『経済経営論集』(桃山学院大学)第25巻第1号、1983年6月発行

  

マルクスによる利潤率の傾向的
     低下法則論の論証
――置塩信雄氏のマルクス批判の検討――

 

松尾 純

 

   T はじめに――論争史の概観――    U 置塩信雄氏のマルクス批判とその問題点    V マルクスの論証方法    W むすび
 

 T はじめに
マルクスの利潤率の傾向的低下法則論は、 『資本論』の他の幾つかの重要
な論争問題と同様に、 これまで多くの論者によってさまざまな観点から論じ
られてきた問題である。とりわけ、 この法則の論証をめぐっては、論証を試
みた『資本論』第3部第13章「法則そのもの」におけるマルクスの叙述が比
較的明快であるにもかかわらず、非マルクス主義者を含む多くの経済学者のあ
いだで長期にわたって論争が行なわれてきた。1)


1)この論争を整理・概観した文献として、とりあえず次のものを参照せよ。伊藤誠「利
潤率の傾向的低下の法則」、大内秀明他編『資本論研究入門』東京大学出版会、1976年。
米田康彦「利潤率の傾向的低下法則の論証」、佐藤金三郎他編『資本論を学ぶW』有斐
閣、1977年。高木彰「『利潤率低下論』におけるA.スミスとK.マルクス(V)」、『岡
山大学経済学会雑誌』第12巻第3号、1980年12月。また、1960年代中期以後のいわゆる
「収益性危機」の根本原因をめぐる論争に端を発する最近の欧米での利潤率低下論争を
整理・紹介した文献として次のものがある。 Erik Olin Wright, "Alternative perspecー
tives in marxist theory of accumulation and crisis, "Insurgent Sociologist, Vol. 6,
No. 1, 1975. Jens Christiansen, "Marxist perspectives on the capitalist macroeconoー


ー1ー

  いま、その論争経過を主要論点に限って概観することにしよう。
まず、マルクスの論証はこうである。 すなわち、資本主義的生産において
労働の社会的生産力が発展するにつれて、 資本の有機的構成が高度化してい
く、つまり可変資本に比べて不変資本が漸次相対的に増大していく。 その結
果、剰余価値率が一定の場合には、またそれが上昇する場合にさえ、 一般的
利潤率が漸次低下していく。2) たとえば 、いま剰余価値率が100%で変らな
いとすれば、資本蓄積とともに資本の有機的構成が高度化していき、 利潤率
は次のような経過をたどる。 @不変資本C=50、 可変資本V=100ならば、
利潤率'=100/150=66 2/3%、AC=100、V=100ならば、'=100/200=
50%、BC=200、V=100ならば、'=100/300=33 1/3%、CC=300、V=
100ならば、´=100/400=25%、DC=400、V=100ならば、'=100/500
=20%3)。他方、剰余価値率が上昇する場合については、 次のように考えるこ
とができる。すなわち、資本主義的生産の発展につれて、 「充用された生き
た労働の量が、 それによって動かされる対象化された労働の量すなわち生産
的に消費される生産手段の量に比べてますます減って行くのだから、 この生

my, Marx and the Falling Rate of Profit, "The American Economic Review, Vol.
66,No. 2, May 1976. Ben Fine and Laurence Harris, Rereading Capital, London,
The Macmillan Press LTD., 1979. Thomas E. Weisskopf, "Marxian Crisis theory
and the rate of profit in the postwar U.S.economy,"Cambridge Journal of Ecoー
nomics, 1979, 3. Philippe Van Parijs,"The Falling-Rate-of-Profit Theory of Crisis:
A Rational Reconstruction by Way of Obituary, "The Review of Radical Politiー
cal Economics, Vol. 12, No. 1, (Spring 1980). 都留康「収益性危機と利潤率低下
論争」、『思想』685号、1981年7月号。松橋透「『収益性危機』と利潤率の傾向的低落
――スタグフレーション分析の一視点」、『商学論纂』第24巻第1号、1982年5月。これ
らの紹介論文からもわかるように、最近の利潤率低下論争は、利潤率低下の原因を実質
賃金率の上昇に求め、いわゆる「置塩定理」を受容する側と利潤率低下の原因を資本の
有機的構成の高度化に求めマルクスの論証を基本的に正しいとする側との対立のうち
に展開していると見ることができる。
2)Karl Marx, Das Kapital, MEW, Bd. 25, Dietz Verlag, Berlin, 1964, S.223.岡
崎次郎訳『資本論』、大月書店、国民文庫版(6)、350ページ。以下、引用に際しての訳文
はこの国民文庫版に従う。
3)Ibid., S. 221, 訳(6)348ページ。

ー2ー

きた労働のうち支払われないで 剰余価値に対象化される部分も充用総資本の
価値量に対してますます小さい割合にならざるをえないのである。ところが、
この、 充用総資本の価値にたいする剰余価値量の割合が利潤率なのであり、
したがって利潤率はしだいに低下せざるをえないのである」。4)
このようなマルクスの論証に対して、 ツガン=バラノフスキー5)やP・ス
ウィージー6)らによって次のような批判が加えられた。 すなわち、労働の社
会的生産力の発展は、たしかに資本の有機的構成を高度化させるが、しかし他
面ではそれは剰余価値率を上昇させる、 と『資本論』第1部以来把えられて
きたはずである。したがって、「マルクスが、資本の有機的構成を高度化する
ときに剰余価値率が不変であると仮定することは、 彼自身の理論体系からい
っても正しくなかった」。7) 「もしも資本の有機的構成と剰余価値率とがとも
に変化すると仮定するならば…… 利潤率の変動する方向は不確定のものとな
る、7) と。法則の論証に際して「マルクスが……剰余価値率が不変であると
仮定」したとする批判部分は、 さきに見た剰余価値率上昇の場合についての
マルクスの論述を無視した不当な批判と言うべきであるが、 このスウィージ
ーらのいわゆる「不確定」説は、 法則の(論証の)成立にとって重大な意味
をもつ論点を提示したものであり、 その後の論争においてつねに取上げられ
ることになった。
このようなスウィージーらの批判に対しては、 当然、『資本論』でのマル
クスの論証方法に即した反論が、 富塚良三氏8)やR・ロスドルスキー9)らに

4)Ibid., S. 223, 訳(6)350ページ。
5)Туган-Барановский,Промышленные кри
 зисы в современнойАнгии
,1894(独語
版:Theorie und Geschichte der Handelskrisen in England,1901.救仁郷繁訳『英
国恐慌史論』、ぺりかん社、1972年)
6)Sweezy P.M., The Theory of Capitalist Development, 1942, 都留重人訳『資本主
義発展の理論』新評論:1967年。
7)Ibid., p. 102, 訳. 124ページ。
8)富塚良三『蓄積論研究』未来社、1965年。同『恐慌論研究』未来社、1962年(増補版
1975年)。
9)Roman Rosdolsky, "Zur neueren Kritik des marxschen Gesetzes der fallenden
Profitrate," Kyklos, Vol. IX, 1956.

