『経済経営論集』(桃山学院大学)第26巻第1号、1984年6月発行

  

1861-63年草稿記載の「第3章
資本と利潤」の作成時期について
 

 

松尾 純

 

 

 T.はじめに
1861−63年草稿ノートY−]X記載の「5.剰余価値に関する諸学説」(以下
「諸学説」と略記する )と同じく ノート]Yおよび ノート ]Z冒頭記載
の「第3章 資本と利潤」および「雑録」の先後関係について、われわれは、
これまでほとんど無批判的に、「諸学説」が「第3章 資本と利潤」および
「雑録」以前に執筆されたとするMEGA 編集部の見解を受け入れてきた。
とこらが、最近、このMEGA編集部の見解に対して、大村泉氏らによって
異論が表明されている。それは、「第3章 資本と利潤」および「雑録」が
「諸学説」以前に執筆されたとする見解である。1)


1)この議論に関係する論文として次のものがある。@大村泉「一般的利潤率・生産価格
と剰余価値の利潤への転化」『北海学園大学経済論集』第30巻第3号、1982年12月。A
大村「生産価格と『資本論』第3部の基本理論 (上) (中) (完)」 『経済』227、 228、
229号、1983年3、 4、 5月。B吉田文和「『剰余価値学説史』と「機械論草稿」」『経
済』234号、1983年10月。C服部文男「マルクス・エンゲルス研究の最近の動向と課題」
『経済』237号、1984年1月。D大村「論文集『「資本論」第二草稿』(Der zweite Enー
twurf des》Kapital《)(ベルリン、1983年)の刊行によせて(上)」『経済』240号、1984
年4月。E吉田「ふたたび『機械論草稿』について」『経済』241号、1984年5月。同稿
には、「<付記>原信子氏の批判に接して」の「二」として大村氏執筆の「草稿「第3章
資本と利潤」=1962年12月作成説にたいして」が収められている。「第3章 資本と利
潤」および「雑録」の執筆時期に関して(機械論のそれは除く)、大村・吉田説を支持
するものとしてF佐竹弘章「『剰余価値学説史』執筆の動機とその『資本論』成立史
への影響について」『社会問題研究』第32巻第1号、1983年10月。
以上の大村氏らの見解に反対して、「諸学説」先行説あるいは「第3章 資本と利潤」

ー85ー

  いずれの見解においても、資料考証とそれに対する理論的根拠づけが行な
われているが、いま、資料考証上の問題に限って両者の見解をまとめてみよ
う。まず、MEGA編集部の解釈・推定はこうである。すなわち、1861−63
年草稿の「第3の段階は、1862年12月に『資本と利潤』の項目……のための
一つの草稿を書くことで始まった。 この草案を含んでいるノート第16冊を、
マルクスははじめ『最終ノート〔Heft ultimum〕』と呼んだ。つまりマルク
スは、このノートでこの草稿の仕事に締めくくりをつけようと考えたのであ
る。そういうつもりで、彼は1982年12月28日にルイ・クーゲルマンにあてて
次のように書いた、――『第2の部分はいまやっとできあがったところです。
つまリ印刷するために清書し最後の仕上げをするところまできています』。…
ところが、『資本論』……のための清書を書くかわりに、 1863年の1月から
7月にかけてマルクスはさらに7冊のノートを書いていった。はじめ1863年
1月に彼がつくったノートは、まだ『最終ノート2〔Heft Ultimum 2〕』で
あった。この2冊の『最終』ノートには、その後、16および17というノート
番号がつけられた」。2)「ノート第14冊(771−861ページ)およびノート第15
冊(862−973ページ)には、1862年10月という日付が書かれている。ノート
第15冊の仕事は11月まで続けられたのであって、それは、ノート第17/18冊
の表紙に『1029ページからは、ノート第15冊の続き。(1862年10月および11
月)』とマルクスが記入しているところから明らかである。……/1862年12
月に、マルクスは ノート第16冊(974−1021ページ)を書いた。彼はこのノ
ートの表紙にも『12月』と書いた。/ノート第17冊(1022−1065ページ)お
よびノート第18冊(1066−1158ページ)は、どうやら1枚の共通の表紙をも
っていたようである。いまそれは、ノート第18冊のところに保存されている

=1862年12月作成説をとるものとして、GW.Focke,Zur Geshichte des Textes,seー
iner Anordnung und Datierung, in: Der zweite Entwurf des》Kapitals《,Dietz
Verlag,Berlin,1983.H原伸子「『資本論』草稿としての「1861−63年草稿」について
(1)」『経済志林』第51巻第4号、1984年3月。
2)Karl Marx/Friendrich Engels Gesamtausgabe, Abt. U, Bd.3, Apparat. Teil 1,
S.10.『マルクス資本論草稿集』C、大月書店、1978年、「成立と来歴」44−45ページ。

ー86ー

……。マルクスのこの表紙での日付は、 『1862年1月』となっている。この
誤った年号は、マルクスがこのノートを書き始めたのが、彼が新しい年号に
まだあまりなれていなかった 1863年1月であったことを推測させる」、3)と。
見られるように、MEGA編集部は、「最終ノート2」=ノート]Zの表紙
の日付「1862年1月」は「1863年1月」の誤記であり、「最終ノート」=ノー
ト]Yの表紙の日付「12月」は 1862年の「12月 」のことであり 1862年 12
月28日付の手紙における「第2の部分はいまやっとできあがった」という文
面はこの「最終ノート」の作成をつたえたものである、と考えているわけで
ある。
これに対する大村氏の解釈・ 推定はこうである。 すなわち、ノート]Z
とノート ][の「共通の表紙における『ノートの終わり、2。 ……』に対
応するのは、『……ノート終わり。……』としてのノート]Y、すなわち草
稿第3章『資本と利潤』にたいする ノート ]Z、1022−1028ページ記載の
『雑録』に限定されるであろう。したがってまた、この『ノート終わり、2
……』の1行下の日付、『1862年1月』は、 これを『雑録』の起筆時期にか
かわる日付と理解することがもっとも合理的であろう。他方、『1862年10月
および11月』という日付は、ノート]Xの末尾と ノート]Z、1029ページ
以降の2個所にまたがって展開されている、草稿の『商業資本・貨幣取り扱
い資本』論にかかわる日付と理解することが、これまたもっとも合理的であ
ろう。/……そうだとすれば、……ノート]Yの表紙における『12月』は、
これを1861年12月と理解するほかないであろう。なんとなれば、『ノート終
わり、2。……』としてノート]Zが『1862年1月』に起筆されたとすれば、
『…… ノート終わり。……』としてのノート]Yの表紙における 『12月』
が『1861年12月』と理解されるのは必定だからである」。4)「1862年12月28日
付のクーゲルマンにあてた手紙でマルクスのいう、『第2の部分はいまよう

