直接対比して、後者よりも前者の方が
大であることを明らかにすることによって、生産力の発展の結果、不変資本
に対する可変資本の割合が減少するにつれて、他方で同時に剰余価値率が上
昇する場合でさえ、利潤率が低下することを論証しようとしている。
たとえば、マルクスは次のように述べている。「生産力の発展は、(労働者
の消費に直接または間接に入っていく生活手段を生産する)いろいろな産業
部門のあいだで非常に不均等であり、ただ程度から見て不均等であるだけで
なく、しばしば反対の方向に不均等だから、労働の生産性は、同じく、労働
の生産性が増大するのに他方では生産性を減少させうる自然条件に束縛され
ているから、・・・・・・この平均的剰余価値は(最も目立つ)個別的産業部門での
生産力の発展にしたがって推測しうる水準よりもずっと低くならなければな
らないということになる。このことはまた、なぜ剰余価値率は上昇するにし
ても、可変資本が総資本との割合で減少するとの同じ割合では増大しないか
ということの主要根拠である。そういうことが生じるのは、・・・・可変資本が
ー70ー

固定資本に対して最も大きく低下するこれらの産業部門が同じ割合でそれら
の生産物を労働者の消費に入りこませる場合だけであろう。しかしここで例
えば、工業生産物と、その割合がまさに逆になっている農業生産物との関係
をとろう」(MEGA、1660-1661――以下これを[引用文A]と呼ぶ)。
「労働者の消費のための生産物を直接にまたは間接的につくるすべての産
業部門において生産力が均等に増大するとすれば、剰余価値が増大する割合
は、生産力が増大する割合に照応しうるであろう。しかし、これはけっして
ありえない場合である。生産力はこれらのいろいろな部門で非常にさまざま
な比率で増大する。しばしば生じるのは――(一部にこのことは競争の無政
府性やブルジョア的生産の独自性から生じ、――一部に労働の生産力はまた
生産性が社会的諸条件に依存するかぎり、生産性が上昇するのと同じ割合で
はしばしば不生産的になる自然的諸条件に束縛されているということから生
じる――)これらのいろいろな部面での反対運動であり、労働の生産性はあ
る部面で上昇し、他方他の部面では低下するということである。[たとえば、
産業のあらゆる原料の大部分が依存する季節のたんなる影響、森林、石炭層、
鉄山等の枯渇を想起せよ]。それゆえ、平均的な総生産性の増大は、この増
大が若干の特殊的部面やその生産物が労働者の消費に入る産業の主要部門の
一つでこれまでに現象するよりも無条件的にはるかに小さい。農業では工業
での生産力の発展と歩調を保つどころではない。他方では、多くの産業部門
での生産力の発展は労働能力の生産、つまり相対的剰余価値に直接にも間接
にも影響を及ぼさない。・・・/それゆえ、剰余価値の増大は、特殊的生産部門
での生産力の増大にけっして比例しないし、第二にまた、すべての産業の部
門での資本の生産力の増大よりもつねに小さい。(だからまたその生産物が
労働能力の生産に直接的にも間接的にも入っていかない部門での資本の生産
力の増大よりも小さい。)」(MEGA、1664ー1665――以下これを[引用文B]
と呼ぶ)。11)

11)[引用文A]と[引用文B]とから合成したような文章が、 現行『資本論』第3部
第3篇第15章第4節冒頭に見られる。すなわち、「労働の生産力の発展はいろいろな

ー71ー

  これらの議論をふまえて、さらに、マルクスは、「雑録」部分の「利潤率
の低下」という表題をもつ部分において、次のような結論を述べている。す
なわち、「研究の結果はこうである。第一に、剰余価値率は、生産力の増大あ
るいは充用される労働者数の(比率的)減少に比例して上昇しない。資本は
生産力に比例しては増大しない。または剰余価値率は、可変資本が資本の総
額と比べて減少するのと同じ割合では上昇しない。だから剰余価値の比率的
な大きさの減少。だから利潤率の低下。利潤率のたえざる低下傾向」(MEG
、1677――これを以下[引用文C]と呼ぶ)。
草稿「第3章 資本と利潤」第7節の第1部分では、 すでに見たように、
マルクスは、生産力の発展とともに不変資本に対する可変資本の割合が減少
するにしても、他方で剰余価値率が上昇すれば、 「一定の限界内において」
は利潤率の低下が阻止されうるのであって、「一定の限界」以上に不変資本
に対する可変資本の割合が減少すれば、利潤率は低下するということを主張
していたが、いまやマルクスは、生産力の発展とともに進展する不変資本に
対する可変資本の割合の減少の度合と剰余価値率の上昇とを直接対比し、前
者が後者に勝ることを論証することによって、うえの「限界」内でも利潤率