ー3ー

よって展開された。その要点はこうである。 すなわち、 労働力の価値 Vが
どれほど低下するとしてもV>0でなければならないから、利潤率M /(C+
V)は(M+V)/Cよりも小であり、利潤率は(M+V)/Cによって上限を
画されている。ところが、(M+V)/Cは、充用された生きた労働/死んだ
労働を表わしており、 この比率は労働の社会的生産力の発展とともに低下し
ていく。 したがって、 充用された生きた労働を表わすV+M のなかでいか
にMの比率が労働の社会的生産力の発展につれて高まろうが、(M+V)/Cよ
りも小さいはずのM/(C+V)、つまり利潤率が低下していかざるをえない、
と。さきのスウィージーらの批判は、利潤率の定義式 p´=M/(C+V)=
(/)/(C/+1)から考えて、 資本の有機的構成C/Vが上昇したとしても、
他方の剰余価値率 M/V の増大率いかんでは利潤率は上昇しさえするという
点にあるとすれば、 これに対する富塚氏らの反論は、労働の社会的生産力の
発展にともなって、利潤率の上限を画する(M+V)/Cあるいは充用された
生きた労働/死んだ労働が漸次低下していくということ、 そして、剰余価値
率が上昇したとしても、それは M+V のなかでの V と Mとの分割比率の
変更を意味するにすぎないということから、 利潤率の低下を導き出そうとす
るものであると言えよう。 この富塚氏らの論証方法は、最近の利潤率低下法
則論において M・コゴイ10) や D・Yaffe11) らによっても採用されている
方法である。
ところが、富塚氏らの論証には、 ただちに次のような批判が加えられねば
ならなかった。すなわち、 「剰余価値量増大の限界は充用される生きた労働
量によって質的に画されており、 生産力の発展につれて相対的剰余価値の生
産性が逓減するから、 剰余価値率の上昇による利潤率低下の阻止には超える

10)Mario Cogoy,"The fall of the rate of profit and the theory of accumulation,
a reply to Paul Sweezy, "Bulletin of the Conference of Socialist Economists,
Winter, 1973.
11)David S.Yaffe,"The Marxian Theory of Crisis,Capital and the State,"Bulletin
of the conference of Socialist Economists, Winter, 1972.

ー4ー

ことのできない特定の限界があ」12)り、「この限界点に到達するならば、資本
構成の高度化は利潤率を究極的に低下させるであろう」12)。しかし、「この限界
に到達するまでは、 利潤率の上昇しうる可能性をけっして排除するものでは
ないし、 またはじめに与えられた剰余価値率が低ければ低いほど、限界点へ
の到達は無限の将来へと延期されうるであろう」、12)と。この批判は、利潤率
の上限の低下と 利潤率そのものの低下とのあいだにある論理の欠落を突くも
のであり、生産力の発展につれて最大利潤率(M+V)/Cが低下するとして
も、この限界点に達するまでは、 剰余価値率の上昇率いかんでは、利潤率そ
のものM/(C+V)が上昇する可能性が十分あることを指摘しようとしたも
のである。
このような批判に正面から応えることによって、 マルクス=富塚流の論証
方法を補強しようとしたのが、R・L・ミーク13)、本間要一郎氏14)、城座和夫
15) らである。氏らは、 利潤率の上限の低下→利潤率の究極的低下という
議論の大枠を認めたうえで、 さらに資本の有機的構成の高度化と剰余価値率
の上昇の相互関係を直接に検討することによって、 残された問題の解決を図
ろうとした。たとえば、本間氏は次のように言われる。「『超ゆべからざる限
界』のもつ理論的意味をもう少し正確にとらえる」16) 必要がある。いま労働
生産性の上昇率と資本の有機的構成の高度化率とが 等しいと前提すると「有
機的構成の高度化につれて、 生産物の価値構成も 高度化していくかぎりで、
労働力の価値(v)の低落率が小さくなり、 したがって m の増大率も減少

12)佐藤金三郎「利潤率の傾向的低下の法則」、大阪市立大学編『経済学辞典』岩波書店、
1965年、1155ページ。
13)Ronald L. Meek,"The falling rate of profit," Science and Society,Vol.24-1,
Winter, 1960.
14)本間要一郎「労働生産性の上昇と利潤率低下傾向の法則」、『経済研究』(一橋大学)
第11巻第1号、1960年1月。のちに同氏『競争と独占』新評論、1975年に所収。
15)城座和夫「マルクス『利潤率低下法則』の現代的意義」、経済理論学会編『労賃と利
潤率』青木書店、1961年。
16)本間、前掲論文、62ページ。

ー5ー

する。つまりm´の増大率が漸減せざるをえない」。17) したがって、 資本の
有機的構成の高度化がある点を超えて進めば、「m´の上昇にもかかわらず、
´がけっして上昇しえず、……逆に累進的に低下せざるをえな」18)くなる。
「この転換点は、出発点における m´ や労働生産性の上昇率等をかえれば、
それに応じて上下へずれることになる」19) にせよ、「m´の増大が、資本構成
高度化の利潤率の変動に及ぼす作用を阻止しえなくなる『限界』」20)があり、
それは「基本的には…… 資本の有機的平均構成の高さによって規定されてい
る」、20) と。また、ミークは次のように言う。「(1)……もしわれわれが有機的
構成のかなり低い水準から出発すれば、おそらく利潤率の『傾向』は、 最初
は上昇し、それからしばらくのちに低下するものと思われる。(a)出発時点で
の剰余価値率が低ければ低いほど、(b)有機的構成の高度化と結びついた全体
の生産性の上昇が大きければ大きいほど、そして(c)資本財産業の生産性の上
昇に比較して 賃金財産業の生産性の上昇が 大きければ大きいほど、 利潤率
の最初の上昇は それだけ高く、 そして 下向への転換点はそれだけおそくな
る」、21) と。また、城座氏は次のように言われる。「生産される価値/投下生
産資本が低下するかぎり、いかなる場合でも、究極的には…… 利潤率が初期
の水準以下に低下してゆく」。22) 「多くの場合では、利潤率は当初は上昇して
ゆき、ある時期に最高水準に達し、以後単調に低下してゆく」。22) 利潤率が最
終的に低下せざるをえないのは、 「生産される剰余価値/生産される価値の
上昇率が労働力の価値の水準の低くなるにつれて逓減することによる」、22)と。
以上3者の主張を要約すると次のようになろう。 資本の有機的構成高度化の
利潤率の変動に及ぼす作用が 剰余価値率の上昇によって阻止されて利潤率が
最初のうちは上昇するということがあるかもしれないが、 しかし資本の有機