3)ibid.,S.14。同上、52−53ページ。
  4)大村論文A(完)、304ページ。

ー87ー

やく完了し、印刷のための浄書と最後の仕上げをするまでになっています』
という一句」5)は、「プラン草案を先取りした考察がひとまず完了した、とい
うこと、すなわち、『エピソード。貨幣の還流運動』の考察が、 完了した、
ということを念頭においた一句として、あるいはプラン草稿の作成を念頭に
おいた一句として、あるいはまた、 ノート][の擱筆を、 すなわち、『剰
余価値に関する諸学説 』の作業が完了したことを念頭においた一句として、
理解するほうがはるかに合理的かつ説得的であろう」、5)と。 以上要するに、
大村氏は、 ノート]Yの表紙の日付「12月」は1861年の12月のことであり、
ノート ]Zの表紙の日付「 1862年1月 」は MEGA 編集部の言うような
マルクスの誤記ではない、と推定されるわけである。
以上のような推定にもとづいて、 MEGA 編集部は、ノート]Yおよび
ノート]Z冒頭記載の「第3章 資本と利潤 」および「雑録 」はノートY
−]X記載の「諸学説」(1862年3月ー11月執筆と推定)以降に執筆された
と主張し、これに対して大村氏は、「第3章 資本と利潤」および「雑録」
は「諸学説」の起筆(1862年3月 )に先行する 1861年12月―1862年3月に執
筆されたと主張されるのである。
筆者の見るところ、資料考証上の問題として見るかぎり、どちらの見解も
それなりの妥当性をもっており、ただちにどちらが誤っていると断じるわけ
にはいかないように思われる。 というのは、 この問題、すなわち、ノート
]Z の表紙の日付「1862年1月 」は正しい日付なのか、 それとも「1863年
1月 」の誤記であるのかという問題、 あるいは、 ノート]Yの表紙の日付
「12月」は1861年の12月なのか、それとも1862年の12月なのかという問題は、
資料考証だけをもってしては解決不可能であって、「第3章 資本と利潤」お
よび「雑録」と「諸学説」との理論内容の比較検討をまってはじめて解答を
与えうる問題であると思われるからである。MEGA 編集部にしろ、大村氏

5)大村論文A(中)、160−161ページ。

ー88ー

にしろ、それぞれ、純粋な資料考証に終始することなく、理論内容の発展関係
の検討を行なっているのは、まさにそうした事情があるからではなかろうか。
したがって、「第3章 資本と利潤」および「雑録」が「諸学説」の起筆
に先行して執筆されたのかどうかを判断するためには、MEGA 編集部や大
村氏による資料考証はもちろんのこと、それぞれが提示されている理論的根
拠を詳しく検討し、それらに対するわれわれの積極的見解を提示しなければ
ならないわけである。しかしそうした本格的な検討は、別の機会に稿を改め
て行なうことにして、以下本稿では、筆者が、大村氏と同様に、しかし、氏と
は異なる根拠をもって、「第3章 資本と利潤」および「雑録」が「諸学説」
に先行して執筆されたと判断する理由の一端を示すことにしたい。
筆者が以下で明らかにしようとすることは、「生産価格」概念および「資
本の有機的構成」概念を表わす用語(あるいはそれに関わる用語)が1861−
63年草稿において一定の変化を示しており、その変化の仕方から判断すると
「第3章 資本と利潤」および「雑録」は「諸学説」の擱筆後に執筆された
と考えることができない、ということである。『資本論』第3部のマルクス
による「最初の仕上げ」(『資本論』第2部「序文」)とも言うべき「第3章
 資本と利潤」が、1861−63年草稿においてもつ位置を確定するために、「生
産価格」概念・「資本の有機的構成」概念を表わす用語の変遷過程を取り上げ
ることの意義は、説明するまでもないであろう。

U「生産価格」概念を表わす(あるいはそれに関わる)
用語の変遷からの推定

@1861−63年草稿ノートU・88において、マルクスは次のように述べて
いる。「生産費は、生産物の生産に必要な労働時間(労働材料と手段とに含ま
れている労働時間も、また労働過程で新たに付加される労働時間も)の総計
に……帰着するのである。……われわれはもっとあとの展開のところではじ
めて、生産費の定式に立ち入る機会を得ることになろう。(すなわち、資本

ー89ー

と利潤のところで。そこでは次のことによって一つの二律背反がはいってく
る。一方では、生産物の価値は生産費に、すなわち生産物の生産のために前
貸しされた価値に等しい。他方では……生産物の価値は、それが剰余価値を
含んでいるというかぎりでは、生産費の価値よりも大きい。 これはつまり、
次のことを意味している。生産費は、資本家にとっては彼によって前貸しさ
れた諸価値の総計だけであり、したがって生産物の価値は、前貸された資本の
価値に等しい。他方、生産物の現実の生産費は、そのなかに含まれている労働
時間の総計に等しい。ところが、そのなかに含まれている労働時間の総計は、
資本家によって前貸しされた、あるいは支払われた労働時間の総計よりも大
きいのである。そして、資本家によって支払われた、あるいは前貸しされた
価値を越える、生産物のこの剰余価値こそ、まさに剰余価値なのであり、わ
れわれの規定では、利潤がそれから成っているところの絶対的大きさなので
ある)(MEGA6)145;草稿集C259ー260)。以上要約すると、「資本家にとっ
て」の「生産費」は、「彼によって前貸しされた諸価値の総計」つまりc+
vに等しい、「現実の生産費は、そのなかに含まれている労働時間の総計」
つまりc+v+mに等しい、したがって「剰余価値」は「現実の生産費」・
マイナス・「資本家によって……前貸しされた価値」に等しい、ということ
である。因に、 このような「生産費」規定は、 『経済学批判要綱』第3篇
「果実をもたらすものとしての資本」における「生産費」規定と近似してい
ると言えよう。すなわち、「利潤に対して、生産において前提された資本の
価値は、前貸――生産物で補填されなければならない生産費――として現わ
れる。……剰余労働……は、資本にとってはなんの費用もかからないもので