産業部門のあいだで非常に不均等であり、しかもただ程度から見て不均等であるばかり
でなく、しばしば反対の方向に進むのだから、平均利潤(=剰余価値)の量は、最も進
んだ産業部門での生産力の発展から推測されるような高さよりもずっと低くならなけれ
ばならないということになる。いろいろな産業部門での生産力の発展が非常にさまざま
な比率で進むだけでなく、しばしば反対の方向をとるということは、単に競争の無政府
性やブルジョア的生産様式の独自性だけから生じるのではない。労働の生産性はまた自
然条件に結びついているが、この自然条件は、生産性― 社会的諸条件によって定まる
かぎりでの― が上昇するのと同じ割合でしばしば生産的でなくなる。それゆえ、これ
らのいろいろな部面で反対の運動が起き、こちらでは進歩があちらでは退歩が起きる
のである。たとえば、あらゆる原料の大部分の量が依存する単なる季節の影響、森林、
炭坑、鉄鉱山などの枯渇を考えてみればよい」(ibid., S.270.訳、423-424ページ)。こ
の『資本論』での文章と草稿「第3章 資本と利潤」での文章とのあいだには、小さな
文言上の相違のほかに重要な相違が見られる。草稿「第3章 資本と利潤」中に存在す
る、「このことはまた、なぜ剰余価値率は上昇するにしても、可変資本が総資本との割
合で減少するのと同じ割合では増大しないかということの主要根拠である」(MEGA
1661)という文章は、法則の論証にとって非常に重要な意味をもつ文章であるにもかか
わらず、『資本論』には存在しない。はたして『資本論』第3部「主要原稿」にも存在
しないのかどうか確認する必要があろう。

ー72ー

の低下傾向を論定しうると考えているようである。
それを端的に表現しているのが[引用文C]である。しかし、問題はこの
ような結論を引き出すことができるための根拠である。[引用文A]および
[引用文B]において、マルクスはそれを提示しようとしている。そこで以
下、両引用文の内容を詳しく分析してみよう。
まず[引用文A]から見ることにしよう。
ここでの論理の運びはこうである。すなわち、まず、@「生産力の発展は
(労働者の消費に直接または間接に入っていく生活手段を生産する)いろい
ろな産業部門のあいだで非常に不均等であり、たんに程度から不均等である
ばかりでなく、たびたび反対の方向に不均等」であり、また「労働の生産性
は、同じく、労働の生産性が増大するのに他方で生産性を減少させうる自然
的諸条件に束縛されている」と述べ、次に、ここからマルクスは、A「平均
的剰余価値は(最も目立つ)個別的産業部門での生産力の発展にしたがって
推測しうる水準よりもずっと低くならなければならない」という結論を引き
出している。 この@Aによってマルクスが主張していることは、 要するに
《生産力の発展はいろいろな生産部門のあいだで非常に不均等である》したが
って《社会全体の平均的な剰余価値率は生産力の発展の最もめざましい生産
部門でのそれよりもずっと低い》、ということである。この@とAからさら
に、マルクスは、B「剰余価値率は、上昇するにしても、可変資本が総資本
との割合で減少するのと同じ割合では増大しない」という結論を導き出して
いる。
ところで、@「生産力の発展は、(労働者の消費に直接または間接に入っ
ていく生活手段を生産する)いろいろな産業部門のあいだで非常に不均等」
であるということを論拠にして、B「剰余価値率は、上昇するにしても、可
変資本が総資本との割合で減少するのと同じ割合では増大しない」という結
論を引き出すマルクスの推論が理論的に見てはたして妥当なものであるのか
どうかの検討はここでは惜くとして、いま一つの推論、すなわち、A「平均
剰余価値は(最も目立つ)個別的産業部門での生産力の発展にしたがって推
ー73ー