17)同上、63ページ。
18)同上、63ページ。
19)同上、63ページ。
20)同上、64ページ。
21)Meek, op. cit., p. 49.
22)城座、前掲論文、105ページ。

ー6ー

的構成の高度化がある点を超えて進行すれば、 そのようなことが不可能にな
り以後利潤率は低下していく、と。
したがって、マルクスから富塚氏、 さらに以上3人の論者に共通する議論
によれば、利潤率'は第1図あるいは第2図のような変動を示すことになる。
ところが、 上述のようなマルクス=富塚流の論証方法に対して、置塩信雄
23)によって次のような重大な批判が加えられた。すなわち、「Marx が行な

23)Nobuo Okishio, "Technical Changes and the Rate of Profit," Kobe University
Economic Review,No.7,1961. 置塩信雄「『利潤率傾向的低下法則』について」、『国
民経済雑誌』第107巻第5号、1963年5月。のちに同氏『資本制経済の基礎理論』創文
社、1965年(増訂版1978年)に所収。同書には、置塩説に対する安部一成氏の「疑問へ
の回答」が「補論」として所収されている。以下、置塩氏の所説の検討に際しては、同
書(増訂版)から引用することにする。

ー7ー

った論証、すなわち、利潤率が、 生きた労働/死んだ労働という上限をもち、
この上限自体が充分小になってゆく結果、 利潤率は傾向的に低下せざるをえ
ないという命題は実質賃金率一定という条件のもとでは成立しない」、24)なぜ
なら 「生きた労働/死んだ労働が利潤率の低下をいや応なしに起こすほどに充
分低下すること、 正確にいえば、生産財部門の生きた労働/死んだ労働が初
期の利潤率より低くなるということは、 実質賃金率一定のもとではいえない」
からである、24)と。
置塩氏のこの批判は、 文面上はマルクス(と富塚氏)の論証方法に向けて
発せられたものであるが、 その批判のもつ意味を考えてみるとすぐにわかる
ように、 その矛先は上述の本間氏らの議論にも向けられていると考えるべき
であろう。 というのはこうである。すなわち、本間氏らの議論によれば、利
潤率の上限と 利潤率そのものの関係は前掲の第1図あるいは第2図のように
なるのに対して、 置塩氏の主張によれば、実質賃金率を一定とするかぎり、
第1図や第2図のようにはけっしてならず、 第3図のようになり、したがって

24)置塩、同上書、142ページ。
25)置塩、同上書、130ページ。あるいは、175ページ。

ー8ー

マルクスの論証のみならず 利潤率低下法則そのものが成立しないということ
になるからである。
このように見てくるとわかるように、 置塩氏のマルクス批判は、利潤率の
傾向的低下法則の論証問題において われわれに重大な選択をせまっているわ
けである。すなわち、利潤率の傾向的低下法則を論証するためには、われわれは、
マルクスの論証方法を 基本的に正当なものと認めてそれから出発して議論を
進めるべきか、それとも、 置塩氏の批判を受け入れて、氏が主張するように
「もし一般的利潤率が傾向的に低下するとすれば、 必ず実質賃金率の上昇が
あったはずだ」26)と考えるべきか、 という選択をせまっているわけである。
そこで、以下本稿において、 置塩氏のこのマルクス批判の当否を検討する
ことにしよう。そして、そのことを通じて、 『資本論』第3部第13章「法則
そのもの 」におけるマルクスの論証の背後にあってそれを支える論理を探る
ことにしよう。
U 置塩信雄氏のマルクス批判とその問題点
(1)まず、置塩氏のマルクス批判の内容を詳しく見ることにしよう。
氏はまずマルクスの論証を次のように要約される。すなわち、 「平均利潤
率はm/(c+v)である。いま、 剰余価値率が上昇し、仮に無限大になったと
すれば……利潤率は(m+v)/c となる。したがって、明らかにm/(c+v)
≦(m+v)/cである」。ところが、(m+v)/c は「生きた労働/死んだ労働
を示す。 Marx は技術革新が進むにつれて」生きた労働/死んだ労働 が「傾
向的に減少し」「充分に時間が経過すれば…… 限りなく小となる」と考えた。
ところが、m/(c+v)≦(m+v)/cであるから、 「平均利潤率は剰余価値率が
いかに大になろうとも、 生きた労働/死んだ労働 を超えることはできない。
すなわち平均利潤率は上限をもつのであるが、 この上限が限りなく小となる

26)置塩、同上書、153ページ。

ー9ー

のであるから、平均利潤率は傾向的に低下するほかない」。いま生きた労働/
死んだ労働が「限りなく小となるのであるから」と述べたが、 この点は「必
ずしも論証にとって必要ではなく」、生きた労働/死んだ労働が「初期の利潤
率より低い水準に」まで低下するということであれば、論証は成立する。27)
したがって、 「生きた労働/死んだ労働がある限度をこえて減少することを
承認する限り、 利潤率の 傾向的低下法則の論証は Marx によって明確に 与
えられている」。28)
以上のように要約したのち、 置塩氏はただちに次のような問題を提起され
る。「死んだ労働に対する生きた労働の比率が充分低下しさえすれば」、たし
かに「法則は完全に論証されることになる」が、しかし、 はたして「この前
提は充たされるだろうか?」と。29)
この問題に対する氏の答えはもちろんNoである。 「実質賃金率が上昇し
ないかぎり……生きた労働/死んだ労働が」、「初期の利潤率より低い水準に
なる」ほど、「充分に減少することは決してない」と。30)
置塩氏はこの命題をいろいろな方法で証明しているが、 ここでは、氏のマ
ルクス批判の内容を具体的に把握するために、 法則の論証に際してマルクス
が与えた「例解」の数字を用いた証明を見ることにしよう。
置塩氏はうえの命題を次のように証明される。すなわち、 「Marxの例解」
で 「C=50、V+M=200 なる生産方法をA生産方法、C=400、 V+M=
200 なる生産方法をB生産方法」と呼ぶとすると、 「B生産方法を採用した
場合、仮に剰余価値率が無限大に上昇したとしても……、利潤率は´=200
/400」となり、A生産方法の場合の利潤率より低くなる。 しかし、「実質賃
金率が一定である限り、 資本家はA生産方法からB生産方法に転換すること