6)Karl Marx,Zur kritik der politischen Ökonomie (Manuskript1861-63), in : Karl
Marx/Friedrich Engels Gesamtausgabe, Abt.U, Bd.3, Teil 1,1976;Teil 2, 1977;
Teil 3,1978;Teil 4,1979;Teil 5,1980;Teil 6,1982, Dietz Verlag. 以下、この書を
MEGAと略記する。引用に際しての訳文は、とくに断らないかぎり、Teil 1,2,3,4
部分については、資本論草稿集翻訳委員会訳『マルクス資本論草稿集』大月書店、C、
1978年;D、1980年;E、1981年;F、1982年――以下、草稿集CDEFと略記する――
に従う。以下、 この書からの引用に際しては、 引用文直後にMEGAの引用ページ
と草稿集の引用ページを次のように略記して示す。例、(MEGA、125;草稿集D156)

ー90ー

あって、したがって資本によって前貸しされた価値のうちには……はいらな
いのであり、 したがってこの剰余労働は生産物の生産費のうちにふくまれ、
剰余価値の源泉……をなすが――資本の生産費のうちには現われない。……
資本の立場から見た生産費は、まさに資本にとっては剰余労働はなんら要費
するものがないのだから、現実の生産費ではない。生産物の価格のうち生産
費の価格をこえる超過分は資本に利潤をあたえる。したがって資本の現実の
生産費…… が実現されることがなくても、 資本にとっての利潤は存在しう
る」。7) 見られるように、『要綱』では、「資本の立場から見た生産費」は「資
本によって前貸しされた価値」に等しく、「現実の生産費」は剰余価値をも
含む生産物の全価値に等しい、という規定が行なわれている。これは、うえ
で見た1861−63年草稿ノートUでの規定へと引継がれていったと見ることが
できよう。
ノート Z・326にも、 これとほぼ同様の「生産費」規定が見られる。 す
なわち、「{といっても、私が最初に提示した意味でならば、話は別である。
つまり、その意味というのは、私が財貨の生産費を資本の生産費と区別して
いることであり、それは、資本家がこの生産費の一部分にたいして支払をし
ないからである。……}」(MEGA、468;草稿案D219−220)。ここで言う「財
貨の生産費」とはさきに見た「生産物の生産費」のことであり、「資本家の
生産費」とは同じく「資本の立場から見た生産費」のことであろう。
A管見のかぎりでは、 ノートY・264においてはじめて、8) われわれは、の
ちの『資本論』に言う「生産価格」に対応する用語を見いだす。 すなわち、
「(商品の市場価格はもちろんその価値よりも高いか低いかである。確かに、
のちに私が証明するように、商品の平均価格でさえ、つねにその価値とは相

7)Karl Marx,Ökonomische Manuskripte 1857/58,in : Karl Marx/Friedrich Engels
Gesamtausgabe,Abt.U,Bd.1,Teil 2,1981,Dietz Verlag,S.632f.
8)もちろん、 ノート]Y および ノート]Z冒頭部分(1022−1028ページ)を除い
てのことである。なお、たとえばノート]Y・1009には「平均価値」「平均価格」(ME
GA、1659)という用語が見られる。

ー91ー

違する。……つけ加えておけば、価値の性質にたいする洞察が基礎になけれ
ば、諸商品の市場価格も、またいわんや諸商品の平均価格の動揺も理解され
えないのである。)」(MEGA、386;草稿集D90)。マルクスがここで「平均
価格 Durchschnittspreiß」という用語で考えているのは、MEGA編集部の
注にもあるように、彼が「生産価格」という用語によって考えているのと同
じものであると見てよかろう。
この「平均価格」という言葉は、ノート]およびノート]Tにおいて頻繁
に使用されるとともに、 かなり明確な概念規定が行われている。たとえば、
ノート]・450では、「均等化の諸期間のうち一期間中における諸商品の平均
価格というのは、この価格がどの部面においても商品の生産者たちに同じ利
潤率、たとえば10%をもたらす価格である。これはなおほかになにを意味す
るか? 各商品の価格は、その商品が資本家に費やさせた生産費……の価格
よりも1/10高い、ということである」(MEGA、684;草稿集E24)、と。ノ
ート]・451では、「ある商品の平均価格は、その商品に含まれている支払労
働……の量・プラス・不払労働の平均的分けまえに等しい」(MEGA、686;
草稿集E27)、と。 ノート473では、 「ある商品の平均価格は、その商品の
生産費(……それに前貸しされた資本)・プラス・平均利潤に等しい。……
各商品の平均価格も、C(前貸資本)・プラス・P/C、 平均利潤率である」
(MEGA、728;草稿集E89)、と。これらによってわかるように、マルクスは、
「平均価格」という言葉を「生産費・プラス・平均利潤」(MEGA、747;草
稿集E123)の意味で使用している。 のちの『資本論』に言う「生産価格」
(c+v+平均利潤)に相当するこの「平均価格」という言葉を、マルクス
は以下ノート]T・529にいたるまで、いく度となく使用している。
Bノート]T・529にいたって、われわれは、これまでマルクスが使い慣れ
てきた「平均価格」という用語に加えて、それとまったく同義の「費用価格」
という用語を見いだす。すなわち、「この区別は、価格自体にはなんの関係
もないが、別の部面の利潤にたいしては違った影響を及ぼすために、価値そ
ー92ー