測しうる水準よりもずっと低くならなければならない」という命題からBを
導き出すマルクスの推論には、理論的に無理があると言わざるをえない。と
いうのは、Bでは、社会全体としての剰余価値率の上昇率を社会全体として
の総資本に対する可変資本の割合の減少の度合とが対比させられ、前者が後
者よりも大であることが述べられているのに対して、Aでは、社会全体として
の剰余価値率(=平均的剰余価値率)と最も生産力の発展が目ざましい生産
部門での剰余価値率とが対比させられ、前者が後者よりもずっと低いという
ことが述べられており、AとBのあいだには明らかに論理次元のズレが存在
するからである。
ともあれ、[引用文A]では、マルクスは生産力の発展が労働者の消費に
直接にまたは間接的に入っていく生活手段を生産するいろいろな産業部門の
あいだで不均等に発展するということから、剰余価値率は総資本に対する可
変資本の割合が減少するのと同じ割合では増大しないという命題を引き出し
ていることがわかる。
次に、[引用文B]でのマルクスの議論を見ることにしよう。ここでのマ
ルクスの論理の運びを要約すると次のようになろう。すなわち、「労働者の
消費のための生産物を直接にまたは間接的につくるすべての産業部門におい
て生産力が均等に増大するとすれば、剰余価値が増大する割合は、生産力が
増大する割合に照応しうるであろう」。しかし、現実には、「生産力はこれら
のいろいろな部門で非常にさまざまな比率で増大する。・・・・農業では工業で
の生産力の発展と歩調を保つどころではない」。また、生産力の発展が「労
働能力の生産、つまり相対的剰余価値の生産に、直接にも間接にも影響を及
ぼさない」産業部門も多くある。したがって、「剰余価値が増大する割合」
は「生産力が増大する割合」よりも小である、と。以上、要するに、生産力
の発展は、「労働者の消費のための生産物を直接にまたは間接的につくる」
いろいろな生産部門で不均等に進むため、また、生産力の発展が労働能力の
生産、 相対的剰余価値の生産に少しも関係しない生産部門も多くあるため、
「剰余価値が増大する割合」は「生産力が増大する割合」よりもつねに小さ
ー74ー

い、ということである。
ところで、いま、生産力の発展と不変資本に対する可変資本の割合の減少
とが並行的に進むものと想定すれば、――マルクスはここでそのような想定
をしているものと思われるが、生産力の発展による不変資本要素の低廉化と
いう要因を考慮した場合、12)このような想定が理論的に妥当なものかどうか
大いに疑問である――「剰余価値が増大する割合」は「生産力が増大する割
合」よりも小さいという命題は、「剰余価値が増大する割合」は不変資本に
対する可変資本の比率が減少する割合よりも小であるということと同義であ
るということになろう。とすれば、[引用文A]と同様にここでも、マルク
スは、生産力の発展は「労働者の消費のための生産物を直接にまたは間接的
につくる」いろいろな生産部門のあいだで不均等であるということから、剰
余価値率の上昇率は不変資本に対する可変資本の割合の減少率よりも小であ
るという命題を引き出していると言えよう。(両引用文に見られる論証方法
を、以下「不均等発展」論と呼ぶことにする)。
ともあれ、以上見たような議論をふまえてはじめて、マルクスは、次のよ
うな「研究の結果」を提示することができたのである。「剰余価値率は、生産
力の増大あるいは充用される労働者数の(比率的)減少に比例して上昇しな
い。・・・・剰余価値率は、可変資本が資本の総額と比べて減少するのと同じ割
合では上昇しない。・・・・・だから利潤率の低下。利潤率のたえざる低下傾向」
(MEGA、1677)。
ところで、この「不均等発展」論は、剰余価値率の上昇率と不変資本に対す
る可変資本の割合の減少率を直接対比し、後者が前者に勝ることを論証し、も
って利潤率低下法則を論定しようとするものであり、論証のあり方としては、
さきに見た「限界」論よりは勝れた方法であると言えよう。しかし、「限界」論
が少なくとも理論的に理解容易であるのに対して、「不均等発展」論は、[引用

12)少なくとも1861ー63年草稿では利潤率低下法則の論証に際して、たいていの場合、マ
ルクスは、この問題を十分に検討せずに、生産力の発展と不変資本に対する可変資本の
割合の減少とが並行関係にあると想定し、そのうえでもっぱら剰余価値率が生産力の
発展に及ばないことを論証しようとしているように思われる。