27)置塩、同上書、130ページ。 28)置塩、同上書、131ページ。 29)置塩、同上書、135ページ。 30)置塩、同上書、135ページ。
ー10ー

はありえない」。その理由はこうである。「生産価格と価値との乖離……はな
いとしよう。またA生産方法、 B生産方法は生産財部門の生産方法であると
しよう。 そして、A生産方法は(a11)、 b生産方法は(a′1,τ'1)なる生
産係数で示されるとしよう」。 A生産方法、B生産方法を用いた場合の生産
財1単位当りの価値は、それぞれ t1、t'1 で示され、A生産方法、B生産方
法を用いた場合の生産量は、それぞれ x , y で示されるとしよう。「すると、
(イ)a1t1x=50、 (ロ)τ1x=200、(ハ)t1x=250、(ニ)a'1t'1y=400、(ホ)
τ'y=200、(ヘ)t'1y=600である」。 「A方法を採用している場合の……単位
当りの費用は、a1 t11Rt2である」( R=実質賃金率、t2=消費財の単位当
り価値)。「B方法に転換するかどうかを資本家が判断する場合、彼は現行価
格(……A方法のもとでの価値)でB方法を採用した場合の費用を計算し、こ
れをA方法の費用と比較する」。 B方法の費用はa'1t1+τ'1Rt2である。a1t1
τ1Rt2=50/x100/x150250/t1=3/5t1。a'1t1+τ'1Rt12/3t1+τ'1Rt2。両者を
比較すると、 「明らかに後者の方が大である。したがって、資本家は実質賃
金率が一定であるかぎりA方法よりB方法へは転換しない」。31)つまり利潤率
の上限が「初期の利潤率より低い水準になる」ほど、 「充分に」低下しない
のである。 したがって「利潤率上限の充分な低下を根拠とする論証は成立し
ない」。32)
このようにマルクスの論証の不成立を証明したのち、 置塩氏はさらに次の
ように主張された。「実質賃金率が一定の場合、 資本家が新生産方法を採用
すれば、その新生産方法が旧生産方法に比べて、 生きた労働の死んだ労働に
対する比率を大にしようが、小にしようが、このことに関係なく、 平均利潤
率は確実に上昇する」33)と。これは、最近の利潤率低下法則をめぐる論争に

31)以上、置塩、同上書、138-140ページ。
32)置塩、同上書、142ページ。
33)置塩、同上書、142ページ。

ー11ー

おいて《置塩定理》と呼ばれている命題である。 置塩氏はこの命題を数学を
用いて一般的な方法で証明しているが、ここでは、 さきと同様に「マルクス
の例解」にある数字を使った証明の方を見ることにしよう。
「マルクスの例解」とは次のようなものである。
 (T) 50C+100V+100M    ´= 2/3
 (U)100C+100V+100M    ´= 1/2
 (V)200C+100V+100M    ´= 1/3
 (W)300C+100V+100M    ´= 1/4
 (X)400C+100V+100M    ´= 1/5
この「例解」を引いて、 置塩氏は「実質賃金率が一定である場合に、資本
家が(T)から(U)に生産方法を転換するかどうか ?」34)という問題を提起さ
れ、この問題の考察を通じて上記の命題を次のように証明された。 すなわち
「生産価値と価値との乖離……はないとしよう。また (T)、(U)の生産方法
は生産財部門の生産方法であるとしよう。 (T)は死んだ労働50と生きた労働
200でもって一定量x の生産財を生産する方法であり、 (U)は死んだ労働
100と 生きた労働200でもって一定量 y の生産財を生産する方法である」と
考えられる。 方法(T)の単位当り費用は150/xであり、単位当り価値は250
/xであり、労働単位当り実質賃金率の値いは1/2である。「生産方法(U)で
生産財一単位を生産するために投入しなくてはならない生産財は 使用価値で
測って 1/3(=100/300)であり、1単位を生産するために必要な生きた労働
は200/yである」。 資本家が(T)より(U)に移行することを決意するには、
生産方法(T)のもとで成立している生産財 ・消費財の価値と実質賃金率で評

34)置塩、同上書、167ページ。

ー12ー

価・計算して、(T)より(U)の方が単位当りの費用が低下しなければならな
い。 方法(U)を採用したときの単位当り費用は、 1/3×250/x1/2×200/yであ
る。 資本家が(T)より(U)に移行することを決意するには、150/x1/3×250/x
1/2× 200/y、つまりy> 3/2でなければならない。したがって、 「実質賃金率
が一定である場合に資本家が(T)から(U)に転換するのは、 y > 2/3xである
場合に限られる」。 つまり「生産財の価値がもとの80%以下に引下げられる
場合に限られる」。ところで、われわれは、「生産価格と価値との乖離のない
場合」、 つまり「生産財部門の有機的構成と消費財部門のそれとは等しい場
合」を考えているのであるから、「消費財部門においても、〔同じような――
引用者 〕有機的構成の変化が 生じることを 考察に入れなければならない」。
したがって「消費財の価値も80%以下に低下する」。すると、「実質賃金率が
一定であれば、生産方法(U)へ移ったときの価値分割は、(U')100C+aV+
(200−a)M a<80となる」。このとき平均利潤率は、p'=(200−a)/(100+
a)>120/180=2/3となり、「(T)の場合より平均利潤率は上昇する」。35)
 以上置塩氏が証明したことは、 要するに、実質賃金率一定のもとで資本家
が(T)より(U)に移行することを決意するには、(T)のもとで成立してい
る価格・ 賃金で評価すると単位当り費用が小さくならなければならないとい
うこと、そして、この条件が充たされて(T)から(U)への転換が行なわれれ
ば、平均利潤率は確実に上昇するということ、である。
 そこで、 これまで見てきた置塩氏の見解を総括してみると次のようになろ
う。すなわち、 新生産方法への転換の結果、生きた労働/死んだ労働の低下
が「ある程度をこえて」進行するようなことがあれば、 たしかに剰余価値率
がいかに上昇しようとも利潤率は低下せざるをえないが、 しかし、資本家は