のものとは違う平均価格――または、われわれが言いたいように言えば費用
価格――をもたらすのであり、この価格は直接に商品の価値によって規定さ
れるものではなく、その商品に前貸しされた資本・プラス・平均利潤によっ
て規定されるものである」(MEGA、827;草稿集E248)と。またノート]T
・532にも、「{こうして、平均利潤――リカードゥによって前提された一般利
潤率――の結果として、商品の価値とは区別される平均価格または費用価格
が成立する。}」(MEGA、832−833;草稿集E257)、と。さらに、たとえば、
ノート]T・533では、「これらの利潤の均等化は諸商品の価値とは違う費用価
格を生みだすにちがいない」(MEGA、835;草稿集E261)。ノート]T・537で
は、「この例証……は、本質的な問題すなわち価値の費用価格への転化とは、
なんの関係もない」(MEGA、842;草稿集E273)。ノート]T・547では、「競
争がいろいろな産業部門の市場価格を強制して回転運動をさせる中心は、商
品の価値ではなく、その費用価格、すなわち商品に含まれている経費・プラ
ス・一般的利潤率である」(MEGA、859;草稿集E300−301)。等々。見ら
れるように、マルクスは、これまで使用してきた「平均価格」と同義のもの
として「費用価格」という言葉を使用しはじめているが、その後、しだいに
この言葉単独で使用するようになる。 そしてこの用語は、 これ以後かなり
あとになるまで1861−63年草稿において愛用されることになる。
ところで、このノート]T、さらに次のノート]Uには、 「生産価格」なる
用語が登場し「費用価格」に等置されている。すなわち、ノート]T・548で
は、「生産価格または費用価格」(MEGA、861;草稿集E303)。ノート]U・
624では、「十分な価格というのは、商品が市場へ出てくるのに必要な、つま
り、それが生産されるのに必要な、価格のことであり、したがって商品の生
産価格のことである。なぜならば、商品の供給にとって必要な価格、商品一
般が商品として市場に現われるために必要な価格とは、言うまでもなく、そ
の生産価格すなわち費用価格のことだからである」(MEGA、978−979;草
稿集E489)。「十分な価格とは、実際には生産価格すなわち費用価格なので
ー93ー

あって、……言いかえれば、資本家の前貸のほかに通常利潤をも支払うとこ
ろの価格、資本のいろいろの充用部面で資本家間の競争が生みだすような平
均価格なのである」(MEGA、979;草稿集E490)。見られるように、マルク
スはここではじめて、「費用価格」と同義のものとして、また「平均価格」
と同義のものとして、「生産価格」という用語を使用しているが、しかしこ
の用語は、これ以後の箇所で常用され定着するにはいたっていない。うえで
も述べたように、基本的には、「費用価格」という言葉が、『資本論』での
「生産価格」に対応する概念を表わすために、いく度となく使用されている。
たとえば、ノート]TX・784でも、「ここでは、再び、等量の諸資本は等量の
利潤を生むという現象、または商品の費用価格は前貸資本の価格・プラス・
平均利潤に等しいという現象以外にはなにも言い表わされていない」(ME
GA、1265;草稿集F102)。
Cすでにわれわれは、「生産費」なる用語が2つの意味をもつことについ
てのマルクスの説明を見たが、ノート]TX・787−790ではそれに加えて、さ
らに、「生産費」は、Bで見たところの「費用価格」に等置されている。この
等置はもっと早くから行なわれていたが、9) ここではじめて明確な説明が与
えられたわけである。「生産費の概念の2重性は資本主義的生産そのものの
性質からでてくる。/第一に。……商品の資本家にとっての費用というのは、
当然、その商品が彼に費やせるものである。その商品が彼に費やさせるもの
……は、前貸資本の価値以外にはなにもない。……/……どの資本家も、利
潤の率がどうであろうと利潤を計算する場合には、生産費を、このような意
味に解しているのである。/……これは、マルサスが買い手の価格と対立さ
せて生産価格[producing price]と呼んでいるものである。……/第二に。
……商品そのものの生産費は、その生産過程で消費される資本の価値すなわ
ち商品のなかにはいる対象化された労働の量・プラス・その商品に支出され

9)ノート]T・551には、「商品の生産費すなわち商品の費用価格」(MEGA、865;草稿
集E311)、という表現が見られる。

ー94ー

る直接的労働の量から成っている。……このような意味からすれば、商品の
生産費はその価値に等しい。……/……/第三に。……社会的資本が1000で、
一特殊生産部門の資本が100であるならば、また、剰余価値の……総量が200
つまり20%であるならば、特殊な生産部門の資本100は、その商品を120の価
格で売ることになるであろう。……/これは費用価格であり、そして、本来
の意味(経済的な、資本主義的な)での生産費が問題にされるとすれば、そ
れは、前貸の価値・プラス・平均利潤の価値のことである」 (MEGA、1272
−1274;草稿集F112−115)。「利潤は、商品の生産費のなかにはいり、A.
スミスによって正当に商品の『自然価格』のなかに要素として算入されてい
る。というのは、資本主義的生産の基礎のうえでは、商品は、それが前貸の
価値・プラス・平均利潤の価値に等しい費用価格を生まないならば、――長
い目で見れば平均して――市場へはもたらされないからである」(MEGA
1275;草稿集F117)。以上要約すると、「生産費」という用語は多義的であり、
第一の意味は「商品の資本家にとっての費用」であり、それは「前貸資本の
価値」に等しく、第二の意味は「商品そのものの生産費」・「商品の内在的な
生産費」であり、それは「商品の価値」に等しく、そして第三の意味は「本
来の意味……での生産費」であり、それは「前貸の価値・プラス・平均利潤
の価値」に等しく、したがって「費用価格」と同義である、ということであ
る。念のために指摘しておくと、これ以後もマルクスは、「前貸の価値・プ
ラス・平均利潤の価値」に関わる諸問題を取扱っているが、その際彼は、多
義的なこの「生産費」という言葉を使わず、基本的に「費用価格」という言
葉をくり返し使用している。
Dノート]X・927にいたって、事情が一変する。というのは、「費用価格」
と「生産価格 」との概念上の区別が行われるようになるからである。 すな
わち、「{費用と名づけることができるのは、前貸しされたもの、したがって
資本家によって支払われたものである。これに応じて、利潤はこの費用を越
える剰余として現われる。……こうして、前貸によって規定された価格を費
ー95ー