ー75ー

文A][引用文B]で見るかぎり、十分納得しうる説明がなされているとは思
われない。というのは、マルクスは《生産力の発展は労働者の消費のための生
産物を直接にまたは間接的に生産するいろいろな産業部門のあいだで不均等
である》ということから、《剰余価値率の上昇率は不変資本に対する可変資本
の割合の減少率よりも小である》という命題を引き出しているが、なぜこのよ
うな推論が行なわれうるのかという点が、両引用文を見るかぎり、かならずし
も明らかにされているとは思われないからである。 しかしながら、 ここで
「不均等発展」論が論証として妥当なものではないと裁断するのは至当ではな
い。この論証方法は、もう一方の「限界」論と同様に、1861ー63年草稿におい
て、法則の論証に際して、たびたび登場しさらに立ち入った説明が加えられ
ていく。したがって、われわれは、1861ー63年草稿における利潤率低下法則論
の形成過程を――うえで見た2つの論証方法の彫琢過程を中心にして――さ
らに追跡したのちに、この論証方法の理論的妥当性を問うことにしよう。

W 小括
以上、本稿では、われわれは、1861ー63年草稿中の前半期に執筆されたと
推定される草稿「第3章 資本と利潤」第7節「資本主義的生産の進展にお
ける利潤率低下の一般的法則」および「雑録 」(ノート]Y・999―]Z・
1028)におけるマルクスの利潤率低下法則論を、法則の論証と定式化に問題
関心を絞って、詳しく見てきたが、その結果、ここでの法則の論証方法につ
いて次のような点を指摘することができよう。
第一に、『要綱』の場合とちがって、生産力の発展による剰余価値率の上
昇という要因をもふまえたうえで法則の論証を行なおうとしている。
第二に、剰余価値率の上昇にもかかわらず、利潤率が低下せざるをえない
ことを論証するためにマルクスが採用した方法は次の2つである。第一の方
法は、生産力の発展とともに不変資本に対する可変資本の割合が減少しても
それ以上に他方で剰余価値率が上昇すれば、利潤率の低下が阻止されうるが
しかしそれが可能なのは「一定の限界内においてだけであり」、不変資本に

ー76ー

対する可変資本の割合がその「限界」をこえて減少すれば剰余価値率の上昇
(とそれに伴なう剰余価値量の増大)による阻止が不可能になるということ
を根拠にして、利潤率の低下法則を論証しようとする方法である。 これは、
要するに、剰余価値率の上昇による阻止作用の「限界」に根拠をもとめる方
法であり、この論証方法をわれわれは「限界」論と呼ぶことにする。この方
法は、「限界」内では低下阻止が可能であることを認める議論となっており、
論証として限界のあるものと言わざるをえない。
これに対して第二の方法は、生産力の発展は労働者の消費のための生産物
を直接にまたは間接的に生産するいろいろな産業部門のあいだで不均等であ
るという事実認識から、剰余価値率の上昇率は不変資本に対する可変資本の
割合の減少率に及ばないという命題を引き出し、それを根拠にして利潤率低
下法則を論定しようとする方法である。この方法の特徴は、剰余価値率の上
昇率と不変資本に対する可変資本の割合の減少率とを直接対比させ、後者が
前者に勝ることを明らかにし、第一方法で見た「限界」内においてさえ利潤
率が低下することを論証しようとする点にあり、この論証方法をわれわれは
「不均等発展」論と呼ぶことにする。もしこれにマルクスが成功することが
できれば、それ以上の法則の論証はありえないが、しかし、以上見たかぎり
では、剰余価値率の上昇率が不変資本に対する可変資本の割合の減少率に及
ばないという命題の、十分納得しうる、あるいは理論的に理解容易な証明を
マルクスが行なっているとは筆者には思われない。
ともあれ、以上、われわれは、草稿「第3章  資本と利潤」および 「雑
録」には、利潤率低下法則を論証するための2つの方法が存在することを確
認したわけであるが、それらは、次ぎに見る1861ー63年草稿中の「剰余価値に
関する諸学説」部分その他においてたびたび登場し、マルクスによって練り
上げられていくことになる。
次に稿を改めて、「剰余価値に関する諸学説」部分その他における利潤率
低下法則論の形成過程を、この2つの論証方法の彫琢過程を中心にして、詳
しく見ることにしよう。 (まつお じゅん・経済学部助教授/1984.10.4受理)
ー77ー