35)置塩、同上書、167-170ページ。

ー13ー

「現行価格・賃金で評価して費用を低める」36)ような生産方法でないかぎりけ
っして採用しないのであるから、 実質賃金率が一定であるかぎり、生きた労
働/死んだ労働が「ある程度をこえて 」低下するような生産方法の転換を資
本家はけっして決意しない。それに対して、 生きた労働/死んだ労働が最初
の利潤率以下にまで低下しないような生産方法の転換であれば、 資本家は費
用縮減の条件が充たされればこの生産方法の転換を決意するであろうし、 そ
の結果平均利潤率は上昇するであろう。
(2)以上、われわれは、マルクスの論証は成立しないとする置塩氏の見解を
見てきたが、以下、その問題点を考えることにしよう。
まずそのために、上述の生産方法(T)から生産方法(U)への転換の場合を
例にとって、 いわゆる《置塩定理》の内容をもっと具体的な形で認識するこ
とにしよう。
生産方法(T)の生産量を50とし、それに対してさきのy> 3/2xという条件
を充たす生産方法(U)の生産量を80としよう。すると、(T)の単位当り価値
は250/50=5、単位当り費用は150/50=3であり、利潤率はp´=2/3となる。
これに対して、(U)の単位当り価値は300/80=15/4、単位当り費用は(T)の
もとで成立している価値で評価して、 1/3×250/501/2×200/80=211/12 である。 生産
方法の転換の結果、生産財の価値はもとの75%に低下する。 それにともなっ
て、「生産価格と価値との乖離がない」という想定によって、【消費財の価値
がもとの75%に低下する。 すると、 新生産方法へ移ったときの価値分割は、
(U')100C+75V+125Mとなり、平均利潤率は´= 5/7となり、(T)の場合
より上昇することになる。
これをわれわれなりに解釈すると、 次のようになる。生産方法の転換の結
果、資本の有機的構成は50/100から100/75に高度化したけれでも、 他面では

36)置塩、同上書、155ページ。

ー14ー

生産方法の転換によって剰余価値率が100%から1662/3%に上昇したために利
潤率の低下が阻止されて逆に上昇するという結果が生じたのである、と。
置塩氏は、 資本家が生産方法の転換を決意するのは新生産方法が「現行価
格・賃金で評価して費用を低める」場合に限ると主張されているが、 この条
件をうえの例についていうと、 150/501/3×250/501/2×200/80 という不等式で示
すことができる。この不等式の右辺は、 「現行価格・賃金で評価」した生産
方法(U)の単位当り費用を示しているが、同時にそれは、生産方法(U)にお
ける資本の有機的構成を「現行価格・ 賃金」で表わしていると見ることがで
きる。というのは、「現行価格・賃金で評価」した生産方法(U)の費用を総
生産物について計算してみると、 (1/3×250/501/2×200/80)×80=400/3+100
なり、これをさらに、 方法(U)の採用の結果生産財と消費財の価値が75%に
低下することを考慮に入れて計算すると、 (400/3+100)×75/100=100+75 とな
り、さきの(U')の資本構成が得られるからである。
不等式の右辺つまり「現行価格・賃金で評価 」された費用によって利潤率
を計算すると、次のようになる。生産物1単位の「現行価格」は5、 生産物
1単位の「現行価格・ 賃金で評価」された費用は 1/3×250/501/2×200/8035/12 であ
り、 したがって利潤率はp'=(5−35/1235/125/7となる。この利潤率は、生
産方法(U)に移行したのちに成立する価値分割(U')100C+75V+125Mによ
って計算された平均利潤率p´= 5/7と同じである。
したがって、 資本家が生産方法の転換を決意するのは新生産方法が「現行
価格・賃金で評価して費用を低める 」場合に限るという条件 ―― いまの例
でいうと、 150/501/3×250/501/2×200/80 という不等式――のなかには、 すでに、
新生産方法の資本構成 100C+75Vも、 新生産方法のもとで成立する利潤率
p´= 5/7も、「現行価格・賃金」表示で含まれているのである。したがって置
ー15ー

塩氏の言う「現行価格・賃金で評価して費用を低める」生産方法とは、 じつ
は、 資本の有機的構成高度化の利潤率の変動に及ぼす作用を剰余価値率の上
昇によって阻止しうる生産方法の別表現にすぎないのである。
とすれば、 置塩氏が主張していることは、要するに、次のような明々白々
な因果関係にすぎないのである。すなわち、 資本家が採用を決意しうる新生
産方法は、 資本の有機的構成高度化の利潤率の変動に及ぼす作用が剰余価値
率の上昇によって阻止されうる生産方法でなければならない、 そして資本家
がそのようなものであると判断して採用した新生産方法は、 平均利潤率を確
実に上昇させる、と。これまで、 まるで同義反復的命題とも言えることを置
塩氏がわざわざ主張していると言わざるをえない。
しかし、なぜ、 置塩氏はこのような同義反復的命題とも言えることを主張
することになったのか。その原因は、筆者の見るところ、 生産方法の変化に
ついての置塩氏の次のような想定にある。すなわち、 「われわれが各部門で
の生産方法という場合、それはその部門での標準的生産方法をさして」おり、
「われわれが生産方法の変化を いう場合も標準的生産方法の変化をさしてお
り標準以上、以下での企業の生産方法の変化をいっているのではない」。37)と。
この想定に従えば、資本家は、 新生産方法が採用されて新しい標準的生産方法
となった場合、 現行の標準的生産方法の場合よりも平均利潤率が上昇するか
どうかを考えて生産方法の転換を決意する、 つまり総資本の立場に立って新
生産方法を採用すれば部門全体の利潤率が 上昇するかどうかを考えて生産方
法の転換を決意するものと考えなければならない。 したがって、もしこのよ
うな想定のもとに生産方法の転換問題を考えれば、必然的に――というのは、
資本家が総資本の立場に立って転換を決意するものとすれば、 彼は平均利潤
率が結果として低下するような生産方法を けっして採用しないであろうから
――「実質賃金率が一定の場合、資本家が新生産方法を採用すれば・・・・・平均利

37)置塩、同上書、153ページ。

ー16ー

潤率は確実に上昇する」39) (傍点は引用者)という結論――われわれに言わ
せれば、同義反復命題――が得られるわけである。
しかし、 生産方法の転換を資本家はどのような判断にもとづいて行なうの
かという問題を考える場合、 置塩氏の言うような想定をすることは、不合理
であり非現実的である。というのは、 個々の資本家は、たとえ総資本の立場
に立って新生産方法の採否を決定しようとしても、 彼らは自分の現行の生産
方法を熟知しているが、 肝腎の比較基準となるべき現行の標準的生産方法に
ついては 必ずしも 正確で十分な情報を 得ている わけではないからである。
個々の資本家は、 新生産方法を採用すれば自分の現行の生産方法よりも利潤
率が上昇するかどうかという点だけを考えて、 新生産方法の採否を決定する
ほかないのである。 要するに、われわれは、 「生産方法の変化」の問題を、
置塩氏のようにただちに「標準的生産方法の変化 」の問題として考えるわけ
にはいかないのであって、 個々の資本家のもつそれぞれの現行の生産方法か
らそれぞれに与えられた 新生産方法への転換の問題としてまず考えなければ
ならないのである。