用価格と呼ぶことができるのである。/生産費と呼ぶことができるのは、平
均利潤、したがってまた前貸資本の価格・プラス・平均利潤、によって規定
される価格である。……このような価格が生産価格である。/最後に、商品
の生産に必要な労働(対象化された労働および直接的労働)の現実の量は、
商品の価値である。この価値は、商品そのものにとっての現実の生産費をな
している。この価値に対応する価格は、価値が貨幣で表現されたものにほか
ならない。『生産費』という名は、時に応じてこの3つのうちのどれかを意
味する。}」(MEGA、1510;草稿集F496−497)。以上要約すると、「生産費」
という用語は3つの意味をもつ、その第一は、「前貸しされたもの」「資本家
によって支払われたもの」を意味し、これによって規定された価格は「費用
価格」と呼ぶことができる、第二は、「前貸資本の価格・プラス・平均利潤」
を意味し、 これによって規定された価格が「生産価格 」である、 第三は、
「商品の生産に必要な労働……の現実の量」に規定される「商品の価値」を
意味する、ということである。10) これによってわかるように、マルクスはこ
こではじめて、「商品の価値」「費用価格」「生産価格」という3つの概念の
内容(とそれらの関係)を明確に規定していると言えよう。そして、それは、
現行『資本論』での規定― (a)「資本主義的に生産される各商品の価値Wは、
定式W=c+v+mで表わされる」11);(b)「費用価格」とは「商品が資本家に

10)ここでの叙述をもって、われわれは、 「生産費概念の混乱」 (原論文H188ページ)と
言うべきではなく、むしろ生産費概念の豊富化と マルクスによるその整理と言うべきで
あろう。というのは、『要綱』やノートU.88では、「資本家にとって」の「生産費」
(=C+V)と「現実の生産費」(=C+V+M)という「2つの生産費」の規定しか見ら
れなかったのに対して、ここでは、第三の規定、すなわち「前貸資本の価格・プラス・
平均利潤、によって規定される価格」・「生産価格」という意味がつけ加わっているから
である。 しかも、 これら3つの規定の整理をつうじて、マルクスは、自前の概念――
「価値」・「費用価格」・「生産価格」―に明確な規定を与えているのである。したがって、
「『第3章 資本と利潤』では、…『資本家の観点からの生産費(C+V) 』と『商品の
生産費(C+V+M)』という『2つの生産費』……規定」が見られることをもって、
原氏のように(原論文H、189ページ)、「第3章 資本と利潤」の理論的成熟性を主張
すべきではなくて、逆に理論的未熟性を指摘すべきであると考える。
11)Karl Marx,Das Kapital,Bd.3,MEW,Bd.25,Dietz Verlag,1964,S,34.岡崎
次郎訳『資本論』E、大月書店、1972年、54ページ。

ー96ー

費やさせたもの」・「商品の価値のうちその商品の生産に支出された資本価値
を補填するだけのいろいろな部分」12)のことであり、「費用価格をKと名づ
ければ、定式W=c+v+mは、定式W=k+m……に転化する」13);(c)
「商品の生産価格は……商品の費用価格・プラス・ 平均利潤に等しい」14)
――へと発展していく規定であると考えることができる。ただし、このよう
な「費用価格」と「生産価格」との明確な規定にもかかわらず、引用文の前
後にはなお、『資本論』での「生産価格」概念を意味すると見られる「費用
価格」という用語が見られる。
ともあれ、これ以後マルクスは、「費用価格」と区別される「生産価格」
という言葉を使用するようになったようである。たとえば、ノート]X・934
では、「前貸資本の価値、費用・プラス・平均利潤、つまりK+A.P.を生
産価格とみなすならば、商品の価値がどんなに変動しようとも、生産価格が
同じままでありうるということは明らかである」 (MEGA、1521;草稿集F
513)。また、ノート]X・973(ノート]Xの最終ページ)では、「すでに見た
ように、個々の商品の、あるいはそれぞれの特殊な生産部面のすべての資本
にとっての、商品の生産価格は、商品の価値とは異なり、等しかったり、大
きかったり、小さかったりすることがありうる。しかし、諸商品の生産価格
の総額は、諸商品の価値総額に等しい。……産業資本が販売する生産価格は
商品の現実的な生産価格には等しくなく、商品の生産価格・マイナス・商人
に帰属する利潤部分に等しい。この場合は、 商品の生産価格は、 商品の費
用価格+産業利潤(利子を含む)+商業利潤に等しい」 (MEGA、1596−15
97)。また、ノート][・1089,1109−1110では「生産価格」という用語が
頻出する。(なおノート][・1107−1108での「費用価格」なる用語の使い
方を見よ。大村説との関係で慎重な検討を要する箇所である。)