V マルクスの論証方法
以上、われわれは、 置塩氏のマルクス批判とその問題点(生産方法の転換
に関する氏独自の把え方 )を見てきたが、以下、マルクスの論証の適否を考
えるために、その背後にあってそれを支える論理を探ることにしょう。
マルクスの論証の背後に あってそれを支える論理を、われわれは、彼の特
別剰余価値についての次のような論述のなかに見ることができる。
「1労働時間が6ペンスすなわち 半シリングという金量で表わされるとす
れば、12時間の1労働日には6シリングという価値が 生産される。与えられ
た労働の生産力ではこの12時間に12個の商品がつくられると仮定しよう。 各
1個に消費される原料その他の生産手段の価値は6ペンスだとしよう。 この


38) 置塩、同上書、142ページ。

ー17ー

ような事情のもとでは1個の商品は1シリングになる。 すなわち生産手段の
価値が6ペンス、それを 加工するときに 新しく つけ加えられる価値が6ペ
ンスである。いま、ある資本家が、 労働の生産力を2倍にすることに成功し、
したがって12時間の1労働日に この種の商品を12個ではなく24個生産するこ
とができるようになったとしよう。生産手段の価値が 変わらなければ、1個
の商品の価値は今度は9ペンスに下がる。 すなわち、生産手段の価値が6ペ
ンスで、 最後の労働によって 新しくつけ加えられる価値が3ペンスである。
・・・ ・この商品の個別的価値は、いまではその社会的価値よりも低い。・・・・だ
から、 新しい方法を用いる資本家が自分の商品を1シリングというその社会
的価値で売れば、 彼はそれをその個別的価値よりも3ペンス高く売ることに
なり、したがって3ペンスの特別剰余価値を実現するのである。・・・・・だから
・・・・・どの個別の資本家にとっても労働の生産力を高くすることによって商品
を安くしようとするという動機はあるのである」。39) 「しかし、他方、新たな
生産様式が一般化され、したがってまた、 より安く生産される商品の個別的
価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば、 あの特別剰余価
値もなくなる」。40)
以上の論述において、労働の生産力が2倍化する以前の生産方法を(A)とし、
2倍化した生産方法を(B)としよう。(A)は死んだ労働12時間と生きた労働12時
間でもって12個の生産物を生産する方法であり、(B)は死んだ労働24時間と生
きた労働12時間でもって24個の生産物を生産する方法である。
まず、置塩氏の考え方に従って、実質賃金率が一定のもとで資本家が(A)か
ら(B)への生産方法の転換を決意するかどうかを見てみよう。方法(A)の単位当
り費用は、労働単位当り実質賃金率の値を 1/2 とすると、 労働時間表示で、

39)Karl Marx, Das Kapital,MEW,Bd.23,Dietz Verlag,Berlin, 962,SS.335-336.
訳(2)、158-160ページ。
40)Ibid., S. 337. 同上、161ページ。

ー18ー

(12+6)/12=11/2である。方法(B)で生産物1単位を生産するのに必要な生産
手段は使用価値で測って24/36=2/3であり、1単位を生産するのに必要な生きた
労働は12/24であり、したがって、方法(B)の単位当リ費用は、方法(A)のもとで成
立していた価値、実質賃金率で評価して、2/3×24/121/2×12/24=171/2となる。方
法(A)の単位当り費用よりも方法(B)の単位当り費用の方が大である。したがっ
て、置塩氏の考え方に従えば、実質賃金率が一定であるかぎり、 資本家は生
産方法(A)から生産方法(B)への転換をけっして決意しないということになる。
ところが、マルクスの考えでは、実質賃金率一定のもとでも資本家は生産方
法(A)から生産方法(B)への転換を積極的に図ろうとする。このような生産方法
の転換を資本家に決意させるものは、新生産方法(B)を他に先駆けて採用した
資本にとって発生する特別剰余価値を獲得しようとする資本家の動機である。
ある資本家が他の資本家に先駆けて生産方法(A)から生産方法(B)へ転換すれ
ば、彼の商品の個別的価値は12ペンスから9ペンスに低下する。 ところが、
商品の社会的価値は、市場の問題をいま捨象するとすれば、12ペンスのまま
である。したがって、生産方法(B)を他の資本家に先駆けて採用した資本家の
総売上げは、12×24=288ペンスとなり、 他方、彼の総費用は、 差当り――
というのは、彼1人が生産方法(A)から生産方法(B)に移行したからといって、
ただちに、 彼の商品を生産するのに必要な生産手段の価値や彼の労働者たち
が(12時間働くために)消費する生活手段の価値が変わるとは考えられない
から――180ペンスである。 したがって、生産方法(B)を最初に採用した資本
家の利潤率はp´=108/180=3/5となり、(A)の場合の利潤率p´=36/108=
1/3よりも高くなる。したがって、 このような新生産方法(B)をいちはやく知
りえたかあるいは開発しえた資本家は、 この生産方法が部門全体に普及すれ
ばどのような結果がもたらされるのかということを ほとんど考慮することな
く、他の資本家に先駆けて、 彼1人にとっての利潤率の上昇に目を眩まされ
ー19ー

て、この生産方法を採用するであろう。しかし、 新生産方法が普及しこの部
門の標準的生産方法になるにつれて、 商品の社会的価値が、他の諸条件に変
化ないとすれば、12ペンスから9ペンスに低下する。すると、新生産方法(B)
を採用していた 資本家の総売上げは9×24=216ペンスとなり、 したがって、
いまや彼の利潤率は36/180=1/5となり、(A)のときの利潤率´=1/3よりも
低くなる。
ところで、新生産方法(B)の普及過程において旧生産方法(A)を維持している
資本家たちにとっては、 事態はどのように推移するであろうか。新生産方法
(B)を採用している資本家たちは、自分の商品を12ペンスで売るのではなく、
市場の諸条件を考えて実際には、個別的価値9ペンスより高く、しかも(A)が
標準的生産方法であったときの社会的価値12ペンスより安く売る。 いま、た
とえば10ペンスで売るとしよう。すると、生産方法(A)を採用しつづけている
資本家の利潤率は、´=(10×12−108)÷108=1/9となる。他方、生産方法
(B)を採用している資本家たちの利潤率は、´=(10×24−108)÷108=1/3と
なる。したがって、最初の利潤率p´=1/3を維持するという単なる防衛的投
資行動としても、生産方法(A)を採用しつづけている資本家は、生産方法(B)へ
の転換を決意せざるをえない。しかし、 それを実行したあとも商品の社会的
価値は下がり続け、 最終的には最初の利潤率以下にこの部門の利潤率が落着
くことになる。
以上述べたことを、 もう一度確認するために、「マルクスの例解」におけ
る生産方法(T)から生産方法(U)への転換の場合について検討してみよう。
問題は、 実質賃金率一定の場合、 資本家は死んだ労働50と生きた労働200
でもって x 量の生産財を生産する方法(T)から死んだ労働100と生きた労
働200でもってy量の生産財を生産する方法(U)への転換を決意するかどう
かということであった。
この問題に対する置塩氏の答えは、すでに見たように、y> 3/2xの場合に
ー20ー

限り資本家は(T)から(U)への転換を決意する、そして、 この(T)から(U)
への転換によって平均利潤率は必ず上昇する、というものであった。 この答
えをわれわれなりに解釈すれば、(T)から(U)への転換によって、資本の有
機的構成が高度化しても、 それの利潤率の変動に及ぼす作用を阻止しうるほ
ど剰余価値率が他方で上昇すれば、 資本家はこの生産方法の転換を決意する
のであって、 その場合には平均利潤率は当然上昇する、 ということである。
生産財部門に属する資本家全員が同じ生産方法(T)を採用していて、いま
彼らが全員同時に生産方法(T)から生産方法(U)へ転換するかどうかを決定
しなければならないとすれば、たしかに置塩氏が主張するように、y> 3/2
という条件が充たされる場合に限って、 つまり部門全体の利潤率あるいは平
均利潤率が上昇することが期待できる場合に限って、 資本家は(T)から(U)
への転換を決意するであろう。しかし、現実には、資本家は、 他の資本家に
先駆けて新生産方法を採用すれば 自分1人の利潤率が上昇するかどうかだけ
を考えて、個々別々に投資活動を決定するのである。したがって、(T)から
(U)への転換について言えば、資本家は、y> 4/3xという条件さえ充たされ
れば、たとえy> 3 /2xという条件が充たされなくても、この生産方法の転
換を積極的に図ろうとするであろう。 それはこういう訳である。すなわち、
実質賃金率が一定の場合、新生産方法(U)をいちはやく採用した資本家の総
費用は、差当り200であり、総売上げは、市場の問題をいま捨象して考えると、
250/×y−200 となる。したがって、新生産方法(U)を他に先駆けて採用し
た資本家の利潤率は、p'=(250/x×y−200)÷200=5y/4x−1であり、 これが
(T)から生産方法(U)への転換を決意する。5y/4x−1>2/3、 つまりy>4/3x。
いまx=50としよう。置塩氏の考え方に従えば、 生産方法(U)の生産量
yは、y>3/2×50という条件を充たさなければならない。しかし、 マルクス
ー21ー

の考え方によれば、y>4/3×50という条件を充たしさえすればよい。 つまり、
たとえばy=70の場合でも(T)から(U)へ生産方法が転換されることになる。
 全資本家が生産方法(T)を採用している場合、 利潤率は´=2/3である。
このとき、ある資本家が他の資本家に先駆けて生産量70の生産方法(U)を採
用すれば、 そして、 彼が相変わらず商品を250/50=5の価値で売りつづける
ことができれば、彼の利潤率は´=(5×70−200)÷200=3/4となる。しか
し、新生産方法(U)を採用すれば利潤率が上昇することに気付いた資本家た
ちが次々とこの新生産方法(U)を採用しはじめると、商品の価値は下がりは
じめる。いま、たとえば4.5まで下がったとすると、生産方法(U)を採用し
ている資本家たちの利潤率は、´=(4.5×70−200)÷200=23/40にまで下が
ってしまう。そして、 最終的には´=1/2にまで下がってしまうであろう。
他方、生産方法(T)を採用しつづけている資本家たちの利潤率も、言うまで
もなく、(U)の普及につれて低下していく。
 ところで、以上の考察では、生産方法の転換の結果、 生産財の価値は低下
するにもかかわらず、消費財の価値は不変としてきた。 しかし、生産財部門
と消費財部門の間に 実際上見られる生産力の発展の不均等性の問題を捨象し
て、ここではとりあえず置塩氏と同じ想定に従って、 消費財部門でも生産財
部門と同様の生産方法の転換が行なわれ、 生産財と同率の価値低下が消費財
にも生じるものと想定しよう。 すなわち、 生産財の価値が5から300/70に低
下し、消費財の価値も同率で低下するとしよう。すると、生産方法(U)の可
変資本は100から100×6/7600/7に減少する。したがって、生産財部門の標
準的生産方法が(T)から(U)に移行し、それに対応して消費財部門でも同様
の生産方法の転換が行なわれれば、新生産方法の価値分割(U´)は、100C+
855/7V+1142/7Mとなり、 平均利潤率はp'=1142/7÷(100+855/7)=8/13となり、
(T)の場合の利潤率p´=2/3よりも低下する。
 しかし、 以上のy=70の場合を置塩氏の考え方( 判断基準 )に従って検
ー22ー

討してみると次のようになる。 生産方法(T)の単位当り費用は150/50=3、
単位当り価値は 250/50=5、 労働単位当りの実質賃金率の値は 1/2 である。
生産方法(U)で生産財1単位を生産するのに必要な生産財は1/3であり、1
単位を生産するのに必要な生きた労働は200/70である。生産方法(T)のもと
で成立している生産財・消費財の価値と実質賃金率で評価すると、 生産方法
(U)の単位当り費用は、1/3×250/501/2×200/705/310/7となり、 (T)の単位当
り費用の3よりも大きい。したがって、(T)から(U)への生産方法の転換
(じつは標準的生産方法の転換)を資本家はけっして決意しない。 これを利
潤率の観点から検討してみると次のようになる。まず、生産方法(T)のもと
で成立している価値・賃金で評価した生産方法(U)の単位当り費用(5/3+10/7)
と単位当り価値5でもって利潤率を計算すると、 p´={5−(5/310/7)}÷(5/3+
10/7)=8/13 となる。また、(T)から(U)への転換によって生産財および消費
財の価値が6/7の比率で低下すると、生産方法(U)の単位当り費用は(5/3
10/76/710/760/49、単位当り価値は5×6/7=30/7となり、これから利潤率を計
算すると、p´={30/7−(10/760/49)}÷(10/760/49)=8/13となる。したがって、いず
れで計算しても、標準的生産方法が(T)から(U)へ移行すれば、平均利潤率
は確実に低下するのである。だから、 総資本の立場に立って考えれば、資本
家はこのような生産方法の転換を決意するはずがないのである。
 しかし、個々の資本家の立場に立って考えれば、 違った判断が下されるこ
とになる。いま全資本家が生産方法(T)を採用しているとしょう。このとき、
ある資本家が他の資本家に先駆けて新生産方法(U)を導入すれば、彼は(T)
を採用しつづけている他の資本家たちの利潤率 ´=2/3 よりも高い利潤率
´=3/4を上げることができる。したがって、(T)から(U)への生産方法の
転換は、彼にとっては好ましいものであるということになる。
 以上述べたことを、さらに、「マルクスの例解」における生産方法(T)か
ー23ー