12)ibid.,S,34.訳、54ページ。
13)ibid.,S,34.訳、55ページ。
14)ibid.,S,167.訳、264ページ。

ー97ー

  もはやこれ以上、 1861−63年草稿(ノート ]Y・]Z以外のそれ)にお
ける、 「生産価格 」概念を表わす用語の変遷を 追う必要はないであろう。
というのは、以上見てきたところから、われわれは、次のような用語上の変
化を指摘することができるからである。すなわち、『要綱』および1861−63
年草稿のはじめの部分では、「生産費」という用語には、2つの意味がある
とされている。一つには、「資本家によって前貸しされた諸価値の総計」つ
まりc+vを意味し、もう一つは、「生産物のなかで含まれている労働時間
の総計」つまりc+v+mを意味する。したがって、ここでの「生産費」と
いう用語には、 『資本論』に言うところの「生産価格」という意味がない。
1861−63年草稿 ノート]以降、「商品の平均価格」という用語が頻出する。
これは、明らかに「商品に含まれている支払労働……の量・プラス・不払労
働の平均的分けまえ」に等しく、『資本論』での「生産価格」に対応すると見
てよかろう。ところが、ノート]Tにいたって、新たに、この「平均価格」
の同義語として「費用価格」という用語が登場する。以後、ノート]Xにい
たるまで、「前貸資本の価値・プラス・平均利潤」に等しい価格、すなわち
『資本論』での「生産価格」に相当する概念として、「費用価格」という用
語が常用されている。ところが、ノート]Xにいたって、 事情が一変する。
すなわち、次のような概念規定が行なわれ、「費用価格」と「生産価格」が
区別される。「費用価格」=「前貸しされたもの」;「生産価格」=「前貸資本の
価格・プラス・平均利潤」;「価値」=「商品の生産に必要な労働……の現実の
量」。
ところで、以上のような、1861−63年草稿における「生産価格」概念を表
わす(あるいはそれに関わる)用語の変遷過程のはたしてどこに、草稿「第
3章 資本と利潤」・「雑録」における用語が位置づけられるべきであろうか。
まず、草稿における用語を見てみよう。
「生産費」について、マルクスはノート]Y・981において次のような規定を
与えている。 「… 前貸資本の総額は商品の生産費としてあらわれる」 (MEGA
ー98ー

1611)。「個々の資本家の立場から見た商品の生産費と商品の現実の生産費は
2つの異なるものである。/ 商品それ自身のうちに含まれている生産費は、
商品を生産するのに要する労働時間に等しい。すなわち商品の生産費は、そ
の価値に等しい。……/資本家の立場から見た生産費は、彼が前貸しした貨
幣だけからなっている――すなわち商品の生産費のうち彼の支払った部分だ
けからなっている。……/だから、剰余価値、したがってまた利潤は、それが
剰余価値の別の形態にすぎないかぎり、商品の生産費に入るにもかかわらず、
商品を販売する資本家の生産費には入らない。……利潤とは、まさしく資本
家にとっては資本家の生産費をこえる商品価値( 価格 )の超過分である」
(MEGA、1611−1612)。「資本の生産費は資本によって生産された諸商品の
価値よりも小さい……という法則から、諸商品はその価値以下でも利潤をつ
けて売ることができる、ということが生じる」(MEGA、 1612−1631)。以
上要約すると、「生産費」という用語は2つの意味をもつ、一つは、「資本家
の立場から見た生産費」であって、それは、資本家の前貸ししたもの、つまり
c+vであり、もう一つは、「商品の生産費」であって、それは、「商品を生
産するのに要する労働時間」つまりc+v+mに等しい、ということである。
  このような「生産費」規定は、すでに見た『要綱』第3篇および1861−63
年草稿ノートU・88および ノートZ・320におけるそれとまったく同じもの
であると言ってよかろう。これらの箇所における「生産費」という用語の多
義性の説明において特徴的な点は、そこには、ノート]W・787−790やノー
ト]X・927とちがって、「前貸資本の価値・プラス・平均利潤」に等しい、
『資本論 』に言うところの「生産価格」に相当する「生産費 」概念――マ
ルクスはそれを「本来の意味……での生産費」とも呼んでいる――が指摘さ
れていないということである。つまり、ノート ]Wやノート ]Xでも「生
産費」の多義性は説かれているが、そこには、第三の「生産費」概念、つま
り『資本論』で言われる「生産価格」概念がつけ加えられている。
  以上から、草稿「第3章 資本と利潤」における「生産費」規定は、1861
ー99ー

−63年草稿の後半期の規定というよりは、『要綱』から1861−63年草稿のは
じめの時期にかけてのそれであると判断することができよう。
次に、『資本論』に言うところの「生産価格」概念にあたるものについて
のマルクスの叙述を見ることにしよう。ノート]Y993−994では、「したが
って、第2の場合〔利潤の平均利潤への転化の場合――引用者〕には、利潤
と剰余価値とのあいだに本質的な相違があらわれるように、 商品の価格と価
値とのあいだにも本質的な相違があらわれる。それゆえ、現実の諸価格――
商品の正常価格さえもが、その価値と相違するようになる。こうしたことの
より詳しい研究は、競争の章に属するのであって、そこではまた、商品の正
常価格と商品の価値とのあいだのこのような相違にもかかわらず、商品の価
値における諸変化がどのようにして諸価格を修正するかということが明らか
にされる」(MEGA、1630)。見られるように、 マルクスはここで、 『資本
論』での「生産価格」概念を表わすものとして、「価値と相違する」「正常価
格」という言葉を使用している。
問題は、この「正常価格」という用語は、1861−63年草稿における各種の
用語―すなわち「生産費」・「平均価格」・「費用価格」・「生産価格」――の
うちのどれに最も近いかということであるが、 筆者の見るところ、 それは
「平均価格」に最も近いと考えられる。というのは、「正常価格」の「正常
normal」という言葉は、マルクスによって、「平均 Durchschnitt」という言
葉と同義的に使われていると見られるからである。たとえば、ノート]・449
では、「正常利潤または平均利潤Normalprofit、order Durchschinittsprofit」
(MEGA、681−682;草稿集E21)。ノート]Y・991でも、「正常利潤、ま
たは平均利潤der normalprofit,order der Durchshnittsprofit」(MEGA
1626)。しかも、この「正常価格」という概念についてここではマルクスは、
ノート Y・264の場合と同様に、 あるいはノート ]・450以降とちがって、
価値とは相違するものであると言うだけで、本質的な規定――すなわち、そ
れはc+v+平均利潤を意味するという規定――を与えていない。この点か
ー100ー

ら考えて、この「正常価格」という用語は、ノート]以前の時期に属するこ
とがほぼ確実であると言えよう。
なお、草稿「第3章 資本と利潤」では、大雑把に見て、まず、その第1
節〜第6項(f)において、「第一の」・「形式的な」「剰余価値の利潤への転
化」、すなわち剰余価値の利潤への「形態のみ」にかかわる「転化」が考察さ
れ、次いで、第6節(g)では、「第二の」・「実質的な」「剰余価値の利潤への転
化」、 すなわち「形態だけでなく実体そのものに関する、 すなわち利潤の
絶対的な大きさ……を変える」(MEGA、1626)「転化」が考察されているが、
しかしこの後者の内容は、「この問題の さらに詳しい考察は競争の章に属す
る。というのは、ここではともかく確実に一般的なことがらだけが考察され
るべきであるからである」 (MEGA、1623)と述べられていることからもわ
かるように、かなり制限されたものになっている。とはいえ、マルクスは本
質的な点を押えた説明を行っている。 たとえば、 次のように述べている。
すなわち、「平均利潤率が問題になりうるのは、一般に利潤率が資本のさま
ざまの生産部門で相違している場合のみである」(MEGA、1623)。この「第
二の」・「実質的な」「剰余価値の利潤への転化」(=利潤の平均利潤への転化)
においては「個々の自立的資本に帰属する総剰余価値の分け前は、この総剰
余価値の生産にたいする資本の機能的関係を顧慮することなく、資本の大き
さのみにしたがって計算される」(MEGA、1630)。「この計算を遂行せしめ
る原動力は諸資本間の競争である」(MEGA、1628)、と。ところが、「価値の
正常価格への転化」問題については、 マルクスは、 この「転化」によって
「商品の正常価格さえもが、その価値と相違するようになる」(MEGA、16
30)と述べるだけで、その「相違」がどのようなものなのか、またその「相
違」がどのようなメカニズムによって生じるのかということを説明していな
い。マルクスは、「これのさらに詳しい研究は競争の章に」(MEGA、1630)
譲るとしているのである。したがって、「第3章 資本と利潤」におけるこ
のような理論状況は、筆者の見るところ、ノート]以降――そこでは、「利
ー101ー

潤の平均利潤への転化」問題だけでなく、「価値の費用価格〔=生産価格〕
への転化 」問題についてかなり立入った議論が行われている―― の理論水
準を越えるものではないとは思われる。さらに言えば、「剰余価値の利潤へ
の転化」すなわち「形式的な転化」と「利潤の平均利潤への転化」すなわち
「実質的な転化」、 という2つの転化という問題意識ならば、 「諸学説」
が執筆されはじめた頃のマルクスにすでにあったのではなかろうか。という
のは、ノートY・259には、次のような叙述が見られるからである。「これに
反して、利潤においては、剰余価値が前貸資本の総額にたいして計算される
のであり、しかもこの修正のほかに、なお、資本のいろいろな生産部面にお
ける諸利潤の均等化によって新しい修正がつけ加わる。アダムは……剰余価
値を、利潤というさらに発展した形態と直接に混同してしまう。この誤りは、
リカードゥやそのすべての後継者においても、そのままである。このことか
ら……一連の前後撞着、解決されない矛盾と無思想ぶりが出てくる。これを
リカードゥ学派の人たちは(のちにわれわれが利潤に関する章において見る
ように)ものの言いまわしによってスコラ哲学者に解決しようとするのであ
る」(MEGA、381;草稿集D82)。見られるように、マルクスはここで、剰
余価値と利潤とのあいだに2つの「修正」問題があり、それは「第3章」で
論じる、と述べているのである。ここでは、「転化 Verwandlung」という言
葉を使っていないが、「諸学説」冒頭には「第3章で、剰余価値が利潤とし
てとる非常に変化した形態 die sehr verwandelte Form を分析するところ
で」(MEGA、333;草稿集D5)という表現が見られることから考えて、す
でにこの頃「剰余価値の利潤への転化」という問題意識があったと思われる。
したがって、2つの「修正」論は、2つの「転化」論と理解してよいであろ
う。なお念のためにつけ加えておくと、ノートY・264には、 すでに引用し
たように、「価値とは相違する」「平均価格」についての叙述があるが、ここ
でも、「相違」の内容や「相違」が生じてくるメカニズムについては、「のち
に〔これが「第3章」を意味するのか、「競争の章」を意味するのかは判然
ー102ー

としないが――引用者〕私が証明する」(MEGA、386;草稿集D90)と言う
だけで、なんの説明も行なわれていない。

V「資本の有機的構成」概念に関わる用語の変遷からの推定
結論を先取りして一言でいうと、可変資本と不変資本の割合やそれらの素
材的な割合などを表わす言葉として、1861−63年草稿の前半期では、大雑把
にいってマルクスは、「資本の有機的諸成分の割合」という言葉を使ってい
るが、同草稿後半期では、「資本の有機的構成」という言葉を使用している、
ということである。以下詳しく見ることにしよう。
@ノート]・450には、 「それら〔=等しい大きさ諸資本――引用者〕の
有機的諸成分の割合 Vehältniß ihrer organischen Bestandtheile, すなわ
ち可変資本と不変資本との割合」(MEGA、684;草稿集E25)。ノート460
には、「資本の有機的な諸成分の割合」「資本の諸成分の有機的な割合」(ME
GA、703;草稿集E52−53) ノート]T・503には、「資本の有機的な諸成分の
――可変資本と不変資本とのあいだの――割合」(MEGA、779;草稿集E17
8)。ノート]T・529には、「まず直接的生産過程では可変資本と不変資本との
区別として現われ、のちには流通過程から生ずる区別によってなおいっそう
増大させられるような、資本の有機的諸成分に相違がある場合には」(ME
GA、827−828;草稿集E249)。ノート]T・540には、「同じ大きさの諸資本
は、それらの有機的諸成分の割合が同じであれば、すなわち労賃と労働条件
とに支出される部分が同じ大きさであれば」(MEGA、847;草稿集E281)。
ノート]T・563には、「この〔価値と費用価格との〕相違そのものは、ただ資
本の有機的諸成分の構成 Zusammensetzung der organischen Bestandheile
des Capitals における相違からのみ生ずる」(MEGA、886;草稿集E347)。
Aところが、ノート]T・529には、「別々の部面に扱下される諸資本の有機的
構成organischen Zusammensetzung der...Capitalianが違う場合には」(ME
GA 828;草稿集E249)。ノート]T・540には、「同じ大きさの諸資本は、そ