ら生産方法(X)への転換の場合について検討してみよう。
 置塩氏の考え方に従えば、実質賃金率が一定であるかぎり、 (T)から(X)
への転換はけっして行なわれない。 この点についての氏の論証はすでに見た
ので省略する。
 しかし、マルクスの考え方に従えば、 実質賃金率が一定の場合でも、資本
家は(T)から(X)への転換を決意することがある。それはこういうことであ
る。すなわち、生産方法 (T)の生産量50とすると、 実質賃金率が一定の場
合、この(T)から(X)――その生産量をyとする――への転換を資本家が決
意するのは、y>500/3となる場合である。というのは、新生産方法(X)をい
ちはやく採用した資本家の総売上げは、市場の問題をいま捨象して考えると、
差当り5yであり、総費用は500であり、これから計算される利潤率´=(5y
−500)÷500が、(T)の利潤率p´=2/3よりも高ければ、彼は生産方法(X)
を採用するからである。(5y−500)÷500>2/3、つまりy>500/3。
 いま、たとえばy=200とすると、新生産方法(X)をいちはやく採用した
資本家の総売上げは5×200=1000、総費用は500、したがって利潤率は´=
(1000−500)÷500=1となり、(T)の場合の利潤率´=2/3よりも大とな
る。しかし、この新生産方法(X)が普及し一般化するにつれて、利潤率は低
下する。いま生産財におけると同率の価値低下が消費財にも生じるとすれば、
平均利潤率は´=140/(400+60)=7/23となり、(T)の場合の利潤率´=
2/3よりも低下する。yが無限大としても、(X)が普及し標準的生産方法と
なった場合の利潤率は 1/2 をこえない。 したがって、 マルクスの考え方に
従えば生産方法(T)から生産方法(X)への転換を資本家は実質賃金率一定の
もとで決意することがあり、 その場合には平均利潤率は最終的には必ず低下
する、ということになる。
W むすび
 以上、われわれは、 マルクスによる利潤率の傾向的低下法則の論証に対す
ー24ー

る置塩信雄氏の批判を検討してきたが、 以下その検討結果をまとめておくこ
とにしよう。
 α)まず、 新生産方法における生きた労働/死んだ労働が、初発の利潤率
あるいは現行の生産方法のもとにおける利潤率以下に低下しない場合。 これ
を「マルクスの例解」における生産方法(T)から生産方法(U)への転換の
場合について言うと、次のようになる。
 @実質賃金率一定のもとで、 新生産方法が現行の生産方法と比べて「現行
価格・賃金で評価して費用を低める」場合、 つまり両生産方法の生産量の関
係がy> 3/2xとなる場合には、生産方法(T)から生産方法(U)への転換が
行なわれれば、 置塩氏が言うように、 たしかに平均利潤率は必ず上昇する。
しかし、「実質賃金率が一定である場合に、資本家が(T)から(U)に転換す
るのは、y> 3/2xである場合に限られる」41)(傍点は引用者)わけではない。
Aというのは、実質賃金率一定のもとで資本家は、y> 3/2xという条件を
充たさなくても、y> 4/3xという条件が充たしさえすれば、生産方法(T)か
ら生産方法(U)への転換を決意するからである。 この y>4/3xという条件
が充たされる場合には、新生産方法(U)を他の資本家に先駆けて採用した資
本家は、旧生産方法(T)を採用しつづけている資本家たちの利潤率よりも高
い利潤率を上げることができるのである。 しかし、この場合には、最終的に
は平均利潤率は旧水準よりも低下する。これは、 利潤率低下法則の論証にお
いてマルクスが主として念頭に置いていた場合であろう。
 Bさらに、これまで述べてこなかったが、 第三の場合を考えることができ
よう。それは、生産方法(U)の単位当り価値300/yが生産方法(T)の単位当
り価値250/xよりも小である場合、 つまりy> 4/3xという条件が充たされ
ないが、y> 6/5xという条件が充たされる場合である。この場合には、新生

41)置塩、前掲書、167ページ。

ー25ー

産方法(U)をいちはやく採用した資本家は、 最初から旧水準以下の利潤率し
か上げることができないが、新生産方法(U)が普及し一般化するまでのあい
だ彼は価格競争に打勝つことができ、利潤量の増大を実現することができる。
 β)次に、新生産方法における生きた労働/死んだ労働が、現行の生産方法
のもとにおける利潤率以下になるような場合、たとえば「マルクスの例解」に
おける生産方法(T)から生産方法(X)への転換の場合について。置塩氏の考
え方に従って、生産方法(T)から生産方法(X)への移行を「標準的生産方法
の変化」の問題として総資本の立場から考えるとすれば、 実質賃金率一定の
もとで資本家はこのような生産方法の転換を けっして決意しないということ
になる。しかし、激しい競争戦の直中にいる個々の資本家は、 それぞれ自分
一人の利益の拡大を目指して生産方法の転換を決意するのであって、 実質賃
金率一定のもとでy> 10/3xという条件が充たされる場合、生産方法(T)
から生産方法(X)への転換を決意するであろう。というのは、 新生産方法
(X)を他に先駆けて採用した資本家は、y>10/3xという条件が充たされる場
合、旧生産方法(T)を採用しつづけている他の資本家よりも高い利潤率を上
げることができるからである。 しかし、この場合には、最終的に平均利潤率
は旧水準以下に低下する。ところで、 以上の場合に限らず、さらに、単位当
り価値が低下する場合(250/x>600/y)、つまりy> 12/5xの場合にも、生産
方法(T)から生産方法(X)への転換を資本家は決意する。というのは、新生
産方法(X)を他に先駆けて採用した資本家の利潤率は最初から旧水準以下に
低下するにもかかわらず、 彼は価格競争に打勝つことができ利潤量の増大を
実現することができるからである。 もちろんこの場合にも平均利潤率は低下
する。
 以上のように、 実質賃金率一定の場合でも 資本家が 自分の利益を拡大し
うると判断する 生産方法の転換 には、 いろいろな場合が考えられるのであ
る。したがって、われわれは、 置塩氏の次のようなマルクス批判、すなわち
ー26ー

「Marx が行なった論証、すなわち、 利潤率が、 生きた労働/死んだ労働と
いう上限をもち、この上限自体が充分小になっていゆく結果、利潤率は傾向的
に低下せざるをえないという命題は 実質賃金率一定という条件のもとでは成
立しない」、42) なぜなら「生きた労働/死んだ労働が利潤率の低下をいや応な
しに起すほど充分に低下すること、 正確にいえば、生産財部門の生きた労働
/死んだ労働が初期の利潤率よりも低くなるということは、 実質賃金率一定
のもとではいえない」からである42)という批判、を受け入れるわけにはいか
ないのである。

(脱稿 1983.3.24)


42)置塩、同上書、142ページ。

ー27ー