ー103ー

れらの有機的諸成分の割合が同じであれば、すなわち、労賃と労働条件とに支
出される部分が同じ大きさであれば、等しい価値ももった諸商品を生産する。
……これに反して、諸資本の有機的構成 ihre organische Zusammensetzung
が違っている場合には、特に固定資産として存在する部分と労賃に投下され
た部分との割合が非常に違っている場合には、同じ大きさの諸資本が非常に
不等な価値をもった諸商品を生産する」(MEGA、847;草稿集E281)。ノー
ト]T・558には、「資本の有機的構成」(MEGA、878;草稿集E334)。ノートXI
564には、「資本の有機的構成」(MEGA、886−887;草稿集E347)。ノート
]T566には、「充用資本の有機的構成die organische Composition des an
gewandten Capitals」(MEGA、892;草稿集E356)。ノート]T・567には、
「資本の有機的構成 the organic composition of capital」(MEGA、893;
草稿集E358)。ノート]T・568に、 「同じ有機的構成の資本 Capital von
derselben organischen Composition」(MEGA、895;草稿集E360)。ノート
・]U・582には、「資本の有機的構成die organische Constitution des Capiー
tals」(MEGA、912;草稿集E389)。ノート]U・636には、「決定的に重要性
をもつ資本の有機的構成に関する彼の考察は、……流通過程から生ずる有機
的構成上の区別(固定資本と流動資本)にかぎられているのである。一方、本
来の生産過程のなかでの有機的構成の区別には彼はどこでも触れていないし
むしろ彼はそれを知らないのである」(MEGA、1001;草稿集E530)。ノー
ト]V・671には、「有機的構成」(MEGA、1057;草稿集E614)。ノート]W
・782には、「有機的構成」(MEGA、1260、1263;草稿集F96)。ノート]X
・897には、「諸資本の特殊な有機的構成(たとえば、固定資本がより大きい
か流動資本がより大きいか)」(MEGA、1462;草稿集F420)。ノート]X
・960には、「資本の有機的構成」(MEGA、1574)。ノート]Z・1037には、
「生産的資本の有機的構成」(MEGA、1699)。等々(Vgl.ノート][・
1112−1115)。以下、本稿の性質上、省略する。
以上から、われわれは次のことが言えるであろう。「資本の有機的諸成分
ー104ー

の割合 」と「資本の有機的構成 」とが並存する時期があるけれども、ほぼノ
ート]T・540を境にして、「資本の有機的諸成分の割合」という用語から「資
本の有機的構成」という用語 (マルクスの使っている原語は、うえに引用し
たように、さまざまな変化するが) への移行が見られ、以後、この用語のも
とに考えられている概念内容の変化や精密化という問題はおくとして、『資
本論』にいたるまでこの言葉が使用されている。なお、『要綱』では、「資本
の諸成分の割合die Verhältnisse in den Bestandtheilen desCapitals」15)
という言葉が使用されている。
したがって、用語の変遷は、『要綱』では、「資本の諸成分の割合」、1861
−63年草稿前半期では、「資本の有機的諸成分の割合」、1861−63年草稿後半
期では、「資本の有機的構成」、ということになろう。しかも、「資本の有機
的諸成分の割合」から「資本の有機的構成 」への移行の時期は、おおむね、
「平均価格」から「費用価格」への用語の移行の時期と重なりあっているの
である。
ところで、1861−63年草稿における用語の変遷が以上のようであるとすれ
ば、草稿「第3章 資本と利潤 」の用語の位置は明らかである。 というの
は、草稿同章には、たとえば、「前貸資本のいろいろな諸部分の有機的な割
合des organische Verhältniß der verschiednenTheile des vorgeschoßnen
Capitals(MEGA、1625)、「資本の有機的諸成分の割合 Verhältnis seiner
organischen Bestandteile」(MEGA、1669)、「資本の有機的諸成分の割合
das Verhältniß der organischen Bestandtheile des Capitals」(MEGA
1671,1676)、というような用語が見られるからである.これらの用語は、明
らかに、1861−63年草稿の前半期に属するもであると言えよう。16)

15)Karl Marx,Ökonomisch Manuskripte 1857/58, in : Karl Marx/Friedrich Engels
Gesamtausgabe,Abt,U,Bd,1,Teil 1,1976,S.302.
16)したがって、 「第3章 資本と利潤 」および「雑録 」における「有機的構成概念が、
『諸学説』より明確化してきている」(原論文H202ページ)と言うためには、こうした
事情を覆すに足る相当の根拠がなければならないであろう。

ー105ー

  以上U、Vにおいて、われわれは、『資本論』第3部第1−3篇の理論領
域をほぼカバーする草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」の理論的成熟度を
確定するために、 そこでの Key Category である「生産価格 」概念および
「資本の有機的構成」概念の生成過程をごく簡単に、しかも用語の問題に絞
ってフォローした。その結果、次のようなことが言える。 すなわち、 草稿
「第3章 資本と利潤」・「雑録」が「諸学説」以前に執筆されたのか、それ
とも「諸学説」以後に執筆されたのか、 という二者択一の問題に対しては、
われわれは、はっきりと、草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」は「諸学
説」以前にほぼ執筆されたと答えなければならないであろう、と。
かくて、われわれは、現在進行中の、草稿「第3章 資本と利潤」・「雑録」
の執筆時期をめぐる論争に関して、大村・吉田両氏の結論――その資料的考
証および理論的根拠づけを異にするとはいえ――を受けいれることができる
わけである。

脱稿、1984.5.14)
(まつお じゅん/経済学部助教授/1984.5.15受理)

ー106ー